Pratibhanusarini --- 九州インド哲学ブログ2

On Indian Philosophy and Buddhist Studies

サンスクリット文献の分類と学習

内容はさておき,文体や特徴的な語彙からサンスクリット文献を眺めると,どのように分類できるのでしょうか? 言い換えれば,どのようなジャンルの文献群を読みこなせば,全体として,多様なサンスクリット文献を読みこなせる力がつくのでしょうか? 詩(カーヴィヤ,美文)が好きで,詩ばかりを読んできた人は,難解な哲学書(論書,シャーストラ)を見て吐き気を催すかもしれません. 「ドライな議論にはうんざり」というわけです. サンスクリット文献内でも,単なる論理学・認識論は,しばしば"su.ska-tarka(ドライな思弁)と揶揄されます. いっぽう,哲学書ばかりを読んできた人は,詩を読んで,その豊富な語彙に圧倒されるでしょう. 便利なインド土着のサンスクリット語彙辞典(あるいはシソーラス)である『アマラの辞書』には,韻律に当てはめるのに便利な,多くの同義語が並んでいます. 一義に一語を与える厳密さを好む科学者ならば,同義語の林立にはうんざりするかもしれません. そういえば,論証因がリンガと呼ばれたり,サーダナと呼ばれたり,ヘートゥと呼ばれたりと,いろいろに呼ばれるのにたいして,「統一すべきだ」と仏教論理学研究者が口にされたのを思い出します. (美辞麗句・音遊び・多彩な韻律・ジョークなど,多様な語彙に富んだ哲学書『論理の花房』を読んだら何と仰るでしょうか!) また,哲学を好む人は,「考えること」「思考」を至高の楽しみとします.詩の語彙の多様さを前に,重い辞書を引く作業に倦んでしまうかもしれません. (もちろん,倦むことnirvedaこそ,インド哲学者の唯一の目標である解脱に向かう契機なわけですが!) また,その昔,サンスクリットを始めて数年後,論書や若干の文学は読んだことがあったものの,はじめて儀礼文献を読んだときには,さっぱりでした.(同様に周囲の人もさっぱりの様子でした.) ストーリーの流れる物語や,高尚な思弁ではなく,具体的な祭祀行為を記述し,道具を記述し,すでに周知の「あれ」や「これ」といった祭式行為に言及するのですから,慣れない読者にはちんぷんかんぷんなわけです. (もちろん,儀礼実践者のマニュアルですから,そもそも,慣れない読者を相手に書かれてないのですが.) ヴェーダ儀礼のほか,タントラの儀礼文献もこれにあたります. もちろん,儀礼文献ばかりを読んできた人は,逆に,修辞とファンタジーに富んだ「ぶっとんだ」詩を読めば「意味不明!」に陥るかもしれません. また,儀礼マニアは,具体を離れて抽象に遊ぶ哲学書には,「ついていけない」と言うかもしれません. ************ 以上,読み手の得意・不得意の幅から言うと,少なくとも,(古典)サンスクリット文献の分類に,三つの極を措定できそうです. (ヴェーダは置いておき,儀礼はタントラを典型としておきます.もちろん,タントラ文献の内容は,儀礼行為に限られるわけではありませんが.) 1.詩(カーヴィヤ) 2.論書(シャーストラ) 3.儀礼(タントラ) この三角形の極の間に,様々な文献ジャンルを配置できるでしょう.「高度に詩的」など,ベクトル量をつけくわえれば,その位置が定まるでしょう. 神話・古譚(プラーナ)などは,簡単な詩,そこそこの儀礼,それに,低度の論書(神学)といった位置づけでしょうか. 新論理学(ナヴィヤ・ニヤーヤ)などは,詩も儀礼もゼロ,高度に突出した論書でしょう. 詩論(アランカーラ)は,当然,詩と論書の間.若干,論書が勝つでしょうか. また,このグラフで言えば,美学・哲学・儀礼の大家アビナヴァグプタの偉大さが分かります. ************* サンスクリット文献を幅広く読みこなすための訓練としては,これら三つのジャンルについて,バランスよく読む必要があるでしょう. 不得手・未理解は,すぐに,無理解,そして安易な非難につながりますから. 仏教でも,顕教しか知らない人が,簡単に密教を切り捨てるように. 「無知の正当化」は世界共通のようです.
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  1. 2006/11/26(日) 12:40:21|
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インド人名の片仮名表記

