Pratibhanusarini --- 九州インド哲学ブログ2

On Indian Philosophy and Buddhist Studies

nadonel

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  1. 2017/06/28(水) 19:00:05|
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印仏学会 2017

日本印度学仏教学会
第68回学術大会
会 期 平成 29 年 9 月 2 日(土)~ 9 月 3 日(日)
会 場 京都市中京区西ノ京壺ノ内町 8-1  花園大学



第 1 部会(惺々館1階 101)

9月2日(土) 午前の部(9: 00 ~ 11:40)

1. ジャガディーシャの詩論 ─詩的意味の美的知覚─ 岩崎 陽一(日本学術振興会特別研究員PD)
2. Brahmasiddhi Tarkakāṇḍa の構成と内容概観 斉藤  茜(日本学術振興会特別研究員)
3. Kuvalayacandra 出生時の惑星配置について 小林 史明(東京大学大学院)
4. ṚV X 102:「ムドガラの競争の歌」再考 里見英一郎(東京大学大学院博士課程満期退学)
5. リグヴェーダにおける心臓とソーマ 竹崎隆太郎(東京大学大学院)
6. ヴェーダ祭式における犠牲獣の殺害行為と祭式学的展開 大島 智靖(東京大学死生学・応用倫理センター特任研究員)
7. 頭部崇拝に関する一考察 伊澤 敦子(国際仏教学大学院大学附属図書館員)
8. ヴェーダ祭式 Upavasatha と仏教 Uposatha(「布薩」)における「断食」 阪本(後藤)純子(宮城学院女子大学特


9月3日(日) 午前の部(9:00 ~ 12:00)

1. 両面鏡比喩の両面性
─古典サーンキヤ映像説変遷史─ 近藤 隼人(筑波大学非常勤研究員)
2. Mudgala のエピソード─ Mahābhārata 3.246–47 の研究─ 井上 信生(大阪大学修士課程修了)
3. マヌ法典における「業と再生」の理論 手嶋 英貴(京都文教大学教授)
4. ニヤーヤ学派における三時の考察と三世実有説 渡邉 眞儀(東京大学大学院)
5. シヴァ教再認識派写本の欄外註と注釈文献 川尻 洋平(筑紫女学園大学人間文化研究所リサーチアソシエイト)
6. マドゥスーダナ・サラスヴァティーのアドヴァイタ教学における Bhāgavatapurāṇa の意義について 真鍋 智裕(日本学術振興会特別研究員PD)
7. ムンダカ・ウパニシャッドのテキストについて 間口美代子(真宗大谷派方廣寺副住職)
8. Gargīyajyotiṣa における Tithikarmaguṇa─初期の諸文献にもとづくティティ儀礼─麦  文彪(京都大学白眉センター特定准教授)
9 ジャイナ教における殺生 / 不殺生の判断基準 宇野 智行(筑紫女学園大学教授)




第 4 部会(惺々館2階 201)

9月2日(土) 午前の部(9:00 ~ 11:40)

1. ジャヤンタの擬似論証因における aprayojaka 須藤 龍真(九州大学大学院)
2. avasthāviśeṣa ─「差異」としてのアポーハ解釈の原点─ 中須賀美幸(広島大学大学院)
3. インド哲学真理論における整合知(saṃvāda)と美質の認識(guṇajñāna)石村  克(広島大学大学院博士課程満期退学)
4. 非認識論証因における否定対象と認識対象について 道元 大成(龍谷大学大学院)
5.プラジュニャーカラグプタの感官知(indriyapratyakṣa)説─ニヤーヤ・ヴァイシェーシカ学派批判を中心に─横山 啓人(筑波大学大学院)
6. 共相(sāmānyalakṣaṇa)と普遍(sāmānya)の区別について 秦野 貴生(大谷大学大学院)
7.『タットヴァサングラハ・パンジカー』最終章における無余の知(aśeṣajñāna)について 佐藤 智岳(九州大学大学院)
8. ヨーガ行者による過去や未来の認識について 護山 真也(信州大学准教授)


9月2日(土) 午後の部(13:20 ~ 16:00)
1.『集量論』第一章における<想起>の問題 吉田  哲(龍谷大学講師)
2.『因明正理門論』過類段偈頌の原文推定とその問題点 小野  基(筑波大学教授)
3. シャーンタラクシタによる<附託の排除>の議論 石田 尚敬(愛知学院大学講師)
4. ディグナーガの転義批判 片岡  啓(九州大学准教授)
5. Trairūpya による「空」と「有」の証明をめぐって 何  歓歓(浙江大学教授)
6. 瑜伽行派と『十地経』との関係─入正性離生の用語を通して─Vo Thi Van Anh(ベトナム仏教大学講師)
7.「如来十号」解釈の一展開 ─『仏随念注』『釈軌論』とその周辺─ 堀内 俊郎(東洋大学東洋学研究所研究員)
8. 初期新ニヤーヤ学における原因の概念 ─シャシャダラの定義─ 和田 壽弘(名古屋大学教授)



うちも賑やかになって,現在,九大印哲の所属学振が四人.

ただでさえ狭い研究室の机もぎりぎりになってきました.

斉藤PD(from Kyoto),眞鍋PD(from Waseda),佐藤DC2,須藤DC1.

8月には,これに,世界での厳しい競争を勝ち抜いてRobert Ho財団のFellowshipを獲得した韓国人PD(from Michigan)が一人加わります.

みなさん,他の人の機会を奪って金をもらいながら24時間勉強できるのですから,その分,怠けることなく,きっちりと成果を発表してもらわないといけません.




昔は,博士課程に入ると,非常勤やら生活やらで忙しくなる人が多く,あるいは,修論で燃え尽きたのか,こつこつと成果を発表して業績を積んでいく人は,今より少なかった気がします.

無学の境地に達したつもりだったのでしょうか.

あるいは,修論でやったような一所懸命の勉学煩悩には戻らないという不還の境地に至るのでしょうか.

「もう勉強は止め」とばかりに,知的涅槃寂静の境地に達したかのような人を見かけたりもしました.

学部の私が質問するレベルでも,まともな答えをくれる博士・ポスドクの人はごくごく僅かでした.

今思うに,学部生相手に自分の無知がばれるのが怖かったのでしょう.

学部であれ修士であれ,皆が疑問に思うことというのは,往々にして同じで,それは,誰にとっても立派な問題だったりするものです.

授業で聞くズレた日本人の訳よりも,ヒンディー訳に書いてあるインド的理解の方が遙かに自分には勉強になりました.




さて,一昔前の印仏研,院生の発表には,修論でやったようなネタを細切れにしたり,薄くしたりして発表する,「どんどん薄くなる食塩水」のような発表,という印象を受けたものもありました.

修論のテーマを出し切ると,短い線香花火も終わりか,という感じがしたものです.

それが現在では,学振の制度により全国区での公平な競争が可能となっています.

博士論文につながる,あるいは,そこから派生する論文成果が如実に他者との差異として機能するようになっています.

若手にとり,成果発表のモチベーションが高まっているのは明らかです.

「数より質」という批判もあるかもしれません.

しかし,そもそも何も出てこなければ質も何もありません.

制度として,昔より全然ましだと思います.

