Pratibhanusarini --- 九州インド哲学ブログ2

On Indian Philosophy and Buddhist Studies

Mangalore taste in Ginza

スポンサーサイト
  1. 2018/02/19(月) 21:53:10|
  2. 未分類

Saramanjari



様々な対象が見えていますが、外境は、一としても多としても、成立し得ないので、これらは全て認識に他なりません。

しかし、内なる真実形象についても、外界と同じく、一と多の批判方法が適用可能。

したがって、虚偽形象ということになります。

しかし、快感と同様に現れている青などについて、快感は真実、青などは虚偽と切り分けるのは、理に合いません。

したがって、全て空。

さらに、「空」というのも空じていきます。


  1. 2018/02/17(土) 22:46:07|
  2. 未分類

久間・種村タントラ研



恐ろしいタントラ虎の穴。

ハル、苫米地、種村、ピーター

久間、倉西、加納、宮崎、杉木、菊谷

横地、アルロー、張本

その他大勢。

なんか、よく分かりませんが、いつもよく会うメンツが勢揃い。

ヴィクラマ研中心の拡大研究会@大正大。

恐ろしい研究会です。

仏教タントラ界のロイヤルストレートフラッシュを目撃。

一日目の資料提供は大正大の松本氏、SSのMN章。

パーラミターナヤとマントラナヤの差異について。

ハタセーカと自説との差異。

四種のムドラー、四種のアーナンダ云々。

ディプロマティックエディション、蔵訳、梵文校訂。

会場からは写本の読みから初めてあれこれと細かい突っ込み。

鍛えられます。

にしても、豪華なベストのタントラ布陣。

大学でいうと、大正、ハンブルク、オックスフォード、京大、三重、九大、マヒドン、EFEO、駒沢、広大。

ライオンの檻の中にヤギ、あるいは、ピラニア水槽に生き餌。

西巣鴨の一角で、こんな饗宴が開かれているとは、道行くおばあちゃんも思わないでしょう。

昼はアルローと近くの朝日屋へ。老夫婦の店。

久々に、なんの変哲も無い「天丼」なる和食を食べました。










  1. 2018/02/16(金) 22:37:53|
  2. 未分類

Hela Ajiya, Hakata


  1. 2018/02/15(木) 06:55:28|
  2. 未分類

五十嵐一『中東共育のすすめ』



1983年9月刊。先生が36歳の時。

イラン人と付き合う5つのA

あわてず
あせらず
あたまにこず
あきらめず
あてにせず

とのこと。

インドの写本調査も同じ気持ちです。

『嫌われる勇気』と同じで、相手への期待値ゼロは、精神的幸福へとつながりますから、逆説的には、それもまたよし。

何かにつけ相手に(さらには赤の他人にまで)求めすぎる「期待値高過ぎ」「完璧を求め過ぎ」の昨今の風潮を見るにつけ、ますますその感を強くします。

細かいところばかりをつついて肝心要の大事なものを失うという轍。

木を見て森を見ず。

もっとも、アビダルマ的部分還元主義に従えば、木を見るべきであって、森を見るべきではないのですが。

その意味では、木を見て森を見ない民は、正しく、仏教徒だと言えます。

さらにすすめて、木も薫習の作り出した幻影と目醒めてみれば、解脱も遠からじ。

この局面において、唯識もシャンカラ派と同類です。

一方、アビナヴァは、ここをさらにすすめて、全てを虚仮から実在に転換します。

後期唯識のプラカーシャは、ここに、再認識派のプラカーシャへと早変わり。
  1. 2018/02/14(水) 20:31:37|
  2. 未分類

佐々木玲人『結局どうして面白いのか。「水曜どうでしょう」のしくみ』

佐々木玲人『結局どうして面白いのか 「水曜どうでしょう」のしくみ』。

隣部局の臨床心理の先生。

大泉洋の「水曜どうでしょう」のおもしろさ、その構造について、臨床心理の人が分析してみた、というのが内容。

中のストーリー(企画内容)と外のストーリー(ディレクターとのやりとりの声など)の二重構造が同時に走り、メタ構造(始まり、さいころ、同じ企画)のお決まりの安心パターンの中に、その場で起こる偶然を散りばめる、或いは、拾って行く。

そして、視点や距離の問題。

これらの仕掛けにより、視聴者があたかも一緒に旅をしたかのようになる、という仕組みについて、ディレクター二人への合計3回のインタビューをまじえ、分析。

固定した動かないカメラの視線が持つ意味、枠の内と外、そして、大泉洋の相方の空席をあえて写すことによる非存在の見える化、また、四人の役割分担についての分析。

小説もそうですが、やはり、視点をどこに置くか、どう対象との距離を取るかにより、視聴者の「参加」の仕方、共感への誘いが異なりますから、カメラの寄り方には注意しないといけません。

あえてパンしない、枠の外で事態が起こってもカメラの向きはそのまま、というのは意外でした。

作り手としては、流れているストーリー、場面を途中で切らない、という意図でした。

演じる方も、枠の内と外が意識できる、という効果もあり。

台本通りの結論が見えたつまらない予定調和を避け、その場その場の偶然を伸ばして行くという方途に共感。

人生同じですから。

非存在が在る、というのには納得。

私のやってる学派と同じ見解です。

空白の座席の持つ意味。

「非存在」についての授業ネタに応用できそうです。

大泉洋のイントネーションや間がなぜ面白いのかについては、うちの方言学者に別途、聞いて見た方が良さそうです。

気持ちいい安心の反復、退屈な繰り返しの回避、それに、その場その場で起こる(視聴者には奇跡的とも思える)偶然。

そして、偶然を伸ばして面白そうな方へともって行くパスワーク。

外から来る偶然を拒まず取り込みながら、面白い方向へと昇華させる嗅覚は必要。

インタビューの名手が言うように、こちら側で予定通りに持って行くのではなく、相手の話のいわば偶然的な要素の中から、伸びて行きそうな方向に話しを広げて行く、というのも同じ構造です。
  1. 2018/02/13(火) 19:24:00|
  2. 未分類

