Pratibhanusarini --- 九州インド哲学ブログ2

On Indian Philosophy and Buddhist Studies

九大箱崎赤煉瓦

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  1. 2017/01/15(日) 23:14:44|
  2. 未分類

Girimukha House

  1. 2017/01/15(日) 13:32:37|
  2. 未分類

もしも一切智者だったなら

不浄な汚い汁までダイレクトに感じることになってしまう,とクマーリラは批判します.

一切智者とは「全てを知る人」のことです.

全ては,まさしく全てですから,ダルマとアダルマという宗教的真理だけでなく,髪の毛,体毛,ガンガーの岸の砂の数など,いろんなもの「全て」を含みます.

当然,その中には「不浄な液体」も含まれます.

しかも,一切智者は,それら全てをダイレクトに知覚で知るわけですから,不浄な汁・液体を直証・直覚するわけです.

すると,膿や尿,経血,さらには酒といった,その当時のインド宗教界で不浄とされていた液体まで,ダイレクトに感じていることになってしまいます.

そういう趣味の人や健康のために飲尿している人ならともかく,世尊と呼ばれる人,その方が,尿を直接に味わっているということになってしまうのです.また酒をダイレクトに味わっていることになってしまうのです.

誰がそんな一切智者を想定するだろうか,とクマーリラは指摘しています.

全てを知る,というときの全ては,いいことばかりではない,ということです.

これを膨らませれば,当然,一切智者は,全てを直接に知る(いわば「ダイレクトに見る」)ことになりますから,覗きもしてることになるので,現代なら軽犯罪法で捕まるでしょう.また,火事や虐待など,各種の通報・通告義務も果たさねばなりませんから,結構いそがしくなります.

現代日本だと,全知者になっても悩みは絶えないでしょう.

もちろん,後8世紀の仏教学僧シャーンタラクシタは,クマーリラの批判に対する答えも用意しています.
  1. 2017/01/13(金) 07:04:28|
  2. 未分類

ヴェーダの非人為性と一切智者の存在

どのような教理にも弱点というのはあります.

ミーマーンサーの弱点は,非人為の聖典,という点にあります.

ヴェーダ聖典は,人が作ったものではない,という主張です.

普通,テクストというのは,誰かが作ったものです.

しかし,ヴェーダというのは,代々伝承されてきたもので,誰かが作ったものではありません.

師から弟子へ,ずっと昔から伝承されてきたものです.

始まりはありません.

つまり永遠です.

神が作ったものでもありません.

ミーマーンサーでは,神による世界創造というものを認めません.

ヴェーダは永遠なのです.

このように非人為性ということを,聖典ヴェーダに関して主張するのが,ミーマーンサーです.

しかし,常識的に考えて,テクストというのは,誰かが作ったものです.

つまり,作者がいるはずです.

するとどうなるでしょう.

ダルマ・アダルマという善悪――宗教的な事柄――を説くヴェーダには作者がいる,ということになります.

そうすると,その作者は,ダルマ・アダルマについて,自分で知っていた,ということになります.

つまり,ダルマ・アダルマという宗教的な真理を知覚(直覚)できる人がいた,ということを認めることになってしまいます.

ヴェーダの非人為性ということを突き崩せば,自動的に,一切智者,或いは,ダルマ智者の存在を認めざるを得なくなるのです.
  1. 2017/01/12(木) 18:24:58|
  2. 未分類

「陳那と法称における自証について」について

Ueda, Yoshifumi(上田 義文)
[1955]
「陳那と法称とにおける自証について」『東海仏教』1, 2--10.

[1957]
『大乗仏教思想の根本構造』,百華苑.

上田 1957: 192, n. 5に『集量論』1.10が引かれています.

しかし,yad ābhāsaṁ prameyaṁ tatとあります.

これだけで,このヴァースを正しく理解していないことがばれてしまいます.

正しくは,スペースなしの

yabhāsaṁ prameyaṁ tat

です.