退官間際のおじいちゃんの勲章みたいなライフワークものの昔の「文学博士」でなく,文系でも博士課程で普通に博士号「博士(文学)」を出すようにした制度変換の功績には大きいものがあります.

逆に言えば,博士号を今まで出していなかったということこそが,相互評価の難しい文系の学問が敬語社会において放っておくと辿ってしまう運命を示しているように思います.

つまり誰が見ても同じ数式や誰でも実証できる実験といったシンプルなfactやevidenceで決まるのではなく,その人が既に持っている地位や年齢の上下関係で決定・忖度・遠慮が為されやすかった,ということです.

しかし,言うまでもありませんが,文献学者であっても,上下関係は(勝義には)存在しません.

正しい読み・解釈というのは,科学のように一義的に決まるわけではなく,複雑ではあります――それは機械による自動翻訳の難しさを見れば分かるでしょう――が,相対的な優劣がないわけでもありません.

皆が認める「より正しい解釈」や「深い読み」というのは存在します.

そのような,研究者間の合意・せめぎ合い・調整・均衡が実現される場が学会というわけです.




昔は,もちろん金もネットもなかったからでしょうが,若手で海外との交流を(自力で)している人は皆無でした.

わずかに先生のつてで長期留学している人達だけに,海外との一箇所との交流があったのみです.(そして,そのような先輩は,海外に行ったきりですから,日本の大学にいる学生には何の縁もありませんでした.)

しかし,いまや,若手でも,欧米やインドの研究者や同世代の卵と自由に意見交換し,習い習われ・切磋琢磨の関係にあります.

海外だけでなく,国内でも交流が盛んです.

30前後の最も活きの良い若手が他校で3年間すごすというような,一昔前であれば「内地留学制度」でしか不可能であったようなことが日常茶飯のこととなっています.

そして,かつての「内地留学制度」が活用されることは,実際には,ほとんどなかったと思います.

それは,今から見れば実にしょーもない「学閥」という世俗的意識が多くの人々の心に厳然と存在していたからだと思われます.

T大のE先生は,ポスドク期にK大に行ってO先生の下で文法学を学びたかったそうですが,結局,いろいろな事情で実現しなかったと,よくこぼしていました.

時は移って今,「修士→博士→助手」という一校に閉じた旧弊の淀みの制度がなくなって,とても良かったと思います.

内輪の仲良しごっこの結果,実力無き者が去らないという可能性が多く残る制度だったからです.

tāpāc chedāc ca nikaṣāt suvarṇam iva paṇḍitaiḥ/
parīkṣya bhikṣavo grāhyaṃ madvaco na tu gauravāt//
熱することで,切ることで,こすることで,黄金のように,賢者達は,
よく吟味してから,比丘達よ,受け入れるべきである,私の言葉を,重み(尊重)からではなく.



という仏教の合理的態度は,単に教典の言明(vacas)のみならず,選ぶべき人物にも当てはめて考えるべきです.




焼いたり切られたりして鍛えられたい金の卵は,是非,うちから学振PDの応募を出してください.

ダルシャナ,仏教論理学はもちろん,サンスクリット論書の範囲内ならば,仏教でも非仏教でも,大歓迎です.

たとえば,現在の指導院生・ポスドクで私が見ている範囲は,マンダナミシュラ,後期ヴェーダーンタ神学,一切智者批判,討論術と,見事にばらばらです.

公募があっても出さないことには何も始まりません.

限られたチャンスのある内に遠慮せず挑戦すべきです.

現在所属する指導教員などの紹介は不要です.(ただし、学振への書類に際しては、指導教員の所見が必要になります。)

直接,私宛にメールください.

sukhaduhkhe same kṛtvā lābhālābhau jayājayau/
tato yuddhāya yujyasva naivaṃ pāpam avāpsyasi//
楽と苦を等しくして,得と失を,勝と敗を
そうして,戦いに備えよ.このようであれば君が罪を得ることはないだろう.

  1. 2017/06/27(火) 18:42:55|
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viśvavidyālayabhojanālayāḥ

IMG_8024.jpg
Dining Hall, Selwyn, Cambridge

IMG_1980.jpg
Dining Hall, Centre, Mahidol


Dining Hall, Humanities, Kyushu
  1. 2017/06/26(月) 19:51:56|
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ラグヴァンシャ 9.21-30

9.21
感官を抑制し,神々の列に加わるのに相応しい彼は,儀礼終了の沐浴で清められた高い頭を下げたのだった,雨を降らす者(vanamuce),ナムチの敵(namucer araye)[であるインドラ]だけに.

9.22
カクトゥスタ王の家系を担う彼――乞い求める者達に惜しまない者(alāghavam)――と,自生者(ヴィシュヌ)以外の,どの(kam)王に仕えたというのか,蓮を手にする(sakamalā),貞女の戒を持つ神格(シュリー)は.

9.23
かの王は,戦の先頭で,インドラ(報酬を与える者)の助っ人となり,自らの高い腕力を,矢のおかげで怖れが払われた天女達に,歌わせたそうだ.

9.24
というのも,一度ならずも,インドラ(鹿毛の馬を持つ者)の先を行く弓取りのかの素早き[勇]者により,太陽に向かう戦塵が,止められた(rurudhire)からである,神々の敵共の血でもって(rudhireṇa).

9.25
さて,偉大な帝釈天に等しいかの唯一の王に新しい花々でもって仕えるためであるかのように,春が(madhur)やってきた.大地を支える蛇と同じ重荷を持つ者(samadhuram),敬われた(añcita-)勇武を持つ者に.

9.26
霜で色を失った栴檀の芽のあるマラヤ山を離れつつ北へ向かう太陽は(ravir),日の終わり(aharviraha-)に必ず分かれる鳥(チャクラヴァーカ)のつがいへの哀れみが故にかのように,ゆっくりと進んだ.

9.27
花が生じる,それから,新芽が,その後で,蜜蜂・コーキラ鳥の鳴き声が――というように,徐々に春は姿を現わした.木々のある(drumavatīm)森の地に降りたって(avatīrya).

9.28
[愛咬の]傷で重い女の下唇に耐えがたく,[冷たい飾りのある]帯を腰より外させた寒気の一切を,太陽は,周知のように,その限りでは除きえず,わずかに為した.

9.29
優しい声の[仲を取り持つ]女友達のように,柔らかい声の(mṛduravā)託卵鳥(カッコー)の雌は,女達の最愛の男――愛により心がやられた者――を,諍いによる中断の後で,交わりが得がたくないもの(aduravāpa-)とした.

9.30
媚態を身に付けようとするかのようにマラヤの風に揺れた枝を持つ,蕾のある(sakalikā)マンゴーの蔓(細枝)は,怒りと愛欲に(kalikāma-)打ち勝った者達の心をも狂わした.
  1. 2017/06/26(月) 19:48:42|
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kva kyushu kva yale




mahad antaram ity arthaḥ
  1. 2017/06/25(日) 17:17:27|
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mahāghoṣakaḥ








vimānāgamane sarve maunavratadharā iva|
tūṣṇīm evāsate tatra paṭhane pāṭhane 'pi vā|
munibhāvakāraṇebhyo vimānebhyo namo namaḥ|
  1. 2017/06/25(日) 17:03:30|
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Iftar in Kyushu Uni, Maidashi Campus














日本人向けの交流を兼ねた会.

