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Pratibhanusarini --- 九州インド哲学ブログ2

On Indian Philosophy and Buddhist Studies

九州南アジア研究会

日時:2019年11月30日(土) 
   13時30分~17時  

場所:福岡大学七隈キャンパス2号館(商学部棟)

発表者:

池田篤史氏(福岡アジア美術館)
「教主の肖像ーシク教の美術・信仰・アイデンティティー」

石上悦朗氏(福岡大学)
「インド経済論と地域(地方)・社会研究の接点――かなり限られたレビューから」
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  1. 2019/11/13(水) 08:08:06|
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悠久の時間

皆で集まって国際シンポをしたのが2012年.

わたしの場合,英語発表ということもあり,発表の時から,完全原稿を用意していました.

そのあと,あまり改訂することもなく,さっさとプロシーディングズ用に提出したのがいつだったでしょうか.

それから一切音沙汰なし.

最初から数えると,それからはや7年.

ようやく最終校正が送られてきました.

おもに英語を直してくれたもの.

ちゃっちゃと見て,一部,コメントにしたがって追加をして,即日返送.

あちらこちらに悠久の時は流れているようです.

もう出ないものとすっかりあきらめていましたが,まだ,編者に出す気はあったようです.(参照に不便なので、ほかのところから出そうかとも思いましたが,それも面倒なので,そのまま放置していました.)

異熟の時が長い場合もあり,業が無に帰することはないとの教えでしょうか.

牽果から与果まで,さすがに長いです.

しかし,いままでの調子でいくと,本が本当にでるのは,いったいいつになるのでしょうか.

そういえば,むかし,先輩のKさんだったでしょうか,手紙での将棋のやりとりの話を聞いたことがあります.

一手送っては手紙を待ち,向こうが一手の手紙を返して来たら,こちらが二手目の手紙を返送.

なかなか優雅な文通将棋です.

いまさら業績数を稼ぐ必要もないので私の場合は別段困りませんが,若手には悠長&迷惑な話です.
  1. 2019/11/10(日) 12:44:06|
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伊都



平屋の文系食堂。

昔のバラックと比べると建物は雲泥の差。

提供される食事はどっか遠くで作られたかのような味気ないのを温めたか解凍したかような、在宅介護用の弁当と50歩100歩のおよそ火の存在がその場には推論されないような代物ばかりですが、近くにはここしか選択肢がないのでありがたくいただくしかありません。

合掌。

輸送が便利になるとこういう帰結が待っているということかもしれません。

ガーンディーやイリッチの言うことにも一理あります。

当然ですが、ジロー風スパなど、過去の遺物。

その場での火の調理が必要なメニューは存在しません。

学食とはそういうものなので、まあ、定義通りかもしれません。(その場でガンガン調理してくれるマヒドンの学食とはえらい違いです。)

上がる煙は麺類の水蒸気ばかり。

煙の存在がサンディグダアシッダです。




  1. 2019/11/09(土) 09:21:25|
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ナビさん



マトンビリヤニ800円税込。

この近所、他に選択肢が少ないせいか、日本人(九大関係者しか存在し得ません)の姿も増えている気がします。

このマンション一階、左から、スクーター屋、うどん屋、ナビさんハラール、キンコーズ、オシャレ洋食屋。

需要と供給。

うどん屋に入っていってた工事関係者も飽きたのでしょうか、たまにナビさんに入ってくる人もいます。
  1. 2019/11/09(土) 09:11:53|
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Fukuoka, Umi-Mogura



ポラポラの並びにある海モグラ。

唐津に行ったので、唐津つながりでここに。
  1. 2019/11/05(火) 20:20:59|
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Karatsu kunchi









  1. 2019/11/05(火) 08:01:36|
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Karatsu



















  1. 2019/11/04(月) 23:43:40|
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Marhaba

  1. 2019/11/03(日) 21:40:29|
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タイフェス





  1. 2019/11/03(日) 21:39:54|
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与えるということ



ティルパティでは寺院にお世話になった.

寺院といっても,日本で言う「講」の宿泊所のようなものである.

お寺には,信者さん向けの宿泊施設が附属している.

信者は毎日あちこちからくる.

週末ともなれば一杯である.

かれらは,ティルパティ市内から出発して一時間ほどバスに乗った山頂のティルマラにある黄金寺院にお参りに来る.

金持ちの商売人が遠くボンベイなどから泊まりがけてやってくる.


すごい金持ちが来たときなどは,お寺に住まう学生たちもざわざわしている.

「あのひとはすごい金持ちだ」などといううわさでもちきりである.

しかも,そのお金持ちさん,学生に10ルピー(当時で35円)ずつ配ってくれるという大判ふるまい.

みんな一列に並んでいるので,何を待っているのかと思って私も並んでみると,いきなり10ルピー札をくれるではないか.

「いや,いらない」と言うと怪訝そうな顔のお金持ち.

「なんで?(貧乏な)学生なのに」という顔である.

ともあれ,わたしは貰う気はないので列からすぐに離れる.

10ルピーに興奮した友人たちも口々に「もらっとくもんだ」という.

なるほど,バラモンなら,つべこべ言わず,くれるもの(布施)は貰っておくべきなんだなと,この時学んだ.

まあ,別にわたし自身はバラモンでもないので,どうしようが勝手だが,さすがにバラモン学生にまじって勉強している以上,無用な軋轢は避けるべきである.

「次は貰うぞ」と思ったが,次の機会が訪れることはなかった.


ちなみに,施してもらう機会をもったのは,これだけではない.

ある時,ひどい風邪で病院にいき診察を受けた.

小さな町医者である.

お医者さんはさすがに立派な人が多い.

「君は外国からきた学生だ.大変だろう.診察代はいらないから」と言ってくれた.

