Pratibhanusarini --- 九州インド哲学ブログ2

On Indian Philosophy and Buddhist Studies

日本南アジア学会



日本南アジア学会.

今回は,神戸市外大にて開催.

開催校の責任者は大石さん.

一日目午後のシンポは,神戸におけるインド商人について.

海外からの二名の発表を含め,シンポは,すべて英語での発表でした.

また,個別のパネル,セクションも,半数以上が英語での発表という,極めて英語化した大会となりました.

次期の理事長は水島先生が選出されました.

来年は30回目の節目の記念大会になるとのことでしたが,学会は現状,事務の引き受けてもなくて大変だから,「私の代で解散選言するかもよ」との厳しい決意表明.

たしかに,南アジア学会,いろいろと問題を抱えています.

わたしとしては,もう少し緩く,日本のインド研究者が気楽に集う場となってほしいのですが.

あまりに英語化するのも,無駄に敷居が高くなって,若手の参加を促すには逆効果でないでしょうか.

また,分野外の者にとっては(たとえば古典研究者にとっての現代インドの経済の研究など),インド研究のあれこれの現状を窺うのに,いちいち英語で聞くというのも面倒です.

というのも,日本人が英語で発表すると,発音からして,分かりにくいので.

(つまり,英語人→日本語人ならいいのですが,日本語人→英語→日本語人だと,情報の伝達スピードや正確さが,どうしても劣化する.)

下手な英語を聞くくらいなら,同じ日本人同士なので,日本語でやってもらったほうが速いというものです.

英語でやりたい人は英語でやればいいので,まあ,適度にちゃんぽんな学会でいいでしょう.

同時並行の複数ある,どれか一つのセクションは英語,というくらいで十分だと思います.(つまり,1/3,あるいは,1/4程度.)

突っ込んだ内容の英語での発表は,個別の専門化した余所の学会でやればいいのではないでしょうか.

たとえば私がインド哲学の非常に専門的なサンスクリットの内容(インド思想史学会でやるような内容)を南アジア学会で英語でやるとなったら,あまり賛同を得ないことでしょう.

私なら分野外の人の多くが理解できるような内容を,南アジア学会では選びますし,会場の多くが理解できるように日本語でやるでしょう.

現代インド研究は,南アジア学会から派生したINDASプロジェクトで盛んとなっていますが,その母胎となった南アジア学会は,先行き不安な感じです.

金のかかる割に,会員の世界的プレゼンス向上に役立っているとはとても言えない気がする(つまりパブリシティが低いと思われる)英文雑誌は勇気をもって止めるべきだと思います.

昔のように,雑誌はひとつでいいのではないでしょうか.言語選択は,その中でちゃんぽんでいいでしょう.

来年2017年の開催校は,東洋大学.
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  1. 2016/09/26(月) 07:15:23|
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知覚の定義?

沖 1987「Dharmottarapradīpaにおける現量の定義」は,ドゥルヴェーカミシュラ作DhPの知覚定義を取り上げています.

小論ながら,DhPの趣旨を隙無く掬い上げた素晴らしい論文です.

一部を勝手に補いながら,私なりに(私の頭で理解できるように)解釈し直すと以下のようになります.




「両者の内,知覚というのは,分別を離れており(Ka, 無分別),錯誤していないものである(Ab, 非錯誤)」というNB 1.4をどのように解釈すべきかという問題があります.

ダルマキールティとしては,ディグナーガを受けて,「分別を離れている」(無分別)だけでは不十分で,錯覚を除くためには「ただし錯誤していない」(非錯誤)という規定も加える必要があると考えたのでしょう.

つまり,「両者の内,知覚というのは,ディグナーガの言うように分別を離れたものであるが,ただし(無分別の錯覚を除くために)錯誤していないもの,という規定も加える必要がある」という感じでしょう.

無分別 ∩ 非錯誤という二条件を述べるとき,四句分別よろしく,ABCDの四つの領域を考えることになります.

A: Ka ∩ ¬Ab 無分別・錯誤)
B: ¬Ka ∩ Ab (有分別・非錯誤)
C: Ka ∩ Ab (無分別・非錯誤)
D: ¬Ka ∩ ¬Ab (有分別・錯誤)

それぞれの中身は次のようになるでしょう.

