Pratibhanusarini --- 九州インド哲学ブログ2

On Indian Philosophy and Buddhist Studies

紀元後十世紀

この時代,結構,充実しています.

まず,わたしがずっとやってきたジャヤンタ.

アレッサンドロのまとまった研究も出て,かなりやりやすくなりました.

資料の全体が見えているので,これからは,迷うことがありません.

実際,これからやろうという若手も各地に増えています.

時間はかかりますが,流れは,いったんできると,変化が早いように思います.

同じく,ラトナーカラシャーンティ,ジュニャーナシュリー(J),ラトナキールティ.

Jはサンスクリットが難しく,テクストの悪さもあったでしょうが,頼りなしに挑む人が少ない文献でした.

無酸素単独登頂みたいな感じです.

しかし,徐々にここらへんをやろうという人も増えてきています.

今回のマヒドンでの読書会,JのSSS.

Jの中でも特に難解とされています.

桂先生も昔,何度か読み通そうと挑戦されたそうですが,途中で挫折されたとのこと.

今回の読書会では,院生が写本も予め照合してくれているので,かなり前進しています.

写本から見ると,やはり,現行のエディションでは,ちょこちょこと違うので,それが全体像をぼやかしてしまい,ついには読者を挫折に追い込むのも無理はありません.

しかし,ちゃんとしたエディションを一旦見てしまえば,実際,それほど読みづらいわけでもありません.

もちろん,ラトナーカラシャーンティのPPUみたいに誰にでも分かるように書いているわけではありませんが.

やはり,写本チェックというのは,この手の文献を読む際には欠かせません.

アポーハ関連でやらざるをえなくなったスチャリタミシュラもこの時代です.

ヴァーチャスもいますし,また,バーサルヴァジュニャもいます.

あれこれと横の交錯関係を気にしながら研究するには,非常に面白い時代です.

魅力的な分野であるのは間違いありません.

それに,一緒に読んでくれる仲間がいるというのは,非常に幸せなことです.
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  1. 2017/03/27(月) 01:37:36|
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サラヤの昼食



あついので,昼は,目の前の屋台村にて.
  1. 2017/03/26(日) 22:54:40|
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欧米留学とアジア留学

タイ首都のバンコクだと最近は何かと物価も高くて,万能感も薄れます.

が,郊外のサラヤ市だと,「安い」という感じが未だ濃厚.

最近のインド都市部とか,物価もあがってきて,激安感がなくなってきたのも事実.

欧米に留学すると若干卑屈な根性になったりするのは,物価高から来る無力感や劣等感も関係あるのじゃないかと邪推.

特に金のない学生時分は,そうじゃないでしょうか.

欧米留学のひとつの短所は,物価が高いところ.

逆に長所は,システムがしっかりしているので,ついた当日からちゃんと机に向かって勉強できるところ.

台所用品一式まで揃えて貸してくれるのには驚きました.

逆に,アジア留学のひとつの短所は,システムのいい加減さ.

生活リズムに順応するのが大変.

ついてしばらくは勉強できません.

インドについて「あー,勉強できるなー」と実感したのは,ついて10ヶ月ほどしてからでした.

最初の数ヶ月は生活レベルの戦いです.

しかし,金はかからない.

その点では,心がせせこましくならないで済みます.

二項対立図式なので,一部,単純に理想化してますので,いくらでも例外はあるでしょうけど.
  1. 2017/03/26(日) 21:19:45|
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マヒドン

日本のC大に続いて,K大も,学部生向けの,マヒドン大短期研修をやっているそうです.

学部生を連れてきて,短期間,海外で英語の授業を受けさせるという例の制度です.

馬鹿高い欧米でなくても,安い価格で英語研修ができるので,マヒドン大はお薦めです.

気候も暖かくて南国気分も味わえますし.

日本の大学の場合,欧米のようにサマースクールを開講しようと思っても,おそらく不可能です.

そもそも,日本の場合,夏は年度の区切りでないので,寮の空きがありません.

結果として,サマースクールを開くにも,短期の外国人学生を受け入れる空き部屋がありません.

ほか,教員の問題もあります.

制度上,サマースクールをやるには,さまざまな障害があります.

それに,蒸し暑い日本の夏に,わざわざやってくる外国人は,いたとしても少ないでしょう.

やれるとしても,二次試験が終わってからの3月中旬以降の僅かな期間しかないでしょう.

