Pratibhanusarini --- 九州インド哲学ブログ2

On Indian Philosophy and Buddhist Studies

parataHprAmANyavAdinAm api svataH prAmANyam

and then, if everything runs on harmoniously, we are so sure that verification is possible that we omit it, and are usually justified by all that happens. Truth lives, in fact, for the most part on a credit system. Our thoughts and beliefs 'pass,' so long as nothing challenges them, just as bank-notes pass so long as nobody refuses them. (William James: Pragmatism)
arthakriyAsamarthatvaとは,これを弱く受け取るならば,avisaMvAditva,つまり,何らの妨げもないこと(abAdhana)となるでしょう. ジェームズは,verifiabilityをverificationとします. これは,言ってみれば,saMvAdyatvaをもってsaMvAditvaとしていることになります. verificationの視座は「他から真が知られる」という他律論ですが,それを可能態において捉え,その省略を認めるならば,「問題が無ければOK」という「真の自律」論へと一気に転じます. 結果として,クマーリラの「自ら真」の狙いと一致することになります. インド思想史でも,本来,「他から真」の立場に立つべき人までも,日常の大部分の認識が「自ら真」であるのを認めるようになります. 多くの場合,いちいち検証・験証しているわけではないという現実を説明するには,「他から真」を厳密に受け取ると大変窮屈になってしまいます. ただしジェームズはこの後に,
But this all points to direct face-to-face verifications somewhere, without which the fabric of truth collapses like a financial system with no cash-basis whatever.
と言っていますから,あくまでも「真の他律」論者です.その意味では,反復状態に到達した認識について,検証済みの認識との類似性に基づいてその正しさを推論するヴァーチャスパティに近いことになります. ただし,ジェームズが言う「可能的な検証過程」は自動化されていて,ヴァーチャスパティの言うような「推論」というほどに大げさな意識的なものでありません.
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  1. 2008/02/24(日) 18:37:10|
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satyam

'What would be better for us to believe'! This sounds very like a definition of truth. It comes very near to saying 'what we OUGHT to believe': (W. James: Pragmatism)
サンスクリット化すると次のようなことでしょうか. yad yasmin śraddadhānasya śreyas, tat satyaM śraddheyaM ca. 更に置き換えると, dharmaH śraddadhānasya śreyaskaraH とでもなるでしょうか.
  1. 2008/02/24(日) 11:42:19|
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prāmāņya=arthakriyāsamarthatva=instrumentality!

...true INSTRUMENTALLY. This is the 'instrumental' view of truth ... the view that truth in our ideas means their power to 'work,'...(William James: Pragmatism)
ジョン・ダンさんのprāmāņya=instrumentalityという(一部に不評な)訳語も,こうした考えを背景としたものでしょう. しかし,prāmāņyaを何と定義するか,各学派で違うのですから,この方針に従うと,当然,各学派で訳語を変えねばならないことになります.仏教論理学一本でやるなら別ですが. また,解釈を入れるので,当然,prāmāņya=pramāņatva (=pramātva)という原語の意味からは離れてしまいます. また,インド哲学においては,通常,prāmāņya=pramātvaであるとされるのにたいして,instrumentalityはpramākaraņatvaを連想させてしまうのも問題です.(もちろん,仏教論理学においては,phalaとkaraņaを区別しないのですが,最初から無区別に扱っては,議論すること自体,成立しなくなってしまいます.) やはり訳語としては原語に沿うのが「効果的」でしょう. ダルマキールティ自身,プラマーナを指すのに「正しい認識」samyagjñānaともいっています. とすれば,プラマーナの持つプラマーナ性とは,訳語レベルでは,ひとまず「正しい認識が持つ正しさ」となります. その先は各学派の解釈次第でしょう.
  1. 2008/02/24(日) 10:31:59|
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gandhavat

