Pratibhanusarini --- 九州インド哲学ブログ2

On Indian Philosophy and Buddhist Studies

クリシュナのインドラ無用論:不貞な妻のメタファー

インドラへの祭式を止めさせようと,ナンダら牛飼いを説得するにあたり,クマーリラ由来の「主宰神批判」の思弁を展開したクリシュナですが,以下の箇所では,実に世俗的です. 10.24.18. したがって,本性に住する者,自らの仕事を為す者は,カルマ(行為・業)を祀るべきである.なぜなら,それにより人が真っ直ぐに暮らせるもの,それだけが彼にとっての神だからである. 10.24.19. 一方の存在に頼って生きているのに,別の存在に頼って生きようとする者は,それ(別の存在)から幸福を得ることはない.情夫から不貞な女が[幸福を得ることがない]ように. ここではカルマ(行為・業)と主宰神インドラとの関係が,本当の夫と情夫との関係になぞらえられています.妻の生活を成り立たしめるのは,夫であって情夫ではありません.同じように,人が暮らしていける基盤はカルマ(行為・業)にあるのであって主宰神にはありません.だから,主宰神ではなくカルマ(行為・業)をこそ崇めるべきだとのクリシュナの教えです.
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  1. 2006/05/28(日) 01:15:33|
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クリシュナの主宰神批判

『バーガヴァタ・プラーナ』(Bhagavata-purana)は,ヒンドゥー教の神話・古譚や各種の縁起を記す18大プラーナのうちでもヴィシュヌ派の聖典です.後9-10世紀,南インドで編纂されたと考えられています(J.L. Brockington. The Sacred Thread. Edingburgh University Press, 1981, 148). 「バガヴァーン」(Bhagavan)と呼ばれるヴィシュヌ神への信仰は古く,マディヤプラデーシュ州サーンチー近くのベスナガル(Besnagar)出土のガルダ柱碑文(Garuda pillar inscription)には,前2-1世紀頃,ギリシャ人の大使で「バガヴァーン信徒」(bhagavata)であるタッカシラ(Takhkhasila)すなわちタキシラ (Taxila)のHeliodora (=Heliodoros)がヴァースデーヴァ(Vasudeva)を信奉してGaruda柱を建てたことが記されています. 『バーガヴァタ・プラーナ』の第十巻は,なかでも,牛飼いのナンダとヤショーダーに育てられたスーパーベイビーにして,長じては牛飼い女と戯れるプレイボーイのクリシュナの武勇伝を綴る章で,ヴィシュヌ神話を歌う『バーガヴァタ・プラーナ』のなかでも最もメジャーな箇所です. 特に第十巻の29-33章は,クリシュナが牛飼いの人妻達(gopi)と戯れる様が描かれ,最も愛されてきた箇所です.1170年頃に著されたジャヤデーヴァの『ギータ・ゴーヴィンダ』を始め,チャイタニヤに始まるベンガルの熱烈なクリシュナ・ラーダー信仰において重要視されたきたこともあり,各種の注釈および現代語訳が残っています. ヴラジャ地方の牛飼い達が崇めるクリシュナ神,その神話を『バーガヴァタ・プラーナ』は,『マハーバーラタ』の補遺である『ハリの系譜』(Harivamsa),および『ヴィシュヌ・プラーナ』に取材しています. さて,『バーガヴァタ・プラーナ』第10巻24-28章は,クリシュナがゴーヴァルダナ山を持ち上げて,インドラが降らした大雨から牛飼い達を救った話を記しています.インドラへの祭式を始めようとしたナンダら牛飼い達を見て,クリシュナがその祭式を止めさせたのを怒ったインドラが,世界を帰滅させる雨雲を派遣して,雹(ひょう)からなる大雨を降らし,村を洪水に見舞わせたのです. 牛飼い達を説得するクリシュナの弁は,なかなか思弁的です. 聖なる神(クリシュナ)は言った. 10.24.13. 生類はカルマ(行為・業)により生まれ,同じくカルマにより滅する.楽・苦・恐れ・安寧に,同じくカルマにより[生類は]至るのである. 10.24.14. 他者のカルマの結果を決める主宰神なる何者かが存在するならば,彼もまた[結果を生み出すカルマを為す]行為主体を必要とすることになる.なぜなら非行為主体にとって彼(主宰神)はそもそも支配主ではないのだから. 10.24.15. この場合,各自のカルマに随う[だけ]の生類にとり,各人に本性上定まった[カルマ]を変更する支配力のないインドラ(支配神)が何になろうか. ここでクリシュナが問題としているのは,世界の創造主にして世界の一切を司る主宰神(イーシュヴァラ)たるインドラと,各自の行為・業(カルマ)との関係です. ウパニシャッド文献や,仏教やジャイナ教といった沙門の宗教の登場以来,各自の運命を決める行為・業(カルマ)の観念が体系化され,それにより生類が生まれ変わり輪廻するという思想がインドの宗教において支配的となりました.