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Pratibhanusarini --- 九州インド哲学ブログ2

On Indian Philosophy and Buddhist Studies

力尽きたのか?

参考書の書き込みも最初の方で力尽きていることはよくあるでしょうけど、この大英図書館の写本もそれでした。

コールブルックあたりでしょうかね。

誰かそこらへんの有名人が所蔵していたはずです。

写本から読むしかない時代は大変です。

にしても、単語に細かく切れ目を入れているのは、学部学生のノートみたいで、苦笑。
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  1. 2021/09/26(日) 09:34:50|
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2015.12.30



アルバカーキ,UNM.

二人の共著で最終的に本が出たのが2020.4.1ですからね.

このときから,まだまだ,かかります.

このときに二人でやって,かなり作業は進みましたけど.

お互い,大学もありますから,教育を忘れて顔を合わせてゆっくり自分達のテキストを読むとなると,当然,休みの期間中.

しかも,日本とアメリカでは微妙に休みがずれているので調整も難しいわけです.

で,結局,クリスマス明けの年末年始に一気呵成にやる,というようなことになります.

大学の真ん前にインド料理屋.

料理の見た目はそれほどきれいではありませんし,味も洗練には程遠いですが,シンプル・健康系で好みの味でした.

ベジのアーシュラムっぽい感じが入ると,やはり,体が自然に受け付けてしまうようです.
  1. 2021/09/25(土) 22:37:47|
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2017.5



M山ほかと,イェールで研究会.

向こうのグラノフ先生の主催.

チャンスとコンティンジェンシーがテーマ.

まあ,だれでも入れるようなざっくりとしたテーマを設定してくれたのでしょうけど.
  1. 2021/09/25(土) 22:25:34|
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2017.4



港の公園で運動会.

在福スリランカ人たちのもの.

このあと,場所は,ここではなく博多のほうに移ったりしてますけど.
  1. 2021/09/25(土) 22:16:49|
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2017.7



アイレフでのマサラワーラーの会.

熱心な高校生男子も参加.
  1. 2021/09/25(土) 22:11:45|
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2017.6



ナドーネル.
  1. 2021/09/25(土) 22:09:32|
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2017.6.25



今やすっかり更地となった箱崎キャンパスのかつての姿.

飛行機の轟音だけは,更地になっても変わってませんけど.

マンションになったとしても,マンションの人も,まさか,ほんとに真上を飛行機が通るとは思わないでしょうね.

間違いなくマンション価値は〇がるでしょう.

かなりの音ですから.

あれで,よく,「教育環境」ということが言えたものです.

実は,慣れたら全く気にはならないのですが.

通過時は,自動的に,会話をオフ.

講義中,飛行機の轟音に声がかき消されてしまいますから,学生は当然聞き取ることができません.

というわけで,その間は黙らないと,あとからアンケートで「聞き取れません」と苦情がきます.

センターのリスニングとか,どうしてたんでしょうね.

あの瞬間だけ,通るのをやめてもらってたんでしょうか?
  1. 2021/09/25(土) 21:26:34|
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卒業式



9月卒業の卒業式.

印哲からも無事に4年生が卒業.

コロナなので大講堂の式典も控えめ(だったそうです).

学生とは,研究室で簡素に証書を渡して終わり.

祝賀会の類は当然ですが全てなし.

普段なら文学部主催で先生方も集まってやりますけど.

あっさり.

記念写真を撮って終了.

解散.

つつがないどころか,ほぼなにもない卒業証書授与式でした.

黙卒。

  1. 2021/09/24(金) 22:58:11|
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月木の夜



毎回忘れそうになりますけど,月木の夜は,ハルのサーカーラ.

26人.

日本人も結構でています.

桂先生も参加.

ハルの後ろから聞こえてくる救急車だかパトカーだかの音がいかにもドイツです.

研究会のブログに書き込んでないので,「こっちには書き込んでないKのブログに云々」とハルに言及されてしまいました.

研究会ブログの全部をフォローしだしたら,切りがなさそうですからね.

時間が取られるのは間違いないでしょう.

もうちょっと全体を読んで,はっきりくっきり正解が分かってから,総ざらえ的に後から研究会ブログを見れば,何が当たりで何が外れなのか,もっと見通しがよくなるでしょうから,最初から迷いの網にとらわれるのも,時間を取られすぎるかなと危惧します.

もっとも,そういう議論の時間そのものが楽しいという捉え方もありますけど.

ともあれ,夜ですから,そもそも,頭が働きませんからね.

なにか書き込んでも,間違いそうです.

ひとまずは,ハルの講義そのものに全集中.

議論は,前回の続きで「自ら輝く」という話.

これが,行為・カーラカの枠組みに絡めとられることはない,という話です.

ヴァスバンドゥ,ディグナーガの「(認識作用における)働きの無」論,そして,ダルマキールティに至ってついに完成した「自ら輝く」論を受けた議論です.

中観のプラジュニャーカラマティが,Jにボコられてます.

そういえば,学部時代,最初の最初に読んだ仏教論書が,江島先生の好物だったBCAPでした.

まさにその第九章の一節が,いま,Jが攻撃しているところ.

シャーンティデーヴァについては何となくイメージがありましたけど,プラジュニャーカラマティについては,どんな人なのか,全然その時は知りもしませんでしたけど,まさか,Jに攻撃されるような論争相手だったとは,夢にも思いませんでした.(というか,学部時代にJの名前すら知ってたかどうか――いちおう講座大乗仏教にはちょろちょろ登場しますけど――,Jの本も持ってなかったです.たとえ読んでも,一行も理解できなかったでしょう.)

江島先生にも教えてあげたいです.

たぶん,教えても,「(対応箇所の文章が)ピシャーと一致しているわけではない」「必ずしもそうはいえない」とか言われそうですけど.