診察代といっても,日本円にしてしまえば大したことはない.

100円ほどである.

しかし,ティルパティの学生にとり100円は大金である.

学生達は,月々700円の奨学金で生活している.

お寺に住んでいる学生は,昼と夜の食事が無料である.

普段の生活にお金はかからない.

そのほとんどをビハール州の実家に送っている人もいた.

100円が学生に重いのは当然である.

「たかだか100円だから,おごってもらわなくてもいいんだがな」とも一瞬思ったが,その好意を無駄にすまいと,お礼を言って病院を後にした.

体が弱っていたのでいちいち反論するのが面倒くさいというのもあったかもしれない.

いま考えても,素直に受け取っておいて正解だった.

くれるものは,ありがたく,かつ,気持ちよく貰っておけ,ということである.

そこに重荷(債務)を感じる必要はない.


ティルパティの寺院は,昼夜食事つき.

学生は通常,相部屋.

来印当初,わたしも相部屋で,4人と一緒に,ゴザの上で楽しく寝泊まりしていた.

しかし,さすがに日本人の体力で,5人雑魚寝は無理だった.

来て一週間で,ひどい病気になった.

寺院の当主(スワーミー)の計らいで,特別に個室にしてもらった.

当主というべきか住職というべきか,彼は,宗教者でもある.

独特のオーラがあり,とても寛大だった.

まったく見ず知らず,無縁の日本人学生を親切に5カ月も泊めてくれた.

オールフリー.

学生だからである.

そこに何らの負担も感じる必要はなかった.

学生だから無料で当然という感じで皆泊まっていた.

わたしのほかに,サンスクリットの学生はビハールから2人,オリッサから4人,UPから1人.

その他,近くの総合大学の理系学生が2人.

その費用を支えているのは,お参りにやってきては多額の寄付を置いていく信者さんたちである.


日本で生活していると,どうも,他人に恵んでもらうことに負い目を感じる.

実際,相手も恩返しを期待している風がある.

布施文化が薄いからであろうか.

他人の世話になるというのも同様である.

ただほど高いものはない.

与えるという行為,すなわち,ミーマーンサーでいう所の「自己の所有権を放棄して相手のものとすること」は,神とのやりとりである祭祀行為(祭式ヤーガや,献供ホーマ)の本質的な部分である.

財のやりとりが社会生活において最も重要なものであることは疑うべくもない.

それは儀礼とても同じである.

「借りたものは返す」というのは倫理の最も重要な部分である.

神様とても,その法則に従うからこそ,人々は護摩をするのである.

しかし,そうでない心のメカニズムもあるということである.

今風に言えば,皆で支え合うシェアのシステムということである.


森を育てるには時間がかかる.

いまや満開のインド工科大学IITも,創立は1951年に遡る.

いっぽう,植林するどころか,「自己負担」「自己責任」「受益者負担」という新自由主義の論理を掲げて,学生からも金を巻き上げようと虎視眈眈の当今某国.

さもしいというべきか,貧しいというべきか.

30年後がどうなるか,火を見るよりも明らかであろう.

矢内原なら「滅びよ」と言うだろうか.

まあ言われずとも滅びる気がする.
  1. 2019/11/02(土) 10:27:46|
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研究史を振り返る意義



大きい論文,つまり,修士論文や博士論文を書く際には,オリジナルではなくても,やはり,研究史,つまり,これまでの先行研究を振り返るという作業は,ある意味,必須です.

別に,オリジナルの意見を開陳する必要もないのですが,しかし,場合によっては,研究史の研究が少ない場合には,自分で研究史の筋道を立ててやる必要がありますから,この場合は,オリジナルの視点を打ち立てることになります.

しかし,オリジナルかどうか,あるいは,それが穏当か否かはさておき,とにもかくにも,研究史を振り返るというのは,来し方行く末を占うのに,また,自分の研究の位置を明らかに示すのにも(そして自覚するにも)勉強になるので,非常に重要です.

あらゆる研究というのは,ある流れの中にいますから,その流れをできるだけ客観的に,つまり,自分から幽体離脱してもういちど自分を俯瞰するためにも必要です.

通常は,せいぜい,「これまでのミーマーンサー研究」程度のレベルで俯瞰したり,あるいは,もうちょっと細かく「これまでのクマーリラ研究」というように絞ってやったりと,その範囲は色々です.

これが大きくなると,「本邦のインド学を振り返る」「本邦のインド仏教研究を振り返る」さらには「本邦の明治以後の仏教研究を振り返る」などとなったりします.

さすがに一人の手におえるものではないでしょうから,みなで手分けする必要があるでしょうが.

研究史を振り返る意義というのは,すでに述べたように,自分の立ち位置を示すという目的に資することになります.

そのほか,細かく研究史を見ていくと,成功する研究スタイル,失敗する研究スタイル,学ぶべき研究スタイルというものが,おぼろげながらに見えてくるという効用もあります.

その当時の(いまから見れば不毛な)論争を客観的に眺めることができます.

どちらが正解か,或る程度,いまから振り返ればわかるわけですから,間違った人の主張を間違ったものとして(いわば幻覚を幻覚として醒めて見直すように)見直すことができ,どうして,こんなことになるのか,客観的に眺め返すことができます.

これは,熱狂を共有する同時代ではなかなか難しいことでしょう.

同時代にいると,えてして,調子のいい論調や,声の大きい人の主張に耳を貸しがちです.

しかし,ありがたいことに,時間というざるは,真実(らしきもの)だけをふるいわけてくれます.

その当時にも,おそらく,(結果として)御用学者的(しかし本人はそのことに無意識的でいたって真剣)な人の調子のいい主張は,あれこれあったことでしょう.

いまではすっかり無用となったもの.

そんなものも,いまから振り返れば冷静に眺めることができます.

