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Pratibhanusarini --- 九州インド哲学ブログ2

On Indian Philosophy and Buddhist Studies

サンスクリット哲学文献の難しさ

まずは作者の状況というのを考えるのは,他の古典について語る場合も同じであろう.

当時の状況.

作者の置かれた環境.

その意図.

そして,哲学文献において大事なのは,何を批判しているのか,という批判対象の特定である.

一般化して書いてある場合もある.

つまり,誰それのどこそこから特定的に引かずに,一般的なものとして批判対象を描き出している場合もある.

つまり,ぼかされているのである.

その場合も,その本音を掴むには,できるだけ特定化したほうがいいにきまっている.

念頭にある批判対象は,誰それのこれこれの説である,というように.

ナーガールジュナを読むにしても,その批判対象は様々であろう.

説一切有部の場合もあれば,正量部もあるだろう.

また,ニヤーヤもあるだろう.

批判対象を再構成しないことには,ナーガールジュナが何を批判しようとしているのか,彼自身が何を言おうとしているのかを掴むのは困難となる.

もっとも創造的な読みをしたいひとの場合は,話は別であるが.

あくまでも,実証的に,歴史的に,ナーガールジュナが何を考えていたのかを当時に即して捉えたい場合の話ではあるが.

好き勝手に読み込みたい人がいて,別に,それをするのを止めるわけではないが,そればっかりでも困る.

まずは,実証的に,作者自身が何を考えていたのかを明らかにするのが先であろう.

その後に,そこから何か,考え方のヒントを得ることはできようが,勝手な自分の妄想をナーガールジュナに跡付けるというなら,それは困ったことである.

ともあれ,A(定説)を読むのに,そのAが批判しているB(いわゆる「前主張」)を,まず,納得して理解しないことには,Aを理解したことにはならない,というのがインド哲学文献のひとつの特徴である.

そして,ありがちなことだが,仏教に興味のあるひとは,仏教だけにしか興味がないので,仏教以外を読もうとはしない.

したがって,Bが仏教外の場合,途端に理解が弱くなるということがある.

これは,仏教vsミーマーンサー,の場合には,顕著である.

仏教vsニヤーヤについては,インドに新ニヤーヤ学の伝統が残るので,ニヤーヤ側からもよく研究されてきた結果,その視点が,共有されてきた経緯があるので,事情は異なる.

本邦の場合,たとえば,Satkari Mookerjeeなどを通じて,梶山等にも入ってきたといっていいだろう.

ともあれ,批判対象である前主張をまずは理解する,ということから始めないと,なんのための議論なのか,それが腑に落ちないという性格がインド哲学文献には色濃くある.

結果,Aだけ読んでいてもAがよく分からないという事態に陥るのである.

梶山は,ナーガールジュナの解説にあたって,アビダルマの発想を遡って解説してくれている.

また,ことあるごとに,その批判対象が何かを再確認する.

ここを押さえないと的外れになってしまうからである.

もっとも,古い文献となると原典が残ってないので,きっちり跡付けるのは,なかなかに困難ではあるが.
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  1. 2023/12/01(金) 08:46:19|
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MMK 2.1cd



gatāgatavinirmuktaṃ gamyamānaṃ na gamyate// 2.1cd

ですけど、ここで完結していると読む必要はなくて、「後述のように」で良いのではないでしょうか?

ここで完結していると読みたくなると、理屈をもってこないといけません。

つまり読み込みです。

梶山の言うゼノンも、そういう読み込みから出てくるものです。

チャンドラキールティは、たしかに、原子に言及してますから、点について言及することは、別に、註釈史的には間違いではありませんけど。

しかし、ナーガールジュナが説明してないことまであたかもナーガールジュナの意見であるかのように言うのも、すこし変ですね。

というか、そこまで考えていたのか?という疑問が素直に湧いてきます。

普通に考えると、後述箇所で理由を述べているのですから、それで終わりでいいわけです。

それだけがナーガールジュナが言ってることです。

点を持ち出す必要(チャンドラキールティの第二解釈)はないでしょう。

また、さらにいえば、チャンドラキールティの第一解釈である、「ガタ・アガタとは別の第三の道を我々は見ない、ガミヤマーナなるものを」というのも、独立した論理として考えるものでしょうけど、これもどうなんでしょうね。(四句分別的な解釈と見なせるでしょうけど。五島・桂にも言及があります。)

vinirmuktaの使い方から見ると、とくに、四句分別を意識していた風はないようです。

まあ、四句分別的に理解するほうが、まだ、ナーガールジュナっぽいので、そっちは、読み込んでもありかなとは思いますけど。(つまり、ナーガールジュナがよく用いる理屈から含意されうることとして。)

しかし、これも、ここでは言ってませんし、あとから、別の理由にちゃんと言及してますから、わざわざここで、独立の理由として立てる必要もない、とするのが一番シンプルな気がしますけど。2.2c(ガタにもアガタにもチェーシュターがない)と2.3(ガミヤマーナにガマナはありえない)が、2.1abと2.1cdのそれぞれの理由説明になっているわけですし。

ともあれ、vinirmuktaにどこまで読み込むか、ということですが、読み込まなくてもいい、というのが最もシンプルなので、注釈発展史的(あるいは可能理論発展モデル再構築)にも、

1(チャンドラキールティの第一解釈)
2(チャンドラキールティの第二解釈)
くらいで、0段階を考えてもいいのではないかと思います。

つまり、最もシンプルな解釈の可能性を提示しておいてもいいでしょう。

シデリッツ・桂の英訳・解説の言及する無畏注の理解は、また、興味深いものがありますけど。

まあ、しかし、無畏も、4c後半頃(斉藤明 2003)ということですからね。

ひとつの解釈ではありますが、ナーガールジュナからの隔たりはあります。

鵜呑みにする必要はないでしょう。

時間線に置くとすると、上の1と2の間で、1.5くらいの発展じゃないでしょうか。

MMK 3.3で火(アグニ)にも未来・過去・現在の分析が適用されることが言われてますから,その場合,果たして梶山の言うように「その二つ以外に、生じつつある灯火というものは得られないし」(p. 95)と言えるのでしょうか.(gataとagataを離れたgamyamaanaなら点のイメージが可能ですが,現在の火に点のイメージは当てはまりにくいでしょう.)

実際,梶山は「得られないし、その時点における作用と主体との関係がなりたたない」(pp. 95-96)と畳みかけてます.

理由としてA or Bで,実際には,Aはなくてもいいわけです.
  1. 2023/11/30(木) 07:10:12|
  2. 未分類

Drive in tori



朝から四人、対面で、カルナカのアポーハ。



ランチに、鶏。

近くの箱島神社にお参り。








また一の塩。



さらに、シュナのジェラート。



Shunaと聞くとシュナハシェーパしか連想しませんけど。

何にちなんでつけたのか。

横山くん、これでだいたい、糸島の有名なところはコンプリートしたそうです。
  1. 2023/11/27(月) 18:15:51|
  2. 未分類

Morning Mandana



朝からマンダナ.

6時起き.

斉藤さんは,向こうですから,夜の10時でしょう.

長々とやったので,3時間超.

向こうは,深夜の1時.

こっちは朝の9時なので,むしろ,調子が上がって来るくらいです.

しかし,さすがに3時間も読むと,頭が飽和してきますね.

マンダナは数行ですが,ヴァーチャスが長々と丁寧に説明してくれています.

今回のヴァーチャスは偉く懇切丁寧で,それほど迷うところもありませんでした.

karmabhedaの6判断根拠の後半.