インド人名の片仮名表記は,厄介な問題です. そもそも,ヒンディー語などの表記に用いられるデーヴァナーガリー文字で「ちゃんと」,つまり,現地の発音に沿って(あるいは一部沿わないで)書かれているものが,ローマ字表記,つまり,英語表記にする段階で,英語の発音法に沿ったり沿わなかったりしながら,いろんな表記法が存在しますから.(インド系文字→英語表記) たとえばCandraだったり,Chandraだったり. Cakravartiだったり,Chakravartyだったり,あるいは,また別の形Chakrabortiだったりかもしれません. あるいはSastriだったり,Shastriだったり,あるいは,Shastryかもしれません. 「インド系文字→ローマ字」 段階での問題の先に, 「インド系文字→ローマ字→片仮名表記」 の問題があります. インド系文字や現地での発音に遡って原語を予想すれば問題は少ないのですが. ともあれ,情報というのは,末端に行くと,変になるものです. 片仮名表記する際,よくある間違いがあります. パラササラティ*1 もとの英語表記はParthasarathy.インド系文字での長音(Paarthasaarathi)も区別するなら,「パールタサーラティ」あたりに落ち着くでしょう. ta  タ(無気音) tha タ(帯気音) というわけで,英語からの連想で「サ」とするのは間違い. インドにtoothのthにあたる[θ]音はありません. ちなみに,Paartha-saarathiは,プリターすなわちクンティー夫人の息子であるパールタすなわちアルジュナ,その御者(サーラティ)であるクリシュナを特に指します. ガナパシー*2 これは,英語でGanapathyと書かれていたもの.本来はGa.napati(ガナパティ;.nはnに下点で反舌音)ですが,英語表記で,インド系文字ならtiとなるところを,英語ではthyにするのもよくあるようです.末尾のiをyにするのも上と同じです. Ga.napati(ガナパティ)→Ganapathy→ガナパシー という次第です.ちなみに,ガナ・パティは,ガナすなわち軍勢・集団のパティすなわち主,とくに,シヴァやガネーシャを指します. スリーニヴァサン*3 英語表記はSrinivasan. (タミル文字はさておき)デーヴァナーガリー(のローマ字転写)なら"Sriinivaasanでしょうから,「シュリーニヴァーサン」あるいは「シュリニヴァサン」くらいでしょう.人によっては,誤解を避けるためでしょうか,Shrinivasanとつづることもよくあります. ともあれ,厄介なものです. 例の出典 *1『脳のなかの幽霊,ふたたび』V.S.ラマチャンドラン著,山下篤子訳(角川書店),p. 170 *2 同上 *3 同上 ちなみに,この訳書,原題はThe emerging mindですが,前作のPhantoms in the brain(脳のなかの幽霊)が有名なので,「続編」みたいなタイトルにしたのでしょう.
  1. 2006/11/25(土) 13:50:06|
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クシェーメーンドラのカラーヴィラーサ:貪欲篇2.1

Ksemendra's Kalavilasa, 2.1和訳: lobhaH sadA vicintyo 貪欲には常に気を付けよ lubdhebhyaH sarvato bhayaM dRSTam 貪欲な輩は全く危険と知られている kAryAkAryavicAro すべきかすべきでないかの検討は lobhavisaMjJasya nAsty eva 貪欲に我を失った者には決してないのだ 基づいたサンスクリット原典(英訳付き)は以下のものです. Three Satires by Bhallata, Kshemendra & Nilakantha. Edited & translated by Somadeva Vasudeva New York University Press JJC Foundation, 2005.
  1. 2006/11/15(水) 17:47:04|
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Correction of Jinendrabuddhi's Pramanasamuccayatika

p. 22, l. 1 na *parasparavirodhi lakSaNaM lakSaNakAraiH *praNIyeta. *parasparavirodhi lakSaNaM] corr. (space inbetween) ; parasparavirodhilakSaNaM ed. *praNIyeta] corr. ; praNIyet ed. p. 22, l. 5 na kaZcid *vipralabhyeta. *vipralabhyeta] corr. ; vipralabhyet ed.
  1. 2006/11/12(日) 13:09:49|
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プラマーナの周知と自律的真:ジネーンドラブッディ作『集量論註』の解釈

