Pratibhanusarini --- 九州インド哲学ブログ2

On Indian Philosophy and Buddhist Studies

他相続論証

実在論でも,唯識でも,他人の行動が見えることから,見えない〈他人の心〉を推理している点では,まったく同じです.
実在論:(他人の心)←他人の行動 唯識:(他人の心)←他人の行動の〈見え〉
したがって,他人の心はブラックボックスであり,まったく推理できないものである,ともし主張するならば,それは,実在論にも唯識にも当てはまるわけです. 両者は対等なわけです. 実在論でだけ他人の心が証明でき,唯識ではできない,ということにはならないのです. しかし,我々の実感として,違和感があるのは否めません. 相手の笑顔を見れば,相手の上に笑顔が実在すると考え,そして,相手の心の中にある嬉しさを推理するでしょう. 唯識によれば,相手の心が直接に私の心に働きかけ,そう見えさせた,ということになります.
実在論:他人の心⇒笑顔⇒自分に見える 唯識:他人の心⇒自分に見える
論理的に整合性はありますが,なんとも腑に落ちない話です.
20081129.jpg たまたま同じ薫習を持った多数の心相続の相互影響から成り立ったと思われる披露宴の〈現れ〉 披露宴は実在しない あるのは多数の心のみである となるのでしょうか?
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  1. 2008/11/30(日) 09:54:16|
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他人の心は存在するのか?

唯識の立場において,他人の心が存在するということは,どのようにして証明されるのでしょうか. まず,経量部のような実在論において,他人の心がどのように証明されるのかを見てみましょう. それは自分の心との類推によって可能となります. 自分の場合,熟した柿を見て,食べたいと欲し,それをもぎ取るために行動を開始します. ここには,「認識⇒行為」という因果関係があります. すなわち,柿の認識が原因となって,柿への行為が起こったわけです. 論理的には「柿への行為は,柿の認識を前提としている」(行為→認識)という法則が成り立つことになります. すなわち,行為というのは全て,認識を前提とするものであることが分かります. 以上は,自分の行為と,その前提となった認識についてのものです. これを他人に当てはめるとどうなるでしょうか. 通りがかりの人が自分の家の柿をもぎとっているのが見えます. 「私がそうだったように,彼は柿を食べたいと思ったに違いない」「私と同じように,彼は柿を認識してから,柿をもぎとるという行動を起こしたはずだ」という推理が働きます. すなわち,自分の場合を事例として成り立った「行為は必ず認識を先行させる」という法則を,他人にも当てはめることで,「彼にも認識があるはずだ」という推理が可能となるのです. 他人の心というのは,決して覗き見ることができないもの,すなわち,究極的に知覚不可能なものです. しかし,自分の心と行為との類推において,他人にも,その行為から心を推理することができるのです. 唯識の場合も,同じように言えるはずです. 唯識の立場に立つ場合も,同じように,私には,他人の行為が見えています. すなわち,私の心に,他人の行為の現われを持つ認識が生じています. 他人の行為の〈見え〉あるいは〈現われ〉があるのです. この〈見え〉の原因として何が考えられるでしょうか? 唯識なのだから,他人の行為が見えているのも,自分の心が作り出しただけじゃないのか,という批判があるかもしれません. 「自分の心⇒他人の行為の見え」という因果関係があるのではないか,という指摘です. しかし,「柿がある」という自分の心から,柿をもぎとる他人の行為が見えてくるというのは,おかしい話です. 自分に属する「柿がある」という認識から生じるのは,自分の行為のはずだからです. 実在論でも,自分に属する認識から,他人の行為が生じるというナンセンスは説かないはずです. 同じように,唯識においても,自分に属する認識から,他人の行為の〈見え〉があると主張することはないわけです. 次に,他人の行為が見えているのは,無原因ではないのか,という批判も考えられます. しかし,これもおかしい話です. 自分の行為が見えているのは,無原因ではなく,自分の心が原因となっています. このことは,唯識でも実在論でも同じです. 「柿があるな」「柿が欲しい」と思ったから,柿への行動を起こしたわけです. なぜ,他人の行為についてだけ,原因がないと断定するのでしょうか? もしそれが正しいならば,自分の行為が見えているのも,無原因だと言うべきことになります. しかし,現実に,そのようなことはありません. 自分の行為が見えているのは,そこに,自分の心という原因があるからなのです. であるならば,他人の行為が見えているのも,そこに,何らかの原因,しかも,自分の心ではない原因を想定するのが妥当ということになります. それは,他人の心でしかないはずです. つまり,唯識においても,他人の行為が見えていることには,何らかの原因があるはずであり,それは,他人の心に他ならない,ということが言えるのです. 実在論において,(自分の行為とは異なる)他人の行為の原因として,(自分の心とは異なる)他人の心が原因として推理されました. 同じように,唯識においても,(自分の行為の現れとは異なる)他人の行為の現れの原因として,(自分の心とは異なる)他人の心が原因として推理されるのです. 参照:桂紹隆「ダルマキールティ「他相続の存在論証」 : 和訳とシノプシス」『広島大学文学部紀要』第43巻 (1983年12月),102―120.
  1. 2008/11/28(金) 18:44:56|
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紹隆兵