国際化は英語化に非ずーーー''インド''料理屋の盛衰に学ぶ知恵ーーー

よくある無個性な郊外型店は措いておきましょう。

そこの店が好きで来ているよりは、とりあえずナンでも久々に食べるか、というランチ客が多くを占めており、いわば、「インド料理」というジャンルを、国道沿いの大衆中華のように腹を満たす一コマとして消費利用していると考えられるからです。

ナン食べ放題に象徴される在り方です。

一方、ここで問題とするのは、パチャールさんのスラージ、スヴァループさんのサーガル(閉店)、ジャマールさんのマルハバのような、個性的な人気店です。

いずれも店主の個性が際立っています。

南アジア系のコックの多くは日本語を学ぶこともなく、厨房にこもっていますし、注文のやりとり以外に客とコミュニケーションを取ることもまずありません。

「無個性」というのは、その意味です。

つまり、作り手や店主の顔は客には見えて来ません。

多くの日本人にとって、インド人だろうが、パーキスターン人だろうが、ネパール人だろうが、はたまた、何語が母語なのかは、どうでもいいことです。

当然、店でも、需要に合わせて「インド料理」とのみ銘打つことが大概です、実際にはネパール人であっても。

店主のいなくなった無個性なサーガルは寂しいものでした。

程なく潰れたのもゆえなしではないはず。

いったい、客は何を求めてマルハバ等の南アジア系の料理屋に来るのでしょうか。

料理がうまければ来るのでしょうか。

そのような層はもちろんいます。

しかし、味の違いが分かるのは一部で、多くは、付和雷同、人の評判を聞いて、「美味しいと聞いたから来る」訳です。

それら大多数の人も取り込まないと、当然、店は成り立ちません。

店がオシャレだから来るわけでもないのは、火をみるより明らかです。

マルハバは、そもそも、レストランではなく南アジア系食材店の脇で食べる、といった風です。

結論から言えば、作られる料理と作る店主の総体を含めた「インド料理」「インド人」体験をしに来ているわけです。(ジャマールさんはパーキスターンのカラチ出身ですが、カラチ出身であることからわかるように、両親は、パーティション前は現在のインド側にいた人です。)

異文化体験といってもいいでしょう。

しかし、それは、荒々しい自然そのものではなく、京都の箱庭のように安全に切り取られた「人口の自然」でないといけません。

つまり、店主が日本語を流暢に操ることで、客は、バスからサファリパークを安全に楽しむように、異文化、異国料理を楽しむのです。

そこでガイド役、信頼できるドライバーを務めるのが、博多弁も流暢なオーナーです。

安心して日本語でコミュニケーションの取れる店主がいればこそ、異国文化も楽しめるというものです。

吉塚のナングロガルに日本人客が少ないのは、完全にネパール人仕様なので、英語やネパール語、あるいは、ヒンディー語のできない日本人には居心地が悪いからだと思われます。安くて美味いからといって、必ずしも日本人が来るわけではない代表例です。

つまり、異文化を解説してくれ、理解可能な枠に切り取ってくれるガイドがいないので、不安を覚えたまま、そして、未消化のまま、異国の料理を流し込むことになります。

何でもいいから、「ナンは、インドの国の形をしてるでしょ」とでも説明してくれれば、それだけで、ぐっと、近づけます。

まして、店主が腹割って芋のお湯割でも一緒に飲んでくれようものなら、博多っ子は大喜びです。(パチャールさんのことです。ムスリムのジャマールさんは飲みません。)

多くの人が求めるのは、安全な異国体験です。

ディープすぎるインド旅行についていける人は一部です。

ほとんどの人は快適で安全な旅行を求めます。

湯が出て、エステがあって云々。

スマートなケーララ人が観光で成功するのも当然です。

逆に、ディープなインドそのままの聖地ティルパティに日本人が押し寄せることはないでしょう。(一方、私自身は、あのアーンドラ・テルグ話者の多くが持つもっさい感じに自身のyogyataaを感じます。バルトリハリの言うvaasanaaでしょうか。)

全て、インド人基準なので、日本人には堪え難いことが多すぎるからです。

檻の中で八時間待ちとかできるくらいの根性がないと無理です。(もちろん、全て金で解決できるので、金払えば、すいすいと早く行けます。)

余談はさておき、日本人と普通にコミュニケーションのできる店主。

日本人の気持ちが分かる店主がいるというのは、非常に重要なポイントです。

それは、当然、味とは別個の問題です。

必然的に、日本人女性と結婚した店主や、あるいは、日本滞在の長い店主、あるいは、クレバーで語学習得・慣習習得の早い店主が、抜け出すことになります。

つまり、日本語ができるのみならず、日本人の気持ちの分かる店主です。

昔箱崎のサティーにいたハリさん(現在バジェコセクワハウス)、日本語能力も相当なものでしたが、日本人の習慣への対応能力の高さに驚かされました。

ドマドマのスシルさんにいたっては、目の前を横切るのに「すいません、すいません」と腰を折って、中膝で、手刀を切りながら、飲み会でトイレに行くサラリーマンのように通り過ぎて行きます。

