Pratibhanusarini --- 九州インド哲学ブログ2

On Indian Philosophy and Buddhist Studies

福岡のアコギ演奏者チャーリー:ライブ@ドリームボート


チャーリー 204.jpg ドリームボートで行われたアコギの祭典,Finger Magic Orchestra, Vol. 1にて.

チャーリー 284.jpg 城直樹(from福岡),なゆた(from熊本)と競演.
Cf. チャーリー・オフィシャルブログ http://blog.livedoor.jp/takeshi_sakasegawa/
チャーリー 005.jpg 巨大な犬も乱入.
チャーリー,本選参加決定. FingerPicking Day Accoustic Guitar Live Festival 2009 開催日 2009年4月18日(土) (午後12時30分開始予定) 開催地 はまぎんヴィアマーレ(予定)  (横浜/桜木町駅より徒歩5分) 主催 (株)モリダイラ楽器 協賛 (株)モーリス楽器製造,他
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  1. 2009/01/31(土) 20:03:00|
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日本南アジア学会第22回全国大会(北九州市立大学)

本日,実行委員の打ち合わせが行われました.
開催日時(予定):2009年10月3日(土)~4日(日) 開催場所:北九州市立大学(アクセス
新幹線だと,小倉からモノレールで大学前ですので,アクセスは楽です. 大会の実行委員長は北九州市立大学法学部の三宅先生. 小倉は駅前の繁華街も充実,美味しい店も多いので楽しみです. 実行委員会では,会場,タイムスケジュール,会計,全体シンポジウム,懇親会,エクスカーションなどについて話し合いが行われました. 例年だと,大会参加費(一般)が2500円,懇親会費が6500円となっていましたが,思い切って懇親会を簡素化(=安く)する方針を確認. 賢明です. 小倉駅前まで出れば,いくらでも美味しいものはあるのですから,大学の生協食堂の「パーティーメニュー」に金をかける必要はありません.
  1. 2009/01/31(土) 19:07:27|
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TiE創設者Kanwal Rekhi氏の講演@九州大学

インド人起業家ネットワークのTiE (The Indus Entrepreneurs,「インダスの起業家」)創設者のKanwal Rekhi氏(カンワル・レキ)と,東京支部を設立したばかりのSanjeev Sinha氏(サンジーヴ・スィンハ)が九州大学の起業家セミナー最終回の講師として来られました.
起業家セミナー 009.jpg 翌日の講演は大々的なものですが,こちらは,九大学生用の授業. というわけで,間近に肉声を聞くことが出来ました. 5限の授業ですので,16:40開催の予定でしたが,当然のごとく,16:40には,レキ氏は,いまだタクシーで移動中.(呉服町付近を通過.) 無事に17:00到着. さらに,起業家セミナーを企画・主催するのは,九大の学生有志. 起業家セミナーの企画委員の面々. というわけで,用意したプロジェクターの映像が出なかったり,音声が出なかったりと,「不測の事態」が発生. その場で音声用のケーブルをつなぐことに.(当然,ケーブルは,絡まって,そのもつれを解くのに一苦労.) 聞くほうも学生ですので,誰も,怒りもしませず,暖かい眼差し.(外部の講演会なら,冷や汗ものです.) さすが九大,おおらかで結構です. 結局,17:10より開催. レキ氏による自己紹介を兼ねたセルフ・ヒストリー. ボンベイのインド工科大学(IIT)を卒業し,1967年,22歳でアメリカに渡ったときから,順に年を追って2000年まで. パラグラフ毎に,サンジーヴ・スィンハ氏が通訳. 英語と日本語と二重で聞けるので,スピード感とライブ感は減退しますが,情報の聞き漏らしがなかったのは利点でした. 1時間ほどで,Q&A. とはいえ,日本人学生ですから,会場からのダイレクトな質問も少ないだろう,と見越してか,まずは,起業家セミナー企画委員から,矢継ぎ早の質問. そののちに会場から. 最初はぽつぽつでしたが,ヒートアップしてくると,徐々に会場からの挙手も増えてきます. 留学生は,もちろん,積極的に質問. 中国人,インド人の留学生です. 中国人留学生:
起業するといっても,元手となる金がなければ,起業なんて,できないのではないでしょうか?(英語による発言)
レキ氏
金は重要度では一番最後のものです. 必ず後からついてきます. まずアイデアが大事です. まず一歩を踏み出すことです. そうすれば,金はやってきます.
そのほか,日本人女子学生からのもの.
起業は自分のためであって,社会のためでないので,私にとって起業家は,ヒーローではありません.(だから尊敬はできません.)
これに対してレキ氏は,起業家が雇用を創出することをもって応答. 社会の富を作り出す方法は起業しかないと. 政府は,富を減らすだけである. 起業家は,機関車のようなものであり,先頭にたって引っ張ることで,後ろが全部引っ張られていくと. それにたいしてサンジーヴ氏は,通訳しながら,「今の電車は,ちょっと違いますけど,あの昔の汽車は...」(笑)と. たしかに,日本の電車だと,あまり当てはまりません.(レキ氏のイメージは,インドのディーゼル機関車です.) 最後は,国際ホールのロビーにて懇親会. 名刺交換. 学生が,身についてない背広と,手作りの名刺で,一生懸命交流しようとする姿は,ほほえましいものがあります. どこから持ってきたのか,スナックには,カレーとナンも登場. 結局終了したのは,8:30を過ぎた頃でした.
  1. 2009/01/31(土) 12:17:41|
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ヨーガで他人の心が見えるのか?