南条文雄の『懐旧録』冒頭に,十八歳で大垣藩の僧兵になった記事が出てきます. 大谷派の方の隊の名前を紹隆兵といったそうです. 維摩経から取ったとのこと. 桜部建博士による解説に
紹隆兵 『維摩経』すなわち鳩摩羅什訳『維摩詰所説経』の冒頭に「三宝を紹隆してよく絶えざらしむ」という句がある。三宝は仏と法と僧と。
とあります. せっかくなので,対応するサンスクリットを調べると,
dvAtriMZatA ca bodhisatvasahasrair ... triratnavaMZAnupacchetRbhiH
とあります(大正大学綜合佛教研究所梵語佛典研究会編). 「興隆」(支)「紹隆」(什)「紹」(玄)にぴったり対応する語はないようです. vaMZaの持つ意味合いを,うまく訳出したもののようです. 玄奘訳には「紹三寶種」とあります. 興にかえて紹とは,羅什もうまく訳したものです. 羅什の妙訳「紹隆三寶能使不絶」を,わざわざ「紹三寶能使不絶」とかえる玄奘のは,サンスクリット原文に近づけようとする姿勢が見えるようで,なにやら嫌味な感じがします.
vamsa.jpg 紹は糸,vaMZaは竹から来ています. 手入れの行き届いた竹林(長岡京)は気持ちいいものです.
  1. 2008/11/24(月) 08:00:13|
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The Last Uni Fes at Ropponmatsu Campus


六本松 003.jpg The last University Festival at Ropponmatsu Campus. The Campus for BA 1st year will move to Moto-oka, Itoshima (Ito Campus), a hilly place where mandarin orange used to be cultivated.

六本松 009.jpg This time the committee of the university festival banned smoking and drinking. Totally dry in the festival! Perhaps I shall recommend them to ban even meat, garlic and onion, too. na kalañjam bhakṣayet Then their purity will be perfect.

六本松 010.jpg A monument of dormitory students of the higher school of the old system of education.

六本松 021.jpg All kinds of junk foods available. But no alcohol.

六本松 025.jpg
  1. 2008/11/23(日) 20:20:30|
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九州大学文学部公開講座「哲学の饗宴 -西洋と東洋-」