男性名詞のābhāsaが,主格なのに中性で終わっているのを理解できてない時点で,このヴァースの理解は既に覚束ないでしょう.

学部レベルの引っかけ問題でよくあるように,言うまでもなくバフヴリーヒです.

隠れた中性主格のjñānamに係ります.

1950年代ですから,服部先生の偉大なHattori 1968は,まだ出ていません.

基本的な研究があるのとないのとでは大違いです.

Hattori 1968: 29:
k. 10. whatever the form in which it [viz., a cognition] appears,
that [form] is [recognized as] the object of cognition {prameya).



サンホセ州立大のコース教材なのでしょう,一部のPDFが上がっていました.

http://www.sjsu.edu/people/anand.vaidya/courses/c2/s0/Hattori-Dignaga-on-Perception-Examination.pdf
  1. 2017/01/12(木) 08:06:39|
  2. 未分類

ジュニャーナシュリーの形象論

https://www.facebook.com/notes/buddhist-studies-at-mahidol/ratn%C4%81kara-readings-2017-j%C3%B1%C4%81na%C5%9Br%C4%ABmitras-s%C4%81k%C4%81rasiddhi%C5%9B%C4%81stra-with-prof-harunaga-isa/10155495438988032

3月にマヒドンで,ジュニャーナシュリーの有形象論を,ハルが読んでくれるそうです.

JNAの形象論は,最も難解なテクストのひとつでしょう.

テクストも写本ひとつなので,どこまで信用できるか分かりませんし.

貴重な機会になるのは間違いありません.
  1. 2017/01/12(木) 07:29:39|
  2. 未分類

印哲新年会



クマールさんのマイティーガルにて。

卒論修論も無事提出。

教授からのお言葉は「今の時代はPDFで文献揃えられるので、昔みたいにコピーに膨大な時間を費やし高価な本を買って大量の本を常に抱えてカタツムリ生活しなくても、パソコン一台で身軽に自由に遊牧生活できるから、有意義に時間を使える今の学生は昔の三倍できるはず」というものでした。

教授の学生時代は、コピー機が導入したてのころ。

ある先輩は、(文献を読む暇もないくらいに)朝から晩まで,月に20万もコピーしてたそうです。

私も,基本文献を揃える段階にあった修士の頃は,文学部図書館の無風の書架で雑誌をあさり,汗だらだらたらしながらコピーしたのを想い出します.何冊も合冊で綴じた分厚い雑誌だと,よく押しつけないとコピーの真ん中が真っ黒になるので,力を入れないといけないのも,疲れる原因でした.

文献(複写)蒐集の修行は,その後,写本(複写)蒐集へとつながったので,辛い修行も忍辱波羅蜜に役に立ったと言えば役に立ちましたが,若い時の苦労,なければないに越したことはありません.読みたいと思って即PDFで読める今のほうが,よっぽどいいです.

修証一等と言いますが,果たして,コピー作務も悟りと相即するものなのでしょうか.澤木興道風に言えば「コピーする姿がそのまま尊い仏じゃ」!?
  1. 2017/01/11(水) 19:03:16|
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悟った状態で説法できるのか?

仏陀が悟った状態で,つまり,無分別知覚の状態で説法できるのか,という問題は,ミーマーンサー学者クマーリラの『ブリハットティーカー』に議論され,批判されています.それを受けてシャーンタラクシタも議論・反論しています.

昔の日本人も,別の文脈で,つまり,大日如来が法身で果たして説法できるのかどうか,というコンテクストで盛んに議論していたとのこと.

渡辺 新治 1998「自証説法について(II)」
『智山学報』61, 127-141


みんな,悩みどころは同じです.

言語を離れた悟りと,言語を用いた説法のギャップは,仏教の教理的弱点のひとつでしょう.