ハリさんやスシルさんの頭の回転の早いこと。

店が人気店になるのも当然です。

マルハバに新しいコックさんが来ましたが、当然ですが、日本語はできません。

ジャマールさんの役割が消えることはないはずですし、役割が消えたら、店も終わりでしょう。

多くの人は、箱庭体験をしにきているので、日本語のできるガイドが必要だからです。

そして、異国文化を分かりやすく切り取って見せて消化させてくれる「調理人」を必要としているからです。(上の考察は、南アジア系のみならず、スロスさんのカンボジア料理Siem Reapにも適用可能。)

語学がいかに重要か、日本人学生も、英語のみに汲々とするのではなく、広い視野を持って欲しいものです。

国際化は英語化にあらず。

英語BARの代表のような北天神のInternational Barという名の国際バーも、よくよく見ると、カウンターの向こうにいるのはネパール(さらに言うとネワール)とドイツです。

馬鹿の一つ覚えで英語、英語と''狂騒''している間に、現実は遥か先を行っています。

五十嵐先生なら、今の情勢を見て何を説かれたでしょうか?

安っぽい「げんだい」や「こくさい」の掛け声に騙されない様、将来を担う人々には注意して欲しいものです。
  1. 2018/02/13(火) 07:41:11|
  2. 未分類

京大で印哲セミナー

Hugo David博士の講演会。

広大から小川先生と石村君も参加。

京大の横地さんが司会、進行は斉藤PD。

前席にはソームデーブ。

ニヤマンを修論で終えたチョウさんも久々に会いました。

「ニヤマン難しいです」とのチョウさんの感想に、VVの難しさを知る私とHugoは、「いや、どちらかというと、ニヤマンは、読めば必ずわかるように丁寧に書いてあるので分かりやすいと思うけど」と反論。

講演会は、質問するつもりもなかったのですが、「じゃあ、片岡君から」との横地さんの促しがあり、仕方なく、質問。

vivaksaとyogyataという今回の主題に絡んだ質問。

その後、ソームデーブ、小川先生、横地さん、高橋君。

会場は修士学生の姿もあり、ゼミ室のコの字型前列が埋まる位。

印哲、しかも、言語理論、しかも、バルトリハリとダルマキールティにしては、かなりの盛況。

若手ですし、まだこれから博論も出版されるところですから、部外者の日本人の諸先生には、Hugoの凄さもわかる由はなく、周囲の大学からよく来られるような京大OBの姿は見られませんでした。

実際のところは、Hugoも、日本人の好きなウィーン関係者でもあるんですけどね。

いまは、おフランスの研究所ですが。

ともあれ、クリスタルクリアーな発表で、ゆっくり、しかも英語も分かりやすく、言い換えを随所に挟んだ丁寧な説明でした。

ダルマキールティとバルトリハリの類似点と相違点。

またしても、発想ネタのあれこれが、バルトリハリに見られるというネタの宝庫ぶりを見せられた感じです。

出る杭だろうが、豆腐にかすがいだろうが、バルトリハリ研究と聞けば猪突猛進、全力投球、真剣勝負の小川先生も、今回は満足だったことでしょう。

久々に小川先生のバルトリハリ愛に触れ、刺激大。

舎弟の様に克を引き連れ、つむじ風の様に去って行かれました。

  1. 2018/02/12(月) 22:28:29|
  2. 未分類

Excursion to Karatsu






Back to Hakozaki.
  1. 2018/02/11(日) 22:46:08|
  2. 未分類

Siem Reap in Yoshizuka

  1. 2018/02/11(日) 00:24:54|
  2. 未分類

白いを山羊を連れてこい

「山羊を連れてこい」は、それ自体で完結しますが、「白いを連れてこい」では、実体が特定されないので、白の持つ裨益作用が定まらず、連行という行為そのものが失われてしまう、という趣旨のことをVPSVは述べているようですが、テクスト状態が悪く、いまひとつ判然としません。
  1. 2018/02/09(金) 20:49:42|
  2. 未分類

BJK




世俗における「価値」(つまり値段)というのは,所詮,需要と供給の問題で,勝義的には意味はありません.

人気が出て手に入りにくくなれば値段もあがり,あるところで均衡点を見出して高値止まりになるでしょうし,人気が無いならば潰れるか,値段を下げてでも人を呼ぶか,あるいは,何らかの他の方策にでるしかないでしょう.

値段が高いからといって,必ずしも美味いわけではありません.(もちろん,あんまり安いと,ろくな材料が使えないでしょうけど.)

自分自身の判断基準を持ちえない場合には,大概,値段で判断することになります.つまり,「高いからいいのだろう」「安いのだから悪いのだろう」と.

そして,それによりさらに人気という実体のないものが形成されていったりもします.セレブに実体がないのと同じです.つまり,セレブは遍計所執性parikalpitasvabhaavaということになるでしょう.

自分にとっての価値は,別に,世俗世界の内面化という点を除けば,その人個人のものなので,他の人にとっては(本質的には)どうでもいいものです.

そして,もちろん,自分にとって価値あるもののほうが(内面的な幸福のために)大事であることは万人が認めるところでしょう.

趣味しかり,味しかり.

他人の趣味に口を出しても詮無いことです.本人が満足すればそれでよし.

(自分にとって)いい音楽だからといって必ずしも人が沢山あつまるわけでもないですし,(自分にとって)美味しいと思える店だからといって,必ずしも人気店であるわけでもないのは,議論するまでもない眼前の事実です.

バジェコの温かいダール定食を喜んで注文する日本人は数少ないでしょう.

他の日本人が注文しているのを見たことがありません.(さらにいえば,他の日本人を見ること自体,ディナータイムには稀です.)

値段から見ても,しかも,ダールというシンプルなものをメインにするところを見ても,店が意図したのは,ネパール人学生向けの安い定食とanumiiyate.