業・輪廻の観念の成立です. しかし,業が全ての結果を左右するならば,運命を定める主宰神は無用になってしまいます.後代の神学者・理論家が苦労するところです. 業と主宰神との衝突は,後7世紀頃の聖典解釈学の理論家にして主宰神を否定する立場にあるクマーリラが次のように指摘しています. 『シュローカヴァールッティカ』「(語意)関係否定拒斥」章, v.72 もし,主宰神の欲求を[業開顕の契機と]認めるなら,それ(主宰神の欲求)のみを世界原因とすればよい.なぜなら,主宰神の欲求に[世界が]左右されるなら,業を想定するのは無意味だからである. 人々の運命を決めるにあたって,業と主宰神は理論的に両立しないとの指摘です.『バーガヴァタ・プラーナ』におけるクリシュナの発言は,直接あるいは間接に,クマーリラのこの指摘を受けたものと考えられます.面白いことに,クマーリラの主宰神批判の影響は,シヴァが直接に説いたとされるシヴァ教の聖典群にも見られます.たとえば『パラーキヤ』です.世界の創造主たる主宰神を一切否定するクマーリラの理論は,クマーリラ以降の神学者達に看過できない影響をもっていたことがうかがえます. 永遠の神とされるヴィシュヌやシヴァが,哲人クマーリラの書物を参照していたというのも,考えると面白い話です.
  1. 2006/05/27(土) 17:41:03|
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PSTテクスト批判ノート

紀元後500年前後に活躍した仏教論理学者・唯識学者のディグナーガは、主著『(正しい)認識手段の集成』(pramANa-samuccaya)冒頭において、「(頭を)下げてから」(praNamya)といって仏陀への帰依を表明し、敬礼をなしたうえで、「正しい認識手段の集成が今から為される」と、自身の著作開始を宣言する。 詩節後半部においてディグナーガは、「あちこちに散らばった自らの見解に基づいて」(svamatAt ... viprasRtAt)と述べる。原文におけるviprasRtAtの意味は、DignAga, On Perceptionにおいて服部正明氏がscatteredと訳されるように、「散らばった」というのが素直に当てはまる。明らかにこれは、著書のタイトルに用いられているsam-uc-caya「集め・積み・上げること」「集成」との対比において用いられている。いままであちらこちらに書き「散らしたもの」をここに一つに「まとめあげる」、というのが大体の趣旨であろう。 vi-pra-sRtaにおける動詞語根sRは「進む」、pra-sRは「前に進む」「伸び拡がる」、vi-pra-sRは「あちこちに・拡がる」「あちこちに散り拡がる」、その過去分詞としてvi-pra-sRtaは「あちこちに散り拡がった」となる。 『(正しい)認識手段の集成』(およびディグナーガ自身の注)への注釈者であるジネーンドラブッディは、紀元後710-770頃に置かれる(See Steinkellner's introduction to Jinendrabuddhi's VizAlAmalavatI PramANasamuccayaTIkA, p. xlii)。ジネーンドラブッディは、上のviprasRtAtについて、第一解釈を示した後に、「同じものが次のような別の意味を持つ」(asyaivAyam aparo 'rthaH)として、第二の意味があるとする。その解釈は、極めて衒学的であり、およそディグナーガが意図したものではありえない。 最終的にジネーンドラブッディは、vi-pra-sRtAtを「(正しい認識手段への)際立った精通を欠いた(『因明正理門論』など)に基づいて」とする。すなわち、ディグナーガの先行する論書である『因明正理門論』などは、「正しい認識手段への際立った精通を欠いている」(vigata-prasRta-pramANa-vyutpattika)とするのである。すなわち、『因明正理門論』など、ディグナーガの先行論書群はいずれも、「(簡潔に)まとめられたもの」(saMkSipta)であり、「詳しい説明を欠いたもの」(vigata-vistara)であり、それにたいして、今著される『正しい認識手段の集成』は、「詳しい説明を伴ったもの」(savistara)であり、その意味で、新たに一書をなす意義があると結論づける。 以下では、Steinkellner他の校訂テクストJinendrabuddhi's VizAlAmalavatI pramANasamuccayaTIkA (Chapter 1, Part I: Critical Edition)について、上記の文脈中のテクストに関して若干の問題を指摘して、解決法を提案する。 第一は、p. 4, ll. 7-8のnyAyamukhAdi vigata-prasRta-pramANavyutpattikamである。 