大日如来に不可能はないはずなので,「法身で説く」と言い切った方が潔いですが,それを言ってしまっては,理屈をこね回す教理家の仕事がなくなってしまいます.
  1. 2017/01/10(火) 19:13:16|
  2. 未分類

しゅうりょう

「終了」と打ったつもりが「集量」と真っ先に変換されてしまいました。

うちのパソコン、病んでますね。(ちなみに、読み癖としては、集量=じゅうりょう)

頭の中も同様だとすると、はたしてこの先、世俗ヴィヤヴァハーラでやっていけるのでしょうか。

「自己認識」も、世間一般では、ディグナーガの言うような意味では使わないですし、、、、

唯識・仏教認識論をやりすぎると、世間の用語法から乖離して、「意味の分からないことを喋る人」になる危険があるかもです。
  1. 2017/01/09(月) 14:38:45|
  2. 未分類

svasaṃvedya

原田和宗氏によれば,『ニヤーヤバーシャ』に見られるsvasaṃvedyaをディグナーガが自説の「自己認識」に巧く利用したとのこと.

さすが,鋭い指摘です.

原田和宗 1997
「愛欲などの自己認識」
『印度學佛教學研究』46-1,190-193.
https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/46/1/46_1_190/_pdf


個我の性質である楽・苦・欲などは,自内証です.各自,自分の心に問えば「ああ苦しい」という感覚があることは,他人に確かめるまでもなく分かります.各自自分で感じることのできるものです.そのことをNBhでは「自分で感じられるもの」と言っただけのことです.

しかし,これを厳密にとれば,ディグナーガが主張する認識の自証へとつながってしまいます.

ニヤーヤの言説をうまく利用して,彼らの無形象認識論とは逆の有形象認識論を主張するのに巧く利用したということになります.

ディグナーガ,お見事.

そして,決して自明ではないその経緯を感じとった原田氏の嗅覚は鋭い.

「愛欲などの自己認識」というディグナーガの一節から,そこに話が着地するとは,仏教内伝統で問題解決を図ろうとする研究者にとっては,予想外だったことでしょう.

含意を取れば「あなた自身,楽・苦・欲などを「自内証」と認めているんだから,知も自証されるということになりますよ」というわけです.
  1. 2017/01/09(月) 09:26:16|
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Ardhagiri South Indian Room

  1. 2017/01/08(日) 19:55:04|
  2. 未分類

ardhajaratiiya


インドなのか中華なのか?
  1. 2017/01/05(木) 19:04:38|
  2. 未分類

非カレーの排除



  1. 2017/01/05(木) 19:02:11|
  2. 未分類

非カレー

  1. 2017/01/05(木) 19:00:20|
  2. 未分類

適量

ハタヨーガ文献はヨーガの準備段階として様々なことを説いています.

その中に節食も言われています.

「カレーブロガー」と呼ばれるかたは,珍しいものを見てついつい注文しすぎたり,また,店をはしごしたりしてしまい、結果,食べ過ぎとなり、それが続くと身体の不調を来すことが多いそうです。

不要な外的欲求に突き動かされることなく,内的な自然欲求に従い,適量を食べるよう注意しないといけません.




婆羅門のサンスクリット学者(パンディット)は,原則ベジタリアンなので,日本人が持つステレオタイプのイメージからすると健康そうに思います.

しかし実際には,ほとんどの人が運動をせずに,油と砂糖を結構とるので,あまり,健康そうな人は見かけません.

たいがい,お腹ぽんぽんで,日本だったら,健康診断で別室に連れて行かれるタイプです.

つまり,「菜食だから健康である」という遍充関係には逸脱があります.(もちろん,これは,「非菜食だから健康である」を含意しません.)

  1. 2017/01/05(木) 18:53:00|
  2. 未分類

ヨーガの和訳の向こう



佐保田鶴治の『ヨーガ根本教典』には『ヨーガスートラ』と『ハタヨーガプラディーピカー』の和訳が収録されています.

訳語もこなれており,一般読者が日本語で読むのに至極便利です.

しかし,こうした研究があるのも,さらにそれに先行する研究の積み重ねがあればこそです.