What the system pretends to be is a picture of the great universe of God. What it is--and oh so flagrantly!--is the revelation of how intensely odd the personal flavor of some fellow creature is. (William James: Pragmatism)
和訳(岩波文庫)では,「なにがしという人間の体臭」と訳しています. ヴァイシェーシカに侵された頭からすると,gandhavatīとくると,pŗthivīと思わず答えそうですが...
  1. 2008/02/24(日) 09:31:07|
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梵蔵漢対照密教写本ジョブ

http://www.verwaltung.uni-hamburg.de/stellenangebote/wissmit/aai_08-02-19.pdf
  1. 2008/02/21(木) 20:14:25|
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「南インドの神学と寺院」講演会(インド哲学史研究室主催)のご案内


Dominic.jpg
::::::グッドール教授講演会::::: [「南インドの神学と寺院」講演会(インド哲学史研究室主催)のご案内]の続きを読む
  1. 2008/02/19(火) 12:17:37|
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Japanese plum at Yūsen-tei park, Fukuoka


友泉亭 009.jpg
For Yusentei, see http://www.azd-g.co.jp/shitei-kanri/yusentei/index.html
  1. 2008/02/17(日) 15:15:21|
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Kaya-no-ya


Kayanoya 053.jpg In this hermitage you can find neither Śakuntalā nor virakta ŗşis, but only bubhukşu gourmands of "natural" foods.

Kayanoya 065.jpg It is located at N33°40'33.15", E130°31'18.93".

Kayanoya 053.jpg Radish cake of ten kinds of cereals with a thick scallop sauce.

Kayanoya 021.jpg 1. Black bean tofu 2. Yacon 3. Japanese parsley and Shiitake mushroom marinated in drained tofu 4. Scallop marinated with basil 5. Black pork simmered in tomato sauce
  1. 2008/02/12(火) 18:59:23|
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New evidence for the interpretation of Ganeśā


小倉 011.jpg The hyphenation strongly suggests that the author has in mind Gane-śā and not Gaņa-īśa! Gane-śā must be a goddess who teaches (śāsti) at the place called Gana (Gane in the locative case)! Alternatively, it might be a goddess who rests (śete) upon the place called Gana (Gane)!
  1. 2008/02/12(火) 18:41:43|
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A new goddess


小倉 003.jpg Ganeśā must be some kind of unknown goddess!
  1. 2008/02/12(火) 18:41:00|
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ジャイナ教におけるアヒンサー(非暴力・不殺生)──(4)

