Pratibhanusarini --- 九州インド哲学ブログ2

On Indian Philosophy and Buddhist Studies

桂研

ハリバドラのAAA。

唯識批判の箇所に登場する一論者。

形象真実論を標榜する一論者です。

多数の形象と一認識のチトラアドヴァイタではなく、多数の認識に多数の形象で、現象の多様性を説明しようとします。

つまり、同時に多数の認識が生起することで、多様な青などの現れがあるというのです。

この説に対してハリバドラは、まず、極微批判のロジックを転用して批判します。

すなわち、生起するとされる一つ一つの認識も実有である以上、空間的な広がりを取るはずだと考え、極微批判に対するのと同じ批判が当てはまる、と考えるのです。

唯識において当然、認識は実有、しかも、この論者は形象真実論に立ちますから、当然、形象も真実、つまり、客観的に存在するはずです。

極微Aが極微Bと向き合うとき、果たして、その同じ自性をもって極微Cにも向き合うのか、あるいは、別の自性をもってか云々。

極微の集積が成り立たないのと同じく、原子としての一々の認識の集積も成り立ち得ないはずだ、というのが、ハリバドラの議論です。

至極真っ当な批判です。

これに対してこの多認識多形象の形象真実論者は、「いやいや、物質であり有形である極微と違って、認識は非物質・無形であり広がりをそもそも持たないので、上の批判は当たらない」と反論してきます。

この反駁方法は不当に映ります。

というのも、この論者は唯識論者、しかも、形象真実論者であり、多数の認識と多数の形象が同時に存在すると考えているからです。

結局この論者は矛盾したことを主張していることになります。

認識は空間的な広がりを持たないにもかかわらず、なおかつ、空間的な広がりを持つ、と。

もしも、多数の認識が空間的な広がりを持たないままに、空間的な広がりを持つかに見える多数の形象を表し出すと言うのならば、空間的な広がりを持たないのですから、導入するのは一認識でもよかったはずです。

そもそも、この論者は形象真実論者ですから、多形象が実有として空間的に広がっていることを認めるのならば、多認識も空間的に広がって生起し存在することを認めねばならないのです。

ここだけ都合良く「認識は非物質だから広がりを持たない」ということはできないのです。

広がりを持たないなら多ではなく一認識で用が済むからです。

多数の形象が真実であるというとき、その多数の形象は、当然、空間的に広がりを持つものであり、それ以外ではあり得ません。

そして、多数の形象と同様に、多数の認識も、それが真実であるならば、空間的な広がりをもって存在せねばなりません。

したがって、「認識は非物質で無形だから」という反論方法は、この論者には最初から許されてないのです。




参加者は,龍大・谷大の若手のほか,唯識世界の大御所,桂・沖・一郷というトリプルスリーの大先輩方.

梶山・服部・大地原の三聖人が揃っていた,かつての京大黄金時代を大学で過ごした方々です.

「こうちゃうか」「いや,そうではないと思います」云々,当時を彷彿とさせる議論の丁々発止.

わたしの上の見解は沖先生と同じもの,いっぽう桂先生は,これとは少し違う解釈でした.

まさに同時に多様な認識が生起併存する世界,あるいは,他相続の激突.

それらが一如に融け合った華厳世界かどうかは定かではありませんが.

夕方5時にはじまって,えらい遅くまでやっていました.

最後は頭真っ白,形象を空じて能取も空じ,唯心の境地に.

にしても,この世代の研究熱とパワー,恐るべしです.




問題箇所の原文は以下.

Q: nanv amūrtatvāj jñānānāṃ na deśakṛtaṃ paurvāparyam asti.
tat katham aṇuvan madhyavartitvaṃ jñānānāṃ bhavet.

A: satyam etat.
ayam aparo 'sya doṣo 'stu yad
deśavitānapratibhāsinām ākārāṇāṃ satyatvam icchatā
(1) jñānānām adeśānām api satāṃ
(2) bahūnāṃ tathādeśavitānotpādaḥ
parikalpyate.

anyathā hi
yady
(1) anekavijñānotpādakalpanāyām api
(2) tathādeśavitānotpādapratibhāso mithyā syāt,
tadā
(3) anekavijñānotpādakalpanā vyarthaiva syāt.

na ca
(1) deśavitānāvasthitanīlādipratibhāsam antareṇa
(2) anyan nīlādy anubhūyate
(3) yat satyaṃ bhavet.

tasya cālīkatve kim anyat satyaṃ bhaviṣyati

--- iti yatkiṃcid etat.
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  1. 2017/11/22(水) 15:38:18|
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aparyavasyatpadaarthaantaram

「課題解決型」という単語を昨今耳にしますが,何を課題とするかは,人それぞれでしょう.

多くの人が課題と考えることを,個々人も課題とすべきである,というならば,ゲスの勘ぐりに近いゴシップ的興味の対象解明すらも「多くの人の課題」と言えるでしょう.(サンスクリットでは,このようないわゆる無益な対象の考察を「カラスの歯[があるかないか]の考察」と呼称します.)

実際,全知者しか分かり得ない(つまり知覚可能性の条件を満たしてない)ものごとに関して,ああでもないこうでもないと人々は勘ぐっています.

ダルマキールティに言わせれば,知覚可能性の条件を満たしてない以上,それについては疑惑しか残らず,確定知が生じることはありえません.

本性的に知覚不可能な幽霊が「いる」とも「いない」とも言えないのと同じです.

実際,世の多くの人が興味あるとメディアが判断しているのは,環境・資源・健康・安全といった,いわゆる実利的事柄などではなく,有名人のゴシップだったりします.

