Pratibhanusarini --- 九州インド哲学ブログ2

On Indian Philosophy and Buddhist Studies

ジネーンドラブッディにおける意知覚の分類

陳那,法称の仏教論理学では,正しい認識(手段)として知覚と推論の二種を認めます.
知覚 推論
さらに,知覚は,三つに分類されます.1.眼・耳・鼻・舌・身という五つの感覚器官による知覚,2.意官による内的な知覚,3.ヨーガ行者の認識です.
1 五官知 2 意知覚 3 ヨーガ行者の認識
意官による知覚はさらに二分されます. 2.1 五官知の直後に生じる意知覚で,五官知が対象とした対象1の次の刹那の対象2を補助因として生じる意知覚が第一. 対象1  ↓  ↘ 対象2  五官知       ↘  ↓      意知覚 2.2 認識が認識それ自体を捉える自己認識.(「私」という自我を捉える認識ではありません.)これは正しい認識に限らず,すべての認識にあてはまります.すなわち,分別知のようなものにも自己認識はあるので,分別知も,それ自体を対象としては「知覚」と呼べるのです.
1 五官知 2 意知覚   2.1 対象の意知覚   2.2 (すべての認識にある)自己認識 3 ヨーガ行者の認識
陳那の『集量論(含む自注)』への註釈を書いているジネーンドラブッディは,陳那のフレーズartharAgAdisvasaMvittiを(少々強引に)分解して,artha-saMvittiとrAgAdisva-saMvittiと解釈することで,陳那の表現を法称のシステムに沿って理解します. 上で言う2.1がartha-saMvittiすなわち「対象の意識」という意知覚です. いっぽう2.2がrAgAdisva-saMvittiすなわち「欲望等それ自体の意識」すなわち,欲望などに典型的に見られる,すべての認識にある自己認識です.(単に欲望等という感情に限られるわけではありません.) 以上から明らかなように,ジネーンドラブッディは,知覚の三分類を前提としています. 自己認識は意知覚の下位分類として2.2に配属されます. 「意知覚」とは「五官に依拠せず,意官ダケに依拠した知覚」という意味のはずです. 実際には,五官知においても意官は同時に働いています. その意味では,五官知は,五官と意官とに依拠した知覚です. とすると,部分的に「意官による知覚」と呼べそうなものです. が,「意官だけによる知覚」とは呼べないのです. したがって,1の五官知と2の意知覚は「五官に依拠せず,意官ダケ」という基準で区別されることになります.
1 五官知(五官+意官) 2 意知覚(意官だけ)   2.1 対象の意知覚   2.2 (すべての認識にある)自己認識 3 ヨーガ行者の認識
しかし,「意官ダケによる知覚」を意知覚とした場合,2.2の一部の自己認識が問題となります. というのも,五官知の自己認識と,五官知に相応した欲望等の自己認識は,五官も働いている以上,「意官ダケによる知覚」とは呼べそうにないからです.
1 五官知(五官+意官) 2 意知覚(意官だけ)   2.1 対象の意知覚   2.2 (すべての認識にある)自己認識     2.2.1 五官知の自己認識         五官知に相応した欲望等の自己認識     2.2.2 それ以外の認識の自己認識 3 ヨーガ行者の認識
すなわち,自己認識(2.2)は,五官が働いているかどうかという観点から見ると,2.2.1と2.2.2に細分されるのです. たとえば,マンゴーを見る視覚認識の自己認識(あえて言語化するとすると,「私はマンゴーを見ている」という場合の「見ている」に対応する自己認識),および,マンゴーに対する欲望の自己認識(「私はマンゴーが欲しい」という場合の「欲しい」に対応する自己認識)が,それぞれ,五官知の自己認識と,五官知に相応した欲望等の自己認識とにあたります. これにたいして,2.2.2の「それ以外の認識の自己認識」とは,五官に依拠しない認識の自己認識です.たとえば,推論知の自己認識や,想起の自己認識,分別知の自己認識などです.言語的認識も五官には依拠しないので,その自己認識も含まれるでしょう. たとえば,見たことのない天女にたいする欲望の自己認識は,2.2.2の自己認識に分類されるはずです. このように,自己認識にも五官に拠るものと拠らないものとがあるのです. その場合,「意官ダケ」という上の基準があてはまらないことになってしまいます. これにたいしてジネーンドラブッディは,
【答】自己認識という共通性により,同種のものだから. PST 56.7-8: svasaMvittisAmAnyena tajjAtIyatvAt
と簡潔に答えます.何が何と「同種のもの」なのかというと,2.2.1の自己認識が,2.2.2の自己認識と,自己認識という点で「同種のものだから」と言っているわけです.       自己認識性(共通性)        |       |   2.2.1の自己認識   2.2.2の自己認識 つまり,自己認識という点で両者に違いはないので,2.2.2が第一義的に「意官(ダケによる)知覚」と呼べる以上,共通性である自己認識性を介して,2.2.1も第二義的・転義的に「意官(ダケによる)知覚」と呼ぶことに問題はないという解釈です. このように,ジネーンドラブッディの前提とする知覚の分類は三分類であって,以下のように,自己認識を別立てする四分類ではありません.
1 五官知 2 意知覚 3 ヨーガ行者の認識 4 自己認識
したがって,自己認識を2の下位に配属するか,あるいは,4として別立てするかという二つの極の間で,ジネーンドラブッディの立場に「揺れがある」ということは,少なくとも以上の資料からは,言えなさそうです.聯 Cf. 久間泰賢 2008: ジネーンドラブッディにおける「意による知覚」と「自己認識」,『論集』(三重大学人文学部 哲学・思想学系 教育学部 哲学・倫理学教室)13,91-100. 小林久泰 2008: 仏教論理学における知覚の分類再考,『印仏研』56-2, 928-924.
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  1. 2008/04/19(土) 10:10:42|
  2. 未分類