別の言葉,繰り返し,数,従属要素,文脈,名称.

karmabhedalak.sa.naについては,修論でやったので,調べるのも楽です.

修士3年目というと,まだインド留学前.

1994年の夏,Yudhisthiro Mimamsakaのヒンディー訳を見たり,Mimamsakosaを見たりしながら,汗をかきかき訳していたのを思い出します.

29年前ということですか.

やはり,書き記して残しておくと,役に立ちます.

とはいえ,Centrisのデスクトップでしたから,ファイルで残っているのは,本文部分のみ.

まだ入力のUnicodeの統一フォントもなくて,その後に引き継がれないその場しのぎのフォントでした.

ファイルも,脚注は完全に失われています.

ともあれ,印刷して綴じて残しておいて良かったです.

ここを修論でやったのは正解でした.

SBh ad 2.2を読むその前提として,あれこれと必要になりますからね.

SBh ad 2.1のbhaavanaaもそうですけど.

マニアックなので,karmabhedaについて論文にしてる人は,いまだ見たことないですけど.

いつだったか,ラリーに会った時,

「カルマベーダ大事,読んどかないかん」
「お前は読んだか」

みたいに強調してました.

修論でこんなところやる人,いないでしょうね.

当然,完全に独力になりますしね.
  1. 2023/11/25(土) 10:11:22|
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クマーリラによる等遍充への言及



ちなみに,クマーリラ,ディグナーガが長々と説明せざるを得なかった等遍充のケースを,SV anumana 7-9で取り上げ,9で見事に簡潔に表現しきっています.

SV anumana 9
それゆえ,二属性がいずれも所遍・能遍と認められる場合でも,所遍性のみが[推論]認識の要因であって,能遍性ではない.



直前では,ディグナーガも言及していた牛・有角性の実例に言及しています.

1.牛(所遍)→有角性  〇
2.牛←有角性(能遍)  ×

長々と説明せざるを得なかったディグナーガも,我が意を得たりと喜んだことでしょう.

まさか一偈でずばりと要約されるとは思わなかったでしょう.
  1. 2023/11/24(金) 07:37:19|
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遍充



フラウワルナーが神経質になっていたように,vyaaptiというのは,ディグナーガにとっては,証因=能証が,遍充されていること,であって,遍充すること,ではありません.つまり,vyaaptatvaと置き換えても問題ありません.

しかし,当のディグナーガにとっては,そもそも,遍充という概念を作り出した本人ですから,フラウワルナーが期待するように,一貫して「遍充されていること」という意味で使っているわけではありません.

PS 2.22cdで用いられるvyaaptiは,明らかに,能証が所証を遍充していること,です.

「能証が所証を遍充することは,それゆえ,たとえ存在しても,原因ではない」

1.所作性(所遍)→無常性
2.所作性(能遍)←無常性

同じ所作性でも,1の場合は所遍であり,2の場合は能遍です.

2で見られるように,所作性は能遍となりますが,1の場面では,能証性の原因となっているのは,あくまでも,所作性の所遍としての側面です.

1のように,所遍だから能証となるわけであって,能遍という側面によって能証となるわけではないので.

2の場合,能遍の側面によっては,所作性は,所証となります.

ディグナーガが言うように,2の側面を捉えて言うときは,所作性は,「所証であって,能証ではない」わけです.

ともあれ,PS 2.22cdのvyaaptiは,前後にちゃんとli"ngasya li"nginiとあるので,間違いようがないですけど.

しかし,すぐ上(PS 2.22ab)のvyaaptiが明らかに,所遍性の側面を捉えて「遍充されていること」の意味で使ってますからね.

人は戸惑うでしょう.
  1. 2023/11/22(水) 10:49:02|
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夜の桂研



夜8時から桂研。

遍充の話で、しかも、論理的な話になると、頭がすっきりしてないとごちゃごちゃになるので、夜には向いてないですね。

朝一くらいがちょうどです。(が、みんなが集まれるのが、夜だけなので仕方ないですが。)

クリタカ→アニティヤ
アニティヤ→クリタカ

の等遍充のケースで、それでも、あくまでも、→の方向性を持つガマカになるその原因は、能遍性ではない(つまりは異類例にないことによる証因の所遍性が原因になる)、という例の文脈です。

話がどうしても細かくなりますから、細かい所に気を配らないといけません。

幸い、中須賀さんがウィーンからなので、向こうの正午からだったでしょうから元気で、きょうも、重要な戦力でした。

時差も時には使えますね。

ディグナーガは、ものとしては同じでも、その側面の違いが重要という視点が好きですね。

ナヴィヤニヤーヤが既にその時代にあったら、ディグナーガも、はまって、-avacchinnaとか多用してたでしょう。

残念ながらこの時代にここまで微細な思考をする人がそんなにいないので、出来合いの微細な術語が用意されてないので、言いたいことを言うのに、結構、行数がかかっています。(というわけで、ディグナーガにとって、前代で使えるすごい人というと、バルトリハリになるのは当然です。)

肝はすぐにわかりますけど、どうしても、表現としては、まわりくどくなってしまいます。

さらには、ジネーンドラが、わざわざ、コンパウンドを、より洗練された(つまり厳密な方向で)解釈しなおすので、元のディグナーガの文の直截的な(シンプルで、或る意味、粗雑な)表現が、もってまわったコンパウンド解釈を踏まえたものにさらに直されてます。

ジネーンドラのやりたいことはわかりますし、まあ、それが、注釈者の仕事ですけど、余計にややこしくしてるだけ、という気もします。

直感的に分かるコンパウンドを、そこで起こっている論理的事象を論理的に厳密に(つまりhetuの異類例における存在・非存在で)解釈しようとすると、コンパウンド解釈が面倒くさくなるという例でした。

まあ、ディグナーガの時代には、論理学の用語自体が、まだまだ整理・整備されてないので、言いたいことを表す表現が、時に比喩的だったり、あるいは、直感的だったりするわけです。

活き活きしてて、そっちのほうが、いいですけど。

まあ、彼が後々の論理学の基盤の一部を作った張本人ですからね。

というわけで、彼自身の手持ちの道具には、後代に固定化されるような便利な工具がまだそろってないわけです。
  1. 2023/11/21(火) 22:30:12|
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アポーハ論



ロンとTSアポーハを読み終えて、さらに、TSPのアポーハ精読。

TS読むときに私は読んでいたので、二度目の感じになりますけど、今回は、ちゃんと、細かく見てます。

600 クマーリラ ダルマキールティ
700
    シャーンタラクシタ ダルモッタラ カマラシーラ
800 カルナカゴーミン

同時に、秦野君とは、PVSVとPVSVTのアポーハですから、あれこれと、この年代周辺のものを精読していることになります。

結局、シャーンタラクシタの肯定論は、非常に分かり易いので、簡単にすーっと入ってきます。

まあ、この分かり易さが曲者ですけど。

とにかく、形象で肯定でいってしまいますから、なんでもすっすっと解決してしまいます。

そりゃそうです。

普遍にあたるようなものを立ててしまうわけですから。

もちろん、adhyavasaayaの働きがはいるので、あくまでも、外界対象と同一視されてるわけですが。

これに比べると、やはり、ダルモッタラの虚構論は、入ってこない人には入ってこないでしょうね。

実感として分かりにくいので。

わたしはこっちのほうがすっきりしますけど。

認識と同一ですからね、形象って。

すると、その実在性が問題になってしまいますから、分別知の対象として、実在性をもたすのは、ダルモッタラが心配するように、やはり、まずいでしょう。

もちろん、ダルマキールティも、そこらへんは意識していて、あくまでも、同一視が働いたあとのものが共通性として機能するんでしょうけどね。

クマーリラの批判に答える形で、アポーハにある種の実在性を持たした、あるいは、外界実在に間接的にあとづけたりして、さらに、形象まで持ち出したりしたまでは良かったですけど、しかし、ダルモッタラの危惧したように、それは、まずい策略だったと思います。

