Pratibhanusarini --- 九州インド哲学ブログ2

On Indian Philosophy and Buddhist Studies

九州大学仏教青年会 百周年記念行事


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九州大学仏教青年会 百周年記念行事 百年祭「慈のこころ,百年」 1. 基調講演~脳と生命~ 講演者:茂木健一郎(脳科学者) 2. オーケストラ演奏 演奏:九州大学フィルハーモニーオーケストラ 3. パネルトーク~心と向き合う~ 科学と宗教から学ぶ生きるヒント パネリスト: 戸崎宏正(九州大学名誉教授 印度哲学) 牛島定信(東京女子大学教授 精神医学) 茂木健一郎(ソニーコンピュータサイエンス研究所シニアリサーチャー 脳科学) コーディネーター: 藤野武彦(九州大学名誉教授 健康科学) 日時:2007年10月20日(土) 開場12:30 開演13:30 会場:九州大学医学部百年講堂(九州大学医学部キャンパス内) 入場料:一般2,000円(2,500円) 学生1,000円(1,500円)*()は当日券料金 定員:600名 お問い合わせ 九州大学仏教青年会 百年祭事務局 〒813-0044 福岡市東区千早1-5-13 E-mail: 100yearsfesta@gmail.com Tel: 080-3957-5088
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  1. 2007/08/27(月) 20:24:38|
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レッティ蝋燭店 Kerzengeschaeft Retti


Vienna2007 344.jpg Hans Holleinのレッティ蝋燭店.

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  1. 2007/08/22(水) 23:46:23|
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ロースハウスとカフェグリーンシュタイドル


Vienna2007 355.jpg 王宮前の無装飾の「不敬」なロースハウス.

Vienna2007 360.jpg こちらは隣のカフェ,グリーンシュタイドル.
  1. 2007/08/22(水) 23:38:16|
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ユリウス・マインル


Vienna2007 336.jpg ワインの品揃えも豊富なユリウス・マインル.その前にある同名のカフェ.

Vienna2007 194.jpg デパートの入口にはアイス屋.

Vienna2007 195.jpg 最大6個盛りで4.5ユーロ.160円とすると720円です.
  1. 2007/08/22(水) 19:28:30|
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ヴィーナーヴァルト・ショッテンケラー


Vienna2007 233.jpg 研究者もよく泊まるベネディクトハウスのあるショッテンキルヒェの隣のケラー.
  1. 2007/08/22(水) 19:19:51|
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同じ高さから見たシュテファン大聖堂


Vienna2007 315.jpg よく見ると,柱に1685(年)の文字.

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Vienna2007 322.jpg 聖堂を見上げる観光客.

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  1. 2007/08/22(水) 19:08:22|
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ショッテントアー近くのパン屋


Vienna2007 250.jpg 昔の城砦の址の残るメルカー. こちらは,どこにでもあるDer Mannのパン屋.

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Vienna2007 238.jpg メルカーと言えば,お約束のメルカーのStiftskeller,その入口.
  1. 2007/08/22(水) 19:01:43|
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サルム・ブロイ


Vienna2007 131.jpg ベルヴェデーレ下宮の出口を出てすぐ右手にある地ビール居酒屋のサルムブロイ. 観光客と地元の地ビールファンで常に満杯です.

Vienna2007 132.jpg 伝統的なオーストリア,ウィーン料理が食べられます. メインはなんといっても,この店で作っているビールです.
関連記事 http://blogs.dion.ne.jp/sanskrit/archives/5428740.html
  1. 2007/08/22(水) 18:54:48|
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シュタットホイリガー


Vienna2007 100.jpg ケルントナーに面するシュテフェルの裏手.