では,「課題とは実利的な事柄に限る」というならば,では,「利」とは誰にとっての利なのか,ということが問題になりますから,やはり,話は振り出しに戻ってしまいます.

「多くにとっての利だ」というならば,では,多くとは,現代人の多くにとってなのか,未来の子孫も含むのか,さらには,ご近所さんの多くなのか,あるいは,市レベルなのか,県レベルや,圏レベル,あるいは,国レベルなのか,国をまたぐ広域の経済圏レベルなのか,あるいは,地球規模なのか,さらには宇宙大なのか,あるいは,本当に人だけでよいのか,動物や樹木などの生命は含まれないのか,などなど,どの時空で対象を切るかにより「多く」の範囲が曖昧となります.そして,それに従って「利」かどうかも変動し得ます.(特定の治療・医療が一概に「良い」とは言えないのも,誰にとっての利か,という問題と関わってくるでしょう.)

結局の所,何が誰にとっての利なのか,何が多くにとっての利なのかは,とても曖昧だということです.(際限なく進歩する生命科学が本当に多くの人にとっての利なのかどうかは,原子力が本当に多くの人にとっての利なのかどうか,という問題とパラレルに考えることができます.)

多くの場合に明らかなのは,「多くの人の利」と主張されるものは,実際には,そう主張するその個人にとっての利に繋がるものだ,ということです.(先般の危機で登場した多くの御用学者と言われる人々も,人の生命よりも,自分・家族・仲間の生活が大事だったのは言うまでもありません.)



曲学阿世の屁理屈はさておき,私にとっての今の課題は,目の前の文が分からない,ということです.

というわけで,「課題解決型のアクティブラーナー」としては,この問題に取り組む必要があります.

ヴァーチャスパティのテクスト,デーヴァナーガリーではつながっているので,仮にそのままローマナイズすると次のような感じ.

tena yadyapi padātpadārthamātramavagamyate tathāpi tanmātraṃ na vyavahārāṅgamityaparyavasyatpadārthāntaraṃ viśeṣamapekṣamāṇaṃ yatpadāntareṇa yogyamupanīyate padārthāntaraṃ tadavacchedamanumanyatetarām/


このままだと結構むずかしいです.

前半はいいですが,後半がややこしい.

aparyavasyatの後が切れるのかどうかが問題です.

どうやら,yat以下は,tadの説明として全体として挿入されている,という感じのようです.

つまり,主文構造とは完全に切り離して考える必要があるようです.

筆者の分け方は次の通り.

tena yady api padāt padārthamātram avagamyate,
tathāpi tanmātraṃ na vyavahārāṅgam ity
aparyavasyat padārthāntaraṃ viśeṣam apekṣamāṇaṃ
yat padāntareṇa yogyam upanīyate padārthāntaraṃ
tadavacchedam anumanyatetarām/

1.それゆえ,たとえ,語Aから単なる[無限定の]語意aが理解される
2.にしても,単なるそれaは実際の言語活動の要因とはならないので,
3.他語意bに行き着かないと特殊を期待する[語意aは],
4.[語意aと]結び付きうる他語意bが他語Bにより近くに連れられてくると,
5.その語意bによる限定(=特殊化)を,より一層受け入れる.



前文から理解可能だとはいえ,itiをまたいで後半でも「語意」が隠れた主語であるとは,一瞥して分かれというのは酷です.

中性単数となると,主格と対格との区別がつきにくいので,主語を探すのに苦労します.



はたして,人工知能が最初の文章をデーヴァナーガリーから自動で見て取って読み取りして,切り分けて,理解して,日本語に翻訳してくれるような日は来るのでしょうか.(街中に置いてあるペッパー君も,このサンスクリットを解きほぐしてくれればいいのですが.)

ま,これが分かったところで一銭にもならないから,やらないでしょうが,ひょっとすると,情熱をもったインド人婆羅門のIT技術者がサンスクリットから英語に自動でしてくれるAIを開発する日が来るかもしれません.

「サンスクリットをデーヴァナーガリーのテクスト(校訂本のみでなく写本も含む)から自動で読み取って英語・日本語にしてくれるAIの開発」というプロジェクトとなると,たぶん,何百億円かけても足りないでしょう.(ちなみに、実行不可能な命令の対象としてインド古典で挙げられるものに、竹取物語にも出てくる龍の頸の玉があります。)


古典ギリシャ語で残る文献の総体には限りがあります.

それと比べると,サンスクリットは,写本も含めて膨大な量になります.

一人の人間がその全体を網羅することは到底不可能です.

つまり古典として見た時,サンスクリット語の文献は圧倒的な分量のテクストを有しているのです.

しかも,未出版のテクストが写本の形で山と残っています.

それは人類の知的遺産です.

よりよい自然・環境を次の世代に引き渡す義務があるのと同様,我々が受け継いだ知的な遺産を次の世代に確実に残していく必要があるのは言うまでもないでしょう.

補修儀礼やルーティーンワークと同じだと考えると,知的遺産の修復・保存は,契機祭naimittikaや定期祭nityaと同じ意味での義務ということになります.

つまり,それは,成果指向型の願望祭kamyaではないのです.

言い換えれば,古典研究を成果指向型のプロジェクトとして捉えることは,そもそもフレームワーク不適合,カテゴリーミステイクということになります.

考古学の発掘調査と同じで,それは最低限必須の義務なわけです.

つまり,古典研究をするのに理由はいらない,ということです.

あえて理由を求めるなら,それは,「しないと困ることになるから」というのが理由となります.

定期祭をしないと下降する(罪となる)から,というのと同じです.