結局、クマーリラの罠に引っかかるだけでしょう。

つまり、実在論のほうへと引きずられてしまったわけです。

ここは、最初から、虚構で押し通すべきだったでしょう。

とはいえ、分かり易いですから、結局、形象推しのほうが、全体としては強かったとは思いますが。

どっちが主流かといえば、やはり、ダルマキールティ自身にその傾向が明白にありますからね。

認識と同体の形象、それを、認識と切り離して潔く虚構とするダルモッタラの解釈は、まあ、普通の人は受け入れないでしょうね。

ここらへん、どういう学閥の力が働いていたのかは知りませんが。

それもこれも、ディグナーガが「apohaに限定された」などということを言い始めて、隙を見せたことがそもそもの始まりなわけですけど。

脇が甘かったです。

クマーリラは、そのすきを見逃しませんでした。

ここから、ごりごりと押して行った感じです。

シャーンタラクシタも、大慌てで、ここを再解釈してます。

もっとも、これも、jaativatに対抗してapohavatに相当するようなものをディグナーガが考えていたので、そのときは、対抗モデルとしては、うまく機能したわけですけど。

つまり、あなたがそういうなら、わたしはこう言える、と。

しかし、今度は、自分が攻撃される番となると、別の土俵に連れ出されますからね。

それにうっかり乗っかってしまった感がありますね、ダルマキールティは。

ダルモッタラは、その土俵に乗っかることを拒否したわけです。

相手の土俵に乗っかったら終わりだ、ということをよく知っていたわけです。

バラモン教の蘊奥に通じてますからね。

肯定論は、いずれ詰む、という先の先を読んでいたわけです。

ダルモッタラ以後の文献は、形象を持ち出してくる際も、肯定論のみなさんも、かなり慎重に表現している感じがあります。

カマラシーラとかカルナカゴーミンとか。

ダルモッタラに攻撃されないような表現にあらためてる感じがします。

シャーンタラクシタは、かなり能天気な肯定論ですけど。

隙だらけです。
  1. 2023/11/21(火) 08:36:22|
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PST2



戸崎先生のPV知覚本もそうですけど、やはり、細かいところまで立ち入った研究がまとめて残してある、というのは、後の人にとっては大いに役立ちます。

急に参照しようと思っても、海溝が深いですからね。

とてもじゃないですが、その場で理解しようと思っても、何も手掛かりがないと、ものすごい時間がかかります。

あるいは、あきらめるか、間違うか。

和訳と解説があるだけで、全然ちがいます。

和訳の場合は、その文脈に乗ったうえで訳してますからね。

つまり、流れに乗ってますから。

そうではなく、急に参照する場合には、前後の文脈が分からない、あるいは、忘れてますから、その世界に入り込むまでに時間がかかります。

いちいち1000mの海中に潜り直すようなものです。

これが、マニュアル文献とかの実践型文献なら、200mの大陸棚ですから、別に、急に参照しても追い付けますけど、論書で、しかも、様々なtextualな問題を抱えたディグナーガの場合は、そう簡単にはいきません。

なにしろ、原文がリコンストラクトですからね。

この作業に追いつくだけでも、相当な手間ですが、PST桂研究会では、その作業を全部あとに残してますから、資料があるので、大いに助かります。

このややこしい作業だけで、自力で全部やるとなると、相当の時間を取られるでしょう。

というわけで、やはり、地道な和訳が残してある、というのは大いに役立つのでした。

NBhも容易に参照可能な形で世界の名著にありますからね。

どういう形であれ、地道な取り組みの跡が残してあると、後学には助かるものです。

逆にいうと、あんまりできの悪いものが最初に残ると、えらく後が苦労しますけど。

本邦の〇〇研究とか、昔のレベルは、悲惨でしたからね。

誰も参照してない、何の役にも立たない和訳とか解説とかありますけど。

難しい所が信用できないのですから、参照する意味がないですよね。

分からないところを知りたいのに、その分からないところを解決してないようなもの、つまり、対決してないようなもの、というのは、困りものです。

Granthibhangaのように、難所だけでも取り上げてむしろ解決すべきです。

易しい所だけすらすら訳して、難しいところは飛ばすだけなら、誰でもできます。

問題を解決するのが我々の仕事ですが、その問題すべてに躓いてるようなものがありますからね。

そういうのは見るだけ時間の無駄です。

結局、誰も参照しなくなる、というわけです。

誰も行かなくなる不味い定食屋と一緒でしょう。

やはり、使えるか使えないかです。

本日、久々に桂研。
  1. 2023/11/21(火) 07:43:47|
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精読と速読



一行一行、精確に、すべての構造、対応、指示を明らかにしながら読んでいく。

しかし、原文の詩節2行に対して注釈が例えば10行ほどある場合、そんな精読を、注釈にまで向けていては、切りがありません。

注釈に関しては、或る程度、速読力が要求される所以です。

注釈先文献Aに対する注釈B.

当然、Bの分量は多いので、それも校訂しようとなると、かなりのスピードでやらないと、とてもじゃないが、間に合いません。

また、Bについては、あくまでもAを焦点とする以上、B自体の問題すべてを解決する必要はないわけです。

細かくやれば、いろいろとやることはあるが、とにかく速読が必要とされます。

あれは何の時だったか、ウィーンだったか、あるいは、バンクーバーだったか、雑談している時に、ラリーが、

「速読してるか?」「速読重要やぞー」

みたいなことを言ってました。

こっちは、もちろん、注釈文献で、さっさと読まないといけない文献があるので、精読と同時に、速読もしてるわけです。

エディットするというのは、別にAのエディットで終わるわけではなく、それに対する、B、C、Dの注釈、あるいは、場合によっては復註釈のEまで見ることを含意しますからね。

速読も重要なわけです。

とくに、エディットするとなると、幾つかの段階があって、最初の段階では、内容をすべて追わずとも、形だけで読むことも必要です。

つまり、文の切れ目や、サンディの有無、あるいは、綴りのミスの訂正など。

がーっと通して読んで、ぱっぱと直していかないと、間に合いません。

サンスクリットの速読などというと、学部3年の時は想像だにしませんでしたけど――なにしろ原先生の予習、一行よむのに1時間かかったりして、それでも分からなかったみたいなのがありますからね。

図書館一階で、前の噴水みながら、うんうん唸ってました。

原先生といえば、一緒にランマンを受けていたI澤さん、つぎに京都で発表のようです。

がんばってますね。

というか、次の京都、近しい人達の発表が続くようです。

楽しみです。

ちなみに速読の修習が進むと、おかしいところがあると勝手にセンサーが反応するので、学生が持ってきたテキストを表面的に見ただけで、違和感センサーが反応するので、指導にも便利です。

エディットするというのは、間違いを正す作業が重要ですからね。

自分の間違い(打ち間違い、切り間違い、解釈間違い)に気づくというのは、なかなかの修行を要しますけど、それを続けると、他人の間違いは、より容易に気が付きます。

みんな、おなじところでおなじように間違うものですからね。

いつか通った道。

一緒に読むときは、こっちの思考過程も開示してやる(←呪術廻戦でいうところの一種の術式の開示)と、教育効果も増す、というものです。
  1. 2023/11/15(水) 10:06:06|
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Itoshima













