Pratibhanusarini --- 九州インド哲学ブログ2

On Indian Philosophy and Buddhist Studies

Journal of Indian and Tibetan Studies, 12, 2008

インド思想史学会の会場にて,桂先生より頂戴いたしました. ありがとうございます. %%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%% インド学チベット学研究 Journal of Indian and Tibetan Studies 第12号 藤田祥道 大乗の諸経論に見られる大乗仏説論の系譜IV ―『大乗荘厳経論』:総括と展望― 1-39 那須円照 『アビダルマ・ディーパ』における心不相応行の研究(1) 40-66 那須良彦 倶舎論根品心不相応行論 ―世親本論と諸注釈の和訳研究(3)― 67-95 志賀浄邦 Tattvasaṃgraha及びTattvasaṃgrahapañjikā 第18章「推理の考察(Anumānaparīkṣā)」和訳と訳注(2) 96-136 五島清隆 龍樹の仏陀観 ―龍樹文献群の著者問題を視野に入れて― 137-169 Mark Siderits & Shoryu Katsura Mūlamadhyamakakārikā XI-XXI 170-221 O. v. Hinüber The Advent of the First Nuns in Early Buddhism 222-237 %%%%%%%%%%%%%%% [Journal of Indian and Tibetan Studies, 12, 2008]の続きを読む
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  1. 2008/12/28(日) 11:30:18|
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bhavitavyam & prāptakālam

dvābhyām atra kāraṇābhyām bhavitavyam この[期日]に[会見が行われることは]、二つの理由によりなされたに違いない。 →これには二つ理由があるはずだ。 kim atra prāptakālam [そうでなければ、]この[期日]における[会見が]時期を得たものであろうか。 →何がここで時機を得たものか?(いま何を為すべきか。)
  1. 2008/12/27(土) 15:11:19|
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A・サンダーソン教授講演会@東文研

シヴァ教研究の世界的権威,サンダーソン教授による講演会のお知らせ. 場所は,東大東文研. %%%%%%%%%% 東文研セミナーのお知らせ 日時:2009年1月13日(火)午後4時から6時 場所:東京大学東洋文化研究所3階第1会議室 講演者 Professor Alexis Sanderson (Oxford University, All Souls College) 講演タイトル The Shaiva Age: An Explanation of Rise and Dominance of Shaivism during the Early Medieval Period 講演要旨: The early medieval period, from the sixth to the thirteenth centuries, saw a decline in the role played by the Vaidikas in general and the Atharvavedins in particular in the religious ceremonies sponsored by the court. Kings continued to make land-grants to Vaidika brahmins in order to promote agricultural expansion and the cultural penetration of new territory, and they continued to impose and uphold the brahmanical social order, but their personal devotion shifted to the deities of the initiatory religions that integrated the brahmanical tradition but claimed to rise beyond it, or to Mahayana Buddhism, especially in its Tantric development.Among these alternatives Shaivizm was the most widely favoured. In the declarations of religious adherence included with the titles attached in inscriptions to the names of rulers the epithet paramamahesvarah ‘supremely devoted to Shiva’ is much the most frequent in this period, and of the many surviving temples established by rulers throughout the subcontinent and Southeast Asia from the late sixth century onwards those dedicated to the worship of Shiva are much the most numerous. The dominance of Shaivism is also manifest in the fact that the other main bidders for royal patronage, Buddhism, Pancaratrika Vaisnavism, and Jainism, as well as the earlier forms of Shaivism itself, were fundamentally revised or expanded along the lines of the Shaiva Mantramarga as they sought to maintain their hold on the sources of patronage. As for the other two cults that held the allegiance of kings during this period, those of the Goddess and the Sun-God, the former was progressively subsumed within Zaivism, and the latter, though once equipped with its own canon of scriptures, suffered a similar fate.In this lecture Prof. Sanderson argues from ample textual and epigraphic evidence that Shaivism rose to its position of dominance by expanding and adapting its repertoire to contain a body of rituals and normative prescriptions that legitimated, empowered, or promoted the key elements of the social, political and economic process that in its various regional adaptations characterized the working of the state in the early medieval period. 連絡先 東洋文化研究所 永ノ尾信悟
  1. 2008/12/25(木) 20:10:19|
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九大印哲忘年会@カフェ・マノマノ