ヴェーダ伝統においては,祭式・賓客・祖霊祭などの多くの機因から生じるヒンサーをダルマ的と見なし,確立した同意が与えられてきた.それへの批判を,サーンキヤ,仏教,ジャイナ伝統は,一様に為した.しかし後代になるとこの批判における主要部は,仏教徒とジャイナ教徒のものとなっている. ジャイナ文献にあるアヒンサーの思弁においては,上記の批判の深い跡と反応もある.随所にジャイナ文献において,ヴェーダのヒンサーへの批判が見られる. 同時に,ヴェーダの側は,ジャイナにたいして次のような疑問を提示する.すなわち,もしダルマ的なヒンサーをも為すべきでないなら,汝ジャイナ教徒が,自派を組織するにあたって,寺院建立,神供養など,ダルマ的な諸義務が入ってくるのを,アヒンサー実行者として,どうして為すことができようか,などというものである.この問の要約もジャイナ文献のアヒンサーに関する思弁の中に詳しく得られる. 不注意──心の罪こそが主としてヒンサーであり,またその罪の中から生じてくるのが,命を失わせるヒンサーである.このような考察は,ジャイナと仏教の伝統において一様に認められている.しかしながら,我々が見るところ,古い時代より,ジャイナと仏教の伝統の間には,アヒンサーに関して,相互の議論の応酬が多く生じてきた. 『スートラクリタアンガ』のような古いアーガマにおいても,アヒンサーに関して仏教徒の認める所への批判がある.同様に,『中阿含』のような経典においても,ジャイナが認めるアヒンサーを嘲笑するような批判が得られる. 後に続くニルユクティなどのジャイナ教の著作において,また『アビダルマコーシャ』など仏教徒の著作においても,その古い論争が新しい形で見出せる.ジャイナと仏教という二つの伝統がヴェーダのヒンサーを一様に批判しているならば,また,両者のアヒンサーに関する解釈に何らの本質的な見解の相違もないならば,古くより両者の間に相互の議論の応酬がどうして始まり,続いてきたのか──これは一つの疑問である. これへの答は,我々が,両伝統の文献を注意深く読むときに得られる.論争の多くの原因の中でも主因となっているのは次のことである.ジャイナ伝統は,九条件のアヒンサーの微細な解釈を,純粋に受け入れるので,外的な行動を特に抑制した.それを仏教伝統は為さなかった.生活に関わる外的な行動を過度に抑制することと,中道の有り様との強い違いの中から,仏教とジャイナ伝統は,相互に,議論の応酬を行なうようになった. この論争の中でも,ジャイナ文献のアヒンサーに関する思弁における特殊な部分,その一例が,『ジュニャーナビンドゥ』注に与えられているジャイナと仏教の引用から知ることができる.我々が両伝統の議論の応酬を中立的な立場から見るならば,躊躇なく言わざるを得ないのは,多くの点で両者は,お互いを歪んだ形で理解しているということである.この一例が『中阿含』の「ウパーリ経』,また別の例が『スートラクリタアンガ』(1.1.2.24--32; 2.6.26--28)にある. ジャイナの聖者の集団が広がるにつれて,また,様々な場所と時代における新しい環境が故に,新しい問が生じてくるにつれて,ジャイナの学者は,アヒンサーの解釈と分析の中から,一つの明瞭な新しい考察を打ち出した.それは次のようなものである. もし不注意なき心で命を傷つけること──ヒンサー──が生じる,あるいは,それを為さざるを得ないなら,それは単に,アヒンサー的,それゆえに,無罪であるのみならず,徳(不老)を増大させもする. この考察に沿うと,聖者が完全にアヒンサーを受け入れた後でも,もし抑制された生活の増大のために,様々な種類のヒンサーを本質とすると理解される行動を為すならば,それは,抑制発展の中で,一歩前に進んでいる.これが,ジャイナ用語に沿うと,「確定のアヒンサー」である. 放棄者が,完全に衣などをつけることに反対していて,限定的な形で衣などの手段を身につける聖者を,ヒンサーの名の下に呪ったが,衣などを正当化する放棄者は,それに,「確定の定説」を拠り所として,答えた.すなわち,単に抑制を維持していくために,体と同様に,一定の手段などを身につけることはアヒンサーを妨げるものではない,と. ジャイナの聖者の手段の,このような相互の行動の違いに基づく議論によっても,アヒンサーの思弁において,多くの発展が見られる.それは,『オーガニルユクティ』などに明らかである. しばしばアヒンサーの議論はドライな思弁に映る.とある人が尋ねる.もし衣を身につけるなら,切れ端でなく,まるごとどうして着ないのか.というのも,それを断ち切る際に,微細な原子が飛び散り,それは生命体を傷つけるものと必ずなるだろう. この問への答も,同じようなやり方で与えられる.回答者が言う.もし衣を断つことで妨げられるので文句を言うならば,その事自体も生命体を邪魔しないことがどうしてあろうか,云々と. 閑話休題. ともあれ,我々はジナバドラガニの明瞭な言葉に,ジャイナ伝統が認めるアヒンサーの完全なる本質を見出す.ジナバドラガニが言うには,場所が生命体を伴っているにせよ,伴っていないにせよ,そこである生命体が傷つける者となるにせよ,あるいはまたある者が傷つけない者として見られるにせよ,これだけではヒンサーあるいはアヒンサーの決定は生じ得ない. ヒンサーとは真に不注意──不努力──無抑制の中にこそある.たとえ如何なる生命体をも傷つけないにせよである.このようにもし不注意なきことや努力──抑制──をよく守るならば,生命体を傷つけることが見られたにしても,実際には,アヒンサーである. 上に述べた分析からアヒンサーに関するジャイナの思弁について,次の順位が結果する. 1.生命の破壊がヒンサーであるので,それを止めることこそアヒンサーである. 2.生活維持の問題の中から結果するのは,生活──特に抑制生活──のために避けがたいと理解されている行動を為し続ける際にもし生命体を傷つけることが生じたにせよ,もし不注意がないならば,そのような生命体の傷つけは,ヒンサーではなくアヒンサーである. 3.もし完全な形でアヒンサー実行者であり続けるならば,現実には,そして,先ず最初に,心の中の煩悩(不注意)をこそ捨てる必要がある.これが生じればアヒンサーは成就した.アヒンサーは,外的行動と何らの特定的関係をもたない.それが特定的関係を持つのは,心の働きとである. 4.個人や集団の生活においては,このようなものも,例外の場を占める.その場合,ヒンサーは単にアヒンサーのみでなく,むしろ徳を増大させるものともなる.このような例外的なケースにおいて,もし言われるようなヒンサーを恐れて,それを行動の中に取り入れないなら,逆に罪となる. 上では,ヒンサー・アヒンサーに関する考察を簡潔に述べた.その十全なる議論全体は,ウパーディヤーヤジーにある.それゆえ彼は,「文意考察」に付随して,ジャイナが認める,特に,聖者の生活に認められるアヒンサーを取り出して,原則・例外の議論を行なった.ウパーディヤーヤジーは,ジャイナ論書において見出される例外を提示し,明瞭に述べている. これら例外は,一見すると,一体どうしてアヒンサーに矛盾しないことがあろうか.しかしながら,その価値は,原則的なアヒンサーと等しいのだと.例外が多く述べられている.また場所・時に従って新たな例外も作られうる.しかしながら,全ての例外の本質は,主として,二つの原理に尽きる.そのうちの一つとは,「意に通じた者であること」すなわち,教理に通じていることに関するものであり,他方は,「ヨーガを為した者であること」すなわち平等心あるいは確立した智慧を持つ者であることに関するものである. ウパーディヤーヤジーが述べたジャイナのアヒンサーの原則・例外のこの議論は,一言一句に至るまで,ミーマーンサーやスムリティのアヒンサーに関する原則・例外の考察方法に見出される.違いはと言えば,ジャイナの考察方法は,聖者や完全なる放棄者の生活をターゲットとして確立されたものであるのに対して,ミーマーンサー学者やスマールタの考察方法は,家長・放棄者という万人の生活を中心にすえて行なわれたものであるということである.両者を比較すると次のようになる. 1. ジャイナ:すべての生命を殺すなかれ ヴェーダ:一切生類を殺すなかれ 2. ジャイナ:聖者の生活の必要性の問 ヴェーダ:四住期のあらゆる種類の有資格者の生活の,また,それに関する義務が行なえないことへの問い 3. ジャイナ:教示書に規定された行動においてヒンサーの罪はない,すなわち,禁止された行いだけがヒンサーである. ヴェーダ:教示書に規定された行動においてヒンサーの罪はない,すなわち,禁止された行いだけがヒンサーである. ここで注意すべきは,ジャイナ論者は「教示書」という語で,ジャイナ聖典を,特に,聖者生活の命令・禁止を理解させる教示書を念頭においている.これにたいしてヴェーダ派の論者は,「教示書」という語で,次の全ての教示書を念頭においている.それには個人的,家族的,社会的,宗教的,国政的など全ての義務が規定されている. 4. ジャイナ:最終的には,アヒンサーのポイントはジナの命令に,ジャイナ教典に正しく従うことにある. ヴェーダ:最終的には,アヒンサーの主眼は,ヴェーダとスムリティの命令を守ることにある. ウパーディヤーヤジーは,上記の四つの位相を持つアヒンサーを,四種の文意によって記述して,その総括において,若干を記している.それは,ヴェーダに従うミーマーンサー学者とニヤーヤ学者のアヒンサーを扱う考察方法と同様なジャイナの考察方法の比較にすぎない.あるいは,言うならば,ヴェーダ派の考察方法によって,ジャイナの考察方法の分析が彼によりなされた. ミーマーンサー学者がヴェーダが規定するヒンサーを除いて,ヒンサーに「望ましくない結果を生むこと」を認めるように,ウパーディヤーヤジーは,最終的に,それ自体の形としてのヒンサーを捨てて,単に原因──自我の心の働きとしてのヒンサーに「望ましくない結果を生むこと」という性格を主張したのである. (以上でヒンディー語よりの和訳完結) ``Jain-dharm k\={\i} ahi\d{m}s\=a k\=a svar\=up.'' Sukhl\=alj\={\i} Sa\.nghav\={\i}. Dar\'san aur Cintan. pp.\ 408--418.
  1. 2008/02/11(月) 09:56:25|
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ジャイナ教におけるアヒンサー(非暴力・不殺生)──(3)