ディグナーガは,自註において,仏陀への帰敬頌を自ら説明した後,いよいよ本題に入ります.「またこれ(正しい認識の手段)について,多くの者が理解を異にする[から]」(bahavaZ cAtra vipratipannAH)というのが本文です. これにたいして,ジネーンドラブッディは註釈を開始します. まずジネーンドラブッディは,いかなる前主張をディグナーガが念頭に置いていたのかを考えたはずです. 当然それは,この主張を裏返したものになるはずです. すなわち,「正しい認識の手段について多くの者が見解を異にしていない(=意見は一致する)」という主張です. このような主張を念頭において,次のようにジネーンドラブッディは前主張を導入します. atra kecid AhuH --- svata eva siddhAni pramANAnIti. 「ここで或る者達は言う.正しい認識の手段は自ら成立している,と.」 本テクストの校訂者(達)は,svata eva siddhAni pramANAniというフレーズに脚注を付し,Cee SV codanaa 47abとします.校訂者自身の定義(Introduction liii)によれば,Ceeとは,citatum ex alio modo edendiです.さらに英語でその内容が説明されています.citation from another (text) marked as such by the author with redactional changes. すなわち,若干の改変等を施した引用というわけです. この定義に照らせば,svata eva siddhAni pramANAniというのは,クマーリラからの,若干の変更を伴った引用であると,校訂者は理解していることになります. クマーリラの原文とは以下の詩節です. svataH sarvapramANAnAM prAmANyam iti gamyatAm/ 「自ら,全てのプラマーナは,正しい,と,理解すべきである」 ここでクマーリラが述べているのは,「認識は自ら正しい」という《認識の自律的真》の立場です.すなわち,或る認識が生じたとき,それは,付加的な原因を待つまでもなく真という性格を有しており,対象を自ずから確定する働きをもち,また,その真を証明するのに,わざわざ他の認識を持ち出す必要はないということです. サンスクリットで表現すれば,svataH prAmANyaM siddhamということです.つまり「自ら,プラマーナ性(正しさ)は,成立している」,いいかえれば,正しい認識(プラマーナ)のその正しさというプラマーナ性が「自ら成立している」という意味です. いっぽう,問題であるジネーンドラブッディの本文は,どのようになっているでしょうか. svata eva siddhAni pramANAni 「自ら,のみ,成立している,プラマーナは」 ここで「自ら成立している」とされているのは,「プラマーナ」それ自体であって,「プラマーナ性」すなわち「プラマーナの持つ正しさ」ではありません. クマーリラ:正しさは自ら成立 ジネーンドラ:プラマーナは自ら成立 では,ジネーンドラブッディの言う「プラマーナが自ら成立」とは,具体的には,どのような意味なのでしょうか. それを説明するのが次の本文です. tanmatAnusAriNaZ cApare ZlokaM paThanti --- prasiddhAni pramANAni vyavahAraZ ca tatkRtaH/ pramANalakSaNasyoktau jJAyate na prayojanam// iti. 「また,彼らの見解に従う他の者達は[次の]詩節を読んでいる. 正しい認識の手段は周知であり,日常活動はそれに基づいている. 正しい認識の手段の定義を[わざわざ]述べる目的は知られない.(無意味である.)と.」 まず注意すべきは,最初の「或る者達A」(校訂者達はクマーリラに同定していた)にたいして,「他の者達B」は,あくまでも,「或る者達Aの見解に従う」と限定されていることです. すなわち,A→Bという年代順を,ジネーンドラブッディは措定しているのです.「A=クマーリラ」という校訂者達の同定にしたがうならば,「B=クマーリラに従う者達」ということになるはずです.しかし,そのように考えることに無理があることについては,ここではひとまず置いておきます. まず,詩節の内容です. 