しかし,その当時は,きっと違ったことでしょう.

そんな中から今まで生き残ってきたものが何なのか,いまのいままで有用な研究というものがどういうものなのか,今からなら,それを醒めた目で眺めることができるようになります.

我々の場合,それは,全人格的な直接・純粋の体験などといったものでもなく,主体的な取り組みといったものでもなく,あくまでも,実証的・文献学的な研究だったということです.

地道な積み重ねが可能なスタイルです.

全体だけが存在するのか,部分だけが存在するのかという対立でいえば,後者のアビダルマ的な立場です.

ディシプリンとして,直接経験などといわれても,どうやって学生に伝えるのか,わたしには不明です.

こういうのは,個々人の力量によるところ大なので,まったくその人の個性によるものですから,放っておいても,勢いのある人は好きにやることでしょう.

文献をコツコツ読むというような面倒な作業に身を任せるよりも,まず,自己を主張し,自我を打ち出したいような,声の大きい人はどこにでも常にいるものです.

教える必要があるようなものではありません.というか,そういうのは教えることが不可能でしょう.

哲学者のいう「哲学センス」というものが,実際,教えてどうなるものでもないと同じです.(教えられないものを哲学センスと定義しているからでもありますが.)

サンスクリット文献の場合,哲学科で言われるような「哲学センス」というものは,さほど必要とは思われません.

それよりも,地味に語学に取り組める姿勢のほうがはるかに重要です.

なまじ頭がいいと,文献講読の訓練に飽きたり倦んだりしてしまうことでしょう.

サンスクリットの哲学文献を読めるようになるにも,まずは,石の上にも三年で,それくらいは我慢しないと,独り立ちはできないでしょう.

昔の論文を読むと,本人の中で全体が十分に消化されすっきりと体系だっていて,いかにも頭良い感じがするものがありますが,あのようなスタイルは,模倣してできるようなものではない気がしますが如何.(そして,そのような人の学風については,むしろ,継承する人というのがいない気がします.)

いずれにせよ,自分のできることをする,という大原則から言えば,そのような(備わっているかどうか怪しい)センスに頼ったバルトリハリ風の全体論的な学風よりも,地味にやっていけば皆でなにがしかを達成できるという経量部的な存在論(集まった個々人が全体として持つに至る何らかの結果産出能力)に立つ方が得策の気がします.

したがって,研究コミュニティーというのは重要になります.

突出した個の力よりも,チームプレイというような,なにやらチームスポーツのような話になってしまいました.

悲劇的なヒーローが,逆境の中,ひとりで敢然と立ち向かうというような,カルナ的なドラマも好きですけど,大学で推奨すべきものでもないでしょう.(そういう人は,生まれながらに鎧を身に付けてないといけませんし.)
  1. 2019/11/01(金) 18:53:07|
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「東大仏教学への新たな視座」



ダウンロード

公開されてました。

一色さん、山口さん、ありがとうございます。

こういう研究史は、それはそれで楽しいものです。

自分たちの来し方行く末。

やはり、インド人のインド哲学研究と似た部分がありますね、近代における日本人の仏教研究。

近代におけるインドのヨーガも、やはり、似た感じ。

自分が属すはずの伝統をいかに高く売り込むか、という戦略とも関わります。

にしても、村上専精、結構気合の入った熱い人だったんですね。



東大のリポジトリで一色さんの面白そうな論文が隣にありました。

一色論文

サンガバドラのサンスクリットがないのは、かえすがえすも残念です。

あれば、ダルマキールティに至る仏教論理学認識論の前史を別視線から埋めてくれるでしょうけど。

ともあれ、ネタの宝庫。

漢文にアクセスしてくれる日本語論文があるので、日本語人で得しました。
  1. 2019/10/29(火) 21:25:09|
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インド映画



*ロボット2.0
ガリーボーイ
ホテルムンバイ
*ムットゥ
カーラ
*サルカール
フライイングジャット

10月に福岡で劇場公開、鑑賞したインド関連映画。

ホテルムンバイは合作なので少し毛色が違いますが。

福岡でこれだけ見られるはありがたいことかもしれませんが、日本でやるとインターミッション入れずに3時間弱を通しでやるのには閉口します。

インド映画のインターミッションなしで、エコノミー症候群になったら浮かばれませんが、そこまではないにしても、さすがに腰が痛くなってきました。

こうしてみると、タミルが4本。

しかもラジニが3本。

大◯晋もタミルがこんなに日本で受容される日が来るとは夢にも思わなかったことでしょう。

*の音楽はRahman。

ガリーボーイは秀逸。

ロボットのシャンカル監督のイマジネーションには毎回驚かされます。

ぶっ飛んでます。

昔の彼の作品にカマルハッサンのIndianがあります。

日本でもインドの必殺仕置き人としてかなり後になってから公開されています。

ポンディで大昔にドミニクと見に行ったのですが、会場一杯のタミル人。

英国人というか白人はドミニク1人。

しかも、ドミニクにそっくりのイギリス植民地官吏がぶっさりと仕置きされてました。

私刑礼賛の情の世界。

さすがにすぐに席は立てず、少し遅れてから劇場の外に。

logos無用の情の世界。

タミルと日本で相通ずるところなのでしょうか。

貪、瞋、痴の三毒をなくしたら、結構な数の映画が成立しないでしょう。
  1. 2019/10/27(日) 23:53:46|
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dipavali







5時からとありますが、スタッフがぼちぼち集合するのが6時からですし、式が実際に始まったのは7時半。

N◯Kが取材の様子でした。

いずれわたしも、賃金抑制により企業の内部留保とデフレの持続に貢献する移民のイメージ映像にまぎれてテレビにでてるかもです。
  1. 2019/10/27(日) 22:51:23|
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Tihar