A: 二月などの(無分別の)錯覚
B: φ
C: (正しい)知覚
D: 推論・知覚判断・想起・夢の認識

この二条件を厳密な定義として考えた場合,Bに問題が生じます.

つまり,「錯誤しておらず,有分別のもの」というのに相当するものが何もないので,空集合となってしまうのです.

有分別のものは,知覚判断にせよ,推論にせよ,想起にせよ,いずれも認識対象に関して錯誤しています.(なぜならそれらの認識対象は独自相ではなく共通相だからです.)

したがって,定義としては,実は,「無分別のもの=知覚」だけで十分となってしまうのです.

註釈者としては,少し手を加える必要が生じることになります.



ヴィニータデーヴァは,これを厳密な知覚定義と考えます.

キーポイントは,「非錯誤」を「(獲得対象に関して)食い違いのない」と読み替えるところにあります.

こうすると,配分がうまくいきます.

A: 二月などの錯覚
B: 推論
C: (正しい)知覚(ヨーガーチャーラ・経量部に共通)
D: 知覚判断など

定義の一条件「無分別」によって,まず,推論を排除します.

次に,もう一つの条件「食い違いのない」によって,二月などの錯覚を排除します.

これで,正しい知覚の定義が成り立ちます.つまり,「無分別で,かつ,獲得対象に関して食い違いのないもの」=「知覚」となります.

しかも,「獲得対象に関して食い違いのない」と読み替えることで,ヨーガーチャーラでも使える定義となります.

「非錯誤」とすると,外界対象を認める経量部にしか使えなくなってしまうのです.

というのも,ヨーガーチャーラでは,知覚すらも本質的に錯誤していると考えるからです.

「無分別で,しかも,結果としてうまくいく」という定義ならヨーガーチャーラでも問題ありません.




ダルモッタラは,ヴィニータデーヴァなどの先師の理解を批判します.

そもそも,ここでは「両者の内」とあるように,文脈上すでに,食い違いのない認識である正しい認識が話題となっているので,「食い違いのない」を更に繰り返す必要はないのです.

つまり,「食い違いのない認識である知覚というのは,食い違いのないものである」と記述するのは変だ,ということです.

したがってダルモッタラは,「非錯誤」を字義通り「非錯誤」と取ります.

さらに,ダルモッタラは,NB 1.4を知覚定義とみなしません.

確かにダルモッタラの考えるように,ダルマキールティの文脈からは,「両者の内,知覚というのは」とありますから,既に周知の知覚について,その性質を新たに指摘している(それによって異論を排斥している)と取ることが可能です.

ダルモッタラによれば,「世間周知の,食い違いのない正しい認識である知覚というのは(経量部では),無分別であり(したがってXではなく),また,非錯誤である(したがって錯覚ではない)」となります.

A: 動く木などの錯覚
B: X
C: (正しい)知覚(経量部のみ)
D: 知覚判断など

いずれの条件も,定義的特質として述べられているわけではなく,単に,異論を排除するためにあります.

また,非錯誤を厳密に所縁に関して,と取りますから,この性格規定は,経量部にしか適用できません.




ダルモッタラは,BのXのところが何かを明言していません.

ドゥルヴェーカミシュラは,BのXのところを,知覚判断と明言しています.

A: 二月・黄色のほら貝
B: 知覚判断
C: 知覚
D: 推論・想起・夢の認識

クマーリラなどの言う有分別知覚に相当する知覚判断を「知覚」とする学派は沢山ありますから,異論排除という意味では,このXを知覚判断と明言するのはしっくりきます.

いわゆる有分別知覚,すなわち,知覚判断は,知覚ではない,という趣旨となります.

(なお,「知覚」に有分別のものである知覚判断まで含めて考えるか否かについては,沖 1993に論じられており,沖先生の言うように,含めないというのが正しいでしょう.沖 1993と対立する見解については,北原 1996「adhyavasāya―有形象理論における唯識と外界―」(『論集』23, 84(55)-71(68))の「結び」の補注も参照.)