唯識は,他人の心が,自分の心にダイレクトに行動の現われを作り出すという因果関係を考えます.
他人の心⇒他人の行動の(自分の心への)表れ
このような因果関係があるからこそ,他人の行動の現れから,他人の心が推理されます. 推理の対象である以上,そこで認識されるものは,自相ではなく共通相となります.
共通相←他人の行動の表れ | 自相
自相そのものを捉えているのではない,という意味では,認識と対象は一対一に対応しているわけではありません. すなわち,認識は,錯誤しており,誤っています. たしかに,他人の心そのものを捉えているわけではありませんが,その共通相を自相だと思って日常活動を行えば,万事うまくいくので,そのような推理は正しいとされます. すなわち,「欺かない」「食い違いがない」ので,正しい認識と認められるのです. 存在として考えると,ここでの共通相は,牛性が「牛でないものでないもの」とされるように,アポーハ(他者の排除)にあたります. したがって,その外的存在性は,最終的には雲散霧消するものです.(他者の排除は,他者から排除されたものである自相の中に解消されます.)
φ←推理 | 自相
あるいは,分別されたものとみなせば,分別そのものとなります.すなわち,認識の外にあるものではありません.
分別←推理 | 自相
以上は,凡人による推理の場合です. では,ヨーガ行者の場合はどうでしょうか. ヨーガ行者の知覚は,知覚である以上,自相を捉えるはずです.
自相←ヨーガ行者の知覚
しかし,唯識の立場で,知覚によってダイレクトに外的存在を見ることを認めてよいのでしょうか? 唯識においては,知覚が捉える色などは,あくまでも,内的な形象のはずです. 知覚が外に出て行くことはありません.
形象 | 知覚
他者の心も,内的な形象ではないのでしょうか? ダルマキールティは,主客の分別を未だ捨て去ってないようなヨーガ行者については,その知覚は,自相を捉えていないとします. そして,それが捉える形象は,他者の心に似たものだとします.
形象←ヨーガ行者の知覚 | 他者の心
これは,経量部の知覚構造と同じものです.
(内的な)形象←知覚 | (外的な)形象
経量部によれば,我々の知覚が捉えるのは,対象の形象に似た内的な形象であって,外界対象そのものではありません. あくまでも,認識内の形象しか捉えることができないのです. ダルマキールティは,ヨーガ行者による他心の知覚を,正夢とパラレルに考えます. 正夢で見るのは,外的存在に似た形象であって,外的存在そのものではありません. にもかかわらず,それは,明瞭に現れます.
似た形象←正夢での認識 | 外的存在
ヨーガ行者の知覚においても,他者の心は,ヴィヴィッドに現れます. しかし,それは,外的存在そのものではなく,あくまでも,内的な形象なのです.
(内的な)形象←ヨーガ行者の知覚 | 他者の心
明瞭な現れを持つという点で,それはやはり知覚であり,食い違いがない,欺かないという点で正しい認識手段と認められます. なお,主客の分別を捨て去ったヨーガ行者である仏陀の見ているものについて,我々が議論することは不可能です. なお,ヨーガ行者の知覚を取り上げたこの箇所に関して,桂[1983]は次のような指摘を行っている.
桂[1983:104]
  1. 2009/01/31(土) 10:20:14|
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九大正門と旧法文学部