ヴァ◯ュラあたりで盛り上がってた若手グループのやんちゃそうな一団が途中からぞろぞろと参加。

一部はいかにも若者らしく、前左の「不良席」に「かったるいなー」という感じでタバコの煙と共に溜まってました。

しかし彼らも、入ってくるときは、来賓席に居並ぶお偉方の年長者への挨拶は欠かしません。

福岡ネパール人社会のエスタブリッシュト。

若者たちも愛らしい笑顔でペコってました。

年功序列。ヒエラルキー。

一段の中に一際長身のム◯ティさん発見。

いつものようにFBビデオの生中継に熱心な様子。

携帯であっちを写し、こっちを写しと大忙し。

その姿を見ながら自分の携帯に目をやると、自分の姿も彼のFBに流れてました。
  1. 2019/10/27(日) 22:43:45|
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Naanhouse







広いスペースのナーンハウス。

普段使いには広過ぎて持て余してる感がありますが、こういう集会の時には便利です。

  1. 2019/10/27(日) 19:01:11|
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有用性の視座?

自分の興味の範囲内で相手の中に役立つものを見つけ出そうとする態度がどのような結果を生むかは想像に難くないでしょう.

ちょうど,植民地期のインドロジーやインドロギーと同じで,金になるものや統治に役立つもの,あるいは,自分が分かるもの,キリスト教との比較が簡単なもの,あるいは,ロマン主義をかきたててくれるようなものに,研究の熱情は向かうことになるのは明らかです.

相手自身に即してではなく,自分の興味に即すと,当然そうなります.

自分の興味範囲で相手を区切ってしまうわけです.

他人の自分評を聞いて,「はて,自分にはそんな面も確かに有るけど,ほんと,それは一面なんだけど」と思うことがありますが,それと同じです.

一部を切り取って喜んでいるだけです.

全体を捉えるというのは,(ディグナーガ的に考えても言葉をもってしては)不可能かもしれませんが,しかし,あれこれの側面を切り取る前に,自分の興味でぶったぎってしまうのも考えものです.

キリスト教との比較という観点で,自由意志というもので一所懸命インド哲学文献をさらえてみても,たいしたものは出てこないでしょう.

磁石を近づけても,そこに鉄がなければくっついてきません.

そこにないものをやみくもに求めても,くず鉄があつまるのが関の山でしょう.

対象に即して全体を捉える,という態度がまずもって重要でしょうが,現実には,もちろん,パラダイムやらに拘束されて,なかなか客観的に見ることができないのが人間.

それを自覚して,できるだけ対象に接する必要があるのはいうまでもありません.

人の気持ちが分かるというのは,そういうことでしょう.(もちろん,自己認識レベルで人の気持ちが分かるわけはありませんから,人の気持ちが類推できる,ということです.)

ミーマーンサーの研究史というものを見ると,まあ,悲惨です.

比較対象がないので,西洋の知識人にはさっぱり分からない対象ということになるでしょう.

せいぜい,法学の観点から,ちょっと似てるということになりますが,現実には,ヴェーダ祭式の込み入った議論が前提にありますから,ヴェーダ祭祀儀礼の知識が必要になりますが,そのヴェーダ祭祀儀礼がそもそもがインド人にとっても時代遅れのものですから,どこをどうあがいても「役立つ」というようなことにはなりません.

せいぜい,ミーマーンサー由来の諺(つまり判例的な解釈原則)が法律解釈の拠り所として役立つくらいです.

歴史を遡れば,クマーリラしかり,ミーマーンサーの重要性は火を見るより明らかですが,研究が遅れてきた一因には,インドで伝統がすたれていたということもありますが,それに加えて,西洋の知的な網に引っ掛からなかった,ということもあります.

つまり,なんだかよく分からない知的体系がある,ということで,切り捨ててこられたわけです.

サーンキヤやヴァイシェーシカなら,簡単に分かります.

こんな感じの哲学体系です,と一言で説明できます.

ヴェーダーンタも神学ですから,これも,わかりやすいものです.

「神学の一種です」といえば終わりです.

しかし,ミーマーンサーをずばっと捉える表現は,西洋にはありません.

聖典解釈学とはいえ,その聖典が,そもそもが,祭祀儀礼についての聖典ですから,祭事哲学でもあり,聖典解釈学でもあり,判例集でもあるわけです.

タルカパーダだけを捉えれば,聖典擁護の論理であり,一種の「言い訳」でもあるわけです.

どれもこれも,ミーマーンサーという学問の一面でしかありません.

自分の興味と自分の頭でもってミーマーンサーやクマーリラという巨像を捉えようにも,虚像だったり,せいぜい,群盲象の妄像となる次第です.

すくなくとも,最初に,相手の言うことに素直に耳を傾けるという態度が必要でしょう.

文献的な意味での参与観察です.

1年2年3年4年と一緒にいて見えてくるものがあります.

文献も同じことです.

巨大な体系を相手にする場合は特にそうです.

マリアナ海溝を相手にするくらいの覚悟で望まないといけません.
  1. 2019/10/25(金) 19:28:22|
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received: 上野牧生・堀内俊郎:世親作『釈軌論』第5章翻訳研究(2)

上野牧生・堀内俊郎 2018
世親作『釈軌論』第5章翻訳研究(2)
佛教學セミナー 107
92(31)-53(70)

p. 86
vipaṣṭā > vispaṣṭā

p. 76
湿らせるべき(*taṇḍula)>湿らせるべき玄米(*taṇḍula)

*pipāsa > pipāsā
  1. 2019/10/25(金) 08:10:12|
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received: 堀内俊郎:インドにおける『般若心経』注釈文献の研究――ヴィマラミトラ注(1)――

堀内俊郎 2019
インドにおける『般若心経』注釈文献の研究――ヴィマラミトラ注(1)――
東洋学研究 56
165(376)-195(346)

p. 166
今後の議論ための>今後の議論ための

p. 167
上記の文献も適宜参照するとともに>上記の文献も適宜参照するとともに

p. 171
śravana > śravaa

p. 174
百千コーティ>千コーティ

p. 178
New Haren > New Haven

InstitiInstitute > Institute

  1. 2019/10/25(金) 07:56:33|
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合理的な人間?