脚注8によれば、-prasRta-はチベット訳に基づくemendationであり、写本には-prakRSTa-とある由である。 先行箇所でジネーンドラブッディは、vi-pra-sRtaの各パーツを、それぞれ、vigata, prakRSTa, avagama/parijJAnaと等置する。全体をあわせれば、「際立った理解・知悉を欠いたもの」(*vigata-prakRSTa-parijJAna)となるはずである。すなわち、先行論書である『因明正理門論』などは詳しくないので、それを読んでも智慧鈍き者達には、「際立った理解」(prakRSTaM sRtam)が生じてこないというわけである。その箇所にあるのが上のパッセージである。さて、 1. nyAyamukhAdi vigata-prasRta-pramANavyutpattikam 2. nyAyamukhAdi vigata-prakRSTa-pramANavyutpattikam のいずれが良いのであろうか? 第一の読みを取る場合、vi-pra-sRtaの内容は、vigata-prasRta-で尽くされてしまい、-pramANavyutpattiは無駄となる。あるいは、よくても、prasRta=pramANavyutpatti(際立った理解=正しい認識手段への精通)としなければならない。すなわち、「『因明正理門論』などは、際立った理解[すなわち]正しい認識手段への精通を欠いたものである」となる。 第二の読みを取る場合、vi-pra-sRtaの内容が、vigata-prakRSTa-pramANavyutpattiというように、それぞれに対応して説明されていることになる。すなわち、「『因明正理門論』などは、際立った《正しい認識手段への精通》を欠いたものである」となる。第二解釈のほうが、vi-pra-sRtaの言い換えとしては素直である。 第二の読みを強力にサポートするのが、関連する次のパッセージである。 p. 5, l. 9: svamatAt saMkSiptAd akRtaprakRSTapramANavyutpatteH 「自らの見解(すなわち『因明正理門論』など)――簡潔にまとめられたものであり、(それにより)際立った《正しい認識手段への精通》が為されてないもの――に基づいて」 ここでは、先行論書である『因明正理門論』などが、「(それにより)際立った《認識手段への精通》が為されていないもの」と形容されている。これが、上の第二の読みとパラレルにあるのは明らかである。 vigata-prakRSTa-pramANavyutpattikam akRta-prakRSTa-pramANavyutpatteH このパラレル・パッセージから、第一の-prasRta-ではなく第二の読みである-prakRSTa-が適切と判明する。 以上から、vi-pra-sRtaを分析する文脈の中で、prakRSTaが、pramANavyutpattiにかかるものとして、ジネーンドラブッディの中では自然なものとして意識されていたことが分かる。 そのことを認めたうえで問題となるのが、次のパッセージである。 p. 5, l. 11: prakRSTaH pramANavyutpattaye pramANasamuccayaH kariSyate 「際立ったものである『正しい認識手段の集成』が、正しい認識手段への精通のために、今から為される。」 筆者が問題としたいのは、pramANasamuccayaHを形容するprakRSTaHという読みである。この読みをそのまま認めるならば、ひとまず、「(詳細な説明などを伴った点で)際立った、優れた、『正しい認識手段の集成』」というように理解可能である。 しかし、上で見たように、prakRSTaは、vi-pra-sRtaの分析過程で、praの説明として登場したものである。そして、ジネーンドラブッディにとり、prakRSTaが形容すべき対象は、sRta、すなわち、理解(avagama), 知悉(parijJAna), 正しい認識手段への精通(pramANavyutpatti)であった。ということを認めるならば、viprasRtaの第二解釈の議論を総括する最後において、prakRSTaがpramANasamuccayaを形容するというのは唐突である。 校訂者の一人Dr. Helmut Krasserからの私信によれば、prakRSTaHは、チベット訳にも写本にも支持される。しかしである。筆者としては、いずれにも反して、prakRSTaHの-H-を削除し、prakRSTa-pramANavyutpattayeという読みを提案したい。 1. prakRSTaH pramANavyutpattaye pramANasamuccayaH 2. prakRSTa-pramANavyutpattaye pramANasamuccayaH 理由は最前の議論から明らかであろう。すなわち、「際立った《正しい認識手段への精通》のために」という解釈が、これまでの文脈から考えて、より自然なものだからである。