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Pratibhanusarini --- 九州インド哲学ブログ2

On Indian Philosophy and Buddhist Studies

オンラインで失われたもの



遠隔授業で前後の時間ロスがなくなり効率的になったのはいいのですが,しかし,同時に,非効率がもっていた色々な要素というものが,学生からの不満において「欠如」として指摘されています.

いわく,授業前後の友達との雑談.

授業後の,先生への気軽な質問.

先生の雑談.

私も感じていますが,どうも,リモートで画面みながら一人で真面目に喋っていると,雑談をしにくいものです.

ラジオのディスクジョッキーのようにプロであれば,いろんな雑談を次から次へとできるのかもしれませんが,対面する顔がないと,反応もないので,なかなか,雑談を切り出すタイミングもつかめません.

チャットの反応を見ながらやる,というのも,まだ(双方が)慣れていないので私などはできていませんが,双方が慣れていけば,そういう形に進化していったりするのでしょう.(対面ではなく遠隔の場合,ひとりで沈黙せずに喋るというプレッシャーがある以上,同時にチャットも見てとなると,なかなか厳しいものがあります.相方や耳打ちしてくれるディレクターのいるラジオとは,すこし勝手が違います.)

授業の味というのも,また,気分転換(集中力の持続)というのも,雑談で左右される部分がありますから,これは対面では重要な部分ではあるのですが,それが,どうも,遠隔ではやりにくい,と思っていたら,実際,多くの先生の雑談が減っているようです.

教授も学生も純粋に授業だけに集中した結果,学習効果は,最終的には,どうなるのでしょうか?

効率は確かに上がるのですが,しかし,そもそもからして,人間の集中力が持ちません.

画面も使っている人の場合は,学生も,目が疲れてたいへんのようです.

一日に4コマも5コマも,朝から晩まで動画を見ていたら,疲れるでしょう.(そういえば,むかし,ペン大で,部屋の前の先生がインド映画の専門家で,朝から晩までテレビでインド映画を研究室でずっと見ていましたが,「たいへんだなー」と思ったものです.インド映画を仕事にすると,かなり辛そうです.)

先生が気を使って入れてくれる休憩がありがたい,のだそうです.

たしかに,テレビであれば,気の抜けるCMが途中途中に入ります.

インド映画のような息をも切らさぬ面白い動画も,インターミッションがちゃんと入ります.(インド映画の場合,授業二コマ分の長さがありますけど.あれは,トイレ休憩や,ドリンク・スナック販売のため,という意味もありますけど.)

私の場合は,いまのところ,音声しかつかってないので,目の疲れはないでしょうけど.

研究室での生態系というのは,友達や同級生や上下との付き合いや,どうでもいい情報交換やら,いろんな雑味からなっていますから,純粋に授業だけが取り出されたりすると,アナログレコードからデジタルのCDに音源を移す時に上下や一部の細かい音を切るのと同じように,あるいは,塩化ナトリウムだけが取り出されて製塩されても,味がなくなってしまうのと同じなのかもしれません.

つまらんところが大事なところだったりするわけです.

美味しいものを食べるだけがレストランではないというのも同じ.

空間,他の客との距離,猥雑感というのも,愉悦の一つなのでしょう.(何千円もするような高級フレンチ店も,持ち帰りにしたら,まさか,そのままの値段で出すことがありえないのも,そこにプラスαが大いにあるからでしょう.)

屋外施設の使用は認められるようになって,すこしは若者のエネルギーも発散されるようになるようですが,この先,リモート授業はどうなるのでしょうか.

正解が見つかるころに,対面に戻るのか,あるいは,両方つかうのか,あるいは,しばらくはオンラインのままなのか.

しかし,一蘭の間切りが2020の正解だとは,孤食化のトレンドを捉えた人も,その時は,予想だにしなかったでしょう.

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  1. 2020/06/28(日) 13:31:54|
  2. 未分類

ヨーガからヨガへ



1割のニッチではなく,9割の多くの人に受け入れてもらうには,どうしたらいいのか,ということは,メジャーを目指すタレントであれば,恐らく苦心するところでしょう.

現代ヨガも似たようなところがあります.

つまり,なぜ,現代ヨガは,一般の人に受け入れられたのか.

まず,受け入れにくい要素をなくしていく,ということが必要です.

たとえば,タレントなら,政治的な主張や宗教的な主張を控える風潮がある場合もあれば,逆に国の大勢がそうであれば長いものには巻かれたほうが都合がいい場合もあるでしょう.

いずれにせよ,臭みが鼻について受け入れる人が減る,という事態を回避することが必要です.

かつてのヨーガが現代ヨガに生まれ変わるためには,科学の装いや医療の装いとからめながら,その宗教的臭みを取り除くことが,まずもって必須となります.

ミャンマー上座部の瞑想法から仏教臭を引き算すればマインドフルネスとなるのと似たようなものです.

とはいえ,もう少しヨーガの場合は複雑で,すでに,大衆化・一般化の動きというのは,ハタヨーガの時点で始まっていた,そこには長い歴史がある,というのが,マランソンの立場でしょう.

かつての出家遊行の苦行者が行っていたような極端な修行法――たとえば手を何十年も挙げたまま――というのは,そこでは主流ではなく,あくまでも,一般の人でもできるようなテクニックが宗派を超えて共有されるに至る過程として全体を見渡すことができます.

そして,20世紀.

ハタヨーガあるいは単に「ヨーガ」と呼ばれるものが広められるにあたっては,様々な宣伝方法が試行錯誤されながら,時代の要請に応じて,あるいは,時代特有の概念に応じて,伝統的な宗教の悟り・解脱・涅槃への階梯ではなく,一般人にも受け入れ可能な「~のようなもの」として再規定されるようになります.

たとえば,近代的な意味での「国民」――それは国力の重要な要素となる――を鍛えるための体操の一種として受け入れるというのも,そうでしょう.

ボディービルと並んでヨーガが教えられていた,その中で,太陽礼拝も出てきたというのは,まさに,象徴的な事例です.

また,20世紀にヨーガを広めるのにもともと医者だった人が活躍したという点も重要な点でしょう.

つまり,科学的にみて,体を良くする健康法としての側面が,ヨーガの重要な側面として売り出されたわけです.

不老不死の観念を見るまでもなく,また,薬師如来のかつての人気ぶりと同様,古今東西,医療・治療・健康法に興味のない人はいません.

実際,ヨーガに入るきっかけが病気や体調不良・メンタル不良というひとは多いようです.

それを直してくれるのであれば,ヨーガの出自がどこであろうと関係ありません.

カレーがインドから出て,インド臭をなくしてしまうのと同じです.

うまければ,本来的な出自は問題ではありません.

カレーうどんもありなわけです.

それが進めば,ファッションとして受容されるような動きへとつながるのは自明の理.

今日のようにジムでヨガ――宗教色ゼロ――が気軽に教えられる以前の形態としては,宗教的なグルっぽい人が主催するような(半宗教)ヨーガ教室も見られたように思いますが,昨今は,そのような湿っぽいところにわざわざ鼻をつまみながらいかずとも,もっと,ファッショナブルなところで,お気軽に学べます.

ハタヨーガから宗派色・宗教色を引いたのが現代ヨガというように言えるでしょう.

あとは,それに,ヨーガスートラなど,大昔のテクストを持ちだして,聖典の権威で裏打ちしておけば,神秘的なオーラもまとって,いっちょあがりです.

さらに,そこでは,インド臭がきつい,それゆえ,欧米の多くの人が受け入れられないようなタントラ的な要素やカウラ的な要素というのは,最初から捨象しておくのが得策です.

ヴィヴェーカーナンダのヨーガの見方――浄化――というのも,そのようなものとみなせるでしょう.

あるいは,逆に,大道芸的な要素を売りにするという方策もあります.

バイクで引かれたりなどという曲芸は宣伝効果抜群.

東洋のヨガパワー.

(インド臭をなくすという方向と,インド的オーラをうまく生かすという両方の方向があるのは,カレー受容においても,同様に見られます.)

伝統的ヨーガから引くべきものとしては,宗教色と同様に,インド臭の嫌な部分――エログロナンセンス――があるというわけです.

あとは,一種のオリエンタリズム的な神秘のベールでパッケージングすれば,いいわけです.

マランソンの作ったビデオに,セレブをインドに連れて行ってヨーガを学ばせるドキュメンタリーがありますが,最後,そのセレブさんは,ガンジス川上流で,ほとんど悟ったかのような恍惚とした表情を浮かべてました.

ヒマラヤ,ガンジス,清流――真っ白,まっさら.

最初は,イギリスからのセレブ女性を,いきなり,コルカタあたりの汚い屍林――伝統的ヨーガのディープな部分を代表するようなグロい場所――に連れて行くので,それとのコントラストが面白いところです.

ヨーガからヨガへ.

ここで引き算されたものが何なのか,というのは興味深い問題です.

この動きを「浄化」というと,なにやらきな臭いので,「無臭化」とでも言えばいいでしょうか.

また,大衆化・一般化と同時に,低俗・陳腐に流れるのを防ぎ,その市場価値を守るために,セレブを使った高級化やファッション化が起こるのは,どこの世界も同じなので,その部分については,私が突っ込む必要はないでしょう.

泥沼に咲いた蓮.

宗教史研究者としては,きれいな蓮の花そのものよりも,泥沼に隠れた根が,どこからどうはえて,どう絡まっているのかに興味がわきます.

  1. 2020/06/28(日) 08:38:55|
  2. 未分類

原典を読むということ


サンスクリットを原典で読むというのは,なかなか贅沢な話です.

そこにいたるまでが大変です.

しかし,英文学の人が,英語を原典で読まずに,日本語だけで読むでしょうか.

あるいは,独文学の人が,独語を原典で読まずに,英語で読むでしょうか?(もちろん,解釈をチェックするのに参照する場合はあるでしょうけど.)

同じです.

もっとも,昨今は,ギリシャ哲学といっても,英語で読んだり日本語で読んだりということも,あったりするでしょうけど,それは,あくまでも,方便のレベルでしょう.

内容を手っ取り早く知るための方便です.

また,信頼に足る翻訳が複数あればこそです.

英独仏日の複数からのアクセスもあるでしょう.

しかし,サンスクリットの場合は,事情がまったく異なります.

古典ギリシャ語の文献のように,原典批判の伝統が昔むかしからあるわけでもありませんし,まして,解釈が何度にもわたって検討されてきたわけでもありません.

クリティーク(批判)のレベルがちがいすぎます.

日本語で読めればいい,あるいは,英語で読めればいい,というわけにはいかないのです.

残念ながら,英語でジャーのあれこれの英訳を読んでも,なにも得るところはないでしょう.(サンスクリットが分かっていれば,ジャーの英訳からでも,内容を推測できますけど.)

よーわからんな,で終わることでしょう.

原典を,たとえ遅々としたスピードであっても,丁寧かつ正確に読むというのは,遠回りのようでいて確実な方法です.

サンスクリットが正確に読めれば,ダイレクトに古典にアクセスできるようになります.

世親菩薩の声がダイレクトに響くわけです.

竜樹の声が生で聞けるわけです.(もっとも,テクスチャルな問題は存在しますが.)

こんな贅沢なことはありません.

急がば回れ.

信頼できる日本語訳や英訳が少ない現状においては,サンスクリット原典に自分でアクセスする力を身に付けるのが,ベストな方策となります.

Deeplのサンスクリット版でもあればいいでしょうけど,そんなものができる日は,くるのでしょうか?

たぶん,ないでしょう.(存在する信頼すべき対訳用例が少ない以上,用例から鍛えるチャンスがないから,深層学習も不可能でしょうから.)

また,サンスクリットのような古典語を学ぶということは,橋本秀美さんが漢文について仰ってるように,脳のシステムを変えることでもあります.

回路をそこに合わせて作り替える必要があります.

ウィンドウズのファイルを,アップルのパソコンでも読めるようにするようなものです.

銀行統合の際の,ATMのシステム統合のようなもので,結構,大変な作業です.

時間もかかります.

しかし,波長を古典人の脳みその仕組みに同期させてしまえば,あとは,すらすらと読めるようになるばかりか,彼が言ってる先の先まで予想できたりします.

作家は,ものを書くに際して,いろんな引き出しを用意しておかねばならないでしょう.

同じように,研究者も,昔の人が書いたものを理解するに際して,いろんな引き出しを用意しておく必要があります.

それは,単に引出のレベルではなく,自分自身の脳の回路を,昔の人の脳に同期させておく必要があるということです.

こういえばああいう,という一個一個の連想の複合体が,その回路の中身になります.

ある種の思考パターンと言ってもいいでしょう.

つまり,古典語を学習するというのは,(同じ思考パターンを他言語に置き換えるだけの)現代語を学ぶ場合と少し違って,発想パターンの組み替えも迫るような事態なのです.(もっとも,日本語と英語の場合は,思考パターンの変更を迫られる場合も多々あるのは,我々がよく知っているところです.それの延長上に古典語はあります.ドイツ語人が英語を学ぶ場合とはレベルが違うわけです.)


関係ないですが,言語の距離というのは,結構あるようで,我々日本語人にとっては,チベット語の文法は,たいして習わなくても自然な感覚で予想がつくのですが,これが逆に,欧語人には,わかりにくいようです.

逆も然り.

日本語人にとっては,印欧語をマスターするのは,えらい苦労です.

まして,文法規則が,がちがちのサンスクリットとなると気が遠くなります.

これは,ドイツ語人にとってのサンスクリット語学習と,日本語人にとってのサンスクリット学習のスピードの違いを見れば一目瞭然.

ドイツ語人にとっては,ならわずとも,自然とサンスクリット語の文法感覚が分かるような場面が多々あります.

語感も同じ.

これは,日本語人には,なかなか分からないことでしょう.

ともあれ,チベット語習得に関しては日本語人も得してるわけですから,差し引きゼロです.

  1. 2020/06/27(土) 13:04:41|
  2. 未分類

正書法

コンベンショナルな問題なわけで,音声を,文字でどう綴るかというのは,所詮,その時々の人間が恣意的に決めればいいわけですが,逆に言えば,コンベンションの問題ということは,それに従う必要があるということです.

社会の合意.

サンスクリットも,デーヴァナーガリーをどのようにローマナイズして書くかというのは,学者の緩やかな合意がありますから,それに従って書く必要があります.

次第次第に洗練されて,ほぼ,今のような形に落ち着いているわけです.

もちろん,細かい所では,どちらでも許される,許容範囲ということもありますが,しかし,許されない形もあるわけです.

人それぞれと言うのも,なきにしもあらずですが,しかし,あくまでも,統一として,同一論文内では,コンシステンシー一貫性は保つ必要があります.

私の場合,基本的に,サンディさせます.

わかりやすく切ることはしません.

もし,サンディさせない場合は,コンマで切ったり,あるいは,引用符を入れてみたりと,そのことを明示します.

句読点の活用.

出回っているデータをそのまま張り付けると,サンディが解消されてある場合があるので,しっかりと元のテクストをもう一度確認して,ちゃんと,サンディさせる必要があります.

このような当然の作業が,実際,論文でもなされていないのをよく目にします.

あるいは,コンベンショナルではない正書法――たとえばスペースをあけるべき箇所にスペースがない――をしているのを,元の論文・著書にそうあるから,そのまま,孫引きで取ってきてしまう人がいます.

間違ったものをそのまま取ってくるのは,さすがに許されません.

直すべきでしょう.(というか,その時点で孫引きなのが,ばればれなのですが.)

英文学の論文で,もとの英文のテクストを引いてくるのに,その綴りや正書法が間違っていたら,目を疑うでしょう.

その論文著者の実力を疑うことになります.

独文でも同じ.

綴りのミスや,正書法は,その時々のコンベンションに従うべきです.

しかし,なぜか,サンスクリットの論文になると,そのような初歩的なミスが多いのはなぜでしょうか.

欧米から出てくるご立派な著書も,最初の最初から綴りがいい加減だったりして,もう,それ以降読む気をなくさせるものが,結構あります.

サンスクリット把握がいい加減でも,その原典の内容が読めるのだから摩訶不思議.

末法の世ですから,致し方ないのでしょう.