アヒンサー(不殺生・非暴力)の本質と展開 ウパーディヤーヤ・ジーは,四種の文意の検討をする際に,『ジュニャーナビンドゥ』において,ジャイナ伝統の唯一のそして最高の定説としてアヒンサーを取り出し,原則・例外の関係を作った.それは,ジャイナ教において古くから行なわれてきた議論である. また,それを根拠づけるにあたって彼は,ニヤーヤ・ミーマーンサーなど他学派に関する自らの深い学識を用いた.それをできるだけ詳しく理解させるために,『ジュニャーナビンドゥ』の注において,詳しい引用集を作り,その上に,アヒンサーに関する歴史的な,また,本質的な意図について明らかにした. アヒンサーの定説は,アーリヤ伝統では非常に古いものである.またそれにたいする敬意は,全てのアーリヤの分派において一様に見られる.しかしながら,人々の生活の広がりとともに,また,様々な宗教伝統の発展とともに,その定説の検討と実践においても,多くの展開が見られるようになった. アヒンサーに関する考察の主なものとして二つの流れが古くからアーリヤ伝統において現れたように思われる. 一つの流れは,主として沙門の生活を基盤として流れはじめた.いっぽう第二の流れは,バラモン伝統──四住期──の生活の検討の上に流れた. アヒンサーの本質的検討においては,以上の二つの流れに何らの見解の相違も見られない.しかし,その実践の側面や生活上の用い方については,上記の二つの流れにおいてだけでなく,各沙門・各バラモン流派の大小の下位分派においても,様々な種類の見解の相違と相互批判が見られるようになった. 本質的な点ではアヒンサーは,万人にとり,一様に尊重されるものであるが,その実践において,また,それに沿った解釈においては,見解の相違と批判が見られるようになった.その主原因は,生活視点の違いである. 沙門伝統の生活視点は,主として,個人的であり精神的であるのにたいして,バラモン伝統の生活視点は主として社会的あるいは大衆的である. 前者において,大衆性が認められるのは,それが精神的なものと矛盾しない限りにおいてである.それに,精神的なものとの矛盾が見られる場合には,第一の視線は,大衆性の側を無視するか,あるいは,それを批判するだろう. これにたいして第二の視点においては,大衆性は,とても幅広く為されるので,精神性と世俗性とは相互に衝突しえない. 沙門伝統のアヒンサーに関する考察の流れの一潮流は,特殊な形で流れていた.それは,時を経て,長い間苦行を行なった尊者マハーヴィーラの人生の上に崇高な形で形を現した.我々はその顕在化を,『アーチャーラアンガ』『スートラクリタアンガ』などの古いジャイナ聖典の中にはっきりと見る. アヒンサーというダルマの確立は,「自己との類比」の視点の中から生じている.しかし上記の聖典には,その記述と分析とが,次のようにある. 1.苦痛と恐怖の原因となるから,ヒンサー一般を回避すべきである.これがアヒンサーの定説の論拠である. 2.ヒンサーの意味が,たとえ,命を終わらせることや苦を与えることであるとしても,ヒンサーから生じる罪の根本は,ただ不注意すなわち欲望・憎悪などである.もし不注意や執着がなければ,単なる命の消滅は,ヒンサーの側に入りえない.これがアヒンサーの分析である. 3.殺される生命体(ジーヴァ)の大きさ,その数,その感官等という所有物の優劣に,ヒンサーの罪の優劣は依存しない.そうではなくヒンサーする側の変化や働きの鋭鈍,故意・非故意や,暴力適用の多少に左右される.これが順位である. 上に述べた三つのことは,尊者マハーヴィーラの考察と行動の中から結果し,アーガマの中に綴られている.或る一個の個人や個々人の集合がどうして非精神的であろうか.しかし人は,制限の多い生活維持についても問を求める. そのとき,その中から,上記の分析と順位が自ずから結果することになる.この視点から見ると言わざるを得ないのは,後代のジャイナ文献では,アヒンサーに関して特殊な思弁が生じるが,その根本は,古いアーガマに最初からあったということである. 全てのジャイナ文献において守られてきたアヒンサーの思弁について我々が視線を向ける時,はっきりと分かるのは,ジャイナ文献のアヒンサーに関する思弁は主として四つの力に依存しているということである. 第一のもの,それは主として聖者の生活のものであり,それゆえ,九条件を満たすアヒンサーについての考察を為す. 第二のもの,それは,バラモン伝統の中で規定されて遵守され確立されたと見なされる祭式などの多くの種類のヒンサーを批判する. 第三のもの,それは,他の沙門伝統の放棄者の生活と比べても,ジャイナ沙門の放棄者の生活が特に抑制されていることに執着する. 第四のもの,それは,ジャイナ伝統の内部派閥において生じてきた相互批判の問の排除についても努力する. 九条件を満たしたアヒンサーを守ることに執着もすること,また,抑制や美徳発展の視点から生計の正当化も為すこと──この矛盾の中からヒンサーの実体・様態などの区別の思弁が結果した. そして最終的に唯一の確定的定説が確立された.すなわち,つまるところ不注意こそがヒンサーである,と. 不注意なき生活実践を見るならば,ヒンサーを本質としていても,それは実際には,ヒンサーを為すものではない.この最終結果に関する限り,白衣派・空衣派など,いかなるジャイナ分派にも,このことについて,少しも見解の相違は無い.全ての派の考察方法,用語,議論は一様である.これを我々は『ジュニャーナビンドゥ』注にある白衣派の詳しい引用から十分に知ることができる.
  1. 2008/02/10(日) 11:10:51|
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ジャイナ教におけるアヒンサー──(2)