のはずなのですが,司会者がなぜか英語でした.

年配の方も含め,一般の方が多くこられているせっかくの機会なのに,多くの人が理解しないであろう英語で司会進行をする意味がよく分かりませんでした.

会の趣旨を考えると,まったく的外れと言わざるを得ません.

日本語でできる人が他にいたと思うのですが,どうしてそのような運営になったのか,謎です.

その後は,東京から来られたサイード佐藤氏がラマダーンについて日本語で説明.

19:32の日没を待ってデイツ,それから,食事の開始.

料理は,Hanaとナビさんでした.

Hana
シシカバブ
サラダ
ナン
チキンティッカマサラ
煮込み
チキンビリヤニ
オレンジケーキ

ナビさん
シーフードココナッツカレー
マトンマサラとポテトカレー
ビーフムサカ
チキンタンドリケバブ
野菜ピラフ
  1. 2017/06/23(金) 21:44:21|
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シャカ604


数学概念としてのゼロと,記号としてのゼロ(0)とは切り離して考える必要があります.

概念としてのゼロはインド人の数学者ブラフマグプタによるものが最も古いものです.(詳しくは林隆夫『インドの数学』中公新書を参照.)

記号としてのゼロについてもインド起源です.

それについて,最近,インド学のメーリスで,記事があげられていました.

http://www.maa.org/press/periodicals/convergence/mathematical-treasure-the-cambodian-zero

要するに,インド文化圏であったカンボジアのクメール碑文が初出になるとのこと.(林1993でも挙げられています.)

記事の碑文写真にある

クメール歴605 (西暦683).

が,ゼロ記号の初出になります.

さらに,これにたいして,フランス極東学院ポンディシェリ校所長のDominic氏がメーリスでコメント.

2009年に出たカンボジアのフランス極東学院のDominique Soutif博士の博論で,この碑文については論じられていて,正しくは,

シャカ暦604, 西暦 682/683

となるとのこと.

つまり,5と思っていたのは4だということです.

碑文の文字・記号を正しく読むというのは,やはり,難しいものです.




ちなみに,インド学には,DominicもDominikもDominiqueもいるので要注意です.(私は三人とも会ったことがあります.DominicはよくDominikと間違えられていたそうです.インド学のメーリスの主催者のほうがDominik.)

日本では,さらに上をいって,インド学仏教学会には「高橋明」さんが二人います.(ヒンディー語もサンスクリット語もできて幅が広いなー,と思っていたら,別人物,というわけです.)

ちなみに,インド仏教学では,S. Moriyama氏が二人いらしゃって,英語だけだと区別がつかない上に,分野も近いです.(日本語だと容易に区別がつくのですが.森山と護山なので.)

さらにちなみに,本邦のインド学では,顔が似ている人もいるので要注意です.(文献を真面目に読んでいる学者というのは,なぜか見た目が似てくるものなのでしょう.)

学会に来た後輩が他大学のA先生に「B先生,お久しぶりです」と挨拶しているのを見たことがあります.
  1. 2017/06/22(木) 19:33:52|
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SI Meals by Vanakkam at Guccie Bhavan



ドラムスティックの代置として北海道産アスパラ.

肉はマトン,チキン,ビーフの三種.

ワナッカムのタミル ナード ミールス

チキン ポラチ
マトン チェティナード
ハイデラバディ ビーフ コルマ

ラッサム
キャベツ クートゥ
ビート ルート パチャディ
カード
レモン ウールガイ
大根 ウールガイ
人参 ポリヤル
ゴーヤ ポリヤル

カード チリ
ココナッツ チャトニ
ピーナッツ チャトニー
メドゥ ワダ
青バナナ パコラ
茄子とアスパラ サンバル
パルップ
ソナマスリライス

バルフィ
カジュ バルフィ
  1. 2017/06/21(水) 06:07:55|
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ヴァジュラ@塩原



語学学校・専門学校があるため,ネパール人の多い大橋周辺.

ソルマリ,ブッダ,マナカマナ,そして,塩原にもう一軒,5月オープンのヴァジュラ.

名前からして,少しワルいタントリックな響きです.

中は,カフェバー風.

お得なランチメニューは500円から.(夜もオーダー可能.)

酒の肴になるネパール一品物が充実.

隣が有名な「恵比す弁当」,夜もひっきりなしに客が来ていました.

ヴァジュラもカレー弁当出せば売れるはずです.

店内の雰囲気は,飯より飲み,という感じでしょうか.

もう少しご飯物のセットを充実させたほうがバランスが良い感じです.

内装はいかにもの若者向け.映像も流してます.そしてギターが二台も置いてありました.ミラーボールまであります.

店主はポカラ出身.タムの人。

ネパール人が集まって踊って騒ぐ時はどうするのかと聞くと,「シャッター下ろしてから」だそうです.確かに開けたままだと,外から丸見えですから,(数少ない)通行人も何事かと訝しく思うことでしょう.

気の良いバイトの兄ちゃん(日本3年目)は,「これから(=夜10時から)朝までコンビニでバイトなんで」と行って,自転車で次のバイトに出かけていきました.

専門学校,バイト1,バイト2で朝まででは,学校で寝てしまうのも無理からぬことです.
  1. 2017/06/20(火) 19:48:11|
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ルーツ・オブ・ヨーガ

ペンギンから出ています.

随分前からアナウンスだけは出ていたのですが,ようやく,今年の4月に出た待望の一冊.英語による二人の共著.

著者の一人は,現代ヨーガの前著『ヨーガ・ボディー』で知られるマーク・シングルトン.

そして,古典サイドからは,我らがジェイムズ・マランソン卿.正真正銘のサーです.(私もオックスフォードで一緒でした.)

内容はてんこ盛りです.

基本的には,ヨーガ実践に関わる基本的概念について,順に,概観的な解説とソースの英訳とを挙げています.

サンスクリット・ソースに関しては,写本の状態のものも数多くあります.

むしろ,重要な文献の多くが未だに写本の状態であるか,あるいは,非常にアンクリティカルな状態で出版されたものしかありません.

したがって,サンスクリット・ソースの原文は直接示さずに,英訳だけが提示されています.

ソースを校訂する作業は,まだまだこれから,ということです.

というわけで,あくまでも,暫定的に,現在時での結論の見通しだけを,ばっと示してくれたという感じです.

このような見通しが可能となったのも,ここ30年のオックスフォードのサンダーソン教授とその弟子筋の活動があったからです.

1998年のオックスフォードJRF研究員時代から,間近にその発展具合を目撃してきた身としては,その成果の一つがこのようなメジャーな本となって,一般読者の目に触れる形で現れたことに深い感慨を抱きます.

この本で,これまでのヨーガの皮相な見方も一気に変わることでしょう.

さて,構成は

1.ヨーガ
2.準備
3.ポーズ
4.調息
5.ヨーガの身体
6.ムドラー
7.マントラ
8.禅定など
9.三昧
10.成就
11.解脱

というように,いわゆるハタヨーガ文献で見られる基本的な項目に沿って,順に解説されています.