ともあれ,不注意プラマーダは,除去すべきドーシャです.

プラマーナをやるのに,プラマーダが混入するのは,プラマッタの沙汰です.


学会や研究会や発表会にいくと,たまに,「そこの漢字の読みは違う」と,激怒りしてる大先生がいらっしゃったりします.

日本独特の漢字の読み癖というやつです.(宗派によっても違ったりしますが.)

本来的には中国語ですから,まあ,どうでもいいといえばどうでもいいし,どうでもよくないといえばどうでもよくない.

これも,その場その場のコンベンションに合わせるべきでしょう.

最低限の社会常識・サークル常識にあわせておけばいいわけです.

サンスクリットのローマ字での正書法の場合は,もうちょっと深刻な問題のような気がします.(漢字が正しければ,発音が間違っていても意味は通じますが,論文のサンスクリット綴りが間違っていたら,あるいは,正書法から外れていたら,それは,間違った解釈を与えてしまうことにもなりかねませんから.)

もちろん,いずれも,本来的には,恣意的なものであることには変わりないのですが.

サマヤやサンケータというのは,まあ,したがっておけばいいわけです.(ディグナーガ師もそうおっしゃってます.)

ミーマーンサー的思考の持ち主なら,そのような人為的社会的合意すらも,アウトパッティカやニティヤなものとして絶対視するかもしれませんが.


テクスト校訂をするとなると,ここらへんの正書法については,どうしても意識的にならざるを得ません.

さもないと,新たに間違ったいい加減なテクストを世に増やしてしまうことになりかねません.

いいかえれば,いい加減な写本をもうひとつ増やすだけ.

したがって,ベストなものを世に提供する必要があります.

つまり,(その時点で合意されている)正書法に正しく従うことは,世の為・人の為ということです.


ソシュールの博論を見ても,もちろん,その当時の正書法は少し違うわけですが,それでも,非常に注意深く転写して,さらに,必要があれば句読点や引用符で区切っているのが分かります.

正しく解釈できる人は,正しく書くわけです.

正しく書けもしない人の解釈を信じろというほうが無理があります.
  1. 2020/06/27(土) 12:22:40|
  2. 未分類

カルナカゴーミン

ちなみに,この箇所,NVの対応箇所があるので内容が簡単に取れますが,カルナカゴーミンのエディションはめろめろなので,それだけだと意味が取れません.

否定辞が抜けてるな,と予想してましたが,案の定でした.

写本まで見ればいいんでしょうけど,さすがに,カルナカゴーミンまでやってると時間がなくなりますから,そこまでは面倒です.

勘弁してほしいです.

よくある落とし穴で,註釈をやってるうちに,註釈につきっきりになって,元がおろそかになりかねないというやつです.

クマーリラをやるつもりが,スチャリタ註の写本を大量にあつめて,まずは,そこから校訂する,という作業からになってしまったのが,アポーハ研究.

NMのアポーハも,本来的には,クマーリラを理解するためのものといえば,そうなります.(ジャヤンタは,クマーリラ説を最もよく理解している人の一人といえますから.しかも,スチャリタ以前の理解を代表している――つまりウンベーカ註を参照しているであろう――から,古い理解を示しているという点でも重要です.ウンベーカやダルモッタラあたりを通過したあたりの,当時の理解を残してくれているわけです.年代はさておき,意識としては,カマラシーラあたりと意識は近いことになります.)

なにかをちゃんとやろうとすると,写本まで戻ることになります.

そして,註釈の写本までやることになります.

当然,註釈の方が分量が多くなりますから,仕事量としては,相当になってしまいます.

1をやるために,3倍の註釈を読む必要があり,その3倍の写本が複数あれば,たとえば,4本の写本でも,12倍の仕事量になってしまいます.

つまり,1を理解するために,10倍以上の労力が必要になるわけです.

それが写本仕事.

カルナカゴーミンのような,PVSVを読むための基本的なテクストすら,まともな校訂が出てないのが現状です.

誰か,綺麗に直してほしいものです.

1943年に出た,ラーフル・サーンクリティヤーヤンのエディションを,臨川が1982年にきれいな再版で出してくれたのを,なぜか,わたしは,ワーラーナシーのモティラールで買いました.

2001年9月6日(木).

2527ルピーでした.

日本円で7000円と書いてありますから,まあ,そんなもんでしょう.

しかし,なぜ,ワーラーナシーのモティラールに日本の本があったのか,ほんと,不思議です.

にしても,サーンクリティヤーヤンの脅威的なスピードには驚くばかりです.

たぶん,このテクストも,鬼のようなスピードで写本からトランスクライブしたのでしょう.

出してくれただけでもありがたいことです.

当然,超絶スピードですから,細かい間違いが,そこかしこにあるのは不可避.

そのあとのひとが,全然,根性ないのが情けない.

ともあれ,写本がアクセス可能な形になっているだけでも,とてもありがたいことですが.
  1. 2020/06/27(土) 11:57:48|
  2. 未分類

アポーハへの存在論的問い

アポーハとは何か.

本来,意味論の文脈で登場した「アポーハ」――他の排除,たとえば,非牛の排除――という概念をめぐって,それを,存在論的に問い直すのが,実在論者であるニヤーヤ学派のウッディヨータカラであり,また,ミーマーンサー学派のクマーリラです.

ディグナーガは,桂紹隆のいうように,特定の存在論にコミットすることなく,意味論の領域で,もっともましなオプションとしてアポーハ論を提示したのでした.

それにたいして,実在論者は,では,このアポーハなるものは,存在論的にいかなるものなのか,というように,その素性を問うたわけです.

その最初がウッディヨータカラ.

彼は,非牛の排除と,牛とは,

1.別なのか
2.別でないのか

を問います.

そして,さらに,別であるとする場合,非牛の排除は,牛に,

1.1.依拠しているのか.
1.2.依拠してないのか.

を問います.

1.1.もしも両者が別物であって,排除が牛に依拠しているとすると,その場合,「牛」が直接に指すのは排除ということになり,「牛がいる」というような,同一指示対象を有する表現が説明できなくなってしまいます.

1.2.もしも両者が別物であって,しかも,排除が牛に依拠してないとすると,牛に排除が所属しているというその関係が不明となってしまいます.なぜ「牛に馬の排除がある」というように「の」という関係が言えるのか,説明が付かないわけです.

2.もしも両者が別物ではないならば,非牛の排除=牛,ということになりますから,なにも,アポーハ論なる独自の教説が説かれていないことになります.

これにたいして,ダルマキールティが答えるわけです.

かれは,意外にも,2を選択します.

そして,排除と排除されたものは別物ではないとします.

その意図は,カルナカゴーミンによれば,勝義的には排除が存在しないということです.

あるのは,全てから排除された牛だけです.

その場合,全てからの排除と,全てから排除された牛との関係が問題となりますが,両者が別でないというのは,牛という個物が原因から生じる時に,すべてからの排除というものが,既成のものとしてあり,その特定的な牛を捉えることがそのまま,全てからの排除の把握につながるということです.

カルナカゴーミンによれば,個物である牛が牛として顕現しているとき,それは,まさにその特定的なものとして現れているので,それをもって,全てからの排除,と呼ばれるだけであって,わざわざ,全てからの排除を,「これは馬ではない」「これはライオンではない」などと,いちいち,一個一個排除対象を確認してから,そこからの排除を把握するわけではないということです.

特定的な対象の顕現=全てからの排除の把握

ということです.

ここでも,(カルナカゴーミンが理解する)ダルマキールティの解決方法は,まずは,すべてから排除された独自相に話を持っていく,という順序を取っています.

あとの話は,世間的な取り決めであるサンケータに持って行って,処理しようとします.

同じものを指しているにもかかわらず,それを属性として表現したり,あるいは,属性を持つものとして表現したりするのも,単に,世間的な取り決めに従っているだけだ,というわけです.

以上,ディグナーガのアポーハが存在論的に大きな役割を果たしてしまいかねないことを,存在論的な観点から,ダルマキールティは,封じていることになります.

もちろん,ディグナーガ自身も,アポーハが非存在であり,それが存在論的な重さを持っていないことについては,文脈によっては意識的なのですが,他の文脈によっては,あたかもそれが限定要素として重みをもっているかのような記述をしていますから,実在論者から批判を受けても,しかたないわけです.

ウッディヨータカラやクマーリラからの存在論的な問いは,ダルマキールティのこの有名なテーゼ――「排除と排除されたものとは別物ではない」――により,一挙に返されるわけです.

アポーハとは何か.
何物でもない.
それは,排除されたものと別個に存在するようなものではない.
排除は概念構想(分別)の対象でしかない.
しかし,排除されたものと,(排除に依拠したor排除手段である)心的イメージとが同一視されることで,人間の発動を生み出すものとなる.

というのが,カルナカゴーミンのダルマキールティ理解です.

ともあれ,ダルマキールティを理解するには,

ディグナーガ→ウッディヨータカラ・クマーリラ→ダルマキールティ

という流れを理解しないと,見えてこないものが沢山あります.

ダルマキールティだけを読んで,ダルマキールティの哲学を分かった気になっている人は,ダルマキールティ自身が意図していたこと,つまり,ダルマキールティが誰に答えようとしてディグナーガへの註釈を著しているのかを見逃していることになってしまいます.

クマーリラが(ダルマキールティが念頭に置く)最大の敵であることは明らかです.

クマーリラ抜きにダルマキールティ哲学を理解しようとすることは,ダルマキールティ哲学の生成過程を無視することになってしまうでしょう.

ある作者を,彼のいた時代的背景の下に捉え直すのが,まずは第一.

その後に創造的な誤読も,あるいは,深い哲学的読み込みも可能です.

しかし,それが許されるのは,まずは,彼が意図したことを明らかにした後でしょう.

初心者がおかしがちなミスは,前主張を飛ばして後主張(定説)だけに注目してしまうことです.

しかし,前主張を深く理解してこそ,後主張がよく理解できます.

ダルマキールティをよく理解しようと思うならば,その前主張であるクマーリラの主張をしっかりと把握する必要があります.
  1. 2020/06/26(金) 20:20:39|
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サンガの重要性

同好の士を見つけるのは難しいものです。

まして、サンスクリット文献の中でも難解で知られるダルマキールティの著作となると、それを原典で一緒に読もうなどという人は、そうそう沢山いるわけではありませんし、たとえ興味があったとしても、それに取り組めるだけの準備がある人も、そう沢山存在するわけではありません。

さいわい、今年度は、M1の院生とダルマキールティのPVSVを途中から読み進めることができました。

流行のオンライン授業なので、適当に声をかけていたら、「わたしも」「わたしも」ということで、ゲスト参加者も増えてきました。

九大のみならず他大からも。

また、いまは関東にいるOB陣も。

みなさん、別に、専門でやろうという人ばかりではなく、まあ、少し接してみようかという軽い気持ちでの参加です。

がっつり専門のひとは、他大の一人くらいでしょうか。

あくまでも、M1向けの授業ということなので、レベルはそれほど高くありませんし、進度もゆっくりですし、一回の量もわずかです。

M1が準備した資料を検討しながら、Dhの本文とKの註釈を頼りに、ゆっくりと読み進めるという形式です。

というわけで、それほどの負担なく、みなさん、耳学問にはなるとは思います。

とくに、ダルマキールティとなると、一文一文を吟味しながら、味読しないと、彼の言いたいことが分からないことが多々ありますから、進度は遅い方がいいというのは、読んだことのある人なら実感できるでしょう。

ぱっぱと要約して、どんどん先に進むことができるという手合いではありません。

また、味読することで、その肝――つまりDhの言いたいこと――が分かれば、他の文もすとんと腑に落ちるというのがサンスクリット哲学文の妙味。

たんなる抽象的概念語の羅列に見えたものが、頭の中で、意味を結びだす瞬間です。

ダルマキールティの思考波長と同期した、という感覚が生じればしめたものです。(こうなれば、だいたい、彼が次に言いたいことも予想できるようになります。)




ひとりぼっちだと、何事も、意志がたとえ強くとも、長続きしないものです。

懈怠のおそれが常にあります。

一週に一回、強制的にグループで読み進めると、たとえ一回一回はわずかでも、最後には、亀の歩みのごとく、着実に量を読み進めることができます。

サンガのありがたさというのは、こういう点にもあります。

今回のquarantineは、個々人を離別させましたが、ネットを通じて逆に、つなげあわせる効果も産んだとも言えるでしょう。

同様の動きは他の先生方のところでもあるようで、同好の士がつながりやすい状況が生まれたとも言えます。

今後、もう少し大きな規模で、流れがいい方向に加速すると良いですが、どうなるでしょうか。
  1. 2020/06/24(水) 20:11:34|
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KF

https://khyentsefoundation.org/apply-for-support/
  1. 2020/06/24(水) 08:09:43|
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ヨーガからインド宗教史を眺め返す

ヨーガからインド宗教史を眺めると、インドの宗教史が違って見える

などということはなく、ヨーガも、やはり、インド宗教史の重要な一要素ですから、インド宗教史の大きな流れを押さえながら、そこにヨーガをどう配していくか、という予想通りの順当な見方になります。

とはいえ、仏教史からインド宗教史を見た場合と、ヨーガからインド宗教史を見た場合とでは、強調される点が異なってくるのは当然です。

そして、ヨーガに注目することで、特に、浮かび上がってくる重要なインド宗教史の断面もあります。

仏教と同様、ヨーガも、沙門の宗教に根ざし、インド宗教史のかなり早い段階からあります。

そして、形や強調点を(そして伝播先の場所をも)都度変えながら、現代にまで残っています。

そもそも、ヨーガというと、定義的には、三昧状態やそのための技法のことですから、特定の宗派宗教に限られるものではなく、極論すれば、どの宗派にも見られるものと言ってよいでしょう。

仏教にもあれば、ジャイナ教にもあるし、バラモン側でもそれを受け入れていくし、また、シヴァ教タントラでも、クリヤー、チャリヤー、ジュニャーナと並んでヨーガというパーダが立てられます。

したがって、ヨーガに着目してインド宗教史を見ていくと、様々な宗派・宗教にまたがってインド宗教史を横断的に見ていくことができるという長所があります。

逆に言えば、大きな流れを知っていないとヨーガ史は語れないということです。

そして、言うまでもなく、タントラ――シヴァ教・ヴィシュヌ教・仏教の密教――の知識も必要になります。

が、残念ながら、日本語でタントラの歴史について紹介するものは、ごくごく僅かです。

詳しく知りたければ、現状では、サンダーソン教授の諸論文を直接に英語で読むしかありません。(さいわい、英語なので、独語や仏語でないだけましでしょう。シヴァ教関係の研究は、サンダーソン以前は、むしろ、フランス語の文献が多いという特徴があります。)

サンダーソンの研究成果が表に出始めたのが、ここ数十年のことですから、日本語の紹介本(いわゆる教科書的な本)に落とし込むまでにはいたっていないのが現状です。

したがって、ヨーガの歴史を知ろうと思っても、日本語では、それを十全にカヴァーしたものは、まだないと言ってよいでしょう。

残念ですが、これが現実です。

インド哲学をプロとしてやる人が、日本には、現状ごく僅かですから、当然の結果です。

日本にあまたの(西洋)哲学科はありますが、インド哲学を生業として教えている人――つまり一般教養として別のものを教えつつ自身の研究としてインド哲学を研究している人ではなく、学生とサンスクリットの哲学文献を読む機会がある人――は、ごくごく僅かです。(以下は、仏教研究、ヴェーダ研究などは除きます。いわゆるダルシャナ文献を読む人だけです。)

国立大学法人だと、

筑波に2人
東大に1人
名大に1人
京大に1人
広大に1人
九大に1人

といった感じでしょうか。(これ以外の先生方――たとえば私学で教えている先生は、教育では別のことを主として教えながら、研究ではインド哲学を進めているわけです。)

というわけで、人材豊富な西洋哲学とちがって、海外の最新の研究成果が日本語に落とし込まれるまでには、まだまだ時間がかかるのは当然なわけです。

ヨーガについて知りたいと思っても、当然ですが、そうそうお手軽に(現在の最先端の知識を反映した)便利な教科書があるわけでもないのは理の当然。

また、そのような知識が、海外でも何か既知のものとして、あるわけでもありません。

Roots of Yogaがその先駆けとして2017年に登場しましたが、その内容も、日々これから更新されるべきものを含んでいますし、現在進行形で研究が進んでいます。