ジャイナ伝統は,ヴェーダの権威とともに,ヴェーダが規定するヒンサーの正当性についても,全面的に否定した.しかしジャイナ伝統にとっても,自身の一つの目標があり,その目標の達成のためには,ジャイナ教に従う家長や聖者の生活が必要不可欠であった. このような生活維持の中から,ジャイナ伝統にとっても,アヒンサーの究極的な定説と会通させねばならない多くの問が,しばしば降りかかってきた. ジャイナ伝統は,ヴェーダの代わりに,自らの聖典(アーガマ)を,唯一の権威と認めてきた.そして自らの目標成就の為に立てられ,実践される様々な種類の,家長と聖者の生活に役立つ諸義務の遵守をも為してきた. だからこそ,最終的に,そのためにも彼らが受け入れた諸義務に必然的に生じるヒンサーの正当化をも,ただ聖典(アーガマ)の教令を守るという形で為さざるを得なかった.ジャイナの師は,このような視点から,自らの例外的なヒンサーの道の正当化を行なってきたのである. ハリバドラ師は,四種の文意理解を示すときに,アヒンサー・ヒンサーの原則・例外の関係について,微細な考察を為した.それは,彼の先師達に受け継がれた来た財産である.しかし,その中でも,彼の時代までに発展したミーマーンサーのやり方にも,多かれ少なかれ影響を受けている. このように,一方では,四つの文意理解を口実として,ハリバドラは,『ウパデーシャパダ』において,ミーマーンサーにおいて発展してきた方法をジャイナ的視点から,まとめたのである. 同時に他方でハリバドラは,仏教徒の用語も『十六論』において自らのものとすることに,先ず最初に努めたのである.ダルマキールティの『プラマーナヴァールッティカ』以前にも,仏教伝統においては,考察発展の順序となる三つの位を示すものとして,聞・思・修という三つの用語が,仏教文献において有名であった. 我々の知る限り言うことができるのは,ハリバドラ師こそが,三つの仏教において有名なこの言葉を取り入れて,その解説を,文意理解の様相を比較するのに,最も努力したということである.彼は,『十六論』において,用語を仏教徒から取り入れるが,その解説は,自らの視点に沿って為している. そして,聞を文意理解として,思を大文意理解として,修を趣意理解に還元した. スワーミー・ヴィディヤーナンダは,同じ仏教用語について,『タットヴァアルタ・シュローカヴァールッティカ』において批判した.しかしハリバドラは,同じ用語を自らの仕方でジャイナ文献に取り込んだのである. ウパーディヤーヤ・ジーは,『ジュニャーナビンドゥ』において,ハリバドラが説明した四種の文意理解──その前史は,ニルユクティ以降に,また,古いヴェーダ伝統などにも見られる──について,自らの鋭い論理学の視点から,多くの的を得た解説を行い確立している. すなわち,これら全ての文意理解は,一つの長い「シュルトーヨーガ」であり,それは,知性の行使とは別である.ウパーディヤーヤ・ジーは,『ジュニャーナビンドゥ』において,文意の考察を簡潔に示した. 同じものを彼は,自らの『ウパデーシャ・ラハシヤ』という別の著作において詳しく,しかしながら『ウパデーシャ・パダ』の要約として記述した.それが『ジュニャーナビンドゥ』のサンスクリット注において引用されている.
  1. 2008/02/09(土) 12:26:22|
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ジャイナ教におけるアヒンサー(不殺生・非暴力)──(1)