しかし,その期間は,外国の学生は暇ではありませんから,そもそも来れません.

というわけで,海外に出すばかりで,自分の所ではサマースクール(あるいはそれに相当するもの)を提供できない,ということになっています.

いつの間にやら,秋入学という話もすっかり沙汰止みになってしまっています.

海外と歩調を合わすには,いろいろと,障害は多いようです.
  1. 2017/03/26(日) 21:17:42|
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デザート



食後のデザート,というか,かき氷.
  1. 2017/03/26(日) 20:04:51|
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Anyaにて、博論指導






ハルと喫茶.

その後,彼は,博論指導.

カフェレストラン「アンヤ」,サンスクリット学者には覚えやすい名前です.
  1. 2017/03/26(日) 19:11:33|
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サラヤ、バンディットハウス前の屋台村にて夕食




サラヤに到着.

張本さんと,コンド前の屋台村で夕食.
  1. 2017/03/26(日) 18:03:32|
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虚構された青が輝き出しを自体としていることという同体性もまた虚構されたものである

青などの輝き出し.

つまり,青などが現に輝き出しています.

ここから言えるのは,青が輝き出しを体としているということ,すなわち,同体性です.

青は輝き出しから別体ではありません.

別体であれば青などは輝き出し得ないからです.

同体であるものだけが輝き出し得ます.

と聞くと,では,青などと輝き出しは完全に同体なので,形象虚偽論における形象の虚偽性と,輝き出しの真実性とは,どう処理するのか,という疑問が生じてきます.

ここからが形象真実論と形象虚偽論の分かれ目となります.

すなわち,形象虚偽論においては,同体性すらも虚構されたものでしかありません.

青などは虚構されたものであり,いっぽう,輝き出しは虚構されていない実在です.

このようにして,虚構物性と非虚構物性とが同一認識の上に同居することが無矛盾で処理できる,というのが形象虚偽論の肝です.

ジュニャーナシュリーミトラの書き方だと,ラトナーカラシャーンティの最後の最後の肝である同体性の虚構性が明示的に示されておらず,既知なるものであるかのようにうっすらと触れられ,そして,出発点を隠したまま,議論が為されているので,読者は,おそらく何のことだか分からないでしょう.(要するに,不案内な読者に分かるような書き方はしていない,ということです.)

PPUを読まずに,SSSだけを読んで,この背景を理解しろ,というほうが無理というものです.

コーヒー屋でグレッグがあれこれと彼独自の理解を喋ってくれましたが,どうも,このあたりを完全に取り損なっている様子でした.

ここさえクリアーしてしまえば,形象虚偽論と形象真実論の違いについて大きく外すことはないでしょう.

チベット訳だけで分かれ,というのも,かなり難しいような気がします.

チベットに基づく先行研究は,どれほど理解していたのでしょうか? 要確認.
  1. 2017/03/25(土) 20:37:13|
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roti at marhaba




最近手伝い始めた息子さん作のローティー.うまいです.
  1. 2017/03/22(水) 20:58:52|
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Ratnākaraśānti on Prakāśa

夏のトロントIABSの予行演習として龍大桂研にて発表.

PPUの外道批判の箇所について,すなわち,ラトナーカラシャーンティが他学派(三学派)のprakasa説を批判する箇所について,内容を分析したもの.

プラカーシャ,すなわち,知られた性・認識対象性・明瞭性などと呼ばれるものを,認識活動の結果として認識対象の上に生まれる属性とするのがバッタ派です.すなわち,輝き出しは対象の属性です.

プラカーシャというものを別個に立てることなく,認識の生起をもってプラカーシャと見なすのがニヤーヤ学派.アートマンの性質である認識の生起がプラカーシャであり,何か別にプラカーシャなるものがあるわけではありません.

有情であるアートマンの属性であるプラカーシャ(光)が無情な対象と接触することで対象が輝き出す(輝き出させられる)とするのが「他の人」(apara).ここでは主体の属性として光が考えられています.(イメージすると提灯あんこうみたいなものでしょうか!)

提灯あんこう


最後のは,主にプラバーカラ派を念頭に置いているのでしょう.

以上が,ラトナーカラによる敵説の記述.

もちろん,無相唯識のラトナーカラから見れば,いずれも間違いです.

なお,現代科学的に一番ましなのは,ニヤーヤ学派でしょう.