Vienna2007 106.jpg シュテフェルの前に伸びる瀟洒な石畳をいくとシュタットホイリガーがあります. 並びのイタリアンもいつもにぎわっています. しかし,シュニッツェルにビールばかりを何年も飲むと痛風になります.
  1. 2007/08/22(水) 18:49:09|
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ウィーンのアカデミー


Vienna2007 532.jpg 引越しをしたウィーンのアカデミー,アジア文化思想史研究所の所長はシュタインケルナー教授からクラッサー博士にかわりました. また,同じフロアにはイラン学,文化人類学も同居. 廊下を占める雑誌群は,イラン学のもの.
  1. 2007/08/22(水) 18:39:49|
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ウィーン大学・南アジア研究科


Vienna2007 471.jpg インド学研究科の廊下には,インドの街頭の写真が飾られています. そして,その奥には,歴代の教授の写真が.

Vienna2007 477.jpg いわずとしれたE.フラウワルナー教授(1898-1974). 在任は1955-1964.

Vienna2007 481.jpg こちらは,G. ビューラー教授(1837-1898). 在任は1880-1898.
  1. 2007/08/22(水) 18:32:31|
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ウィーン大学・インド学研究所の図書館


Vienna2007 462.jpg インド学専門の図書館員がいるので,きっちりと分類されており,実に使い勝手のよい図書館です. フラウワルナーの蔵書もこちらに収められています. 近々,仏教学の図書館の蔵書も,こちら側に統合するとのこと. ミーマーンサーやヴェーダーンタのあった棚がすっかりきれいに片づけられ,新規移動図書のためにスペースが空けられていました. コピー機,マイクロリーダーも完備してあり,実に便利です.
  1. 2007/08/22(水) 18:24:46|
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ウィーン大学のインド学研究所


Vienna2007 276.jpg 逆がインド学研究所です.

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Vienna2007 448.jpg 裏に抜けると,東アジアの研究科があります. ヤパノロもこちら側にあります. 写真の新しい建物は中国学.
  1. 2007/08/22(水) 18:12:27|
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ウィーン大学のチベット学研究所


Vienna2007 275.jpg 緑豊かなキャンパスにはいって,右にコンビニを見ながら道を抜けると,右手が,チベトロギーのインスティトゥートです.

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  1. 2007/08/22(水) 18:11:27|
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ウィーン大学近くの菜食料理屋


Vienna2007 285.jpg イエガの並びにあります. こちらはベジタリアン.
  1. 2007/08/22(水) 18:08:17|
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イエガ


Vienna2007 429.jpg 旧AKH,ウィーン大学のメイン・キャンパス. 駅を降りて,構内にはいる門の向かいにあるのがIEGA. 韓国人経営のレストランです.
  1. 2007/08/22(水) 18:05:52|
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オーストリア科学アカデミー アジア文化・思想史研究所の引越し


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ウィーンのアカデミーが引越しました. プリンツ・オイゲン・シュトラッセです. 以前はシュヴァルツェンベルク・プラッツから左に折れて,ベルヴェデーレの左側を通るトラムに乗っていました. 現在は,右に折れるほう,つまり,ベルヴェデーレの右側を通って,南駅ズュードバンホフに行くトラムD番にのって,シュヴァルツエンベルクの次の駅で降ります.

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こちらが,新しい研究所の入るビル. 研究所は(日本語で言うところの)2階です. Dのトラムが通っているのが見えます. 道を渡るとスイス大使館があります.

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トラムD番の駅を降りると,目の前は,ウィーンにおけるブルースの殿堂「ルイジアナ・ブルース・パブ」です.
  1. 2007/08/22(水) 18:00:10|
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『理趣経』サンスクリット写本について

