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Pratibhanusarini --- 九州インド哲学ブログ2

On Indian Philosophy and Buddhist Studies

欲求と行為

D. Davidson: "Actions, Reasons, and Causes"
"What is less obvious, at least until we attend to it, is that the event whose occurrence makes `I turned on the light' true cannot be called the object, however intentional, of `I wanted to turn on the light'. (Essays on Actions and Events, p. 6)
インド風に言うと,或る為された行為(kriyA)は特定の個物(vyakti)であり,例えば特定の或る時に為されたものであるのにたいして,欲求(icchA)の対象は普遍(sAmAnya)であるので,両者は同一ではないとのことです. 例えば〈明かりをつけた〉というのは特定の時間に行なわれた特定の行為ですが,人は,その特定の行為を欲求していたわけではありません. 欲していたのは〈明かりをつける〉一般であって,個物ではないといえます.
"Any one of an indefinitely large number of actions would satisfy the want and can be considered equally eligible as its object." (p. 6)
欲求対象は,仏教的に言えば,認識対象ですから,ディグナーガやダルマキールティにとっては当然,共通相(他からの排除)になるはずです.というわけで,行為されたものと欲求対象とが異なるのは彼らにとっては自明のことです. ミーマーンサカ(バッタ派)なら,当然,〈望まれた目的を達成する手段であること〉という普遍こそが,人を発動させるものであると言うでしょう. ニヤーヤなどにおいても,欲求対象というのは,〈望まれた目的を達成する手段であること〉に限定された個物ということになるでしょう. 欲求というのは,過去の経験があってはじめて可能ですから,当然,個物とズレがあるはずです.(一部のナイヤーイカなら,ここに,パラーマルシャの議論を持ち出すでしょう.) ともあれ,インドにおいても,「欲求対象が普遍である」という議論は明確に意識された話題とはいえないでしょう.
However, `I want that gold watch in the window' is not a primary reason and explains why I went into the store only because it suggests a primary reason---for example, that I wanted to buy the watch. (p. 6)
しかし例えば「私はあの(特定の)時計が欲しかったから店にはいったのだ」という場合,欲求対象は個物となってしまいます.この場合も,デイヴィッドソンは,あくまでも,「あの時計を"買うこと"を欲求したのだ」という理由を示唆することで理由になると考えています. インド人はこの答に満足したでしょうか?
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  1. 2007/07/08(日) 10:54:17|
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