ジャイナ=商人?

「ジャイナ→不殺生→商売」というのは,実に分かりやすい繋がりです.
殺生を禁じられたジャイナ教徒は,カルナータカ州に例外的に知られているわずかな農民を除けば,ほとんどが商業関係の職業に従事し,商才にたけたジャイナ商人はつとに有名である。(『南アジアを知る事典』pp. 326--327)
そういう次第もあり「ジャイナ」と聞けば,神戸のジャイナ商人のように,商人ばかりと思っていました. が,単純に過ぎたようです.
There is a common stereotypical image of the Jainas as a merchant community, which has no doubt been strengthened by most recent Western research on Jainism, concerned almost exclusively with the \'Svet\=ambara Jainas of Gujarat and Rajasthan. In southern India, a very sizeable percentage of the Jainas are agriculturists. The thinly veiled \'Svet\=ambara contempt for agriculturists should be understood as basically a phenomenon of economic class snobbery (which also forms an essential element in the condescending attitude of the \'Svet\=ambaras towards the Digambaras in general), with an obvious amount of hypocrisy involved, and it is not justified by older Jaina texts. (Zydenbos 1999:198)
Zydenbos, Robert J. 1999 ``Jainism As the Religion of Non-violence.'' in Violence Denied. Ed. Jan E.M. Houben and Karel R. Van Kooij. Leiden/Boston/Koln: Brill. 185--210.
  1. 2008/04/12(土) 08:23:40|
  2. 未分類

Kumarila's notion of pauruseyavacana.

I added to the list of my works the following article. Kei KATAOKA "Kumarila's notion of pauruseyavacana." Rivista di studi sudasiatici II (2007), 39-55.
  1. 2008/04/10(木) 20:46:13|
  2. 未分類

Maizuru Koen park --- Ohori Koen park


舞鶴公園 048.jpg Old Maizuru Castle (=Fukuoka Castle) This park, now called Maizuru Koen, used to be the castle of Fukuoka's feudal lord, Kurokawa, which was completed in 1607.

舞鶴公園 061.jpg

舞鶴公園 044.jpg

舞鶴公園 081.jpg
  1. 2008/04/06(日) 17:27:52|
  2. 未分類

第二回宗教研究ネットワーク準備会


宗研ネ003.jpg 宗教研究ネットワーク 第二回準備会 日時:2008年4月1日(火)14:00-17:00 場所:九州大学箱崎文系キャンパス 共同演習室(プレハブ棟) 「愛と平和の宗教史──アウグスティヌスと東方教父たち──」 談話者:谷 隆一郎(九大文学部) 聞き手:關 一敏(九大文学部)
  1. 2008/04/06(日) 17:25:54|
  2. 未分類

cintayann āste


Tokyo 170.jpg
  1. 2008/04/03(木) 07:42:22|
  2. 未分類

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