そういえば,昔,蓑輪さんが中心になって,東大仏青講演九州ツアーをしたことがあります.

私は学部生なので,単に旅行として,物見遊山でついていっただけですけど.(その時に,戸崎先生の九大仏青も訪れています.)

木村先生が団長にして,おおとりのメインの講師.

九州各地のお寺をめぐって講演会をしましたけど,そのうちのひとつが,江島先生の実家の佐賀のお寺でした.

その他,どこの寺だったでしょうか,院生の有賀さんが難しい話をして,檀家のおじいさんおばあさんがポカーンとなってたのを覚えています.

何の話だったのでしょうか.

思い出せませんけど.
  1. 2021/09/23(木) 22:56:10|
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マナカマナ吉塚店





  1. 2021/09/23(木) 22:01:50|
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भारतयात्रापंचपंचाशत्कप्रकरणानि

インドを旅する55章

これだけ多様な著者をそろえて、編著として一冊にまとめあげるのは、結構な仕事だったことでしょう。

さすが、顔の広い宮本先生です。

ご自身、あれこれと、必要な章を担当されています。

類書のないオリジナルな一冊。

一章が短いので飽きさせません。

ぽんぽんと次の章へ移りますから。

内容も実に様々。

切り口も十人十色。

こんな編著でもなければ読めない、貴重な寄稿が読めるのはいいですね。

これを読めば、どこかで自分の関心が重なるでしょうし、また、どれか心惹かれるものもあるでしょう。

先生が週替わりのオムニバス授業というのが講義でもありますけど、それの、もっと高速濃縮版といった感じでしょうか。

全章55回、感覚としては、20分のプチ講義が、ぽんぽんと続くというような感じですかね。



p. 279下
貴人にかざされたの傘蓋が 
> 貴人にかざされた傘蓋が
  1. 2021/09/23(木) 10:08:21|
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अष्टदिक्पर्वतः

  1. 2021/09/23(木) 07:45:33|
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Rs 37



エディションとなると絶対に必要なものですから,まず最初に買います.

研究書よりも何よりもエディション.

古いのが,そのまま値段だけ改定して売ってあったりします.

修士のころ,インドに行くと,本屋に寄っては,倉庫からあれこれと漁っていました.

すんごい大きいのにすんごい安いと申し訳ないほどです.

えらく使いでがあり,お世話になっているBHUのPrP.

500頁以上あります.

しかし,37RS.

しかも,オリジナルの値段からは上げているようで,ちゃんと,価格改定の赤いハンコが押してあり,断り書きをしています.

もともとが1961年にバナーラスから出たものですから,当然,オリジナルの値段は安くなります.

BauddhaBharatiのTSPも,もとの値段が75だったのが100RSに改定してあります.

1981年のバナーラスですが,ここは,すこし商売っ気がありますから,バナーラスにしては,強気の値段なのでしょう.

とはいえ,西哲,独文,英文,仏文の人が聞いたらびっくりするような値段でしょうけど.

1978年のSV,これも,バナーラス.やはり,改定後の100RS.

シールの向こうを透かして見ると,元の値段は60RSでした.

ビハールから出ているタクルのJNAも,1987年で130RS.

ナガラで買ったので,1450円ですけど.それでも,この大部の著作にしては,ほんと,安いです.

これ読むだけで,一生費やす人もいるでしょうし.

というか,(タクル以外に)読み切った人などいないでしょう.

最近,アレッサンドロ編でBloomsburyから出たThe Bloomsbury Research Handbook of Indian Philosophy of Languageは,アマゾンだと20000円してますからね.

日本も高いですけど,欧米も高い.

研究書を読む前に破産してしまいます.

こんなに高いと,インドの図書館に納まることはないでしょうね.

サンスクリットだけ読むのが正解かもしれません.

昨今は,Internet Archiveで,大概のエディションは手に入りますし.
  1. 2021/09/21(火) 23:52:41|
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月木



海外の読書会なので,当然ですが,日本の祝日関係なし.

連休の月曜ですが,夜は,容赦なく,ハルの研究会.

参加者は25人ほどでした.

デーヴィー(といっても,まだ,知らない人は多いでしょうけど)はJやRが専門なので,元気に質問.

シャンシャンも,あいかわらず,隙あらば入ってきます.

アレックスは主にブログで質問.

全部フォローするハルも大変です.

八面六臂くらいでないと全面対応不可能です.

マティアは主催側なので,ハルが明らかに間違ってそうなときにのみ入ってくるような感じです.

ハルも,毎回毎秒,正しいわけではないですから,当然,ミスるときもあるわけです.

時には,予習する時間も満足になかったりでしょうし.

マティアが,そんなときは,助け舟,という感じでしょうか.

ひとりで喋り続けると,うっかりと見逃す場合も,それは当然あります.

教えるとなると,そんなものです.

karmakartrが出てきたので検索したら,小川先生の論文が真っ先に出てきました.

高度な内容の信頼すべき専門論文が日本語で手早く読めるのは,やはり,助かります.

ああ,これこれ,というのがすぐに分かりますから.

やはり,我々の分野の場合,1~2年の短期のスパンでなく,論文の価値は,長いスパンで考える必要があります.

専門的すぎて困ることはないわけです.

検索が発達した今では,すぐに求めるものもヒットしますし,本当に専門に突っ込んだ論文が,いざというときに役立ってくれます.

Jの内容も高度ですが,研究も,形になって残れば,やはり,いずれ誰かの役に立つことは,間違いないでしょう.

ちなみに,自分が自分に働くことの矛盾ということを議論してますが,単に,自分が自分に働くのはおかしい,というクマーリラも指摘していたような自己認識への批判を,中観派が指摘して,それに対してJが答えているところです.