宮地嶽 076.jpg
九大文学部哲学コースでは,現在,一般向けの連続講演シリーズを行っています.(既に参加申し込みは締め切られています.) 以下,宣伝文から引用. %%%%%%%%%%引用はじめ%%%%%%%% 哲学とは元来,「知恵を愛し求める営み」にほかなりません。この知的な営みは,二千年以上も昔から現代に至るまで,洋の東西を問わず,続けられてきました。存在,知,善悪,自己と他者,愛など,あらためて問われると説明に窮するような事柄が,まさに哲学において探究されてきました。この探究は究極的には,「善く生きること」の意味を解明しようとすることにほかならず,現代を生きるわれわれにも何がしかの知恵をもたらしくれるにちがいありません。 この公開講座は,九州大学文学部で「哲学」,「倫理学」,「インド哲学」を担当している教員によるものです。古来の哲学の伝統の一端に触れ,しばしの間なりとも共に考え,また対話する機会ともなればと考えています。 プログラム 1.10月25日 岡野潔 「仏教 -二千五百年の教え-」 2.11月 1日 菊地惠善 価値的思考からの自由 ‐ニーチェ哲学と老荘思想‐」 3.11月 8日 岩田圭一 「プラトンとアリストテレス -対立か調和か-」 4.11月15日 吉原雅子「言語分析と哲学」 5.11月22日 片岡啓 「印哲は何を目指してきたのか?」 6.11月29日 円谷裕二 「西洋の哲学と東洋の思想」 7.12月13日 谷隆一郎 「無限なるものへの眼差し -人間と神の問題-」 %%%%%%%%%%%%%%引用おわり%%%%%%%%% 講演後の質疑応答では,参加者より,たくさんの興味深い質問をいただきました. 以下,その一部です. 1. 講演の内容とは関係のない質問をさせていただきますが,無我というのは否定的ですが,空(くう)というのは肯定的ではないのですか? 2. (講演の内容とは関係のない質問をさせていただきますが)ナーガールジュナの空(くう)と,アインシュタインのいう空間とは,どのような関係にあるのですか? 3. (講演の内容とは関係のない質問をさせていただきますが)空(くう)であれば全部否定されるのではないのですか? 4. (講演の内容とは関係のない質問をさせていただきますが)空(くう)であれば,神も仏もないのではないですか? 5. (講演の内容とは関係のない質問をさせていただきますが)仏教では永遠なるものは認めないのではないでしょうか? 6. (講演の内容とは関係のない質問をさせていただきますが)仏教の「時」(未来・現在・過去)の捉え方は独特ではないのですか? 7. アビダルマにいう無為の三つとは何ですか? 8. 現代インドはITで変化しつつありますが,今後どのようになりますか? 9. インド哲学が対象にしている文献は,あくまでも知的エリートが残したものということですか? などなど. 質疑応答は盛り上がって,30分オーバーとなりました. 結局,2時から5時まで,三時間の講演となりました. 写真のように好天の土曜日の中,聞くほうも大変だったことでしょう. しかし,8のような質問がインド哲学者・古典学者に向かってなされるということは,西洋哲学の学者に向かっても,「今後,EUの経済はどうなりますか?」という質問がされるということでしょうか? それはそれで,個人的には楽しいことだと思いますが. 7の質問では AkAZaM dvau nirodau ca (AK 1-5c) を答えることになりますが, pratisaMkhyiAnirodho 'pratisaMkhyAnirodhaZ ca の後者の説明を,一般向けにするのは困難を感じます. 「非択滅無為」という漢字からして,意味不明なオーラを放っています.
宮地嶽 026.jpg 宮地嶽海岸の喫茶店より虚空無為を眺める 非択滅無為が実感できる時間かもしれません
ajñaḥ sukham ārādhyaḥ sukhataram ārādhyate viśeṣajñaḥ | jñānalavadurvidagdhaṃ brahmāpi taṃ naraṃ na rañjayati || BharSt_1.3 ||
  1. 2008/11/23(日) 08:18:16|
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ユース・ウィズアウト・ユース(邦題:コッポラの胡蝶の夢)

主人公(≒エリアーデ)のマスターする言語が,中国語にサンスクリット,チベット語にさらに日本語. というわけで,サンスクリット研究者としては見ざるを得ない作品です. さすがに福岡では公開がないので見られません. 輸入の英語版のDVDとなります. 恋人のセリフには
マーディヤミカのチャンドラキールティ
そして,彼女が話すのは
四句分別
についてです. かなりのマニアぶりに仰天させられます.
カー・トゥヴァム・アシ? ルーピニー・ナーマ
との自己紹介も. 14世紀前のチャンドラキールティの弟子.(時代考証まで正確です.) というわけで,洞窟で瞑想していたのだそうです. 父親の名前がナーガ・バッタ. 最初に仏教徒に転向した家系だそうです. これだけで終わるかと思いきや,
ローマの東洋学研究所のスペシャリストに確認すべきです
との要請に,まさかとは思いましたが,本当に出てきたのが,
トゥッチ教授
でした. そして,ネパールに程近い北インドの洞窟で待ち合わせるのが,
ゴーラクプルから来てもらったパンディット
そのほか挨拶に出てくるのも,女性形に,さらには,両数まで.
バヴァドビヤーム・スヴァーガタム
クトー・ヌ・ナ・カシュチャナ・マーム・ヴィジャーナーティ?
正確です.(一部,発音が悪いものもありますが.) そしてパンディットが唱えるのは,なんと,般若心経ではありませんか.
na rūpaṃ na vedanā na saṃjñā na saṃskārāḥ na vijñānaṃ gate gate pāragate pārasaṃgate bodhi svāhā
  1. 2008/11/21(金) 21:48:21|
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仏教認識論における知覚の定義

