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Pratibhanusarini --- 九州インド哲学ブログ2

On Indian Philosophy and Buddhist Studies

received



馬場さん,ありがとうございます.
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  1. 2022/12/02(金) 09:56:49|
  2. 未分類

 received



やはり,自分の仕事をきっちりやる(出す),というのは大事ですねー.

後の人がさらに先に進めますからね.

パターンとしては,或る分野についてまとまった本が出ると,その議論が盛り上がる場合もあれば,あるいは逆に,しばらくそこは「もうやることない」となって真空になったりもします.

その場合も,数十年経つと,また,見直しが始まるというようなことになりますけど,NBhusの場合は,どうでしょうね.

写本からの見直しも含めて,NBhusについては,まだまだこれからですからね.

後輩の小野卓也さんや,ウィーンのプレッツあたりが専門家でしょうけど,あんまり続いてない感じですけど,今後は,どうなんでしょうね.

ジュニャーナシュリーにとっては大事な前主張なので,後期の仏教論理学方面からの関心でも,重要でしょうけど.

さすがに,NBhusの写本まで手を出すと面倒なので,わたしは,あまりやる気が起こらないですけど.

あとは,時代が近いジャヤンタのほうが,文体が面白いですからね.

同じ内容を知るなら,ジャヤンタ読んだほうが,個人的には面白い時間が過ごせるので,あんまり,こっちには手を出さないというのもありますけど.

やるなら,やるべきことがおおいですから,おいそれとは手を出せないというのがあります.

まずは,誰か,テキストをきれいにしてほしいですけど,結局,インド哲学あるあるで,やろうとすると,全部最初から自分でやらないといけなくなる,というやつでしょうからね.

にしても,仏教(仏教論理学)を除いて,純粋にダルシャナ関係となると,日本で出た本というのは,本当に少ないですからね.

日本のダルシャナの系譜というと,すぐに辿れます.

山上先生というと,私にとっては,SV anumanaの和訳(1983-85)で,しょっちゅうお世話になってますけど.

パラペンチャッポー.

あれは,山上・竹中・黒田・赤松という四人衆.

往時の服部組ということなんでしょうけど.(赤松先生は,1953年生まれですから,1983-85だと,30歳くらいで,パリから帰って人文研助手前後の時期ということになります.)

ダルシャナが一か所に四人揃うというのは,いまでは,なかなかないでしょうね.

ちなみに,山上先生は,1939年生まれですから,1983年は,44歳.
  1. 2022/12/02(金) 09:56:02|
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PST桂研

PST2の桂研.

現在の箇所は道元さんが担当.

事前に桂先生との打ち合わせもあり,じっくり時間をかけてやっているのでしょう,とりあえず,安心感があります.

問題になるような誤読・誤訳というようなところは,私としては,特にはありませんでした.

深読みすれば,いくらでも,細かいことは出てくるでしょうけど.

そうした細かい所は,皆で読み合わせる中で,有益なコメントが出てきますので,それを付加.

ダルマキールティから取っている箇所ですからね.

そうなると,当然ですが,ダルマキールティ自身の意図と必ずしも全同とは限りませんから,そこは考えだしたら,切りはありませんけど.

ひとまず,カルナカに対応があれば,それで補足しておけば,ジネーンドラブッディの理解は,ほぼ同じようなものでしょうから,基礎資料となる訳としては,それで十分でしょう.

変な可能性で,さすがにありえないものは,稲見さんが即座に否定してくれます.

というわけで,バックアップ,サポート体制も万全です.

私は今回は,ベンチで控え,という感じでした.(あるいは,せいぜい,バックパスのみ.)

次回からは,桂先生もお得意の箇所でしょうから,何も問題はないでしょう.

いずれにせよ,考えだしたら深いですね,やはり.(これは,むしろ,ダルマキールティ本来での文脈の話ですけど.)

今回のところに関連する内容では,昔に,論文書きましたけど.

関連論文全部あつめて,もう一度,精査したほうがいいんでしょうけどね.

いずれまた誰かやるでしょう.

結局,どこつついても,ダルマキールティの全体構想と関わりますからね.
  1. 2022/11/30(水) 07:36:14|
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The Routledge Handbook of Indian Buddhist Philosophy

ボランティアで章を担当したのに,一向に肝心の本(唯一の返礼品)を送ってこないと思っていたら,どうやら,向こうの送るシステムが変更中のバッドタイミングだったようで,みなさん,送られてないようでした.

というわけで,またしても,住所などの入力.

大手になると,あれこれと面倒です.

いまや,大手出版も,むき出しの資本主義ですからね.

金かけたくないところは,ちょー適当です.

書いた人に本おくらないまま,売りに出して,はや数か月とか,常識的にはおかしいですけど.

さかしまの世界ですから,いままでの常識が非常識,非常識が常識ということでしょう.

我々にただで書かせてますが,もちろん,本を買うと,すごい高いです.

133ポンドですから,166円としても,22000円.

輸入本屋通して図書館に入れたりした日には,レートが違いますから,もう,大変でしょうね.

まあ,そういう問題よりも,無料で書かせて高く売りに出すという奴隷システムのほうが,はるかに問題ですけど.

論文の国際雑誌もそういうことですけど.

書いても無料.

著作権は取り上げ.

当然ですが,自分で後から使いたいときには有料.

また,オープンアクセスで流通させたければ,研究所から数十万の金を出せというシステム.

まったく変な世の中ですが,いまや普通の常識のようです.

書くだけでなくて,もちろん,査読もボランティアですから,こちらも奴隷システム.

奉仕.

そして,図書館に高く雑誌を売りつけ,毎年値段を上げていくというシステムです.

とてもじゃないですけど,国際誌なんて,高くて買えません.

えらく無料で奉仕ばかりしてますけど.

居酒屋甲子園で問題になった「やる気搾取」と大して変わりません.

誰かが搾取しているのは明らかです.
  1. 2022/11/29(火) 04:28:02|
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がっくしの写本

ミーマーンサーの場合,圧倒的にケーララの伝統が強くて,写本も,そんな感じです.

北は,おバカな感じです.

デーヴァナーガリー写本には,期待しないほうが,精神衛生上はいいです.

マイソールなので少しはましかと思いきや,デーヴァナーガリー写本は,冒頭から,さっそくのアイスキップで,数行,飛ばしてくれてます.

こんなレベルで間違っているようでは,先が思いやられます.

これはダメだとあきらめて,では,他の写本がないかと思って,HDDを探っていると,ありました,少し綺麗な(しかし写りは悪い)ベンガーリー文字写本.

ベンガーリーなど,ミーマーンサーの世界では,あまり使うことがありませんけど,見た目がきれいなので,使ってみようかという気にもなります.

まずは,場所を特定しないといけません.

写本のどこからが,自分の求める章の始まりなのか,あたりをつけないといけません.

とはいえ,北インド文字ですから,全く読み慣れてないとはいえ,なんとなくあたりが付きます.

2~3回ほどの検索で,運よく,求める章の冒頭パッセージにあたりました.

さっそく読んでみると,これもまた,おバカなアイスキップ.