発掘調査が,「いましないと永遠に失われるから困ることになるから」というのと同じでしょう.

もちろん,定期祭nityaである新月満月祭が,天界を目指す願望祭にも転化しうるように,意欲をもって完璧にやる場合には,古典研究も積極的な成果をもたらします.

しかし,それは,あくまでも(一部の人による)特殊な形においてそうなのであって,常態においてそうなわけではありません.

常態においては,古典の継承は人類の義務だと言えるでしょう.法隆寺の保存・適時の修復が義務であるように.

「役に立つかどうか」という成果志向のプロジェクト的行為以前に,最低限しなくてはならない義務としての行為も,行為の一類型として存在するということは心に留めておくべきでしょう.

  1. 2017/11/18(土) 06:35:56|
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Agency of an individual in a cooperative work

大規模な祭式であるサットラ祭は,17人以上24人以下で行います.

その場合の疑問は,有資格者は一人一人がそうなのか,あるいは,集団がそうなのか,ということです.

一人一人が行為主体=有資格者=果報を望む者,であるならば,一人一人に果報の全体があることになります.

いっぽう,集団が行為主体であるならば,一人一人は一部の果報だけを受け取ることになります.

普通に考えると,集団が行為主体であると思われます.

「一人一人では,多数の行為主体を持つサットラ祭を為しえないからである」と前主張者は述べます.

これに答える際に必要となるのが,行為主体の概念です.

一人一人が独立して働けば,それは行為主体と見なし得ます.

他の力を借りながらも,一人一人が主人公として行動するならば,その人は行為主体たりえます.

パタンジャリも「それゆえ,彼らは,それぞれ一人一人,行為主体である.ただし,相互に依存することで」と述べています.

シャバラもパタンジャリに則りながら,「それゆえ,全員が――互いに他に依存することで――行為主体となるだろう」と述べています.

他の力を借りながらも(あるいは他人を用いつつも)自己の能動性を失わなければ,一人一人が主人公たる行為主体と見なせるのです.

したがって,一人一人がサットラ祭という集団行動の主人公たりうるのです.

つまり,果報は一人一人にその全体が生じます.

他と分かち合う必要はないのです.

「人間の目的(果報)が一人一人にそこから成立するので,各人それぞれに[それへの]資格があるべし」とジャイミニは述べています.

次のスートラは,「生き物を見る場合のように」と指摘しています.

ちょうど,象や馬といった生き物を見る場合,各人一人一人にその見ることの全体が実現されます.

見ることの一部が実現されるわけではありません.

供物も祭火も皆の「真ん中にある」共有物として,同時に多数の人の役に立ちます.

同時多効果的に(=ぴんと張った横糸のように),それぞれ一人一人が行為主体となりえます.

一人が行為主体としてやったからといって他の人の行動が無駄になるわけではありません.

順番に(非同時的に)やるわけではなく,同時多効果的に行うからです.

公共物・共有物も,皆で一部ずつを分け合うのではなく,その全体を一人一人が享受できるものがあります.

オンライン授業などはその一例でしょう.

スートラがあげている例を我々に引き付けて考えれば,動物園が例となるでしょう.

皆がひとりひとり,観察の全体を楽しむことができます.観察の一部だけを受け取るわけではありません.

協働作業や公共圏における個人のエージェンシーについて,スートラは一つの見方を与えてくれているといえるでしょう.

技術や知識といったものも,同じように,皆で共有することが可能であり,しかも,一人一人がその全体を享受することができるものです.

サットラ祭という現世利益成就のための当時の技術も,協働作業であるとはいえ,一人一人に豊かな果報をもたらすものなのです.

これを敷衍すれば,大学におけるagencyも,学長をトップとする全体にあるのではなく,各人にあるということも言えるでしょう.

全体主義や家族類似的な国家観は,この論題の前主張にあるように,全体を一人の行為主体と見なします.

ジャイミニは,そのような全体主義を否定し,個人個人にエージェンシー,そして,果報全体の享受を認めます.

<Keywords>
kartṛ, tantreṇa, adhikāra, parṣada, svātantrya
  1. 2017/11/12(日) 11:19:18|
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ISGとHIT

年末のインド思想史学会.

まだ3人しか発表者が集まってないようですが.

3人で,すでに濃そうな内容なので,それはそれで楽しみですが,例年,4-5人なので,もう少し発表者がほしい所です.

インド思想史学会の場合,例えば,2015年の12月に日本語で発表すると,2016年の5~6月あたりに英語で論文をHITに出して,それから査読などをして戻ってきての作業をして,しかし,実際にでるのは,2016年の末ではなく,2017年の終わり頃,というスケジュールになっている気がします.2年がかりになります.

これまでのスケジュール通りだとすると.(少なくとも私の場合はそのようになっています.したがって,未だ出てません.)

結構時間がかかります.

私は気長に待てますが、3年しか任用期間がなく、次を探さねばならないPDなど、若手にとって2年のギャップはきついものがあります。

いつまでも堂々と業績表に載せられないからです。



さて、時間の問題はさておき,問題は,英語化です.

HITは,徳永先生の頃からでしょうか,完全英語の雑誌にされました.

しかし,そうしてしまうと,上の人にはいいですが,大学院生にはちょっと敷居が高すぎるような気がします.

つまり,登竜門という役割を果たすには,ちょっと敷居が高すぎて,トライする院生も減ってしまい,さらには,その雑誌に出すことを考えると,学会発表もちょっと尻込みしてしまう,というようなことになっている気がします.

個人的には,雑誌は,英語・日本語のちゃんぽんでもいいような気がします.