今年の最終授業は22日の月曜日. (学生にとって)ハードな五限のゼミを終えて,そのまま須崎公園近くの会場へと直行. 地下鉄組とバス組と分かれましたが,バス組は渋滞で遅刻となりました. 今年は趣向をかえ,カフェ・マノマノにて忘年会. OB,OG,非常勤の先生方も参集. というわけで,賑やかな会となりました. 店内,ちょうど一杯となりました. まずは,久しぶりに登場の大先輩,針貝先生による乾杯でスタート. エビスで乾杯. 針貝先生は,前後合わせると6年間,印哲ただ一人の学生だったとの由. 進学当時は,伊原・松濤コンビの教授陣. 40年以上前の話です. その後,若手から挨拶. 松本→今木→・・・・・・・・・・・・・・・・→阿→針貝とリレー. OG江頭さんも,卒業後,久々の登場.(シヴァ教をやっていたそうですが,「聞かないで」とのこと.) 山口さんは,明日からインド. まだ荷物の準備もできてないとのこと. 大丈夫でしょうか.(ロンリープラネット持参で旅程を検討中でした.) 阿先生(←「台湾人ではありません!」)のご先祖様は,なんと,九年庵を手がけたとのこと. 仰天の才人・趣味人です. 針貝先生は,蝶,植物という趣味世界と印哲をからめた和歌を紹介. さすが皆さん,多趣味です. %%%%%%%%%%%%%%%%% 会場のマノマノ. カフェとはいってもみくびってはいけません. マノマノのパーティーメニューは充実です. 食事は,生ハムサラダ,牛タンシチュー,から揚げ,ポテトチップス,ガーリックブレッド,パスタ他いろいろ. 的確なタイミングに適量かつ美味. 飲み物も充実でした. ジンジャーの効きまくったジンジャーエールも人気. モスコミュールも,フレッシュな味わい. なによりサーヴィス最高. 「もてなしの心」をいただきました. ありがとうございます. 採点の厳しいOGからも「サーヴィス感じいいねー」「(接客の)笑顔が素敵」との高得点でした. 締めのラテを頼んだ女性陣は「ラテアート」に感激→写メとなりました. スタッフの皆様,ありがとうございました. 居心地よすぎで,参加者全員,終電まで居座りました. ちなみに,お値段は,飲み放題付でお一人様3500円ポッキリ. 仰天です.(また使わせていただきます.) %%%%%%%%%%%%%%%%%%% なお,幹事より,新年会は「カラオケ大会」にするとの根回しが行われました.
  1. 2008/12/23(火) 08:35:23|
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インド思想史学会 京大会館 2008年12月20日(土)