そのまま,動詞の話になるのは,さすがインド.

にしても,karmakartrは,どこでも本当に問題になりますね.

普遍的な問題です.

お粥が自ずから煮える
壺が自ら見える

というやつです.

壺が自ら*知える(vedyate)

というような表現がサンスクリットだと可能なわけです.

  1. 2021/09/20(月) 23:28:40|
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三層構造



仏教でいえば,経があって,その上にアビダルマがあって,その上にプラマーナ論がある,という三層構造を考えると,各学派の教学の性格の違いはわかりやすいでしょうか.

もうちょっと一般化すると,聖典と,護教的な解釈学と,哲学的な認識論等ということになるでしょうか.

プラマーナ ------  プラマーナ
アビダルマ        祭事教学
アーガマ          ヴェーダ

アーガマ同士について,論争が成立しないのは明らかです.

あまりにも土俵が違いすぎますから.

いちいち,仏典のここがおかしいなどと,揚げ足をとることはありません.

たまに指摘するくらいです.

あるいは,ヴェーダの内容にしても,それは,論書で頻繁に取り上げられるような切り取られた素材が話題となるのであって,そのものがいちいち攻撃批判されることはありません.

いちいち勉強するのも大変でしょうから.

聖典の部分というのは,それぞれのタコつぼ化が進んでいるので,他の人が首を突っ込むことがない部分です.

そもそも,部外者は,聖典の部分をしっかりと学ぶことは制度上はありえないわけですし.

したがって,その上にたつアビダルマ的な護教の教学についても同様です.

部外者が首を突っ込むような部分ではないわけです.

では,他との論争になるのはどの部分か,といえば,いわゆる論書のプラマーナ的な哲学系の部分です.

その中で,お決まりの話題も取り上げられ,相互の批判のネタとして,追及されることになります.

仏陀の全知者性も然り,また,ヴェーダの無謬性,常住性,非人為性しかり.

これらは,プラマーナを論じる認識論の体系の中に組み込まれ,洗練された話題となったものが,相互批判のネタとして取り上げられたものです.

ダルシャナ研究者は,この最上部にある論争部分を取り上げることが多いですから,当然,学派をまたいであれこれと知っておく必要があります.(知覚を認めないような学派は普通はないでしょうから,当然,知覚論は,美味しい論争ネタとなるわけです.)

また,各学派の護教的な教学部分について知っておくと,彼らの議論の背景について追いやすくなるのは当然です.

しかし,中観の空の哲学は,教学的要素が強いので,他学派からは,あんまり突っ込んで攻撃されることはないようです.

ツォンカパやチャンドラキールティを昔は読みましたけど,クマーリラを理解するのに,それほど役に立つ気はしません.

無自性と言われても,議論の土俵が違いすぎて,困ってしまいます.

仏教色が濃すぎて議論にならないのでしょう.

いっぽう,認識が無所縁だとか,認識は全て夢のように錯誤しているとか,唯識の哲学なら,形象論で議論が成立します.

依って立つ基盤があまりにも違いすぎると議論が成り立たないということは留意しておくべきでしょう.

教証と理証ということが言われますが,当然,議論の前提として共通前提としての「理」が通ってないと,議論にならないわけです.

というわけで,討論術のように,理屈のあり方,理詰めのやり方を整理する学問も発達したわけです.

討論術,論争法,議論学,論証法などなど,さまざまに呼ばれうるでしょうけど.

論争の場に,きれいなネタを整理して提供した大物の一人がクマーリラでしょうけど,いっぽうで,討論術の分野では,ニヤーヤと仏教が,交通整理をあれこれとしてくれています.

ディグナーガの最大の功績は,この最上部のやり取りの先陣を切ったことにあるでしょう.

プラマーナという枠組みを提供.

さらに,論争のやり方の交通整理も含めて.

もちろん,その前提としてヴァスバンドゥという大物がいたからこそできたのでしょうけど,やはり,討論術から認識論への枠組みの変更というのは,大きかったと評価せざるを得ないでしょう.
  1. 2021/09/20(月) 12:46:56|
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注釈文献



注釈を高速で読む、というのは、注釈文献の多いサンスクリット文献では、必要不可欠です。

ターゲットとなる「根本」(ムーラ)文献を読むのに、大概、それに対する注釈があるものです。

文学作品もそうです。

詩。

カーリダーサを味読するにしても、(ある意味無粋にも)文法規則まで細かくあげてくれるマッリナータあたりで、まず訓練するのがお定まりのコースです。

詩を読むのにも、論書的な注釈文献の洗礼を受けずにはおれないわけです。

あるいは、最近であれば、趣意をとらえて簡潔に言い換えてくれる、ヴァッラバデーヴァあたりの注釈を、ささっと読むことが必要でしょう。

注釈には様々なスタイルがあります。

簡潔を旨とするもの。

一字一句細かく分析してくれるもの。

注釈者独自の見解を大いに盛り込んでくるもの。

などなど。

ともあれ、根本テクストを読むのが主眼ですから、注釈の細部にまでこだわっている暇はありませんから、いずれにせよ、高速で注釈を読むことが必要になります。

そういう訓練は、授業で教える類のものではありません。

予習段階で自分でやるべきものでしょう。

訓練の一つとしては、注釈文献を校訂する、というのもあります。

分量が多いですから、写本をこなして、どんどん校訂しないと間に合いませんから、高速でかつ正確に読む勉強にはなります。

読んでいくうちに、内容がたとえ明白に分からずとも、構文パターンから、正しそうかどうかも自動判別できるようになります。

大量に高速で読むことで培われる感覚もあるのでしょう。

ラリーも、自分でひたすら読み続ける読みとおすことの大切さをよく説いています。

翻訳していると、どうしても、日本語で考えがちですが、校訂をすると、頭がサンスクリット一色にならざるをえませんから、サンスクリット感覚もより身につくというものです。