冒頭ちかくで,えらい長いアイスキップです.

もう,頭抱えます.

みなさん,どんだけ,出来が悪いのでしょう.

やはり,期待した私が馬鹿でした.

ベンガーリー,お前もか.

しかも,アイスキップされると,記録の仕方が面倒なんですよね.

間違うなら,もうちょっと,記録の簡単なミスにしてほしいものです.

スクライブも,一所懸命写しながら,一行,読み飛ばして,ワープしてしまったんでしょうね.

授業では,たしかに,先生が,ついつい一行とばしてしまったりとかよくありますけど.

もう一度読み直して,そこは,訂正いれたりしてほしいものです.
  1. 2022/11/28(月) 00:20:03|
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難しいテキストへの対処法

当然ですが、知らないものは知らないので、最初は分かりません。

いきなり30mの垂直壁が出てきても、それは、困るわけです。

取り付く島もないので、呆然としてしまいます。

しかし、なんでもいいからやってるうちに、徐々に手掛かりが出てきます。

あるいは、部分部分に区切っていけば、徐々に、像を結んできます。

序本結という三部分に分けるだけでも上等ですし、さらに、前主張と後主張とに分けることができれば、さらに上等。

あとは、前主張だけに集中して、その内部を精査。

あるいは、後主張だけに集中して、その内部をさらに精査。

それぞれの中にでてくる問いと答えとを整理。

そういう過程では、もはや、テキスト校訂に踏み込んだほうが早かったりします。

テキストを作る必要性というのは、単に、写本チェックに終わるだけではありません。

構成を自分に分からせるためにも、既存のテキスト校訂ではなく、自分自身の校訂テキストを作ったほうが、実際には、遠回りのようでいて近道だったりします。

テキスト校訂の段組みが悪いと、見えるはずのものも、いつまで経っても見えてきませんからね。

そういうことを意識させないよくできた校訂テキストというのは、実際、あるものです。

よく考えられた校訂。

親切に、間違えそうなところを切っていてくれたりするわけです。

たまに、親切すぎて、切り間違いがあるので、逆に、そういうときは、その間違いの可能性に思い至らなかったりすることがあるので、危険でもありますけど。

クップスワーミ周辺の校訂は、そこらへん、しっかりしています。

ちゃんと読んで理解してテキスト校訂してますからね。

もちろん、異読のあげかたは、インド式なので、そこらへんはいい加減ですけど。

それは、時代的制約ということで、しかたありません。

パラダイムが違いますから。

そこまで求められてませんからね。

そもそも、意識が違いますから。

我々が、現代の水準で、さらにきれいにすればいいだけのことです。

にしても、あいかわらず、だらだらと構成も考えずに訳すだけという作業が行われるのは、困ったものです。

ちゃんと構成を明示してくれないと。

チベット人学者の科文sa bcadは、そういう点では、ほんと、えらいですね。

ちゃんと、構成を考えて明示しますから。

あれは、インドの困難なテキストに取りつく際には、やはり、必要なアプローチだと思います。

先人の有効なアプローチが既に確立されているのですから、素直に従うべきでしょう。
  1. 2022/11/26(土) 10:55:50|
  2. 未分類

アプローチの仕方

さすがに長年同じ分野に携わっていると、このテキストにはこういうアプローチ、また別のこのテキストにはこういうアプローチという,問題解決のための道筋が既に幾つか見えて来ていて、どれがうまくいって、どれがうまくいかないのか、また、どういう方法が最もシンプルで有効かが分かります。

こういうのが、要するに、いわゆる「経験」ということなんでしょうけど。

指導というのも、こういう道筋が見えているので、的確にアドヴァイスできるわけなんでしょう。

道ならぬ未知の道を示す人は、指導者としてはこれは、無責任と言われても仕方ないでしょう。

ある程度、成功確率のある道を示してやるのが、すくなくとも、博論レベルを無事に取らせるには、まあ、最低限必要でしょう。

とはいえ、そういう経験を積むためには、実際に、その手のテキストを読んだことがないと、やはり、難しいですけど。

というわけで、勉強できる期間にあれこれと読んでおかないと、いざ指導するときになって、指導できないということになりますから、注意です。

結構、沢山の人が、自分に関係するテキストしか読んでなかったりしますからね。

そういう手合いはよくいます、というか、むしろ、そういう人のほうが多いでしょうけど。

自分のことで手一杯。

で、そういう人が指導する立場になると、当然ですが、指導できないので、放置プレイということになるでしょう。

放牧。

放牧も、完全に放っておいてくれれば、別に、伸び伸びと育つ人も中にはいるでしょうけど、逆に、潰す人もいますからね。

わたしも、たまに言われましたね――「自分だけ勉強するなよ」と。(大学院まで行って、自分で高い学費払っているのに、勉強しない意味が分かりませんが。)

要するに、周りのレベルに合わせろ、ということですけど。

周りというのは、要するに、一部の志の低い人のことですが。

どうも、下のレベルへの同調圧力というのは、どこに入ってもあるようです。

所詮はその程度ということでしょう。

年取ると、勉強ばかりできるわけじゃないですからね。

さすがに、博士レベルになると、先生も院生には、その院生の専門では簡単に抜かれ得ますから、それ自体は仕方ないのですが、しかし、体面やプライドだけを保とうとすると、えらい不格好で醜いことになってしまいます。

つまりは、「自分だけ勉強するなよ」というボヤキになるわけです。

「差がつくじゃないの」というわけです。

ともあれ、あれこれと経験があると、有効なアプローチも見えてきますし、どこが力点で、どこがやばそうかも、大体、感じで掴めてきます。

さすがに、ここは、どうしても写本をチェックしないとまずいということもわかりますし、あるいは、ここは、力を抜いても問題ないだろうということも、なんとなく感じで分かります。

あるいは、たとえ写本を見なくても、長年の校訂経験から、だいたい、写本の読みも想定できるようになりますし、いや、そんなエメンデーションは、さすがに無理でしょう、やりすぎでしょう、というのも分かってきます。

バランス。

あとは、もちろん、そもそも、院生の段階では、外に行くのも大変ですし、どうやって写本取るかも知りませんからね、写本も、先生が用意するのが、まあ、一番楽なんですけどね。