真言宗の読誦聖典として,毎日,全国の真言寺院で用いられている『理趣経』. 原題はAdhyardhasatika-prajna-paramita『百五十頌般若経』です. そのサンスクリット原典の貴重な写本が,苫米地等流博士により確認されたとのこと. 写本は,その奥書によれば,紀元後1077年頃のものと報告されています. ハンブルク大学の密教学センター(Center for Tantric Studies)のウェブに苫米地博士による講演記事が掲載されています. 苫米地等流博士は,現在,オーストリア科学アカデミー・アジア文化思想史研究所(OeAW, IKGA)所属の研究員. 報告によると,写本は現在,中国チベット自治区に存在するもの. そのコピーが中国蔵学研究中心,CTRC (China Tibetology Research Center)に保管されているものです. 真言宗で用いられているのは不空訳. 五種の漢訳があります. また諸版のチベット訳が存在します. そのほか,Leumannが1912年に校訂したサンスクリット語・コータン語のバイリンガル写本(St.ペテルスブルクとオックスフォードに分蔵)があります. 以上が,これまでの『理趣経』研究のメイン資料だったものです. 今回,苫米地博士の確認したサンスクリット写本は,Leumannのものよりも遥かに完全なものとのことです.(残念ながら一葉欠損!) また,これまでに見られないマントラ(真言)も含まれているそうです. 今回確認されたサンスクリット・テクストは,諸訳の中でもチベット訳と不空訳によく対応するとのこと. いずれ,研究所で進行中のプロジェクトである「西蔵自治区梵文文本系列叢書」(Sanskrit Texts from the Tibetan Autonomous Region)から校訂出版予定とのことです. 長い歴史を持つ『理趣経』研究も,ほぼ完全なサンスクリット原典を手に入れたことで,全く新たな局面に入ることが期待されます. ********後記********* ウィーンのアカデミーを訪ね,苫米地博士の話を直接に伺ってきました. 新たに確認されていく数多くのサンスクリット古写本群. 仏教文献学の重要性は,ますます高まりつつあります. 逆に言えば,何が出てくるか分からないという状況の中にいるのです. 論文を書く身としては「こわくて,おいそれと研究できない」ような状況ともいえます. これまでチベット語でしか残っていなかったようなテクストが,サンスクリットで読める(かもしれない)時代なのです. 梵蔵漢を駆使し,世界的な業績を残すという方向性は,日本において意識的に「印哲」の戦略として方向付けられてきたといえます. 宇井の業績しかり,そして,荻原雲来や山口益といった偉大な先人達です. 日本のインド学・仏教学は,たしかにドイツ,フランスから古典文献学を輸入しました. しかし,村上専精や宇井伯寿を見ても分かるように,伝統教学の強い流れがあったことを見落とすことはできません.(Cf. 末木文美士「日本における近代仏教学の展開と問題点」) 単純にインド学・仏教学を「輸入の学問」と見ることはできないのです. 様々な方向性が可能であったなかで,いままで,有効なディシプリンとして自然淘汰された結果,日本での近代的な「インド学・仏教学」開始から100年を経て,「実証的な文献学」が主流を占めつつあります.(「自分の身に引き受けた主体的な仏教学」という方向性も散見されましたが,それらは大学というシステムの中で決して「伝統」を形作ってきませんでした.) その重要性は,今後も変わることはないでしょう.(Cf. 後藤敏文「インド学の未来像」) 梵蔵漢をマスターして,文献を読みこなすこと. その基本的な印哲のディシプリンは,今後も変わるべきではないのです.
  1. 2007/08/18(土) 23:18:06|
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新刊紹介:ダルマキールティ著『量決択』第1章,第2章のサンスクリット原典


Vienna2007 314.jpg Dharmakirti's Pramanaviniscaya. Chapters 1 and 2. Critically edited by Ernst Steinkellner. China Tibetology Publishing House Austrian Academy of Sciences Press
E. シュタインケルナー教授によるダルマキールティ著『プラマーナ・ヴィニシュチャヤ』第一章(知覚pratyaksa)・第二章(自己のための推論svarthanumana)のサンスクリット校訂本が出版されました.
  1. 2007/08/18(土) 23:04:01|
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新刊紹介:ヴァンサン・エルチンガー(Vincent Eltschinger)氏の博士論文出版:『聖典権威考』


Vienna2007 311.jpg Vincent Eltschinger 2007 Penser l'autorite des Ecritures. La polemique de Dharmakirti contre la notion brahmanique orthodoxe d'un Veda sans auteur. Autour de Pramanavarttika I.213--268 et Svavrtti. Wien: Verlag der Osterreichischen Akademie der Wissenschaften.
  1. 2007/08/18(土) 23:01:13|
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インド論理学は演繹推理か帰納推理か?