【PPU集中研究会】
03/21(火)13:00-17:00(清風館3F共同研究室1・2)
 片岡啓 "Ratnakarasanti on prakasa"
 +PPU読書会

03/22(水)10:00-17:00(清風館3F共同研究室1・2)
 早島慧「Prajnaparamitopadesaにおける三性説」
 西山亮「『般若波羅蜜多論』における中観思想」
 +PPU読書会
  1. 2017/03/21(火) 22:51:17|
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大橋ソルマリ



オープン当初よりホールで頑張っていたTさんが辞められたようです。

インド料理屋,ネパール料理屋は,ホールの人のキャラクターと日本語能力(コミュニケーション能力)で,えらく雰囲気が変わります.

基本,お喋りに越したことはないでしょう.

福岡で有名なインド・ネパール料理屋も,いずれも,日本語に堪能な名物オーナーがいるからこそ,という側面も多々有り.

スラージのパチャールさん然り,前サーガルのループさん然り.

どまどまのスシルさん.そして,前のサティーのハリさん(今はバジェコセクワハウス).

いずれも,驚くべき日本語能力、そして,客とのコミュニケーション能力の高さです。

ザエカのアリさんの場合は,コミュニケーションの域を超えて,アリ師匠の落語でも聞かせて貰うといった感じです.

海外で成功するのに言語(会話)能力の高さというのは重要です.
  1. 2017/03/21(火) 19:57:31|
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South Indian Cusine Buffe at 106











90年代のインド料理屋といえば,高級なものでした.

麹町アジャンタなどは敷居,というか,値段が高くて,おいそれと行けるところではありませんでした.

ランク一つ下のサムラートやラージマハールといえども,夜となると結構な値段がしました.

院生風情では,せいぜいランチのお得なセットが精一杯.

新宿,六本木,上野,いずれも中心の良い場所に出店していました.

赤坂のタージといった,インド人趣味の重厚・薄暗のインド料理屋が,「いかにも」という感じのインド料理屋の姿でした.

それがじわじわと価格破壊で値段が下がり,サムラートまでもが低価格のこじんまりとした店を出店.

ラーメン屋みたいな仕様でカレーを出すようになりました.

そして,あちこちに,安いインド料理屋が林立.

注釈なしで「ナン」という言葉が通用するようになります.

やはり,値段が安くなると皆行く。

ラーメン同様,手の届く範囲のB級グルメに,いわゆる日本のカレー(本郷で言うとルオーや万定)や欧風カレー(プティフ)だけじゃなく,インドカレー・インド料理も入ってきた,ということでしょう.

北インドが徐々に数を増やす――例えば(株)チョティワラのグルガオンが1994年,パキスタン系のシディーク一号店は1997年オープン――いっぽうで,ひっそりと南インドも出始めていました.

東中野のカレーリーフ(1996年オープン)も最初はかなり苦労していた様子でした.

ナンは南インドのカレーには合いません,と最初は頑張っていましたが,途中から普通にナンも出していました.

インド料理といえばナンを食べに来る人が大半ですから,やはり,ナン押しでないインド料理となると一般の人には理解不能なのでしょう.

餃子やチャーハンのない中華料理屋ぐらい不思議と思われても仕方ないでしょう.

にしても,最初の最初から,ワイン押しだった一貫性は素晴らしい.ぶれてません.


巣鴨プリズンのあった東池袋というエリアにAラージ(2003年開店)が出来たのも驚きでした.(2003年と言えば,チョティワラのダバインディアも2003年オープン.こちらはど真ん中の八重洲・京橋)

賃料の安いところに,他店から独立したインド人コックが出すという例の先駆けかもしれません.

近所の大勝軒と同じ,エリア選ばず,味が良ければ好きな人は来る,ということなのでしょう.


かなり遅れて福岡.

アンマー(2009年オープン)も,スペースの関係上,せっかくインドから持ってきた釜は中には置けず.

結局,ナンは出していませんでした.

マドラスの上品なサンバルとラッサムでしたが,西新ちかくの城西エリア,いきなり日本人が理解するには厳しかったかもしれません.

地元テレビでの紹介のされ方も,「インド料理といえば,ナンですよね」という乗りからくるギャップを埋めきれてない残念な感じがありありでした.(今見返しても,最初のコックさんのオープン当初のメニューは素晴らしい.つくづく残念です.)


宗教と同じで,人の期待に応える,というのは重要です.

歴史が教えるところによれば,期待に添わない宗教は滅びるのみ,ということでしょう.