当然ですが、私の場合、そんな状況ではありませんでしたから、自分で一から集めましたけど。

修士・博士は、集める作業でひたすらインド全国回ってました。

物価の高い高いイギリスも行きましたけど。

手紙だけのやりとりで送ってくれるところなんて、ほんと、一部ですからね。

こればっかりは、仕方ありません。

ここが一番ハードル高いです。

院生のうちは、読む力を鍛えるほうがいいので、体力勝負アンド資金勝負の写本蒐集は、ポスドクレベルあたりでやるのがいいんですけどね。

理想的には、先生周辺で用意してあるのが、一番、楽でしょうけどね。

まあ、そういう訳にもいかない分野もありますからね。

それが、新しい分野の開拓ということでしょうけど。

で、言いたかったのは、良い指導がないと、やはり、方向が色々と間違いますね、ということです。

私自身は、実際、あるべき指導が全くなかったわけで、自分で手探りでしたけど。

そもそも、ミーマーンサーの理想の先生につくまで、インド行ってから更に10か月かかりましたからね。

そういうあれこれは、結果的に、いろいろな力をつけるのに役には立ちましたけど、同じ成果に対しては遠回りではあります。

当然ですが、留学で休学だなんだとしてると、博士6年くらいかかってますからね。

その当時は、3年で終わる人なんていないので、そういうのが普通でしたし、そもそも、博論出す人すら、まだまだ珍しかったですからね。

「え、出すの?」という感じでした。

いまは、先生の方が出せ出せという時代ですけど。

そもそも、先生からして博士号持ってませんからね。

時代ということでしょうけど。

複雑な気持ちになるでしょうね、自分が持ってないのに、人にあげないといけないというのは。

世間的に見れば、資格があるのかどうか疑わしいということになりかねませんが。

しかし、サンダーソン教授は、時代的に、BAだけで終わってますからね。

何も取らない時代。

まあ、本当にえらいひとは、称号いりませんからね。

で、結局言いたかったのは、文献へのアプローチが的外れだと、その成果は、当然ながら、悲惨なものになるということです。

本人の勉強には少しはなるでしょうけど、後進が後に続くべき道を示す成果にはならず、いずれ、根本的な訂正・修正を要するようなものになるということです。

つまり、間違った道を行ってしまう、ということです。

たまに、その道にそのまま後に続く人も出てきたりもありますからね。

罪は重いですね。

たまに、私が山で変な道を試しに歩いていくと、知らない人が後ろを勝手に安心して付いてきてたりして、最終的に困ったりしてますが、あんなんと同じでしょう。

私がへばりつきながら岩とかに登ってたら、勝手に後ろに付いてきた知らない人が、もんどりうって転げ落ちてたことがありました。

間一髪、後ろの木に引っかかって、助かってましたけど。

あれは危なかったです。
  1. 2022/11/26(土) 00:38:39|
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Hetubindu英訳

https://verlag.oeaw.ac.at/en/product/a-splash-of-the-logical-reason/99200857?product_form=4624

最初のが1967ですからね.

粘りということでしょうか.

最後にサンスクリットテキストまで出して,そして,英訳.

いっぽう,最初が,リコンストラクトからの独訳でした.

状況は変わりますから.

粘り強くやっていれば,最後は,いろいろと分かります.

また,周りの研究も進みますから,理解も,一部は改めるところもでてくるでしょうし.

研究史という意味でも,興味深いですね.

さすがに,原田さんの部分訳までは言及されてませんけど.

やっていくうちに,前稿に対して,いろいろと訂正したいところもあるでしょうからね.

漸進による前進あるのみということでしょう.

やはり,研究は,筋が一本あると,進みやすいともいえるでしょう.

それにあたるかどうかは運やらセンスやら,あるいは,善き指導者のおかげかもしれませんが.

どんなものに当たっても,あたりにする人もいますけど.

シュミットハウゼンの博論は,なにしろ,マンダナのヴィブラマヴィヴェーカですからね.

あれをあのままやり続けるのは,さすがに,先がなさすぎるか,あるいは,困難すぎますから.

当時の状況からすると.

あれで,唯識方面に進むことになるのは,よく分かります.

とはいえ,当時からすると,HBTのサンスクリットが出ていたとはいえ,さすがに,リコンストラクトでやろうというのは,なかなかに,博論学生には,高いゴール設定です.

チベットと比べながら,堅実に積み上げていけば,不可能ではないとはいえ,やはり,大変な作業です.

昔の博論のゴール設定は,高かったということでしょうか.

フラウワルナーですからね.

ツァンゲンベルクというミーマーンサーをやっていたひとも,ちょろっと論文残して消えてますけどね.

そのあとも,数人,博論がミーマーンサーの人も,ウィーンにいますが,続きませんね.

研究を継続するのは,なににしても,難しいものです.

にしても,この英訳と,最新のサンスクリット原典があれば,さっさと和訳も作れそうですね.

須藤君あたりとやれば,速読三日くらいで終わりますかね.

細かいことを言い出したら,いくら時間があっても足りないでしょうけど.

若き日のシュタインケルナー先生が10年くらいかけたんでしょうかね,その成果が,結果として,後進には手軽に読めるようになるのはありがたいことです.

結局,誰かのライフワーク的ハードワークのおかげで,あとのひとは,楽に先に進めます.

ちなみに,英訳は,[ ]とか使わないスタイルで,そのこともイントロで少し言及されています.

結局,米語だと,学者向けの細かいものよりも,実際に普通に使えるかどうかという観点の方が重視されますからね.

博論の独語と,一般向けの米語では,違って当然という気がします.

原典に即したのが見たければ,リコンストラクトベースとはいえ,独訳を見ればいいでしょうし.

ここらへんのバランス感覚も大事ということでしょう.

謝辞でも色々と言及されてますけど,テイバーも貢献しているようです.

結局,相互の刺激というのは,研究の進展の為には,やはり,欠かせません.

或る種のサンガということでしょうけど.

ともあれ,何をやるにしても,テキストを用意して,訳も用意してとやって,さらにそれをリファインしていこうとすると,時間がかかります.

禅語に頓悟はあっても,梵語は漸悟のみでしょう.
  1. 2022/11/25(金) 09:10:19|
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ハンブルクとキャンベラ


ハンブルクのデジタルヒューマニティーズのは,

Perspectives of Digital Humanities in the Field of Buddhist Studies
Workshop January 12, Symposium January 13–14

ということで,どうも,一部がWSCと被ってますね.

9-13ですからね.

WSCは,ビデオ送りましたけど,それで,どう実際にやるんでしょうか.

二回,どうも,時差にあわせて,どうのこうのということでしたけど.

人のビデオ見て,さらに,それで議論するのって,面倒そうです.

二度手間.

というか,みなさん,アップロードしたんでしょうかね.

ただでさえ,締め切りとか無視するのがインド関係者ですから.

みなさん,自由ですし.

ヒッピーあがりの人もいるので,まあ,当然ですけど.

最初に出たバンガロールは,インドにはいましたが,さすがにちゃんとした格好していきましたけど,二回目以降は,もう,普段の格好で出てます.

壇上に登る偉いひとも,別に,サンダルにだらっとシャツを出したままのインドスタイルの白人もいますからね.

ともあれ,ハンブルクとオーストラリア,スケジュールみながら,両方でないといけません.

そういえば,国内のインド関係学会でも,インドからの発表者がズーム発表時間に現れずノーショウとなった後に,「別日程で後日に発表させろ」とか無茶な要求してきてましたけど.

自分のせいはすっかり棚に上げて,人の都合は全く顧みず,自分に都合のよい要求だけをひたすら貫くメンタルの強さは見習いたいものです.

まだまだ未熟でした.

逆に言うと,インド国内で開催すると,そんな感じで全部が進むので,よく事務局できるなと感心します.

ないようでも阿吽の呼吸があるのでしょう.