日本のインド哲学研究をリードしてきた服部正明先生創始の学会。 今回で15回目を迎えました。 次回より会長が、徳永先生より井狩先生へとスウィッチされることが決定・報告されました。 徳永先生は、来年度の国際サンスクリット学会(京都大学)の準備に専念されるとのこと。 昨年度に引き続き、今回も、多彩な発表が続きました。 ゴージャスです。 大規模学会と異なり、一人の持ち時間(発表+質疑)が長く確保されているのも長所です。 長年、「仏教以外」という大まかな方向が本学会の特徴でしたが、今回は、冒頭から仏教です。 多様化する研究、領域交錯状況を反映したものであり、必然と言えるかもしれません。 現に、最後の狩野先生の研究発表は、ニヤーヤ論理学における仏教論理学者ダルマキールティ(法称)の影響を取り上げたものです。 ターゲットとなるメインテクストは、法称の最初期作品にして難解で知られる『量評釈自注』。 ニヤーヤと仏教論理学の交渉を取り上げたものでした。 「仏教以外」といっても、インド哲学の中で、学派間の交渉を無視するわけにはいきません。 本邦初期のインド哲学研究において、木村泰賢、宇井伯寿に見られるように、「印度哲学史」という全体を見渡す研究が志向されたのは当然です。 中村元は、そうした「大学者」の最後の世代とみなしうるかもしれません。 その後、描かれた全体図の中の個別の分野へと各研究者の焦点が分散するようになります。 すなわち、中期においては、個別研究が志向されます。 「わたしはサーンキヤやるから、あなたはニヤーヤ」 「君はパーリ、そして君はスートラ、君はチベットをやりなさい」 というわけです。 すみわけです。 一つのことに専心すればよいわけですし、また、国際的な研究レベルを志向すれば、このような志向は当然と言えます。 しかし、研究範囲を限定したことで、他人の領域を侵さない・他人に侵させないかのような意識が生じるのは、悲しいかな、人間の性です。 しかし、古典文献世界の中で、境界を設けるのはナンセンスです。 対象世界には実際には区切りはないからです。 本来、国境線がないのと同じです。(したがって、歴史研究においては、海上交流など、交渉史や経済圏が注視されるようになるわけです。) 実際には、文献作者達は、相互にさまざまな交渉をもっていたのです。(それは現実の人の間の交流だけでなく、彼らが先行文献を学びあるいは批判することからも生じます。) ディグナーガやダルマキールティ、そして、玄奘の旅行記を見ても分かるように、僧院にこもった仏教僧といえども、古典文法学を学び、ニヤーヤ、ヴァイシェーシカ、サーンキヤを習い、ミーマーンサーと論争したりするわけです。 ジネーンドラブッディは、文法学書も著しています。 仏教徒からすれば、読んでも功徳が積まれるわけではない外典です。 明治期の学僧が耶蘇教の教義を学林で学んだように、論争のために、相手の教義を学ぶことは欠かせません。 したがって、ダルマキールティを理解しようと思えば、ニヤーヤやミーマーンサーを理解していなければ、対象の性格上、不可能となります。 また、ダルマキールティ以後のニヤーヤ学派を理解しようとすれば、ダルマキールティを理解する作業は不可欠となります。(ダルマキールティ流に言うならば、「なければない関係」にあります。) 仏教論理学だけをやっていても、その本当の妙味は見えてこないのです。 あるいはニヤーヤだけをやっていても、その深意は浮かび上がってきません。 『量評釈自注』が難解に映るのは、本書がそうした性格を本来的に孕んでいるからです。 つまり、『量評釈自注』をディグナーガ作『量集成』の単なる注(と自注)とみなして、仏教論理学の範囲だけで捉えようとすると、読めないわけです。 このことは、『量評釈自注』の最後にダルマキールティが残した詩節から明らかです。
「ヴェーダが正しい云々と言っているのは、ノータリンの馬鹿さ加減を指し示す五つの証拠だ!」
と、「自注」とは思えない激しい罵倒をダルマキールティは浴びせます。 バラモンがいかに馬鹿かを証明した、と残りっ屁をかまして立ち去るわけです。 ここにあるのは「僧院で瞑想する離欲の老僧」という高潔な仏教僧のイメージではありません。 また、インド文学のステロタイプである現世の快楽を享受するエロエロ仏教僧でもありません。(ちなみに、ダルマキールティは下ネタ大好きです。) 思い浮かぶのは、バラモン思想に激高し、それを批判し打ち負かそうとする青年ダルマキールティの姿です。 本書が、批判の書であることは明らかです。 %%%%%%%%%%% 当日、会場にて、『南アジア古典学』3号の購入申し出を受けました。 ありがとうございます。 %%%%%%%%%%% 2008年度(第15回)インド思想史学会学術大会 日 時 2008年12月20日(土) 場 所 京大会館 岡本 健資  「舎衛城における異教徒と仏弟子シャーリプトラの争い」 手嶋 英貴  「アシュヴァメーダにおける「夜間祭事」の歴史的変遷」 横地 優子  「叙事詩・プラーナ文献における聖地ゴーカルナの伝承」 (Gokarnas in the Epic and Puranas) 川尻 洋平  「カシュミールシャイヴァ研究の現状と課題」 狩野 恭  「アートマンの存在論証に対するダルマキールティの批判」 %%%%%%%%% 学会終了後の懇親会と二次会。 今回は、発表の狩野先生を囲み、
「否定の否定がどうして肯定にならないのか」 「vyatirekaが成り立てば、anvayaが成り立つので、kevalavyatirekinということはありえない」
というネタでおおいに盛り上がりました。 prasanga(帰謬論法), avita, kevalavyatirekin, anyathanupapatti(それ以外ではありえない)、そして、二種の否定であるparyudasa(排除), prasajyapratisedha(打ち消し)というテーマは、論理学者を興奮に打ち震わせるソーマ(エフェドラ)です。 論理学・インド音楽の岡崎先生は、九州・広島と同じく、京都でも紙一重の切れ味でした。 いつもながら、仏教論理学の大家、桂先生には大変お世話になりました。
  1. 2008/12/21(日) 09:14:17|
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saṃtānāntarasiddhi

