Pratibhanusarini --- 九州インド哲学ブログ2

On Indian Philosophy and Buddhist Studies

OEAW IKGA

シュヴァルツェンベルクのカフェから程遠くないところにあるオーストリア科学アカデミーのアジア文化・精神史研究所.(路面電車で一駅) インド仏教論理学研究のセンターのひとつです.
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ヴェルヴェデーレ宮殿の一つ手前の駅にあたります.
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現在の所長はシュタインケルナー教授. 来年早々には,研究所が,いまの場所から引越しだそうです. なんでも,他の隣接分野と同じビルに同居して「学際性」を高めるようです.
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  1. 2006/09/30(土) 15:19:57|
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龍大での研究会


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龍大にて. 桂先生主催の研究会. 挨拶しているのは来日していたウィーンのシュタインケルナー教授. 皆で読み合わせているのは,ジネーンドラブッディのプラマーナサムッチャヤティーカー. ディグナーガの『集量論』にたいする注釈です. 一本の写本に基づいて読みを確定する作業は困難も伴いますが,実にスリリングです. サンスクリット感覚が要求されます. ある読みに違和感を感じ,そこに潜む間違いを訂正する. オリジナルの読みを求めて訂正,時にemendationを提案する. 写本からテクストを「作る」作業は,決して,受動的な作業ではありえません. 百人百様です.(それは,われわれの知覚作用が単に受動的ではないのとパラレルです.) 文意の正体が「閃き」(プラティバー)であるとの説がありますが,なるほどなと思わせます.
  1. 2006/09/14(木) 23:38:27|
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ディグナーガの「有相唯識論」

苧阪直行「意識の科学は可能か」(苧阪直行編『意識の科学は可能か』新曜社2002年)の53-54頁,注2の「ディグナーガの有相唯識論」に関するノートは,ディグナーガの立場について簡潔にまとめていますが,よく読むと幾つか疑問が残ります. 53頁「ディグナーガの有相唯識論では、われわれの経験はすべて意識であるとされる。われわれは外界の環境を直接認識することはできず、たとえば光の波動(電磁波)は外界に存在するがわれわれはそれを色として知覚することができるだけであるとされる。」 1.外界の実在を認める経量部説 ここでは,外界の実在を認めているので,外界を認めずただ認識の中に表象が展開するとする唯識説ではなく,外界の形象と似た形象が認識の中に投げ込まれるとする経量部説が記述されているようです.「ディグナーガの有相唯識論」というよりは,経量部の立場から描き出された有形象認識論と呼ぶべきものです. 苧阪論文53頁「この立場から、眼耳鼻舌身意の六識と色声香味触法の六つの対象領域を説明し、さらに六識に自己意識として末那識を加え、この七識の成立の根拠として阿頼耶識を説く。」 2.ディグナーガは阿頼耶識を説かない ここでは,ディグナーガが六識の上に,さらに,末那識と阿頼耶識を説いたと記述されています.しかし,ディグナーガは六識より以上のものを説かないようです. Cf. 服部正明・上山春平『仏教の思想4 認識と超越<唯識>』 107頁「ディグナーガやダルマキールティは唯識説の立場における認識の構造を吟味して、精緻な理論を構成したが、経験的認識の超越の問題にはほとんど触れていない。」 191頁「服部 ディグナーガ=ダルマキールティの系統の、アーラヤ識を説かない唯識はソリプシズムになる傾向をもっています。」 193頁「上山 そうすると認識論的色彩が強くなるわけですね。 服部 ディグナーガもダルマキールティもアーラヤ識やその転換を説かないのです。」 苧阪論文54頁 「阿頼耶識縁起説は極度に観念的であるが一種の階層的なダイナミックスを記述しており、その点、本章で述べる意識の階層モデルやワーキングメモリのはたらきと類似している。とくに、アウェアネスとしての五識やリカーシブな意識としての末那識や意識のはたらきについてはこれが言えそうである。とにかくディグナーガは、意識がどのようにactiveに世界を生み出すのかについて壮大な観念的体系を作り上げており、意識の科学にとって大いに参考になる。」 3.壮大な観念的体系? ディグナーガが末那識や阿頼耶識を説いていないことを考慮すると,ディグナーガが著者の言うような「壮大な観念的体系を作り上げ」たのかどうかは疑わしくなるでしょう.
  1. 2006/09/09(土) 16:49:39|
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唯識における内臓知覚?