「また,彼らの見解に従う他の者達は詩節を読んでいる」と導入しているのですから,最初の本文svata eva siddhAni pramANAniと同じ内容を述べているはずです.すなわち,「同じ内容を,弟子筋のものは,次のようにシュローカにしている」というのが,最も自然な解釈です. そして,ここで上の「プラマーナは自ら成立」の意味が明確になります. それは,prasiddhAni pramANAni,すなわち,「プラマーナは周知である」という意味なのです.だからこそ,その定義を述べることは無意味なのです.皆が分かりきって意見が一致しているものを,わざわざ議論する必要はないからです. 「正しい認識の手段の定義を[わざわざ]述べる目的は知られない」という後半は,その意図を明確にしています. そして,これこそ,ディグナーガの本文である「これ(プラマーナ)について,多くの者が見解を異にしている」にたいして,ジネーンドラブッディが前主張を考えた,その意図なのです.すなわち,プラマーナについて「意見の不一致はない」「周知である」というのが,前主張なのです. 前主張:プラマーナは周知・自明 定説:プラマーナについて意見の不一致 もし,校訂者の解釈したように,svata eva siddhAni pramANAniを,クマーリラの「プラマーナのプラマーナ性は自ら成立している」という意味で解釈したならば,どうなるでしょうか.ここでの文脈とは無関係となってしまいます. 以上をまとめてみましょう. 校訂者の解釈 1.svata eva siddhAni pramANAniはクマーリラからの引用(一部改変)である. 2.1の引用句は「認識の自律的真」を述べている. この解釈の帰結するところは,次のようなものです. 1.校訂者の言うように,svata eva siddhAni pramANAniが認識の自律的真を述べているならば,「プラマーナは自明・周知であるから意見の一致を見ている」というジネーンドラブッディ本文の文脈に沿わない. 2.続くシュローカは明らかに「プラマーナは周知であり,わざわざ定義する必要はない」と述べている.したがって,svata eva siddhAni pramANAniも同じ内容を述べているはずである.校訂者の解釈によれば,自律的真のあとに,プラマーナの周知が述べられていることになり,前後の一貫性がなくなる. 3.「A=クマーリラ」とするならば,「B=クマーリラ以後のミーマーンサー学者」となるはずである. 問題は,svata eva siddhAni pramANAniの解釈です.これを,校訂者のように,「プラマーナは自ら成立している」=「プラマーナ性は自ら成立している」と解釈すべきなのか,あるいは,筆者のように,「プラマーナは自ら成立している」(すなわち自明・周知である)と文字通りに読むべきなのか,いずれでしょうか. その答えはジネーンドラブッディ自身により与えられています. 数行後で,ディグナーガの定説の立場から,ジネーンドラブッディは次のように述べています. yadi hi pramANam idam iti niZcayalakSaNA siddhiH svataH pramANasya syAt, na *parasparavirodhi lakSaNaM lakSaNakAraiH *praNIyeta. *praNIyeta corr. ; praNIyet ed. 「というのも,もし,『プラマーナとはこれだ』という確定知を特徴とする成立(確立)が自ら,プラマーナに関してあるならば,互いに矛盾する定義を,定義作者達が著すことはないはずだからである.」 まず,校訂テクストのpraNIyetは,praNIyetaに訂正すべきです. 注目すべきは,svata eva siddhAni pramANAniの字句を,ジネーンドラブッディ自身が丁寧に解説している文章となっていることです. まず,「プラマーナが自ら成立している(siddhAni)」の「成立」(siddhi)とは,ジネーンドラブッディによれば,「確定」(niZcaya)と置き換えられます.niZcayalakSaNA siddhiHとあるのがそれです.すなわち,siddhi=niZcayaなのです. 1.siddhi=niZcaya さらに,「プラマーナが自ら確定される」とは,具体的には,どういうことでしょうか.