何がこれまでのヨーガ紹介と違うのかといえば,その渉猟する文献量です.

これまでのヨーガ紹介であれば,YSあたりから,一気に1000年飛び越えて,ハタプラディーピカーなどの後代の文献に飛ぶのが常套でした.

その間の1000年はどこにいったのだ?という疑問は等閑に付したまま,YSにソースを求める無理な歴史観がありました.

それが,本著では,それぞれの概念の初出に注意しながら,関連する膨大な文献群を写本も含めて渉猟し,整理して示してくれています.

多くの文献がこれまでのヨーガ関連二次文献ではほとんど触れられることのなかった文献です.

年代に沿った文献一覧は,イントロの39-40 (xxxix-xl)に示されています.

タントラ文献,そして,ハタヨーガ文献の多くのタイトルが,読者の多くには馴染みのなかったもののはずです.

6-10世紀頃の間では,
ニシュヴァーサタットヴァサンヒター,
ヴィナーシカ,
ヴァイローチャナアビサンボーディスートラ(大日経),
マンジュシュリヤムーラカルパ,
ブラフマヤーマラ,
ヘーヴァジュラ,
ジャヤドラタヤーマラ,
ムリゲーンドラ,
キラナ,
パラーキヤ,
マタンガパーラメーシュヴァラ,
サルヴァジュニャーナウッタラ,
シッダヨーゲーシュヴァリーマタ,
マーリニーヴィジャヤウッタラ,
スヴァッチャンダ,
ネートラ,
カウラジュニャーナニルナヤ,
クブジカーマタ,
ヴィマーナアルチャナーカルパ,
パードマサンヒター,

が挙げられています.

いずれも,「彼が研究していたもの」「あの時に一緒に読んだもの」など,懐かしく想い出されるものばかりです.

ハルとドミニクの共著がニシュヴァーサ.

マルチンがマンジュシュリヤ.

シャーマンやチャバがブラフマヤーマラ.

ドミニクがキラナとパラーキヤ.

ソームデーヴが博論でやっていたのが,マーリニー.

ハルがヘーヴァジュラ.

ユーディットがシッダヨーゲーシュヴァリーマタ.などなど.

一個一個の研究成果でヨーガに関連するそれぞれの事項が,この一般書においては,分かりやすい形で提示されています.

1000年以降の文献では,タントラ文献群のほか,数多くのハタヨーガ,あるいは,その前駆となる文献群が扱われています.

11世紀
ヘーマチャンドラのヨーガシャーストラ
スパンダサンドーハ
アムリタシッディ
カターサリットサーガラ
ヴィマラプラバー

12世紀
ヴァジュラヴァーラーヒーサーダナ
ヴィシュヌサンヒター
アマナスカ
シャーラダーティラカ

13世紀
サンギータラトナーカラ
ヴァシシュタサンヒター
チャンドラアヴァローカナ
マツェーンドラサンヒター
ヴィヴェーカマールタンダ
ゴーラクシャシャタカ
ダッタアートレーヤヨーガシャーストラ
ジュニャーネーシュヴァリー

14世紀
ティルマンティラム
アパロークシャアヌブーティ
ヨーガターラーヴァリー
シャンカラディグヴィジャヤ
アマラオーガプラボーダ
ヨーガビージャ
ケーチャリーヴィディヤー
シヴァサンヒター
ゴーラクシャヴィジャヤ
シャールンガダラパッダティ
ジーヴァンムクティヴィヴェーカ

15世紀
シヴァヨーガプラディーピカー
ハタプラディーピカー
マハーカーラサンヒター

16世紀
ミラガーヴァティー

17世紀
ハタラトナーヴァリー
ナーダビンドゥウパニシャッド
ヨーガシカーウパニシャッド
サルヴァアンガヨーガプラディーピカー

18世紀
ラージャヨーガアムリタ
シッダシッダーンタパッダティ
ヨーガマールガプラカーシカー
ハンサヴィラーサ
ゲーランダサンヒター
ブリハットケーチャリープラカーシャ
ハタプラディーピカー(長版)
ハタタットヴァカウムディー
ジョーグプラディーパカー
ハタアビヤーサパッダティ

この他に,チベット語やペルシア語の文献も一部に挙げられています.

ケーチャリーは,マランソン卿自身が博論で手がけた文献です.

オックスフォードでのM卿の後輩にあたる若手,ジェイソンの研究も,ハタヨーガ研究においては重要です.

ヴァジュラヴァーラーヒーは,これまた,サンダーソン弟子のエリザベスの博論.

我らがKengo Harimotoのヨーガスートラバーシャヴィヴァラナ研究もイントロの24頁で言及されています.



ともあれ凄い一般書が出たものです.

英訳に対応するサンスクリット原文が挙げられていないのが返す返すも残念ですが,そんなものをクリティカルにつけていたら,幾ら時間があっても足りないでしょう.なにしろ多くが未だまともに校訂のないようなテクストばかりですから.

それぞれの項目について,歴史的に正確な知識を得ようと思えば,それぞれの章を参照すればよい,という仕組みになっているので非常に便利です.

(他の文献でもそうでしょうが,特に)ヨーガ文献の場合,歴史的に堆積してきた様々な要素が一書において混交しているので,歴史的堆積物を再度整理しないと,どの要素がどこから来たのか,その整合性の有無が,ひとつの文献だけを見ても,不明瞭です.

歴史的に解きほぐすという作業が欠かせません.

いろいろな流れの異なった思想が,同一の書物のなかに同居し矛盾する場合もしばしばあります.

そのような体系の矛盾についても,それぞれの章で丁寧に論じられています.

「これが正しいヨーガだ」「あれは間違った実践方法」というのが宗教家やヨーガ実践者の可能な一つの態度でしょうが,研究者の見方としては,「この要素はここから」「この要素はここが初出」ということを説明する必要があります.

慣れない多くのサンスクリット文献名に一般読者は戸惑うかもしれません.

しかし,登場人物の多い物語と同じで,細かく歴史をひもとこうとすれば,こうならざるを得ないでしょう.

500頁を優に超す気合いの入った書物が18ドルで読めるのですから良い時代になったものです.

表紙にあるのは逆さづりの苦行者の絵.

意外に地味な表紙です.

その苦行の意味するところは,本書を読んでいくと明らかになるでしょう.

Roots of Yoga
Translated and Edited with an Introduction by
James Mallinson and Mark Singleton
Penguin Books
40+540 pages
18$
  1. 2017/06/19(月) 20:55:15|
  2. 未分類

नागद्वारनिर्झरः कगोशिमे

Ryumonnotaki
  1. 2017/06/13(火) 07:13:21|
  2. 未分類

turagārūḍhas turaṃgaṃ vismṛto bhavān

turagārūḍhas turaṃgaṃ vismṛto bhavān

「汝,馬上にして,馬を忘れり」

とでも訳せるでしょうか.

サンスクリットでも,このような表現をするとは意外です.

漢文ならいかにもありそうな感じですが.

禅ならば,むしろ望ましい境地を指す意味で使えそうですが,このサンスクリット論書では,単純に,本題を忘れているという意味で用いられています.

すなわち,ヴェーダ権威論証がメインなのに,肝心のそこから外れてしまっている,という文脈です.