面相.jpg 怪人二十面相のロケに使用. この正門,現在は地下鉄駅から遠いため,むしろ「裏門」のような雰囲気すらあります. が,路面電車が通っていた時分は,駅から最も近いので,立派に「正門」だったようです.

K-20.jpg 設計:倉田謙
  1. 2009/01/27(火) 19:57:26|
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Hakozaki Campus, Kyushu University


KyushuUni066.jpg with snow

Hanayama082.jpg a famous food stall nearby

Nagata085.jpg and a newly opened bakery
  1. 2009/01/26(月) 00:05:34|
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Queue for Darshan at Kashi Shrine, Fukuoka


Kashi.jpg There is a holy shrine in Kashi, not inside Uttar Predesh, but in Fukuoka. On New Year holidays people make a long queue at the Kashi Jingu Shrine for darshan. (The exact pronunciation is Kashii and not Kaashii.) Fortunately, people do not have to go in jail-like cages as in the Tirumala golden temple.
KashiShrine.jpg
  1. 2009/01/24(土) 18:08:24|
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他心の推理は何を対象とするのか?


Saraswati5.jpg
唯識においては,他人の心が,ダイレクトに――すなわち,他人の行動という客観的な存在を必要とすることなく――自分の心に,他人の行動の表れを引き起こすと説明します.
他人の心⇒他人の行動の表れ
このような因果関係を前提として,「他人の行動が表れているから,原因として,他人の心があるはずだ」と,煙から(直接には見えない)火を推論するように,(直接には見えない)他人の心を推論します.
他人の心←他人の行動の(自分の心への)表れ 火←煙
当然これは,推論ですから,ビビッドに立ち現れてくる自相ではなく,ぼんやりと立ち現れてくる共相(普遍,共通相)を対象とすることになります. すなわち,他人の心の推論は,ビビッドに他人の心を見るのではなく,あくまでも,ぼんやりと他人の心(の共通相)を知るのです. というわけで,知覚のように――たとえば自分の心を直接知覚するように――ビビッドに他人の心を見るわけではなく,ぼんやりとしたイメージとして,他人の心を推理することになります.
他人の心(共相)←他人の行動の表れ(証因)   | 他人の心(自相)
しかし,推理の対象である共相は,自相のように実在するものではありません. 煙から推論される火のイメージ(火性)は,それ自体は,火そのものとは異なります. 他人の行動の表れを証因とする推論認識と,対象である他人の心の共通相,そして,実在する他人の心(自相)は,どのような関係にあると考えればいいのでしょう. 他人の心そのもの(自相)を捉えていないのに,どうして,他人の心があるといえるのでしょうか? これは,結局のところ,推理が対象を捉えるとはどういうことか,という問題に還元されます. 推理は,対象そのもの(自相)を捉えるものではありません. その意味で,自相を捉える知覚とは異なります. 言ってしまえば,知覚は対象と一対一に対応しているので「錯誤していない」のですが,推論は,実在物と対応しているわけではないので,「錯誤している」のです. 煙から火があると思っていますが,実際には,火そのものを対象としているわけではありません. すなわち,対象とのズレが存在します.
火性←煙  |  火