prakRSTaがvi-pra-sRtaの分析の中で出てきたという出自を理解するならば、prakRSTaがpramANasamuccayaにかかるというのは、不自然の感をぬぐえない。チベット訳にも写本にも支持されないという点では、確かに大胆なemendationかもしれない。しかし写本の読みの訂正自体はさほど大きなものではない。-H-の出し入れだけである。 文脈としても、ここでは、「なぜ『因明正理門論』などとは別に新たに一書を著す必要があるのか」という問にディグナーガは答えねばならないはずである。ディグナーガ自身は「正しい認識手段の確立のために」(pramANasiddhyai)と述べるのみである。しかし単なる「正しい認識手段の確立」「正しい認識手段への精通」ならば、先行論書で十分なはずである。先行論書との差としてジネーンドラブッディが考えているのが、「際立った《正しい認識手段への精通》のため」である。したがって、文脈からも、ここでは、単に「正しい認識手段への精通のために」(pramANavyutpattaye)ではなく、「際立った《正しい認識手段への精通》のために」という一歩進んだ限定が必要となるはずである。いかがであろうか。 Summary I would like to suggest that the reading vigata-prasRta-pramANavyutpattikam on p. 4, l. 8, of Jinendrabuddhi's PST, which is an emendation by the editor supported by Tibetan translation, should be corrected as vigata-prakRSTa-pramANavyutpattikam, following the Ms. reading recorded in footnote 8. For there is a parallel expression on p. 5, l. 9: akRta-prakRSTa-pramANavyutpatteH. Accepting that prakRSTa, in the context of Jinendrabuddhi's analysis of vi-pra-sRta, is most naturally connected with sRta, i.e. avagama/parijJAna/pramANavyutpatti, one is led to another emendation, though a bit bold because it is neither supported by Tib. nor Ms., that prakRSTaH pramANavyutpattaye pramANasamuccayaH kariSyate (p. 5, l. 11) should be corrected as prakRSTa-pramANavyutpattaye pramANasamuccayaH kariSyate. Namely, I suggest that one should delete -H- in prakRSTaH and connect it with pramANavyutpattaye. For, as I have shown, prakRSTa in this context is more naturally connected with pramANavyutpatti than with pramANasamuccaya.
  1. 2006/05/26(金) 00:37:14|
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三歩で世界を跨ぐヴィシュヌ


Trivikrama1.jpg
三歩跨ぎのヴィシュヌ(トリヴィクラマ) インドラにかわって三界を支配するにいたった悪魔バリ。 ヴィシュヌは、アディティとカシャパ仙の息子となって小人の姿をとって生まれ変わります。 布施を乞う小人のヴィシュヌにバリは「何でも与える」ことを約束。 小人のヴィシュヌは「三歩で跨ぐだけの土地」を所望。 バリの師シュクラの制止も聞かず、バリはその願いを受け入れます。 たちまち巨人と姿を変えたヴィシュヌ神、一歩で地上を、二歩で天界を跨ぎます。 第三歩をバリの頭上に置き、地獄へ追いやりました。
Trivikrama2.jpg
写真はマハーバリプラム。 石窟内、向かって右手の壁面にあります。 丘を登ったすぐ左手の石窟。 「ガンガーの降下」(あるいは「アルジュナの苦行」)を描く石彫り大壁面の裏側にあたります。
Mahabalipuram1.jpg
  1. 2006/05/07(日) 13:12:14|
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