後日,桂先生より連絡あり.

MMK 24.15にソースありとのこと.

sa tvaṃ doṣān ātmanīyān asmāsu paripātayan/
aśvam evābhirūḍhaḥ sann aśvam evāsi vismṛtaḥ// MMK 24.15

汝今自有過 而以迴向我
如人乘馬者 自忘於所乘


般若灯論では

汝今持自過 而欲與我耶
亦如人乘馬 自忘其所乘



現代語訳では


Siderits & Katsura 276: You, throwing your own faults on us, are like the person mounted on a horse who forgets the horse.

桂&五島 95-96:「[空性を非難する]あなたは、自分自身の誤りを我々に投げつけているのだ。あなたは、まさに馬に乗っていながら、その馬のことをすっかり忘れて[「馬はどこにいる」と騒いで]いるのだ。
【別訳】[空性を非難する]あなたは、自分自身の誤りを我々に投げつけているのだ。あなたは、馬に乗っていながら、その馬のことをすっかり忘れて[「馬はどこにいる」と騒いで]いる人のようだ。」



和訳の別訳は最初のevaをivaと解釈しているということでしょう.

漢訳に「今」とあるのは,sa tvamとある「そのお前は」のニュアンスを「いまお前は」と訳すことで出しているのでしょう.

直訳すると以下のような感じでしょうか.

「いま君は,自分自身の過失群を,我々に向けようとして,他ならぬ馬に乗りながらも,その馬を忘れてしまっている.」

波羅頗蜜多羅訳の「欲」は,現在分詞「しつつ・しようとして」のニュアンスを捉えたものでしょう.

paripātayanのpariは,「ぐるりと回って」というニュアンスだと捉えると,鳩摩羅什の「迴向」のほうが「與」よりも良いでしょう.
  1. 2017/06/08(木) 00:13:22|
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異読からの読みの採り方

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今回は,少し系統のずれる二写本を参照.

したがって,ところどころ,悩む箇所が出てきます.

そういう場合に,やはり,どちらを採用するか,或る一定の基準が必要となります.

単純に「良い読み」を取ればよいと思いがちですが,「良い」の意味が「読みやすい」という意味ならばアウトです.

読みにくい読みが分かりやすい読みにスクライブにより変えられている場合があるからです.

どちらを選ぶか,という視点ではなく,どうしてこの二つの読みが出てきたのか,ということを考えることが最も肝要です.

その二つの読みの発展,展開を説明できるような仮説を立てることで,どちらがよりオリジナルか,古い読みか,判断できます.

もちろん,読みにくいといっても,完全に解釈不能な読めないもの,不可能なものは採用できません.

意味を為すという前提に立った上で,読みにくい或いは読みやすいという意味です.

さて,

X-apekṣayā
X-vivakṣāyām

という読みが出てきました.

Xに比して,という意味が期待されるところです.

似た文脈では,確かに,別の箇所を見ると,vivakṣāが使われているので,それでもよいような気がします.

しかし,vivakṣāの場合,期待される意味と微妙にずれてしまいます.

X-vivakṣāyāmだと,Xに比して,という意味ではなく,Xを言わんとする場合には,という意味になってしまいます.

あくまでも,意味としては,X-apekṣayāが求められています.

この両者を説明する一つの可能性が

X-vyapekṣayā

という想定された読みです.(そして,別の著者には,このような用例が見つかります.)

これだと,いっぽうがX-apekṣayāになり,いっぽうがX-vivakṣāyāmへと展開したいったことを説明できます.

X-apekṣayāから一足飛びにX-vivakṣāyāmが展開することも考えにくいですし,また,逆もしかりです.

どちらが良いか,という視点で写本に臨むと,他方を単純に切り捨てることになってしまいます.

そうではなく,どうして二つが出てきたのか,両者を説明するモデルが必要です.

その上で,古い読みを採用するわけです.

頭の良いパンディットほど,遠慮無く書き換えたり付け加えたりすることがありますから,要注意です.

また,誤写が多く,一見すると頭の悪そうな写本でも,オリジナル復元のヒントが隠されていることが多々あります.

単純にどちらがいい,という話ではないのです.
  1. 2017/06/06(火) 20:48:32|
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ラグヴァンシャ 9.16-20

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9.16
そして,輪円の臍となったにも拘わらず,他者の白傘が相応しくない彼は,シュリー(富の女神)が弱点においてうつろいやすいのを見て,不怠(analaso)となった.祭火のソーマ(analasoma)に等しい輝きを持つ彼は.

9.17
彼という夫を得たのだった,夫を神格とする者達は.ちょうど山々の川々が海を[得る]ように.マラヤ・コーサラ・ケ―カヤの王達の娘達は(duhitaro),敵に矢を立てる彼を('hitaropitamārgaṇam).

9.18
とても愛しい三人で彼は輝いた.ちょうど民を守らんとして,まさしく三つの力を伴って,大地にインドラ(harihayo)がやってきたように.敵を殺す手段('rihayoga)に通じた彼は.

9.19
儀式において,彼――髷を剃り,腕で四方の富を集め,闇が離れた(vitamasā)――により,タマサー(tamasā)とサラユーの岸は,黄金の祭柱の打ち立てで輝けるものとされた.

9.20
[彼の]体――レイヨウ皮と杖とを持ち,クシャ草を腰帯とし,声を止め,鹿角を掴み,儀礼潔斎した――を依り代とし,イーシュヴァラは,比類なき輝きを持つ[その体を]輝かせた(asamabhāsam abhāsayad).
  1. 2017/06/05(月) 19:01:54|
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美文学と哲学論書



ラリーは,シカゴでポロックの院生でした.

そのポロックはハーバードでインゴールズに習っています.

いまのアメリカのサンスクリット学,名のある学者の多くがハーバード出身,つまり,インゴールズ弟子です.(日本で言えば,多くの学者を育てた大地原先生がそれに最も近いでしょうか.)

日本からも,原先生を含め,多くの有名な先生方がインゴールズの薫陶を受けています.

ついこの前にイェールでお世話になったグラノフ先生もインゴールズ弟子です.

道理で,押さえている文献の幅が広い.




要するに,ラリーの場合,

インゴールズ→ポロック→ラリー

と次第します.

その学風は,カーヴィヤ(アランカーラ)とダルシャナの両輪にあります.

授業は,毎年交替でやるというスタイル.

ポロックもそうだったとのこと.

つまり,或る年はカーヴィヤかアランカーラ,次の年はダルシャナ,という形です.(私が昔シカゴを訪ねたときも,ポロックの授業では,ちょうど,ミーマーンサーのタントラヴァールッティカを読んでいました.)

カーヴィヤ(美文学)も読めれば,哲学論書も読める,という形です.

ポロックの場合は,特に,アランカーラ(詩論)とミーマーンサー(聖典解釈学)の組み合わせ.

ラリーは,それを更に尖鋭化させたスタイルです.

サンスクリットに隙なし.(あるとすれば,タントラ文献ということになるでしょうか.)

このスタイルは,インゴールズからのようで,ラリーによれば,それ以前はどこに溯るのか分からないとのことでした.