訓練という意味でも、なにか注釈を校訂するのは、能力アップに役立つでしょう。

自分で一度やってみると、先人の業績の優劣もよく見えるようになります。

校訂といっても、レベルは様々。

写本を起こすだけ、あまり考えてない流した仕事もあれば、問題解決を図り、構文にも留意し、緻密に句読点やパラグラフを配したものまで。

何気に読んでいるテクストも、実は、そうした配慮に支えられています。

校訂の悪いテクストの分野は、その後、発展しないのは当然です。

読めませんから。

マンダナのBrahmasiddhiは、校訂がちゃんとしてますから、読もうと思えば読めます。

したがって、ドイツ人やフランス人も取り組んだわけです。

しかし、エリオット以前のVidhivivekaは、読めた代物ではありません。

当然、誰もやらなかったわけです。

エリオットも、よくこれをやろうと思ったなと感心します。

なんだったんでしょうね、彼の動機は。

案外、フラウワルナーの論文だったかもしれません。

シュタインケルナーがUPennにいたときに習っていたはずです。

シュタインケルナーがあそこにいたというのも、笑っちゃうほどに意外ですけど。

  1. 2021/09/18(土) 09:08:32|
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文字の向こうにあるもの



ジャーの初期の英訳を見てると,どうも,向こう側に,すぐれたミーマーンサーのパンディットがいるような気がしてきますが,どの程度なのでしょうね.(もちろん,ジャー自身でも読めるでしょうけど.)

彼のミーマーンサーの師匠に,おじさんのチトラーダラ・ミシュラという偉大なミーマーンサカがいて,その人にならっているはずです.

初期の英訳(SBh訳,TV訳,SV訳)は,その人にかなり読んでもらって,それをジャーが英訳しているのではないかと勝手に想像しますが,どうなんでしょう.

基本的にインドの場合,自分で読んで訳すというのはなくて,何かを読むというときは,何かを誰かから習うということを意味します.

いずれにせよ,偉大なミーマーンサカが身近にいたのですから,師匠から習ったのは間違いないでしょう.

向こう側に,きっちりサンスクリットを理解して,コメンタリーをぱっぱっと取捨選択している影を濃厚に感じます.

つまり,ちゃんとサンスクリットを正確に(素早く)理解している人です.

どういうプロセスで訳出していたのかは,気になりますが,まあ,想像するに,毎日毎日,数量を決めて,順に読んでもらって,ノートに英語訳を作っていったのでしょう.(それが普通ですから.)

もうちょっと細かく見ていけば,ジャーの聞き間違いや取り違いが入り込む瞬間なども見て取れるかもしれません.(こういうプロセスの間接的な証拠となるのが,間違った箇所ですから,丁寧に拾っていけば,いろいろと分かるでしょう.)

他の本ですが,インド人に読んでもらった日本人の研究を見ていると,向こうに,優れたインド人パンディットの影を濃厚に感じるときもあれば,サンスクリットに甘い著者の誤解が入り込む瞬間がすぐに分かるときもあります.(逆に言えば,その実力からすると,このレベルの難問は,本人が読み解いたのではないな,と推量できます.)

ジャーの場合は,もちろん,彼自身,相当なレベルでしょうけど,それでも,ミーマーンサーともなれば,若い時分では,そうそう全部,すぐに分かるというわけにはいかなかったでしょう.

ともあれ,1900年頃のパンディットのレベルの高さを知るのに,英訳とはいえ,この手の間接証拠となる本が残っているのはありがたいことです.
  1. 2021/09/16(木) 22:53:15|
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特上



成績評価,

ABCD F

が,最新のやつは

SABC F

となっていますが,なんでしょうね,このSへの変更の意図は.

やはり,人間,「特上」みたい名前を,どんどん付け足したくなるんでしょうか.(中身は同じなのに.)

そういえば,25原理でいいのに,36原理で,上に上にどんどん付け加えていますからね,世界の原理も.

ほかにも,シヴァ教の歴史を見ると,どんどん上に付け加えている上下のヒエラルキーがありました.

アーサナの数も,どんどん増やしてますが,「うちの派はあっちよりすごいよ,108もある」みたいな自慢がしたかったのかもしれません.

Aだと,たいしてよく見えないのでしょう.

ただの並びですから.

やはり,Sくらいじゃないとインパクトがありません.

ファーストクラスで満足できずに,なんか,その上にスイートクラスを作るようなものでしょう.

ゴールドの上にプラチナ,さらに,ブラックと足していったのも似たようなものなのでしょうか.

見慣れてくると,飽きてきますからね.

ああ,Aね,となってしまいますから.

Sにも飽きてしまって,さらに上の名前をつくるとしたら,次は何にするんでしょうね.
  1. 2021/09/14(火) 21:36:02|
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ウィーンのインド哲学3年ポスドク



IKEAではなくして,IKGAの3年ポスドク.

この世には珍しく,純粋にダルシャナの領域.

インド哲学限定です.

なかなか見ない公募です.

ElisaとAlessandroが抜けた後で,ダルシャナ系が弱くなったので,補充しようという意図でしょうか?

内容がまた,あれこれと,意図が読み取れます.

Conducting independent research on classical Indian philosophy based on original language sources in Sanskrit. The focus should be in the area of one or more of the non-Buddhist schools (Nyāya, Vaiśeṣika, Mīmāṃsā, Sāṅkhya, Vedānta, Jainism, or materialism). Consideration of interactions with the philosophy of Buddhism is desired.



ヨーガが抜けているので,いわゆるヨーガはいらん,もっと哲学的なやつ,ということでしょう.