仏教の密教化というのは,そういう文脈で捉えるべきだと思います.

女・子供・病人も,お金さえ払って儀礼をしてもらえば,お手軽に解脱が保証されるというシステムは,やはり魅力的でしょう.


106福岡(2015年オープン)は,プティ高級化路線で,内装も綺麗にしています.場所もど真ん中の便利なところ.

路線としては,八重洲ダバインディアあたりを成功モデルとして意識しているのでしょうか.

ダバよろしく,壁がブルーで落ち着くという点では,大名サーガルが内装は良い感じだったのですが,店主も変わってしまい,最近は足が遠のいてしまいました.


亜橋のチーズナンに象徴されるいわゆる北インド,ツナパハに代表されるスリランカ,106の南インド,ザエカやマルハバのパキスタン,ソルマリやナングロのネパール料理.そして,スパイスロードの高田さんの影響を(何らかの形で)受けた日本人作のスパイスカリーあり.福岡は福岡で,かなり独自の変化を遂げているような気がします.
  1. 2017/03/20(月) 19:26:12|
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バンコク

DSC01726.jpg

福岡→バンコク→チェンナイ,そして,チェンナイ→バンコク→福岡.

チェンナイ空港,つくなりすぐに搭乗手続き.

窓口で前の人が延々と荷物のことで揉めて粘って揉めて粘って叫ぶ,とかもなし.

したがって待ち時間ほとんどなし.

セキュリティーと出国もすいすい.昔からすると信じられないスムーズさです.

中に入ると,以前も食べた簡素な食堂カウンターがひとつのみ.

注文して窓口から出してもらって,その辺のベンチで食べます.立派な空港で,なんでこういう発想になるのか,不思議です.窓口制にすると、出す人の方がえらくなるというインド役所的習性からでしょうか。

学食のカフェテリアみたいで,まあ,機能的ではありますが.



タイ航空,行きの接続は良いのですが,帰りはバンコクに早朝着いて深夜に出るという接続の悪さ.

24時間のうち,時計が一周半,18時間ほど,時間を潰さないといけません.

幸い,バンコク市内のホテルはゆるゆるで,チェックイン時刻より相当早くにいってもノーチャージで部屋に入れてくれるので助かります.

ゆるゆるなので,wifiが部屋まで飛んでないというオチまで付いてました.

「すいません,wifiのパスワードおしえてください」

受付:「この紙に書いてあるけど,部屋だと届かないよ.ここのロビーだけかな」

とのこと.

まあ,疲れているので,寝るだけですから構いません.

最後に駅近の鍋専門店で鍋以外――後からハズしたことに気がつきました――を食べてから,電車で空港.

途中まで満員電車.

結局,立ちっぱなしでした.

とはいえ,空港行きの便は,スーツケース用の荷物置き場があるので助かります.

やはり,空港直結の電車があるのとないのとでは大違いです.

大して待たずに搭乗手続き,そして,それほど並ぶこともなく出国.




ちなみに,ポンディからチェンナイ空港までのタクシー,2800ルピーでした.

後ろで横になって寝るのですが,運転手が眠くならないよう,インド音楽をがんがんかけられるのは我慢しないといけません.

むかし,ドミニクがクラシックをかけたところ,タミル人ドライバーが

「眠くなるから勘弁してくれ」

と苦情を言ったのを想い出しました.確かに寝られては困ります.
  1. 2017/03/20(月) 07:06:42|
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帝釈天広場





インド人客で賑わうエリアのインドラスクエア.

インド料理屋がずらっと並んでいます.
  1. 2017/03/19(日) 21:55:55|
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リトルインディア







流していた映画は、懐かしい、1997年の、ディルトーパーガルヘー。

マードゥリー、懐かしすぎます。
  1. 2017/03/19(日) 20:44:20|
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ニューバナナカフェ



ムスリム街の中,少々分かりにくい所,住宅街のど真ん中の4階にあります.

というか,単に,住宅の上の屋上テラスをカフェにしただけです.

タミル人の小柄なおばちゃんが,サラダ,パスタ,ガレット,キッシュ,グラタン,タルト,パイなど,優しい味の家庭料理を出してくれます.

wifiも飛んでいますが,カフェの端に陣取ると,wifiが届きません.
  1. 2017/03/18(土) 21:04:44|
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「非存在がある=存在がない」=「排除が表示対象である=表示対象が排除(否定)される」

ジュニャーナシュリーの「形象論」に次の文句が登場します.