桂紹隆著『インド人の論理学』(中公新書1442)中央公論社,1998年.
「著者は,インド人の思考法の基本が観察から法則を導き出す帰納法にあり,そこにギリシャのアリストテレスが創造した演繹法的論理学との違いがあると考える.」(まえがき,v頁)
桂[1998]は,特に一章を設け,第五章において「インド人の思惟方法──帰納法」と題し,「インド論理学の特徴は「帰納推理」にあり,アリストテレスの公理主義的な「演繹推理」が主流をなす西洋論理学とはおのずから性格を異にするからである」(p. 220)という見方を明らかにしています. 整理すると インド人の論理学は 1.演繹推理か 2.帰納推理か という二者択一の問となります.その答は「インド論理学における推理・論証は....既知の領域において確立された法則を未知の領域に適用するという点で,まさに「帰納的」である」(p. 252)というものです. そして「ダルマキールティは...そこにディグナーガの場合と同様に,具体的な実例が挙げられることが,注意されなければならない.論証式の形式は変化しても,実例に依存する帰納推理の性格は変化していないのである」(p. 303)とダルマキールティを性格づけています. 谷澤淳三(2007/2/20急逝)は「論証の学としてのインド論理学──帰納法と演繹法──」(*遺稿)において,桂[1998]の見方を批判しています.すなわち,インドの哲学者達の論証が「前提が真ならば結論も必ず真である」という演繹論証であることを示すとともに,関連する様々な事柄について,問題を整理し有益な視点を提供してくれています. *谷澤淳三「論証の学としてのインド論理学――帰納法と演繹法――」人文科学論集<人間情報学科編>41号,信州大学人文学部,2007, 233--252. ************ 筆者(=片岡)の見るところ,ひとつの問題は, 「インド論理学は」 という大きな主語にあります.紀元後2世紀前後のナーガールジュナ,そしてチャラカサンヒターやニヤーヤバーシャ,アサンガ,ヴァスバンドゥ,ディグナーガ,ウッディヨータカラを中心対象として,インドの論理学の初期からはじめて考察を進めていく桂[1998]と,初期はさておき,定式化・定型化された以降の論証式を扱うのとでは,「インド論理学」の見方に大きな違いがでてくるでしょう. 「インド論理学」なるものを,ひとまず歴史的に限定する必要がありそうです.「チャラカサンヒターの前提とする論理学は」「ディグナーガの論理学は」「ダルマキールティの論理学は」や「ナヴィヤニヤーヤの論理学は」などなどです. すなわち,問は, 3.或る時代のXの論理学は,  3.1 演繹推理である  3.2 帰納推理である という形にひとまず直す必要があるでしょう.結果として,  3.3 帰納的な性格を一部残しつつも,演繹推理を意図している という折衷的な結論もありうるでしょう.(例えば桂[1998:304]:「ダルマキールティの論証を「演繹推理」であると速断するのは誤りである.敢えて演繹推理という性格を読みこむとすれば,それはここまで強調してきた随伴と排除にもとづく帰納推理に連結されたものとして理解されねばならない.」) 桂の挙げるチャラカサンヒターのように,まだプリミティブな論証式を示す段階では,「壺などのように」「語もまたそうである」という単純な類比推理が行なわれているという点で確かに帰納的です. しかし,「遍充」という概念が確立し,前提が正しければ結論も必ず正しいという意識が確立して以降ではどうでしょうか? 桂[1998]は演繹論証について次のように述べています.
演繹的論証は,「すべての前提が真であれば,結論は真でなければならない」が,「結論のなかにある情報あるいは事実的な内容のすべては,すでに前提に暗々裡に含まれている」という特徴がある.演繹的論証は万人を納得させるものであるが,そこには新しい発見は何もないのではないかという疑問が当然生じる.
ダルマキールティの註釈者であるカルナカゴーミンは,次のように述べています.