ティルパティにあるヴィシュヌ派の僧院にて,毎日毎日,あきもせず,芋カレーとダールのピュアベジを食べ続けた日々をsmaryate.(もちろん,食い放題です.)

味噌汁と同じで,毎日食べるものは,シンプルがシュレーシュタ.

ダルバートよろしく,これで食べ放題のyatheccha.m bhoktum "sakyateで,yaavat taavatですから,えらいお値打ち(arghya)だと私は思いますが,おそらく,99.9999%以上の日本人にとっては,どうでもいいこと(upek.sa.niiya)でしょう.

ワンコインのナン食い放題セットがありますから,ランチにくる人は,それを頼んで,旨味の効いたカレーと膨らまされた小麦粉により,短時間にて腹を大いに満たす(puuryate)ことでしょう.

「米か麦か」というvikalpaにおいては,完全に任意選択というよりは,「むしろ後者のほうが好ましい」というニュアンスでのvaaとなります.

普段ご米は食べれるので,外ではナンというのは至極まっとうな判断なのでしょう.

「ヒマラヤを見ずに死ぬなんて」「タージマハルを見ずに死ぬなんて」「ベナレスのガートを見ないなんて」という個人的感想の押しつけと同様,このダールの美味さを体験しないままでは,人生avikalaとは言えないのではないかと思いますが,まあ,何がavikalaかは人それぞれです.

観光名所のおきまりコース,おきまり土産の押しつけと同じで,大きなお世話(atisevaa)でしょう.

世俗の規則niyamaとやらは,タントラの二元対立解消を持ち出すまでもなく,勝義的にはniyamaではありません.

勝義において,我々が考える因果関係すら成立しないのは,龍樹を持ち出すまでもないでしょう.




豚バラのサデコ.

焼いた上にマリネしたもの.

「ビールを飲むべし」という一般教令が聞こえてきそうですが,この日は,「飲むなかれ」という特殊禁令が働いたので,あいにくラッシー止まり.utsargaとapavaadaでは後者の方が強力なので.

なお,2018/2/12-2/28改装工事で,3/5から再オープンとの掲示

すると(tarhi),3/1-4は何があるだろう(ki.m bhavi.syati?)という疑問が生じます.
  1. 2018/02/09(金) 07:33:52|
  2. 未分類

Excursion to Miyajidake



このところ,雪の荒天の上に寒かったので,研究室に閉じこもって研究会をする以外にやることがなかったのですが,ようやく晴れ間が見えたので,研究会終了後,宮地嶽へ.

神社と奥之院とに参詣の後,浜を散策.

向こうに見えるのは,右が相ノ島,左が志賀島.

前者の猫島は,研究室有志で以前,訪問しています.
  1. 2018/02/08(木) 23:33:55|
  2. 未分類

テクスト批判

どの分野でもそうですが,テクスト批判をする人の少ないこと.

ムーラに関しては,永ノ尾先生や土田先生の留学先でもあるW. Rauのケーララ写本に基づくテクストがあるからまだいいとしても,自注2となると,心許ないのが現状です.惨状といったほうがいいでしょう.

偉大な文法学者のチャールデーヴァシャーストリー(谷澤さんがデリー大で付いていた先生のお父さん)による、本人の意図せぬ流出出版から始まって,カルドナ先生の先生としても有名なラグナータシャルマー,そして,スブラフマニア・アイアーの遺稿出版,そして,現在は,アショークアクルジュカルの未出版原稿.

偉大な文法学の先人が何度か取り組んできましたが,もとの写本状態が悪すぎるので,テクストクリティークが完結することはなさそうです.

いくらでも更なる訂正の余地は残っています.フォリオがない欠落した箇所もありますし.

フォリオのある箇所も,よりよい読みを求めて,読めば読むほど,チェックすればチェックするほど,様々な可能性が見えてきます.

否定辞を補ってみたりと大胆なエメンデーションが必要な箇所も,結構見られます.

そうしないと意味が通じないのですから仕方ありません.

昔は所在が分かっていたのに今は分からない写本など,いろいろな問題も,時が経つと出てきます.

やれるときにやっておかないと,取り返しの付かないことになります.

アイアーの英語での紹介本のおかげもあり,バルトリハリへの敷居はぐっと低くなりましたが,VPSV2となると,まだまだです.

印哲の基本の基本であるバルトリハリのテクストがこの有様です.

他は推して知るべし.

チャールデーヴァシャーストリーのエディションは,Internet Archiveに上がっています.

チャールデーヴァシャーストリーも,色々と苦労しているようで,序文でも,怒りが炸裂しまくっています.

そこの図書館のやつが準備中だから,といって写本を見せてくれない,貸してくれない,という不満をぶちまけています.

サーンバシヴァシャーストリー,結構なケチですね.まさか,こんな形で晒されるとは思ってもいなかったでしょう.

自分の図書館が持っている貴重な写本を,その図書館のCuratorを務めているというただそれだけで他人が見るのを断るという権限がどこにあるのでしょうか。(彼の場合は彼自身が同じテクストを準備中だったので人には見せない、というのが主な理由ですが。)

しかし,世界の何処でもよくあることでしょうけど.

非協力的な輩はどこにでもいます.

「写本や写しを手に入れるために,(調査旅行などで)多額の私費出費を伴いました.しかし,少しも恨みには思っていません」とわざわざチャールデーヴァシャーストリーは記していますから,内心は,結構,恨みに思っているのでしょう.(The acquisition of MSS, or Transcripts, has entailed a heavy personal expense, which, however, I do not grudge in the least.)

ラホールから自費であっちこっちとかけずりまわって,しかも,ケーララまで出かけたのに断られたり,さらには,一部しか見せてくれなかったりすれば,それは,恨みにも思うでしょう.