JNA 394.18--19: ``apoho vācyaḥ'' iti tattvataḥ ``vācyasyaivāpoho (corr.) niṣedhaḥ'' ity arthaḥ. yathā ``abhāvo bhavati'' iti ``bhāvo na bhavati'' ity arthaḥ.



「アポーハ論」にも同様の文句が登場します.

JNA 232.2--3: yathā ``abhāvo bhavati'' iti ``bhāvo na bhavati'' ity evārthaḥ. tathā ``apohasya vācyatā'' iti ``vācyatāyā evāpohaḥ'' ity arthaḥ.



ジュニャーナシュリーのアポーハ論と言えば,小川先生の最初期の論文があります.問題の箇所は,イントロ冒頭に注意が促されていました.

小川英世 1981: 67:
概念,そして概念の表現としての語の対象は何か。この問題は、経験的真理レヴェルで意味をなすにすぎない。なぜなら、究極的真理レヴェルでは、いかなる存在事象も概念・語の対象ではありえないからである。彼は、「他者の排除が概念・語の対象である」という概念論の一般的定立の意味を転換し、それは概念・語の対象自体の無(排除)を意味すると解釈した①.
① JNA231,21--232,4



さすが小川先生(当時27歳),研究デヴューの最初の最初から,ジュニャーナシュリーの肝をぎゅっと押さえています.こんな論文が今でてきたら腰抜かします.「末恐ろしい」と思うことでしょう.

なお,広大の指導教官であった桂先生は当時37歳です.

時空が交錯する「君の名は」ごっこができるなら,1980年頃の広島も楽しそうです.

小川英世 1981: 「ジュニャーナシュリーミトラの概念論」『哲学』33, 67--80.
  1. 2017/03/18(土) 14:14:32|
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JNA 391.6

JNA 391.6: vikalpabhramabhūmitvam

護山 2011: 73: (その認識が)概念(vikalpa)や錯誤(bhrama)の基盤であること

片岡: [自体の現れが]分別という錯誤の基盤であること

vikalpaとbhramaをここで並列するdvandvaよりも,分別を錯誤と同定する働きを持つkarmadhārayaのほうが良いでしょう.というのも,異なるものであれば並列するのもいいでしょうが,二つは異なるものではありません.文脈上,ここでは,分別が錯誤であることを強調したいと考えられます.
  1. 2017/03/18(土) 08:53:21|
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JNA 391.2

JNA 391.2: sāpy ekā pratyakṣānumānayor nanu//

護山 2011: 69: (否定根拠となる)知覚と推理の両者にも、同じそれ(=否定)があるのではないか。

片岡: それ(打ち消し)も,知覚と推理のいずれかではないのか.

後続する議論から見ても,打ち消しが知覚である場合と推論である場合とを考えていますから,単なる場合分けの選言の宣言とみるのがいいでしょう.護山解釈では,ekāの必要性が浮いてしまいます.護山解釈が求める意味ならば,ekāがなく,sā [bādhā]だけで十分です.つまり,sā pratyakṣānumānayor api という文が,護山解釈が求める意味を十分に表すはずです.

あるいは,護山が恐らく苦心したように, sā^ekāで「同じそれ」というように,あたかもsā^evaと同様に,解釈しなければならなくなります.また,護山解釈では,apiが,別の箇所につくことになります.ekāの原義を活かすならば,やはり,「両者のうちのいずれかひとつ」というのが穏当でしょう.
  1. 2017/03/18(土) 08:10:10|
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ビリヤニ



何十年経っても相変わらずどぶ臭いキャナル水路.

そこを超えて向こう側にあるムスリム街をうろうろ.

すると,大きい鍋で調理している姿が。

上に熾火を載せています.

「ビリヤニ―?」

と聞くと,そうだとのこと.

逆側にあるストールで販売するようです.

どう見ても美味そう.

実食できなかったのが残念です.
  1. 2017/03/17(金) 20:58:50|
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JNA 391.5

JNA 391.5=RNA1 126.12=RNA2 133.17:
svarūpasākṣātkaraṇād adhyakṣatvaṃ na cāparam/

護山 2011: 73: 「(ある認識は)自性を直観しているから、知覚であり、それ以外ではない。」

片岡: また,知覚性とは,自体を目の当たりにすることに他ならない.