下手にヨーガいれると,全然ちがう感じのヨーガの人が来てしまいますからね.

いやいや,そういうのじゃなくて,論書読める人です,という意図でしょう.

ジャイナも,アーガマではなくして,論書を意図しているのは明らかです.

しかし,最後に,唯物論まで入っているのは笑えます.

ジャヤンタに言わせれば,そもそも「学派」ですらないですけど.

まあ,Tattvopalavasimhaが専門です,という人もいたりしますから,ここは外せなかったのでしょうか.

あと,仏教以外とは言ってますが,仏教論理学などもできれば,なお結構ということでしょう.

私の若い時は,こんな公募,まったくなかったですけど,いまは,あるもんですね.

いずれにせよ,どんな人がくるのか,楽しみです.

BK所長は厳しいですから,ちゃんと成果を求められると思いますけど.

  1. 2021/09/14(火) 20:12:34|
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能遍の無把捉と自己認識



もちろん唯識は否定されえないわけです.

なにしろ自己認識ですから,知覚ですから,誤りえません.

知覚が誤る場合があるとしても,それは,認識それ自体に向かう自己認識の側面ではなくて,他に向かう側面の他認識という知覚です.

いわゆる自己認識に対する他認識の側面,それが誤りえます.

したがって,優位な認識手段による押し退けが成立するのは,あくまでも,他認識についてだけです.

離一多性の推論において,能遍の無把捉が無自性性を打ち立てますが,その場合に,自己認識(輝き・唯識)を押し退けることはありえない,というのがJの一貫した主張です.

Jの表現は,ほぼ抽象的な空中戦で,主語から何から省略しまくりです.

何の議論をしているのやら,文脈を押さえないと意味不明でしょう.

一文だけ引っ張ってきても,理解できるひとは,少ないでしょう.

代名詞が何を指示しているのかも,不親切なくらいにぶっきらぼうです.

「あれがあれしてあれするから,あれはありえないわけよ」という感じです.

老夫婦の会話みたいなものです.

次の文章を身体的に落とし込んで理解できるひとは,相当のものでしょう.

upayoge 'pi vā na tadvyāpārānanuvidhāyinā vikalpenotthāpito vyāpakānupalambas tasmai prabhavati.


直訳すると

あるいは役立つとしても,それの働きに従うものではない分別によって立ち上げられた能遍の無把捉がそれに対して力を持つことはない.



一行だけ読んでも,絶対に分からないでしょう.

全体を読んでいくうちに,こういうのも分かってくるから不思議です.

そのうち,「そうそう,あれがあれだからあれですよね」というように,自然に感化されて同化されていくものなのでしょう.

中観派の推論が唯識を押し退けることは,Jにとっては,端からあり得ないわけです.

Jのサーカーラ,いまだ30人ほどが出席.

議論も佳境.

密林のジャングルで遭難する人がすでに続出しているかもしれません.

「ついてきてるかー」

と後ろを見ると,ついてきてるのは,もう僅かかもしれません.

あるいは,両方を深い谷に挟まれた稜線,多数が既に滑落,といった状況かも.

ハルのロープに結ばれて登っていくのですが,やはり,Jの峰は大変です.

そして,あいかわらず,テクストには落とし穴が時々あります.

これの訂正が,またまた,難しい.

なにしろ写本は一本.

しかも,複数ある写真も決して鮮明とは言えませんから.

まずは写本の意図した読みを取り出し,さらに,そこから必要な場合には訂正を加える場合もあります.

Jが上級者向きなわけです.

夕飯も終えた夜(20:45~)だとさすがに頭も働かないので,朝に復習して,ようやく筋が見えてきます.

写本からの校訂,さらに,内容の読み解き,この作業をHejungとHaruが最初にやってくれているので,ついていく身として,これほど楽なことはありません.

自分でゼロからやろうとしたら,相当のエネルギーがないと無理です.

  1. 2021/09/14(火) 07:35:56|
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趣意の高速理解



Aとその注釈のBと,そのBの注釈のCと,そのCに対する注釈D.

たとえば,スートラとバーシャとヴァールッティカと,さらに,ウンベーカ等の注釈が,それぞれ,ABCDにあたります.

当然,1.1.1のatha ato dharmajijnasaという,たった一つのスートラに対してだけであっても,数ページのシャバラ注,そして,128頌のクマーリラの頌評釈,そして,数十ページの三註釈がそれぞれ(ウンベーカ,スチャリタ,パールタサーラティ)あるわけですが,そうなると,最後のDを読むにあたっては,高速で趣意を取る必要に迫られます.

つまり,高速で言ってることをつかむ必要があります.

いちいち細部まで訳出して考えてる暇はありません.

「ウンベーカと違って,スチャリタは,クマーリラをこのように理解している」という肝が分かれば(クマーリラ研究にあたっては)それで十分なわけです.

サンスクリット註の速読.

昔の自分の訳が幸いパソコンに残っていたので,それを直す形で見直していると,さすがに20代の博士課程,まだまだ甘いところが大いにあります.

どうも,ところどころ,ちゃんと捉えられていないようです.

やはり,高速で趣意を捉えるという作業が,まだできてなかったのでしょう.

自分勝手な想像での解釈がたまに見られます.

注釈読めば分かることなんですけど,その注釈を読むにあたっての体重のかけ方がまだわかってないのでしょう.

言いたいことをつかむ,あるいは,必要な情報をぱぱっとつかむという速読.

こればっかりは,やはり,ある程度訓練が必要ということでしょう.

全部を和訳してから考えていては間に合いません.

ほしい情報を並べてそうな文章に注目,そこを正確に読み取る力が必要になります.(そして,その情報をクマーリラの原文と照らし合わせてスチャリタ等の解釈を立体化するわけです.)