これに答える.たとえ論証対象と論証手段との間の遍充関係が,全てを含んで理解済みであるとしても,遍充関係の把握だけからでは,「論証されるべきこの基体(この山)に,今,論証されるべき属性(火)がある」と,特殊に確定することは生じてこない.それは推論に基づいて可能なのである.(『量評釈自註への注記』PVSVT 9.25--27):
カルナカゴーミンの発する問は,要するに,「煙のあるところには必ず火がある」という遍充関係を知った時点で「(いま問題となっている山の煙と火も含めて)全てを含んで理解済み」なのだから,推論によって新たに発見する情報は何もないのではないかという問であります.それにたいして,「いまここに火がある」という情報は新しいと答えるものです. 鍵となる「全てを含んで」という考えは既にダルマキールティに見られるものです. このような問が発せられること自体,前提の中に結論が既に含まれているのではという意識がなければ,また,論証が演繹的でなければ,ありえないことです. このような問いの必要性において,アリストテレスの意識との大きな違いは見られません.(アリストテレスの問題意識については,例えば水田英実『分析論後書注解』におけるトマス・アクィナスの知識論(3),『比較論理学研究』第4号,2006を参照) ************ 歴史的に帰納的な性格をもって始まったこと,その残滓が実例への固執となって残ること,前提が真ならば結論も100%真であるという演繹論証へと(帰納と演繹の区別に無自覚のまま)向かっていくこと. いずれにせよ,歴史的な視点,思想史の観点というものを抜きにして語るならば,何について論じているのか,ぼやけてしまうでしょう. 或る人は紀元後数世紀の初期のインド論理学をも視野に納め「インド論理学」に通底する意識を読み取る,また或る人は現代まで続く新論理学(ナヴィヤニヤーヤ)を念頭において「インド論理学」について総括する. インド論理学に限らず,「インドは」「インド人は」というような「大きな主語」には注意する必要があります.(もっとも,そのような大所高所からの議論のほうが情熱的で面白いのですが.) 「インド人の論理学」について敢えて一言にまとめるならば, 3’.或る面では帰納的であるし,或る面では演繹的である となるでしょう.(多面主義のジャイナ教徒は大喜びかもしれません.) インド人の論理学の帰納的性格を強調する桂[1998]ですが,上で見たダルマキールティについての桂[1998:304]のコメントは,逆にいえば,そのような二面性を期せずして指摘したものとも捉えられます. ************* マティラル(Bimal Krishna Matilal,1935-1991)や中村元(1912-1999),そしてハルプファス(Wilhelm Halbfass, 1940-2000)亡き後,インド学において「インドの思想」を現代の文脈で捉えなおそうという意欲は減退したかに見えます.いまだ新たに発見されつつあるサンスクリット資料,その量的拡大は,ますます地道な文献研究の重要性を押し上げつつあります. たとえば本邦においても,ヴェーダ学の井狩彌介氏はヴァードゥーラ派の写本研究に向かい,仏教論理学を始め仏教教理に広く通じる桂紹隆氏も最近はジネーンドラブッディの『集量論注記』の写本研究に取り組んでいます.インド学・インド哲学・インド仏教学の現状において,地道な文献研究を抜きに「まともな」研究は成り立たないと言っていいでしょう. しかし,インド哲学文献の中に同じ人間のこころの働きを読み取り,それを現代的文脈において捉えなおし,その意義を問う情熱は,学問の発展・継承にとって不可欠の要素です.クールな文献学の技術とともに,インドを捉えようという熱いこころをもって文献に臨むという両面作戦が(いままでも多くの人が強調してきたように)肝要です. サンスクリット文法学に通じ,サンスクリット文献を正確に読む技術を十分に備えながら,西洋哲学との対話を内的に可能にしていた谷澤淳三氏のようなユニークな知性を失ったのは,本邦のインド学・インド哲学・比較思想にとって非常に不幸なことです.
  1. 2007/08/04(土) 13:02:52|
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