仏教のAm.rtasiddhiの校訂本がいずれ出れば、ハタヨーガの最初期の姿も、すこしは明瞭になるでしょう。

つまり、世界的に見ても、ヨーガの歴史については、現在、日々更新されつつあるということです。

日本からは、京大のソームデーヴ――オックスフォード大学のサンダーソン教授の高弟の一人――も、ハタヨーガ関係のテクスト校訂作業に従事中。

というか、ソームデーヴ自身が、タントラのヨーガに関する世界的な権威なのですが、たぶん、日本の人は誰もついていけてないので、そういう認識はないかもしれませんが。(彼のオックスフォード提出の博論は、マーリニーヴィジャヤのヨーガのところについてです。)

この方面の弟子は、いまのところ、誰もいないようなので、ほんと、宝の持ち腐れという気がします。

善知識がいても、それを受ける人がいないと、その真価はなかなか表には出にくいものです。

というわけで、ヨーガについてその真髄を極めたい人は、京大に行くのが一番いいでしょう。

(ただし、指導は英語になりますが。嫌なら別にドイツ語でもフランス語でも、たぶん、フィンランド語でもいけます。)

わたしも京大に入って勉強したいくらいです。

彼は修辞学(アランカーラ、詩文学の理論書)も専門なので、そちらも勉強できます。

アランカーラも日本では、極めた人がほとんどいない分野です。

日本語の訳語をいちいち決めるだけでも、結構面倒な作業になるでしょう。

ともあれ、インド哲学、やることはいくらでもあります。

それは、単に日本への紹介とかそういう意味ではなく、本当に、世界的な最先端の研究、という意味においてです。

ちょっと突っ込めば、ドリルで岩盤を自分で掘り進めることになります。
  1. 2020/06/24(水) 00:59:43|
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アウトプットと学振



研究というと、インプットとアウトプットのバランスが問題となります。

入力と出力。

ネタ仕込と論文です。

博識ですが、一向に書かない先生もいらっしゃいます。

逆に、順調に書き進める先生もいらっしゃいます。

また、単に書けないだけの御仁もいたりするのは、どこの世界も同じでしょう。

H先生は同じスタイルで堅実にあれこれのテーマをピックアップして、着実に論文を書かれるスタイル。

結果、つみあがった本数はかなりのものです。

いっぽうT先生は、ものすごい学識を誇りながら、書かれたものはごく僅か。

あまり沢山書くのは上品ではないと考えられていたのでしょうか。

いろいろな考え方がありますし、生き方そのものですから、他人がとやかく言うようなことではありません。

とはいえ、私の頃からでしょうか、「学振」という関門ができたので、書かないと生き残れないシステムにかわりつつあったのは、敏感な学生なら感じたことでしょう。

論文数。

DC1やDC2なぞは、そもそも、業績数そのものがまったくなかったり、数本以下しかありえません。

また、PDといっても、3年間でいったい普通何本書けると言うのでしょうか?(そのころは、博士号既得必須ではありませんでした。)

5本もあればいいほうでしょう。

あるころから、T大の人を見ても、全然通らないようになりました。

通っているのはH大の人。

先生が先を見越して指導して、ちゃんと、DCもとり、PDもとりと、手取り足取り、やっていたのでしょう。

いっぽう、わたしのいたところはまったく放任・放置・放牧の自然農法ですから、自分で水をやって自ら芽を出していかないと、なにも起きません。

学振の差は、あきらかに論文数の違いでした。

そのころは、厳しい修論を無事に通過したら、あとは、あまり勉強しないというような雰囲気が濃厚でした。(博士論文という目標がないので。)

それが、わたしのころからでしょうか、大学院重点化で、大学院に学生を多く通すようになりました。

また、博士号も出すようにというプレッシャーがではじめたころです。(西本さんがえらい発見で立派な博士論文を出されたのが印象に残っています。「こんな大発見か。ハードル高いな」と思ったものです。)

しかし、研究室は、まだ、昔の雰囲気を引きずっていたのか、修論はあいかわらずスタンダードが高めで、それを通過してしまうと、目標がなくなって気が抜けるのか、必死に論文書いてる人の記憶がありません。

いまとは偉い違いです。(いまは博士論文という明確な目標がありますから。)

また、留学するという人も、あまりいませんでしたし、留学してしまうと、研究室にいないので、その様子は下の者にはわかりませんでした。(辛島さんも、研究室から離れて長かったでしょうから、わたしも、学部の時に、中国でお会いしたきりです。刺激という点では、留学する先輩がたまにお話してくれる機会があればよかったなと思います。いまなら、Zoomで簡単に留学中でもできますが。そういう意味では、「帰朝報告会」ではなく、「留学中の雑談」というようなZoomインタビューも企画すると面白いかもしれません。斉藤さんやら堀内君やら、せっかくいるのですから、やれば聞きたい人は全国にいるでしょう。)

インド滞在2年から帰って(ルピー札の残りはありましたが、円では)無一文ですから、学振通らないことには、生き残れません。

しばらくは霞を食いながら仙人暮らし。(幸い、酒も肉も体が欲しないので金がかからない体質になってましたけど。)

いくつか論文書いて、ようやく、DC2に通ったのが、インドから帰国して1.5年後のことでした。

むかし読んだロビンソンクルーソーの漫画に、漂着後、空腹に苦しむ彼が海岸でウミガメの卵を見つけ、食べながら神に感謝するシーンがありましたけど、そんな気持ちです。

というわけで、貧窮問答歌の学振応募プレッシャーから、論文を書き続けるのが習性になったのか、あるいは、本来そういう体質なのかよくは分かりませんが、同じルーチーンで続けるという意味では、上村先生に近い体質なのかもしれません。(あれほどのレベルは無理ですが。)

ともあれ、論文数というのは、わかりやすい指標なので、別に悪くないと思います。

書いてない人をどう評価するのかのほうが私には不明です。

もちろん、在籍年数からして、当然、平均より多い少ないの多少はあるでしょうけど。(つまり、3年目の人と5年目の人とでは、同じPD応募でも、期待される本数はことなるでしょう。)

K教授・O助教授のH大体制は、ある意味、印哲の学振応募のあるべき姿を先取りしていたと言えるでしょう。

全国のみなに平等にチャンスがありますから、公平です。

学振という制度があって助かりました。

  1. 2020/06/22(月) 19:30:19|
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恬淡・引っ込み・イケイケ



飄々、あるいは、恬淡とでも意訳すればいいのでしょうか。

upek.saa、無関心、indifferenceです。

要するに、どうでもいい、という態度です。

インド哲学における人間観として

認識(厳密には新得経験・原経験anubhava)

に基づいて、過去の同種の対象の想起が起こりますが、そこから、目の前にある対象に対して、

1.欲求icchaa, raaga→発動prav.rtti→獲得・入手upaadaana
2.憎悪・嫌悪dve.sa→niv.rtti退却・退行・発動停止→忌避・回避・放棄haana

という二種の態度が生まれます。

ようするに、好きか嫌いかという反応です。

それにしたがって、取りに行ったり、回避行動を取ったりするわけです。

マンゴーがなってるのを見れば取りに行くでしょうし、蛇がいるのが見えれば回避行動を取るわけです。(もっとも、H本さんのような好奇心旺盛なひとは、蛇がいたら、むしろ、見に近づくでしょうけど(笑)。それは例外。)

人間の態度として、認識された対象にたいして、好きか嫌いかの感情が紐付けられるわけです。

仏教は、その始まりからして、むしろ「引っ込み系」の宗教ですから、基本は、退行するわけです。

行動停止。

それによって、業がプラスマイナスゼロとなることで最終的に解脱するわけです。

しかし、その場合、嫌悪感・嫌気・倦むnirvedaという、いわば、一種の嫌悪dve.saが先立つことになります。

この世への嫌悪感というものです。

これは、聖者にはあまりふさわしくない――聖者が嫌悪・憎悪を持つというのはどうなのか?――ので、むしろ、ここには、

3.upek.saa無関心

が立てられることになります。

好きでも嫌いでもない恬淡とした態度。

傍観者的、第三者的な態度。

聖者とされるひとの態度としてひとつのモデルになるのが、この態度です。

唯識的にも、幻術師の視点から見た幻の象への態度というのは、こんな態度でしょう。

求めず恐れず。

しかし、実際には、出家の動機は、ほとんどが憎悪や嫌悪だったりでしょうけど。

あとあとになってから、どうでもよくなる、ということでしょう。

祭火を保つ外的儀礼の外向き・前向きの働き(pra-v.rt)が、出家遊行者の引っ込み系の内向きの働き(ni-v.rt)に転じ、そこで儀礼ウィルスが変異して内的儀礼(内なるホーマ)となり、それが、反転して密教的なプロジェクション観想儀礼となって、かえって派手派手なCG的マンダラ世界を生み出すのは、歴史的に見ると面白い現象です。

プロジェクションの派手派手法要は、真言世界とは相性がいい――というか本来的にそうである――でしょうけど、真宗的にはどうなんでしょうか。

しかし、阿弥陀来迎図的な浄土系の本来の在り方を考えると、プロジェクションで阿弥陀様が迎えに来てくれるのもありかもしれません。(観仏・念仏)

そのうち、法要参加者は全員、変なメガネでヴァーチャルリアリティーを体感させられながら、法要を受けるようになるかもしれません。

utpannakramaあたりも、それでやると、面白いかも。

エロ坊主というのが、そのうち、卑称ではなく尊称になったりするかもしれません。

ともあれ、歴史的に長い目で見れば、prav.rtti系の儀礼がなくなることは、まずないでしょう。

こっちをたたいても、あっちからでてくる、という、もぐらたたきのようなもので、外がだめなら内で、実写がだめならCGでやる、というのが儀礼欲求。

にしても、カーパーリカ的・カウラ的・シャークタ的な要素が形を変えて色々なところに入っているのは、とても興味深い現象です。

ハタヨーガにも、たまに顔を出すのが面白い所です。

いくら抑えても出てくるのが欲求。

やれniv.rttiだ、やれupek.saaだときれいごとを言っても、最後にはprav.rtti的なものが、どこかに出てきてしまうものなのでしょう。

雑密もふくめ、日本に密教があってよかったです。

多様性。

なんでも一行に凝縮されたら、それこそ退屈で寝てしまうでしょう。

niv.rtti系の戯論プラパンチャの寂滅もあり、逆に、prav.rtti系のプラパンチャの広がりもあり、両極の間を振れることで、多種多様な人間も救われるというものです。

研究者でいうと、伊原照蓮は、その年代にしては、影響関係が明確でない独特な研究対象を選ぶことで、系譜的に分類不可能な独特な存在ですが、それは、彼が、真言宗だったことが大いに関係するのでしょう。

そこで、伊原→針貝という系譜も見えてくるわけですが、その前は見えないわけです。

単純には、東北大(および真言宗系譜)における「金倉圓照→伊原」なわけですが、その中で、ミーマーンサー的な関心というのは、印度哲学の中から伊原が独自に選んだということになるでしょう。(金倉には、それほど、ミーマーンサー臭を感じません。また、東大における「アドヴァイタ中村→ラーマーヌジャ松本」におけるヴェーダーンタの系譜というのは、逆に、中村の真宗バイアスの結果として、真宗と相性のよいヴァイシュナヴァのラーマーヌジャという選択が素直に松本先生に受け継がれたというように見なすこともできるかもしれません。松本先生自身は、ばりばりの真言ですから、ラーマーヌジャ研究はむしろ仮の姿というような印象をうけます。仮面の仏教徒ならぬ、仮面のラーマーヌジャ教徒。)

真言における言葉やマントラへのこだわりから、ミーマーンサーの儀礼分析の世界という流れです。

いっぽう、真宗的な視点からは、ミーマーンサーをやろうという気は起りづらいかもしれません。(例外的にFは博論までミーマーンサーですが。あんまり真面目に真宗の勉強してなかったからかもしれません。いまごろになってツケを払わされてる気もしますが。)

曹洞宗と密教儀礼の関係というのは、日本仏教では面白いテーマでしょうけど、只管打坐や清規ばかりだと、やはり、信者との間がもたないから、それなりの儀礼が欲しくなったのでしょうか。

尊敬するA賀先輩あたりに聞いてみたら、ぶつくさ、あれこれ、要領を得ない回答をくれるかもしれません。

  1. 2020/06/21(日) 13:08:15|
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留学と劣等感



自己肯定というのは人間が幸せに暮らしていくための前提条件のひとつでもありますから、とくに、否定するべきものでもないでしょう。

自分の過去を否定してばかりでは卑屈になるだけです。

ネットにおける承認欲求の充足を求める諸現象も、そのように理解できるでしょう。

とはいえ、あまりにも自己肯定や承認欲求が前面に出てくると、そのような(ありふれた)醜悪さに対しては、自分の胃の内容物や内壁を外にさらけ出されて目の前で見せられたようで、不快感を覚える人もいるかもしれません。

とはいえ、自我意識アハンカーラと高慢マーナが地続きであり、それが、自己世界展開のひとつの元になっていることは、サーンキヤの25原理の表からも明らかでしょう。




前置きはさておき、いいたいのは、インド留学してよかった(かも)、という(醜悪な?)自己肯定です。

ひとむかし前の知識人や文化人といえば、仏文でも出て、仏留学でもして、巴里から帰って、高邁な政治理念を仏語でも交えながら語れば、一端だった気がしますが、昨今は、そんなステロタイプの文化人を目にすることも少なくなり、アメリカ帰りの理系のひとのほうが、むしろ、知識人として人気があるようです。

さて、私の場合、インド留学を終えて、つぎに向かったのがイギリス。

オックスフォード。

オックスフォードというと、学費が高いこともあり、日本人もそうそう簡単に留学できるわけではありません。

皇室ならいざ知らず、学部や院に入っている日本人の数は、1998年当時も、それほどでもなかったように思います。

まして、印哲となると、歴史を通しても、ごくごく僅か。

はるかむかしの高楠順次郎や宮本正尊くらいでしょうか。

私が行ったときは、ちょうど、種村さんが博士課程に正規に入ったところで、苦労されているところでした。

サンダーソン教授は厳しいので、怠けていると、容赦なく落とされて、指導から外されて、おさらばさせられますから、みなさん、びくびくしながら準備しないといけません。(お客さんの私は、全然関係ないので、苦労した皆さんの発表を聞くだけです。一回だけ、ゲストですが、「発表するか?」の一声で、発表させてもらいましたけど。)

わたしはさして社交に興味がなく、インド学関係者以外では、ウルフソンカレッジで、たまたま食事を共にするような連中としか、部外者とは付き合いがなかったのですが、種村さんは、さすがお坊さまで、あたりがやわらかいので、日本人コミュニティーとも付き合いがあり、その中で、私も、まったく専門が関係ない日本人と会うこともありました。

そうやって普通に院に入る日本人留学生を見て思うのは、大変だなー、ということです。

ゼミなら英語も、なんとかなりますが、ネイティブ相手にべらべらしゃべられるような、高速のお笑いも含めた講義に出るとなると、それについていくのも一苦労です。

サンダーソンのレクチャーも、サンスクリット資料は用意されているとはいえ、英語の解説は、結構な高速です。

わたしも最初の頃は、英語部分はよく分からず、サンスクリット資料を見て、内容をゲスしていました。(いまは、サンダーソンの英語は、大概わかる気がしますが。内容を知っているから、というのもあるでしょうけど。)

種村さんも、毎回、許可を取ったうえで録音されて、復習されていました。(種村さんの録音の質がベストなので、みんな、以後は、種村さんからシェアしてもらっていました。)