さすがに若いうちは,そう簡単に,そこまでの力はついていなかったようです.

若造だった自分に対して,「注釈ちゃんと読んできました?」と,苛めたくなります.

たぶん,暑い暑い夏の日――といっても一年中夏なんですけど――に,天井からぶらさがった扇風機の下,一日何十ヴァースと決めて,すごい高速で読んでいた記憶があるので,分からないところはどんどん飛ばしていたのでしょう.

とにかく読み進めていたのでしょうけど,それにしても,粗削りすぎです.

注釈者(例えばスチャリタ)の解釈を捉えた上で,それを注釈先(クマーリラの原文)に落とし込むという作業は,結構,難しいものです.

二人の心を同時に相手にしなければならないからです.

にしても,クマーリラの構文からして,その理解はまず無理でしょ,という訳があったりすると,その青さに苦笑です.
  1. 2021/09/13(月) 00:02:30|
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排出

背脂摂取の後、背脂の排出。



ここは、西の糸島の雄、可也山より少しばかり高いですね。
  1. 2021/09/12(日) 15:19:53|
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放生会

放生会ですが、出店なし。

神事のみ。

閑散。



十講の著者もかつて訪れたといふなる屋台の花山。

現下は般若湯提供なし。

水。

これに入って出てくると焼酎にしか見えませんけど。



  1. 2021/09/12(日) 13:41:34|
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前と後を取り違え



スチャリタを読んでいると,

「前主張と後主張を取り違えたり」

という例があがってました.

弁別・識別知がない場合には,そういう誤りに陥るようです.

いまもむかしも同じです.

西洋哲学の入門書などは,学生役の太郎と花子を出して(わざと幼稚な推論をさせておいてから),先生が答えたりという対話形式を取るものもありますし,この形式は,分かりやすいということなのでしょう.(テレビでも,わざと低レベルの質問を生徒役のタレントにさせてますし.)

対話篇.

しかし,たまに,前主張から後主張,あるいは,後主張から前主張の反転が言語的に明示されてない場合もあって,内容的に判断するしかない場合もありますからね.

落語なら声色で分かりますが.

それがサンスクリット論書の困ったところです.

日本語だと,小説では,確かに,戯曲とは違って,「太郎:」「花子:」などと話者は明示されてないですからね.

ジャヤンタでも,たまに,高速で話者が入れ替わったりします.

そんなときは,話者の入れ替えを明示するなどというのは,もはや,無粋ですから,反転明記が何もなかったりします.

そういえば,むかし,ジャヤンタのどこかで,ヴァースの中で問答の話者がくるくると入れ替わっているのがありました.

どんだけ詩作のテクがあるのでしょう.

ジュニャーナシュリーは,ちゃんと,athaやcetを使って明示してくれています.

たまに,ダメ押しかのように,atha .... cetの両方使用(これは意味的には重複するので本当はどちらかが不要)まであったりして,始まりと終わりが明示されている場合もあります.(もっとも,この場合は,あとから誰かが写本に書き入れたということもなきにしもあらずですけど.)

にしても,スチャリタを読んでいると,ストレートにやっておけばいいものを,どうも,ウンベーカを意識したのか,それとは異なる自分の解釈を打ち出したはいいけど,なんだか説明がつかなくなって,さらにそのための弁明・弁解・言い訳に,無駄に行を使っていたりして,笑っちゃいます.

独自色だしたくなるときもあるんでしょうね.

強弁というやつですか.

一所懸命押しているときは,たいがい,無理があるものです.

ダルマキールティやジネーンドラブッディが「ディグナーガの真意は」などと説明するときに,それが,ディグナーガの真意ではないことを逆に示唆しているのと似たようなところがあります.

素直な解釈であれば,最初から強調・説明する必要もないですから,さらさらと流せばいいだけのことです.

まあ,そうやって足掻いて,なにか新機軸を打ち出そうとするところに,面白い風景が見えてくる場合もありますけど.

ともあれ,「隠れた真実を開示する」と大上段に語る人には要注意.

むかしハルと読んだカーリダーサへの注釈,たしか,ジョーナラージャだったでしょうか,もう,幾つも幾つも解釈を出しているのがありました.

ほとんど遊び.

こうも解釈できる,こうも解釈できる.

あそこまで行くと,逆に,大喜利です.

どんだけ新しい解釈を引き出せるのか,技量のひけらかしになって,それはそれで,面白いことになります.

パンディットたるもの,同じAから,aも引き出せれば,それとはまったく異なるbも引き出せるくらいでないとダメなのでしょう.

Vrttikaraに至っては,スートラに対して否定辞のnaまで勝手に補ってますしね.

まったく逆の意味になってしまいます.

あれはさすがにどうかと思いますが.
  1. 2021/09/12(日) 12:24:05|
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博士指導



インド留学中だったでしょうか,えらい昔に自分が作った訳のファイルを見直すと,自力でぱっぱと作った粗訳とはいえ,さすがに細部の解釈・訳語にアラが目立ちますね.

いま直し.

いわば,20年以上経って,自分が自分に指導されているわけです.

そのころに,今の自分に指導されていたら,えらい楽だったでしょうね.

やはり,経験というのは大事です.
  1. 2021/09/11(土) 08:51:02|
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やはり



エディションを作る時というのは,科段も一緒につくるべきでしょう.

そうすることで,内容も読めるようになります.

ずらずらと校訂してるだけでは,森の中のどこにいるのか,自分の位置を見失ってしまいます.

内容理解を目指すならば,やはり,入念に準備して,校訂の際に,科段まで作成すべきでしょう.

もっとも,そのためには,ものすごい思考力が必要とされるので,写本をチェックするのとは,また違う頭が必要とされますけど.

あくまでも理想的には,ということです.