「錯誤している」にもかかわらず,仏教では(そしてインド哲学一般において),推論は「正しい」(正しい認識手段)と認められています. では,仏教における「正しさ」とは何なのでしょうか. それは,無錯誤ではありえません. なぜならば,無錯誤(abhrāntatva)を正しさの定義とすると,知覚だけしか「無錯誤」と言えないことになるからです. 推論は正しくない,ということになってしまいます. これはいただけません. そこで,少し定義を緩くします. 「裏切らない」「欺かない」,すなわち,最初に約束したとおりのものを獲得させてくれるならば,前後で食い違いがないならば,その認識は正しいというのです. 「食い違いがない」(avisaṃvāditva)ということであれば,推理も「正しい認識手段」だといえます. ダルマキールティは,これを,宝石とその光(影)のようなものと説明します. 実際には光を捉えているのですが,その光を宝石だと思って駆け寄っていくと,結局,宝石を手に入れることができます. 「宝石がありますよ」と最初に教えてくれた認識は,行動者を裏切らず,欺かず,前後で言ってることに食い違いがないわけです.
光←認識 | 宝石
しかし,認識自体は,宝石を捉えず,あくまでも,その光しか捉えてないわけですから「誤り」であり,錯誤したものです. 対象と一対一に対応したものではありません. にもかかわらず,欺かないので「正しい」といえるのです. ダルマキールティによれば,正しさとは,欺かないこと,食い違いがないことであり,欺かない,食い違いがないとは,つまるところ,目的を達してくれる,ということです. 目的を実現してくれる(arthakriyākāritva)という観点から,認識の正しさが規定されるのです. 光を宝石だと思い込ませた点では間違っていたわけですが,その約束するところにしたがって行動すると,所期の目的である宝石を手に入れることが可能となったわけです. うまくいったわけです.
正しさ=欺かない=うまくいく
他人の心の推理も同じように説明できます. その推理は,他人の心そのもの(自相)を捉えているわけではありません. 捉えているのは,あくまでも,他人の心の影としての共通相であり,それは,非実在です. その意味で,推理知は「誤っている」のです. しかし,その推理知にしたがって行動すると,欺かれることがありません. すなわち,所期の目的を果たしてくれます. コミュニケーションなど,万事,うまくいくのです. 水があると思って近づいて行って水を飲めば,喉の渇きを癒してくれるように,他人の心があると思って行動すると,他人の心が生み出す様々な効果を手に入れることができます. 火を推理した後に,山の向こうに行って火の暖かさを直接に体験したとき,その火の実在を疑うことはありません. 同じように,他人の心を推理した後に,他人の心が生み出す様々な効果(他人の言動の表れ)を確認することができます. 所期の目的である他人の心の生み出す結果を獲得させてくれるのですから,他人の心の推理は「正しかった」といえるのです. 推理にしたがって,他人の心があると思って行動すると,他人とのコミュニケーションなど,日常活動がうまくいくのですから,他人の心の推理は正しかったのです.
推理>>>行動>>>効果確認
しかし,後から効果を確認する認識(喉の渇きが癒えるという効果的作用の認識など)があれば,最初の対象認識(水を見るなど)が正しかったと言えるのでしょうか? 夢の場合はどうでしょうか? 夢の中でも,他人の心があると思って行動して,実際にうまくコミュニケーションなど日常活動が果たされる場合があります. 夢の中で,完全にうまくいく,つじつまが合うということは,よく体験することです. とすると,効果的作用を生むという意味で,夢の中の他人の心の認識は正しかったとでもいうのでしょうか? 夢の認識は,全て間違いなのですから,これは明らかにおかしいことになってしまいます. しかし,これについては,既に,唯識の立場を説明してあります. 夢の認識も,もともとは,夢の外での覚醒時の経験に基づいています. 他人の行動が見えたと夢で思ったのも,もともと,覚醒時に,他人の行動の表れを経験していたからです. そして,効果的作用の認識も,覚醒時に淵源を持つはずです. いずれも,覚醒時に,他人の心が生み出したものです.
他人の心1⇒他人の行動の表れ   | 他人の心2⇒他人の行動(効果的作用)の表れ
というわけで,夢の場合も,うまくいくならば,間接的に,外界にある他人の心が淵源として推理されるのですから,何も問題はありません. 夢の中での他人の行動の表れに基づく他心の推理も,他人の心に関して,錯誤してはいますが,「欺かない」(mi slu ba, avisaṃvāda)とはいえるのです*. すなわち,その推理は,正しい認識手段である,といえるのです. *桂[1983:113]は,「「無錯誤性」(mi-slu-ba)」とするが,「無錯誤性」(abhrāntatva)と「あざむかないこと」(avisaṃvāditva)とは異なるので,ここも,「あざむかないこと」とすべきである.
  1. 2009/01/23(金) 20:09:01|
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Ōtani Tōbō pottery