出費も馬鹿にならなかったでしょう.

旅行だけでなく,手書きの書写や複写(rotographとあります)依頼でも,きっとお金はかかっているでしょうし.

きっと奥さんからは叱られていたことでしょう.
  1. 2018/02/07(水) 08:18:53|
  2. 未分類

VPSV

生きたサンスクリットというと変な言い方かもしれませんが,VPSVの言葉遣いは,まさに,そんな感じがします.

おそらく,彼独自の言い回しもあるように思われます.

決して,出来合いの用語法ではなく,彼自身が接頭辞を適宜つけて,語根から作り出した術語ではないのか,という感じがするものがあります.

生きている言葉.

動詞語根と適切な接頭辞の組み合わせ、或いは語と語との組み合わせから,彼独自の言い回しを生み出しているのではないか.

決して固定した「死んだ表現」ではなく,自分の言いたいことを表現しようと新たな表現を獲得したものもあるのではないか,という気がします.

他には見られない言い回しがかなり見つかりますし,同じことを表わしていると思われる表現でも,場所によっては,違ったりして,完全に固定しているわけではありません.

「気がする」というのは,彼以前の論書・哲学文献が必ずしも多くないので,比べようがないからです.

この概念にはこの表現というような固定したものではなく,実に念入りに,一つ一つの表現が凝らされていますし,また,語順も相当に練っています.

もちろん,テクスト状態がよくないので,そのいちいちについて,テクスト批判が必要なので,どこまで信用していいのか,これまた微妙な問題を多く孕んでますが.

ともあれ,そのようなノイズに邪魔されながらも,自らの思想を彼独自の表現で何とか言い表そうとする努力が確かに向こうに透けて見えてきます.

バルトリハリのこのような生きた表現は,和訳ではなく,やはり,サンスクリットの原文で読まないと,その妙味と奥行きはとてもじゃないが味わうことはできないでしょう.

アビダルマや唯識で表現が固定した仏教論理学ならば,和訳しても機械的に理解できるし,和訳から思想・思考が復元可能でしょうが,自由に新たな表現を獲得していくVPSVの場合,和訳では伝え得ない部分が多すぎます.

語根の活き活きとしたイメージと,そして,接頭辞一つ一つへの配慮,物理的な表現の哲学的内容への変換と応用,その全てを凝縮して訳出するということは,ほぼ不可能です.

つまるところ,バルトリハリは,やはり,最高です.

インド哲学の尽きせぬ泉.

ディグナーガがここから多くを学び取って,仏教論理学の一体系を作り上げたのも,むべなるかな.

VPSV2のテクスト伝承の悪いのが,かえすがえすも本当に残念です.

逆に言えば,やはり,自由すぎ,また,時に深すぎて,後代の人には難しかったのでしょう.

もっと整理されて適度にバランス良く剪定されたテクストのほうが,一般人には寄りつきやすいでしょうから.

なべてのテクストが鉢植えのミニトマトだとすると,様々な実がなる巨木といった感じでしょうか.

現在残るミーマーンサーのテクストよりもよっぽど深いミーマーンサーの議論が展開されています.

この時代の人の教養や洞察の深さ、体系への配慮には、敵いません。
  1. 2018/02/06(火) 22:16:10|
  2. 未分類

ananda bhavan sweets from Pondy

  1. 2018/02/05(月) 22:07:43|
  2. 未分類

五十嵐一『中東ハンパが日本を滅ぼす』





1991年5月刊。

この時先生は43歳。

ずっと読みたかったのですが、ようやく人から借りることができました。

講義でも「出たので一冊あるけど欲しい人?」と学生の1人にあげていらっしゃいました。

殺害されたのが同年の7月。

教室で待てど暮らせど来られないので自然休講かと思いきや、帰ってみると、事件でした。

才気煥発。批判精神の横溢。縦横無尽。

知性の塊です。

井の頭線渋谷駅,降りてすぐ,右手のエレベーターをあがった居酒屋,毎週授業後に怪気炎を上げられていた先生の姿が懐かしく思い出されます.

先生の注文の仕方も,いかにも先生らしいもの.

メニューではなく,ポップで別に一覧となって机の上に置いてある「今日のおすすめ」表を指さしながら,

「これがおすすめ?じゃあ,ここからここまで全部」という注文の仕方でした.

豪快というよりは,単に,つまらんことに頭エネルギーを割くのが無駄だから,という理由と思われます.

店をそこに固定していたのも,同じ理由からでしょう.

  1. 2018/02/05(月) 08:43:31|
  2. 未分類

тундра



  1. 2018/02/05(月) 08:02:23|
  2. 未分類

Rec Coffee

  1. 2018/02/05(月) 07:58:57|
  2. 未分類

Ibizarte





  1. 2018/02/05(月) 07:54:02|
  2. 未分類

Vanakkam+Olas





  1. 2018/02/05(月) 07:51:06|
  2. 未分類

Marhaba



カラチよりコックさんが到着。

チキンチョーレー。
  1. 2018/02/05(月) 07:41:30|
  2. 未分類

Reading the VP with Dr. Hugo David at Indology Department, Kyushu University

20180203235523420.jpg


Dr. Hugo David (EFEO, Pondichery) will read Bhartrhari's VPsv with us.


Date:
2018/2/5--2/9

Time:
Morning Session 10:30--13:30
Afternoon Session 15:00--16:30

Reading Material:
VPsv (prepared by Dr. H.D.)