なお,沖先生の論文タイトルですが,結論からすると,NB 1.4は「現量の定義」ではない,というのがダルモッタラおよびドゥルヴェーカミシュラの趣旨ですから,「Dharmottarapradīpaにおける現量の定義」というのは,実は,少しずれることになります.厳密には,現量の定義に見える一文の解釈,というようなことになるでしょう.
  1. 2016/09/20(火) 08:15:41|
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A.R. Rahman in Fukuoka



1995年10月1日,マドラス空港に降り立ち,そのままタクシーでティルパティに直行しました.

その日から,ヴィシュヌ派の僧院(マト)に寝泊まりしながら,サンスクリット大学で学ぶ留学生活が始まりました.

その時に大ヒット中だった映画がRangeelaです.

一介のバックダンサーだったウルミラが主役を張って,実生活でも映画の中でもヒロインになる成功物語の映画です.

(その頃若かったAmir Khanがいまだに若いのには驚かされます.)

「連続ヒット上映中」ということで,街の至る所から,そして,朝から晩まで,「オーオー,ランギーラー」という曲が流れてきます.

途中の耳に残るリズム,それに,子供のラップ.

タミルのA.R.Rahmanのヒンディー映画進出作でした.

映画もヒット,ラフマーンもインド全国区に.

それから21年,まさか,福岡でラフマーン本人のライブを見ることができるとは誰が想像できたでしょうか.

予想通り,滞在中のご飯は,106サウスインディアンで食べたり宅配だったりしたそうです.(一回はパーキスターン料理のザエカ.)

南っ子は,やっぱり南インド料理です.

授賞式翌日のフォーラムでラフマーンと対談された音楽評論家のサラーム海上さん,壇上から興奮気味の様子が伝わってきました.

シャイで謙虚なラフマーンらしく,訥々とした喋り口.

いずれも本心からそう思っているのだなと感じさせてくれる一言一言でした.(対談詳細はhttp://blog.goo.ne.jp/cinemaasia/e/1a616d468b8b2831a6df488b1525a0e9
  1. 2016/09/18(日) 08:43:47|
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沖和史先生の論文ビブリオ


1973 Dharmakīrtiの《citrādvaita》理論,『印度学仏教学研究』21-2, 975(88)-969(94).

1975 《citrādvaita》理論の展開――Prajñākaraguptaの論述――,『東海仏教』20, 94-81.

1977 ラトナーカラシャーンティの有形象説批判,『印度学仏教学研究』25-2, 940(61)-937(64).

1982 自相について,『密教学研究』14, 99-114.

1982 無相唯識と有相唯識,『講座・大乗仏教8――唯識思想』(春秋社),177-209.

1983 インド後期唯識思想における正しい認識,『日本仏教学会年報』48, 119-137.

1986 ダルモーッタラ著『正理一滴論註』第I章の和訳研究(1),『哲学』(広島哲学会)38,48-66.

1987 Dharmottarapradīpaにおける現量の定義,『印度学仏教学研究』35-2, 878(143)-873(148).

1988 唯識,『岩波講座東洋思想 第八巻 インド仏教I』(岩波書店),288-313.

1990 ダルモーッタラ著『正理一滴論註』(Nyāyabinduṭīkā)第一章における知覚判断,仲『尾俊博先生古稀記念:仏教と社会』 ,137-160.

1992 インド大乗仏教思想における外界実在論批判の特色、『仏教万華』 永田文昌堂、 129-154.

1993 ダルモーッタラの「量量果非別体論」――Nyāyabinduṭīkāにおける―― ,『渡邊文麿博士追悼記念論集:原始仏教と大乗仏教 下』(前田恵学編,永田文昌堂),119-136.

1998 svapratibhāse ’narthe ’rthādhyavasāyena pravṛtteḥ, 『信心の社会性:仲尾俊博先生追悼論文集』,201-213

1999 無常の観察と慈悲の修習,『種智院大学公開講座第5集』,162-186. 

1999 Pravṛtti as an Action of a Person, Dharmakīrti’s Thought and Its Impact on Indian and Tibetan Philosophy, Proceedings of the Third International Dharmakīrti Conference Hiroshima, November 4-6, 1997, 287-294.

2000 ダルモーッタラ著『正理一滴論註』第I章の和訳研究(2),『インドの文化と論理:戸崎宏正博士古稀記念論文集』(九州大学出版会),347-358.

2001 インド唯識思想の歴史,『種智院大学公開講座第7集』,109-134.

2004 インド後期仏教における唯識の思想と知覚の理論, 広島大学学位請求論文 301ページ.