なあなあとか,あるいは,いい塩梅で,十分ではないかと思いますが,どうも,プラマーナ論者は,つきつめて考えすぎ,の気がします.

つまり,100%正しいか,あるいは,そうではないか,という高い確度を求めてしまうのです.

一種の病気でしょう.

99%正しければ,もう,十分正しいと思うのですが,そのようなものは,絶対にプラマーナと呼びたくないという病気です.

推論が正しいかどうか,というので,一所懸命,「絶対に正しい」「絶対に逸脱しない」などという盲信へと猪突猛進.

そりゃ,無理でしょう.

はなから.

もちろん,そのような無理あるところを一所懸命考えるところに,あれこれと面白い論法が出てきて,議論が発達したので,こういう無理無理の公案にぶちあたることは,決して悪くないのですが,しかし,つきはなして客観的に見れば,「ごくろうさま」としか言いようがありません.

犠牲者がupamaana.

もともとは,「ガヴァヤは牛のようだ」というような比喩にすぎなかったupamaanaですが,プラマーナに100%の確度を求める中で,そのような本来の比喩は死亡,さっさと別のものに置き換えられてしまいました.

ニヤーヤによれば,「これはガヴァヤという名称を持つものである」という100%の確度を持つ認識,つまり,名称と名称所有物との関係の認識が,upamaanaの実質になってしまいます.

identificationの一種です.

なんやそれ,という感じですが,こんなことを真剣に論じるようになったのも,もとはといえば,upamaanaに100%の確度を求めたからです.

ミーマーンサーでもupamaanaをめぐっては,へんなことになっていますが,いまは省略.

で,議論は疑惑と発動.

合理的人間というのは,正しいと分かって行動する人でしょう.

見込みをもって行動する人.

インド哲学用語では,prek.saaを前提として行動する人,というように表現します.

予想をもって行動する,ですから,ある一定の見込みがあってするのであって,やみくもに行動する狂人ではない,ということです.

当然,プラマーナは,行動の成果とつながってはじめて有用なプラマーナたりえますから,プラマーナは正しい,しかも,(彼らの病気のせいで)100%正しい,ということを求められるわけです.

プラマーナに基づいて行動する,とは,100%正しいということが分かって初めて行動する,ということです.

しかし,本当に現実はそうでしょうか?

ニヤーヤ学派ながら,ジャヤンタは,なんと,これを否定してしまいます.

世間では,疑惑からでも行動して問題ない,と.

実際,我々は,多くの場合,100%正しいと信じて行動を開始するわけではありません.

いけるかなー,くらいの期待で行動するわけです.

これは,インド哲学では,疑惑から発動する,と表現されます.(インド哲学で疑惑というと,厳密には,50・50%でしょうが,しかし,6・4割でも,それを疑惑と呼ぶことに問題はありません.すこしでも疑いがあれば疑惑なわけです.彼らには確率という概念は明確にはないので,probabilityということは,ほとんど問題になりません.すこし残念な点です.)

世間的な事柄に関しては疑惑から発動しても問題ない,ただし,ヴェーダ聖典に関係するような大規模な祭祀に関しては,100%の確度が求められる,というダブルスタンダードがジャヤンタの意図するところです.

つまり,世間に関しては,まあ,どうでもいい,ということです.

ただし,世間での事例も,ヴェーダに少しは役立つことになるので,まったく無用ではない,というのが彼の世間の守り方です.

(役立ち方の詳細は省略.)

ともあれ,我々の日常生活において,実は,プラマーナに100%の確度は全然必要ない,ということです(――ジャヤンタによれば).

「手に入るかも」くらいの疑惑混じりの期待で行動を開始,あとから,「あ,やっぱり正しかった」と分かって十分なわけです.

最初から,「この認識は正しいのかどうか」と吟味する必要はありません.

そういう必要があるのは,ヴェーダ聖典に基づく認識だけです.

日常の営為を一種「ないがしろ」にするジャヤンタのこの見方は,仏教から来たものと思われます.

世俗と勝義との二階建てを認める仏教ならば,このように世間の営為を一段低く見ることに全く問題はありません.

疑惑から行動しようがどうしようが,所詮,世間は錯誤に満ち満ちた世界ですから,そんなもので終わって十分なわけです.

疑惑から行動する,と世間をみなすことに問題はありません.(実際,知覚であろうが推論であろうが,いずれも,本質的には錯誤であり,それに基づいて,聖者ならぬ世間の人々は行動しているわけです.)

ジャヤンタの見方というのも,もとをたどれば,このような世俗と勝義の二階建てを,世間とヴェーダとに転用したとみなすことができるでしょう.

経済合理性などと人間を理想化して,あたかも十分に計算して行動するかのようにみなすのではなく,まあ,所詮は錯誤(と錯誤であっても何とかうまくいってる世界)に基づいて生きているのが人間ということです.

もちろん,本質的には錯誤だけど世俗では正しいという世俗諦というものと,世俗でも錯誤でしかない単なる錯誤とは区別して考える必要がありますが,そこはそこで,また別の話.(つまり,勝義と正世俗と邪世俗という三分になります.)

この三分法が,唯識の三性説とパラレル構造にあるのは言うまでもないでしょう.
  1. 2019/10/24(木) 19:21:27|
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文献に揉まれる



インド哲学プロパーの文献の場合,和訳となると,実際はかなり難しいものです.