研究者一人で何も無いところから読みやすい和訳ができるわけではありません.

自分の目に見える結果だけを性急に求めるのは間違いです.

テクスト研究には,まず,写本蒐集という作業が必要です.(例えば写本調査に関するG. ビューラーの報告が参考になります.)

それらは,現在,インド各地の大学・図書館・研究所に保存されています.また,イギリスなどの海外の図書館にもあります.

誰かが何かを集めようと思ったから蒐集されたわけで,勝手に写本が集まってきたわけではありません.

あるいは,「家にあったから」という理由で売却・寄付され,労少なくして写本が集まってくる場合も,図書館側には,インド各地の文字で書かれた写本の奥書を読んで,カタログを作るという厄介な作業が必要となります.

そうして蒐集・整理された写本に基づいて,テクスト校訂が可能となります.(また,校訂者となる個人が各地の図書館を回って写本の複写を取得するに際しては,旅費・複写費など,それ相応の費用と時間とエネルギーとが必要となります.)

次に,出版されたエディションに基づいて,学術的に堅めの,専門家向けの翻訳や訳注研究が作られます.

英訳・独訳・仏訳などです。

ヨーガに関しても事情は同じです.

写本蒐集→テクスト校訂→専門家向けの訳注→読みやすい和訳

写本蒐集を更に溯れば,写本を書き写すという学問伝統保存の営為があったことも忘れてはなりません.

紙,貝葉,樺皮は決して安価ではなかったはずです.

テクストを書き写すというのは,財とエネルギーと時間を必要とする作業です.

また,教え教えられという知の伝承がそこに生きていたからこそ,そのテクストが選び取られ,書き残されたのです.

一般書として意識していたこともあるのでしょう,底本としたサンスクリット本のエディション情報や,参照した先行諸訳について,佐保田は(少なくとも私の持っている版では)書き残していません.

下流にいて,出版本やPDFコピーで楽に結果を享受している我々は,そのテクストがここに至った経緯に,時に,思いをはせる必要があります.
  1. 2017/01/01(日) 11:56:39|
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Love letter from Kāṇādāḥ



新年の朝,自己認識(自証, svasaṃvedana)についてあれこれと考えながら,昔の自分の論考でも読み返そうと思ってパソコンを開けると,アメリカからメール.

「刊本にはkāṇādāḥとあるけど,この読みはおかしいんじゃないか.写本があったらチェックしてくれないか」とのこと.

元旦の朝から,シャーラダーとマラヤーラム写本をひっくり返してチェック.

写本は二つとも,kāṇādāḥ.

写本を見る限りでは,刊本の読みは正しいようです.

すぐに返信.向こうからも即レス.まだ,アメリカは新年明けてないとのこと.

年をまたいでのメールのやりとりでした.
  1. 2017/01/01(日) 11:19:25|
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世界をそのようにデザインした方がいる?



ねじを考えてみましょう.

ねじのように意味あるもの,役立つものは,明らかにそれを作った人,デザインした人がいます.

ねじを作る機械,また,ねじによって作られた車もそうです.

意味あるものには作者がいます.

今,世界の全ては,相互に裨益作用を持つ意味あるものです.

したがって,この世の全てにも作者がいるはずです.




残念でした.

作者(あるいは創造原因)が一者とは限らないからです.

部品を多人数で作ることもありますから,それと同様だとすると,この世界にも多数の神がいた,ということになってしまいます.

たとえ世界の原因があったとしても,その原因が単一である,という保証はないのです.

世界の原因は複数かもしれないのです.

作者が単一とは限らない,というわけです.
  1. 2016/12/30(金) 09:33:15|
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神が全てを知ることはない



未来・現在・過去の三世に渡る世界全ては無限です.

無限というのは「これだけ」という形では計測できない,限りが分からない,ということです.

したがって,「主宰神が無限なる全てを知る」と主張する場合,主宰神はどれだけかその全体量が計測不可能な全てを知るということになります.