ジネーンドラブッディは,「確定(知)」の内容を説明してpramANam idam itiと述べます. それは「これがプラマーナだ」「プラマーナとはこういうものだ」という決定的な理解のことです. つまるところ,svata eva siddhAni pramANAniは,ジネーンドラブッディ自身により,次のように言い換えられていることになります.「これがプラマーナだ」というプラマーナの確定は自ら生じる,と. つまり,プラマーナがそこにあれば誰にでも「ああ,プラマーナとはこういうものだ」という確定理解が,他(誰かの定義づけなど)を待つことなしに,自然と成立する,ということなのです.つまり「プラマーナが何であるかは自明」なのです. もし,プラマーナが自明のものであったならば,誰も見解を異にしないはずです.だから,「互いに矛盾する定義を,定義作者達が著すことはないはずだ」とジネーンドラブッディは,後半部を続けているのです. また,上の内容を更に説明して,ジネーンドラブッディは続けて次のように言います. pramANotpattAv eva pramANasvarUpasiddher ekAkAram eva lakSaNapraNayanaM syAt. 「プラマーナが生じただけで,プラマーナの自体が成立しているので,全く一様の定義付けがあるはずである.」 もし前主張者の言うように,プラマーナが「自ら成立」し,自明・世間周知であったならば,目の前にあるだけで誰の目にもその自体は明らかな訳ですから,定義は必ず一致するはずです.しかし,現実には,様々な定義が入り乱れ,論者は意見を異にしているのです. さらに,vipratipannaの第二解釈を示しながら,ジネーンドラブッディは数行後で,次のように述べます. yadi tu siddhAny eva sarveSAM pramANAni syuH na kaZcid *vipralabhyeta. *vipralabhyeta corr. ; vipralabhyet ed. 「いっぽうもし,全ての人にとりプラマーナが必ず確立しているものであるならば,誰も欺かれることはないはずである.」 まず,校訂テクストのvipralabhyetは,vipralabhyetaに訂正すべきです. ここでもジネーンドラブッディは,siddhaの意味を明らかにしながら,「全ての人にとりプラマーナが確立している」と述べます.意味するところが,「本当のプラマーナがいかなるものか,全ての人にとり自明・周知であるならば」であるのは明らかでしょう. 以上をまとめると次のようになります. 1.ジネーンドラブッディは,svata eva siddhAni pramANAni(ただ自らプラマーナは成立している)について,「プラマーナは周知である」(prasiddhAni pramANAni)と同内容と捉える. 2.「プラマーナが自ら成立している」における「成立」(siddhi)とは「確定」(niZcaya)のことであり,つまり,「プラマーナについては自ずから確定が生じる」という意味である.つまり「自明」である. 3.同じ意味で,「プラマーナが生じただけで,[それがどのようなものであるか]プラマーナの自体が確立するので」(pramANotpattAv eva pramANasvarUpasiddheH)も解釈できる. 4.「プラマーナが周知である」ならば,前主張者の言うように「プラマーナに関して意見の相違はないはずである」が,現実には意見の相違がある.したがって,前提である「プラマーナは周知である」=「プラマーナは自ら成立している」は誤りである. 5.したがって,他派の見解を退けて,自派の正しい定義づけを行なう意義があることになる.すなわち,プラマーナについて『集量論』で論じる意味があることになる. 以上,svata eva siddhAni pramANiの解釈について述べてきました.それは,自律的真を述べるクマーリラからのCee「引用(一部改変)」ではありえません.つまり,校訂者の脚注は,Ceeの定義に照らして,正当なものではないのです. 関連先行記事 http://blogs.dion.ne.jp/sanskrit/archives/4462613.html
  1. 2006/11/12(日) 12:12:36|
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Pieninyの川下り:ボートにカヌー