テクニカルな議論が続きますし,専門家が専門家向けに書いたものであって,一般読者を予想して書かれたものではありませんから,初見でいきなり読めるようなものではありません.

やさしいものも,先生が解説して分かるくらいのレベルで書いてあります.

やさしいというのも,実際には,あれこれの議論を凝縮してるので,逆に,難しかったりします.

つまり,先生が解きほぐして解説してくれて初めて成立するようなものが多かったりします.

入門書も意外に,奥が深かったりするのは,そうした次第です.

独習用の教科書というのは存在しないにひとしいといっていいでしょう.

基本,先生の解説付きで初めて成立するようなものが,いわゆる綱要書の類です.

その口頭での註釈をサンスクリット註に書き起こしたものが,良質のコメンタリーというわけですが,初学者がいきなり,そのコメンタリーを読みこなせるわけもなく,結果として,インド哲学を独習ではじめようとなると,壁にぶつかるわけです.

わたしは幸い,ヒンディー訳やヒンディー註をたよりに勉強を始めることができたからいいものの,あれを,まったく構造の異なる英語にいったん置き換えて解説されるなどしても,非英語人にとっては,訳が分からなくなるだけだと思います.

ミーマーンサーの哲学部分の綱要書である『マーナメーヨーダヤ』は,ヒンディーもありますし,英訳もありますが,あれをわざわざ英訳を通して学ぶというのも,いまから見ると,なんだかな,という気がします.

ヒンディー訳(というか補いのついた解説)はそれほど悪くないので,やはり,ヒンディーがあると楽です.

ヒンディーと日本語は語順が似てますから,そのままのナチュラルな感覚でサンスクリットも入ってきますが,英語でいったん語順がぐちゃぐちゃにされると,「サンスクリットには語順がない」などと言ってしまうのでしょう.

英語やドイツ語でサンスクリットを習っていた(習わざるを得なかった)時代はさぞかし大変だったでしょう.

はたして,どの程度まで,サンスクリットをマスターできていたのでしょうか.

辻のような,すぐれた言語学者(つまり言語感覚の優れた人)ならいざしらず,漢文ばかり読んでいたような人がいきなりサンスクリットを英語・独語を通して理解しようとしても,そう簡単にはいかなかったことでしょう.

結局,サンスクリットを読んでも,すぐにチベット訳に逃げたりするのも,心情は分かりますが,学問的には,そのような態度は首肯しかねます.

サンスクリットはサンスクリットで読むべきであるのは自明です.

で,和訳の話.

和訳すると,実力が露呈してしまいますから,多くの人は忌避することになるでしょう.

なぜなら,論文なら,分かる部分だけ訳せばいいですし,そこだけ取り出して議論すればいいので,取捨選択がききますが,和訳となると,まとまった量を訳すことになりますから,なかには,自分のわからないところまで訳さざるを得なくなるからです.

で,インド哲学の場合,ぽろっと出てくる比喩や参照など,あれこれと奥深いものがあります.

いわゆる「常識」というものです.

それを知らないと分かりませんし,また,あれこれの教養が問われることになります.

そういう部分まで含めて全訳を強制されることになるわけです.

で,実力が露呈.

無知がさらされてしまうわけです.

むしろ,そういう部分が出てくることで,新規情報に強制的に接し,あらたな知見を得て成長することができるのですが,一昔前のものを見てると,たいがい,難しい箇所は「さらっと」飛ばしていたりします.

勉強する気も,挑戦する気も,はなから無いわけです.(いまなら用例検索をかければ,大概の問題は解決するのですが,むかしの人はカードでしょうから,カードをどっさり用意してないと問題解決が難しかったというのもあるかもしれません.)

難所は回避.

難しい箇所を飛ばされたら,後々,それを使う人にとっても意味がありません.

誰でもわかるところを得意げに訳されても,皆がつまるところは飛ばしているのですから,はっきりいって,無用です.

学部時代に使わざるを得なかった先行和訳は,そういう印象を持つことが多々ありました.

いまは,どうせ使っても意味がないので,最初からみませんが.

あったとしても,あとから,論文用にチェックするだけで十分です.

最初から見ても,役立つことがほとんどないですから.(見ても間違い探しになるのが目に見えてます.)

以上はひと昔前の話.

最近の和訳は,水準もあがり,ちゃんとした専門知を備えた人も増えていますから,そういうものも幸い少なくなってきました.

水準というのは,そうして,徐々に上がっていくのでしょう.

スタンダードをどこにもっていくか,というのは重要です.

サンスクリットをダイレクトに(つまりチベットやドイツ語などを介してではなく)日本語に移して理解できるひとが増えてきたということでしょう.

サンスクリットのインド哲学文献を理解するには,語源(特に動詞語根と前綴り)の感覚を備えること,合成語の分解が正確にできること,構文(格関係など)を正しく理解できること,そして,インド哲学の常識を知っていること云々というレベルの異なる知識・勘が必要になります.

残念ながら,独習でこれを身につけた人などというのは見たことがありません.

専門的な訓練が必要です.

頓悟・漸悟でいうと,漸悟あるのみ.

ゆっくりとしか身に付きません.

いい先生について学ぶのが一番楽です.

辞書は英語やドイツ語だったりしますが,それを除けば,サンスクリットを日本語でダイレクトに学べる環境がそろっている現代は,良い時代だといえます.

空海や明恵をはじめ,昔の碩学も,現代をうらやましがることでしょう.

インドにダイレクトにアクセスできるという点では,現代も捨てたものではありません.

明恵がついになしえなかったインド留学も,現代なら,そこそこ簡単にできますし.(長期ビザはまあまあ面倒だったりしますが.)