英語で書きたい人は英語で書けば良いし,日本語で,という人は日本語で.

どこかから補助金を貰うために,どうしても英語化しなければならない,というわけでもないのならば,の話ですが.(現にHITは別に英語化のおかげで補助金をもらっているわけでもないでしょうし.)

なんなら,日本語で発表してるので,日本語版と英語版とを同時に載せて欲しいくらいですが,そういう慣習はこの世の中にはないようなので,無理でしょうけど.(しかし,インド思想史学会の場合,発表は日本語,そして,HITに載せる論文は英語ということになるので,実質的に,二つができあがっているはずです.)

ページ数に制限はないので,それはありがたいですが,英語only化にそこまで執着しなくてもいいのではないか,と思います.

つまり,英語もやる,というような柔軟な態度のほうがいいのではないか,ということです.

南インド料理屋も成功しているところは,南インドカレー(米主体のミールス,さらに,ドーサなどのティファン)もやりつつの,しかし,多くの人が頼むであろうナンとバターチキンという定番も用意するというところが生き残っています.

つまり,英語化,というときには,「英語だけ」にするのではなく,「英語も」,というような寛容の精神,あるいは,インドよろしくの包摂・取り込みの精神を発揮すべきではないか,ということです.Inklusivismです.(フランス,ドイツ,イタリアの雑誌も,多くは,ちゃんぽんでしょう.)

多くの人が好む日本語も残しつつの一部推しの英語化,という方略のほうがいいのではないか,ということです.

いちおう,毎年,安からぬ会費を払っている会員なので,どうも最近盛り上がりに欠ける学会,および,雑誌について考えてみた次第.

金を取っておきながら,毎年雑誌が出ているわけでもない,というのは,実際,問題にはなりうるでしょう.

まあ,10年くらい雑誌が出なくても,いかにもインド系なので,私は別に気にしませんけど.

国際サンスクリット学会に行くと,裾出しシャツとジーンズにサンダルというラフな格好の人が多いのと同じ.

びしっとスーツで決めてるのは,ごくごく一部です.

カルドナ大先生も,インドから帰ってきたばかりかのようなラフな格好でした.

緩いのがいいです.

したがって,雑誌の言語に関しても,縛りを設けずに緩くていいのではないか,と思います.
  1. 2017/11/11(土) 10:45:42|
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okcmc





  1. 2017/11/11(土) 07:00:39|
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visvavidyalaya-mahotsava-nimittaka-homa









ピーターによるマハースカヴァジュラ作『パドマーヴァティー』講読。

『チャンダマハーローシャナ』の注釈。

あれやこれや,なんでもありの世界観です。

密教用語で毘廬遮那がगूथを意味するとは知りませんでした.

CMR 6.47: 「彼に次のような文を[彼女は]述べるべし――我が毘廬遮那を食せ!」

マハースカヴァジュラは親切に「毘廬遮那とはगूथである」と注釈してくれています.



  1. 2017/11/04(土) 09:56:15|
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久間・種村研











ピーターによる『サーラマンジャリー』.

ジュニャーナパーダことブッダシュリージュニャーナによる『サマンタバドラサーダナ』,

それにたいするサマンタバドラによる注釈である『サーラマンジャリー』.

今回取り上げたのは,プラマーナ寄りの箇所.

ヴァイシェーシカ批判やヴァイバーシカ批判をめぐって,あれこれとパラレルなパッセージが.

最後に加納・張本組による未同定新出写本の内容についての発表.

三葉.

主に全知者について.
  1. 2017/11/03(金) 11:27:24|
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Dipavali at Fukuoka Asia Museum

Installation by Krupa Makhija













  1. 2017/10/25(水) 07:00:26|
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द्वात्रिंशत्

PDが32歳になったというので,研究室の皆でプチお祝い.

そこで,私自身が32の時,何をしていたのかを想い出してみました.

ちょうど東文研の助手になった一年目の年.

博士号の審査が6月にあり,博士(文学)を取得.

同じ6月には,ハンブルクからポーランドのKunowiceに行き,ワルシャワにも寄って,ハンブルクから帰っています.

そこで発表したのが

The Mimimamsa Definition of Pramana as a Source of New Information,
International Seminar `Argument and Reason in Indian Logic' (Warsaw University, Poland), 2001.6.24.

バルセロヴィッツが中心になって主催したものでしょう.

瀟洒な坂や古城もあって,かなり風光明媚なところでしたが,この頃は,デジカメも持っておらず,どんなところだったか記憶も薄れています.

帰りのワルシャワで,桂先生,シデリッツと,温室のような超高級レストランで食事した覚えがあります.

桂先生が後からクレジットカードの請求見てびっくりしたそうです.ワインが高かったとの由.さすがシデリッツ.高級ワイン派.

博論を1999年に出して勢いに乗るジョンダンが,確か,その頃出たばかりの携帯できる小さいノート(ipadみたいなもの)を片手に,ワルシャワの街中でギロンとPVの一節について議論していたのを見かけた記憶があります.

桂先生,「こんなとこまで議論か,よーやるなー」.

夏の印仏研は東大.

「認識の真偽と聖典の権威──クマーリラのpramanya論──」,
第52回日本印度学仏教学会学術大会(於:東京大学),2001.7.1.

博論のbhavana論が終わって,ちょうど,JS 1.1.2のcodanaのところを読んでいたので,その関連で,この発表でした.

真理論,あるいは,真偽の理論と,それの聖典の真偽への適用について,ということです.

翌年の印仏研に英語で載せています.

ちなみに,2001年までの総論文数は11本です.