2008 インド後期唯識思想序説,『仏教学セミナー』87, 49(34)-34(49) .






沖 2008:40(43):
「トルソーの胴体」(śīraputrakasya śarīram)>「トルソーの胴体」(śilāputrakasya śarīram)

なお,私なら,「石像の体」とでも訳すでしょうか.別に,胴体だけの石像が意図されているわけではなくて,頭も手足もついていてもよい石像だと思います.

沖 1990:157, n. 14:
vikalpenānugamyate 'nustriyate adhyavasīyate

もとのマルヴァニア版も確かに'nustriyateとしていますが,単に,'nusriyateの誤植でしょう.

anusriyateという言い換えからも分かるように,anugamyateの直接の意味としては「後ろに続かれる」「後続される」という物理的な意味があって,そのあと,認識論的な意味として,「後から理解される」「判断される」という意味が出てくるでしょう.したがって,「後続される」という直接的な意味を外すことはできないと思います.知覚に後続する(anu-gam)するものとしての知覚判断の位置を明確にしている表現でしょう.その実質的な内容はもちろん分別によるadhyavasāyaとなるので,最終的にはadhyavasīyateとなるでしょうけど.

したがって,沖 1990:144:「概念知によって判定される(vikalpenānugamyate)」は,直訳としては,少し物足りない感じがします.少なくとも,原語がもっている「後続」のイメージが欠落したものとなっていると思います.gamの二義(物理的・身体的な「行く」の意味と,認識論的な「知る」の意味)との両者を反映させておくのが無難かと思います.(ただし解説文では両者をしっかり説明されています.)


知覚と知覚判断の関係は,或る意味,アーティストと評論家の関係に似ているものがあります.

評価してくれる評論家がいないせいで,そのまま埋もれて世に出なかったアーティストもいれば,評論家のおかげで世に出てくるアーティストもいます.

世に出てこなかったアーティストは,まあ,無きに等しいもの,と言えます.

いっぽう,評論家のおかげで世に出てきたからといって,「アーティストと評論家,両者が新しい世界を切り開いた主エンジン」と言うのは不適当でしょう.

第一義的に創造したのはアーティストであって,評論家はそれを後追いしてるだけで,対象そのものの情報に関しては何も付け加えていません.

同じように,知覚も,知覚判断が後続しなければ意識化されないわけで,そうすると,対象獲得行動を起こさせないのですが,だからといって,「知覚+知覚判断」という両者が対象を知らしめる主原因だ,と言うのは不適当です.

あくまでも,知覚こそが,対象を示すものであり,行動を起こさせるものであり,したがって,正しい認識の第一の原因であり,新情報を与えるものです.

知覚判断は後追いしてるだけで,何か,対象についての新規情報を付与しているわけではありません.

ダルモッタラが言いたいことは,例えて言えば,そのようなことでしょう.




桂研終了後に沖先生から色々と昔話を伺う機会がありましたが,70年代の京大のレベルの高さは,やはり,すごいですね.

先生の論文も素晴らしいものばかりです.

70年代,80年代に比して,現在の我々は,どれほど進歩できているのでしょうか.

少なくとも,傾きとか勢いとしては,たいして上向きではないような気がします.

沖先生が学生だったころの京大は,梶山・服部の両教授,先輩には桂先生という環境です.

そして西の九州からは,戸崎先生がPVの知覚論を着々と解読しつつありました.

論文からは,新たな分野の文献を読み解いて明晰に記述するぞという強い意志が伝わってきます.
  1. 2016/09/17(土) 07:50:54|
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BBQ



研修所の夕食はバーベキューのみ.

施設の職員も,肉と野菜を用意するだけなので,こちらのほうが楽です.

ガスバーナーがあるので,炭を熾すのも簡単です.

肉は,鶏・豚・牛と三種.

量も十分でした.

クオリティーも高い.

しかも格安です.
  1. 2016/09/15(木) 20:21:15|
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Uni asrama in Kuju



九大の「山の家」.

地獄側に風呂があります.
  1. 2016/09/15(木) 20:16:22|
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naraka



九大の九重研修所の裏手にある小松地獄.

温泉卵をゆでることのできる場所が二箇所.