で,なにが言いたいかと言うと,全訳作業というのは,勉強になる,ということです.

その理由は上に述べたところです.

自分の好きなものばかり食べていると知らず知らず偏食になります.

出された物を好き嫌い言わずに食べることで,でこぼこも直るというわけです.

「社会に出て揉まれる」という言い方がありますが,さしずめ,「文献に揉まれる」ということになりましょうか.
  1. 2019/10/22(火) 18:35:51|
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ユスフザイ





  1. 2019/10/18(金) 22:34:58|
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真理論

ひとつの議論ばかり追いかけるのは飽きるので,あれこれやりたいタイプですが,しかし,中には面白いトピックというのもあり,掘れば掘る程,あれこれと面白い議論が出てくるもの,というものもあります.

そういう議論は,そのために論法が開発されていたり,また,重要な論法があれこれと駆使されていたりと,基本の基本から,応用の応用まで,幅広く議論の練習にもなりますし,もちろん,争点にもなりますから,論争史を押さえるにも適当な事例となりますし,対立点が何かを見るのにも良好な視座を与えてくれます.

真理論もそのひとつ.

クマーリラのチョーダナーが間違いなくその論争の出発点.

誰もここを無視しては通れません.

英語にはなりますが,Kataoka 2011で,当該箇所は,テクスト校訂と英訳と,詳しい訳注があります.

哲学的には,ジョン・テイバーが結構昔に論文を書いており,そこから,ダン・アーノルドやラリーも最近は哲学的議論に加わっています.

テイバー以前には,ミーマーンサーの視点からの真理論など,ほとんどないに等しいか,浅薄な理解しかなかったのですが.(ほぼ,ニヤーヤの他律論の視点からのみ書かれていました.無知の知すらない.ミーマーンサーの自律的真は盲信扱い.無知は怖いです.)

本邦では,志田さんに石村さんと,切れ味の鋭い論文がいくつもあるので,日本語でも十分に基本的な議論を追えるほど整備されてきています.(ひと昔前のサンスクリット学者でこれらの細かい議論を扱ったインド哲学系のひとといえば,宇野先生くらいでしょうか.きわめて例外.)

石村さんのTSP研究は重要でしょう.

仏教論理学の方からも,いわゆるpramaa.nabhuuta関連で,praamaa.nyaについて議論が深まっています.

稲見さんのデーヴェーンドラブッディとシャーキャブッディの研究もありますし.

というわけで,ミーマーンサー,ニヤーヤ,仏教と,三方向から眺める材料はそろっています.

福岡にも遊学にきて,イギリスで博論を出したピーターがその後続けられなかったのは残念ですが.

続けてられれば,より総合的に全体像が眺められていたでしょうが.

材料系の論文という点では,まだまだ未整備の感があります.

とくにウンベーカについては,もっと詰める必要があるでしょう.

意外にキーです.

刊本も悪くはないですが,とはいえ,ベナレス写本をチェックしないことには始まりませんが.

Vラガヴァンは写本しか信用してなかったそうですが,まあ,細かい議論をしようと思えば,刊本を疑いたくなるのも仕方ありません.

南のクップスワーミ周辺が出したテクストは慎重に校訂されており,じっくり考えられてますけど,これが,カ○カッタやらベ○レスやらで,あまり信用のおけない写本で新しそうな数本をちょろちょろ見て適当に作ったやつなど,ひどいといったらないです.

区切りもろくにされてないものが,ごろごろありますし.

まともなダンダ(句点)のないテクストにはダンダ(罰)を与えたいくらいです.

NKusのヴィーラ・ラーガヴァ・アーチャーリヤのサンスクリット註を見れば,もうそのレベルの高さに驚くばかりです.

「現代のヴェーダーンタデーシカ」と言われるのも当然です.

ちなみに,ヴェーダーンタデーシカのセーシュヴァラミーマーンサー,ミーマーンサースートラに注釈しているのですが,ヴェーダーンタデーシカが別の読みを前提としているのに,スートラの先行刊本に引きずられて,スートラの読みが間違っているのに気が付きました.

ヴィーララーガヴァーチャーリヤも,ヴェーダーンタデーシカの理解に基づいて一部は訂正を提案していましたが,もう一部にはさすがに気が付いてないという次第.

スートラ刊本も信用できないようなレベルです.

いやはや.

ちなみに,セーシュヴァラミーマーンサーは,ミーマーンサーをラーマーヌジャ派が囲い込むために(つまり自派に取り込んで権威づけるために)書かれたもので,先行する通常の(つまりヴァイディカなバラモン達の)ミーマーンサーとは全く異質のものですから,これをミーマーンサーの伝統と捉えるのは的外れです.

なんかむかしどこかで,「ミーマーンサーも有神論化した」などという言説を耳にしたことがあったので念のため.

ミーマーンサー伝統それ自体の変容とみなすには無理があります.

ただしくは,ラーマーヌジャ派による取り込みと解釈すべきです.(ヴィシュヌ教のバーガヴァタ派については,ヤームナのアーガマプラーマーニヤや,ジャヤンタのアーガマダンバラを見ると,その当時の位置付けが窺えます.)

もちろん,既に権威の確立したテクストに註釈を書くことで自派の権威を高めるというのはインド哲学文献の常套手段なので,程度問題といえばそうですけど.(現代でも,「~先生は」などと,勝手にビッグネームを持ち出して自分を弟子に仕立て上げて,あたかも自分が正式の継承者であるかのような顔をしている人を枚挙するに暇はないでしょうけど.北斗の拳あたりの見過ぎかもしれません.)

長いものには巻かれるのは,インドも日本も今も昔も同じです.

そういえば私も昔,同窓会の席上,対面で一緒に食事させていただきました,N大先生と.