さらに,助手一年目ということで,東文研内での研究会でも,分野外の諸先生方の前で発表させられています.

「古典インド聖典解釈学派による全知者批判」,
東洋文化研究所平成13年度第2回定例研究会,2001.7.12.

これもcodana関連.

この頃は,一切智者論といえば,本邦では,川崎先生のものがほぼ唯一のものでした.(藤永さんが2001年にジャイナ教の一切知者論を丁度出された時です。)

全知者関連では,翌年2002年の年末のインド思想史学会で発表,2003年に英語で載せています.

所長だった田中明彦先生が,「それは変な議論だな」ということで,正確な突っ込みをされたのを覚えています.

細かいところは分からなくても,大所高所からの議論の飲み込みが早く,勘所を押さえるのがうまいなと感心したのを覚えています.

上村先生が専門外の先生方のために,私の専門的な議論を分かりやすく解説,フォローしてくれていたのも記憶にあります.

8月-9月には,カルカッタに行っています.

ワルシャワでも一緒だった桂先生が,藤永さんと共にジャンブヴィジャヤ師に会いに行くというので,ご一緒させてもらった時です.

カルカッタから入って,夜行に乗って,ビハール州のジャイナ教の聖地へ.

ジャイナ教の信者が泊まるホテル(というか宿泊所)に滞在中のジャンブヴィジャヤ師に面会.

小林君が師にテクストを読んで貰っていたのに一緒に参加.

TSでしたか,PVAでしたか,忘れました.

桂先生が,できたばかりのPS1の原稿をジャンブヴィジャヤ師に見せたのも,その時でした.

藤永さんが,ポラロイドでホテルに滞在中の信者さんの記念写真を撮って記念にその場であげたところ,翌朝には部屋の前に行列ができていて,「子供と記念に取りたいからお願い」というようなことで,皆,撮ってもらっていました.

藤永さん,フィルムも結構持ってきたはずが,途中で切れてしまい,「これでおしまい」ということで,行列の途中で打ち切り.

小さい女の子が記念写真用に派手な可愛い服を着せられて写真を撮られていたのを想い出します.

藤永さん,いくらかは別の機会にフィルムを残していたかったそうですが,親切にも,他人の記念撮影のために全てを使い切っていました.にしてもインドの口コミは早い.

宿泊所の食事は当然,ジャイナ用のベジタリアン.

私はインド留学時のティルパティで,お寺のシンプル菜食には慣れていたので,むしろ,懐かしかったです.

すごいシンプルなジャガイモカレーがうまい,と思ったのを覚えています.

多分,大方の日本人には,質素すぎる食事にしか映らなかったでしょうが.

広大の院生2人が,私が着ていたクルターシャツを見て,クルターシャツをテイラーに行きオーダーメイドしたところ,ただのカッターシャツが出来上がって,困惑した表情で着ていたのを想い出します.

ビハールの田舎なので,ヒンディー語ができないと意思疎通も難しいという結果でした.

桂先生は,地元のマッサージをホテルの部屋に呼んで,上に乗られて足でぐいぐいやられて気持ちよさげでした.

桂先生を足蹴にした数少ない人間でしょう.

ビハールに行く前だったか後だったか忘れましたが,カルカッタでは,桂先生の滞在中は,先生と一緒の高いホテル.

そこから,B.K.マティラルの未亡人のお宅に訪問したのを覚えています.

ミーティングの約束のため事前に電話する必要がでてくると,そこは,私の役目.

桂先生とサダルストリートの高めのインド料理屋に行ったのも想い出します.

先生も,大昔に着ていた真っ黄色のクルターシャツを取り出して着てらっしゃいました.

ホテルで昼にいたところ,掃除の兄ちゃんが入ってきて,下のぞうきんで上のグラスを拭いているのを見てしまった桂先生.

苦笑い,

「見んほうが良かったな-」.

先生,日本からのペットボトルの水を大事に飲んで,お腹には相当気を払われていましたが,まさかコップがそんな状態とは.

やはり,ペットボトル直飲みが衛生的には一番です.間接性が増すほど,人間の過失が入り込む可能性が増えるというのは,ミーマーンサーの聖典権威論が教えてくれるところです.

桂先生と一緒になる前だったでしょうか,カルカッタに一人でいた間は,安宿とカフェでPVSVを注釈なしで単独で読んでいました.(あとは、写本複写依頼。ASから許可をもらい金も払いましたが、その後、北田君の助けも借りてマイクロを最終的に入手できたのは何年何年も後のことでした。ゲットできただけでもラッキーですが、ともかくも、インド写本は時間がかかります。)

やはり,テクストは,「裸で」(注釈なしで)読む物だと思いました.

著者は,後代の注釈を前提とせずに書いているわけですから,それだけで単独で読んで理解できるはずなのです.(自注と同時に書いているというような場合は別です.)

PVSVという難解なテクストも,それ単独で読んで案外理解できるものだなと納得したものです.

全知者についてのクマーリラとの議論応酬というアイデアも,そこから広がっていきました.

その頃は,まだ,クマーリラとダルマキールティの議論応酬というフラウワルナー説に乗っかって正面から議論する論文は僅かでした.

シュタインケルナーやクラッサーくらい.

川崎先生の一切智者もそこはノータッチ.

PVSVに裸で取り組むことで,自分で感じることができたのはラッキーでした.

ミーマーンサーだけでなく,仏教論理学,なかでも,ダルマキールティを読み始めたのはその頃からです.

稲見さんの研究会なども出ながら,最終的に,その時のアイデアは,2003年に,

仏陀の慈悲と権威をめぐる聖典解釈学と仏教論理学の対立.
『東洋文化研究所紀要』142, 198(151)--158(191)

として出しています.