なるほど、英語圏にいくと、こんな苦労をするのだなと実感。

聞き取りの苦労。

そしてもちろん、英語で作文。

英語英語で苦しめられるのでしょう。

しかも、それでちゃんとやらないと落とされますから大変です。

そうやって脳の思考回路が鍛えられると、おそらく、メンタル的には不健康になることでしょう。

劣等感というやつです。

さいわい、インド学関係者は、サンスクリット中心で回っていますから、英国人や欧米の人間に囲まれても、サンスクリットができれば、英語ができなくても別に何の劣等感を感じる必要もないので、わたしは気楽なものでしたけど、これが、別の分野となると、まあ、気苦労は推して知るべし。

普通に西洋哲学なんぞやった日には地獄でしょうね。

私が習ったなかでも、欧州でかつてインド学の博士号を取得した某先生は、なにやら卑屈が裏返されたような劣等感をたまに表明されることがありましたけど、ひと昔前の留学なら、なおさらだったのでしょう。

欧米留学して博士号を取得できるのはいいけど、それと引き換えに劣等感を植え付けられるのもなんだかなと、思ったものです。

ダブルバインドで上からも下からも相矛盾した状況に挟まれると、大なり小なり、あるいは、正なり反なり、憧れや裏返しの劣等感というものは植え付けられるものなのでしょう。

まだしもインド学関係でよかったですし、インド留学が最初でよかったです。(インド留学をするとフィジカルーー免疫も――とメンタルが鍛えられるので、欧米留学は快適極楽で、日本にいるのとほぼ同じ感覚です。到着したその日から勉強できる環境が整っています。驚き。インド英語会話術も鍛えられるので、相手の言ってることが分からなくても会話できるようになります。自分の言いたいことだけ言いっぱなし。)

月曜の昼にゴンブリッジ教授が主催するベイリオルのハイテーブルのランチ会で会う向こうの人も、基本、みな、アジア好きの人ばかりですから、不快や不安な思いをすることもありません。

英語が下手でも(相手の言っていることがよく分からなくても)さして気後れする必要はありませんでした。

たまに、ジュニア研究員の若手同士のディナー会のようなものをカレッジが用意してくれて、まったく関係ない分野の人と会話するのは、ちょい苦痛でしたけど。(二回目は行きませんでした。)

フォークとナイフで食事をつつきながら、左右前の人と上品な会話。

メソポタミアの石板の話を聞いた覚えがあります。(さいわい、とても感じの良い人でしたけど。)




日本人という立ち位置で、インド学をやるとなると、どうしても、「西洋」と向き合うことになりますが、その入り方がマイルドになるようなもので、私自身は幸いでした。

そもそも、ミーマーンサーの場合、西洋に大した成果がありませんから、参考参照するものは、ほぼ皆無です。

Keithなぞは、ジャーに似たような内容ですから、読んでも何の得にもなりません。

エジャトンはもちろん大学者ですけど、MNPのあの直訳の英語よむくらいなら、サンスクリット読んだほうが、はっきりいって早いです。

たいした解説はありません。

英語読むより、チンナスワーミのサンスクリット註を読んだ方が、100倍ためになります。

フラウワルナーも、クマーリラ関係でちょこっと書いているくらいでしょうか。

あとは、もちろん、彼のタルカパーダの校訂本。

これにはお世話になってます。(しかし、これも、もとの校勘ノートは、タンジャーブールの図書館で働いていたデーヴァナータアーチャーリヤが用意したものです。彼は優れたミーマーンサカです。)

シャバラ註は優しいので、別に、フラウワルナーの直訳独訳を一所懸命読む必要はありません。

それに、ノートはほぼありませんから、とくに彼から恩恵を受けるという感じでもありません。

クマーリラのBTや年代関係などでは、彼の論文を読まないといけませんけど。

立派な先行研究に囲まれた分野だとそうはいきません。




大地原豊は、日本人の立ち位置を考えた(日本における)インド学の方法というのに自覚的だった研究者です。

今現在の日本のインド学の有り方を(理念的に)規定した立役者の一人と言ってよいでしょう。

その態度からは色々と学ぶところがあります。

弟子やその周辺がみな、欧米留学だったというのも、興味深い点です。

また、ある種の劣等感がそこに立ちあがっている気も私にはします。(私の勝手な読み込みかもしれませんが。)

本人に会ったことがないので、書いたものから感じただけですが。(強烈キャラだったそうですので、会わなくてよかったですけど。)



ともあれ、今現在、インド学や仏教学に限って言えば、わざわざ欧米圏に劣等感を抱えて留学せずとも、専門に限って言えば、日本でも十分に善知識はいるので、事足ります。(もちろん、英語を身に付けるとか、そういう周辺事項では、まだまだ海外留学の利点はありますが。)

また、博士号を出すのも一般的なので、博士号を求めて海外に行く必要もなくなりました。

PDとしてお客さん状態でいったほうが、実質を身に付けるには、はっきりいって身になります。(単位やペーパーに追われると、大変です。)

それに、ハンブルクのハルのもとへの留学なら、向こうも日本人慣れしているので、のびのびと勉強できるでしょう。(無言の「勉強せーよ」プレッシャーはかけてくるそうですけど。)

良い時代です。

そういえば、前年度にY尾さんから、かつてのカナダ留学の話を伺いましたが、えらい快適だったそうです。





結論は何かと言えば、自分の先生が味わったような卑屈な気持ちを味わわずに済んだのは幸いだったな、ということです。我々の分野の今後の学生も、同じ気持ちを味わうことは、多分ないでしょうから、ラッキーです。

「なにくそ」という劣等感に根ざした反発エネルギーは、なにかを成し遂げるのに必要なエネルギーとなりえますが、しかし、解脱や心の平安を目指す仏教やインド哲学の目標に対して、その手段が劣等感というのは、目的と手段の乖離を生じさせてしまいます。

まあ、実際、不遇な時代を経たフラウワルナーや織田辞典を見ていると、そのような反発エネルギーや「恨」の肥やしとでも呼ぶべきものを感じますが。

メンタル的に不健全ではあるでしょう。

ないならないで、ないにこしたことはない、それが劣等感でしょう。

  1. 2020/06/20(土) 11:21:21|
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多様と一様



いろんなことをいろんなひとが好き勝手に言いっぱなし

それを真に受けていると,聞く方は,ただ混乱するだけでしょう.

いったいどれが正しいのかと.

したがって,思考停止して,たまたま出会った自信満々の人に,「これが真理です」とひとつだけを示されると,それを信じたくなるものです.

そのほうが脳が楽なので.

たくさんをしるよりも,ひとつを選ぶ,というか,選んでもらった方が楽なわけです.

メニューがたくさんあると混乱するのと同じで,もう,「本日の定食」を最初から指定してもらった方が,時間が限られたランチタイムには,楽なのと同じです.

長い長いワインリストを見せられても素人としては混乱するばかり.

お店の人が松竹梅と三種くらいを示す中から,まあ,たいがい,真ん中を選ぶことになります.

インドの宗教も同じ.

選択肢の多さは半端ありません.

それは,マクロレベルでもミクロレベルでも.

解脱の手段といっても,ひとそれぞれ,百家争鳴.

沙門果経にも,いろんなひとが出てきます.

みんな,好き勝手に自分の教えを立てています.

どれが一体正しいのやら,純な心の受け手は混乱するばかり.

仏陀も真面目にあれこれと修行して,最終的には,全部駄目だとして全部捨てて,自分独自の教えを立てた次第.

周囲から見ると,またひとつ,選択肢が増えたということになります.

ヨーガも同じ.

同じヨーガなのに,中身はいろいろ.

八支もあれば六支もありますし,それ以外もあります.

いったい,どれが本当のヨーガなのか,という整理が不可能なわけです.

すぐに,「どれが正しいのですか?」という質問がくるでしょうが,どれもあるわけです.

歴史的に整理していくしかありません.

自分にあったものを選ぶだけのことでしょう.

結局は,たまたま縁のあったものを選ばされていることになるだけですが.

ラショナルな主体がすべての情報を与えられて合理的に一つを選び取る,などというのは理想論にすぎません.

実際のところは,たまたま手に取ったいくつかから適当に選んだだけです.

劇画が好きな御仁はそれを「運命的な出会い」などと表現するわけです.

ともあれ,多様のカオスを歴史的に整理,体系化,交通整理するというのは,思想史家の大事な仕事でしょう.

宗教家のごとくに,「これだけが正しいのです.わたしを信じなさい」と言ってしまった方が,なんぼ楽か.

長い長いワインリストを一生懸命,いちいち客に説明するソムリエと,

ずばりこれがお奨め,と言ってくれるソムリエ.

どっちが人気あるかといえば,いわずもがなでしょう.

  1. 2020/06/18(木) 07:55:58|
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シャンカラのヨーガ批判:ヨーガは解脱の実現手段に非ず



ヨーガは,今現在では六派哲学の一翼を担うものとして,なにやらバラモン教の哲学の一角を占めるかのように理解されていますし,また,さらに古くから,サーンキヤの知に対するヨーガの行として,セットとして姉妹学派として認識されてきましたが,紀元後600-800年頃のヴェーダの正統派から見た場合,サーンキヤとヨーガとは,あくまでも非ヴェーダの伝統であり,また,ヴェーダの権威を否定する反ヴェーダとみなされてきました.

この意識はミーマーンサー学派のクマーリラには明白ですし,また,クマーリラを前提とする,不二一元論学派のシャンカラにも明瞭に見られます.

シャンカラのBAUBh

【問】心の働きの抑制は,
(1)ヴェーダ文から生じたアートマンの知とは別個のものなので,
(2)また,別の教示書において為すべきものとして理解されるので,
規定対象である.

【答】そうではない.解脱を実現する手段とは理解されないからである.


Roots of Yoga 1.5.2に英訳あり

というわけで,シャンカラにしたがうならば,サーンキヤとヨーガの権威を認めるべきではありませんし,サーンキヤとヨーガの権威を認めるならばシャンカラの意図に反することになります.

では,なぜ,現在のような理解の形になっているのか,その歴史を埋めるのは,結構大変な作業です.

後代のシャンカラ派を研究しているM鍋に頑張ってもらいましょう.

  1. 2020/06/18(木) 07:06:52|
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知識の共有



なんでもモノ化して,知まで財として,それを「自分のモノ」として,我アートマンと我所アートミーヤを肥大させていくのは,いまもむかしもかわらず。

少欲知足のガーンディーも,ひとりの人間の無限の欲望を満たすには,この広い世界ですら足りないと既に指摘しています。



ここで考えたいのは,物質的なリソースではなく,「知識の共有」。

知識は共有しても減らないので,物質的リソースと違って,無限に共有可能です.

色々な概念やらキャラクターやらが我々を豊かにしてくれていますし,分節化により,正義のなんたるか,平等のなんたるか,などなど,見えなかったものを見せてくれるようになります.

あるいは,端的に,それ以前にはなかった,といってよいでしょう.

ともあれ,政治概念といった我々の生活に直結していくような概念でなくても,知的な愉しみというのは,尽きぬものです.



で,そのような大それた話でなく,単に,研究上の知識の共有。

幸い,インド哲学は一銭にもならないので,けちけちする必要がありません.

人に分けても自分が損するわけでもなし.

これが分野がちがえば大変でしょう.

金と無縁で良かったです.

一分一秒,われ先の世界では,他を利するなどということは考えもつかないでしょう.

むしろ、どっちかというと、金が出ていくのがインド哲学.





苦労してビザをゲットして,インド留学しても,先生に教えてもらうまでが,実際,大変です.

優れたパンディットほど,清浄にこだわりがありますから,外人――日本語のガイジンのニュアンスを想像すると分かるでしょうかーーにはあまり教えたがりません.

肉食・飲酒をしているような連中とは,あまり,かかわりたくないわけです.(「おまえは卵を食うか?」とよく聞かれました.肉食などはもってのほかです.酒もたばこも.)

さいわい,ティルパティのラグナータ・アーチャーリヤ師も,ポンディのタターチャーリヤ師も,(私がサンスクリット語を聞いて理解できるので)受け入れてくれましたし,親切に時間を割いてくれました.(南においては,ミーマーンサーは,基本,サンスクリットミディアムでしか不可能です.英語ミディアムは普通ないです.)

そして,教えるとなると,無料.

金はとらないというのが,南のパンディットの美徳として,一般的にあります.

金をとるというのは,はしたないと考えられています.

わたしの一番の先生であるヴェンカタラーマン師は,プロなので,金をしっかり取って,でも,しっかり教えるというプロ根性のひとでした.

彼は,同居する兄弟を支える唯一の大黒柱でしたから,いたしかたありません.

稼がないといけないわけです.

しかし,サンスクリットで金を取るというのは,どうも,南の高徳なパンディットでは,忌避される傾向があります.

その点でも,タターチャーリヤ師は非常に尊敬されていました.(彼も実際にはお金が必要だったと思います.娘さんが多かったので.)

ともあれ,金の授受はさておき,知識の共有という点では,幸い,いずれの先生からも,惜しげなく教えてもらいました.

ミーマーンサーの知識を独占したところで,なにも得することはありませんし,むしろ,若い人と共有したほうがいいわけです.

というか,パンディットにとっては,教えるというのが人生そのものなので,共有するという意識すらないでしょう.

たんに日々の習慣として,ならわしとして,自分が教えられてきたように,次の世代に教えるという,ただそれだけのことです.

受け継いでいくというパランパラー伝統です.
 



さて,ところかわってイギリス.

サンダーソン教授.

どう考えても,配られたハンドアウトの全てのネタが,サンダーソン・オリジナル.

彼が一次資料,とくに,碑文や写本を直接に解読して読み取った情報を,惜しげもなく,学生に披露,共有していました.

もちろん,部外者が無遠慮に使用することには細心の注意を払われていましたが,しかし,自分に近い若い人には,とにかく,親切・寛容.

わたしも,ウルフソンのジュニア・リサーチ・フェロウとして滞在した時には,サンダーソン教授に,えらく親切にしてもらいました.

指導学生でもなく、あくまでもお客さんですが,講義にも出させてもらい,また,一部の個人指導チュートリアルにも隣席させてもらいました.

ラッキーです.

ここで,強烈に,知識の共有と,次世代への継承という意識を感じました.

とくに,シャイヴァ研究というような,サンダーソン以前には分野そのものが,欧米においては確立していなかった分野を成立させようと思うと,そうなるでしょう.

実際,東大の『インド思想史』を読んでも分かりますが,シャイヴァについての情報など,微々たるものです.

なにがなんだか分からないというのがシャイヴァやタントラ.

バンダルカルあたりの昔の本を読んでも,または,すこし後代のものを対象とするヒンディー文学のH.ドヴィヴェーディーを読んでも,タントラやヒンドゥー教というのは,曖昧模糊として捉えようがありません.

これは,インド人がヒンディー語で書いたタントラの歴史を読んでも同様です.

ようは,誰もわかってない(分かつ作業をできていない)ということです.

膨大な写本や碑文をつないで,整理して,体系化して,ピンポイントでそれぞれを的確に押さえ,同時に,資料批判までこなさないと無理なわけです.

知識の共有の過程がそのまま,文献学の訓練にもなっていました.

脚注に引かれるテクストの多くが,エメンデーションなしには読めないような代物だったりするのが,この分野です.

あるいは,特殊な語法や用法.

そして,パラレルな情報も,どこかの写本を見ないといけません.

知識の共有が次代を作る.




で,今現在,その通りになりました.

サンスクリット学会にいくと,シャイヴァだけで,パネルが成立します.

弟子や孫弟子がわんさかいます.

直接系譜になくとも,ファンもたくさんいます.

ヴァイシュナヴァやってるクルーニーの弟子でも,シャイヴァに走ったりという友人もいます.

むかしは,このようなことはありませんでした.

知の共有が波を起こすということでしょう.

さいわい,ミーマーンサーも,パネルが立つような次代の時代.

良い時代になったものです.

共有していくことで,さらに,インフレが起こります. 


 


カンボジアにいったときのこと.

碑文研究について仄聞.

考古学関係のみなさんは,資料をがっちりと守って,結構うるさいひとも多いようです.

貴重な写真,拓本、資料などなど.

共有というような意識からは程遠いようです.

守りに守って,そのまま朽ちていくのでしょうか.

いつか出版する本による自己の名声?

まだ就職もしてない若手なら,キャリアのために,自分の資料を(せこく)守るのも分かりますが,就職して責任あるポストについたのならば,自分だけでなく分野の全体を広く考えるべきでしょう.