ハンブルクといえば,今週と来週のハルのJNAは,お休みです.

忙しいのでしょう.

朝に急いで先週分のを見てましたけど,余裕ができました.
  1. 2022/11/25(金) 07:53:50|
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Taima Temple













曼陀羅,弥勒信仰,女人往生,阿弥陀信仰,念仏,修験,陀羅尼助,空海と,もう,日本仏教の歴史のありとあらゆる層とタイプが堆積して詰まったような寺ですね.

浄土宗と真言宗の二つがあることから,すでに,せめぎあいが見えてきますけど.

きっと,経済基盤の弱い坊から衰退したんでしょうけど.

衰退具合も,英彦山に比べると,全然ましな感じですね.

ありがたい曼陀羅は,あとからパソコンで細部を見直して,絵解きもできるようにしておくと,授業で使えるかも.

やはり,パワポよろしく,太古の昔から,紙芝居は受けがいいですから.

そのうちは,禰津子よろしく後ろに仏像フィギアや立体曼陀羅の箱を背負って見せて回って巡業したように,3Dが宙に浮き出るような授業とかも求められるかもしれませんね.

死の床に寄り添って念仏を唱えて往生を願うというのも,或る種のホスピスですかね.

いまは,そんな人は少ないんでしょうけど.

金もあって人が沢山いたころは,奥の院では,常念仏とかしてたんですかね.(常念仏まわすのに何人くらい必要なんでしょうか.JNB48とかになりますかね.)

いまはひっそりしてます.

中将餅,赤福より全然うまいです.

ランチは,門前の釜飯.

ジャパニーズ・ビリヤニですね.

なぜか人気は豚の角煮の釜飯.

インド的感覚からすると門前にしては卑俗な感じがしますが,えてして本邦の門前町というのは卑俗なものなんでしょう.

髪で刺繍というのは,ティルパティ・ティルマラだと,髪で鬘で,また別のドネーションの形になります.(ビジネス感覚が日本では発達しなかったということでしょうか.荘園収入があるから,そこまで心配する必要なかったんでしょうけど.)

まわりまわって,ヒンドゥー教徒の髪の毛が,ユダヤ教徒の鬘に使われるというので,問題になってましたけど.
  1. 2022/11/13(日) 18:06:58|
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原稿提出



Aから原稿が送られてきました.

インドの老先生の記念論文集用の原稿.

自分がそこに書いたかどうか,すっかり忘れてましたけど,チェックすると,一年前に書いて出してました.

Aは,Bがまだ出してないので,それを見ながら,ぎりぎりに出したようです.

というわけで,まだ,Bが未提出とのこと.

自分の場合,いまさら急ぐ必要もないので,ゆっくり構えてられますけど.

しかし,若くてキャリア積みたい人の場合は,履歴書に書けますから,さっさと出てほしいでしょうね.

あとは,自分の論文で,色々と参照することもあるでしょうからね.

とはいえ,多くの人が集まる論文集だと,どうしても,遅延の憑き物は付き物.

仕方ありません.

ぎりぎりの人は常にいますからね.

そういえば,遅刻魔のCさんの場合は,共著者が亡くなった後に,原稿を出してましたからね.

ちなみに,別のプロシーディングズで,10年前に書いたのですが,まだ出てないのがありますけどね.

あれは,もう,出ないんでしょうね,たぶん.

宙ぶらりんが一番こまりますけど.
  1. 2022/11/12(土) 04:53:55|
  2. 未分類

卑近



卑近の逆といえば,貴遠ということになるのでしょうか.

聖性を高めるのに使われるのでしょう.

御簾で仕切ったりもその一種.

あんまり身近だと,尊敬されませんからね.

ありがたい仏像を秘仏にしたりするのも,そういうことでしょう.

日ごろからなでなでされるようなお地蔵さんとは大違いです.

ヴェーダの場合,その聖性は,人間や人知から完全に隔絶し,非人為であり,永遠であるというその奇妙な性格により担保されます.(もちろん,理解可能でないと困るので,その言語は,世間的な言語と同一だと主張しますけど.)

神が作ったものでもない,というのがミーマーンサーの保守的な主張です.

永遠のテキスト.

誰が作ったのでもない.

テキストそのものが始まりもなく,永遠に過去から綿々と伝承されて,今にあるわけです.

当然,ヴェーダ中に,創造主といった歴史的事象の行為主体や,「Xの息子」などの歴史的な人物が言及されることは(ミーマーンサーの教義的には)ありえませんし,あってはならないので,たとえあったとしても別様に解釈されます,

ヴェーダは,未来現在過去の三時を超越しています.

いまどきのヒンドゥー教徒は,当然ながらヴェーダを神が作ったものと思ってるのかもしれませんが,クマーリラ的には,まったくのナンセンスです.

創造主などというのは,そもそもがナンセンスであるというのが,クマーリラの主張です.

この点で,奇妙なことに,ダルマキールティと意見が一致して,創造主批判という点で,ミーマーンサーと仏教とが結果的に共闘することになるのは,全く変なことですが,事実です.
  1. 2022/11/11(金) 06:38:09|
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JNA

JNAにしても何でもそうですけど,やはり,テキストが確定しないことには,その先に進み難いというのは言えるでしょう.

まずは障害物を取り除かないと.

地雷除去です.

そうしてから,はじめて,安心して道も歩けるというものです.

当然ですが,地雷除去の場合,明らかな場合もあれば,隠れた地雷もあるので,丹念な作業が欠かせません.

これを欠かしていきなり走り出すと,予想もしないところで足元を吹き飛ばされることになりますし,その上に立った大仰な議論も,砂上の楼閣となりかねません.

もちろん,或る程度周辺を固めていけば,なんとかなる場合もありますが.

ともあれ,地面の状態を確かめることは大事です.

テキストによって,地場がどうなっているかの程度がかなり違いますから,ケースバイケース.

まあ,インドのテキストの場合,多くは,まだ,全国から写本を集めるのが困難な時代でしたから,ごくごく一部の地方に偏った写本数本から,作られていることが多いですからね.

北は北でも,カルカッタだけとか,あるいは,ヴァラナシだけとか,そういうことがほとんどですから.

結果として,南の写本をいま見直すと,えらく直るということが,よくあるわけです.

エディターにもよりますけど.

ヴァラナシあたりで出たもので,ヴァラナシの写本しか使ってないものだったりすると,もう,泣きたくなるほど適当だったりしますからね.

もうちょっと考えて作ってねというものは,うちの分野だと結構あります.

得手不得手ということかもしれませんけど.

ミーマーンサーは,やはり,北では,伝統が弱かったですから.

読まれてないテキストになると,やはり,どうしても,エディットも適当になりますから.

ガンガーナート・ジャーも,チトラーダラ・ミシュラに遡るんでしょうけど,しかし,チンナスワーミ・シャーストリーやクップスワーミ・シャーストリーのレベルとは,比ぶべくもないですからね.

JNAのサーカーラも,写本を見ながらHejungが(ハルのチェックを経ながら)エディション作ってくれてるので,その後に進む者は,楽に進めます.