日本では,カーヴィヤも論書もという学風の人は,ごく少ないでしょう.(そういえば,むかし,戸崎先生も,インゴールズのカーヴィヤの授業に出て,授業のスピードにびびったという話をされていました.)

そもそも,本邦においてアランカーラを専門とする人が少ないのも,このスタイルが定着しない遠因のひとつでもあります.

マンマタの『カーヴィヤプラカーシャ』は,昔,試しに授業で教えてみましたが,学生には少し荷が重すぎた感があります.

カーヴィヤを読んだ上で,さらに,その理論を押さえるには,かなりのサンスクリット力が必要です.

カーヴィヤを十分読みこなせる実力がついた上でないと,詩論書を楽しむのはきついかもしれません.

インド学がさらに進化(深化)した現代では,理想的には,サンダーソン,ハル,ドミニク,ソームデーブのように,カーヴィヤ+ダルシャナ+タントラを満遍なく組み合わせるのがいいでしょう.
  1. 2017/06/04(日) 20:13:18|
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ウィーンで南インド





無事に目標箇所まで読了.

ラリーと夕飯.

彼曰く「近くに南インド料理屋を見た」とのこと.

3人で実況見分に.

確かに「南」と書いてあります.

しかしメニューを見ると,普通にインド料理屋で,その中に,南インドもある,という感じでした.

ケーララ料理もあるので,店の兄ちゃんに聞いてみると,果たして,ケーララ人でした.

ラリーは,イドリーワーダー.

わたしは,マサラドーサ.

メニューの印刷には6ユーロとありましたが,青いマジックで上書きされて8ユーロとありました.

マサラドーサの大幅値上げの背後に何があったのでしょうか.
  1. 2017/06/03(土) 05:57:09|
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異読×多義



著者の言葉遣いを正確に把握しようとすると,やはり,先行する用例を調べるというのが最も手堅い方法となります.

少し疑問のある(あるいは意味の振れのある)用法が出てきたとき,類似の用例を同じ著者の作品の中に見出すか,彼が参照している先行文献の中に見出すか,それを探し出す作業が必要になります.

要するに,ざっと検索することが必要です.

皆で読んでいると,少し怪しい語が出てくると,十人十色,色々な意見が噴出することになります.

皆を納得させるには,用例をぽんと示すのが一番手っ取り早い方法です.

自分の中では,もちろん,経験で分かってはいても,用例という証拠を出さないと,なかなか人は納得してくれません.

自明なことを人に説明するのは面倒ですが,それが知を共有する,ということなのでしょう.

ひとに示すことで,自分自身にとっても,語意の輪郭がより明瞭になります.

それにしても,異読の可能性という変数Xを考慮しながら,なおかつ,ある語の意味Yについても模索するという場合,変項がXとYの二つになり,考えられる可能性が爆発的に増えるので,思考の作業としては,かなり面倒です.

出来合いのテクストならば,Yから出発すればいいのですが,そうはいかないのが,我々の分野です.

ああでもないこうでもないとXとYとについて議論しながらぼちぼち進むというのも,面白いものです.

インド哲学がどうしても古典文献学にならざるをえないというのは,この変数XとYとの両方を考慮しなければ精確な意味・正解が導けない,ということに起因します.

  1. 2017/06/02(金) 13:52:27|
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Kumarila Workshop



2017/5/29(月)~6/2(金),毎日9時~5時で,K研究会.

主催はE.

初日,こちらの研究所にいる日本人お三方に挨拶.

Mさん,Wさん,Sさん.

その他,懐かしい面々も.

M,H,それに,秘書のC.

その他,P,N,C.

かなり大所帯になって,人も増えてますが,昔からの人もそのままいます.

一大研究センターです.

いつもながら時差ぼけのせいで,夕方6時も過ぎると急激に眠くなるので,皆との夕食はパス.

早々に退散して,さっさと寝ました.おかげで夜半の1:30に目が覚めました.

アメリカからはるばる来たLは,研究所の近くに宿を取っているのかと思いきや,「いやー,昔の研究所だと思って,そっちの近くに宿を取ったから,ここ(現在の研究所)まで40分もかかるよ」と宣っていました.

しょっちゅう引っ越す研究所が悪いのか,連絡メール最後の研究所の住所をチェックしないLが悪いのか,判断しかねます.

新しい研究所は,近場にレストランもMarktもあるので,手っ取り早くランチするには便利です.

天気は月曜・火曜と晴天ですが,水曜は崩れるとの予報.
  1. 2017/05/30(火) 03:14:32|
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Vesakha




  1. 2017/05/27(土) 20:15:32|
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ミーマーンサー研究の難しさ

既存のサンスクリットテキストを正しく解釈するだけでも、かなりの修行年数がかかりますが、さらにその上に、既存のテキストを疑ってかからないといけないというのがインド哲学文献の難しいところ。

そして、その疑いを確証、論証に変えるためには、何年もかかって写本も集めないというのがさらなる困難。

何年あっても足りません。

クマーリラのシュローカヴァールティカ、ドワーリカダーサの便利な普及版を信用すると痛い目に会います。

あちらこちらに落とし穴があるので、どこを読む時も、マドラス版との校合は欠かせませんし、さらに、理想的には、写本と合わせないと正解を導くのはむずかしいでしょう。

最も有名なテキストすらこの状況です。

他については言わずもがな。

博士レベルでデビューしたてだと、まだ、写本経験も校訂経験も浅いでしょうから、ミーマーンサーで論文を書くのはたいへんです。

また、往々にして、認識論の議論の背景になる知識が、タルカパーダ以外の祭事哲学部分にあったりします。

認識論だけで済まなくなるのが聖典解釈学ミーマーンサーの奥深さ、泥沼の怖さであり、面白さです。

ミーマーンサーの言語哲学議論は、認識論に留まらず、背景となる解釈学の議論もカヴァーしないと足元を掬われます。

バルトリハリの哲学を理解するのに文法学の知識が前提となるように、クマーリラの哲学を理解するには聖典解釈学の知識が欠かせません。

つまるところ、クマーリラをやろうとすると、写本から祭事哲学まで、幅広く押さえないと、論が浅くなるということです。単なるプラマーナ論だけでは済まないのです。

文法学の場合,インドでの伝統も分厚く残り,欧米諸語での研究もあるので信頼できる二次文献も多くありますが,ミーマーンサーの場合はインドでの伝統は僅か,欧米諸語での研究も本当に数えるほどしかありません。

したがって,いきなり素手で断崖を登れというような無茶をさせられることになるわけです。
  1. 2017/05/24(水) 18:51:05|
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ラグヴァンシャ 9.11-15

9.11
帯は腰から外れ,化粧は時ならぬ涙で落ち,髪はほどけおちた(analakān)――敵の妻達を,彼(ダシャラタ)は,武力により,[そのようなものと]した,アラカーの主(alakādhipaクベーラ)に等しい勇武を持つ彼は.

9.12
防御した一台の戦車で大地を勝ち取った弓取りの彼――人を乗り物とする者(naravāhana, クベーラ)に等しい成功を有する――により,轟音の(ghanaravā)大海は,勝利の太鼓となったそうだ.