Place:
Indology Department, Kyushu University
Hakozaki Campus

Organized by:
Kei Kataoka (Kyushu University) and Akane Saito (JSPS)

ミーマーンサーからヴェーダーンタに流れ込む文意理論によりフランスでの博論を終え,その後,ケンブリッジ大学,ウィーンのIKGAで研究を続け,現在はポンディシェリのフランス極東学院(EFEO, Pondichery)研究員であるHugo David博士によるVP集中研究会を九大印哲にて行います.
  1. 2018/02/02(金) 07:58:11|
  2. 未分類

対象の様々な側面を切り取ること

ダライラマ猊下は,しばしば,単純に白黒ではなく,物事の多様な側面,つまり,良い面もあれば悪い面もあることに注意した上で判断を下せと仰っています.

「多様な側面」と聞くと,仏教の意味論,概念論である「排除理論」を思い起こします.

ディグナーガやダルマキールティといった仏教論理学者にとって,物事に多様な側面があり,そのうちの一側面が,推論という概念知によって取り出されるというのは概念論の最も重要なテーゼです.

いっぽう,仏教と対立する普遍実在論であれば,牛には,多様な側面が実在として存在します.

たとえば目の前にある桜という実体には,桜性,木性,地製性,実体性などが内属しています.

これは,ヴァイシェーシカ自然哲学が教える通りです.

いずれも実在です.

しかし,ひとつのものが本当に,多くの実在する普遍を抱えているのでしょうか.

では,実体と普遍との関係はどのようなものなのでしょうか.

普遍を一つ認識すれば,芋づる式に,実体に属すありとあらゆる普遍が認識されてしまうことになるのではないか.

普遍実在論は様々な理論的過失を抱えています.

ディグナーガやダルマキールティによれば,実在は全き単一体であって,知覚はその全体を捉えていますが,その上に,様々な普遍を描き出すのは,実は,分別知の働きであって,それらは実在ではありません.

つまり普遍は実在しません.

では,「牛」という観念はどのように説明するのか.

それは,牛以外のものを排除することによって成立するのだ,とディグナーガはいいます.

牛でないものを一般的に排除した後で残るもの,それが「牛」という観念の内容であるとディグナーガは考えます.

非実在ですから,いくら牛の上に載っかっていようが問題はありません.

非牛の排除に限定されたものが「牛」という観念の対象です.

牛を実体として捉える場合には,非実体の排除に限定されたものとして,その対象を捉え直すことになります.

この場合は「実体」という観念が生じます.

いっぽう,ダルマキールティの体系に従うなら,対象と我々とのやりとりや潜在印象を通じて,我々の認識の内に,非牛から排除された形象が浮かんできます.

それは,註釈者の一部によれば虚偽であり,あるいは,註釈者の一部によれば真実であります.

つまり,そこで思い浮かぶ形象が,認識と同様に,因果的に生じてきた存在(依他起)であるかどうかについては,意見が分かれます.

形象真実論に従えば,他から排除された牛のイメージが認識内に浮かび,それが,外界対象と同一視されることで,我々に発動を起こさせることになります.

いずれにせよ,概念化は,すべからく,他の排除を通して起こっているという肝は,ディグナーガ以来,一貫しています.

ダルマキールティの場合は,さらに,付託の排除という確定知の働きも,概念知である確定知が持つ重要な側面として言われます.

「これは馬等ではなく牛だ」という,他の可能性の排除が働いているとみなすわけです.

もちろん,知覚に後続する知覚判断の場合,そのような付託の排除が明々白々に起こるわけではありません.

そのことを意識して彼は,samaaropavivekaという言い方をします.

vivekaの解釈については意見が分かれるので,いまは,踏み込む必要はないでしょう.(以上,samaaropavivekaについて詳しくは,中須賀論文参照.)

何かを言挙げするとき,我々は何かを切り捨てることになります.

仏教論理学では,この切り捨てvyavacchedaこそが概念知の重要な契機であると考えたわけです.

物事の多様な側面に注目するとは,何を切り捨てているかを見直す作業でもあります.

対象のある側面だけを概念的に取り出し切り取ることpariccheda,そこには既に切り捨てvyavacchedaが本質的な契機として内在しているというのが,ダルマキールティの一貫した視点です.
  1. 2018/01/29(月) 20:12:15|
  2. 未分類

対象への態度と知の成熟

人に対する反応は大別すると三種あります.

1.好き
2.嫌い
3.どうでもいい

それぞれ,欲しいという欲求icchaa,避けたい・捨てたいという忌避につながる嫌悪dve.sa,いずれでもない無関心・冷淡upek.saaに対応します.

インド哲学文献では,対象に対する発動・態度として三つを数えます.

1.受け取るupaadaana
2.捨てるhaana
3.無関心upek.saa

小説を読んだ感想も,同じく,

1.好き,おもしろい
2.嫌い,不愉快
3.どうでもいい,つまらない

という三種に大別できるでしょう.

つまり,対象についての判断というのは,感情的な好き嫌いに色づけされて分類されるということです.

なぜこのようなことが起こるかといえば,次にXに似た対象X'に出会った時に,瞬時に(すなわち感情的に),つまり,いちいち過去の経験を参照して考察するまでもなく,対象への態度を決めることができるからです.

態度決定が効率的になされるという利点があります.

いちいち逡巡していたら,せっかくの獲物も他人にさらわれてしまうかもしれません.

あるいは,「このタイプの人はどうだったかなー」と昔の経験をいちいちたぐりよせていては,次の瞬間,一撃を加えられて,金品を奪われるかも知れません.

好きか嫌いかで色づけして分類するというのは,生存にとって極めて効率的な手段であるということです.

しかし,人間に普遍的なこのような基本的態度・癖・習慣というのは,時に,有害でもあります.

それは,嫌いなもの,不愉快なものについては,端から拒否するという態度を生み出すからです.