卵を持ってくるべきでした.
  1. 2016/09/15(木) 20:12:08|
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nirjhara



帰路の途上にある桂茶屋そばの天狗の滝.

その先が土砂崩れで通行止めとなっていました.
  1. 2016/09/15(木) 20:09:56|
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Darsana-sala

  1. 2016/09/12(月) 22:40:50|
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Marhaba



  1. 2016/09/12(月) 22:38:58|
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Bhuta-utsarjana-mela

  1. 2016/09/12(月) 22:36:40|
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received: 志賀浄邦「TattvasamgrahaおよびTattvasamgrahapanjika第21章「三時の考察(Traikalyapariksa)校訂テキストと和訳(kk. 1785-1808)」

志賀浄邦
TattvasaṃgrahaおよびTattvasaṃgrahapañjikā第21章「三時の考察(Traikālyaparīkṣā)校訂テキストと和訳(kk. 1785-1808)
2015年12月
『インド学チベット学研究』19,158-209.




p. 168, n. (d)
sa.mkhya > saa.mkhya


p. 182, n. (169)
TS 1782:
naavathaana.m > naavasthaana.m


p. 185, n. 180
vartikaaですが,v.rtが回るの意味で,v.rttaも円なので,vartikaaも小さい球体,小玉でいけるのではないでしょうか.

p. 200
[あなた方に]有利に働く>役立つ




背後にあるアビダルマ関連の脚注情報が豊富なので,えらく勉強になります.

間違いも非常に少ないです.

これは驚くべき事です.

最高のエディションだと思います.

アン・マクドナルドも大概,間違いの少ない人ですが,志賀さんのもすごいレベルだと思います.

ここまでの精巧なエディションを作れる人は,滅多にいません.

大海に浮かぶ木片の穴から亀が首を出すのと同じくらい希有なことです,スブーティよ!
  1. 2016/09/10(土) 10:42:11|
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received: 桂紹隆「仏教研究の最前線~龍谷大学から世界へ~」

桂紹隆
「仏教研究の最前線~龍谷大学から世界へ~」
第84回 仏教文化講演会記録
2016年3月
『仏教文化研究所紀要』54, 162-180.




本邦のインド仏教研究のみならず,世界のインド仏教論理学および関連分野の研究を長きに渡って牽引してきた(そしていまもばりばりの現役である)第一人者,桂先生による総括と概観.

インド仏教のみならず,広く仏教研究全般が概観されています.

斯学を志す者が真っ先に読むべき講演記録です.

大学者は,さすが,カヴァーする領域が広いです.

「次に,注目すべき分野としては,「密教研究」が挙げられるでしょう」(p. 176)とあります.

まさか,龍谷大学の講演で,このような言葉が出るとは,聴講の真宗学生もぽかーんだったでしょう.

同時代の現場にいた者でないと知ることの難しい様々な研究の経緯なども綴られています.

情報満載の論攷です.
  1. 2016/09/10(土) 10:39:03|
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Solmari




  1. 2016/09/10(土) 10:23:48|
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Dikcakra and Śukla-tantra




Congratulations to Iwasaki san and Nemoto san.
  1. 2016/09/10(土) 09:59:41|
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namo 'mitaabha buddhaaya नमोमिताभबुद्धाय



Illumination is real, whereas illuminated blue, etc., are unreal.

The relationship between illumination and blue, i.e. identity or "blue's having illumination as its essence", is also unreal and false.

This is what happens in reality where "blue appears".

In other words, blue is abhuuta, while illumination/appearance/mental construction (parikalpa) is real.
  1. 2016/09/10(土) 09:44:25|
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Three-four-pond (Tricatuḥsaras)


  1. 2016/09/10(土) 09:41:10|
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Sankibo



社長に挨拶がてら立ち寄ったところ,末木先生に遭遇.

お忙しい様子でした.

そういえば,むかし,法文1号館で,先生の日本仏教講義を受けていました.

学会会場の法文の教室,むかしと何も変わりません.

狭い.

唯識会場は立ち見で溢れかえっていました.

瑜伽行派によれば,この法文二号館の狭さも,我々の共業が作りだしたものだそうです.

よっぽどみなの行いが悪かったのでしょう.