ひとりでやれと言われれば,さすがに,忙しいですから,そこまで手が回りません.

専門性が高いですからね.

かなりの粘りが必要になります.

そもそもが,読んで理解するだけでも,かなり大変ですからね.

にしても,Jによると,ダルマカーヤだけでなく,サンボーガカーヤも,同じくパラマールタだそうで,しかも,その場合は,法身のように「最高の知の対象」ではなく,「最高の目的」「最高の実現対象」なんだそうです.

































  1. 2022/11/10(木) 19:14:38|
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インド映画



高橋さんや佐藤さんほどのやる気はありませんが,いちおう,インド関係ということで何かの役には立つかもしれませんから,話のタネに視聴.

アジャエ・デーヴガンが出てくると,嬉しくなります.

愛国物ですけど,そういえば,アーリヤー・バットは,イギリスのほうの国籍でしたね.

「インディアン」同様,愛国と敵意が過ぎるので,バーフバリほどの広がりが日本で起こるとはとても私には思えませんが,果たして,どのように日本で受容されるのでしょうね.

ともあれ,インド映画も,一部の専門家のおかげで字幕のレベルがかつてより上がっているので安心できます.

何につけ,裾野が広がり,パイの総量が増えると,レベルも自ずと上がるということでしょう.
  1. 2022/11/10(木) 07:53:41|
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木曜JNA

周回遅れになるまえに視聴,ハルのJNAリーディング.

来週(というか今週)はお休みだそうです.

RGVの会通の話になっています.

かなり無理がありますけど.

ともあれ,三身について1000年頃の理解を詳しく知るには重要な資料の一つです.























  1. 2022/11/10(木) 07:35:19|
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木曜夜

11月に入って,冬時間なので,さらに一時間遅くなるので,ますます,オンタイムでは無理な感じですが,とりあえず,周回遅れになる前に視聴.

ハルのRatnakara ReadingのJNAのサーカーラ.

有形象.

あいかわらず,Jさん,無理筋の議論をこねくりまわしてます.

ともあれ,受用身のほうが,法身よりも,上だそうです.
  1. 2022/11/03(木) 08:10:50|
  2. 未分類

SV校訂



やはり、SV校訂は複雑ですね。

一筋縄では行きません。

スチャリタが、そもそも、違う読みをしていたりします。

さらに、ウンベーカの読みを確定しようと本気で思うと、まずは、ウンベーカを校訂しないといけません。

よくあるやつです。

相互依存だったり、無限後退だったり。

しかも、スチャリタ、なんか、わざわざ違う方向に行こうとしてたり、オリジナリティ出そうとしてたりしますからね。

ウンベーカ前提で、えーかっこしーの姿勢がちらちら見えます。

迂闊に信用するとまんまと騙されかねません。

注釈とはすべからく、そんなもんかもしれませんけど。

なにしろ、900年頃ですからね。

えらく離れてますから。

やはり、2番目に出す人というのは、違いを打ち出しがち。
  1. 2022/11/01(火) 00:20:14|
  2. 未分類

糸島



ここらへん、古墳だらけですね。

掘る人は退屈しません。

まあ、それを言えば、うちのキャンパスそれ自体が古墳を潰したものですからね。



学研都市の安全食堂。

普通盛り。

大盛りまでメニューにありますけど。

危険です。

チャーハンとラーメンの人も結構いますけど、チャーハン、すごい量ですからね。

嵐ファンは糸島など巡礼してますけど、椎名林檎ファンは、ここを巡礼するんでしょうか。

基本、ガッツリ食べたいおっさんばかりに見えます。
  1. 2022/10/31(月) 21:57:53|
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寂護の癖



佐藤君とのときは、カマラシーラでしたから、カマラシーラメインで、ヴァースは、それに沿って理解してましたからね。

ところが、いまのロンインは、あくまでも、シャーンタラクシタメインでやってますから、カマラシーラは、あくまでも補助。

ヴァースだけで読むと、そこだけに全集中ですから、当然、シャーンタラクシタの癖というのもより鮮明に分かってきます。

人の散文からヴァースに直すのが、さすが、上手ですね。

他の場所も、こんな具合で、散文読んで、ちゃちゃっと韻文にしてたんでしょうね。

AIで、できそうですね。

適当に散文情報いれたら、命題ごとに、韻文で打ち出してくれるものとか。

ともあれ、そんな感じで、NVの散文を、ちゃちゃっと要領よく、しかも、内容を見事に捉えながら、しかも、むしろ原文よりも分かりやすい韻文で、打ち出してくれてます。

時々、NVの一文が短すぎて、命題が単純すぎる時は、韻律を埋めるために、情報的には不要な言葉を紡ぎだしたりして、「ヴァースにしては、えらい不要な情報があって冗長だな」「このパーダCとDとは、同じ命題の表裏」という感じがありますが、それは、単に、元の命題にそこまでの情報がないからでした。

つまり、一文の一命題を一ヴァースで焼き直すというのが彼の癖のようです。

当然ですが、双方を見比べることで、誤解が少なくなりますからね。

AとBなのか、AゆえにBなのか、などなど、細かい点で、論理の運びがどうなっているのか、気になる場合はありますし。

冗長で不要な語はありますが、アディショナルな具体的な付加情報はないので、内容的には、同じです。

つまり、信頼できる前主張提示になってます。(勝手に足したり引いたりしてるわけではありません。)

こういうところから考えると、サーマタとヤジュニャタも、もとは散文だったのを、シャーンタラクシタがちゃちゃっと韻文に直してまとめて、しかも、韻文なのに、分かりやすく、しかも、過不足なく、きれいに前主張提示している、と考えるのが一番でしょう。

AIボットで、韻文マシーンみたいなの、インド人が作りませんかね。

アマラコーシャ的な、同義語を沢山学習して用意しておかないといけませんけど。

あとは、情報量のない不要な埋め言葉。

クマーリラの韻文を全部学習させれば、それなりの格調もでそうですけど。

まちがっても、ダルマキールティやマンダナを入れたりしたら、ひどいことになるのは目に見えてます。

切れ目が必ずしもパーダの切れ目にない、えげつない韻文書いてくるでしょう。

あの変なところでコンマを打たせるような韻文、本当、やめてほしいです。

マンダナの場合、韻文自体で分からせる気がない韻文で、単に、見出しをぎゅっとまとめただけ、みたいなやつだったりしますからね。

下手な俳句よりひどい、ただの点描だったりします。




今期も、ウィーン在住の石村さんには、夜の夜中(3:30ですかね)なのに、積極参加してもらってます。

岡目八目で、やはり、ブラフマン祭官が臨席してくれると助かります。

ちなみに、ジャヤンタは、ブラフマン祭官の家系ですから、いかにアタルヴァヴェーダ(第4のヴェーダ)が必要か一所懸命力説してます。

なんでも4、3じゃなくて4、みたいな議論は、必死過ぎて、かなり滑稽です。

しかも、しまいには、第4じゃなくて、第1のヴェーダくらいの勢いになってますからね。

「え?」となります。
  1. 2022/10/29(土) 10:26:58|
  2. 未分類

形成すべきは?