ますます変化する糸島。

二見ヶ浦周辺はすごいです。

12月にはホテルまでオープンしますし。

まさかこちらの霊苑の霊も、見降ろしたところ(右手)にホテルができるとは思わなかったでしょう。(ホテル泊まると、夜中、こちらの方向に何か見えるとか、いかにもの話が成立しそうですけど。ものすごい数のミタマが収められてますからね。いわゆる墓ではなく、超現代型の簡易の地蔵型の墓碑まであります。おいくらなんでしょうね、あれ。)

インスタ映えのハートの木。

実見。

団体観光客のバスが霊苑の駐車場に止まっているのが見えます。

たしかに、観光バスが止まれる場所、下には、ないですからね。

そもそもが海岸の細い道しかなかったわけですし、その両側にへばりつく形で開発された、という地形ですから。


隣接地区の漁港に10月17日、新たな定食屋がオープン。(しかし、倉庫改造のこのガラス構造、そして、漁港の目の前のこの立地、いまはいいですけど、冬の暖房、夏の冷房代が、馬鹿にならない気がします。今の時代に食堂やるのも大変ですね~。客としては、目の前も後ろも開けていて気持ちいいしかありませんけど。釣りスポットでもあるようです。)

次の夏は、またまた、すごいことになってるでしょうね。

糸島ガイド本は、毎年でも買った方が、歴史研究としては、よさそうです。

10年前とは全然ちがいますからね。

ロンが、親戚が来ていて、市内、糸島、一緒に回ったそうですが、どこ行ったのかと聞いたら、「牡蠣小屋」「ラーメンミュージアム」とのこと。

なるほど。

やはり食い物が一番ですね。

実際、牡蠣小屋、いまや、外国人観光客の姿が目立ちますからね。

観光名所というものがない福岡市内ですけど、食べ物メインで考えると、それが名所ということなのでしょう。

屋台もそうなのでしょうけど。

地元の生態系のなかで勝手に回っていたのが、外の力が働くことで、えらく変わらざるを得なくなるというのは、どこもそうでしょう。

どうなるんでしょうね。

そういえば、屋台も、市により、根本からその形態が変えられましたからね。

なあなあでなんとなくやっていたのが、表舞台の正式に格上げにとなると、あれこれと、難しいことはあるでしょう。

香椎の再開発もそうですけど。

古い店が幾つもなくなってしまいましたからね。

香椎再開発のあおりで追い出された居酒屋(ソロギタリストの城直樹さんがよく打ち上げで使ってましたけど)、名島に移ったはいいけど、やはり、場所が場所で、いまいちしっくりこなかったのか、結局、閉店に追い込まれてしまってますしね。

そういう個別事例が、多々あるものなのでしょう。

生住異滅。

そういえば、箱崎の地下鉄の九大駅前の角地のお好み焼き屋、すぐ近くのラーメン屋があったところの二階に移ってますね。

一時はハンバーガー屋が入ってましたけど。

二階になると、あいてんのかしまってんのか、よーわかりませんね。

箱崎の正門(実際には裏門的な感じですが)近くのほうの広島風のお好み焼きは、九大移転を受けて、さっさと広島大学に行ってしまいましたしね。(そっちでは別業態のようです。さすがに広島でお好み焼きで勝負はきついという賢明な判断なのでしょう。)

箱崎エリアの整地を受けて、道路も整備されつつあり、そのうち道が開通するでしょうから、そうなると、えらく景色が変わりますね。

パンストックは、前が見渡す限り、空き地ですからね。

名島橋へ抜ける道も、すこし広げてますし。

貝塚駅周辺、車の流れは、あれこれ、変わるでしょうね。

そして、箱崎エリア、実は、ベトナムエリアですからね。

隠れた立地のあちこちに、ベトナム料理屋、食材屋があったりします。

そういえば、建築学科が学祭前に焼き鳥修行に行かせていた「陣太鼓」の隣に、どでかいマンションが建設中です。

えらく風景がかわりますね。

そういえば、むかし、まだ斉藤さんがいた時だったでしょうか、みんなで行ったら、終わりころに、いかにもいかにもの因縁付けそうなあっちの人がはいってきて、店主のテンションがマックスになってましたけど、そういう雰囲気も、変わるんでしょうね。

いかにもの裏通りですけど、今度は、隣にどでかいマンションですからね。(駅近といえば駅近ですから、博多や天神で働く若い世帯が住むでしょうね。)

ちかくに人気大行列の豚カツ屋もありますし。

裏が表に。

オセロのように変化。

案外、一気に変わるものです。
  1. 2023/11/15(水) 08:15:14|
  2. 未分類

研究の趨勢



研究というのは、当然ながら、その流れに従って、流行というか、或る種の勢いというか、研究対象Aから研究対象Bへと徐々に焦点が移行するものである。

ダルマキールティ研究でいえば、ダルマキールティやディグナーガから、注釈者であるプラジュニャーカラや、あるいは、その他の論師たちである。

日本では、稲見さんのおかげで、プラジュニャーカラ研究会が発足し、雑誌までできている。

他国の水準は、たぶん、この水準に絶対に追いつくことはできないだろう。

プラジュニャーカラに限って言えば、専門性は相当に高い。

いろいろとやるべきことがあるからである。

それらを一通りマスターするのは容易ではない。

稲見、小野、さらに、護山ほか中堅・若手により築かれてきた研究蓄積を消化して、ということになると、たぶん、英語文化圏では、全然無理であろう。

なにしろ、日本語の成果が多いので。

英語圏で追いつくにしても、50年くらいはかかるだろう。

実際、いまだに、英語で読めるダルマキールティ情報は限られている。

日本語では全然よめるけど、実際、英語となると、サンスクリットからのダイレクトな情報というのは、実に貧相なものであるし、研究者も、英語母語の人は、意外に少ない。

なにしろ、日本人とウィーンの人が中心なので。

英語で書いている情報も、最近だとヴァンサンだったりもあるが、彼もフランス語が母語である。

ネイティブが消化した情報となると、あいかわらず、ティレマンスあたりが最も信頼度の高いものとならざるをえないだろう。

或る意味当然であるが、インド人、あるいは、インド系では、ダルマキールティ研究者というのは、ほぼいないに等しい。

研究というのも、やはり、パッションは重要である。

インド系となると、どうしても、ヒンドゥー教系へと流れるのが自然であるのは言うまでもない。

ダルマキールティできるなら、ウダヤナやったほうが、ヒンドゥー教的にはましである。

わざわざ、インド人の誰も興味もたなさそうなダルマキールティをやろう、とはならないのは当然である。

ほかに、ヒンドゥー教的な観点から、難しい論書はいくらでもある。

というか、実際のところ、こうした難しい論書の系譜というのも、読む人は、ごくごくわずかである。

ダルマキールティもそうであるが、マンダナ、ヴァーチャス、チトゥスカ、シュリーハルシャなど、ごりごりの論書の人達である。

シュリーハルシャは、さいわい、ヒンディー訳もあったりするし、ウダヤナも、近代の優れたサンスクリット註があるので、難しいことにチャレンジするインド人というのは、ちゃんといるわけであるが、その情熱が、ダルマキールティのような仏教に向かうことがないのは当然である。