さすがに誰も真正面に座る人がおらず,最下層で下働きしていたわたしが,最後に座ったのが,ぽっかり空いたその席だったという次第.

「きみは何の勉強をしているのかな」

「ミーマーンサーです」

「ミーマーンサーはむずかしいからね」云々.

矍鑠としてまだまだメンタルな衰えは全く感じさせない会話でした.

あちこち講演で呼ばれるというのは,メンタルの維持にはいいのでしょう.

研究室の誰かがツーショット写真を撮ってくれてどこかにあるはずですが,最近見ないので,なくしたかもしれません.

あるいは,研究室のアルバムがどこかにあるならば,なにか残っているやもしれません.

「どこかにこのXはあるはず」と,隠没経典みたいな議論になってしまいましたけど.
  1. 2019/10/16(水) 08:00:56|
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箱崎サスラリガラ



向かいには、お洒落なイニエスタ



となりの二階はこれまたお洒落中華の青いクマ。



同じビルには美容室。



よく見ると、サスラリの「リ」が「り」の平仮名です。

とすると、日本語的には、サスラる、という意味で、サスラり、という連用形から名詞化しているのでしょうか



ナングロ相場を見習ったのか、2種盛り900円



500円。

軍隊上がりの新人コックは、ヒンディーであれこれと喋ってくれます。

お子さんは双子で男の子と女の子だそうです。

結婚当初のカップル写真も見せてくれました。

「いまは妻はモーティーだよ」と嬉しそうでした。
  1. 2019/10/16(水) 07:37:51|
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二項対立と昇華

Kaalaの場合,背景にある既知の二項対立としては,

白vs黒(=時=死=閻魔)
ヒンドゥーvsそれ以外(この場合は特に新仏教)
ヒンディー(サンスクリット)vsタミル
中央vs地方
北vs南(特にタミル)
バラモンvsダリト(アンタッチャブル)
ラーマvsラーヴァナ(10頭)
浄vs不浄(洗濯etc)
法vs不法(暴力)
非暴力vs暴力
ガーンディーvsアンベードカル
富vs貧困
政治家vs略奪(土地収奪)される下層民
都会の光vs影のスラム
開発vs未開発(後進)
地元民vs国内移民

云々.

ムンバイということもあり,マラーティー要素も若干ありましたが,それを膨らますと複雑になるので,ちょっとだけ.

現実は現実でいろいろあり,これらをドキュメンタリーで描いてもエグくなるだけでしょうが,商業映画として綺麗な映像でラジニを軸に昇華させるところにKaalaの魅力がある気がします.

映像綺麗ですし.

ラジニも素晴らしいですが,敵役ナーナーの迫力なくしては成立しないでしょう.

ジーンズ履いた格好いいスタイルのナーナーのイメージしかなかったのですが,まさか,あんなでっぷりの迫力を出せるとは意外でした.

マサーラー的なお約束で恋愛場面もいれてますが,たるくなるので,もうちょいカットしてもいい感じかも.(女優さんは十分に綺麗でしたけど.なにしろ,もう両人,年取っている設定なので.)

「サルカール」も,恋愛場面がありましたが,かなり削ってテンポがよかったですから,比較して余計にそう感じたのかもしれません.

傘のシーンは何度見ても素晴らしい.
  1. 2019/10/15(火) 08:00:06|
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ISF



















  1. 2019/10/14(月) 22:57:22|
  2. 未分類

イオンシネマ



いつものように,大野城イオンでインド映画上映.

福岡市内ではないですし,車もないと不便なので,さすがにこんなところまで来る人は限定されますが,それでも,回を追うごとに人は増えている気がします.

能天気なヒンディー映画(とはいえ若干の環境問題)に,タミル映画二本の渋いセレクト.

後者は政治(選挙)とカースト.

それにタミル愛.

いずれもアクションが盛りだくさん.

タミル映画は,日本人には少々どぎついかもしれない暴力描写には事欠きません.

ジャヤラリターとカルナーニディのイメージも,いずれ別の顔に変わってしまうのでしょうか.
  1. 2019/10/14(月) 14:44:57|
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ISF









前のおっちゃんコックがやめて,店主が渡印して連れてきたばかりの新しいコック.

背格好が前のオッチャンとほぼ同じなので,ちらっと見た時には一瞬,同一人物かと思ってしまいました.

全然わかいので,まったく違いますが.

たまたまヴィジャイの「サルカール」を見た後ですが,そのコックさん,名前はサルカール.

覚えやすい.

もう一人の背の高いコックはムサルマーンですが,こちらはヒンドゥーだそうです.

ともあれ,万全の二人態勢にもどり何よりです.
  1. 2019/10/14(月) 13:51:28|
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伊都校内



昨年は二日のうち一日キャンセル。

したがって、晴天を祈り、今年のテーマは燦々。

今年は雨はなかったものの、強風につき、2日とも学祭がキャンセル。

燦々は確かに確保されましたが、風までは考えていませんでした。

いっぽう、芸工の大橋キャンパスは問題なし。

伊都の強風が問題です。

15回授業の皺寄せで、11月からこの体育の日前後に移しましたが、やはり、この季節の設定に無理があるのでしょう。

とはいえ、あちらをたてればこちらがたたず、月曜15回の確保が難しくなるでしょう。

しかも、クォーター制導入で今でもギリギリ。

15回厳格化のそもそもは、厚○省管轄下発の余波だったように記憶しています。

伊都移転と15回。

どちらも「合理的」判断の結果なのでしょうけど、そのせいで、こんなところにきしみが生じているのかもしれません。
  1. 2019/10/13(日) 17:08:16|
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春日「印度的香辛料工場」突伽天女供養定食



三連休は、ドゥルガープージャーターリーと題して豪華な定食。

  1. 2019/10/13(日) 16:57:19|
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