水もそうですが,テクストも(注釈や二次文献に惑わされることなく)直接に味わうのが最も安全です.

ところで、32歳のPDにとって、現在の私がどんな風に映るのかを類比的に考えると、2001年当時の私にとっての、赤松先生くらいの年齢にほぼ当たります。

ちなみに、2001年といえば、1998年にVPの和訳を出された赤松先生が丁度4月に九大から京大に異動、九大印哲が先生のいない「大空位時代」を迎えた時です。(非常勤として針貝先生、阿先生、宇野先生に来ていただいていたようです。)

ちなみに、2001.9.11、わたしは丁度カルカッタの空港で、日本に帰るフライトを待ちながら、ビルから煙が立ち上るテレビの映像を、それがなにであるか正確に認識することもできないまま、眺め、その後、飛行機に乗り込んで翌日にシンガポール経由で成田に到着しました。
  1. 2017/10/21(土) 09:25:56|
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transient

Rokkakudo1

箱崎キャンパス農学部,

図書館の裏の森に隠れた通称「六角堂」.(店の正式名称は「ページ」.)

机も六角,椅子のボルトも六角というこだわりよう.

農学部の50周年記念会館としてS49.5.31に建てられたここも,2月頃で営業終了のようです.

実際の取り壊しがいつになるのかは知りませんが,1974ー2018ということにはなるでしょうから,44年しかもたなかった,ということになります.

50年を祝ったはずが,50年より短いとは皮肉です.(ちなみに,箱崎の法文学部本館は,1925年ー2017年ですから,92年の寿命.)

諸行無常の刹那滅.嗚呼,無常!

金を出したであろう農学部OBも呆れていることでしょう.

かつてのCOEプロジェクトや,いまの何とか拠点構想を見ても,日本のプロジェクトは,永続性の発想に欠けた思いつきの企画が多いように思えます.(金もたいてい長くて5年で終わりですし.)

いっぽう,最近終了したドイツのネパール写本プロジェクトなどは,その長さにびっくりさせられます.(1970-2002, NGMCPが2002-)

ひょっとして,建物の非永続性という環境に,人々の発想が影響を受けているからでしょうか.(多分そうでしょう.)

伊勢や出雲よろしく,遷宮してフレッシュにいちからやりなおす,というのが日本的ということなのかもしれません.(日本の一軒家も長持ちしませんし.「いずれ壊すからメンテしなくていいや」でずるずると何年も経ち,水回りは汚いまま,台所はぼろぼろ,そして金がないからいつまでも引っ越しできず,引き延ばし引き延ばしで10年も20年も経ってしまうというのも,似たような構造かもしれません.ちなみに,金はなくとも,さすがにトイレは,一時,文学部でも,綺麗に改修されていました.)

とすると,安い建物をさっさと建てて,また壊して,次に作り直す,というのも,ありなのかと.(土地利用が決まるまでの一時的な利用法として,プレハブの本屋などが天神にもありました.新しいので人気でした.)

なんなら,サーカス団や劇団のテントや遊牧民のパオでもいいでしょうけど,遊牧民でも焼き畑移動の民でもない定住の農耕民に,そこまでの潔さはないようです.

しかし,箱崎に林立するプレハブ群は,いわばパオに近い仮設です.神経中枢の文系事務等からしてプレハブですし.

同僚の京谷先生が最近本を出され,仮設の凱旋門などの二階部分で行われた活人画を紹介されています.(『凱旋門と活人画の風俗史 儚きスペクタクルの力』(京谷 啓徳))

だとすると,仮設の儚いありかたを追求するというのも,立派なひとつの方向なのかもしれません.(ちなみに,京谷先生のオフィスは,仮設のプレハブ棟の中にあります.来福以来,10何年間もプレハブ・オフィス.)

桜のようにぱっと咲いてぱっと散る.

定期祭(nitya)と非定期祭(anitya)という分類であれば,非定期なのは,願望祭(kaamya)ですが,その願望祭は,100%の力でやらないといけません.

いっぽう定期祭は能力が及ぶ可能な限りでいい(yathaa"sakti),ということなので,一部面倒なところは省略しても問題ありません.

つまり,ルーチーンワークは,少々手抜きしてもいいけど,自発的プロジェクトは全力でやらないと成就しないというわけです.

そのことから考えれば,非永続的なものは,瞬間的に全力が発揮される場であるとも言えるでしょう.

hakozakirigakubu1

20cのキャンパスが箱崎元寇防塁(13c)から21cに元岡古墳(7c)へ移転というのも,奇妙な縁です.

22世紀にはどこに引っ越すのでしょうか.
  1. 2017/10/14(土) 08:29:52|
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バスリ

Tokyo 063

寮前の中島屋はそのまま.

Tokyo 070

いっぽう,舐めたコンビニのバスリはなくなって久しい.栄枯盛衰.

ジャパンツアーでちかくのホテルに泊まっていたエ〇ロ〇〇スのメンバーが,いかがわしい雑誌を揃って立ち読みしてたのを想い出します.

バスリのオヤジ,アイスの冷凍庫の上にちょっとでも物を置こうものなら,

「はい,ここは物を置くところではない」

としゃがれた声で注意を促し,物をのけていました.

友人も,「あそこだけは絶対いかない」と堅い誓いを立てた人がいくらでもいました.

バスリのネタを肴に,中島屋で買った酒を飲むといくらでも進みます.