唐津2009 153.jpg Mr. and Ms Kajiwara's atelier

唐津2009 140.jpg Anagama kiln ("Cave" kiln)

唐津2009 134.jpg

唐津2009 173.jpg
Sari 3391-11 Ouchi Karatsu Saga JAPAN 849-3233 Tel: 0955-62-2479

大きな地図で見る
Cf. http://www.umakato.jp/road/genki/09.html Their works are also available at Gallery Homura in the Karatsu city center.
  1. 2009/01/17(土) 17:12:57|
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唯識と公共性


Saraswati6.jpg
我々には,他人が話しているのが聞こえ,他人が動いているのが見えます. 唯識によれば,この時実際に起こっているのは,他人の心がその人の発話や行動を引き起こし,その客観的に存在する発話や行動を我々が外から見ているというものではありません. 「他人の心⇒他人の発話・行動の客観的存在⇒私の心の上での表れ」ではないのです. そうではなく,他人の心がダイレクトに私の心の上に,そのような表れを生じさせているというのです. すなわち,「他人の心⇒私の心の上での表れ」となります. 他人の心が,どうして私の心に「認識させる」のでしょうか.
他人:  心        ➴ 私:       表れ
通常,私の心が私の発言・行動を引き起こす場合,唯識流に言い換えれば,私の心が私の発言・行動の「表れ」を引き起こす場合,二つは同じ心の流れの上にあるので,因果関係を考えるのに抵抗はありません. 自分自身の心の流れの中で,前の心が原因となって,このような表れが見えたという説明が付きます. 自主制作の単観上映に,客は一人です.他人とのクロスはここにはありません.
自分: 心⇒表れ
これを敷衍するならば,唯識においても,それぞれが,自分の作り出した映像を見ているに過ぎないと言うべきではないでしょうか.
他人:  心⇒表れ
私:   心⇒表れ
自主制作の単観上映に客一人ではあるのですが,偶然にも酷似した映像フィルムが隣の映画館でも客一人に見られているという状況です. しかし,これは唯識の認めるところではありません. あくまでも,他人の心が他人の言動の見えを私の心の上に引き起こしたのだ,と主張します.
他人:  心 ⇒  表れ        ➴ 私:        表れ
他人の心は,他人の心の上にも,私の心の上にも,同じような見えを引き起こすのです. この場合,配給元は同一でも,一つは直営店(他人の心)での上映となり,もう一つは非直営店(自分の心)での上映となります. ただ,私の心の流れも考慮すると,他人の心が,その人自身の心に表れる〈自分の行為の見え〉の直接的材料(素材)となるのと同様に,私の心も,他人の行為の表れの素材となると認めなければなりません. すなわち,私の心の上に現れた〈他人の行為の表れ〉には,他人の心という増上縁と,私自身の心という質量因と,二つの要因があることになります.
他人:  心 ⇒ (自分の行為の)表れA        ➴ 私:   心 ⇒ (他人の行為の)表れB
表れAと表れBとは,同じ或る人の心が引き起こした表れですが,その表れ方には,すなわち,因果関係のあり方には違いがあるわけです. 一人の人の心の中で一貫して流れた結果として生じてくる表れAが,自分の心が作り出した映像という意味で本来的な意味での「表れ」であり「認識させられているもの」です. これにたいして,他人の行為の表れとして見える表れBはどうでしょうか. ここでは,自分の心が素材となりつつも,他人の心が増上縁として働いています. そうして,他人の行為が私の心の上に見えるわけです. これは,第一義的な「表れ」と類似しているという意味で,第二義的に「表れ」として認められます. すなわち,同じ人の心(他人の心)を原因としているので,表れAも表れBも,「表れ」「認識させられているもの」と呼ぶわけです. とはいえ,表れAと,表れBとは,実際には,異なる二つの心に属しています. どうして,二つは同じだと思われるのでしょうか? どうして,他人の行動は,その当人にとっても,私にとっても,あるいは,私の隣にいるあなたにとっても,同じように見えるのでしょうか. すなわち,見えや表れの公共性は,どのように説明されるのでしょうか? 唯識によれば,この場合,「全く同じものを見ている」というのは,無始時以来の薫習によるものであり,そのような見方が染み付いているからだ,そのように見なす傾向性がこれまで習慣付けられてきたにすぎない,と説明されます. 表れAと表れBとは,あくまでも違うものです. その二つが「全く同一」であるわけはないのです. 違うものを同じとみなすのは間違いです. それは,潜在印象によるということになります. ダルマキールティは次のような比喩を提示します. 眼病者には,一つしかないはずの月が,二つに見えます. 客観的に実在することのない二月が見えているわけです. ここに二人の眼病者がいます. その場合,二人は,同じ二月を見ていると思い込むでしょう.
眼病者A: 二月の見えa 眼病者B: 二月の見えb
この場合,眼病者Aの心に表れた二月の見えaと,眼病者Bの心に表れた二月の見えbとは,いずれも間違っています. にもかかわらず,二人は,二月の公共性を信じて疑わないのです. 他人の行為の表れAとBについても,実際には違うものを,我々は同じだと思い込んでいるように習慣付けられているのです. ただし,二月の見えに,月という共通する(対象としての)原因が考えられるように,他人の行為の表れの場合,他人の心という共通の原因が考えられます. 他人の心はその当人である他人にとっては質量因として直接的に,私にとっては増上縁として間接的に機能します. Cf. 桂紹隆 1983 「ダルマキールティ「他相続の存在論証」 : 和訳とシノプシス」『広島大学文学部紀要』第43巻,102―120. 北川秀則 1965 "A Refutation of Solipsism (Annotated Translation of the Saṃtānāntarasiddhi)." 『インド古典論理学の研究』Appendix A-I.
  1. 2009/01/12(月) 09:24:42|
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kriyānibandhanatvāt