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気持ちよさげなカヌー.
  1. 2006/11/06(月) 20:20:19|
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ピエニィニの川下りの船頭コンビ


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我々の乗った船頭コンビ. 若いお喋り(←商売だから当然)お兄さんと,ベテランの寡黙なおじさん.

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艫(とも)を守るおじ様のアップ. なぜかかっこよくポーズにカメラ目線.
  1. 2006/11/06(月) 20:03:49|
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ピエニィニの川下りの写真屋


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球磨川であれ,ピエニィニの川であれ,はたまた,遊園地のジェットコースターであれ,頼みもしていないのに記念フォトを「撮ってさしあげる」のは世界共通. 球磨川は「料金先払い,後日郵送」ですが,ポーランドは仕事が早い. 川下り終了,ゴール到着時には,できあがっていました. というわけで,好きな人は,その場で購入することに. ポーランドですから,それほど高いわけでもないのですが.

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ポーランド人客:「いつできるの?」 船頭さん:「着いたら出来上がってるから」 振り返るハンガリー人:「裸のおっさんのほうがフォトジェニックだよなー」

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  1. 2006/11/06(月) 19:52:42|
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ムジャシフレ(Murzasichle)の山荘にてサンスクリット合宿


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マウォポルスカ県ザコパネ近郊,タトラ山のムジャシフレ(Murzasichle)の山荘. 10人強では,さすがにロッジ貸切とはいかず,他の団体と一緒でした. というわけで,若干さわがしくもあり,食堂での勉強会には,少々の不便. とはいえ,天気の思わしくない日は,食堂を借りての読書会.

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天気がよければ,庭にて読書会.

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写真は山荘からタトラ山を望むところ.
  1. 2006/11/05(日) 23:58:23|
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グヴァウフカ山からザコパネを見下ろす


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ケーブルカーがあるのですが,健脚揃い(?)のサンスクリット研究者は,それには頼らず徒歩にて登頂を目指します. かなりの急斜面ですが,おかげで,絶景. 向こう側の斜面に見えるのがザコパネのスキージャンプ台です.
  1. 2006/11/05(日) 21:17:49|
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モルスキェ・オコ(Morskie Oko)にてSanskrit読書会


DSCN0143.jpgPHOTO BY D. GOODALL
ポーランドはタトラ山脈,ザコパネの奥深くを行く一団. 夏ですが,向こうには雪も見えます. まさか「登山」をするとは知らず,普通の靴です. 「ちょっとそこまで,読書会にいい場所あるから」と聞いて出発したのですが.

DSCN0148.jpgPHOTO BY D. GOODALL
山頂のモルスキェ・オコの湖畔でも,やはり,サンスクリット読書会. しかし,相も変わらず蚊の来襲.
  1. 2006/11/05(日) 20:44:57|
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ザコパネのスキージャンプ台:ここでもサンスクリット読書会


DSCN0086.jpg PHOTO BY D. GOODALL
ザコパネのスキージャンプ台. ここの観客席(左側)でもサンスクリット読書会でした.

Anja 163.jpgPHOTO BY A. MOHRDIEK
各自,観客席の隙間からプリントとペンを遥か下の地上に落とさぬよう,おそるおそる席取りしています.
  1. 2006/11/05(日) 20:34:44|
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ザコパネの山中を彷徨うサンスクリット集団


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タトラ山脈のザコパネ. スキージャンプで有名です. しかし,ここに集うのはスキーヤーばかりではありません. 山中をうろつくハンガリー人,ポーランド人,イギリス人,日本人,ドイツ人からなる集団.

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サンスクリット読書会に適した場所を求めて彷徨っているのでした. 落ち着いた場所は,しかし,蚊のひどい来襲です.
  1. 2006/11/05(日) 20:23:16|
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ピエニィニ国立公園ドナイェツの川下り


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人吉の球磨川下りも情緒に富んでいますが,写真は,ポーランド,ピエニィニ国立公園(Pieniny National Park),ドナイェツDunajec Riverの川下りです. 国境ですので,対岸はスロバキアです.