ともあれ、我々の事情とは無縁に対象たる歴史は存在したはずであるが、とはいえ、歴史の構築は我々の事情に依存せざるを得ない。

こちらの事情はさておき、すこしでも、対象そのものに肉薄した実情に迫りたいものである。

そして、そういう発見は、けっして、「現代の問題と関わる」という視点から生まれてくるものでないのは言うまでもない。

安っぽい問題意識でクマーリラ読まれても、クマーリラも迷惑であろう。

彼ら自身が抱えていた切実な問題、そのために彼らは問題に取り組み、長大な論攷を為したのである。

こちらとしても、現代の垢を落として、精進潔斎、こころして臨むべきである。

こころして、というのは、いわずもがな、クマーリラの教養に迫りながら、つまり、彼が読んでいたような先行文献、あるいは、問題意識を同じくする同時代文献を渉猟しながら、という意味である。
  1. 2023/11/15(水) 00:14:03|
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激動





周縁かどうかは知りませんが、ともあれ、問題があちこちに顕れる、その兆候をいち早くキャッチするのは重要でしょう。

箱崎エリアで、すでに10%超。

移民エリア。

いずれは、日本全体の問題になるんでしょうけど。

小学校の問題とか、専門家がフォローしてるんでしょうかね、研究対象として。

いろいろな実践が既に行われているはずですけど。

それについての研究となると、専門違いということもあり、わたしには未知の領域ですが。

しかし、周辺から声も聞かないので、せっかくの機会もそこまで活かされてないものと思われます。

一昔前の日本人前提の問題とか、たぶん、かわいいくらいでしょうね。

まちがいなく。

そもそも、親が言語を解さないという(あるいはあまり通じないという)問題もあるでしょうし。

ちょうど、世代的に、どばっとやってきたネパール人とベトナム人、専門学校、仕事、結婚、子育てときて、小学校に子供たちがわんさかやってくるころでしょう。

そのうちには中学。

さらに、そこから、どうなるのか。

すでに先例はあるのでしょうけど、漢字文化圏のケースと、また、ちがってきますからね。

糸島に引っ越してしまったことで、身近な実践問題との接触機会を失ってしまった感はありますね。

語学学校・専門学校を終わってからビザへの切り替え時期にあたって、いろいろと店がオープンしてますけど、ネパールもですが、ベトナムも、どこまでフォローされてるんでしょうね。

そもそも、ネパール語の専門家なんて、日本では大学の学科としては存在しませんし、ベトナムも、外大だけですからね。(さらにいえば、ネパールは多民族ですから、ネパール語だけで用が済むわけではないですし。ネワールとか全然ちがいますし。)

東京・大阪ならぬ福岡となると、さらに限定されてきます。

いやはや。

研究対象としては、おもしろいネタがごろごろ身近にころがっている時代です。

大学でも、問題解決なんとか、とかよくいわれてますけど、ほんとのこういう身近な問題に取り組むひとは、あまりいないようです。

ともあれ、福岡のベトナム料理の水準も、徐々にあがっているような気がします。

ネパール人間のグループ関係・断絶というのは見えやすいです――フットサルチームを見れば一目瞭然――けど、ベトナム人の間のグループ関係というのは、どうなっているんでしょうね。
  1. 2023/11/14(火) 23:19:18|
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Itoshima











  1. 2023/11/12(日) 21:34:56|
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朝の6時からマンダナ



斉藤さんと,朝の6時からオンライン読書会.

斉藤さんは,夜の10時.

マンダナの説明にたいして,さらに詳しくヴァーチャスパティが例文を持ってきて説明しています.

prayājaśeṣeṇa havīṃṣy abhighārayati

普通に読むと

「前祭の残りによって(第三格),献供物(第二格),上からかける」となります.

このように普通に読むと困ったことになります.

前祭の残り(ギー) → 献供物
従               主

となってしまいます.(第三格,第二格)

しかし,実際にはこれは処理行為なので,

かける

前祭の残り

かけるという行為は,前祭の残りを処理するだけです.

いわゆるsa.mskaarakarmanの一種です.

前祭の残りのほうが主です.

この例文をもってきた意図は,明言等は主従関係を知らしめない,ということを言うためです.

あくまでも,命令が知らせるのであって,明言等は,関係を特定化する働きに留まる,ということです.

配属,従属関係を知らしめるのは,命令であって,明言等ではない,あるいは,大枠は命令が知らせるのであって,特定化レベルで明言等が関係を知らしめる,というだけだ,ということです.

当然,ジャイミニとの矛盾が生じますけど,それについても,ちゃんとマンダナとヴァーチャスパティは言い訳を用意しています.

ともあれ,第三日課の附属要素の判断根拠の章を,その丸ごと撥無しかねない議論です.

かなりぶっ飛んでます.

iṣṭasādhanatāが命令だ,と言い切ったまでは格好よかったですけど,その言明が含意する不都合な部分の尻ぬぐいを,ここではしているわけです.

やはり,マンダナの主張は,かなりラディカルです.
  1. 2023/11/11(土) 08:58:02|
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PST6

https://library.oapen.org/handle/20.500.12657/76460?show=full

そういえば,査読をやらされた記憶があります.

この3人ですから,もう,見る必要はほぼないわけですが.

昨今の本の手続きは,いちいち2名査読やら,ルールが面倒で,嫌ですねー.

完璧なものまで,いちいち見る必要ないんですけど.

くだらんチェック仕事は,ほんと,単なるブルシットジョブです.

時間を取られるだけ.

ともあれ,オープンアクセス.

さすがです.

日本では,そんな流れは,全然ききませんけど.

本だしてるのにオープンアクセスとか,理解不能なのかもしれませんけど.

しかし,研究費もらって出してるなら,全部オープンにすべきでしょうね.

そこまで費用負担してこそ,という気がします.

日本も,オープンアクセス費用の追加補助とか始めるべきでしょう.

ウィーンでは女性研究者の場合は必ずオープンアクセスにする(つまり研究所がOA費用を負担すべし),というような縛りがありますから,まずそこからでもいいかもしれません.

高い本だしても,OAでないと,誰も見ないでしょう.

というか,若い人こそ勉強しますが,若い人は,本は自費だったりしますからね.

わたしもそうでしたけど.

将来のことを考えれば,OAで無料で読めるというのは,ありがたいとかそういうレベルではなくて,分野の今後の発展のためには不可欠です.

何のために本を出すのか,高い紙の本とか,もうただの自己満足ではないか,という気がしますけど,専門的な研究書の場合.

もちろん,何度も読む本,通して読みたい本は,紙で買いますけど.

参照に必要な本であれば,PDFで十分です.

安く公開する技術が既にあるのに,なんでやらないんでしょうね.

結局,しょーもない事情ということでしょう.

それが非合理性ということなんでしょうけど.

あるいは旧態への馴染み・しがみつきと,新しいものへの恐怖・無知か.

一種のasatya-aagrahaでしょうかね.

本末転倒な話が多すぎます.
  1. 2023/11/10(金) 09:51:09|
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朝日カルチャー



第一回を終えた同僚に聞くと、人数は多くはないようです。

博多の会場に五人、オンラインで五人とか、そんな感じだそうです。

個別もありなので、人数は回により前後するでしょうけど。
  1. 2023/11/09(木) 09:22:47|
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インド思想史学会

12月23日だそうですが,まだ,枠に余裕があるので,発表したい人はできるそうです.

対面です.

時間がたっぷり取られているので,印仏みたいに,凝縮圧縮詰め込む必要はないので,その点はいいです.

印仏だと,質疑,ひとりが長くしたら,それで終わってしまいますからね.

それに,長々と越えて,20分ぎりぎりまで発表する人もいますし.

あれは如何なものでしょうね.

15分5分は,守ってほしいものです.

そういえば,むかし,O川先生が,西日本印仏でその手の発表者に激切れして,その場で注意してました.