我々のような分野だと贅沢言ってられませんからね。

とりあえず、働けるところで働くという感じでしたから。

たまたま、いまのところですけど。

別に、ほかのところで、仕事あるなら喜んで行ってたでしょう。

で、場所によって、PDを受け入れられるかどうかというのも、違いますからね。

博士課程があったりなかったり。

当然、次代を育てる責任あるところというのは、そういう責任を果たす必要がありますからね。

逆に、そういうところでないところに就職した人は、もちろん、個人的に優れた研究者だったりでしょうけど、PD受け入れは、可能性として最初からないですからね。

そんなケースは、まま、あるでしょうけど。

たとえば、仏教論理学も、意外に行ける場所は限られます。

で、本題。

かつて、COEとかあって、拠点形成とか言ってましたけど、はたして、拠点が形成されたんですかね?

なんか、金の切れ目が縁の切れ目。

それで終わりというのが、まあ、普通のあり方じゃないでしょうかね。

なんか、変なプログラムが走っていたりするのは、その名残だったりするのでしょうけど。

結局、そうした拠点形成というのも、かけるべきは、人間形成であって、次代の養成にかけないと、意味がないんですけどね。

いくら沢山かねとっても、拠点形成とかいっても、結局、人ですからね。

そして、人を育てるのは、我々の場合は、自分の時間を割いてどれだけ教えるか、一緒に読むか、ということですから。

それって、単に金で解決するようなものでもないですから。(もちろん、制度的な金がないと、こっちにも来れないので、制度は必要です。)

情熱です。

いうまでもなく、ボランティアです。

別に、経済的に得するような類の話でもありませんし。

だから、多くの人は、PDを受け入れても、特段、なにもせずに放置なんでしょうけど。

イッコハンコ。(逆に、ハンコ押すだけの人もいるわけですけど。)

まあ、育つ人は、教えなくても勝手に育つんでしょうけど。

とはいえ、教えられれば、さらに育ちますからね。

それこそ、本当の拠点形成ですからね。

なんだかんだいっても、人を育てないことには、意味ありません。

そして、それは、決して本質的には、金の問題ではないということです。(金も制度として必要なのは言わずもがな。)

何百万円もらって研究プロジェクトで成果あげるよりも、きょうのイッコハンコで、一人を育てたほうが、はるかに有意義であることに、まったく疑念の余地がないのですけど、世間的にそれが正しいのかどうかは知りません。

世俗的には、使った額の大きさで、貢献度を見積もったりしますから。

というか、どうやって見積もるのか、どの時間幅を取るのか、なにをもって成功とするのか、それ自体が、そもそも、計算不可能ですから。

やってる本人は、実感として、ヴィヴィッドにプラティアクシャしてますけど。

目の前の人間の成長が目に見えますからね。
  1. 2022/10/28(金) 23:46:09|
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箱崎裏手





元の本部棟の向かい。

ベトナム料理の新店オープン。

さらに、駅前のとおりを入った所にもベトナム。





そのほか、既に2軒ありますからね。

食材屋もあります。

というわけで、箱崎で5軒はあります、ベトナム関係。

多の津のオートバックスの並びにもできてますし。

  1. 2022/10/27(木) 21:44:04|
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スキリング先生の正量部紹介



ようやく出たようですが,まだ,送ってきてませんけど.

とりあえず,PDF版で,読み始めました.

William Edelglass, Pierre-Julien Harter, Sara McClintock (eds.),
The Routledge Handbook of Indian Buddhist Philosophy
(Routledge Handbooks in Philosophy)
Oxon-New York: Routledge.
2022.8.15.

あるいは,送ってこないんですかね.(そういえば,日本の辞書本で,長い項目書かせておいて,本もPDFもくれないところがあったので,別に驚きはしませんが.あれは,書いた人達に買わせる商売の一種なのでしょう.どんたくに参加させて親せきや友人を呼ばせて盛り上げる「どんたく祭り」の人寄せ方法と同じです.)

著者の一人なんですけどね.

まあ,とりあえず,PDFで読めているのでいいですけど.

面白そうなスキリング先生の論文から.

あれこれと響くお言葉があります.

やはり,勉強になります.

できあいのキリスト教史に関する安っぽい初期の歴史観で「正統・異端」とかのレンズで見てしまうと,やはり,インドの場合,実態を見失ってしまいますからね.

正統を実体視してしまいますから.

オリジナルとか,オーソドックスとか,主流とか,気を付けないといけないそうです.

にしても,「人」というのは,ぬえ的なんですね.

五蘊と同じでもなければ違うのでもないそうです.

なんと,言詮不可能だそうです.

マーヤーと同じです.

楽しげです.

スキリング先生のお話は,もうちょっと理論的な紹介があるのかと思いきや,あくまでも,外側の話からでした.

しかし,初心者である私には,えらく情報がまとまっているので勉強になります.

そして,当然ですけど,同僚の岡野教授の業績が引かれまくっています.

灯台もとくらし.

同僚に日本語で聞き習ったほうが早かったかもしれません.

にしても,いつ見ても,Kaurukullaというのは,名前の音にインパクトありますね.

くるくるパーにしか聞こえません.

ヴァーツィープトリーヤも,サーンミティーヤも,どっちも大概,発音しにくいですし.

ブーツィーコリンズを紛らせても気が付かないかもしれません.

  1. 2022/10/27(木) 18:42:23|
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海外との繋がり



いわゆる海外とのつながり.

コネクションというやつです.

こればっかりは,やはり,対面のつきあいがないと,日本だけでいい論文書いても,まあ,つながりというのは,うまれてこないでしょう.

で,実際,そういうのが大事ですからね.

結局,上の世代を見ても,一部の先生に偏りますからね.

で,それは,結局,仕事はもちろん,実際に,行き来しているからだったりします.

Kつら先生しかり,Mつだ先生しかり.

それによって,日本の研究や情報も外に行きますからね.

こんな論文や本が既に日本ではある云々という形で.

私の周りでいうと,いまなら,MりやまさんやKのうKずおさんとか,ほかもろもろでしょうけど.

まめに行ってないと,あるいは逆に,こちらに呼んだりしてないと,忘れ去られますからね.

おつきあい.

長期に留学していた人は,まあ,それなりに先生とのつながりが保たれているからいいとしても.

窓口業務的な人が,やはり,必要ですからね.

でないと,「日本にこんな研究がすでにあるのに全く無視されている」というような状況が生まれかねませんから.

ひとりいると,全然ちがいます.

こっちの常識が伝わりますから.

お寺もあって大学もあってとなると,そうはいかない人が大半でしょうけど.

家を空けられませんから.



日本語だけで書いていたら,もちろん,伝わる可能性は,分野によっては,ほぼほぼないでしょう.

素晴らしい論文は沢山ありますけど,海外のひとにとっては,ゼロです.

英語で書いておけば,印仏研あたりなら,まめにチェックしてる人はいますけどね.

日本語も読める海外の仏教研究者とかだと.

しかし,他の分野だと,厳しいでしょうね.