以下は,スクラールジー・サンガヴィー師の『ダルシャン オール チンタン』(ヒンディー語)からの筆者による試訳です. %%%%%%%%%%% アヒンサーに関するジャイナ教の一般的な規則とは「如何なる生き物をも,如何なる仕方であれ,傷つけるな」というものである.これが「語の意味」である. これについて疑問がある.もし全面的に生き物を傷つけることを避けるべきであるならば,宗教施設の建立や頭の毛を抜くなどの義務で,為すべき事として理解されているものも,為す事ができなくなってしまう.この疑問追求が「文の意味」である. 必ずなすべきことを,もし,聖典規定に基づいてなすならば,その際に生じる生類への傷害は,罪をもたらさないが,規定に基づかないものは罪をもたらす.このような考察が「大文の意味」である. 最終的には,ジナの教令,ただそれだけを受け入れるべきである.このような主眼点を取り出すことが「趣意」である. 以上のように,一切生類の傷害を全面的に禁止する一般的な規則について,聖典規定に基づく例外の余地を与え,原則・例外という形での宗道を固めていく考察の流れが上に示されたが,それをハリバドラ師は世俗的な実例をもって理解させようとしたのである. アヒンサーへの問を彼が最初に立てたのは,それがジャイナ伝統の根本だからである.アヒンサーはアーリヤ伝統全体の一般的なダルマであり続けてきたとはいえ,宗教,遊戯,食事など多くの機因から,様々なヒンサーが為されるが,それにジャイナ伝統は,絶対的に反対してきたのである. この反対が故に,ジャイナにたいして反論者の側からは,様々な問が投げかけられてきた.もしジャイナ教徒が全面的にヒンサーを禁止するならば,ジャイナ教徒は全く生きながらえることができないし,また,宗教的な行いですら為すことができない,と. このような問への答を与えようとして,ハリバドラは,ジャイナが認めるアヒンサーの本質を理解させるために,四種の文意理解の実例という形で,先ず最初に,アヒンサーへの問を取り上げたのである. 第二の問はニルグランタ(空衣)についてである.ジャイナ伝統において,グランタ──衣など──を身につけるか,つけないかについて,派閥の分裂が生じた.ハリバドラにたいして,この問は,特に,空衣派の立場の者から為されたと思われる.ハリバドラは,布施についての問を立てているが,ほとんど現在のテーラーパント派の考察方法にそっくりである.たとえその当時に,テーラーパントや,それに類した他の何らかの明瞭なパントが存在しなかったにせよ,ジャイナ伝統のニブリッティ(行為の停止)を主とする修道からして,その当時でも,布施と矛盾するような各事項を考慮するに至ったのは当然であったし,それに対する答をハリバドラは与えたのである. ジャイナが認める苦行への批判は,仏教伝統が古くから行なってきたものである.それに対する答をハリバドラは与えている.このように,ジャイナ教の生命に相当する定説の本質を,ハリバドラは『ウパデーシャパダ』において四種の文意理解を記述する中で明らかにしたのである.それは,祭式学者達のヒンサー・アヒンサーについての考察(ミーマーンサー)の,ジャイナ的視点からの浄化版である. %%%%%% ``Jain-dharm k\={\i} ahi\d{m}s\=a k\=a svar\=up.'' Sukhl\=alj\={\i} Sa\.nghav\={\i}. Dar\'san aur Cintan. p. 408ff. 著作に関しては http://blogs.dion.ne.jp/sanskrit/archives/4758912.html
  1. 2008/02/08(金) 19:02:46|
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文が先か,語が先か?