当然です.
  1. 2023/11/08(水) 11:09:47|
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エジプト学か

本人の発言が,どういう意図からであれ,この言葉それ自体からは,「過去の遺物を扱っているのではない」「現代につながっている」「現代に生きている」「現代に活かせ」というような含意が得られる.

また,発言がポジショントークである可能性に注意するならば,この場合も,現代に連なるヴェーダーンタ学者の発言として,納得がいくものである.

現代のヴェーダーンタの僧院の伝統があり,実際に,サンスクリット語が用いられているので,これも納得である.

別にサンスクリットは死語ではない.

しかし,この標語あるいは掛け声には落とし穴がある.

逆に,ミーマーンサー学者目線のポジショントークをさせてもらうならば,このような視点からは,むしろ,抜け落ちてしまうもの,拾えないものがあることになる危険性がある.

つまり,現代に連なっていないもの,現代に活かせないもの,ありていにいえば,比較思想の土台にも載らないような比べようのないもの,つまり,現代人の視点や興味の網に引っかかってこないものは,掬いとられない,という危険性がある.

もちろん,現代への効用という観点からは,現代に全く関係のない過去の遺物を収集分析することに何の意味もない,という極端な意見もあるだろう.

しかし,過去の遺物を,現代と関係なく,大事にする視点というのも,誰も否定しないだろう.

ヴェーダ祭式文献の解釈学たるミーマーンサーも,現代の思想への活用という視点からは,むしろ,こぼれ落ちてしまいがちなものである.

実際,こぼれおちてきた.

なぜならば,伝統が今にほとんどないからである.

いまに生きていないからである.

実際,ミーマーンサー(特に祭事学方面)にかける情熱というのは,「インド学――ここでは特にインド哲学に限定するが――はエジプト学ではない」という掛け声からは,生まれてきようがないだろう.

つまり,インド哲学には,エジプト学的な方面もあることは注意しておく必要がある.

現代的視点・興味からこぼれ落ちるものこそ,私としては,むしろ,大事にしたい.

現代的視点から興味を持てるものは,放っておいても,誰か他の人がやるからである.

ともあれ,勇ましい掛け声で切り捨てられるものがあることには注意しておいた方が良い.

もちろん,斯界の発展のために,戦略として,「現代につなげろ」という方略は,首肯するしかないが.

特に,衒学的になりがちな学問分野の場合,一般からの興味が完全に失われてしまえば,それは,衰退を意味するだろうから,そういう意味では,もちろん,肯かざるを得ないし,実際,そういう経験から導かれた言葉であろう.

同時に,放っておいても売れるものをやりたい人はいる,ということもまた事実である.

売れないものを大事にするのも,大事な役割である.

貴重な図書の保存と同じである.

みんなが売れる本ばかり入れるようになったら図書館も終わりだし,実際,我々はそのような現実を目にしているところである.

誰も読まない貴重図書・稀覯書は要らん,ということを含意してしまうモットーには注意すべきである.

何事もバランスであるし,そういう人もいれば,こういう人もいる,ということで,全体の多様性が確保されているならば,それに越したことはない.

一色に染まるのは危険である.
  1. 2023/11/08(水) 08:08:32|
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マンダナの過激な主張の後始末



「べし」という願望法動詞語尾により表示される<命令>vidhiが、「望まれたものの手段であること」(iṣṭasādhanatā)であるとするマンダナ・ミシュラ。

間違いなく、過激な主張である。

この主張自体は、分からぬでもない。

祭式⇒天界

という方向性まで読み込みたい、そして、言葉に促しというような人間的な働きを認めずに、あくまでも、表示という機能しか持たせない場合には、そうするしかないからである。

言葉は、風が人を煽るように、人を直接に促すのではなく、あくまでも、表示することで、主従関係を知らせることで、人を促すのである、という言葉の表示機能への反省がここにはある。

クマーリラのように、単純に、「言葉の促し」を認めたくないのである。

しかし、命令を(いわゆる我々が考えるような)命令ではないと言い切ってしまうこの説は、当然、体系のあちらこちらに軋みを生じさせることになる。

そして、実際、マンダナは、微に入り細に入り、それらの軋みを緩和させ、自説を貫徹、正当化をはかる。

結果として出てくる説は、かなり過激なものである。

ミーマーンサーの背骨をも揺るがしかねない改変である。

主従関係表出の責を担うのは、彼にとっては「べし」であって、明言に始まる6判断根拠ではない。

ここまで言うか、という感じである。

さすがにこれには正当化が必要である。

というわけで、長々と言い訳をしている。

12月のトロント研究会に備えて、斉藤さんと予習会。

しかし、ぴったり合う時間が、こちらにもあちらにもない。

仕方ないので、こちらの朝の6時から。

向こうの夜の10時から。

さすがに、どちらも、この時間なら予定はない。

とはいえ、こちらは寝起き、あちらは、寝落ちの危険性。

時差とは不便なものである。

こっちはどんどん起きて来て元気になっていくが、向こうは明らかに元気がなくなって、眠くなってきて、頭も停止してくる。

というわけで、2時間を超えることは絶対にない。

トロント、斉藤さんは、対面出席予定。

こちらは、ほぼ逆転の時間帯なので、夜からオンライン視聴の予定。

さすがに、徹夜で全部聞くのは無理。

飛ばし飛ばしで聞くことになるだろう。
  1. 2023/11/04(土) 08:43:28|
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ナーガールジュナにアポーハ

『空の論理』での梶山の説明は、分かり易くするためでしょうか、あるいは、主体的に自分で消化しているからでしょうか、かなり踏み込んだものもありますね。

つまり、梶山本人のなかで消化させた説明が、時々見られます。

対象はナーガールジュナですけど、その説明の際には、梶山の教養のあれこれが背景に見えて透ける説明が入ってきます。

p. 80
もし本体というものに第一義的な存在性を与えると、ものの変化というものが説明できなくなる。



ということを説明するのに、以下の説明は、本当に必要なのか?という疑問がわきましたけど。

変化性は自己同一性に対比されてはじめて意味をもってくるからである。
 すべて概念というものは、自分を限ることによってそれ以外のものを排除する。火は地や水や風というそれ以外のものを否定することによってのみその意味をもつ。その他のものの否定が理解されなければ火自体は理解されない。いわばある概念の意味というのはその矛盾概念の否定に尽きるのであって、積極的な自己自身の内容をもつのではない。変化は自己同一性の否定であるだけであり、後者は前者の否定であるだけである。そして変化を理解するために自己同一性を設定するが、そのようにもちだされた自己同一性は変化と矛盾する。火を理解しようとして火の事実を否定してしまう。それが人間の概念的思惟に本来的な誤謬である、とナーガールジュナはいうのである。



あきらかに、この説明は、アポーハ論を前提にした説明ですけど。

しかし、ナーガールジュナは、アポーハ論を考えていたわけでは、絶対ないでしょう。

単に、自己同一性を保ったものが変化するということが語義矛盾だ、というそれだけです。

アポーハ論的な概念論にまで踏み込んでいるわけではないでしょう。

梶山なりの読み込みであって、これはこれで面白いですが、さすがに、ナーガールジュナが言いたいこと、とまで言われると、ちょっと違うでしょう。

まあ、こういうのも、フュージョン料理としては面白いですけど。

ここらへんが、主体的な踏み込みということで、あるいは、梶山一流の味、あるいは、さらにいえば、Superhistorical historyの面目躍如というところかもしれませんけど。