なんか,一個どこかで海外の誰かが引き出すと,たとえ紀要みたいなマイナーなところに自分が書いた論文でも,いまだと,アカデミアがあるので,連鎖的に引かれだしたりしますけど.

そういうのも,その最初に引く人が知り合いだったり,どこかの学会で一緒だったりして,話をしてるところから広がったようなものだったりします.

まったく知らん人を,名前と内容だけから,いきなり引くというのは,あんまりないでしょう.

海外への発信というのは,結局,地道にしか広がりません.

で,それは,やはり,対面が最終的にはベースにあったりします.

比喩的表現や抽象的な概念も,物理的な身体運動を指す第一義的な語の用法に,最終的には基いているようなものです.

良い論文書いても,たとえそれが英語で書いてあっても,名前が周知されてないと,引かれるとは限りません.

有象無象に埋もれますからね.

アープタヴァチャナの論理と同じで,やはり,「信頼できる人」かどうかの話者の精査というのが,大事だったりしますからね.

現実には.

仏教論理学みたいに,話者関係なくて,あくまでも,内容の精査(プラマーナによる打音検査)で勝負するというのなら別ですけど.

それは点検作業が面倒ですよね.(そして,点検作業するために読むなら,それは,既に読まれているという,他律的真理論,特に,事後的効果による真の検証説の抱える問題が露呈してしまいます.)

たいがいのひとは,読む前に,読む価値がある価値があるかどうかを知りたいわけです.

なんなら,読まずして,引くべきかどうかを知りたいわけです.

多くの人は,人の論文,まじめに読んでませんからね.

とくに,日本人の下手な英語の論文を,まじめに読もうなどという人は,さらに少なくなりますから.

その壁を越えて読まれるためには,どうするのか,ということになります.

「インパクト」というのが重視されるようになってますけど,我々の分野でインパクトというと,やはり,地道な対面での付き合いや,日ごろのやりとりは欠かせません.

やりとりの中には,査読のような面倒な仕事も,もろもろ,含まれますけど.

そういえば,英語で推薦書書くのも,たまにありますしね.

完全ボランティア.

コンフィデンシャルな仕事。

そういえば、コンフィデンスマン、機内で見てました。

ロシアのせいで航路が変わって、えらい長旅になってますからね。

映画見て、さらにいくら寝ても、なかなか着きません。

  1. 2022/10/27(木) 08:00:01|
  2. 未分類

文脈と切り出し



当然ですけど,ディグナーガも,流れで書いているので,或る文脈で議論してます.

それを,註釈家たちは,自分の読み込みたいものを読み込むのに使うので,当然ですが,本来の文脈から離れた議論を読み込もうとします.

もともとは文脈で簡潔に完結してたものが,読み込み操作によって,えらく深遠な「真理」を説いてるようになってしまいますけど,本来は,ヴァイシェーシカとの論争の流れで,ちょいちょい言ってるだけだったりしますからね.

注意しないといけません.

そんなに深い良いこと言ってるわけではなかったりします.

ヴァースだけで読み直すと,本来の流れが少しは見えてきます.

PS 2.5も,当然ですが,PS 2.4からの流れでの発言として読むべきでしょう.

鶏や牛の各部位をばらばらに取り出して,それぞれで,まったく別の料理つくるようなものですね,注釈者の仕事は.

しかも,そこに,ダルマキールティからの材料まで詰め込みますからね.

なんか食べやすいなと思ったら,法称油が注入とか.

成形肉には気を付けないといけません.

長い注釈読んで,個別のそれぞれを楽しんでると,鳥全体の姿をまったく想像できなくなってしまいます.

  1. 2022/10/26(水) 18:02:39|
  2. 未分類

桂研



PSTの桂研.

16名ほどは参加していたでしょうか.

夜の20:00-22:30.

10時には終わるかと思いきや,面白い所に入ったので,結構,押しました.

大事なところなので,紛糾.

細かいところまで検討してると,なかなか進みません.

道元さんの慎重な準備のおかげで,かなり,正確に読めていたとは思いますが,それでも,色々な指摘が入ります.

桂先生のほかにも,稲見,護山,渡辺さんら,ダルマキールティの専門家が控えてますからね.

しかも,みなさん,ちゃんと準備されてますし.

穴なし.

東西南北の四賢門の三つは埋まってますね.


にしても,ジネーンドラブッディが

「~というのが[PSヴァースの]文意である」
「以下が[ディグナーガの]意図である」

などと言ってるときは,大概,ディグナーガの本意とはずれてますからね.

すでに作意が入ってることを,自ら宣言してるようなものです.

「師の本意はこれである」というときほど,怪しいものはありません.

実際,そんなものは意図してなかったりしてますから,注意しないといけません.

ダルマキールティを読み込もうとしているのが,ほぼほぼ,見え見えです.

にしても,ジネーンドラブッディが特定の表現を使っているときは,もう,念頭にダルマキールティの表現があるので,検索検索で,ちゃんと背景をしっかり調べておかないといけません.

arthaprakaa"saとavisa.mvaadaのcaは,すっかり油断してました.

さすが稲見さんです.

ともあれ,読み込むべき常識が多いので,文章を精確に読もうとすると,案外,補うべきものが多くなるのは仕方ありません.

きょうのところは,さらに,ダルマキールティからのコピー&ペーストで,結構,書かれてましたし.

で,ジネーンドラが読めたとして,それはそれで,つぎは,ディグナーガの本意が何かを精確に測定して,そこから,PSVリコンストラクトを検討しないといけませんからね.

大変です.

チベット訳のモザイクが入ったぼけた写真が,ジネーンドラのパズルピース提供で,かなりの部分が鮮明になってきたとはいえ,まだまだモザイクでぼかしがかかってるところがあちこちにありますから,そこは,自分の頭であれこれと埋めないといけませんし,また,持ってきたパズルのピースをはめていいのかどうかも,判断がいちいち問われます.

私にとっては,最終的に知りたいのは,ジネーンドラの理解ではなくて,ディグナーガその人の理解や主張ですからね.

クマーリラを理解するには,そこが重要ですから.