その場合,主宰神は「どれだけか」の全体量を知らないことになってしまいます.

つまり,神の全知を証明しようとしたはずが,逆に,神の無知を証明してしまうことになるのです.

要するに,無限を知ることはできない,というのも,無限というのは知り得ないものだから,ということです.もし知れるならばそれは無限ではありませんから.

鎮めの儀礼をしようとしたはずが,逆に,鬼が出現してしまった,という全く逆のことをしでかしてしまっています.

そういえば,昔,授業中に友人が鼻血を出しました.

先生は,「鼻血を止めてやる」と自信満々,首筋をとんとんと叩きます.

友人,逆に,鼻血が止まらなくなってしまいました.

逆効果,というやつです.

むかし,大学院から移ってきた人が,先生に,お歳暮を贈りました.

真面目な先生は,「こういうのはいりません」「こういうことはしないでください」と激高.

これも,逆効果.
  1. 2016/12/30(金) 09:19:47|
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Miyajidake, Fukuoka

  1. 2016/12/29(木) 18:04:42|
  2. 未分類

Mr. Takada's Pasta

  1. 2016/12/29(木) 13:04:23|
  2. 未分類

Mr. Takada's Middle eastern foods




  1. 2016/12/29(木) 12:59:05|
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Osaka Halal Restaurant, Chibune

  1. 2016/12/29(木) 12:56:03|
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Nangloghar, Fukuoka

  1. 2016/12/29(木) 12:51:22|
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106, Fukuoka

  1. 2016/12/29(木) 12:49:40|
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Apfelstrudel, Sailer, Fukuoka

  1. 2016/12/29(木) 12:45:15|
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Tunapaha2 Solaria stage, Fukuoka



  1. 2016/12/29(木) 12:39:59|
  2. 未分類

言葉一元論と認識一元論

「牛」という語は牛という対象を表示します.

「牛」→牛

また,「牛」という頭の中にある認識は,牛という対象を志向しています.

「牛」→牛

このように,認識と言葉とは,同じく,対象に向かっていきます.つまり,対象を持つものと,対象の関係にあります.

対象を持つもの→対象
viṣayin  → viṣaya

「対象を持つもの」という言い方が面倒なので,日本語風に述べるならば,

主観→客観
主体→客体

あるいは

主→客

と言っても良いでしょう.主客の分化などというと,どこぞの禅哲学みたいですが,それと似たようなことです.

さて,主客の二分というと,唯識が想い出されます.「一切は心に過ぎない」と標榜するヨーガ行派は,

把握するもの→把握されるもの
 grāhaka → grāhya

という宿痾を,我々の心の病の根本的なあり方と喝破しました.

これは,基本的には,認識を軸に据えた見方です.

もう一つの「主」(対象を持つもの)である言葉を軸に据えると次のように言えます.

表示するもの→表示されるもの
vācaka → vācya

サンスクリット学者・言語学者のソシュール流に格好良く

シニフィアン→シニフィエ

と述べたいところです.(福田さんは対応するチベット語の訳語を,そのように訳しています.)

これこそまさに,文法学者バルトリハリの言いたいことです.

ちなみに,眞諦譯の『婆藪槃豆法師傳』 (No. 2049)によれば,ヴァスバンドゥは,バルトリハリの師匠のヴァスラータ(婆修羅多)を論破したそうです.

とすると,紀元後400年頃の唯識も文法学も,同じ穴の狢で,両者ともに

主→客

の二分を,心の病だと見抜いていたということになります.

主客未分の状態をヨーガ行者達は認識を軸足に「唯識」と述べ,文法学者達は言葉を軸足に「言葉ブラフマン一元」と述べていたことになります.




ヴァスラータの記事をSATから,そのまま引用すると以下.