略号表
*バスリ=Number Threeという屋号の家族経営のコンビニ
  1. 2017/10/14(土) 07:40:14|
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学内カースト









最初に立てた上流エリアの工学系の建物は、かなり立派。

丈夫そうだし、格好もいい。

しかし、坂を下り、後になるにつれ、下に行くにつれ、どんどん安普請になっている気がします。

気のせいでしょうか。

谷の最下が教養エリア。

ここは、かなりの安っぽさです。

オープンな空間といえば聞こえは良いが、要は安く上げるための、ただのふきさらし。

しかも(api ca)、ディテールのひどさは、呆れるレベル。

鳩除けか鳥避けのためでしょうか、後から外枠に取り付けられたらしいトゲトゲが悲しく、そして、汚らしい。

渡り廊下の屋根も、流石に無いと糸島半島の過酷な風雨には不便というので、後からのものだったはず。

新しいのに遠目にも更にチープに見える文系ビル群は、谷底の道を渡った、逆側の丘の上。

下流民の悲しさ。ザ安普請。

四姓制度を思い出しました。或いはベナレスのガンガーの誰も住まない対岸。

にしても、丘を平らにする金もなく、結果として背後から見れば半分地下風になる図書館は、かなりの湿気になる気がします。書庫とか大丈夫なのでしょうか。

果たして、22世紀まで、この文系の安普請建設物は残存してるのでしょうか。

諸行無常は世の習いとはいえ、かなりの刹那滅ぶりを証明してくれる気がします。

うちの研究室は6階に入居予定です。

人数に対してエレベーターの数とか足りるんでしょうかね。

待つくらいなら歩いたほうがまし、とかいうことになる気がします。

健康のためには良いかもしれません。

年寄りの膝には堪えます、、、

「でも、移転したら、研究室も、今より広くなるのでしょ?」

と聞かれますが、正解は、

「今より狭くなります」。

広大なスペースを求めて田舎に引っ越しても、駐車場は有料、そして、専有スペースは狭いという、結果だけから見ると、よく分からないことに。

「え、じゃあ、なぜ移転?」

と聞かれますが、知りません。

大昔に決定されたようなので、その当時の意思決定責任者、皆さん、とっくにいません。

どーせ、いいことばかりを語っていたのでしょう。

まさか、「みなさん、是非、狭い場所に移りましょう」と説いて回ったとは思えません。

今日、バスの後ろの学生が「俺、定期じゃなかったら、家から交通費、往復2000円だぜ」と言っているのが聞こえました。

「定期取れるまでの3日で6000円だったよ」とも。

入学早々、伊都国の遠さを恨むことになるのも当然かと。

防人の歌か、貧窮問答歌でも、ひねれそうです。
  1. 2017/10/07(土) 22:48:34|
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理系の方



  1. 2017/10/07(土) 16:55:21|
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トゥクトゥク・レボリューション



タイ風なのに、タージマハル?

という突っ込みしたのは、私くらいだそうです。

濱岡さんのブース。
  1. 2017/10/07(土) 16:51:45|
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ito campus

  1. 2017/10/07(土) 16:50:04|
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ドーサ

  1. 2017/10/07(土) 16:49:17|
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文系棟

  1. 2017/10/07(土) 16:48:32|
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北も南も




ビリヤニがよく出てました。

次にドーサ。

パッバッジ頼んでるのは、インド人くらいでした。
  1. 2017/10/07(土) 16:46:16|
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バングララッシー



バング~らっし~ではありません。
  1. 2017/10/07(土) 16:44:07|
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タイ、アイスティー


  1. 2017/10/07(土) 16:42:55|
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インド人留学生ブース

  1. 2017/10/07(土) 16:41:55|
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パニプリ

  1. 2017/10/07(土) 16:41:04|
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パッバッジ

  1. 2017/10/07(土) 15:36:03|
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pāṭhyamānāni

今期は充実の読み会ぶりです.

PDの眞鍋博士(早大,PD)とはマドゥスーダナサラスヴァティーのパラマハンサプリヤー,いわゆる後期ヴェーダーンタ,バーガヴァタプラーナの冒頭偈への注釈,四ヴィユーハを説明し終わって,これから,ナーラーヤナやクリシュナの立ち位置を確定するところ,

ナングロガル5


須藤君(DC1)とはジャヤンタのニヤーヤマンジャリー,詭弁・討論術,

ナングロガル3


学部生の濱岡さん(B3年)とはクリシュナヤジュヴァンのミーマーンサーパリバーシャー,聖典解釈学の綱要書なので楽ちん,昔は全体をほぼ暗記してましたが,さすがに忘れてました,

ナングロガル4


佐藤君(DC2)とはカマラシーラのTSP,一切智者批判・擁護,後得清浄世間智や十地がどうのこうのと解説中,

マルハバ2


斉藤博士(京大,PD)とはマンダナミシュラのヴィディヴィヴェーカ,印哲の中でも最も難しいテクストの一つです,命令論,iṣṭābhyupāyatāを願望法動詞語尾の意味として認めた場合に,では,定期祭(nityakarman)をどのように説明するのか,という山場に入りました.プラバーカラの見解を知らないと無理です.

ポラポラショクドウ1


Ham博士(ミシガン大,Robert Ho Family Foundation Fellow)とは清弁の中観心論,こちらは英語ミディアム,

Vienna 530


いずれも,興味あるものには,他の人も参加.

須藤君との読み会の,しかも,いわゆる「六主張論議」の箇所を読む会に,結構な数が参加しているのには驚きました.

マニアックなオタク向けの内容なんですが.

Ham君も興味があったらしく,英語とちゃんぽん授業.

Vienna 529


さらに,春先には海外からビッグな若手研究者が短期で来福予定.