そして,科段を作るためには,粗訳であれ,翻訳を作る必要に迫られます.

そこまでやってのエディションだ,という気がします.

そうすることで,細部のemendationも自信をもって可能となります.

この文脈ではこのことを言ってるはずだ,という自信が持てますから.

ハルくらいに脳のメモリが多ければ,全体の文脈を捉えて,「このapiはどうもおかしい」ということが分かるでしょうけど,脳内メモリが限られている凡人の場合は,5ページ全体の文脈を思い返すとか不可能ですから,まず,区切って区切って,集中する範囲を絞ることで,この2~3行の役割をしっかりととらえ直したうえで,一行の意趣を理解する必要があります.

そうすることで,このapiが浮いているかどうか,判断できるようになります.

空中戦のまま,ふわふわ浮いていると,まったく地に足が付かないまま,字面を追うだけになってしまいます.

まずは段落分け.

そして,それぞれの含意を延長.

自分の理解が正しいのかどうかを確かめ確かめしながら進んでいく必要があります.

実際,Jを読んでいくと,前後で内容が重複して,同じことを言ってますから,整理していくと,不明だった文章の意味が後から鮮明になることが,よくあります.

その場合も,文脈が同じかどうか確認する必要がありますから,科段は欠かせません.

これができてないと,まったく的外れなAとBとを字面の相似性のみに反応して関連させてしまいかねません.

テクストを読むに際しても,やはり,まずは分類,仕分け,そして,組み立て,再構成.

そうすることで,それぞれの文章の役割が明らかになりますし,重みも明らかになります.

1000年後の我々には最早わかりにくい比喩の意味も,それではじめて明瞭となる場合もあります.
  1. 2021/09/11(土) 07:15:02|
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Jnanasriの自己認識論



ハル講師により読み進められつつあるサーカーラの第五章.

あいかわらずですが,Jの構成は,フリーです.

構成をしっかりするために,最初は場合分けをして,それに沿って進めていて,「最初はいい感じ」にやっていたはずですが,途中から,そこらへんは無視して,もう,大事な論点だけに全集中.

場合わけしたならば,ちゃんと,1~5で,順に進めてほしいものです.

スープから順番に食べていたけど,美味しいものを我慢できずに,もう,途中から,いきなりデザートに移行するみたいな人です.

どこまでもフリー.

実際の議論が盛り上がれば,心に顕れたそのままを駄々洩れで実況する人なのでしょう.

浮かんできた心の声をそのまま垂れ流す深夜ラジオのDJみたいなものでしょうか.

あいかわらず,構成作家は不在.

その割に,この手の議論にありがちですが,細部での場合分けはとても好きですから,途中途中に細かい場合分けは挟んできます.

読む側が,彼のフリー具合に慣れてないと付いていくのは難しいですね.

振り落とされます.

好き勝手に動き回る暴れ馬のようです.

才気煥発といえば聞こえはいいですが,あまり,学生のことは考えてない人のようです.

思いつくままに重ねていくタイプの人なんでしょう.

学生が,「よく分かりません」と言うと,いくらでも似たような説明を重ねていって,ますます泥沼に学生ははまりこんでいきます.

薫習的に分からせる(しみこませる)タイプの人でしょうか.

習うより慣れろ.

自己認識理論の理解の習慣化.

一種,bhaavanaaで,自己認識理論を何度も繰り返して理解の極に至らせる実践なのかもしれません.

ラトナキールティが体系的なのは,きっと,こんな師匠の下で鍛えられたから,「ノートはちゃんと整理しなきゃね」というのが身に染みて分かったからでしょう.

未整理,カオス.

同じことを少しずつずらしながら言い重ねていく言葉の妙.

ある意味,流されつつ味わうべきような対象であって,読み手としての自分の立ち位置を固定すべきではなく,Jの波に乗っていく覚悟が必要とされます.

不動心ならぬ遊動心.

Jの発想法とぴたりと自分の頭が同期すると,彼の言いたいことも,彼の断片的な(説明不足の)言葉から伝わってくるようになります.

そもそも,プラジュニャーカラを分かっていれば,Jの言うことは,それの変奏ですから,Jから学ぶ必要はないわけです.

つまり,Pを下敷きにしたJのアドリブ,インプロヴィゼーションが,Jの自由な記述なわけです.

そのアドリブの面白みを,ちゃんと理解するには,基本のPを理解してないと無理なわけです.

あちらこちらにPのフレーズが差し挟まれているのも,Jのアドリブの妙.

きみ,分かってるよね,ということなのでしょう.

読者が試されているわけです.

読み手を試す,こういう態度は,インドの論師にはたまに見られます.

「あれですよね,わかってますよ」と,粋人達(rasikaa.h)は,そのフレーズの本歌取り具合を楽しむべきなのです.

無理解は無粋.

にしても,ヴィクラマシーラの出納係とか用度係とか,こういう人に任せたら危険ですね.

その場の思い付きで食糧を注文しそうです.

J「明日の米は1000人前,よろしく~」
R「先生,1500人分必要です」
J「なら,1500人分で,よろしく」

ラトナキールティに同情します.

煙に巻くのはうまいので,討論会や長老会議では最強だったでしょう.

中観派がさんざん,自己認識はありえない,と言ってるのに,もう,全然話が通じてませんからね.

自己認識モード全開で喋りまくってます.

聞く耳持たず.

馬耳東風.

自己認識が信用できないなら,他による認識はなおさら信用できないではないか.以上.
  1. 2021/09/10(金) 08:06:52|
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punar api



さらに,なぞの評価依頼がまったく知らないところから(英語ですけど)舞い込んできました.

評価仕事といっても,我々の場合,ただ働きですけど.

おたがいさまでしょうから.

