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Pratibhanusarini --- 九州インド哲学ブログ2

On Indian Philosophy and Buddhist Studies

PSTテクスト批判ノート

紀元後500年前後に活躍した仏教論理学者・唯識学者のディグナーガは、主著『(正しい)認識手段の集成』(pramANa-samuccaya)冒頭において、「(頭を)下げてから」(praNamya)といって仏陀への帰依を表明し、敬礼をなしたうえで、「正しい認識手段の集成が今から為される」と、自身の著作開始を宣言する。

詩節後半部においてディグナーガは、「あちこちに散らばった自らの見解に基づいて」(svamatAt ... viprasRtAt)と述べる。原文におけるviprasRtAtの意味は、DignAga, On Perceptionにおいて服部正明氏がscatteredと訳されるように、「散らばった」というのが素直に当てはまる。明らかにこれは、著書のタイトルに用いられているsam-uc-caya「集め・積み・上げること」「集成」との対比において用いられている。いままであちらこちらに書き「散らしたもの」をここに一つに「まとめあげる」、というのが大体の趣旨であろう。

vi-pra-sRtaにおける動詞語根sRは「進む」、pra-sRは「前に進む」「伸び拡がる」、vi-pra-sRは「あちこちに・拡がる」「あちこちに散り拡がる」、その過去分詞としてvi-pra-sRtaは「あちこちに散り拡がった」となる。

『(正しい)認識手段の集成』(およびディグナーガ自身の注)への注釈者であるジネーンドラブッディは、紀元後710-770頃に置かれる(See Steinkellner's introduction to Jinendrabuddhi's VizAlAmalavatI PramANasamuccayaTIkA, p. xlii)。ジネーンドラブッディは、上のviprasRtAtについて、第一解釈を示した後に、「同じものが次のような別の意味を持つ」(asyaivAyam aparo 'rthaH)として、第二の意味があるとする。その解釈は、極めて衒学的であり、およそディグナーガが意図したものではありえない。

最終的にジネーンドラブッディは、vi-pra-sRtAtを「(正しい認識手段への)際立った精通を欠いた(『因明正理門論』など)に基づいて」とする。すなわち、ディグナーガの先行する論書である『因明正理門論』などは、「正しい認識手段への際立った精通を欠いている」(vigata-prasRta-pramANa-vyutpattika)とするのである。すなわち、『因明正理門論』など、ディグナーガの先行論書群はいずれも、「(簡潔に)まとめられたもの」(saMkSipta)であり、「詳しい説明を欠いたもの」(vigata-vistara)であり、それにたいして、今著される『正しい認識手段の集成』は、「詳しい説明を伴ったもの」(savistara)であり、その意味で、新たに一書をなす意義があると結論づける。

以下では、Steinkellner他の校訂テクストJinendrabuddhi's VizAlAmalavatI pramANasamuccayaTIkA (Chapter 1, Part I: Critical Edition)について、上記の文脈中のテクストに関して若干の問題を指摘して、解決法を提案する。

第一は、p. 4, ll. 7-8のnyAyamukhAdi vigata-prasRta-pramANavyutpattikamである。

脚注8によれば、-prasRta-はチベット訳に基づくemendationであり、写本には-prakRSTa-とある由である。

先行箇所でジネーンドラブッディは、vi-pra-sRtaの各パーツを、それぞれ、vigata, prakRSTa, avagama/parijJAnaと等置する。全体をあわせれば、「際立った理解・知悉を欠いたもの」(*vigata-prakRSTa-parijJAna)となるはずである。すなわち、先行論書である『因明正理門論』などは詳しくないので、それを読んでも智慧鈍き者達には、「際立った理解」(prakRSTaM sRtam)が生じてこないというわけである。その箇所にあるのが上のパッセージである。さて、

1. nyAyamukhAdi vigata-prasRta-pramANavyutpattikam

2. nyAyamukhAdi vigata-prakRSTa-pramANavyutpattikam

のいずれが良いのであろうか?

第一の読みを取る場合、vi-pra-sRtaの内容は、vigata-prasRta-で尽くされてしまい、-pramANavyutpattiは無駄となる。あるいは、よくても、prasRta=pramANavyutpatti(際立った理解=正しい認識手段への精通)としなければならない。すなわち、「『因明正理門論』などは、際立った理解[すなわち]正しい認識手段への精通を欠いたものである」となる。

第二の読みを取る場合、vi-pra-sRtaの内容が、vigata-prakRSTa-pramANavyutpattiというように、それぞれに対応して説明されていることになる。すなわち、「『因明正理門論』などは、際立った《正しい認識手段への精通》を欠いたものである」となる。第二解釈のほうが、vi-pra-sRtaの言い換えとしては素直である。