西洋でもそうですが,インド哲学でも,語の意味を足していけば文の意味が生まれるという考え方(部分→全体)と,語というのは文から「仮に」抽出されただけで,本当にあるのは文だけだという考え方(全体→部分)と,両方があります. 聖典解釈学ミーマーンサーのバッタ派,その祖であるクマーリラ(ca. 600-650 AD)は,文の意味に関するabhihita-anvaya説と呼ばれて有名なように,文の意味は「各語に直接表示された各意味の連関である」とします.   語  語の意味 文の意味 「白い」→ 白    白             | 「牛が」→ 牛    牛             | 「行く」→ 進行→ 進行 バルトリハリ(ca. 450-510 AD)に代表される文法学派は,本当にあるのは文であって,語や語の意味は後から抽出されたものに過ぎないと主張します. 「ちょうど,花[や栴檀]などの場合に,[混じりあった]単一の香を,[「これは花の香だ」「これは栴檀の香だ」と]分けて考えるのと同じように,文の場合も,[意味を抽出することで,「これが『太郎』という語の意味だ」「これが『牛』という語の意味だ」というように,各語の]意味の区別が為される.」(バルトリハリ VP 2.89) 我々が実際に用いるのは文であって,単独の語ではありません.やはり全体が先にあるというのが実情でしょう.
  1. 2008/02/05(火) 20:42:44|
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Jan Jan