学問において,守りは守りにつながらないという逆説を,身をもって知ったのが,この20年のシャイヴァ研究の変化を身近に見てきたものの感慨です.

ちなみに,はじめてサンダーソンにあった1997年当時,まだ,界隈で有名なだけで,論文数は少なかったので,決して有名ではありませんでした.(日本では名前を聞いたことがありませんでした。)

実際,発表論文数が少ないという評価も耳にしました.

すでに出ていた厳選論文だけでも,その濃度と充実ぶりがすごかったのですが.

そんなことを言っていた人も,いまの論文数(論文頁総数)を見たら,自分の認識がいかに誤っていたか分かるでしょう.

たんにためこんで,発表していなかっただけです.

というか,会えば天才ぶりはすぐに分かります.

稲妻エメンデーション,閃きとは,まさにこのことでしょう.

知的な刺激という点でも,資料の共有,時間の共有というのは大事です.

そういう環境で育てられ,また,おなじように,次世代のハルにもドミニクにもソームデーヴにも,みなに親切に知識を共有してもらったので,自分も寛容になれます.

せこくてケチい環境で育たなくてよかったです.






さらにいえば,知識の共有や時間の共有という,共有行為そのものが実は幸福そのものだったりします.

脳の中で何か出ているのでしょう.

逆にいえば,我・我所の無明は不幸の原因だという,仏教の原点に立ち返るわけです.
  1. 2020/06/15(月) 23:43:13|
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三性説



円成実性,依他起性,遍計所執性などと書いて,その内容がすぐに分かる人は,まず変態でしょう.

あるいは,一般向けにこれを書いて分かれ,というほうが無理があります.

結局のところ,三性説というのは,大雑把にいえば,

1.宗教的真理に即した世界像(唯識的世界観)
2.科学的世界観の世界像(物理的世界観・知覚対象)
3.世間一般の理解する世界像
3.1. 社会通念上正しいとされる世界像(普遍やキャラクターの世界・確定知の対象)
3.2. 社会通念上でも間違っているとされる誤った世界像(いわゆる錯覚・夢)

とでも説明しておくのが,まあ,無難でしょうか.

3.1あたりは,細かく分けてもいいですが,まあ,いまはやめておきましょう.

1. parini.spanna
2. paratantra
3. parikalpita

ですから,直訳すると,

1.完全に出来上がったもの
2.他に依存したもの
3.でっちあげられたもの

ということになります.



分かりやすく言うと,

1. パーフェクトワールド
2. 物理的世界
3. でっちあげのヴァーチャル世界・虚構・フィクション

ということになります.

当然ですが,「世間様にも分かるように」というのは,3の世界に足を踏み入れるわけですから,そもそも,正確ではありえません.

2の数式や化学式ですべてが表現可能な世界とは異なるわけです.

サイエンスライターの仕事,あるいは,NHKや新聞の科学文化部の仕事でしょうか.

比喩などを駆使して説明することになるわけです.

新書というのは,趣旨・理念として,もともとは,2と3とをつなぐ仕事ということになります.




いっぽう,1は言語の途絶した世界ですから,誰も反証できませんから,聖者ビジネスを志す者は,在る振りをしておけばいいわけです.

悟りの体験などを振りかざしてるひとは,大概,この類です.(なかには本当に1を体験している人がいるのかもしれませんが,凡人には,偽物と見分けがつかないわけです.)

我々には本当かどうか分かりません.

クマーリラも,同じ批判をしています.

全知者が見た真理なるものは,その人の夢物語と変わりないと.

全知者が可能であると一所懸命ダルマキールティも論証していますが,結局,無限に生まれ変わらないといけませんから,確率的には,50億分の1でもなく,もっと稀有です.

そのような存在を立てたところで今ここを生きる我々に何の意味があるのか不明です.

仏陀という身近な存在――誰でもそのようになれる可能性がある――を聖化・聖人化し,遠い遠い存在に措定してしまったなれのはてが,全知者論証という,実用性を欠いた教理を生んでしまったといえるでしょう.

ダルマキールティは,ささやかながら宗教的に大事なこと(つまり四諦)だけが完璧に分かればいいのであって,本当の全知者ではないと譲歩しています.(専門の全てが分かればいいという創造主論証の先行議論を思い出します.壺つくり職人は壺つくりの全てを知っているという意味で,壺つくりの全知者なわけです.同じように,宗教者は,宗教的真理の全てを知っていればいいわけで,その意味で全知者なわけです.)

その意味で,彼自身も,本当の全知者(すべてのすべてを知る者)はうさんくさいと思っていたのでしょう.

仏教内部では,中観派をはじめとする極端な原理主義者にたたかれますから,大きな声では言えなかったでしょうけど.

カマラシーラは,本当の意味での全知者を論証しようとします.

ご苦労様です.



不可能に挑戦する時,人間は輝きますから,その意味で,全知者論証というのは,インド哲学史において輝きを放つ議論だといえます.

無駄な抵抗,大いに結構.

もがきくるしむのが人間.

そこにドラマが生まれます.

全知者論証や創造主の議論が面白いのは,そこに,ドラマや(根拠のない)情熱が満ち満ちているからです.

お互いに罵り合う学者達.

カシミールの学匠ジャヤンタも熱くなって,「おまえなんかサノ〇〇ィッチ」と発言しています.(彼は戯曲家でもありますから,熱い議論を再現してくれているわけです.)

pppppを入れないといけません.

クマーリラも,SVではそうでもありませんが,BTでは,結構熱い感じです.

  1. 2020/06/14(日) 13:29:04|
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知覚と推論の作用の違い



共通相←(確定=付託の排除)---推論・知覚判断
 |
独自相←(写像)---知覚

知覚と推論の対象が独自相と共通相で異なることは,PS冒頭に言われてますから,猫でも知っています.

では,その作用はというと,ダルマキールティに出てきます.

作用も二つでは当然ことなります.

推論(言葉に基づく知も含む)の場合は,確定という作用です.

それは繰り返し彼が言うように,付託の排除です.

いっぽう,知覚のほうは,「それの顕現によって」働くことになります.

すなわち,推論が確定(付託の排除)により対象Xの一側面を捉えるのにたいして,知覚はXの顕現によって対象を捉えるわけです.

二つの認識手段は,対象へのアプローチの仕方が異なるわけです.

自分の誤った思いを除去して掻き分けて対象Xのおぼろげな姿(これは非牛ではない)に出会うのが推論です.

いっぽう,知覚は,独自相にダイレクトに出会います.

その出会いの仕方は,写像です.

心に写像が浮かんでくるわけです.

「それの顕現(立ち現われ)により」とダルマキールティは表現します.

実在論者の場合,二階の普遍も一階の実体も実在であることにはかわりありませんから,別に,認識手段の側で働き方が異なるというようなこともありません.

有分別知覚による確定作用(「これは牛だ」)は,別に,二階に留まることもなく一階に突き進んでいきます.

つまり,作用としては肯定的な確定があるだけです.

推論や知覚判断が対象を捉えるというのは,写像によるのではなく,まさに,確定によるわけです.

いっぽう,ダルマキールティであれば,二階を推論で確定しても,一階は推論では確定されていない,また,一階を知覚で把握していても,二階を推論で確定していないことはありうるわけです.

働き方が別々ですから.

しかし,実在論者では,そのような区別がありませんから,知覚で確定してしまえば全部が確定されてしまっていますからすべて終わりのはずです.

しかし,先ほど,実在論者は,アポーハ論者の真似をして,知覚で全面的に確定していても,一部の側面は錯誤でおおわれているがために,それを取り除くために別の認識手段が働く余地はある,という発言をしていました.

この場合,確定されていても,錯誤知という無明の覆いのために,確定されていない,という中途半端な状態を認めたことになります.

ダルマキールティは,この中途半端を許しません.

PV I 57bcd: しかも,諸確定知により確定されてないような姿形は,それら(諸確定知)の対象で,どうしてあろうか.(ありえない.)



実在論者のシステムでは,知覚によって把握されたならば,それは,確定されてしまっているはずです.

確定されたのに確定されていないということはないわけです.

知覚が把握するというのは,実在論者のシステムでは,知覚が確定することです.

いっぽう,仏教論理学では,知覚がXそれ自体を把握しても,Xの一側面を確定していない,と言うことができます.

また,推論aが側面Aを確定しても,推論bがその実在の側面Bを確定する余地はあるわけです.

普遍実在論では,これは不可能です.

二階の一側面を確定したが最後,全一である実在の全てを見てしまい,結果として,二階にある他の側面も確定してしまっているわけです.(口座Aから本人特定をし,その人の口座全ての動きを把捉する税務署みたいなものです.丸裸になります.)

実在論者の帰結:知覚がXを把握する=Xが知覚の対象である=知覚によってXの全側面を確定する

アポーハ論者:知覚がXを把握する=Xが知覚の対象である=Xの顕現(写像)によってXを把握する≠Xを確定する

口座と本人の「紐付」というようなこととパラレルな発想になっています.

この紐付が内属という,基体と不可分のものである場合,芋づる式に全てが分かってしまうことは避けられません.

グーグルが,紐付=内属により,一部の動きからその人の全側面を把捉してしまうことができるのと同じです.

携帯番号を寄こせなどと,あれこれ紐付用の確認があったりしますが,これにより,全ての側面の確定が可能になるわけです.

これにたいして,ディグナーガ的な世界観では,二階部分は,分別のヴァーチャル世界ですから,紐付されないはずですが,しかし,アポーハと実在との紐付を強く意識しすぎたあまり,ダルマキールティでは,紐付具合が強くなり過ぎる嫌いがあります.

  1. 2020/06/14(日) 12:47:20|
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ヴァイシェーシカがアポーハ論者を真似た場合



確定(ニシュチャヤ)というと,なんだか肯定的な働きに思ってしまいますが,ダルマキールティによれば,確定とは,付託の排除であり,他者の排除なので,evaの働きを含んでおり,他者の排除という否定的な働きを含んだものです.

「これは牛だ」という確定は,「これは牛以外ではない」という他者(非牛)の排除を含んでおり,非牛の付託を排除しています.

つまり,確定というのは,付託の排除という否定的な働きを持つものです.

したがって,

共通相←確定
 |
独自相←知覚

の二階部分を捉える時には,推論などの確定がそれを捉える作用となります.

確定作用は直接には独自相に至りません.

この共通相の中身は,ヴァイシェーシカの考えるような牛性という肯定的な普遍ではなく,非牛の排除という否定的なものです.

これが確定の対象となります.

PV I 56ab
【問】[知覚により]把握されても,錯誤排除のために,他(認識手段)が認められる.


というように,もしも,普遍実在論者が言うならば,それは,アポーハ論に日和ったことになってしまいます.

普遍実在論を認めるならば,彼らの考える確定は,二階部分だけでなく,一階部分の無部分の独自相を捉えてしまい,しかも,全面的に捉えることになるので,その全ての諸相が確定されてしまいます.

つまり,確定作用が全面に及んでしまいます.

「これは牛だ」から,独自相も捉え,「これは実体だ」「これは地製だ」などなど,すべてが芋づる式に確定されてしまうので,他の認識手段が働く余地はなくなってしまいます.

税務署が一側面から全側面を捉えてしまうようなものです。

隠れた側面は何も残りません。

したがって、他の認識手段がさらに働く余地はないわけです。

しかし実際には,確定知で一側面を捉えても,他の側面を捉える余地は残っていますし、また、知覚で対象を捉えた後でも同様ですから、ヴァイシェーシカの実在論は,この現実を説明できないわけです.

そこでもし普遍実在論者がアポーハ論の真似をして,知覚によって全面的に実在を捉えた後でも,その直後に生じる推論によって,一側面の確定の生じる余地がある――錯誤を排除するために――というならば,それは,アポーハ論と同じような主張となってしまいます.

付託の排除が確定の対象であることを認めたことになるからです。

しかし,一階部分にも二階部分にも肯定的な実在(たとえば牛という個物としての実体・牛性という普遍)を立てる場合には,このような説明は不可能です.

ディグナーガのように,一階を肯定的な存在,二階を否定的な非存在としないと,両階の切り分けはうまくいきません.

内属で一階と二階をつなぐにしても,二階から下に降りて内属という階段が捉えられれば,同時に,それと不可分の一階部分も捉えられてしまいますから,切り離しは不可能です.

ディグナーガやダルマキールティのように,存在と非存在で両階を完全に切り分けるならば,可能ですが.

逆に,もし,一階と階段とが別物であり,そこに断然があるのならば,内属という階段1を一階とつなぐための,さらなる階段2も必要となってしまい,階段3,4,5と無限後退に陥ってしまいます.

付託の排除というような便利な道具を,ヴァイシェーシカが真似して,「錯誤の排除の為」などということを言いだすことはできないわけです.

PV I 56cd
【答】それ(他の認識手段)は,排除を対象とするものということになる。それと同様に他[の認識手段]も[排除を対象とすることになる]。なぜなら付託のない対象に対して働いているので.


結局,推論という確定知が他者の排除,付託の排除を対象としているというアポーハ論を完全に認めてしまったことになってしまいます.



とはいえ,ヴァイシェーシカ側に即して考えるならば,そもそも,知覚で実在の全面を捉えるという前提がおかしいと思いますが.

知覚というのも,実在の一面しか捉えないでしょう.

ジャヤンタも,そのように言っていた記憶があります.

知覚にそこまで求めるのが,はなから,おかしい気がします.

求めすぎ.

仏教論理学の知覚の定義は,知覚のハードルをあげすぎて,訳分からなくなってしまっているのでしょう.

言語介在を拒否したところから,その病気が始まってしまったようです.

そこから,様々な言い訳が開始されてしまっています.

結局,この言語介在を拒否したせいで,知覚から発動を説明するのがややこしくなってしまっています.

ダルモッタラが最終的に回収しますが,そもそも,自分で騒いでおいて,自分で解決した感がなきにしもあらずです.

最初から,言語を介在させて,確定知――有分別の知覚――を認めておけば,発動まですんなり説明できたのに,知覚を純化――無分別の知覚しか知覚と認めない――しすぎたせいで,にっちもさっちもいかなくなって,それで,複雑なことを言いださざるを得なくなってしまっています.

知覚で無部分の実在を全面的に捉えるというのは,穢れに覆われた人間の限定的な知性のありかたを説くシャイヴァの二元論神学的にもおかしいでしょう.

言語を介在しない,分別を離れた知が完璧であってほしいというのは,三昧マニアの宗教家の願望にすぎません.

なんも見えてないのに,なにかを見たふりをしているだけかもしれません.

あるいは「何も見てないから全てを見ているのだ」というナンセンスな主張ともいえます.

無分別知覚がすごいなら,カメラから取り外したレンズは全てを捉えるはずですが,カメラから取り外されたレンズ単独は,無用の長物です.(むかーし、むかしのことですが、某先生が、すんごい高いデジタルの一眼カメラを買ったのですが、高すぎてレンズ別売なので、レンズがないまま本体だけがそこの研究室に転がっているのを目にしたことがあります。レンズのないカメラ本体。禅の考案で「レンズのないカメラ、これで見よ」とでも迫られそうな深い問いだったのかもしれません。あるいは、金の使い方知らん奴に金与えても無駄という単純な事例なのかもしれません。)

確かに,味噌汁を味わう時に,言語化できない色々な側面を捉えていますが,かといって,味噌汁の全側面を味わっているとは思えません.(ワインや紅茶のテイスティングのプロの鑑定士に聞いてみればわかるでしょう。)

対面した時に,相手の様々な情報を見るでしょうけど,しかし,それで全側面が尽くされているとは思えません.(カメラと違って、人間の知覚は注意を向けてないと見えてない部分があるでしょう。もちろん、意識に上らない知覚内容があるのはたしかですが。)

純粋な無分別の知覚に,期待しすぎではないでしょうか.

知覚を持ち上げるあまりに,知覚を純化しすぎ,あるいは,知覚の聖化がはじまっているとでも言えるでしょうか.

雲が無いと常に太陽が輝いているというのは便利な比喩ですし,実際,曇りや雨の日に飛行機で上に行くと太陽が燦々と照っていますが,これも,比喩にすぎません.