実在論においても,他人の行為が直接に他人の心を知らしめるわけではありません. 煙がそこに存在するだけで火を知らしめるわけではないのと同じです. そうではなく,煙の認識が,火の存在を知らしめるのです. 同じように,他人の行為は認識されてこそ,他人の心を推理させます. この点で,実在論の推理プロセスは, 「他人の行為→他人の心」 という単純なものではなく, 「他人の行為の見え→他人の行為(の存在)→他人の心」 というプロセスを踏むことになります. 論理的関係を因果関係から整理すると以下のようになります.
実在論:他人の心⇒他人の行為⇒他人の行為の見え 唯識:他人の心⇒他人の行為の見え
このようにして見てみると,実在論モデルが,まどろっこしいことが分かります. 一つプロセスが多いのです. 唯識の方が想定モデルは簡潔です. 実在論においても,結局のところ,他人の行為の見えから他人の心を推理しているのですから,真ん中の「他人の行為」は省いたほうがモデルは簡潔です. すなわち,他人の行為の見えからダイレクトに他人の心を推理したほうがましなのです. 「心⇒行為の見え」という因果関係は普遍的なものです. それが「自分の心⇒自分の行為の見え」であるか,「他人の心⇒他人の行為の見え」であるかを問いません. ただ,自分の行為が見える際には,その行為は自分のものとして内的なものとして現われ,他人の行為が見える場合には,その行為は他人に属するものとして外的なものとして現れるという違いがあるだけです. あくまでも,心が行為の見えを引き起こすという因果プロセスは同じなのです.
自分の心⇒自分の行為の見え(内的) 他人の心⇒他人の行為の見え(外的)
ただし,自分の心が外的なものの行為の見えを引き起こす場合もあります. 例えば弓矢の場合です. 自分の心が矢の動きという外的な動きの見えを引き起こすのです. 逆に,鬼霊や聖仙という他人の心が自分の心に内的な見えを引き起こす場合もあります. すなわち,上の因果プロセスが「自分の心⇒他者存在の行為の見え」や「他人の心⇒自分の行為の見え」というように,時に交錯する場合もあるのです. 唯識が立てる因果プロセスである「他人の心⇒他人の行為の見え」というのは,覚醒時であれ,夢見時であれ,同じです. 夢で他人の行為が見えることがありますが,それも,究極的には,他人の心に遡りうるものです. 他人の心がなければ,他人の行為の見えによって潜在印象が植えつけられることもなく,結果として,その他人の行為を夢見ることはないからです. 夢に登場する他人の行為の映像は,誰かの心が生み出したものなのです.
覚醒時:他人の心⇒他人の行為の見え 夢眠時:他人の心⇒他人の行為の見え⇒潜在印象⇒夢での他人の行為の見え(錯覚)
いっぽう,実在論において,覚醒時と夢見時とは,どのように説明されるのでしょうか. 「他人の行為の見え→他人の行為→他人の心」という実在論の推理プロセスを適用するならば,覚醒時であれ,夢見時であれ,常に,他人の行為から他人の心が推理されるはずです. あるいは,この推理プロセスが成り立たないというなら,それは,覚醒時にも夢にも当てはまるはずです. 夢の時には,他人の行為が存在せずとも他人の行為の見えがあるというならば,では,覚醒時も,他人の行為が存在せずとも他人の行為が見えているということになってしまいます. すなわち,他人の心が推理されることは全くありえないことになってしまうのです. 実在論者は他人の行為の実在・非実在を根拠に,覚醒時の正しい認識と,夢眠時の錯覚とは区別できると言うかもしれません.
覚醒時:他人の心⇒他人の行為⇒他人の行為の見え 夢眠時:φ⇒φ⇒他人の行為の見え(錯覚)
すなわち,夢の場合には,眠気などに心が襲われているがために,他人の行為が存在せずとも,他人の行為が見えたのだ,というかもしれないのです. しかし,実際には,覚醒時であっても,人の心は無明に襲われているのです. すなわち,夢においては,眠気に襲われているがゆえに,他人の行為が見えていても,他人の行為が存在するわけではないと実在論者が主張するならば,それでは,覚醒時においても,無明に襲われているがゆえに,他人の行為が見えていても,他人の行為が存在するわけではないということになるのです. ここにおいて「他人の心⇒他人の行為⇒他人の行為の見え」という実在論者の想定する因果モデルは崩壊することになります. 他人の行為は存在しないからです. 結局,唯識の因果モデル「他人の心⇒他人の行為の見え」が残ることになります.
  1. 2008/12/19(金) 17:47:47|
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2005/3/20の翌朝の研究室