A fine Nepal & Indian restaurant, Jan Jan. The owner-chef is a Japanese who serves sophisticated Indian and other foods in a nice way. The atmosphere of the wooden house (or "hut") is perfect. Reservation is recommended.
JanJan63.jpg Jan Jan Nepal India Restaurant & Cafe 1-1-15-1F Maizuru Chuo-ku Fukuoka City Tel: 092-762-8080 11:30-14:00 18:00-22:00 (L.O. 21:00) Closed on Tuesday See the official homepage: http://janjanjan.web.fc2.com

携帯2 091.jpg Beatifully served Vegetable Salad, 700 Yen (about 4.4 Euros)!

携帯2 094.jpg One of the best Chicken Tikkas in Fukuoka. Very carefully grilled in a Tandoor. 700 Yen (about 4.4 Euros)! Of course your favorite Nan is always available. Plain Nan for 350 Yen (about 2.2 Euros).
Located close to the Tenjin area, Fukuoka center. Just ten minutes' walk from the center to the north-west. A bit west from Oyafuko street. The area is called Maizuru. Go down to the west along the Showa street, and you will find the restaurant on the right. Map The name ``Jan Jan'' has nothing to do with Hindi ``Jan'' (Skt. Jana, i.e. people).
  1. 2008/02/02(土) 12:41:10|
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