しかし,おたがいさまといっても,日本語環境の私は,英語からの人には英語で使われる――そしてそれは日本語でやる何倍もの労苦――けど,しかし,私が日本語関係で英語の人にお世話になることはありませんから,やはり,言語の差は大きい.

世に言う国際化というのは,現実的には,まあ,英語化(あるいは英語[のみ]可)ということでしょうけど,こっち側に無理を強いてくるものであるのは確かでしょう.

しかたないです.

現実ですから.

文句いってもはじまりません.

しかし,あほみたいに皆さん,評価だいすきですねー.

客観的な評価.

どうも,検証必要の他律的真の論者が現今は多いようです.

ナイヤーイカばかりのようです.

自律的真のミーマーンサカとしては,では,評価する私の評価は誰が保証するの?と,クマーリラのごとく,裏付けの裏付けまで攻めたくなりますけど,現実的には,そこそこの他律で皆さん満足してますから,まあ,よしとしましょう.

亀の甲羅の上に大地が成立している,というので結構,というのと同じことです.

昔々,アディヤール図書館をたずねたときのこと.

紹介のレターが必要というので,後輩のS君が,エコール所長のドミニクのレターを持参.

窓口にて.

「紹介状はあるの?」
「これです」
「よし.許可」

というわけで,後輩は無事に利用許可証をもらいました.

しかし,一緒に行ったドミニク自身は,紹介状を用意してなかったので,利用許可証がおりませんでした.

そんなもんでしょう.

他律的真.

他から真.

なんなら,無名の後輩に紹介レターを書いてもらえば(相互依存の科に陥るとはいえ)役所風対応には,それでよかったかもしれません.

規則ですから.

表面があっていれば,それでよし.

つまり,仏教風に言えば,世間的には,世間の中でうまく回ってればそれでよしで,逆に,つきつめていえば,全部,誤りです.

考察検討しない限りにおいて良きかな良きかなとは,中観派の言ですが,むべなるかな.
  1. 2021/09/10(金) 00:42:28|
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もろもろ



印仏研も終わり、原稿も提出。

印仏研は、誰でもそうでしょうけど、私の場合、O野教授の査読サインを貰わないといけないのですが、部屋に行くとオンライン会議中でした。

昨今は、在室でも、オンライン中の場合がありますから、下手にノックできませんね。

授業などやってるときに、もしも保険屋の勧誘とか来たら切れますね。

とはいえ、伊都は遠すぎ、かつて箱崎ではよく見た保険屋も、全然姿を見ないですけど。




原稿提出に、そのほかの校正も終了、

自分自身はきれいさっぱりの身になったはずですが、なぜか、こういう時期は、外からの(私にとっては)不要不急(頼むひとにとっては重要緊急)の仕事が舞い込みます。

リファレンスの依頼。英語での推薦書。

英語で書くとなると、それなりに面倒です。

しかも急ぎだそうです。

頼まれて1日で書いて、さっさと提出。

あとは、なんか、微妙に専門から離れた英語論文の査読。

なんで私に頼んでくる?

断ってもほかに行き場がないのが見えてるので(担当者も困るでしょうから)引き受けますけど。

そういえば、むかしむかし、なんかの辞書項目でヒンドゥー教関係を担当したら、

「先生、(ついでに)ブードゥー教も見てもらえませんか?」

とのこと。

さすがに断りました。

えらいひとは、こういうのも断らずにやるんですかね。

ブルーズの歌詞で聞くくらいですね、その単語。

怪しげなものはこいつに任せとけ、ということでしょうか。

世の中の人(編集者も含む)にとっては、ヒンドゥーもブードゥーも、似たようなものなのでしょう。(どうせなら、ブーズーにしたら?)

しかし、辞書の巻頭の担当者のところで、「ヒンドゥー教・ブードゥー教、担当何某」

とあったら、笑っちゃいます。

あいつは、なにやってんだ、と(周囲の評が)なるでしょうね。




そういえば、昨年の今頃だったでしょうか、突然、紀元「前」5世紀頃のインド社会、仏教興隆期の時代背景について書け、という依頼がきました。

専門からいうと1000年ずれてますけど、まあ勉強と思って、そのまま受けて、そのまま書きましたけど。

西洋哲学ではありえないでしょうね。

中世の人にギリシアの依頼とか。

歴史・考古だと、平安の人に縄文の依頼、といった感じでしょうか。

人の専門が何かなんて、ちょっとずれたら分かりませんね。

インドの場合、期待されてるのもかなりざっくりなので、逆に言えば、なんでもできるのでいいかもしれません。

ヘーマチャンドラもなんでもやってましたからね。

なんでもやるべきなのでしょう。

出されたものは何でも食べる、

偏食はいけないと教わってきましたし。

戒律文献でも、見てると、やはり、出されたものを受けるというのは初期の出家者には重要だったのでしょう。(普段から肉食ってるサポーターから肉出されて、「肉食わないんで、よろしく~」とか言ったら感じ悪いですよね。)

好き嫌い言ってられません。

腹壊す腐った豚肉でも食べないといけないわけです。

そりゃ、死んじゃいますよね。

結局、社会に合わせて変化する、ということで、基準は、時代によって上下するものなのでしょう。

周囲がベジっぽい雰囲気になってきたら、それまでの経緯は措いておいて、ではうちもベジに、というように節操なく変化するものなのでしょう。

清弁なんかは、理屈っぽいですから、「いや、仏教の基本はノンベジ(三種の浄肉)」と頑張ってますけど。

『一切智思想の研究』は、清弁の基本的立場を派手に捉え間違ってますが。

シュミットハウゼン最近刊にも、慎重に指摘されてました。
  1. 2021/09/09(木) 07:21:41|
  2. 未分類

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  1. 2021/09/08(水) 19:07:45|
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