CIMG0032.jpg パソコンの上に降りかかる書籍. 昭和何十年から使っている木製のチョー古い本棚は倒れ,中に入ろうにもドアも開かない状況でした. 例年の赤字予算の都合上,裏板の壊れた,倒れた本棚を起こし,そのまま使うしかない状況が続いていました. 今回,ようやく(ごく一部ですが)スチール製の(壁に固定の)本棚と取替えることができました. が,木製の古い本棚は,まだまだ数多く現役です. 取替え作業中,用務員のおじさん方が様子を覗き,笑いながら,
まーだ,こんなん(古い本棚)使ってるんだねー
と感想を残して出て行きました. ちなみに,壁の上部にかかる歴代名誉教授陣の写真は,一人として落ちることがありませんでした.
  1. 2008/12/18(木) 00:03:08|
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「~から聞く」と「~の聞く」

バッタ・ジャヤンタの戯曲『聖典騒動』(アーガマダンバラ,意訳すると『宗教の空騒ぎ』)の第一幕には,ミーマーンサー学者サンカルシャナと仏教僧ダルモッタラの次のようなやり取りがあります.
スナータカ(サンカルシャナ): これは何たる侮辱,「信徒よ,答えよ」とは.手下よ,こいつ(信徒)の[言うことを]聞け(śṛṇv asya). 仏教僧(ダルモッタラ): バラモンよ,「この方から聴聞せよ」(śṛṇv asmāt)というのが正しいのではないか. スナータカ: 赤衣の者よ,知っての通り,このようなお喋りは「役に立つ[知識を受け渡す正規の学習の]場合,説き手は[apādānaというkāraka]」(Aṣṭādhyāyī 1.4.29)という[規則]の対象ではないのだ.いいか,「役者の[台詞を]聞く」(naṭasya śṛṇoti)というこの使用(奪格ではなく属格)だけが,ここでは正しいのだ.
「聞け,彼から」という奪格と,「聞け,彼の」という属格とではニュアンスが違うというのです. 「教師から学ぶ」のように,役に立つ知識(テクストとその意味)を受け渡す正規の学習に際しては「~から」という奪格(第五格)を用いるというパーニニの規定です. 『マハーバーシャ』が明らかにするように,正規の学習でない場合,役者の台詞を耳にする場合などは「役者の聞く」と「~の」という属格(第六格)を用いるべきだ,ということです. したがって,仏教僧の教えはそれに値しない,役に立たないお喋りだというわけです.
upādhyāyād adhīte 教師から 学ぶ śṛṇv asmāt 聞け 彼から naṭasya śṛṇoti 役者の 聞く śṛṇv asya 聞け 彼の
奪格「カラ」が表すのは,「木カラ葉が落ちる」場合のような起点ですから,奪格を用いると,先生から生徒への受け渡し全体が表現意図されることになるのでしょう.
先生→教え→生徒
属格「ノ」の場合は,そのような受け渡し構造が表現されないというのが,ニュアンスの差異の起源と思われます.
  1. 2008/12/17(水) 19:44:19|
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Ekyō > Yasunori

In a Buddhological article (published in 2007) I found an unfamiliar name Ejima Ekyō. The correct name is Ejima Yasunori, of course. This mistake may be caused by the confusion between Ekyō (恵教) and Yasunori(惠教). Both have the same Kanjis but different pronunciations. Japanese names are confusing. This is the case even for Japanese in the same small circle of the same university. What can one expect to outsiders? I remember reading an Indological article in which the author uses ``she'' to refer to one of the most famous Japanese (male) professors in Indology.
  1. 2008/12/14(日) 14:28:44|
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夢で他人の行為が見える原因は他人の心か自分の心か?