  1. 2022/10/25(火) 23:37:34|
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ひとりズーム



WSC用のビデオをアップロード。

ひとりズーム、喋り続けて20分。

ビデオ冒頭と終わりも、音声も、共有画面も、問題なさそうなので、そのままアップロード。

しかし、こんなビデオを、連続で何本も見ないといけないんですかね。

ミーマーンサーパネルとはいえ、地獄です。

さらに、これで、ディスカッションのライブなどもあるそうですから。

いやはや。

どうなるのやら。

まあ、キャンベラ主催の言うがまま、やるだけです。

にしても、我々の場合、日本・インド組と、ウィーン、それに、北米組と三組あって、ウィーンのひとはどっちでも好きな方に参加できるでしょうけど、日本と北米は、同時は、ほぼほぼ無理でしょうね。

結構、いますからね、ミーマーンサー研究者、北米に。

ラリー、エリーザ。

エリオットスターンが参加するかどうかは知りませんが。

インドはユーゴ。

ウィーンは斉藤さん。

どうなるんでしょうね。
  1. 2022/10/25(火) 07:32:09|
  2. 未分類

アドヴァ○タ



一元論で売手と買手の区別が成り立つのか心配になります。

ちなみに、一切智において、教師と弟子の区別が果たして成り立つのか批判されてますけど。
  1. 2022/10/24(月) 08:21:09|
  2. 未分類

張り合わせ



マドゥスーダナくらいになると、やはり、パッチワーク的に、なんでもあっちこっちからもってきて、いい塩梅に張り合わせてる感が強いので、最終的にできたのが、人造人間キカイダー的な、あるいは、張り合わせ的な、あるいは、モモの肉を顔に持ってきましたというような、なんとも言えない感じがあります。

インド哲学・思想全体で見れば、地層の堆積ということで説明が付くんでしょうけど、ひとりひとりの企図で言うと、張り合わせのパッチワークが行われているという印象は否めません。

総合化がうまいのがアビナヴァだったりするのでしょうけど。

DJよろしく、左と右との平行がきれいに行ったときは、それを張り合わせてもうまい具合に作品ができあがるのでしょうけど、どうも、それぞれの出自が違うものを手前味噌で張り合わせると、いろいろと拒否反応やら不適合が生じてくるものです。

三つも四つも、もともと違うところのジグソーパズルを組み合わせてひとつにするような作業です。

ともあれ、後代の人になればなるほど、DJ的なリミックスの妙技が問われるのは間違いありません。

また、当然ですが、それぞれの「ハコ」――注釈先――によって、微妙にリミックスの比重を変えてくる感じがあります。

つまり、著者自身のスタイルの一貫性はあっても、理論的一貫性を諸作品全体に求めるのは、すこし的外れになるのでしょう。

いろんな音源をもっていて、それを組み合わせるわけですが、その全体に「哲学」を求めると、どうも、体系としての美しさはなかったりします。

哲学史は、その張り合わせのもとになる音源を解きほぐす作業なんでしょうけど。

まあ、すべては模倣から始まるので、大なり小なりリミックスなんでしょうけど、とはいえ、程度の違いは相当にあるので、当然、作品の楽しみ方、それの味わい方も、違って当然の気がします。

ディグナーガを楽しむ味わい方と、マドゥスーダナを鑑賞する仕方とは、相当に違うべきではないかという気がします。

あるいは、前者を楽しむような仕方で後者を楽しむことはできないのではないでしょうか。

小澤征爾の後にスティーブアオキを聞きに行くようなものです。

当然ですが、作者が相手とする読者が誰か、何のために書いているのか、という問題も関わってくるでしょうけど。

すくなくとも、マドゥスーダナが、瞑想で彼が直証した真理を自分の言葉で説き起こそうとしている、ということは、まずないでしょう。

また、バルトリハリのように、言いたい思想を表現する出来合いの便利な概念がないので、なんとか自分でそれを編み出そうとしている、まさに、その言葉や概念の誕生の瞬間を目の当たりにするような感覚も、ないでしょう。
  1. 2022/10/23(日) 07:48:36|
  2. 未分類

VizianagaramのNM



Vol. 2の書誌情報が英語頁が欠落している本ばかりで、確証がなかったのですが、Internet Archiveのトロント大学のに、第二巻の英語表紙もありました。

1895年でした。

Vikrama Samvatでずれるので、1896かと思っていましたが、1895でよかったということです。

というわけで、第一巻も第二巻も1895年でした。

訂正。

アレックスに聞かれて、あれこれと調べてましたけど、やはり、本があれこれあるのは助かります。

みんな、どこか欠落してますからね。

ウィーンのも、東大のも、西暦年のところが欠落してましたから。
  1. 2022/10/23(日) 00:40:44|
  2. 未分類

ケント



ウィーンが初めてなら、まず、一区をぶらぶら。

有名カフェでザッハートルテでも食べて、メランジュを啜ります。

それに、どっかのレストランでグリューナーヴェルトリーナーか、ゲミシュターザッツの白ワイン。

季節が季節ならシュトルム。

そして、アイスバインや草鞋のようなでっかいシュニッツェル。

さらに、美術史美術館。

さらに、シェーンブルン、ベルヴェデーレでクリムト、あとは、王宮めぐり、といったところでしょうか。

さらに、ムゼウムス・クヴァルティアでエゴンシーレ。

クラシック好きな人はオーパーや楽友協会。

当然ですが、もう、どれも興味ないので、すべてパス。

そういえば、コロナになる前に須藤君と一緒に行ったとき、美術史美術館くらいは、着いて早々、一緒に行きましたけど、あとは、もう、全然、行きませんでしたからね。

彼は初めてだったので可哀そうですが。

なにしろ、私のいくところがインド料理、イタリア料理、トルコ料理、地元民御用達の変な飲み屋、ナッシュマルクトの紅茶屋だったりしますから。(そういえば、ハーバードのパリマルと倫敦のニーランジャンと一区のインド料理に行った記憶があります。)

というわけで、途中から彼は、時間を見つけては自分で行ってましたけど。

かけあしで閉室前にクリムトとか。

ナッシュマルクトもすっかり観光地化して落ち着かないので、私の最近のブームは、ブルネンガッセのトルコ人街。

ここのトルコ料理のケントが一番落ち着きます。

インド料理のRBPも西の方ですから、いっそのこと、西に泊まったほうが、今後はいいかもしれません。

そういえば、ナッシュマルクト近く、かつて、ひっそりとしたオーストリア料理屋があったところも、えらい繁盛店になって盛り上がってました。

クラッサーと行ったその近所の飲み屋がどこか探してみましたが分かりませんでした。

きっと別の店になっているのでしょう。

研究員で長期滞在していた2004年の冬だったでしょうか、あるいは、その後私がこの近くに泊まった時だったでしょうか、私が、「先に帰るから」と言うと、彼は、「(調子こいた整形医が来て)いまから店が盛り上がりそうだから、まだ残るわ」といって、チャオ―と別れましたけど、その後、確かにえらい楽しかったそうです。

ピルツの季節になると、決まって彼がそれを注文していたのを思い出します。

関係ないですが、今回は、マルクス・シュムッカーとホルストには会えず仕舞い。

まだお休み期間中だったようで、研究所に出て来てませんでした。

中観のアンは、入れ違いで日本だったようです。

大学にクリスティーナとアンドレイがいますが、そちらも会わず仕舞い。

そう考えると、やはり、多いですね。

所内クリスマスパーティーや誰かの記念会など、イベントのあるときに行くと、一度に会えて便利なんですけど。

そういう意味では、ベイリオルのゴンブリッチ教授の月曜ランチは便利でした。

毎週あるそこのランチに行けば関係者に労せずして会えますから。

ディワーカルは、やってるんですかね?

そういえば、ベイリオルのそのポスト(ゴンブリッチ→ミンコフスキー)が、ちょうど、今頃締め切りですね。

次は誰になるんでしょうか。

普通に考えて、誰がなっても、私より年下でしょうね。
  1. 2022/10/22(土) 11:28:55|
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