Vienna100.jpg 青色を見るとき,その〈青の認識〉を,〈黄の認識〉から区別するものは何でしょうか? 青の認識を,青の認識たらしめているものは何でしょうか. これこそが,青の認識の「手段」と呼ばれるものであるはずです. 単純に,青の認識を生じさせるもの全てではありません. 青の認識を,青の認識たらしめている,区別だてている,他から区別して特定化する,そのような主原因こそが,認識手段,すなわちプラマーナとなるはずです. PVin 31.5-9: anātmabhūtaś cāsyendriyārthasannikarṣādiṣu hetuṣu vidyamāno 'pi bhedo bhinne karmaṇy abhinnātmano jñānasya na bhedena niyāmakaḥ. (1) kriyānibandhanatvāt karaṇatattvasya tadaviśeṣe tasyā api viśeṣāsiddheḥ, (2) sato 'pi vā viśeṣasya tadanaṅgatayākaraṇatvāt. 認識手段プラマーナを言葉の上から分析してみましょう. それは, 認識という行為を成り立たせる手段, と分析できます. 行為を成り立たせるものとして,行為主体や,行為対象や行為手段など,さまざまな要因がありますが,プラマーナというのは,そのうちの行為手段,すなわち,認識を最も成り立たせる主原因となります. 認識手段プラマーナというのは,認識=行為=結果の行為手段(カラナ)となります.
行為手段      結果(行為) 認識手段   ⇒   認識
認識という行為は,行為手段であるプラマーナによってもたらされます.
karaṇa       kriyā pramāṇa  ⇒  phala
それは,次のように様々に呼称されます.
sādhana   ⇒   kriyā hetu          jñāna niyāmaka vyavasthāpaka    vyavasthāpya artharūpatā     prameyādhigati
いずれも,同じ因果関係を指しています. ただし,仏教論理学の認識手段の議論において,この因果関係は,単純な「生じさせるもの・生じさせられるものの関係」ではなく,特定化するもの・特定化されるものの関係だといわれます. もし,認識自体になんらの変化も生じていない場合,すなわち,認識の中に何らかの跡が残らないような場合,すなわち,鏡のように単に外界を映すだけであって,認識それ自体にはなんらの変化も起こらないと考える場合,言い換えれば,無形象認識論の立場に立つならば,青の認識と,黄の認識とで,認識それ自体には違いがないことになってしまいます. 有形象認識論の場合は,ちょうど,フィルムという心の上に残った青と黄の映像が異なるように,認識手段に差が生じることで,認識という結果に差が生じます. 青の認識と黄の認識との差異は,対象から投げ込まれたイメージ,フィルム上に残ったイメージの違いによってもたらされたものです. すなわち,心の上に写った青のイメージと黄のイメージが,差異原因となります. 「対象の形象を持つこと」が,差異原因,すなわち,認識手段となるのです. 鏡の心の場合は,結果としての認識(行為)の差異を説明できません.(何を食べても美味しい,美味しいと言っている人と同じように「違いの分からない人」となります.) 認識の内部ではなく,外部にある差異というのは,青や黄といった「異なる対象にたいして,その自体が異ならない認識を,区別だてて特定化するものではない」のです. 