新日王妹夫婆羅門名
T2049_.50.0190b23: 婆修羅多。是外道法師解毘伽羅論。天親造
T2049_.50.0190b24: 倶舍18論。此外道以毘伽羅論義破法師所立
T2049_.50.0190b25: 文句。謂與毘伽羅論相違令法師救之。若不
T2049_.50.0190b26: 能救此論則壞。法師云我若不解毘伽羅論
T2049_.50.0190b27: 豈能解19其深20義。法師仍造論破毘伽羅論
T2049_.50.0190b28: 三十二品始末皆壞。於是失毘伽羅論。唯此
T2049_.50.0190b29: 論在。
  1. 2016/12/29(木) 11:19:16|
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部分と全体

インド哲学で部分と全体と言うと,原子論(極微論)のことか,と思われるかもしれませんが,言葉に関しても,部分と全体という視点を用いて議論が進められることがあります.

音素と文という対立があることを見ました.

通常,言葉には三つの単位があるとし,それらを巡って「意味理解」が議論されます.

音素であるg
語であるgauḥ


です.

そして,音素が意味を理解させないのは自明なので,語意と文意とが,どのようにして理解させられるのかが問題となります.

音素
語→語意
文→文意

当然,ニヤーヤやミーマーンサーのような部分先行主義者たちは,音素からどのようにして文意が理解されるのかを説明します.

ミーマーンサーでは,ごくごく常識的に,次のステップを考えます.

音素

語→語意
   ↓
  文意

音素の集まり(g-au-ḥ)が語であり,語から語意(「牛」)が理解され,語意(「牛を」「連れてこい」)の組み合わせが文意(「牛を連れてこい」)となります.

逆に,文法学のような全体先行主義者は,文が基本単位であって,それ以下は仮に分析抽出されたものだと考えます.

(音素)
(語スポータ→語意)
文スポータ→文意

さて,部分と全体ということを言い出すと,極端な人は,次のような問題を指摘することができます.

部分には部分があるはずだ.なぜ音素で止まるのか?音素の部分を考え,さらに,その部分にも,さらなる部分があるはずだ.

あるいは,

全体にはもっと大きい全体があるはずだ.なぜ文で止まるのか?

音素論者に対しては,音素より小さい単位があってもいいのではないか,という問いかけが成り立ちます.原子でなぜ止まるのか,もっと小さい単位があるのではないか,という問いかけと同じです.

また,全体先行主義者の文スポータ論者に対しては,文より大きい単位,パラグラフ,文脈,一著作,この世の言語的テクスト(発話)全て,というように極大を求めることができます.

常識的に考えて,音素より小さい単位を考えることに意味はありません.

というのも,有意味な単位である語gauḥの部分である音素gより小さい単位を考えることは普通ないからです.

いっぽう,常識的に考えても,この世の言語的テクスト(発話)すべてを考えることは可能です.

それらは有意味です.

文→文意
パラグラフ→意味
文脈→意味
著作→意味
全てのテクスト→意味

文法学者は何と答えるでしょうか?

忘れてはいけませんが,バルトリハリのような文法学者は,言葉ブラフマン論者ですから,「まさにそのとおり」と答えます.

それどころか,意味まで含めて「言葉ブラフマン」なる一元だ,と考えます.

つまり

「全てのテクスト→意味」

という総体の全て,つまり,この世の言葉と意味の全てが,一元なる言葉ブラフマンだと考えます.

もちろん,「真実には」という限定付きですが.

常識的には,人は文という単位を用い,語を単独で用いることはありません.

通常,「牛!」「牛!」だけで意思を疎通させることはありません.

「牛がどうしたの?」と言われることでしょう.

動詞をつけて一文を完成させます.そこで聞き手の期待は鎮まります.

また,(インド哲学の考え方では)幼児は,文から意味を学んでいくと考えられています.

文と文意理解(そしてそれに沿った行動)の観察から,足し算・引き算という抽出作用を経て,語意を割り出します.

したがって,日常レベルでは,文という単位を基本と考えるべきだ,というのが文法学派の常識レベルでの見解です.