極微同士の6方向での接触の有無を手がかりに,外界存在否定をする唯識ですが,人で溢れかえった「他相続の現存在」については,どう説明してくれるのでしょうか.
  1. 2016/09/10(土) 09:37:36|
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Aangan

  1. 2016/09/10(土) 09:34:46|
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UniCoop



  1. 2016/09/10(土) 09:32:33|
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Purja2




  1. 2016/09/10(土) 09:28:29|
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Andhra Dhaba

  1. 2016/09/10(土) 09:26:04|
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アジアンマルシェ in Yakuin area

  1. 2016/09/10(土) 08:43:16|
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Gamlangdii in Daimyo





  1. 2016/09/10(土) 08:41:09|
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Newly opened in Oyafuko (moved from Nanakuma)

glory 006
glory 011
glory 003
glory 014
glory 001

I must say that the meat and the pakora are too salty.

The atmosphere is good; and the counter is very wide. Comfortable place altogether.

Compare it with the Glory in Nanakuma.

  1. 2016/09/06(火) 22:44:34|
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唯識部会

9 月 4 日(日) 午前の部(9:00 ~ 12:00)

1. 瑜伽行派の心識論における tajjo manaskāraḥ 再考 楊   潔(東京大学大学院)

2. スティラマティ『五蘊論釈』が論及する三世実有説について 清水 尚史(東京大学大学院)

3.『瑜伽師地論』「摂決択分菩薩地」における不一不異説 那須 円照(龍谷大学仏教文化研究所客員研究員)

4.『瑜伽論』摂決択分の梵文注釈書断簡について 崔  珍景(ミュンヘン大学研究員)

5.『菩薩地』における「余れるもの」 本村 耐樹(名古屋大学非常勤講師)

6. 初期唯識文献における「他人の分別」 高橋 晃一(東京大学特任研究員)

7. 複合語 abhūtaparikalpa は karmadhāraya か 金  俊佑(佛教大学大学院)

8. Prajñāpāramitopadeśa におけるアーラヤ識 早島  慧(龍谷大学非常勤講師)

9. 初期唯識思想における「外のアートマン」についての一考察 北野新太郎(九州大学非常勤講師)




金氏の発表.

結論はその通りです.

karmadhārayaではなくtatpuruṣaしかありえません.

abhūtaparikalpaについては,abhūtasya parikalpaḥというtatpuruṣa解釈しかないと私自身は当然のこととして前提としていましたが,研究史を見ると,意外にも,karmadhāraya を前提としている記述が見られるのには驚きあきれました.

長尾先生もどうしちゃったのでしょうか.

まったく不思議です.

金さんも指摘していますが,教理的にも,parikalpaはparatantraとして有でないといけないのですから,無たるabhūtaでないのは当然です.

金さんの発表に対して斎藤明先生から,athavāを挟むことで両方の可能性があるのではないか,今一度テクストを確認したらどうか,という意見がありましたが,金さんが引用したところにathavāはありませんので,スティラマティが二つの解釈の可能性を示しているという可能性はないでしょう.

つまり,

1.abhūtaparikalpaという合成語はkarmadhārayaのみである.
2.abhūtaparikalpaという合成語はtatpuruṣaのみである.
3.abhūtaparikalpaという合成語には両方の解釈可能性がある.

という三つの可能性があるでしょうが,正解は,いわずもがな2でしょう.

3の可能性は,スティラマティを問わず,誰に関してもありえないでしょう.

三性説の基本構造を考えれば,そもそも,abhūtaという無と,parikalpaという有とを対立させるという発想があるのですから,parikalpaが無になってしまっては,元も子もありません.

そもそも,学会発表するほどもなく当然のことだと私は思っていましたが,会場の雰囲気を見ていると,案外そうでもないし,しかも,先行研究を見てみると,確かに,曖昧なままに放置されていることが多いようですし,それどころか,長尾先生は1だと考えています.

会場から金さんの発表にたいして疑問があがったことのほうが,私には驚きでした.

唯識の研究史の積み重ねには敬意を払うべきものが有りますが,サンスクリットの理解に関して,案外,基本的なことが抜け落ちている場合があるのかもしれません.

やはり,サンスクリットを読んで感じて疑問に思ったことを素直に疑問として立てるのは重要だと思いました.

「虚妄分別」という漢字の感じから,「虚妄な分別」などというkarmadhāraya解釈を導いてしまう,「漢訳に誘導された誤り」の一例ということになるでしょうか.