認識内部に生じたイメージこそが,認識を区別だてるものであり,青の認識を,黄の認識から区別して,特定化するもの,すなわち,プラマーナなのです. 行為手段であるプラマーナに違いがないならば,行為・結果である認識に違いが生じないのは当然です. 結果の違いは,原因の違いによってもたらされるものだからです. 「それ(カラナ)に違いがなければ,それ(行為)にも違いは成り立たないからである」とダルマキールティは述べています. その直前に,ダルマキールティは,
kriyānibandhanatvāt karaṇatattvasya
と述べています. これは何を意味しているのでしょうか? 直訳すると,
カラナのそれ性は行為に基づくから
となります. カラナがカラナであるのは,行為に基づくから,というわけです. これは何を意味するのでしょうか? ダルマキールティから時代的にそれほど遠くないと思われるチャンドラキールティの文章が参考になります.
PP 181.5-6: kriyānibandhanatvāt kārakavyapadeśasya karotikriyāyukta eva kaścit sadbhūtaḥ kārakavyapadeśaṃ labhate. 「カーラカ」(作る者)という呼称は,行為に基づいているので,「作る」という行為と結びついて初めて,ある存在は,カーラカ(作る者)という呼称を手に入れるのだ.
行為を成り立たしめる要因であるカーラカというのは,直訳すると「作る人」です. すなわち,行為を成り立たしめるカーラカは,行為を成り立たせる,作るものだから,「作る人」といわれるのです. 行為を成り立たせるカーラカが「カーラカ」と呼ばれるのは,成り立たせる,作るという行為に基づくというわけです. 行為を成り立たせない,作らないようなカーラカは,もはや,カーラカとは呼べないのです. カーラカの一種であるカラナも同様のはずです. すなわち,カラナという行為手段がカラナであるのは,カーラカ(作る者)の一種であるのは,まさに,行為を成り立たせる,作り出すからに他なりません.
カラナ⇒行為
すなわち,カーラカである以上,カラナは,行為を作るというのです. 両者は因果関係にあるというわけです. 因果関係にある以上,原因に差異がなければ,結果に差異がないのは当然です.
原因の差異⇒結果の差異 原因の差異結果の差異
まとめると,
カラナがカラナであるのは,すなわち,「作るもの」の一種であるのは,行為という結果を作るという行為に基づくのだから,原因であるカラナに違いがなければ,結果である行為にも違いは成立しないからである
となるはずです. ダルマキールティのkriyānibandhanatvāt karaṇatattvasyaという一文は,原因(プラマーナ)に差異がなければ,結果(認識)にも差異がないはずだ,ということを導く前提として,行為手段(プラマーナ)と結果(認識)の因果関係を,文法学的に再確認したものとみなせます. [kriyānibandhanatvāt]の続きを読む
  1. 2009/01/08(木) 18:51:09|
  2. 未分類

atha gaur ity asya śabdasya ko 'rthaḥ?


Mahabali-2009.jpg
  1. 2009/01/02(金) 13:59:59|
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