ディグナーガは「知覚は分別を欠いたものである」(PS 1.3c: pratyak\d{s}a\d{m} kalpan\=apo\d{d}ham)と知覚を定義します. ダルマキールティは「知覚は分別を欠いており錯誤していない」(PVin 1.4ab: pratyak\d{s}a\d{m} kalpan\=apo\d{d}ham abhr\=antam)として,「錯誤していない」という規定を付加します. 飛蚊症による錯覚のように,無分別ではあるが錯誤している擬似知覚を排除するためです. ディグナーガの知覚定義では,飛蚊症のような事例を排除するのに十分ではないのです(Hattori 1968:96--97). ディグナーガ自身の意図はともあれ,ダルマキールティによれば,ディグナーガは飛蚊症の事例について意識しており,擬似知覚を列挙する中(1.7cd--1.8ab)で最後に「飛蚊症によるものも含む」(sataimiram)と明言していると解釈されます(Hattori 1968:95--97,桂1984:116--117,戸崎1984b:171--172). 知覚を「分別を欠いたもの」とするディグナーガの体系内では,この最後の飛蚊症規定は,定義では排除し切れなかったものを排除するための例外規定(apav\=ada)となるはずです. すなわち,錯誤認識・世俗有認識・推論・推論結果・想起・欲求は,分別を伴っているがゆえに,知覚定義により除外され,自動的に擬似知覚となります. 最後にsataimiramと述べることで「ただし飛蚊症によるものも含む」として,「分別を欠いたもの」という知覚規定では排除されなかったもの,すなわち,無分別であるが知覚ではないものを例外的に排除するという趣旨となるのです. ジネーンドラブッディは「いっぽう第四の擬似知覚は,ここでは例外と見なすべきである」(PS\d{T} 61.9: caturthas tu ya\d{h} pratyak\d{s}\=abh\=asa\d{h}, so 'pav\=ado 'tra dra\d{s}\d{t}avya\d{h})として,ディグナーガの体系内において,sataimiramという規定が排除規定となることを明示し,飛蚊症のような事例が,ディグナーガの知覚定義では排除しきれないことを確認しています. だからこそダルマキールティは,知覚定義に最初から「錯誤していない」と加えることで,飛蚊症のような事例を排除したのです.(ジネーンドラブッディのソースとなるダルマキールティの解釈については,PSのsataimiramへの注記であるHattori 1968:95--96に解説があります.) sataimiramという例外規定は,もちろん,飛蚊症だけを指しているわけではなく,無分別ではあるが錯覚を引き起こすような感官損傷の事例を指しています. ジネーンドラブッディは,次のようにコメントしています.
PS\d{T} 61.11--13: それゆえ,その例外規定により,外的・内的損傷因により損傷を受けた感官による認識は,分別を欠いていても擬似知覚であると[ディグナーガは]述べているのである.いっぽう[PS 1.8dの]「飛蚊症のものを含む」(sataimiram)というここで,「飛蚊症」(timira)というのは,単に感官損傷因全てを指すものと見なすべきだと[伝統的に]されている(kila).
ここで注意すべきは,「伝承」を示唆するkilaという不変化辞です(kila \=agame). 世親もよく用いるように「伝統的にはそうされているが,私自身の意見は異なる」という意味合いを持つはずです. 実際,ジネーンドラブッディは,PS 1.8bのsataimiramについて最後に別の解釈を示しています(Funayama 1999). したがって,sataimiramについての第二解釈が,ジネーンドラブッディ自身の見解であったと推測できます.
  1. 2008/11/20(木) 06:12:11|
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Big Dora


BigDora 336.jpg The cafeteria in the new campus of Kyushu University is incomparable to the old one.
  1. 2008/11/11(火) 23:57:02|
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Keya no Oto, Itoshima, Fukuoka


Keya 271.jpg A basaltic cave (60m high) located in the northwest end of the Itoshima peninsula. The new campus of Kyushu University is being constructed in Moto-oka area of the peninsula, where many ancient burial mounds were excavated. Namely, campus buildings stand beside the ancient tombs.

Keya 205.jpg

Keya195.jpg The pleasure boat (which costs only 700 yen ≒ 5 Euros) starts from a harbor in front of the ISO-NO-YA guest house and restaurant.

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  1. 2008/11/09(日) 12:44:23|
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