日本語に訳すときは,解釈が明らかになるように,格関係をしっかりと訳すべきでしょう.

「虚妄の分別」だと,やはり,karmadhārayaの可能性も残してしまいますから,「虚妄なるものの分別」とはっきりと訳しておくべきでしょう.

にしても,こんな小学生レヴェルからやり直さないといけないとは,とほほです.

サンスクリットであれば,この合成語を見れば,自然とタトプルシャで解釈するはずです.

逆に,abhūtaḥ = parikalpaḥというように同格であれば,バフヴリーヒなどの凝った解釈をするほうが自然となります.

(例えば,asatpratipakṣatvamというニヤーヤのテクニカルタームがありますが,この中のasatpratipakṣaはバフヴリーヒです.「無い対抗主張」ではなく,「対抗主張を持たないものであること」「それに対する対抗主張がない,そのような主張であること」となります.)

ところが,「虚妄分別」という漢字だけを眺めるなら,唯識の教義を何も知らない普通の日本人にアンケートすれば,修飾語と取って,カルマダーラヤと解釈するでしょう.

サンスクリットの感覚を大事にし,常にそこに戻らないと,思わぬ所で足を引っかけられるということです.




「小学生」と言えば,,,,

マドラスのマイラポール,サンスクリット・カレッジ近くのジャヤラクシュミーというサンスクリット本屋.

いつものように,店内一杯のサンスクリット本をあれこれと物色していました.

そこへ,小学生とおぼしき小さい子が入ってきました.

そして,開口一番

「おばちゃん,タルカサングラハある?」

と買っていきました.

10RSほどの,ぺらっぺらの入門教科書です.

こんな小さい子がタルカサングラハを読むのかと,びっくりしたものです.

きっと,学校で全文暗唱させられるのでしょう.




カルマダーラヤではなくタトプルシャ,という引っかけ問題でいくと,四聖諦の聖諦ārya-satyaの関係も同じです.

聖なる諦と訳すと間違い.

普通は,聖者達にとっての諦です.

しかし,日本語の感覚で行くと,holy truthと解釈してしまうのは仕方ないでしょう.
  1. 2016/09/06(火) 19:02:58|
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日本印度学仏教学会 第67回学術大会(東京大学)



第 4 部会(法文 1 号館 215 号)

9 月 3 日(土) 午前の部(9:00 ~ 11:40)

1. 仏教論理学派における adhyavasāya の位置づけ
秦野 貴生(大谷大学大学院)

2. 『真実綱要細注』における世尊の発話欲求と慈悲
佐藤 智岳(九州大学大学院)

3. Satyadvayavibhaṅga に於ける Pramāṇaviniścaya の影響について
赤羽  律 (オーストリア科学アカデミーアジア文化・思想史研究所研究員)


4. バーヴィヴェーカ著『中観心論』から見たディグナーガのアポーハ論
石田 尚敬(愛知学院大学講師)

5. ディグナーガによる不排除と包摂の意味論
片岡  啓(九州大学准教授)

6. Dignāga アポーハ説の再検討―Mādhava との論争―
吉水 清孝(東北大学教授)


7. 宝石の光に対する宝石の認識
稲見 正浩(東京学芸大学教授)

8. 『如実論』について
小野  基(筑波大学教授)




土曜日午前の第四部会,発表は二名がキャンセル.
  1. 2016/09/06(火) 08:10:30|
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錯誤における意官の独立性の否定

きらきら光る真珠母貝を銀と思い込んでしまう錯誤は,なぜ起きるのでしょうか.

ひとつの説明として,意官(心)のせいだ,と考えることができます.

この場合,意官は何でも自分の力で作り出せる,と考えることになります.

たとえば夢の場合を考えてみましょう.

夢の場合,あきらかに,真珠母貝に相当するような「場としての対象」が必要ではありません.

完全に外界がゼロの状態で,あたかも目の前に女性がいるかのように,女性の夢を見せることができます.

意官の非他依存性,独立性です.

意官こそが把握対象を作り出す主体となるのです.




しかし,真珠母貝の例からも分かるように,もしも意官が何でも自由に作り出せると考えるならば,目の前の真珠母貝は不要ということになってしまいます.