夜だと,雲がなくても真っ暗です.

つまり,錯誤がなくなったからといって,すべてが見えているというのは願望にすぎず,むしろ,錯誤がなくなっても,何も見えてないという可能性もあるわけです.

二障がなくなると、漏れなく自動的に全知者になり、心が輝くそうですが、私としては、むしろ、真っ暗になるだけではないかと思います。

カマラシーラの論証を見ても、いまいち、説得力がありません。

仏陀の境界なので,議論しても詮無いことなわけですが.

つまり,反証不可能.

科学の世界を越えています.

クマーリラが言うように,信じる者には(そして信じる者だけにとり)美しい世界なわけです.

非信者には,なんの説得力も持ちません.

独存状態のプルシャが輝くというサーンキヤの信念と、たいして差がありません。

同じ穴の狢なのでしょう。



「牛性(非牛の排除)を捉えても牛そのもの(実在・独自相)を捉えていない」という事態は,はたして,アポーハ論に即してのみ説明可能なのでしょうか.

二階部分は単なる分別の世界にすぎないのでしょうか。

しかし,ダルマキールティも,知覚判断においては,排除されるべき付託がそもそもないと言っています.

したがって,付託の排除ではなく,付託のvivekaと言っています.中須賀参照。

他者の排除を付託の排除と言い切ったまでは良かったのですが,知覚判断では,すこし,うまくいかなかったようです。

また、結局、そこに立ち上がってくる形象は、経量部的には、実在にある程度根差したものとして、推論の正しさを担保することになります。

ここにいたると、なにやら、きな臭くなってきます。
  1. 2020/06/14(日) 01:22:20|
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アプテ

あの梵英辞書のアプテ(1858 – 9 August 1892)が,生没年を見ると,33~34歳で夭逝とか,意味不明です.(もちろん,死後の増補があるとはいえ.)

全然関係ないですが,ラディカー・アプテは,1985/9/7生まれなので,現在,同じくらいですね.

若くしても才能ある人は,とんでもない業績を残すものです.

33~34というと,わたしはペン大にいたころでしょうか.

ちょうど,ハル,カルドナ,スターンという三学匠に囲まれながら,SV教令章の出版準備作業(のちにウィーンから出版)を行っていました.

30代前半というのは,なにかを出そうという脂の乗った時期なのかもしれません.

いまは,あんなしんどいことを繰り返す気も起りません.

そういえば,細かい索引を作るだけでも――苫米地さんが便利なプログラム書いてくれたのにもかかわらず――2か月ほどかかりました.

英語で本を出版するのは面倒くさいです.

まして辞書つくりとなると,気が遠くなります.

マラーティーが辞書作りが得意なのは,どうしたわけなのでしょうか.

風土や東洋人の思惟方法も,「インド人」という大きな括りくらいはあるかもしれませんが,私としては,もっと細かく,インド各州のステロタイプも知りたいところです.
  1. 2020/06/13(土) 08:58:32|
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「ハタヨーガ」という名称の分析



マランソン卿とシングルトンのRoots of Yogaによれば,

1.ハタによるヨーガ
2.ハタというヨーガ

と二つ,語分析が可能だそうです.

で,一般的にヨーガが手段よりも目標とされることを考慮すると,おそらく自然なのは前者のようです.

つまり,ハタという無理やりな力づくの技法により成し遂げられる目標がヨーガという状態なわけです.

ちなみに,ヨーガというのが,修習反復abhyaasaとしての手段よりも,目標としての状態として前提とされているほうが文献に一般的なことは――もちろん手段としての用例もありますが少数――同じくRoots of Yogaの第一章に論じられています.

ハタというヨーガ,というのが我々の現在の一般的な理解でしょうけど,まあ,文献に照らして言うと,どうも,ハズレのようです.

力づくでのヨーガということから言うと,パワーヨーガというのは,語源に近いかもしれません.

ただしパワーは,この場合,目標ではなく手段です.

パワーによるヨーガ,というのが,本来的なハタヨーガの解釈に近いものになるでしょう.

ちなみに,現在あるようなシステムを「ハタ」と呼び始めるのは,13世紀頃のヴィシュヌ派の『ダッタアートレーヤ・ヨーガ・シャーストラ』からです.

しかし,ハタヨーガの体系――ただしハタと呼ばれてはいない――を説くのは,11世紀頃の仏教文献『アムリタ・シッディ』からのようです.

ハタヨーガが仏教起源とは,恐れ入りました.

国際ヨーガの日に,そんなことを大きな声で言ったら,どこぞの至上主義者に(洒落でなく)焼き打ちされるでしょう.

『ヨーガ・スートラ』があるじゃないか,と言う人があるかもしれません.

しかし,600-650年頃のクマーリラによれば,サーンキヤ,ヨーガは,ヴェーダ宗教の伝統に属す正統派ではなく,むしろ,非ヴェーダの宗教であり,ヴェーダの権威を否定する,とんでもない連中です.仏教やジャイナ教とかわりありません.

また,『ヨーガ・スートラ』とバーシャのネタ元には,瑜伽師地論などの仏教のヨーガ瞑想体系があります.

こんなことも,大きな声で言うと,誰かさんの感情を逆なでして,295A条項で訴えられるかもしれません.

本で書くと禁書になるやもしれません.

いやいや,インダス文明のシヴァの紋章があるではないか,という反論がさらにあるかもしれません.

しかし,それは,まったくのspeculativeな空想でしかありません.

それがヨーガのポーズである,また,シヴァであることに,なんの証拠もありません.

Roots of Yogaに,何の証拠もないとするのが学者の総意と書いてあります.

世間に流布した一般的な見解というのは,おもしろければ伝播するので,なかなかに否定し難いものです.

空想物語のほうが,えてして,おもしろくて記憶に残ったりしますから,それを,文献事実に基づいて否定しようとしても,難しいものがあります.

政治とからんだ歴史と同じです.

そういえば,クメールの歴史も,結構あやしげなもので,碑文の1行の解釈がわかれるところを好意的に解釈した結果,東の東の大遠征が勝手に既成事実になってしまって,誰もが知っている「事実」になっていることがありましたが,根拠薄弱のようです.

そんな話をしながらふと食堂のテレビを見やると,まさに,大王様のそのシーンが放送されているところでした.

碑文資料も,なんども見返して,文字の読みが正しいか,解釈はどの程度原文に裏付けられるのか,たえずチェックしないと,「いまさら後戻りできない」ような政治状況が産み出されることになりかねません.

まあ,昨今は,「事実」というのが,あやしげになってきましたけど.

誰も学者のいうことなぞ耳を傾けなかったりしますし.

たった1行のサンスクリット・クメール碑文解釈で,勝手に歴史がねつ造されたりするということで,実はサンスクリット文献学,大事です.

現代のヨーガは,適当な風説の流布ばかりなので,ますます,実際の文献に当たって事実を確認する必要があります.

事実なんぞは金にならないので誰も興味ないでしょうけど.

ちなみに,超有名なクメールの王様も,某X世ですけど,いまでは,同名の人をもう一人数え直すので,某(X+1)世とするのが正しいようですが,すでに周知の名前なので,いまさら変えられないようです.

笑ってしまいます.

そういえば,ケーララのミーマーンサーの伝統のパラメーシュヴァラさんも,Iだっけ,IIだっけ,IIIだっけといつも迷ってしまいます.
  1. 2020/06/11(木) 08:07:39|
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英語論文を書くときに,,,



英語で論文を書くときに苦労するのは,やはり,分析用のメタレベルの語彙が不足するということでしょうか.

日本語なら,気の利いた語彙が頭に幾つかあり,しかも,読者のレベルに合わせて適切に使用できますし,格調高いかどうかも気を使いますが,英語だと,どうしても,稚拙なレベルにとどまってしまいますし,適切に使うとなると,これは,辞書以上の要求ですから,用法を知らないといけませんが,英語を専門にやってるわけでもなく,何年もいて英語の実際の感覚が鋭いわけもなく,そこらへんは,どうしても,ラテン語などの語源から推して考えるか,あるいは,ネイティブチェックに頼らないと,稚拙かどうか,気の利いてるかどうか,響きが良いかどうかというのは,簡単には分かりません.

ネイティブチェックの入ってない外国人の書いた日本語論文がどうしても幼稚に見えるのと同じで,まあ,素のままの英語だとどうしても,高級なものはかけない気がします.

というわけで,実質的なネタ提供系のものに特化して攻めていくしかありません.

情報重視.

それならば,必要な人は絶対読むわけです.

気の利いた表現云々より,中身で勝負するしかありません.

というわけで,一次文献や,あれこれの情報を盛り込みます.

まあ,その場合も,一次文献を多くすると,今度は,英訳もつけないといけないので,これはこれで,結局,英訳作業もついてきて,さらに,苦しむことになるのですが.

サンスクリットの(1)直訳英語と(2)分かりやすい英語の狭間のどこに身を置くか悩むことになりますし,そもそも,(2)の分かりやすい英語が奈辺に在るのかも,実感としては分からないわけですから,なんとなくここらへん,として投げるしかありません.

というわけで,最後はやはり,ネイティブチェックに頼らざるを得ません.



しかし,それ以前に,日本人が書くと,どうしても,欧米人から見ると,いまいち論文としてフィットしてないという書き方の問題があるようです.

たぶん,問題意識や論文の書き方や,そういう姿勢の問題でしょうけど.

何が書きたいのか,という根本的な問題です.

わたし自身はあまり指摘されませんが,他の日本人の論文を読んだ友人から,そういう感想を漏らされることがあります.

教育の違いでしょうか.


そういえば,留学生が書くものも,単に日本語の問題ではなく,書く内容に問題意識の違いが表れているのに出くわすことがあります.(つまり,日本人研究者の常識から見て,「これは論文ではありません」「こういうのは論文とは呼びません」というやつです.)

これは,当然,論文として何を書くかという習慣の違いもありますから,これまでに受けた教育,積んできた経験が出てしまいます.

たとえば,インド式と欧米式では,当然,書く対象も違ってきます.

インド本や論文の場合,よく知ってることを書く場合が多いので,どうしても,既知情報が多くなります.

みながすでによく知っている内容を書いている場合がよくあります.

同じ方向で言えば,日本でも,むかしの宮〇正尊の論文などを読むと,さすが医学部出身,頭良いのが明らか,よくまとめてあるけど,はたしてこれが新規情報なのか,という感想を持ちます.

仏道を体系的に知るにはいいのかもしれませんけど,論文は,新書ではないので,きれいにまとめてくれるのと,新しいことを最前線で探るのとでは,もうちょっと違って然るべきではないか,と私などは思ってしまいますが,

宇井のように,現場で原典に体当たりしながら,右往左往して,しかし,それでも前に突き進んでいく方が,漸進前進したい後続にとっては,情報としては役立ちます.

青の洞門みたいなものでしょうか.

大きいトンネルができて,いまは使わなくなったとはいえ,手で掘った洞門それ自体は,その格闘の痕から,後続に多くを学ばせてくれます.

いっぽう,100年後に今の新書をひっくりかえす人はいないでしょう.

それは,その時その時で消費されるような商品でしかないからです.

その時代時代に合わせて書き方を変える必要があるでしょうから,その当時のレベルにあわせ,その当時の嗜好に合わせ,なんなら,その当時の流行に乗っかって書く場合もあるわけです.

というわけで,賞味期限が切れて,古くなるのも,はやいわけです.



インド哲学の場合は,幸い,現代日本では,消費対象になってないので,「いまここ」に乗っかる必要がないので,時間的に末永く残るものか,あるいは,空間的にワールドワイドに(英語で)書くしかありません.

ともあれ,自分しか知らないはずのこと,自分だけが考えたと思われることを,これまでの既知情報に接続して提供することで皆と知を共有する,というのが論文の本旨であろうと思いますが如何?

まとめ系の論文は,それはそれで,まとめ方や見方が新しい場合には,ありといえばありかもしれませんが,大学生のクラス友人の複数のノートの中で最も見やすいノートと同じで,新規情報かどうかでいうと,価値が下がるように思います.

すくなくとも,英語でそんな気の利いたものを日本語人が書くのは難しいでしょうし,書いても受容されることは,まあ,ないでしょう.たぶん,言い回しが,いけてないから.

なんらかのオリジナリティーというのは,日本人が論文を書くときに意識したほうがいい視座なのかもしれません.

英語論文を査読していると,オリジナリティーばっかり振りかざして,一次文献解読となると足腰よわよわの論文にでくわします.

口上を叫び威勢よく刀を振り回してるけど,足元がふらふらしていて,蹴るとすぐにこける手合いです.

しかし,英語で書くとなると,こういう姿勢が重要なのかもしれません.

理系の論文なら実験で再現可能かどうかという実証性が重要でしょう.



いっぽう,我々のような分野の場合,一次文献については,もちろん,実証的である必要があって,誰が読んでもそう書いてあると納得するものを提供する必要はあるでしょうけど,それ以上の大局的な見方,分析の切り込み方のオリジナリティも重要です.

1.分析視座・オリジナリティ
2.実証性(再現可能性・反証可能性)

というわけで,件の日本語人論文に欠けている,そして,欧米人が何か足りないと思うスパイスは,実は,このオリジナリティの意識ではないか,という気がします.

味といえば味でしょうか.

この人にしか書けないような味です.



下田さんの本や論文は,どれを読んでも「下田節」というのが前面に出ていて,日本人的よりも欧米人的という感じを受けることがありますが,たぶん,そういうことなんでしょう.

誰が書いても同じものには決してならない(同じであってはならない),というのは,論文,とくに,英語論文を書くとき注意した方がいいかもしれません.

論文だけではなく,同じ写本を使っても,実は,同じエディションができるわけでもありません.

自分の持ち味は伸ばした方がいい,という単純な結論でした.

同調圧力の強い社会に適応した人ほど,逆に,難しいかもしれませんが.

実は簡単で,一次文献を自分で読んで感じて,人はこう思ってるけど自分はこう思った,という異なる意見をそのままに述べればいいだけです.

一所懸命,欧米の名の通った二次文献から読んでいる人がたまにいますが,その人が,たとえ英語で論文を書いても受容されることがないのは,必然かもしれません.

日本で流行ってるからといって,日本のステーキ屋さんが調子こいて欧米に行っても,珍しくもなんともないのと同じです.

大赤字を出すのが関の山.

逆に,ラーメン屋や寿司屋なら受容されることもあるでしょう.

他者との差異を意識することは,ここでも重要なのでした.

ダルマキールティ的に言えば,同種のものからの差異(日本人の中での自分の立ち位置),異種のものからの差異(世界の中での自分の立ち位置)ということになるでしょうか.

オリジナリティというのも,仏教的には,差異でしかないはずですから,当然,周囲をきょろきょろして,自分の立ち位置をよくよく見定めないといけません.

カーラカ能力(シャクティ)論的に見直すならば,ニッチということになるでしょうか.

  1. 2020/06/10(水) 07:41:34|
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願望祭としてのオンライン授業



エンタテイメントや劇場性,集中力,その他を一切合財,捨象して,純粋に文献を読むということだけに特化して話を進めるならば,別に,対面する必要はありません.

おたがいが同じ文献に向き合うならば,スカイプでも構いません.

顔画像すらもいりません.

音声のみで十分にやりとりできます.

ここで念頭に置いているのは,あくまでも,一対一の個人指導の場合の話です.

将棋好きな兄弟が遠く離れても電話で将棋を打っていた,というのと同じです.

同じところに向かっていれば,音声だけで十分に伝わります.

写本チェックも「共有」で可能ですから,むしろ,対面よりも便利な場合もあります.



コロナ以前から,実家の離れた院生とはスカイプで個人指導することもありました.

他講座でも,昔から,スカイプによる個人指導を取り入れている先生もいらっしゃいました.

つまり,個人指導ならば――まさか個人指導でやる気のない学生はいませんから――オンラインで構わないということです.

スカイプくらいしか使ってなかったのですが,このご時世で,ついでに大学ご推薦のTeamsも否応なく使うことになり、さらにアカデミック登録で時間無制限でZoomも使えますので,むしろ便利.