何か一緒に読む予定です.いま考えているテクストは,泣く子も黙る〇〇〇です.

筑女の川尻博士もそのうち誰か短期で呼ぶようです.



福岡も意外にサンスクリット語の諸音素が,音響(風原子の結合分離)を通じて,頻繁に開顕されています.

そして,先行音素から生じたサンスカーラを伴った最終音素,あるいは,潜在印象を通じて全体として想起された諸音素から成る単語から,表示連関モデルにより,あるいは連関表示モデルにより,あるいは,その他のモデルにより,文意が理解されています.

ちなみにジャヤンタによれば,文意理解も語の持つtātparyaśaktiに起因します.

なお,後期水曜3限は,斉藤博士の「わくわく印哲講義」も非常勤枠で正規授業として開催中.
  1. 2017/10/07(土) 10:07:59|
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punarutthaanakaale

後期の開始となると想い出すのが昔のY助手.

わたしがまだ学部の頃でした.

「ち,しょーがねーなー」

と,うちの助手のTさん.

「どうしたんですか」と聞くと,「また,来てねーよ」とのこと.

どうやら,隣の研究室のY助手が大学に来てないとのこと.

そして,どうやら,休みがあけて新学期が始まると毎回,1週間も2週間も来ないのだそうです.

新学期の憂鬱というやつです.(下宿は大学の近くなんですけど.)

気が効くT助手は,学生のためにわざわざ研究室をあけてあげたり,あるいは,締め切りが迫っている事務を代わりにやってあげたりしていました.

外から聴講にやってきていたご高齢の名士F氏が,よく,研究室の前でY助手を待たれていたのも想い出します.

「しょーがねーなー」というT氏も,「まあいつものことですから」というF氏も,怒った風ではなかったですから,これも,Y助手の人徳でしょうか.

お得な性格です.

醸し出す雰囲気というのは,そうそう簡単に真似できるものではないですから.

そういうのを見ると,インドの昔の雑誌が3~4年間をまとめて1号にしてたり,ひどいのになると10年間をまとめて1号にしてたりするのも,まあ,ありかなと思います.

みんな,事務さぼってたんですね.

というわけで,日本の雑誌も,きっちり毎年1号出さずとも,インド的には1~2号くらいの飛ばしがあっても許すべからざるや.

インド的寛容の精神からはそう思いもします.

いっぽうで,仕事きっちり,5分前集合の日本的風土に育まれた身としては,「ちゃんとしてよ」とも思います.

ともあれ,学部の頃は,こんな生き方も許されるのかと衝撃を受けたのを覚えています.

その後インド旅行やインド留学で受けることになる衝撃に比べれば,何ということはないレベルですが.
  1. 2017/10/05(木) 20:31:35|
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closed Mandala

年を取ると新しく学ぶということが難しくなってきて、

閉じた円環の中でぐるぐる同じ所を回っている、

ということが多くなります。

意識的に、どこかに風穴を開けて外に出て行かないと、

知的な成長つまり学びがなくなってしまいます。

そのことを感じるのは、

1.校訂や和訳をしていて分からないことがでてくるとき、

つまり、自分の知力範囲の限界を知り、強制的に新たな事項を学ばせられるとき、

2.学生に教えていて強制的に学ばせられるとき、

でしょうか。

自分が修論で扱ったテーマ、あるいは、博論で扱ったテーマを、その後もずっと追い続けるというのは、それはそれで重要なことですが、しかし、同じテーマに安住すると、自身の成長は期待できません。

教授資格論文のハビリタチオンが博論とは全く違うテーマじゃないといけないというのは訳あることだと思います。

自分の分かる範囲で資料の一部を切り取ってきて、それをつないで論文にするだけだと、自身の成長はほとんど望めません。

和訳研究が斯界に少ないのは、実際には、実力がばれるのが怖いから、というのもあるでしょう。

和訳を見るとすぐに実力がわかります。

校訂テクストも同様です。

自分の閉じた円環の中でぐるぐる回っていると、見たくないものは見えないし、聞きたくないものは聞こえない、という状態に陥ってしまいます。

どこかの大統領ならずとも、年取ると、人間、そんなものですが。

他人に改めてファクトを指摘されるのを待つしかありません。

恥かかないと学びはないですから。

逆に言えば、無恥と無知は最強です。

マンダナやシャンカラによれば、現象世界の根本は無知だそうですから、いずれにせよ、悪あがきの程度が異なるだけですが。
  1. 2017/10/02(月) 20:13:58|
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kaesemaatra



「チーズ撮ってもいいか」

「いいよ」

で、ポーズ撮ってくれたので、人も。

チーズだけを撮るつもりでしたけど。

すごい感じの良いにいちゃんでした。

「一緒に撮るか」

とも言ってくれました。

が、ナイン、ナイン。

パルメザン、100で2.69ですか。安い。
  1. 2017/09/26(火) 01:28:22|
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samaaptih



朝から集中.

良い調子で進みました.

なんとか目標箇所まで読了.

ちかくでシュタインピルツのタリアテッレ.
  1. 2017/09/24(日) 23:11:24|
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カルメリターマルクト



研究所に行く途中のカルメリターマルクト.

土曜日の今日は市が立っていました.

野菜,果物,肉のほか,チーズ,蜂蜜,ワインなどなど.

きょうは珍しく午前は秋晴れ.
  1. 2017/09/24(日) 04:59:22|
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pinda





現在,研究所にいる日本人四人(M,W,K,S)と、アウガルテン近くで会食。
  1. 2017/09/24(日) 04:54:37|
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