アジア哲学の実践者、とでも言っていいかもしれません。

一般向けですからね、ここまで、ちゃんぽんしても、面白いは面白いですけど。

すくなくとも、ナーガールジュナについては、或る種の誤解を一般読者に招くことは確かでしょう。

「構造主義的な考え方がすでにナーガールジュナにあった」というようなことになってしまいますが、さすがに、それはいえないでしょうからね。

たんに、ナーガールジュナの言いたいのは、本体と変化の語義・定義の矛盾、というだけでしょう。

最初の一行だけで十分だったはずです。

もしも、ナーガールジュナに留まるならば。

ともあれ、こういう姿勢が時にある、ということに気を付けて読むと、それはそれで、面白い読み込みなので、楽しめますけど。

しかし、アクセル踏み込みすぎ、加速がすごすぎて、時に付いていけなくなります。

何を背景に喋っているのか注意しないといけません。

これはさすがにやりすぎ、というか、不要でしょうし、なんなら、間違いでしょう。

ナーガールジュナ本人にいっても、「いや、そんなことはかんがえとらん」と言う気がします。

クマーリラも時々、読者を試すような記述をわざとしたりしますけど、梶山のこの論攷も同じで、時に、「ついてこれるかな」というような加速した記述がみられるので、退屈させません。

あるいは、私がこんなこと書いたら、「時代錯誤(先行のAを後代のBで説明しすぎ)もいいとこ」と批判されるかもしれません。

そういえば、梶山、アポーハ論については、「ラトナキールチのアポーハ論」(1960)がありましたね。

また見返すと面白いかもしれません。
  1. 2023/11/03(金) 11:35:48|
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VV

例のエリオットスターンのVidhiviveka.

ポンディシェリからだと,普通の本屋だと,大概,失敗しますからね.

以前,ポンディから出た別の本ですが,特に指定せずに図書館から発注したら,いわゆる大手の〇〇あたりに発注かけたらしく,しばらくして,「絶版です」「入手不可です」みたいな連絡がありましたけど,もう,全然売ってますからね.

単に,その大手の本屋に,ポンディシェリから入手する術も気もない,というだけでした.

面倒くさいと嘘つく,というやつです.

あなたにとって入手不可ですけど,客観的には入手可能.

なんなら著者も直接知ってますけど.

というわけで,懲りて,最初から,慣れた森さん指定にしてました.

ナガラ.

いまは,雫森.

で,Vidhivivekaを図書館からお願いしたら,在庫ありとのこと.

ポンディシェリからだと面倒なので,他の人が注文したときに,いくらか在庫を余計に仕入れていたのでしょう.

森さんあたりだと,「この人も頼むだろう」というように,予測もつくでしょうから.

そもそも,ポンディシェリからの本だと,発注が面倒すぎて,森さんくらいしか対処できないでしょう.

こういう場合,ほんと,大手は無能です.

「絶版です」の嘘の回答には,ほんと,あきれて,御口アングリマーラでした.

以前なら,マルショウもありましたけどね.

いくら便利な世の中になったとはいえ,図書館通すとなると,やはり,専門の輸入本屋がないと困ります.

なにしろ,ポンディシェリの場合,銀行送金ですからね.

日本の郵便振替みたいなやつです.

なんか,むかし,Money orderとか,たまにやってましたけど.

この便利な世の中に,いまだにそういう世界もあるということです.
  1. 2023/10/31(火) 10:31:32|
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MMK 27.2b: anye/anyo

英訳はanyoを前提とし,和訳はanyeを前提としています.

どうやら,後者がオリジナルのようです.

しかも,処格のようです.

変なのでこっちがオリジナルというのは,よく分かります.

叶校訂もanyeとしています.異読もあげています.

英訳は,anyoとするので,かなり内容が異なってしまいますね.



にしても,27.4のupaadaanaを,appropriationで押し切るのは,さすがに分かりにくいですね.

和訳にあるように,五取蘊ですからね.

英訳も10.15では,the appropriatedとしていますから,こっちのほうが分かり易いですけど.

ここでは解説も加えていますから,ここを読めば,appropriationと一般的に訳されるが,その意味は異なるということも,わかりはするでしょうけど.

なお,27.4で,英訳解説は,the act of appropriationとしていますから,実際,和訳の理解とは異なるようです.

チャンドラキールティからも外れますね.

どうしたんでしょうね.

チャンドラキールティによれば,と解説を始めてますけど.




細かいことですが,27.1では,チャンドラキールティによれば,itiが「等」で四句分別の残り二つを示唆するのであって,lokaadiのaadiではないです.

英訳だけだと,そこまで見えてきません.

まあ,端折った説明ということで,それはそれでいいのかもしれませんけど.

たいした違いではありませんが.




やはり,和訳のほうが,正確なので,便利ですね.

あるいは,英語にするのは,大変ということでしょうか.

ともあれ,小さな落とし穴があちこちにあるので,細かく見ると,やはり難しいですね.

すぐれた訳があるとはいえ,やはり,原文で読む味わいや楽しみは尽きないものです.

にしても,atiitam adhvaanamは,文法的には,どう説明するんでしょうね.

月称は,atiite.su janmasuと,あっさり置き換えてますけど.
  1. 2023/10/30(月) 10:24:56|
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脱稿

2022年の北海道でやった綱要書ミーマーンサー・パリバーシャー.

和訳を次の紀要に出す予定.

いちおう脱稿.

もとの原稿から,たいして手を加えてはいませんが.

何もないに等しい現状よりは,何かの役には立つでしょう.

北川先生のAS和訳も,英語のAS解説に基づくとはいえ,学部生レベルだと,英語すらも敷居が高いですからね.

和訳で読めるというのは,なんであれ,学部レベルだと助かるでしょう.

そういえば,むかし,倉田さんあたりがいらしたころでしょうか,T大ダルシャナでも,前田門下でASあたりの読書会をやっていたそうですが,谷沢さんは,あまりのミーマーンサーのつまらなさに,すぐ脱会したそうです.

たしかに,ミーマーンサー,ほかとは全然,毛色が違いますからね.

ミーマーンサーやろう,という人じゃないと,結構つらいものがあるのは確かです.

ヴェーダ祭式が前提ですから.

何が面白いのか,何を議論しているのかが,まず,独力では分からないでしょうからね.

やると面白いんですけどね.

そこまで至るのに,少々骨が折れるでしょう.

そういえば,かつて,天人峡でサンスクリット合宿しましたけど,あのホテル,ようやく潰すそうですね.

あの頃も,すでに,一部が使えなくなって,部分営業みたいな感じでしたけど.

それに,滝への道も,がけ崩れで閉鎖されていて,結局,見れずじまいでした.

ともあれ,きれいなところでした.
  1. 2023/10/30(月) 08:03:58|
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インド思想史学会

いつもこの季節と考えると,たぶん,12月23日の土曜日なんでしょうね.

いちおう,あけてはいますが,しかし,25の月曜は,まだ,授業あるんですね.

いやはや.

しかし,毎年,ぎりぎりにならないと何も決まらないですね.

連絡も回ってこないですし.

鷹揚と,悠久の時間が流れているかのようです.

発表しても,論文になるまでは,さらに時間がかかりますからね.

博士の学生のように,すぐに業績数が欲しい人にとっては,もどかしいところです.

しかも雑誌は英語限定ですからね.

これまた敷居が高いです.

さらに,発表の場にいるのも,サンスクリットの専門家が揃って,こわいといえばこわいですし.

懇親会の会場は,あるんでしょうかね.

コロナで閉まったままだったように思いますけど.

というか,今年は対面ですよね.