嫌いとなったら嫌い,もうそれ以上の詮索は無用という態度となって,それは現れます.

そこには,議論が入り込む余地はありません.

しばしばある映画上映の差し止め請求も,よくよく見ると,多くは冷静な議論を欠いた感情論です.

一部の人々の感情を害するという理由で,裁判に訴えるということが行われたりもします.

恋愛も初期の段階においては,相手のいいところしか見えてきません.結晶化作用です.

相手の悪いところは否定.それはないものとして扱います.

あるいは,相手の悪いところを指摘する人がいれば,親切なその人へと攻撃の矛先が向かいます.

親の意に沿わない相手と駆け落ちした娘をいくら親が説得しようとしても,聞く耳を持たないのは,ある意味,当然ですし,実際,そのような話はごまんとあります.(別の見方をすれば,自律的に育った,という意味では,親の教育がうまくいった成果ともみなせます.)

いわゆる「馬鹿の壁」というやつです.自分の聞きたいもの,見たいものしか見ない,見たくない,というのが人間の基本的な心性です.

好悪の感情はさておき,冷静に振り返るという習慣が身についてなければ,客観的な視点を得ることはできません.

アイドル親衛隊の真ん中で,「Sちゃんだって,うんこするぞ」と事実を言えば,ぼこられるでしょう.

X最高という人は,しかし,多くの場合,その全体像(時間的・空間的・性格的)を見ているわけではありません.

しかし,多くの場合冷静な人は,「Xっていいねー」「さいこー」が,1~2年も経つと,悪いところも見てきて,「けどなー,なんとかしてほしいよな」「この部分は困る」と言うようになります.

好きも嫌いも見えてきて,ようやく,より大きい像が見えてくるわけです.

飛行機事故の場合,感情的な責任論はさておき,ひとまず,失敗やミスの原因が追及されます.

感情論で行けば,パイロットを責め立てるだけに終わってしまいますが,それでは,事故の教訓が活かされることはありません.

責任は一旦脇に置いて,冷静に事故原因を調べる必要があります.

人類の普遍的な智慧にプラスとなるのは,そのような冷静な態度であって,声高に責任論をがなり立てるだけの人は,むしろ,有害です.

原発の教訓と言われるものも同様です.

嫌なもの,見たくもなければ聞きたくもないような事柄についても,ひとまず,冷静に,そして,客観的に眺め返す必要があるのは言うまでもないでしょう.

研究においても,その初期段階においては,自分たちの文化で分かる範囲のもの,好ましいものだけが取り上げられます.

インド学がヨーロッパで始まって200年強ですが,まず最初は,訳しても理解可能な文学作品や神話が取り上げられます.

また,言語・宗教への関心から,ヴェーダ文献が研究されます.

あるいは植民地経営という視点からは,法典文献が研究されます.

いずれも内容自体は難しいものではなく,現代人の頭でも十分に理解可能な範囲です.

自分たちの意に沿わないような分野,あるいは,理解不可能な文献は忌避されるか,無視されていました.

タントラ文献のような,性的な要素を含む宗教文献に対しては,明らかな嫌悪が窺えます.

哲学分野でも,分かりやすい二元論のサーンキヤ文献から,まず研究が進んでいきます.

祭式文献の解釈学という難解なミーマーンサー文献については,ほとんど理解が追いつかない状態でした.

ようやく最近は,人類の知的遺産・知性史という視点からも,ミーマーンサーについて,その関心が正当に向けられるようになってきました.

縁遠いものへの評価というのは,難しいものです.

好悪を超えて見えてくるもの,その段階にいたって知の成熟ということは言えるでしょう.

「欲しい欲しい」だけでは,赤ちゃんと同じです.
  1. 2018/01/29(月) 08:07:29|
  2. 未分類

videśī vidyārthī

ティルパティであった良いことと言えば,,,

無理がたたって発熱.

2~3日寝ていましたが,全然ひきません.

ビハール出身の同室が強引に手を引いて,小さな診療所に連れて行ってくれました.

お医者さん先生は,上品ないかにものインテリ.

丁寧に見てくれた上で,薬屋で買うべき薬を指定.

そして,最後にひとこと.

「君は外国からの学生だ.きょうの診療費はいらないから」と.

金額にしてしまえば100円ほどでしたが,その親切に感謝感激.

稼ぎもしない学生への扱いは,どこにいっても大概ひどいものでしたが,大事にされた少ない瞬間でした.
  1. 2018/01/29(月) 00:05:24|
  2. 未分類

puruṣārghabahvalpatvaparāmarśaḥ

鰯(いわし)の美味しさは客観的には今も昔も変わっていません.

しかし,値段は,一昔前に比べると大層あがりました.

価値というものは,希少性と密接に連関しているということでしょう.

黄金も然り.

黄金が大量に作れるようになれば,黄金の価値は失われることでしょう.

同じように考えれば,人の価値(労働の対価ほか)というのも,当然,人の多少に左右されるのは理の当然です.

とすれば,居住地域での人口密度の高低により,人の価値というのも,影響を受けるはずです.

単に労働コストという金額の多少のみでなく,様々な他人への配慮においても,同様のことが言えるでしょう.

都市部における人間疎外というのは,誰しも肌身で感じています.

人口が多くなると,他人のことはどうでもよくなってきます.

ラッシュアワーの満員電車で,ひとりひとり,かえがえのない個々人のことにまで思い至れ,というほうが無理というものです.

心の働きの当然な帰結として,他人のことはシャットアウト,見て見ぬふり,ということになります.

都会の人は冷たい,というのは,そうしないと心がもたないからで,当然の心理的防御です.

そうでなければ,とっくに心が参っているでしょう.