9.13
輝いた幾千の端の光を有す雷により帝釈天は栄誉を積んだ.
新しい蓮(navatāmarasa)の顔を有する彼は戦いにおいて,矢を雨降らし音を発する(svanavatā)弓により[栄誉を積んだ].

9.14
爪の赤色にも等しい輝きを有する,王冠の宝石の光により,全き男らしさを有する彼の(tam akhaṇḍitapauruṣam)両足に触れた,何百といる王達は.ちょうど神々が,百の祭祀を為した[帝釈天](śatamakham)の[両足に触れた]ように.

9.15
大海の岸から彼は,アラカーにも劣らぬ(alakānavamām)都城に戻った.お伴に幼い子供が合掌させられている敵の妻達――髪がほどけた(analakān)――を哀れんで.
  1. 2017/05/22(月) 19:05:48|
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Flea Market at Gokoku Jinja, etc.








蚤の市,春好夜市にて.

カレチネ,養生カレー,スパイスロード,マルハバ.

インド映画(Hal Girlfriend)鑑賞の後,

山口夫妻とKashiiのスリランカ料理Osuasiri.

アーユルヴェーダの癒やしを謳う店ですが,どう見ても,店のスリランカ人スタッフが一番疲れ切っていました.

Half Girlfriendは,Five Point Someoneで有名なチェータン・バガットの同名小説の映画化.

都会の大学生恋愛物,そして,金持ちお嬢様登場というのは,インド映画における定番中の定番です.

Śraddhā Kapūr演じるヒロイン登場から時ならぬ雨に濡れてくれて,感謝です.

一つ違うのが,ビハール出身の英語下手なヒーローという点.

英語とヒンディー語の間を行き来するベストセラー英語作家の原作者(Chetan Bhagat)自身が関心あるテーマでもあるのでしょう.

日本語字幕も親切についていましたが,最後のほうは,かなり雑になっていて,男女言葉(俺→わたし)は入れ替わるわ,変換ミス(昨日→機能)は多発するわ,そっちのほうが気になってしまいました.きっと締め切りに追われていたのでしょう.

映画を見る暇なく,英語スクリプトから直接日本語に訳したのでしょう,ヒンディー語のカタカナ化は,結構適当でした.

マーダヴ(Mādhav)がマドー,パトナ(Patna)がパタンなど.

マーダヴ・ジャー(Mādhav Jhā)が主人公の名前です.

ジャーと聞けば,ガンガーナート・ジャーよろしく,一発でビハールあたりの出身と分かりますが,そこも英語のJhaを見たのでしょうか,ジャハと翻字されていました.

字幕作成は,やはり,英語世界中心に回っているということなのでしょう.

主役のArjun Kapūrは,もっさりして熊みたいです.
  1. 2017/05/20(土) 22:25:18|
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シヴァ教再認識における時間

PVも注釈関係が大概ややこしいので閉口しますが,またまたややこしいのがシャイヴァ一元論の再認識派の文献です.

ウトパラデーヴァは,まず,主宰神再認識詩節を著わします.

そして,その上に,ヴリッティとヴィヴリティとを著わします.

ややこしいので,川尻さんに沿って,註と詳注としておきましょう.

詩節と詳註のそれぞれに,アビナヴァグプタの注釈があります.

IPK   IPV
Vrtti
Vivrti  IPVV

今回の読書会では,イザベルが回収したヴィヴリティを読み合わせしました.

ヴィヴリティは原典が失われていますが,写本や欄外註からの一部回収が可能です.

本当に一部ですが.

そして,トレッラ教授の画期的な研究に続いて,欄外註を駆使した川尻,そして,イザベルの研究が続いています.

また,再構成にあたっては,当然,アビナヴァのプラティーカがヒントになりますので,そちらも根拠資料となります.

後代の文献よろしく,コンパウンドが長かったりしますが,神学文献ですから,意外にすんなり読めます.

最終的にはシヴァ一元なので,大筋を間違うことはありません.

今回は,時間について.

時間というのは,つまり,順序ということで,区別を前提としたものですが,それも,シヴァが現わし出したものに他なりません.

つまり,一者でありながらかつ多様であるというのは,シヴァという認識においてのみ可能なのです.

通常,一と他とは矛盾します.

つまり,別であれば一でありえません.

しかし,認識上においては,ダルマキールティの多様不二一元のプラカーシャ論と同様に,多様でありかつ不二であるということが同居可能です.

この唯識理論を援用しながら,ウトパラとアビナヴァは,シヴァ一元論を時間についても主張します.

ここで重要なのは,別(bheda)といっても,ここでは,あくまでも,現れ(avabhāsa)の別なのであって,オントロジカルに別なわけではないということです.

現象的多様性という区別は一元論と矛盾しないのです.

アビナヴァが,援用資料としてダルマキールティを引いてくるのは面白いところです.

唯識が再認識派のベースになっていることが分かります.
  1. 2017/05/20(土) 12:32:09|
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PVの章の順序

イェールの読書会では,フランコ教授持参のヤマーリ註原典を皆で読みました.

取り上げたのはPVの章の順序に関わる記述.

PVの章の順序については,まず,フラウワルナーの研究があります.

また,チベット資料に基づく木村誠司,最近では,ヤマーリのチベット訳を用いた小野基,ケルナーによる論文があります.

そのヤマーリのサンスクリット原典を校訂しつつあるのがライプチッヒのグループ.

フランコ教授の指導下,二人が校訂されているところです.

日本からは松岡さんが同時平行で翻訳作業に取り組まれています.

さて,問題となるのは二つ.

1.PVはPSの注釈かどうか.
2.PVの章の順序はいずれが正しいのか.

ということです.

周知のように,それぞれについて,二つの立場が可能です.(自己のための推論,プラマーナシッディ,知覚,他者のための推論)

1-1.PVはPSの注釈である
1-2.PVはPSの注釈ではない
2-1.自推→プラ→知覚→他推
2-2.プラ→知覚→自推→他推

問題の発端は,ダルマキールティです.

PVには,自己のための推論だけに自注があります.

自推→プラ→知覚→他推
自注

他の章には書かれていません.

そして,フラウワルナーが推測したように,この順序でダルマキールティは著わしたのでしょう.

しかし,問題は,この順序が注釈作のPSとずれる,ということです.

PSに従うなら,

プラ→知覚→自推→他推

とならなければなりません.

ダルマキールティに近い注釈家であるデーヴェーンドラブッディやシャーキャブッディは,PVオリジナルと思われる順序に当然したがっています.

そして,ダルマキールティの欠を埋めるように注釈を残しています.

自推→プラ→知覚→他推
自注  デー デー  デー
シャー シャー シャー シャー

デーヴェーンドラブッディは,残り三つの章に.

そして,シャーキャブッディは,全体に更に注釈を書いています.

順序がずれるにもかかわらず,デーヴェーンドラブッディは,PVをPSの注釈だと考えています.

これにたいしてプラジュニャーカラグプタは,章の順序をPSに沿って変えます.

そして,自注以外の残り三つにバーシャを著わします.

プラ→知覚→自推→他推
Bh   Bh   自注  Bh

そのバーシャの上に注釈を著わしたのがジャヤンタであり,また,ジャヤンタを批判しながら別の注釈を著わしたのがヤマーリです.