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写真は,ポーランド語でギャグをかます船頭さん. (厳密にはギャグをかました後の反応を確かめ,若干のご満悦に浸ってるらしい表情)
  1. 2006/11/05(日) 20:05:52|
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英文記事紹介:着け毛産業の犠牲となるインドの子供達

記事"Trade in hair forces India's children to pay the price" http://observer.guardian.co.uk/world/story/0,,1805328,00.html ティルパティの山上,ティルマラのヴェンカテーシュヴァラ寺院詣でに際して,男性のみならず女性も髪を剃って捧げるのは有名な話です. 南インドで真新しくツルってる人を見ると,たいがい「ティルパティ帰り」と分かります. そして,その髪が欧米に輸出され,ティルマラの黄金寺院(主神はヴェンカテーシュヴァラ,バーラージー)の経済を潤しているとの話も有名です. しかし,インドの毛髪輸出の元となる髪の毛は,寺院に捧げられたものばかりではないとの記事です.
  1. 2006/11/05(日) 18:45:29|
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Correction of Jinendrabuddhi's Pramanasamuccayatika

ジネーンドラブッディは,「認識手段(プラマーナ)に関して多くの異論がある」というディグナーガの言明に注釈するにあたり,そのディグナーガの言明が排除する見解を先ず提示する.すなわち,認識手段は周知のものであり,分かりきったものであり,いまさら議論する余地のないものであるという見解である.言い換えれば,「認識手段に関して異論はない」という立場である. このような立場の紹介にあたるのが次のジネーンドラブッディの文句である. Pramanasamuccayatika p. 21, l. 10 atra kecid AhuH --- *svata eva siddhAni pramANAnIti. 「これに関して或る者達は述べている.正しい認識の手段は,[論証するまでもなく]ただ自ずから成立している,と.」 「ただ自ずから成立している」(svata eva siddhAni)というのは,ジネーンドラブッディが次に引用する詩節から判明するように「周知である」(prasiddhAni)という意味である.引用詩節は,その含意するところを「正しい認識の手段の定義的特質を述べる目的が分からない」と明確にする.つまり,認識手段については皆すでによく知っているのだから,それについてあらためて議論する意味はないというのである. 上のsvata eva siddhAni pramANAniの箇所に,校訂者(達)は次のようなノートを付している. *Cee SV codana 47ab (cf. TS 2811ab; PVT 95a5) これは,ジネーンドラブッディがクマーリラの著作Slokavarttika の「教令章」の第47詩節の前半部を改変の上,引用したものであるとの注記である.(Cee=citatum ex alio modo edendi, citation from another (text) marked as such by the author with redactional changes) 件のクマーリラの半詩節は次のようなものである. svataH sarvapramANAnAM prAmANyam iti gamyatAm/ 語順もそのままに直訳すると「自ら,全ての正しい認識は,正しい,と,理解すべきである」となる.クマーリラの言わんとすることは,正しい認識というのは,他から証明されるまでもなく,あるいは,付加的な要因を俟つことなく,それ自体で自律的に「自ら」(svataH)正しいということである.他律的真理論にたいする自律的真理論を宣言した文章である.認識の正しさは,他を俟つまでもなく「自ら」成立するとの説である. 校訂者達は,ジネーンドラブッディが「或る者達」(kecit)の言として紹介する「正しい認識の手段はただ自ずから成立している」を,クマーリラの「真理の自ら」説に比定しようとしているのである.これは正しいのであろうか. すでに筆者が整理したように,ジネーンドラブッディの主眼は,正しい認識手段(プラマーナ)が「自ずから成立している」(svata eva siddhAni)すなわち「周知である」(prasiddhAni)から「議論は無用である」という点にある.いっぽうクマーリラの言明の主眼は「正しい認識(プラマーナ)の正しさ(プラマーナ性)は自律的である(svataH)」という点にある. J:プラマーナは周知である(議論の用なし) K:プラマーナのプラマーナ性は自律的である 同じく「自ずから」(svataH)という語を用いてはいるが,文脈は全く異なるのである.いっぽうは「議論するまでもなく周知である」という意味で「自ずから成立している」のであり,他方は「正しさは他を俟つまでもなく自ずから成立している」という意味で「自ずから」なのである.したがって,校訂者達のこの注記は「無関係」(asaMbaddha)であり的外れなものである.削除すべきであろう. Conclusion: The editors' note ``b'' on p. 21 ("Cee SV codana 47ab") is irrelevant and to be removed.
  1. 2006/11/03(金) 14:30:44|
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