以下の文章では,「触覚」を「嗅覚」に訂正すべきでしょう.「嗅覚」を忘れて「触覚」を先に挙げてしまったがために,結果として,眼・耳・鼻・舌・身の五識の最後の「触覚」に相当するものとして「内臓知覚」なる変なものが作り出されたと思われます. 「無意識の探索から意識を探る」山中康裕(苧阪直行編『意識の科学は可能か』新曜社2002年) 204頁「唯識仏教では、意識の総体は八識あるといわれます。そのうち五官にかかわる五識は、感覚機能です。視覚、聴覚、触覚、味覚、そして内臓知覚が入るわけですから、身体覚といった方がいいでしょうか。」 ついでですが,同著36頁(苧阪直行「意識の科学は可能か」) 「中央実行系的なのワーキングメモリのはたらき」 の「なの」は誤植でしょうか.「中央実行系的なワーキングメモリのはたらき」あたりに訂正すべきではないでしょうか.もともと「XのY」と書いていたのを「X的なY」と訂正した際に,消すべき「の」が残って「X的なのY」となったのかもしれません. なお苧阪論文(53頁,注2)は「ディグナーガの有相唯識」(実際には経量部的な有形象認識説を含む)について簡潔な紹介を行なっていますが,いかなる参考文献に基づいているのでしょうか.参考文献には特にあがってないようです.
  1. 2006/09/09(土) 11:57:57|
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ヘンな雲


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  1. 2006/09/07(木) 22:40:25|
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アーランバーライ城砦前の海岸


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漁師. ひと仕事おえて,ひっかけた帰りらしく,かなりご機嫌の人もいました.
  1. 2006/09/07(木) 22:31:44|
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アーランバーライの城砦跡


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  1. 2006/09/07(木) 22:23:24|
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Alambarai Fort


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More photos of the Alambarai Fort are available in the PHOTO gallerly of 九州インド哲学.
  1. 2006/09/07(木) 22:18:31|
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アーランバーライ城砦跡より


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南インドはタミルナード州,カダパッカン・クッパンKadapakkam Kuppamにある城砦の跡. 海側の城砦壁が崩れ落ちたもの. すぐ隣ではTsunami Reconstruction Relief Housing Projectが進行中. ぎっしりと小さな家が建設中でした. 津波のあと,近辺のボート数は相当に増えました. アーランバーライ城砦の写真は, http://www.lit.kyushu-u.ac.jp/~kkataoka/Pondichery2006/index.html に含まれています(シリーズの結部にあります).
  1. 2006/09/07(木) 22:12:43|
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BAU 4.5.13

Brhadaranyakopanisad 4.5.13 sa yathA saindhavaghano 'nantaro 'bAhyaH kRtsno rasaghana evaivaM vA are 'yam AtmAnantaro 'bAhyaH kRtsnaH prajJAnaghana evaitebhyo bhUtebhyaH samutthAya tAny evAnuvinaZyati na pretya saMjJAstIty are bravImIti hovAcha yAjJavalkyaH//4.5.13// anuvinaZyatiについてオリベル教授はdisappears afterと訳し,宮元教授は「滅ぼす」と訳される.vinaZyatiはアプテによればto be destroyed, disappearなどであり,「消滅する」の意味である.「滅ぼす」の場合は通常はvinAZayatiという使役形を用いる.「アートマンが滅びていいの?」という誤解をマイトレーイーに与える文脈からも「消滅する」がフィットし,「滅ぼす」はそぐわない. Patrick Olivelle tr. (Oxford World's Classics, Upanisads, p. 71) It is like this. As a mass of salt has no distinctive core and surface; the whole thing is a single mass of flavour---so indeed, my dear, this self has no distinctive core and surface; the whole thing is a single mass of cognition. It arises out of and together with these beings and disappears after them--so I say, after death there is no awareness.' After Yajnavalkya said this, 宮元啓一訳(『インドの夢 インドの愛』215頁) あたかも、塩の塊が,内となく外となく、全一の味の塊にほかならないように、ああ、まことにそのように、このアートマンは、内となく外となく、全一の智慧の塊にほかならない。〔人は、〕これら〔身心を構成する〕要素から立ち出でて、その後、まさにそれらを滅ぼすのである。死後に想念はないと、ああ,わたくしはいうのである」と、ヤージュニャヴァルキヤはいった。
  1. 2006/09/02(土) 20:04:47|
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