講義は,公式指定の(あっちいってこっちいって私にはややこしい)Teamsを使っていますが,個人指導は直感で動けるZoomにしてます.

願望祭kaamyakarmanであれば,メディアは関係ありません.




しかし,大講義や必修となると,学生にとっては定期祭nityakarmanなわけですから,必要最低限のやる気しかありませんから,それはそれで,まったく別の話です.

集中力ももたないことでしょう.

それについては,すでに,いろんな人がいろんな工夫を考えて,今後も蓄積されていって,そのうち,練りに練られたFDが開催されるでしょうから,私の出る幕はありません.

そのうちには,オンライン授業のスペシャリストFD講師が東京から呼ばれたりというようなこともあったりすることでしょう。


さらに,個人指導もオンラインだと,同時に他の人が聴講できますから,実は,便利.



対面だとちょっと個人指導にもぐりこむのは敷居が高いです――というのも出るはずなのに休むと気が引けるし,かといって,専門性が高いので出るには気が引ける場合もある――が,オンラインだと,空いた時間に好きな時に出ていいし,休んでも誰も気にしないという利点があります.また,それほど情熱をかけるわけでもない授業でも,オンラインなら,時間ロスも少ないので,気軽にお試しできます.

つまり,オンライン授業聴講におけるゲスト感覚の軽さ,ということでしょうか.






  1. 2020/06/08(月) 19:47:19|
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ソシュールの『絶対属格』

絶対属格


引用句は詩節が多いのですが、にもかかわらず、ちゃんと句読点やコロン、引用符も打ってあり、しっかり理解しているのが明らか。

固有名は語頭が大文字の配慮。

誤字や不適切な区切りも見当たりません。

いまのひとの博論のサンスクリット印字に誤字脱字などが多いのとはえらい違いです。

ケアフルのレベルが違います。

理解に資するコンマや引用符の位置の良さに、引用句だけからでも、センスを感じさせます。

当時の人がいかなる文献を読んでいたかも知れるので、それも興味深い。

ごくごく限られた範囲の文学、それに、パーニニ関係。

引用文献の略号表が冒頭に1ページ。

限られた文献を丹念に読み込むほうが、サンスクリットの理解を深めるのには、よっぽどマシなのかもしれません。

カーシカーとマハーバーシャも当然ですが参照しています。

マハーバーラタ、ラーマーヤナ、一部のプラーナ、カターサリットサーガラなどが好みのようです。

絶対属格の不敬ニュアンス(「AがBするのにお構いなくCする」)が文法学者の琴線に触れるテーマなのは、おそらく、今も昔も変わりないのでしょう。

文法学の天才少年ともてはやされたジャヤンタも、戯曲で、この絶対属格をめぐる言い争いのくだりを挿入しています。

言語学者のソシュール。

探検家のスタインと並んで、サンスクリット学者としてよりも、それ以外で一般に著名な人の一例です。

似た感じで、外の分野で有名な東大印哲出身者を強いて挙げるとするならば、作曲家の桑原君あたりでしょうか。(ひろさちや先輩は、中の人とみなしたほうがいいでしょう。)

モンスト。



印哲で多言語文献調査能力を鍛えに鍛えられると、粘り強くやり通す忍耐力は身につくのかもしれません。

布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智恵

のかなりが実践できますから、印哲そのものが、到彼岸の修行道たりえます。(布施は、諭吉が自己の所有下を離れて他者の所有下に置かれるという意味で。)

あ、あと、芥川賞もいました。









  1. 2020/06/08(月) 08:24:27|
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仏教研究の対象を仏教的に考える


仏教を知りたいと思えば,当然,仏教とはAであると理解することを目指すことでしょう.

それは,当然,非Aは仏教ではないということを意味します.

しかし,Aを仏教の本質とみなすことで,なにやら,仏教に本質がある,自性があると前提してしまっています.

つまり,無自性,空性に反して,仏教を実体化し実体視してしまっています.

仏教とはAであって,非Aではない,というのは,このように,Aという本質の実体視を含んでいるということができます.

したがって,「Aだけが仏教です」というのは,おもしろいことに,非仏教的な本質主義に陥ってしまっているということになります.



仏教は常に変化し続けるものである,そこに永遠不変の自性などない,と言った方が仏教的であるという極めて面白いことになります.

つまり,常に変化して留まらない仏教の姿を歴史的に追い続けることこそ,真の仏教的な仏教の捉え方ということになります.

無自性で刹那滅の仏教の因果連続体,というように捉えることができるでしょうか.

あるいは,そこには因果関係がないかもしれません.



どうしてでしょうか.

三性説に対応する存在論で説明してみましょう.

1.勝義有
2.実有
3.仮有

さて,上から三つ.

勝義有,これは,仏陀の境界ですから,当面,いまの我々には無関係なので,いまは措いておきます.

言語を離れたアナビラーピヤの世界です.



今問題となるのは,実有と仮有,つまり,独自相と共通相の世界です.

独自相の世界は科学的世界といっていいでしょう.

そこに本当にあるもの,ということです.

原子だったり,あるいは,一群の原子で特定の効果を生み出すもの(たとえば荷を運んでくれる牛を構成する諸原子)です.

あるいは,原子という呼び方がヴァイシェーシカ的でいやならば,五蘊で構いません.

つまり,なんらかの実際に存在する要素です.(アビダルマ的には色声香味法という属性です.)

効果的作用を持つのが独自相.

因果で支配された世界ですから,「依他起」=他に依って起こるもの,他に依存するもの,と呼ばれます.

因果的存在でいいでしょう.

dravyasatを念頭において,実有と呼んでおきましょう.

その下が,仮有.

praj~naptisatを念頭に置いています.

共通相の世界です.

あるいは,集合体の世界です.

人間というのは,五蘊の集合体ですが,まあ,我々は,自分があると思って,集合体をひとつとして仮定しています.

また,牛も牛という一つの実体だと思い込んでます.

さらに,空間的にだけでなく,時間的にも持続する我があると思い込んでいます.

実体視されたものです.

いずれも,唯識的に見れば,分別されたものにすぎません.

遍計所執となります.

でっちあげられたものです.



あるいは,ダルマキールティ的にいえば,非AにAを載っけたもの,というように,付託で説明してもいいでしょうか.

その載っけられたAが分別されたものであり,でっちあげられたものです.

さて,三つのレベルのうち,私のような教理学者が扱うのは,共通相のレベル.

したの3aです.

1.勝義有
2.実有
3.仮有
 3a. 世俗有、実用的(整合的)、推論対象、共通相
 3b. 邪世俗、非実用的(ナンセンス)、知覚対象、独自相

推論のレベルです.

推論は,実有に直接関わらないですし,対応してませんから,本質的に錯誤してます.



しかし,推論は,間接的には実有とのつながりがあるので,結果的にうまくいきます.

推論の場合,煙から火性(非火の排除)を勝手に空想しているのですが,ちゃんと,火を手に入れることができます.

つまり,結果オーライで,うまくいくので,整合的であり,実用的です.

裏切らない,あるいは,他の認識手段と合致します.(いま,3aを更に分ける視点である新規情報かどうか,というのは面倒なので措いておきます.)

これに対して,夢に出てくる女性や,あるいは,真珠母貝を銀と見誤る錯誤知は,まったく非実用的で,効果的作用につながりません.(いま,夢が持つ効果的作用である夢精は措いておきます.)

因果法則を無視したまったくのナンセンスの世界です.(その本質においてです.もっともらしく見えますが.)

教理学者は推論の世界に生きているので,基本,3aの共通相の世界が対象です.



戒律の研究を一所懸命しているショーペンのようなひとは,共通相の世界のようなアンリアルな姿には不満足な人達です.

仏教のリアルな歴史を求めて,戒律文献から過去の実像を求める人達です.

かれらが対象とするのは,実有の世界.

実際に,当時の僧院生活を知覚したかのような,その姿をリアルに描くことを目標としています.

教理教学の共通相に惑わされることなく,戒律や碑文から,そのリアルな独自相を画定しよう,というのが彼らの試みなわけです.

リアルな仏教像.



それに比べれば,当然,教理教学の私の対象は,知覚のリアル基準から見れば不明瞭な世界となります.

では,経典研究は,どこに位置するのでしょうか.

1と言いたいところですが,そもそも,経典は,仏教徒の主張や理想が入り込んだ夢物語ですから,むしろ,3bに入れるべきでしょう.

空想小説と本質において大差ありません.



錯誤のアンリアルが,かえって,人間の本質や真実を,むしろよく捉えるというのこそ,文学の本質でしょう.(そこにあるのは,アニメのようなキャラクターが活躍する世界です.)

というわけで,実際には,3bの領域に属すのが,経典の直接対象(内容)とみなせます.

したがって,当然ですが,作者や編纂者の意図,あるいは,受容のされ方,というような状況も重要となってきます.

説いている内容そのものではなく,その向こうにある願望や,その背景に透けて見える前提を拾い出すことが,3aや2を浮かび上がらせてくれるのです.

夢占いにおいて重要なのは,夢の内容そのものではなく,その夢が指し示すその本人の願望だったり怖れだったりトラウマだったりというのと同じです.

かれらのオブセッションがどこにあるのか,仏教文学から拾える情報というのは,実に様々でしょうし,そこに正解はむしろないと言ってもいいかもしれません.

創造的誤読こそ,文学の広がりだからです.

大学入試のように文学を切り刻んで論理的に分析することで,実際には作者が意図していなかったような「主人公のここでの意図」というものを抉り出すこともあるでしょうし,あるいは,現代にあわせて,その当時にはなかったような新たな解釈・用い方を提案することも可能でしょう.

文学をどう受け取ろうが受け取り手の勝手です.

アートに決まった値段がないのと同じです.

誤読が歴史を動かすこともあるでしょう.

勝手に第xx願だけにフォーカスして,そこだけを拡大解釈してしまうこともあるでしょう.

スートラ編纂者は全く意図していなかったことかもしれません.

文学であればこそ,このような創造的誤読も許されます.

かっちりした教理教学の3aの世界では,通常は,そのような誤読は許されません.

なぜなら,明確に作者の意図があるから,まずは,それを掬うのが教理学者の仕事だからです.(そこからさらに,創造的誤読によって,我々現代人の現代の喫緊の課題に資するよう応用するのは,その後の話です.)

ということで,次のようになります.

1.勝義有
2.実有:知覚対象,独自相,戒律・碑文・考古学の対象
3.仮有
 3a. 実用的(整合的):推論対象,共通相,論書の対象
 3b. 非実用的(ナンセンス):経典の内容,仏教文学の直接対象

経典をナンセンスとは何事かと怒られてしまうかもしれませんが,何千回・何万回と生まれ変わって,しかも,その修行の成果が心にずっと蓄積される世界は,すくなくとも,科学者にとってはナンセンス以外の何物でもありませんから,そのような科学者の使う意味で,ナンセンスということで,それ以外の意味ではありません.(つまり,経典に直接に説かれる内容が非科学的――よくいえば科学を超越した世界――だということです.)

また,奇跡や超能力などというのも,劇的なドラマを成立させる重要な要素です.

神変なくして仏伝なし,かどうかは知りませんが,悪魔が出てきてこんにちはの世界というのは,ノーベル物理学賞の学者にそのまま事実として説いたら荒唐無稽と笑われるのが落ちでしょう.

経典の用は,直接の内容ではなく,我々の感情に訴える文学的作用において求むべきであるので,その価値が貶められるわけではありません.

使い方を見誤るな,ということです.

直接内容において非実用的ですが,間接内容において実用的であることを否定するものではありません.

また,整合的というのは,他の認識手段と整合的という意味です.

夢は醒めたら嘘とわかりますし,銀も近づいたら真珠母貝と判明します.

経典の様々な世界も,知覚と推論(ただしvastubalaprav.rttaなanumaana)で確かめられる世界とは矛盾します.(あるいは,実有のように,因果法則に縛られない自由な世界だとも言えます.)

ただそれだけの意味で,ここでは,整合的・非整合的と呼んでいるだけです.

唯識に立脚した観想というのは,この最底辺をドラスティックに昇華させてくれます.

この世の一切は夢の如し

とは世親の言でしょうが,それは,まさに,この現象世界の本質を言い当てています.

すべては認識ですから,逆にいえば,夢の世界も科学の世界も,我々が心の外にあると思っているだけです.

1. 一元:唯識,心の光
---------------
二元:主観・客観
2.実有
3.仮有

実有と仮有として,科学的世界と非科学的世界とを分けて考えるのが,まあ,我々凡夫の普通の発想ですが,仏陀から見れば,いずれも錯誤のレベルであることに本質的な違いはありません.

浮かび上がる形象――心像――が,ちょっと明瞭か,不明瞭かの違いだけです.

カラーテレビか白黒テレビかの違いのようなものです.

どちらも,本物でないのは同じ.

現場で本物を見ているのは瞑想状態の全知者だけ.

そこから後得清浄世間智で仏陀リポーターが現場報告.

我々は,その教えを通して,勝義の世界に,瞑想を実践することで,アプローチしていきます.

現場が大事.

瞑想が大事.

というわけで,仏教の勝義が知りたいなら,瑜伽師地論の前提とするような瞑想修行をやるべきでしょう.

ラトナーカラシャーンティのPPUの後半も,bhaavanaa論ですし,その前提となっているカマラシーラも,延々とバーヴァナーを論じています.

さらには,密教要素を取り入れて,観想法を学ぶも良し.

イメージトレーニングでありありと対象を見れば,それは本当の経験と脳的には変わりありません.

観想法を通じた心の変容とはそういうことです.

荒唐無稽のヘーヴァジュラと8女尊の観想も,最初は夢物語と大差ありませんが,それをありありと心に浮かべることができるならば,脳的には本物を見ているのと変わりありません.

内的供養と外的供養に差はありません.

むしろ,金がかからないから,内的供養のほうが楽ですし早いですし,しかも,心的効果抜群です.

インパクトファクター大.

派手な心的プロジェクションマッピングの世界です.

外的供養と内的供養の差は,映画の実写とCGのようなものです.

CGのほうが,派手にできますから,心的効果は抜群です.

登場キャラも,ギャラを気にせず,呼び放題なのがCGの世界.

女尊も,ガスマリーやチャンダーリー,好き放題,呼び寄せることができます.

実写では無理です.

はては,カルナ―やパーラミターといった抽象概念まで寓話的に呼び寄せることができます.

『プラボーダチャンドローダヤ』もびっくりの抽象名詞寓話小説の世界です.

そういう意味では,戦後の東大印哲は,主たる研究対象のレベルがばらけてて,見方によっては,面白い配置かもしれません.

1.玉城康四郎(1915年生,1959-76東大在職)
2.平川彰(1915年生,1954-76東大在職)
3a. 中村元(1912年生,1943-73東大在職)
3b.花山信勝(1898年生)

玉城康四郎の(現在から見ると)特異な存在は,このようにして位置付けることができます.

現在の九大印哲は,

1.φ
2.φ
3a. 片岡
3b.岡野

ですから,まあ,2人体制にしては,うまくばらけています.

まあ,そもそも,1を担当する人などというのが,国立大学法人にいるということは,現在ではちょっと考えにくいでしょうけど.

ひょっとして,将来的には,「ヨーガ」や「瞑想」や「観想」などの専任教員ポストができたりすることもあるのでしょうか.(そういえば,オックスフォードの時の知り合いが,マインドフルネスでケンブリッジに入ってましたから,案外ありうるかもしれません.)

蓑輪さんは,その枠に入れることも可能かもしれませんので,現在の東大印哲および梵文は,

1.蓑輪
2.梶原
3a. 高橋・加藤
3b.下田・馬場

梶原さんは,グリヒヤあたりと考えると,ヴェーダ時代あるいはポストヴェーダ時代のリアルということで,いちおう2のレベルに置いていいでしょう.(戒律と同じく,一種,マニュアル文献という意味で.)

というわけで,配置的には案外いい感じにばらけています.

現在の京大(およびその周辺)はどうでしょうか.

1.φ
2.φ(藤井・矢野・堂山)
3a. 宮崎・船山・ヴァースデーヴァ
3b.横地(榎本)

藤井先生が退職されて,リアルな部分を担当する人が,内部では,抜けた感じがあります.