矢野先生をはじめ,関西方面在住の先生方も,こういう機会でないと,なかなか会えないですからね.
  1. 2023/10/30(月) 07:54:13|
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ジル&モモ







小腹を満たすつもりでモモだけのはずが、さすがに300円では申し訳ないので、パニプリ。

こちらも300円。

切りが悪いので、ジルのマトン。

こちらは400円。

昨今は物価が高いので、ここだけ、値段の安さが際立ちます。

モモ300円、最初は、オープン記念特別価格かと思ってましたが、なぜか、恒久化しています。

ネパール人学生、すぐに安い所に移ってしまいますからね。

パニプリ、結構かわいい顔してますけど、辛目です。

にしても、送金から不動産から航空券まで、なんでもネパール人経済圏内で回ってますね。

最近は、学校まで経営参画してますし。
  1. 2023/10/29(日) 20:07:02|
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天丼



天ぷらというと、ひらお、だるま、となるでしょうけど、糸島だと、えびす。

須藤君、えびすが、お気に入りだったそうです。

横山君にも推薦。

えびすだと、つまんでご卵の天ぷらもあります。

写真は、糸島の海鮮丼屋。

天丼をはじめてどれくらいが経ったでしょうか。

最初は実験的な感じでしたけど、いまや、定番メニューに。

かなりのボリュームです。

魚も大きいのが二種。

またいちの塩もついてきます。



海鮮丼は、こんな感じです。

地物です。
  1. 2023/10/28(土) 07:54:03|
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コスモス



インスタ圧力というやつでしょうかね。

どこかが有名になると、翌年には、さらに別の場所にも拡散。

糸島、いまや、大小、あちこち、コスモスだらけ。

九大農学部裏の出口ちかくの畑まで、小さい区画が一面コスモスになってました。

来年はまた拡大してそうです。

情報拡散のスピードがすごいです。

インスタ見て、みなさん、その写真からの衝撃で来ますからね。

ここにある民家も、周り一面、コスモスに囲まれてました。

まさか、家を建てたときは、まわりがコスモスに囲まれることになろうとは思わなかったでしょう。

こんだけ一面あると、山口百恵の秋桜の情緒とは全く別の感じです。

むしろ、向日葵くらいの圧力です。

しかも、昨今は、温暖化なのか、10月も天気がいいです。

幸い、コスモスのあるところは、だいたい、畑・田んぼで、規制区域でしょうから、開発がまったく進んでないエリアばかりですけど。

昨今は、あちこち規制が外れ始めているそうですから、こういうところも、どうなるかは分かりません。

秋桜みながらハワイ的なランチ食べさせられたり、ふわふわのパンケーキを頬張ることになるんでしょうか。

小春日和の情緒も何もあったもんじゃありません。
  1. 2023/10/28(土) 07:33:05|
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部分と全体

部分と全体。

講義でアビダルマにも言及すると、アビダルマの、要素へ還元する姿勢について説明しないといけません。

森の比喩もそうですけど。

糸と布みたいな例を引っ張ってくることになります。

あるいは、ミリンダパンハーの説明。

これは、あくまでも比喩ですけど。

最終的には、五位七十五法まで、行かざるを得ないでしょうね。

面倒ですけど。

詰めてくる学生はいますからね。

で、部分しかない、という話をすると、いやいや、という反応もでてきます。

まあ、実際、私も、部分しかない、とは思ってないので、その反応は当然です。

1.部分だけ
2.部分も全体も
3.全体だけ

インドも別に一枚岩じゃないですからね。

学派によって考え方は違います。

部分だけ、とするのがアビダルマに代表される仏教。

ニヤーヤ・ヴァイシェーシカだと、部分も全体も。

両方あります。

部分から全体が新造されますから。

全体もあるわけです。

最後に、バルトリハリだと、全体だけしかありません。

部分は仮に抽出されたもの。

文しか実際には使いませんからね。

単語は、そこから抽出されたものであって、単語だけを無文脈で使うことはないですし。

音素もそうですけど。

講義をしてると、結局、あれこれを説明せざるを得なくなります。

ちなみに、横山君、部分と全体が専門領域のひとつ。

というか、プラが部分と全体を取り上げて議論しているので、それで論文かいてます。

前回の印仏発表もそれ。

英語で次のに載るようです。

彼が取り上げたのは、けったいな議論ですけど、ずっと、その議論があったそうで、それはそれで、思想史としても興味深い。

部分から全体が新造されるなら、

部分の総和<部分の総和+全体

で、糸の総量よりも、布という全体分だけ、秤で量ると重くなるはずだ、それはおかしい、という議論でした。

まあ、たしかに、「全体が部分とは別に新造される」と言い切ってますからね、ニヤーヤ・ヴァイシェーシカ。

言い逃れしようがないですね。

原子の〇を二つかいて、さらに、その二原子体がひとつの全体として、いわば、〇〇を取り囲む大きな〇を書くことになりますから、

〇〇<〇〇+〇

になるわけです。

現代科学的・現代哲学的にどうでもいい議論というのは、よくインドでありますけど、emic的には、あるいは、思想史的には、それなりに楽しめる議論というのはありますし、その背景にあるものを知ると、こういうのも結構、楽しめます。

ニヤーヤ・ヴァイシェーシカとしては、自派の学説に乗っかったうえでの乗りツッコみをされているわけで、結構、痛い所を突かれています。

これまた、くだらん言い訳してて、それはそれで楽しめます。

懸賞の牛でも賭けて、公開討論でこれを必死にやってたかと思うと苦笑です。

下手すると相手の軍門に下ることになるので、当人は必死だったでしょうけど。

ニヤーヤ・ヴァイシェーシカのシステムの根幹に関わる部分なので、プラの時代にまで、まだやってたのは、まあ、当然です。

しかし、口頭で部分と全体をやると、アヴァヤヴァ・アヴァヤヴィノール・ベーダハavayava-avayavinor bheda.hとか、大声で、言い合ってたんですかね。

サンスクリット知らない第三者から見ると、アヴァヤヴァ・アヴァヤヴィ、言うてますけど、みたい感じですかね。(シャバダバシャバダバ、みたいな語感です。これに声顕論のシャブダもあわせると、さらに、音声的には面白いですね。)

何言ってるんだ、こいつらは、となるでしょう。

こういう、当時の「科学的理解」(この場合だと当時の原子論)に片足ツッコんだ議論というのは、時代がたつと、滑稽に見えるものなんでしょう。

西欧の昔の錬金術なんかもそうでしょうけど。

現代から見るとナンセンスな議論。

類推で行くと、現代哲学で行われている科学的な議論というのも、たぶん、100年後には滑稽に映るものがある、ということでしょう。
  1. 2023/10/28(土) 07:03:58|
  2. 未分類

マニュアル文献

シュラウタもそうですし、タントラ儀礼の文献もそうですが、具体的な動きについて書き記したマニュアル文献は、だいたい記述のパターンが似通ってきます。

場所・方角、祭具や供物の指定。

あるいは色など。

アーユルヴェーダも、章によっては、具体的な儀礼について記すので、これ系のテキストを読んできておいてよかったです。

まさか、永ノ尾先生と修士時代にシュラウタ読んでいた時には、いずれ、タントラやアーユルヴェーダまで読むことになるとは、まったく思ってもいませんでしたけど。

そのときは、ただ単に、ミーマーンサーを読むのに、ヴェーダ祭式も知っておかないと、というだけでしたから。

何がどう役立つことになるかは、まったく予想がつきません。

タントラも、ドミニクやハルの研究会が一時、カトマンドゥやポンディでもあったりして、かなり読まされましたからね。

研究会に続けて出ていたので、ニシュヴァーサは、合計すると、かなり読んでいると思います。
  1. 2023/10/27(金) 22:47:39|
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