人口密度が10倍ともなれば,逆に,個々人への配慮も十分の一という感じになって当然です.

赤の他人がどうしようが無関心(にならざるをえない)というのが人口集積地における人間の心理でしょう.


私が留学を終えて,東京に戻った後.

連絡で,「三上さんが亡くなった」との報.

マドラス大への博論も提出間近だったはず.

市内で交通事故とのこと(1998/5/28).

聞けば,バイクに乗っていたときにトラックに引かれて,そのまま亡くなったそうです.

しかも,しばらくは息があったとのこと.

その間,誰にも助けられず,もちろん救急車も来ず,そのまま亡くなってしまったそうです.

(しかも,財布もなくなっていたとの由.)

しばらくして,マドラス(チェンナイ)の新聞にも,義憤に駆られた現地の紳士が投稿をしていたそうです.

こんな冷たい街になってしまったのかと.


或る対象Xに対する人間の発動・態度には三種あるというのがインド哲学に見られる見解です.

1.積極的に取りに行く
2.積極的に捨てる・避ける
3.どうでもいいから無関心を保つ

何の関係も面識もない赤の他人については,3ということになるのでしょう.
  1. 2018/01/28(日) 23:27:50|
  2. 未分類

テクストの入れ違い

たまに、テクストがパラグラフレベルで別の場所に飛んでいることがあります。

抜けているだけなら、「ここからここまで抜け」で注記が終わりますし、それで明瞭なので、読み手にも伝わりますが、ごそっと抜けたものが、別の場所に出て来ると、注記の方法がややこしくならざるを得ません。

単語レベルではなく、パラグラフレベルでの入れ違いは、伝えにくい。

しかも、他の場所に同じテクストがあるので、異読もチェックしようと思えばできますが、しかし、この場所には抜けているので、他の刊本や写本と同じように異読を並べて記すわけにも行きません。

如何したものか。

しかも、なぜ入れ違ったのか、その理由もいまひとつ判然としません。

まずは文脈から、いずれがオリジナルかを判断、その後に、他箇所に飛んで行った理由を考えることになります。

単純に既刊本の活字を組む際のミスかもしれません。
  1. 2018/01/28(日) 14:49:53|
  2. 未分類

親切の対価

親切にされると,普通は,あとから「ありがとう」とでも言いそうなものです.

しかし,何の関係もないあかの他人に親切にされるという経験が少ない場合,親切にされると何か裏があって,後から金でも要求されるのではないか,という裏読みが働くようになります.

寺院でいきなりおでこに赤い印をつけられて,あとから金を要求されるのもしかり,

頼んでもいないのに,勝手にガイドをしはじめて,あとから金を要求するのもしかり,

駅構内で迷っていたら近づいてきて親切に教えてくれたかと思うと,いきなり,「教えたから100ルピーよこせ」と言われたりと.

つまり,無料の親切ということはほとんどなくて,大概,対価が発生します.

そんなことからでしょう,日本に来ているインド人にも,たまに,そんな反射行動が透けて見えることがあります.

映画音楽の大家が福岡に来るというので,市内のホールへ.

あらかじめ申し込みの人のみが入場可能.

列に加わってないインド人が,チケットありませんか,と聞いています.

聞くと,大阪から来たとのこと.

FBの友人が楽屋にいるはずだが,連絡が取れないので入れないし,かといって,入場券もないし,困ったとのこと.

幸い,私のが一枚あまっていたので,彼に譲ることに.

すると,あげたとたんに知らんぷり.

こちら側を遠ざけるかのような態度.

さっきまでとは打って変わって,赤の他人になってしまいました.

よくあることなので,私は全く気になりませんでしたが,あれを見たら,普通の日本人はびっくりでしょう.

親切にしてやったのに,と.

しかし,その裏には,上のような反射行動が働いていると考えられます.

自然にそうなってしまうわけです.

何か貰ったら,要求される前にさっさとその場を離れる.

一種の生活の知恵です.
  1. 2018/01/27(土) 13:24:12|
  2. 未分類

南京錠

インドを旅行すると,自前の南京錠を持ち歩くことになります.

電車の中で自分の荷物を座席に固定して,取られないようにする.

また,安宿では,ホテルの南京錠ではなく,自分の南京錠をかける,などなど.

そんなこんなで,インドに何回か行く内に,南京錠をいくつも持つようになっていました.

ある時,成田からの出国.

インド人が困っている様子です.

どうやら,中に持ち込めない荷物を預けることになったが,鍵をつけてないと航空会社が預かってくれないようです.

親切心を出して,一個,スペアの南京錠を貸してあげました.

日本人なら,通常,飛行機を降りたときに向こうからこちらを探して,南京錠を返してくれて「ありがとう」の一言でもありそうなものです.

しかし,そのインド人は無視して,荷物を取ると,さっさと出て行こうとします.

「南京錠返してくれ」と言われて初めて返してくれました.

もちろん,サンキューも何もなし.

なんならこっちが悪いかのような態度です.(或る意味,予想通りなので,それはそれで楽しい経験ですが.)

自分の荷物を受け取った後は,すぐに換金所に並んだりと,やることが色々とあるのですが,その前にインド人の姿を探さないといけなかったので面倒でした.

次からは南京錠は貸さねーぞ,と思いましたが,それ以降,いまだ,南京錠を求めている人を見たことがないので,その機会を得ていません.
  1. 2018/01/27(土) 13:09:23|
  2. 未分類
次のページ

プロフィール

Aghora

Author:Aghora

最近の記事

最近のコメント

最近のトラックバック

月別アーカイブ

カテゴリー

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

FC2カウンター

ブログ内検索

RSSフィード

リンク

このブログをリンクに追加する