もちろん,真剣を抜くならば,「言葉ブラフマン一元論」ということになりますが,それは,究極レベルにおいての話です.

ゲシュタルト心理学のように,全体が先行するのだ,という心理学の発見を待たずとも,文という全体が先行するという考え方は非常に魅力的です.

「予測変換」という考え方は現代では画期的ですが,確かに,我々は,gを聞いた段階でも既に語全体を予想しながら,さらに,gauḥという語を聞いた段階でも,文全体を予測しながら,相手の話を聞きます.

「g」という音を聞いた段階で,すでに,「牛」という語スポータ全体を理解する場合は大いにありますし,さらには,「牛を連れてこい」という全体を予想できる場合だって,たまには,あるでしょう.

あとは,確信を高めていく段階です.

文法学者は,宝石鑑定士の比喩を用いて,全体先行主義を理解させようとします.

最初に見た段階で既にある程度のぼんやりとした予想が宝石鑑定士にはあります.

あれこれと調べて何回も見ますが,それは,最初の確信を高めていくためです.

つまり,最初から全体が,ぼんやりとではですが,見えているのです.

最後に100%の確信で,「ルビーだ」「ダイヤだ」と断定します.

音素(あるいは音響という空気の動きである風)から語スポータや文スポータという基本単位を理解するのも同じようなものだと考えることができます.
  1. 2016/12/29(木) 10:39:04|
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時間幅のある諸部分と,無時間的な単一の全体との間の溝を埋めるには

「言葉」と言われるものは具体的には何なのでしょうか?

それは個々の音素という部分に還元できるものなのでしょうか,あるいは,「語」や「文」として我々が単純に理解するような,不可分・単一の全体なのでしょうか?

まず,ここでいう言葉とは,意味を理解させる原因となるものです.

例えば煙は,火を理解させる,という意味では,対象理解原因ではありますが,それは,今の文脈では問題になりません.

意味理解原因としての言葉,それを聞いたときに意味が理解されることになる,そういう言葉が一体何なのかが問題となっています.

伝統的には,この論題は,音素の実在を認める立場と,スポータを認める立場の対論として議論されてきたものです.例えば「スポータ論」などと呼ばれる論題が,それにあたります.

ニヤーヤやミーマーンサーは要素還元主義を取るので,最終的には,音素を言葉の実質とします.(ニヤーヤでは音素という言葉/音声を無常と考え,ミーマーンサーでは音素という言葉/音声は常住であると考えます.)

いっぽう文法学派は,全体が先にあり,要素還元は仮のものだと考えるので,文スポータこそが言葉だと考えます.

語スポータなる単一体も,実際には,文から抽出された部分として,仮のものに過ぎません.

しかし,いま,議論の都合上,語が何か,ということに話題を限定すれば,語は,音素の集合に還元できない全体であるとするのが文法学派であり,逆に,音素の集まりであるとするのがニヤーヤやミーマーンサーです.

要素還元主義と全体先行主義という相反する見方が,ここでは鋭く対立します.

どちらの理論にも長所・短所がそれぞれあります.

語という全体を,個々の音素に還元した場合には,音素の順序や,(常住あるいは無常である)諸音素から全体としての語の理解がどうして可能となるのか,といったことが問題として浮かび上がってきます.

逆に,語という全体を最初に認める場合には,では,実際に我々が認識する諸部分である音素(たとえばg-au-ḥ)がどのようにしてあるのか,あるいは,"gauḥ"という語の全体は,部分のどれから理解されているのか,最初の音素gを聞いたときに既に語全体が理解されているのか,あるいは,g, au, ḥという全ての音素を聞いたときに語全体が"gauḥ"として理解されるのか,などの問題が浮かび上がってきます.

いずれも一筋縄では解決しない問題群です.

時間の幅のある諸音素の連なり(およびその理解)と,無時間的な単一の語(およびその理解)という両者の溝を埋める理論が必要となってくるのです.
  1. 2016/12/28(水) 23:49:41|
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