経量部は「心⇒行為」という因果関係を前提に、他人の行為から他人の心を推論します。 同じように唯識は「心⇒行為の現れ」という因果関係を前提に、他人の行為の現れから他人の心を推論します。 ここで問題となるのは夢における認識の処理です。 唯識の考えによるならば、覚醒時、我々は、他人の行為を見ますが、それは、他人の心が直接に我々の心に引き起こした像であるとされます。 他人の心が他人の行為を引き起こし、その他人の行為が我々に他人の行為を見せたわけではありません。
他人の心⇒他人の行為⇒他人の行為の見え
あくまでも、直接に他人の心が見えを引き起こすのです。
他人の心⇒他人の行為の見え
では、覚醒時に我々が見る他人の行為と、夢の中で我々が見る他人の行為には何らかの違いがあるのでしょうか。 もし、覚醒時と夢とが区別されないならば、夢の中の他人の行為の見えも、他人の心によってダイレクトに引き起こされたということになるのではないでしょうか。
覚醒時:他人の心⇒他人の行為の見え 夢眠時:他人の心⇒他人の行為の見え
通常我々は、覚醒時の見えと、夢を見ている時の見えとを区別します。 すなわち、覚醒時に見えている行為は外に実在すると考え、夢を見ているときに見える行為は外に実在しないと考えます。 すなわち、覚醒時の行為は実在であり、夢見時の行為は実在しないのです。 これは、眠気という悪しき原因に心が襲われているか否かという違いに起因するものです。 夢の中で見えた他人の行為は、他人の心が引き起こしたものではなく、眠気に襲われた自分の心が勝手に作り上げたものです。
覚醒時:他人の心⇒他人の行為⇒他人の行為の見え 夢眠時:眠気に襲われた自分の心⇒他人の行為の見え
もし、経量部の実在論のように、我々がこのような主張をなすならば、唯識も同じような区別をつけることが許されます。 すなわち、夢の中の他人の行為の見えは、覚醒時のそれのように他人の心が引き起こしたものではなく、あくまでも、眠気に襲われた自分の心が作り上げたものに他ならないというのです。 しかし、夢については、他の考え方も可能です。 夢での認識も、最終的には、対応する対象を持つと考えられます。 覚醒時の知覚は、たしかに、目の前の対象によってダイレクトに引き起こされています。 夢見時の映像は、記憶を通して、昨日見た行為が再現されたものです。 したがって、間接的に、外界対象に対応を持つものです。
覚醒時:他人の心⇒他人の行為⇒知覚 夢眠時:他人の心⇒他人の行為⇒知覚⇒潜在印象(記憶)⇒夢での他人の行為の見え
というわけで、夢の中の他人の行為の見えも、間接的には、他人の心が引き起こしたものであると言えるのです。 したがって、唯識においても、他人の行為が見えるのは、他人の心が間接的に引き起こしたのだと言うこともできます。
覚醒時:他人の心⇒他人の行為の見え 夢眠時:他人の心⇒他人の行為の見え⇒潜在印象(記憶)⇒夢での他人の行為の見え
また、ある場合には、夢の中であっても、他人の心がダイレクトに我々の心に働きかけるという現象が見られます。
夢眠時:他人の心⇒夢での他人の行為の見え
神や聖仙が、ダイレクトに我々の心に働きかけて、夢の映像を見させる場合がそれです。 したがって、覚醒時においても夢眠時においても、他人の行為が見えるのは、他人の心が原因だと言うこともできるのです。 ....ダルマキールティによればの話ですが. 参照:桂紹隆「ダルマキールティ「他相続の存在論証」 : 和訳とシノプシス」『広島大学文学部紀要』第43巻 (1983年12月),102―120.
  1. 2008/12/12(金) 18:56:43|
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