つまり,きらきら光る真珠母貝が目の前になくても,意官は自在に銀の映像を作り出すことができることになってしまいます.

しかし,現実には,真珠母貝のようにきらきら光るもの(つまり銀に似たもの)がある時に錯誤は起きるのであって,それ以外の場合には起こりません.

したがって,意官は,類似性に刺激を受けて覚醒してくる潜在印象に何らかの仕方で依存していると考えるのが正しいということになります.

夢の場合も,意官は,対象映像を自在に作り出しているわけではなく,過去に経験したものを想起しているだけです.

ここでも潜在印象(過去の記憶)に依存していると考えるのが正しいのです.

つまり,夢の認識において,意官は,過去の直接経験とその潜在印象(記憶)に依存しているのであって,独立自在の,非他依存的なものではありません.
  1. 2016/08/23(火) 19:51:25|
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世界を創造した神は存在するのか?

インド古典文献に「創造主の存在論証」というトピックがあります.

世界の創造・存続・帰滅を司る一者としての神の存在論証です.

とくに創造神たる一者の論証が焦点になっています.

二つ,メインとなる推論式があります.

主張:この山などには作った者がいるはずだ.
理由:結果だから.
喩例:壺などと同様に.

結果である壺などには,陶工という作者がいます.つまり,「結果→作者」が推論できます.同じ図式で考えると,山なども結果である以上,作者がいるだろう,という推論です.

すぐに気がつくように,果たして壺と同様の意味で山などは「結果」と呼べるのだろうかという疑問が湧きます.

普通に考えて,人為の結果(人工物)と自然(非人為)の結果(自然生成物)という二つは区別されるべきでしょう.

その他にも次の推論式があります.

主張:この山などには作った者がいるはずだ.
理由:配列があるから.
喩例:壺のように.

壺は部分の組み合わせからできています.

つまり,レゴを組み合わせるように,部分から成っています.

部分を組み合わせる人がいるはずだということになります.

この図式を当てはめて考えると,ある形状・配列を有している山など(例えば美しい形をした富士山)にも,作者がいるはずだ,ということが推論できます.

キリスト教神学でいう「デザイナーとしての神」と同じ発想の推論です.

デザインが現に目の前にあるからには,背後にデザイナーとしての神がいるはずだ,という推論です.

ここでも,問題は,果たして,人為のデザインと,自然にできたデザイン(というか形)とが同じかということです.

つまり「配列」といっても,それは単に,同音異義語ではないか,という疑問がでてきます.

人為の配列
非人為の配列

の二種類に,たまたま,同じ「配列」という語を適用しているだけで,実際には,二つは区別すべきではないか,という疑問です.

前者は作者を予想させますが,後者は予想させないのではないか,という突っ込みが可能なわけです.

インド古典の世界では,

1.主宰神を認める学派:ニヤーヤ学派など
2.主宰神の存在を認めない学派:ミーマーンサー学派,仏教

が中心となって議論を進めてきました.

面白いことに,バラモン教学のミーマーンサーと,仏教とが,ここでは意見を同じくしています.

ダルマキールティも,クマーリラの見解を前提として援用している様子です(H.クラッサーによる見方).

ジャヤンタの主宰神論証──Nyayamanjari「主宰神論証」定説部の和訳── 『哲学年報』(九州大学文学部)69, 17-69.
http://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/handle/2324/16928/pa017.pdf
神を否定する方法:Nyayamanjari「主宰神論証」前主張部の読解.『哲学年報』(九州大学文学部)68, 27-71.
http://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/handle/2324/13925/pa027.pdf

"Critical Edition of the Isvarasiddhi Section of Bhatta Jayanta's Nyayamanjari." 『東洋文化研究所紀要』148, 350(79)-297(132).
http://repository.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/dspace/handle/2261/1973
  1. 2016/08/16(火) 18:49:14|
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OHR



スペシャルメニューのマトンマサラ.

巨大も巨大.

相当の大きさです.

さすがにフォークとナイフでは無理なので,むしゃぶりつくしかありません.(周囲のひとは,ナイフとフォークで上品に食べていましたが.)

ビリヤニも食べたかったのですが,さすがにお腹いっぱいです.

かき氷もメニューにあるのが気になります.
  1. 2016/08/15(月) 00:04:15|
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