Cf. RNA2 133.1: svarūpasākṣātkāritvam eva pratyakṣatvam/

護山解釈も不可能ではありませんが,シンプルに考えると,ablativeプラスaparaの構文「~から別」でいいんではないでしょうか.
  1. 2017/03/16(木) 23:40:25|
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シュリー・クリシュナ・スウィーツ



チェンナイ空港にまで進出しているシュリー・クリシュナ・スウィーツ.

ポンディでは,ミッションストリートの北端近くに位置します.

一階がスウィーツショップ.二階はカフェ.

ミルク系は3~5日,それ以外は7~10日くらいは持つそうです.

どれがどれか分かりませんが,ばらで一個ずつ適当に購入.

和菓子みたいな二色・三色のスウィーツは避けて,単色系のものを中心にセレクト.

知り合いのタミル人二人にどこの店がいいのか予め聞きましたが,この店一押しでした.

他にも,街には,アーナンダバヴァンやヴェンカテーシュヴァラスウィーツという立派な店構えのスウィーツ屋がありますが,何が違うんでしょうね.

若干,興味がありますが,さすがにスウィーツの比較検討までしてると体に悪いので今回は断念.
  1. 2017/03/16(木) 22:54:19|
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GMT



研究所の皆さんご推薦のイタリアンジェラート屋.

たしかに立派です.

研究所からはすぐ裏手,海岸通り沿い,パークゲストハウス近くに立地.

カップに目一杯いれてくれます.

結構な量.

ドミニクによればコーンが美味しいそうですが,さすがインド,何かの理由でコーンは,このところ,切れているそうです.

機械の故障か何かでしょう.

というわけで,いまのところは,カップ一択のみ.

値段もお手頃.その割に,味は本格的.

これはお得感があります.

むかしはリッチーリッチのソフトクリームくらいで喜んでいましたが,嗜好品のレベルは,どんどん上がってます.
  1. 2017/03/15(水) 19:53:13|
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オールドコート



旧裁判所.

閉まってから随分経ちます.

ずっとそのままになっていましたが,ようやく,何かが動き始めたようです.

昔は研究所の中にティーを作る台所がなかったので,裁判所の向かって右下のチャイ屋台に来て,読書会後にお茶をすすったものです.

サティヤナーラーヤン,アーンジャネーヤシャルマー,SASシャルマー,ドミニク,私と,よくここで立ち話をしていました.

周りにはガウンを着た司法関係者がたむろっていました.

インドの判事や弁護士さんというのは,随分とのんびりした職業だな,というのが,そのときの印象でした.

裁判しても埒があかない(というか,大概悪い方になる,というか悪い方が勝つ)というのはよく聞きますが,まあ,さもありなん,という感じです.
  1. 2017/03/14(火) 18:51:43|
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アーナンダバヴァン



一階中央右のレジで注文,先払い.

レシート二枚をもって,カウンターに.

カウンター越しに,担当者に,1枚の紙を渡します.もちろん、この段階ですでに混んでるので、早く渡すのも競争です。

その後,人が混み合うカウンターでじっと待たねばなりません.

だいたい5分で,できあがり.

「ミニティファンセット」という呼び声が聞こえたら,すばやく受け取ります.

ここで受け取りを失敗して,他の人が間違って受け取ったりすると,その後が非常にややこしくなるので,じっと聞き耳を立てていないといけません.

かつて、アプローチしてくる路線バスの番号に素早く反応、合図して止めて乗降口に飛び乗ってた反射神経の使い方を思い出させてくれます。

この皿に更にミニマサラドーサの焼きたてが載ってきます.「ドーサー、カミング」と兄ちゃんが注意してくれます。

なお,ウェイター注文制の割高二階席もあるというのは、今回初めて知りました。
  1. 2017/03/13(月) 20:50:28|
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Dignāga's Semantics by Non-exclusion and Inclusion

The following is an English summary of my Japanese article, Kataoka 2016d. (See my work list)