とはいっても,ヴェーダ研究会という形で外部で存続するので,括弧つきで勘定に入れてもいいでしょう.

また,矢野先生も,京産を退職されたとはいえ,まだまだお元気ですから,指導を受けることは可能です.

というわけで,京都の場合は,元気OBや京大周辺大学も考慮した方がいいかもしれません.(なんなら,阪大に出かけるのも可能ですし.)

さすがに,瞑想をやっている人はいらっしゃらないようですが.

かつては仏教学のポストに久松真一(1935-49)もいましたけど.

そういえば,うちの言語学は,坂本→太田と,実験系の言語学があって,一所懸命,騒音ノイズ――箱崎の真上は飛行機が15分おきに轟音をとどろかせながら飛んでました――と闘いながら,脳波を計測したりしてますが,印哲も,案外,瞑想の脳波で高い実験部屋と実験器具を用意してもらって,予算をせしめるのは可能かもしれません.(私は多分やりませんが...現代の大学は,予算をたくさん取る分野が「役に立つ分野」と計量されている節がありますから,お金を使いたいなら,ありといえばありかもしれません.)

ジョンダンは,ダルマキールティ研究でしたが,最近は,こっちの心理学方向へと走っているような感じです.

さらに先を行くなら,仏教文学ライティングなどという分野はどうでしょうか?

新たな経典創造.

頂戴した下田さんの本は,或る種,それ自体があらたな経典を作っているような感じもあります.

上の分類表からすると,あるべき姿の完成形なのかもしれません.
  1. 2020/06/07(日) 11:31:04|
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Sabarabhasya ad 1.1.24-26: Vakyadhikarana

Kei Kataoka

A Critical Edition of Sabarabhasya ad 1.1.24-26: Vakyadhikarana.
『東洋文化研究所紀要』
(The Memoirs of Institute for Advanced Studies on Asia) 177, 368(1)-342(27).

doi/10.15083/00079140

https://repository.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/?action=repository_uri&item_id=54023&file_id=19&file_no=1
  1. 2020/06/06(土) 12:09:25|
  2. 未分類

そういえば、

https://www.buddhistdoor.net/features/two-years-after-the-departure-of-luis-oscar-gomez-rodriguez

Hyoungも、えらい丁寧に指導添削されていたそうです。
  1. 2020/06/06(土) 11:54:18|
  2. 未分類

SKDでIBK

学会もオンラインでやるとなると,なぜ,通常と同じ料金なのか,いささかの疑問があります.

atha ato 学会費jij~naasaa

IBK学会参加費,お値段据え置きの2000円.

もちろん,学会の年会費6500円は,別に払っています.

学会の会員のうち,当日,仮に参加者500人がいたとして,2000X500=100万です.

同時並行10部会を用意するとして,当然,大人数になりますから,Zoomの費用はかかります.

300人はいれるビジネスプランで,月に2700円.

それの10倍で27000円.

あと,管理のバイト代として,当日,二人が張り付くとして,朝から夕方として,9時間として,1000X2人X10部会X9時間X2日=36万 (さすがに,パソコン購入費や通信費までは,考慮しないのが通念かと思いますが.)

普段なら,懇親会がありますから,いろいろとそれの準備で,たとえ4000円の懇親会費があっても,それとあわせて計算することで,なんとか調整がつく部分もあるから,誰も何もいわないでしょうけど,学会だけとなると,どうみても,50万もあれば十分という感じです.

ひょっとすると,オンラインだと,参加者がぐっと少なくなって,発表する人だけが来るということもあるかもしれません.

その場合は,発表者が250人弱ですから,参加費総計50万ということになります.

というわけで,オンラインで発表者以外は誰も金払ってまで視聴しないとすると,安全な施策として,参加費2000円は擁護できます.

ともあれ,大会をやっていただけるだけで御の字ですので,金については,誰もなにも細かいことを言うべきではないというのが,まあ,日本人として読むべき空気なんでしょう.

口にチャック.

昨日,わすれないうちに,年会費と参加費とを振り込んでおきました.

それとは別に,ネットでの参加申し込みに,ウェブ設定が昔のまま更新されてなかったのでしょう,「懇親会は参加しますか?」という項目があったのが笑えました.

まちがってイエスにする人はいるのでしょうか.

そして,まちがって4000円の懇親会費をはらったひとは,どうすれば4000円分の懇親会費をオンラインで消費できるのか気になります.

あまった金がでそうなら,すんごい学者の記念講演に使ってしまう,というのも手かもしれません.

今年は,二日目午後のシンポも二つしかないようですし,それならば,もう一つくらい,シュミットハウゼンあたりにネット講演をお願いするとかもありかもしれません.

ちょうど彼の本も出ましたし,それなら,2000円払った元も取れた気がします.(ハルナガ・アイザクソンの講演でもいいですが.)

せっかくオンラインなので,オンラインでしかできないことも,やらない手はありません.

あと,チャット機能があるのですから,当然,書きこんでもいいでしょう.

情報共有が目的ですから,必要情報があるなら,そこに書きこんだ方が発表者のためにもなります.

時間の都合や,コミュニケーションのむずかしさから,おそらく,質疑応答は,それほどスムーズにはいかないでしょうし.

いちいち名乗らなくても,オンラインだと名前が明らか――今回は学会員でありかつ参加費を払った人のみ――ですから,逆にいいかもです.

学会が大規模になると,スタッフも学生もいない小規模校では,とてもじゃないですが,引き受け不可能ですが,オンラインだと,その点は,どうなるのでしょうか?

或る意味,今回の大規模オンライン学会は,実験的で楽しみです.
  1. 2020/06/06(土) 08:24:30|
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東中野の、、、

リンク

東中野のカレーリーフには言及がありません。

なんだかなー、という気持ちになります。

喩えるなら、日本のブルース受容を語るのに、妹尾隆一郎を外して滔々と語る人、みたいな印象になります。

初期の人の苦労に思い至らないと、歴史を軽視して、今の視点からのみ逆算して語ることもあるのかもしれません。

あるいは単に紙幅の都合なのでしょうか。

その割には、入念に作成された年表もありますから、丹念に調べた跡があります。

歴史的経緯を論じるとなると、訂正補足すべきは指摘しておかないと、いつまでも誤った、あるいは、欠落ある歴史観が横行し固定する恐れがあります。

初期は客もすくなく,えらく苦労されている様子でした.(私的印象)

そんななかでも,矜持を曲げず,「ナンはありません」と硬派な態度を明示されていましたが,さすがに,来る客来る客に「ナン」を注文されて,さすがに,経営上のこともあったのでしょうか,最後には,こそっとナンも置かれていました.(私のあいまいな記憶では,ですが.)

いちど,「一カ月に一度来てくれれば助かります」的なメッセージをホームページに載せられているのを見たことがありますが,さすがに,泣き言はよろしくないと思ったのか,すぐに削除されていました.

いまだ受け入れられてない未知のものを紹介して,店として続けていくのは,ほんと大変だなと思いました.

黙して語らず.

あえて,偉そうなことを語らないところも,ますます好感がもてます.

昨今は,とにかく,上も下も自己宣伝.

研究者も自己アピールしないと干上がるシステム.

恥ずかしげもなく,自己紹介,自己アピール,けそうじてモリモリ盛りの森.

はては,自己紹介・自己アピールの仕方の授業まで教養学部ではあります.

このままいくと,見栄えが良ければいいのでしょうから,面接の為に,整形助成まで出せと言われかねません.

にしても,なぜに,医学部は,そこには手を出さないのでしょうか.

さすがに,それは,先端研究ではないと思っているからなのでしょうか.

シャンカラ的には,この世は幻で,見た目しか存在しないのですし,仏教的にも本質など存在しないのですから,見た目を鍛えることも,まあ,正当化できないことはありません.

一切智者へのクマーリラの批判に,「一部しか語ってないのに,すべてを知っているとは,これ如何?」という指摘があります.

この批判視点からいくと,成果がないのに隠れてちゃんと研究してます,などとは言えないことになります.

いっぽう,見た目ばっかり繕って,中身が伴わないと,「S〇〇P細胞はあります」の似非研究者を生み出しかねません.

まあ,要は,バランスが大事ということでしょう.

肝は辺を離れた真ん中にあり,というのが中辺分別の教えではなかったでしょうか.

というわけで,現代では,1と2が入れ替わって,つぎのような優先順位になるでしょうか.

1.有言実行
2.無言実行
3.有言無行
4.無言無行

実力ないなら,せめて,とりつくろうだけでもしたほうがまし,という意味では,3のほうが,現代的な意味で「生き残る」には,まだましということもあるでしょう.

エ〇プトもそうみたいですが,イ〇ドも学位は,かなり怪しげで,なんとでもなるようなものですから,イン〇の博士号など,持ってても仕方ないので,泰国では,ついには,学位として認めないまでになりました.

実力を身に付けに留学しに行くのは結構ですが,正式な学位を求めていくところではありません.

そういえば,サンスクリットでも,名と形,ナーマルーパというのが二つながら,両輪として言及されます.

どっちかというよりは,どっちも,のほうがバランスある態度でしょう.

vikalpaよりもsamuccayaというのは,案外,簡単な解決法です.
  1. 2020/06/06(土) 06:27:40|
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印度思想文学思想

リンク


カナダのトロント大の図書館の倉庫に,なぜか,こんなものが.


誰が購入したのでしょうか.


あるいは、自筆サイン入りの寄贈なのかもしれません。


名前の書き方がこなれすぎています。


そういえば,フィラデルフィアの書庫をうろついていたとき,日本語の本がぽつぽつと置いてありました.


丸山眞男といった古い本だけでなく,なぜか,丹治信春のウィトゲンシュタイン本までありました.


図書館の充実ぶりは,いまもむかしも,全然追いついてません.


それはネットのアクセスに関しても同様です.


Q大からは,有料雑誌の印哲関係,なんにもアクセスできません.


プアプアのプア,世界最底辺.


そして,なぜか,欧米有料雑誌の査読を一所懸命ボランティアでやらされたりしてます.


JIP, IIJ, PEW, JAOS.


藤村操も真っ青の,人生は不可解なりです.


これは,金の問題ではなく,おそらく,図書館がどうあるべきか,どのようなものか,という,持つべき思想・信念・態度の違いなのかもしれません.


図書館で裨益された経験がないから,その後も,図書館なんぞどうでもよい,という発想になり,はては,公共図書館も民間委託などという発想になってしまうのかもしれません.


ちなみに,サンスクリットで公共publicにあたる訳語は,saarvajanikaやlokavi.sayaあたりでしょうか.


janaやlokaがなにか,という捉え方の問題ともつながってきます.


日本では,標準とされるのがp.rthagjanaなのかもしれません.


キリスト教圏では,知性あるもの,という人間観があるのでしょう.


文革ならぬ文系大革命や文学部大革命によってポルポトよろしく焚書坑儒――焚書坑儒されるまでもなく既に干上がりつつありますが――されて,海外にだけ日本の文化資料と学伝統が残りました,というような未来も案外遠い先のことではないかもしれません.


ちなみに,インドの大学図書館,必要な本が全然ありません.


たいがい,なくなってるか,どこかにmislocationで,お隠れになってます.


どうしても必要なときは,アディヤールやクップスワーミのような,管理がしっかりした民間にいかないといけません.


さらにちなみにいえば,つい数年前,I都の図書館所蔵の教科書類が,(自炊の結果として)大量にきりきざまれて捨てられているのが発覚して大問題に.


このような発想を生んだもとも,案外,公共や知的財産をめぐってわれわれが現在共有する態度にあるのかもしれません.


つまり,「ひどい学生だ」というようなことではなく,実際には,共業(ぐうごう)的な所産なのかもしれません.


まあ,しかし,言語というのは音声であり,文字というのはあくまでも二次的な写しですから,PDF化してOCRして,永遠のテキストとしてネット空間のどこかにイデアとして存在するのならば,現身としての書籍がきりきざまれようが,大した問題ではないという見方も一方では可能です.(いまはコピーライトの問題や,図書館の本を盗んだという点は措く.)


古い世代からは,とても信じられない所業と捉えられていた節がありましたが.


はたして彼が,自炊の結果を自利利他円満していたのかどうか,わたしの知るところではありませんが,ともあれ,価値観の世代ギャップを知るには,いろんな意味で勉強になった事件でもあります.


もちろん,速攻,退学かなにかのきつい処分となっていました.


純粋には「盗んだ」ということが悪いのでしょうけど,我々に引き起こされたリアクションを見ると,「切り刻んだ」というところがツボだったように感じます.


なお、田中於菟弥については以下


https://chronicle100.waseda.jp/index.php?別巻Ⅰ/第一編%E3%80%80第三章
  1. 2020/06/06(土) 06:12:17|
  2. 未分類

リンの意味

どっぷりとその価値観に支配された環境に身を置き,同種の人間とのみ付き合っていると,その価値観だけが「普遍的で正しい」と思ってしまうのは致し方ないでしょう.

オプティミスティックな自己肯定が人間の基本ですし,まあ,そうじゃないと悲観で死に絶えてしまうでしょうから,それはそれで良いことだとは言えます.

しかし,研究者としては,そうはいかないでしょう.

また,昨今,喧しい「リテラシー」などというものも,そういう「批判的な視点」を教えるものです.

要は,或る程度,相対主義的な視点を心に用意しておけ,ということでしょう.

哲学が西洋哲学ばかりと思っていると,それが,ある歴史的限界に閉ざされた可能な思考のひとつの例示でしかないことも思い至らないかもしれません.(逆に,哲学というのは,異種格闘技,なんでもありだ,というなら,当然,そこには,インド哲学・思想も含まれるということになるでしょう.)

西洋音楽だけが普遍的な音楽だと思うのと似たところがあります.(12音だけが全ての音であるわけでもありません.)

なにが美しいか,などというのも耳の慣れですし,それまで雑音だったものが,美しく聞こえるように鍛えられることもありえます.

環境次第です.

美しいインド古典音楽の調べも,いきなり外からやってきた人には,雑音にしか聞こえないかもしれません.

インド哲学で一所懸命議論していることの意味が,場合によっては,ピンと来ないということもあるでしょう.

命令論で「べし」の意味を一所懸命議論して,クマーリラやマンダナから,ナヴィヤの新論理学,そして,現代にいたるまで,シャーブダボーダはパンディットの大好物です.

耳を鍛えなければ,単なる雑音にしか聞こえないというのは,音楽も思想も同じです.

聞く準備のない人には聞こえない,聞きたくない,というのが馬鹿の壁.

「うちの宗教以外にはまったく意味がない」と信仰正しき人々が思うのと似たようなものです.

差異情報に好悪の感情をプラスするのが脳の自動的な働きですから,放っておけば,そういう流れになるのは仕方ないでしょうけど,エントロピーの自然な流れに反するのも,また,人間活動.

「知性あるもの」と定義する以上,ささやかな反抗も必要かもしれません.

ワールドフィロソフィーなどという名称を目にすると,なにやら,ワールドミュージックという呼称を思い出し,その含意や前提に思い至ってしまうのは私だけでしょうか.(あるいは,八紘一宇的なものを志向してたりする人もいるのでしょうか?)

そう考えると,エスニック(料理)というのも,変な概念です.

まあ,オリエンタリズムで,未知なるエキゾチックなものに心躍らせるというのは,入口としてはありといえばありかもしれませんが,いつまでもそれだと困ります.

何が言いたいか,というと,「べし」の意味論などといっても,非梵語人で腑に落ちる人はいないだろうな,という詮無い感慨でした.

なべて「趣味的」というのは,そういうことなのかもしれません.

といっても,この場合は,議論がクマーリラ以来,1350年間――あるいはパーニニのリンの意味規定を考慮すれば2350年間――延々と続いているので,個人の趣味には終わらない,途方もない伝統的議論なのですが.

1997年9月末,2年間の南インド留学を終えて帰ってきたとき,日本に誰もサンスクリット会話をする相手がいなかったときの気持ちを思い出します.

喋る相手がいなくなった言語話者の気持ちというのは,あんな感じなのでしょうか.
  1. 2020/06/04(木) 08:20:21|
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