第二の読みを強力にサポートするのが、関連する次のパッセージである。

p. 5, l. 9:
svamatAt saMkSiptAd akRtaprakRSTapramANavyutpatteH

「自らの見解(すなわち『因明正理門論』など)――簡潔にまとめられたものであり、(それにより)際立った《正しい認識手段への精通》が為されてないもの――に基づいて」


ここでは、先行論書である『因明正理門論』などが、「(それにより)際立った《認識手段への精通》が為されていないもの」と形容されている。これが、上の第二の読みとパラレルにあるのは明らかである。

vigata-prakRSTa-pramANavyutpattikam

akRta-prakRSTa-pramANavyutpatteH

このパラレル・パッセージから、第一の-prasRta-ではなく第二の読みである-prakRSTa-が適切と判明する。

以上から、vi-pra-sRtaを分析する文脈の中で、prakRSTaが、pramANavyutpattiにかかるものとして、ジネーンドラブッディの中では自然なものとして意識されていたことが分かる。

そのことを認めたうえで問題となるのが、次のパッセージである。

p. 5, l. 11:
prakRSTaH pramANavyutpattaye pramANasamuccayaH kariSyate

「際立ったものである『正しい認識手段の集成』が、正しい認識手段への精通のために、今から為される。」

筆者が問題としたいのは、pramANasamuccayaHを形容するprakRSTaHという読みである。この読みをそのまま認めるならば、ひとまず、「(詳細な説明などを伴った点で)際立った、優れた、『正しい認識手段の集成』」というように理解可能である。

しかし、上で見たように、prakRSTaは、vi-pra-sRtaの分析過程で、praの説明として登場したものである。そして、ジネーンドラブッディにとり、prakRSTaが形容すべき対象は、sRta、すなわち、理解(avagama), 知悉(parijJAna), 正しい認識手段への精通(pramANavyutpatti)であった。ということを認めるならば、viprasRtaの第二解釈の議論を総括する最後において、prakRSTaがpramANasamuccayaを形容するというのは唐突である。

校訂者の一人Dr. Helmut Krasserからの私信によれば、prakRSTaHは、チベット訳にも写本にも支持される。しかしである。筆者としては、いずれにも反して、prakRSTaHの-H-を削除し、prakRSTa-pramANavyutpattayeという読みを提案したい。

1. prakRSTaH pramANavyutpattaye pramANasamuccayaH

2. prakRSTa-pramANavyutpattaye pramANasamuccayaH

理由は最前の議論から明らかであろう。すなわち、「際立った《正しい認識手段への精通》のために」という解釈が、これまでの文脈から考えて、より自然なものだからである。prakRSTaがvi-pra-sRtaの分析の中で出てきたという出自を理解するならば、prakRSTaがpramANasamuccayaにかかるというのは、不自然の感をぬぐえない。チベット訳にも写本にも支持されないという点では、確かに大胆なemendationかもしれない。しかし写本の読みの訂正自体はさほど大きなものではない。-H-の出し入れだけである。

文脈としても、ここでは、「なぜ『因明正理門論』などとは別に新たに一書を著す必要があるのか」という問にディグナーガは答えねばならないはずである。ディグナーガ自身は「正しい認識手段の確立のために」(pramANasiddhyai)と述べるのみである。しかし単なる「正しい認識手段の確立」「正しい認識手段への精通」ならば、先行論書で十分なはずである。先行論書との差としてジネーンドラブッディが考えているのが、「際立った《正しい認識手段への精通》のため」である。したがって、文脈からも、ここでは、単に「正しい認識手段への精通のために」(pramANavyutpattaye)ではなく、「際立った《正しい認識手段への精通》のために」という一歩進んだ限定が必要となるはずである。いかがであろうか。

Summary
I would like to suggest that the reading vigata-prasRta-pramANavyutpattikam on p. 4, l. 8, of Jinendrabuddhi's PST, which is an emendation by the editor supported by Tibetan translation, should be corrected as vigata-prakRSTa-pramANavyutpattikam, following the Ms. reading recorded in footnote 8. For there is a parallel expression on p. 5, l. 9: akRta-prakRSTa-pramANavyutpatteH.

Accepting that prakRSTa, in the context of Jinendrabuddhi's analysis of vi-pra-sRta, is most naturally connected with sRta, i.e. avagama/parijJAna/pramANavyutpatti, one is led to another emendation, though a bit bold because it is neither supported by Tib. nor Ms., that prakRSTaH pramANavyutpattaye pramANasamuccayaH kariSyate (p. 5, l. 11) should be corrected as prakRSTa-pramANavyutpattaye pramANasamuccayaH kariSyate. Namely, I suggest that one should delete -H- in prakRSTaH and connect it with pramANavyutpattaye. For, as I have shown, prakRSTa in this context is more naturally connected with pramANavyutpatti than with pramANasamuccaya.

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  1. 2006/05/26(金) 00:37:14|
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