Dignāga's Semantics by Non-exclusion and Inclusion

Kei Kataoka

Dignāga claims that the semantic theory of “something having a universal” (jātimat) cannot explain co-referential expressions such as “existent pot” (san ghaṭaḥ), because in this theory the word “existent” does not include (vyāpti) or imply (ākṣepa) a pot. Dignāga's own theory of “something having exclusion” (apohavat), on the other hand, can explain it, because given his presuppositions the word “existent” does include and imply a pot. The former theory presupposes “strong” connections between words and meanings. Only something existent (sat) is positively (anvayadvāreṇa) connected with the word “existent.” Therefore, a pot is not connected with the word “existent.” The latter theory, on the other hand, presupposes “weak” connections learned through co-absence (vyatireka): The word “existent” has never been seen applied to something which is not existent. The meaning of “existent” is whatever remains after excluding non-existent things. In this negative learning a pot is not excluded (anapohana, apratikṣepa). Therefore, the co-referential expression “existent pot” (or “a pot is existent”) is justified. This is also due to the characteristic feature of exclusion (apoha) which is precisely non-existent (abhāva) and a non-entity (adravya). Exclusion does not intervene (vyavadhāna) between words and their meanings. The word “existent” can directly mean (sākṣādvṛtti) something existent without exclusion intervening. Thus, the theory of apohavat has no fault of dependency (pāratantrya) which jātimat theory has. In the latter theory a real universal such as existence (sattā) intervenes between the word “existent” and its meaning, i.e., something existent.
  1. 2017/03/13(月) 07:34:34|
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セリーヌ

DSC00892.jpg

研究所周辺はホワイトタウン.

適当なインド料理屋は皆無.

かわりにフランス人・外国人観光客目当ての小洒落た西欧料理屋・ホテルが点在しています.

むかしはLe Clubだけだったのが,雨後の筍のように増殖中.

しかも,どこも混んでいます.

魚・肉のいわゆるメイン料理から,ピザやパスタ,さらには,ガレットを食べさせる店まであります.

研究所からわざわざネルー通りまで歩いていくのは結構かかります.

「まあ,ここらへんでいいっか」となると,最も近くて,しかも,席に余裕のあるセリーヌ(旧bambooレストラン)に落ち着くことになります.

写真は釜で焼いたピザ.

3種トッピングと5種トッピングから選びます.

わたしは3種に.

ドミニクは欲張って5種にした結果,味が混じりすぎて訳の分からないことになっていました.

やはり,ピザでも,シンプル・イズ・ベストのようです.
  1. 2017/03/12(日) 18:53:47|
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インド論理学研究 IX, 2016 Nov

インド論理学研究 平成28年度(第IX号),2016-11-30 (in fact published in 2017 Feb)

<目次>
Dignāgaによるアポーハ説の再検討―片岡啓への応答―(吉水清孝)1-10

シャーンタラクシタとカマラシーラのVP1.1解釈(小川英世)11-44

Nyāyakalikā 結語再考(片岡啓)45-61

誤解・誤記・誤植―文献の史的研究の為の私的覚書―(金沢篤)63-89

Kāya or Ātmabhāva? A Preliminary Response to Professor Schmithausen(Matsumoto Shirō)91-144

A Reconsideration of Perception and Object-Ascertaining Cognition: Dharmakīrti’s Inconsistent Accounts and the Interpretations of His Followers in India and Tibet(Nishizawa Fumihito)145-164

<奥付>
発行日:2016年11月30日
発行者:インド論理学研究会(駒大金沢研究室内)
発行所:山喜房佛書林(Tel:03-3811-5361)
定価:3,500円(税別)
ISSN 1884-7382
ISBN 978-4-7963-0281-4 C3015
  1. 2017/03/12(日) 07:32:00|
  2. 未分類

マルクス

DSC00766.jpg

ここ,No.16に初めて来たのは1995年の春だったでしょうか.

所長に挨拶しにきたのを覚えています.

それから22年.

手前の建物の構造は全く同じまま.

奥に建物が増えただけです.


トイレに行こうと奥に行こうとすると,右のテラスに見たことのある顔.

ウィーン時代の同僚,マルクスでした.

しばらく立ち話.
  1. 2017/03/11(土) 07:10:10|
  2. 未分類

カマチ

DSC00728.jpg

夜も遅くなり,お目当ての店に行ってみたところ閉まっていました.

いまさら移動も面倒なので,近くのビリヤニハウスへ.

清潔で明るい店内,家族連れで賑わっています.

適度な高級感.

いまどきのインド人は,こんな感じが好きなのでしょう.

普通にマトンビリヤニを注文.

しかし,味は???でした.

まあ,人気なのは,安心して女子供も入れるこの雰囲気からでしょう.

味だけなら,日本の蒲田で食べたほうが美味しいかもしれません.

しかも,フレッシュライムソーダも置いてないとは,がっかりです.

対照のため、以下にマルハバのチキンビリヤニ。

  1. 2017/03/11(土) 06:59:32|
  2. 未分類
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