ジャヤンタは,プラジュニャーカラが意図したであろうこの順序を堅持します.

そして,「デーヴェーンドラは,この順序について間違った」と明言します.

このジャヤンタの見方を批判するのがヤマーリです.

ヤマーリの見解は驚くべきものです.

まず,そもそもPVはPSの注釈ではない,と言い切ります.(仏説への注釈だと言います.)

これにより,PSの章順とPVの章順との食い違いが一気に解消されます.

つまり,PV章の並び順が変なのが問題なしとなるわけです.

そして,その上で,デーヴェーンドラが堅持した順序が本来のものであると主張します.

つまり,

自推→プラ→知覚→他推
自注  Bh  Bh  Bh
    ヤマ ヤマ  ヤマ

となります.

しかし,ヤマーリの問題は,Bhに注釈していることです.

したがって,Bhの注釈先であるプラマーナシッディ冒頭が実際にはPVの冒頭でないことを言い訳しなければならなくなります.

いやはや,ややこしい.

ともあれ,以上のややこしい経緯を頭に入れた上でないと,ヤマーリの言っていることはちんぷんかんぷんとなります.

以上を踏まえた上で,ああでもないこうでもない,デーヴェーンドラブッディはそこまで阿呆ではない,ジャヤンタの言っていることはナンセンスだ,というような議論を展開する箇所が,読書会で取り上げた箇所です.

写本一本,そして,また校訂作業の途上ということもあり,色々な問題が残されているのは明らかでした.

そのままでは素直に読めない箇所も残っています.

いずれにしても,チベット語と引き合わせながら,進めていくのは大変な作業であることは容易に想像がつきます.

ヤマーリの文体は,それほど簡単なものではありません.(例えば,ミーマーンサーの注釈家である読みやすいスチャリタと比べると難渋だと評価できるでしょう.)

いずれにせよ,校訂本が出るのが待たれます.

ディプロマティック・エディションは,既に,2016年に出版されているので,ヤマーリ原典の匂いをかぐことは既に可能です.

PS
PV
Bh
ジャヤンタ註・ヤマーリ註

ジャヤンタ註・ヤマーリ註は,PSから数えれば復復注,ヤマーリの主張にしたがってPVをPS註ではないと見なせば,復註です.

注釈の注釈(あるいは更にその注釈)に心血を注ぐのは,まさに,知的好奇心の賜物でしょう.

同じ構造で言えば,ミーマーンサーでは

JS
SBh
TV
NSudha/Ajita

があります.ニヤーヤスダーや,針貝先生の校訂でも知られるアジターです.

文献(学)の樹海にようこそ,といった感があります.
  1. 2017/05/20(土) 11:57:46|
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kutūhalanivṛtter apy arthatvāt

プラバーカラ派は全ての文章を実践につながる命令と解釈します.

実際の行為に役立たないような文章は無意味になってしまうから,文章を有意味だと考える必要上,全ての文章は命令文を本質とすると考えるわけです.

「ここに宝物がある」

という平叙文も,「ここに宝物があると理解すべし」と,理解するように命令する文だと解釈します.

同様に「アートマンがある」というのも「アートマンがあると理解すべし」という命令文だと解釈します.

このように,全ての文章は,何らかの行為への発動,あるいは,それからの回避を命令するものだ,とするのがプラバーカラ派の文章解釈理論です.

これにたいしてマンダナのきつい一言.

「好奇心の解消もまた目的となるので」

実践である発動・退行へと導かないようなもの,すなわち,好奇心の解消というような消極的理由もまた言明の目的となりえます.

1.言明⇒発動・退行
2.言明⇒好奇心の解消

つまり,行為へと導かないような言明もあるわけです.

「捨てようとされもしておらず,また,受け取ろうともされていないような,(つまり発動・退行には関わらないような)遠くの国の王様の名前や事跡などを扱う疑問が,関心者達にあるのが現に見られる」

とマンダナは述べています.

実践的には役立たないものであっても,知りたいという関心があれば,その関心を満たすだけで十分に目的となりうるのです.

知的好奇心を満たすこと,これだけで既に人間の目的として十分に役を果たすわけです.

それ以上何か実践的な目標を求めるのはお門違い,あるいは,現実を無視した見方だ,ということです.

「そして,それらに通じる者たちの,好奇心解消を主眼とする言明が[現に見られる]」と.

過去にあった出来事を淡々と語るようなもの,そのようなものは,聞き手の発動・退行といった実践活動を促すものではありません.

そうではなく,単に,楽しみのためです.

聞き手の悦びのために,既見事実をなぞって説く物語があるわけです.

聞き手の発動・退行のためではありません.

「また,悦びのために既見事実をなぞる物語があるが,それは,聞き手の発動のためでも,退行のためでもない」と.

知的好奇心を満たすことは,それだけで十分に目的となりうる,ということです.

そしてそれは現実にそうだ,というのです.

今現在の自分の実践には関わりのないような遠い昔のお話も,悦びのために人間は聞いたりします.

遊び心を忘れるとき,知的前線開拓は止むでしょう.
  1. 2017/05/20(土) 11:22:21|
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Chance and Contingency, a workshop at Yale Uni. organized by Prof. Phyllis Granoff



Date: 2017/5/13
Place: Yale University

Program

9:00-9:30
Phyllis Granoff
Chanceand Causality: Of Crows, Palm Tres, God and Salvation

9:30-10:00
Shinya Moriyama
Causation and Contingency: A Study on the Svabhavikavadapariksa of the Tattvasamgraha and the Tattvasamgrahapanjika.

10:00-10:30 Discussion
10:30-10:45 Coffee

10:45-11:15
Masamichi Sakai
Dharmakirti's Concept of Contingency/Dependence: With Special Focus on vinasa.

11:15-12:15
Hiroko Matsuoka
Kamalasila on Doubt as a Cause of Action

11:45-12:15 Discussion
12:15-13:30 Lunch

13:30-14:00
Eli Franco
Jayarasi on the impossibility of reasoning

14:00-14:30
Kiyokuni Shiga
How to deal with future existence: sarvastivada, yogic cognition, and causality

14:30-15:00 Discussion
15:00-15:15 Coffee

15:15-15:45
Kei Kataoka
Exceptional Absence of Regularity: A Study of Invalidity and Error

15:45-16:15
Isabelle Ratie
Utpaladeva's Vivrti on the Pratyabhijna Treatise: the Chapter on the Power of Action

16:15-16:45 Discussion




5/14

9:00-10:30
Reading Yamari on the order of the chapters of the Pramanavarttika. (Eli Franco)

10:30-11:00 Coffee

11:00-12:00
Nyayamanjari (Kataoka Kei)

12:00-12:30
Karnakagomin's commentary on a passage from Dharmakirti's Pramanaviniscaya (Sakai Masamichi)

12:30 Lunch

13:30-15:00
Reading Utpaladeva's Vivrti on Isvarapratyabhijnakarika 2.1.4 (Isabelle Ratie)

15:00-15:30 Coffee and Discussion

  1. 2017/05/13(土) 10:35:06|
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イェール

  1. 2017/05/12(金) 10:31:10|
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Aluth Avurudda

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  1. 2017/05/07(日) 23:57:11|
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අලුත් අවුරුද්ද

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