Pratibhanusarini --- 九州インド哲学ブログ2

On Indian Philosophy and Buddhist Studies

received: サンスクリット語・その形と心

Kamimura45

サンスクリット語・
その形と心
上村勝彦・風間喜代三
2010
三省堂
ISBN978-4-385-36465-0
3500円

http://www.sanseido-publ.co.jp/publ/gen/gen2lang/sanskrit_go/




という次第で,本書は語学を苦手とする筆者がサンスクリットをはじめて学ぶ人たちのために書き下ろした入門書である。かつて自分が苦労したことを思いおこしながら,学習の負担を少しなりとも軽減することができるように工夫しつつ,できるだけ平易に書いたつもりである。語学が不得手であることがかえって利点となって生かされていれば,こんなにうれしいことはない。(「まえがき」の上村先生の言葉より)




「あとがき」の風間先生の言葉から分かるように,本書は,2003年に急逝された上村先生の遺稿をもとにしたサンスクリット文法の入門書です.

『マハーバーラタ』の原典和訳というとてつもない作業と並行して,このような仕事をなさっていたとは驚きです.

同じ建物内にいたはずですが,まったく気がつきませんでした.

『ラグヴァンシャ』に言うように,偉い人がいつ行動を開始したのかは,その結果を見て初めて分かるものです.

tasya saṃvṛtamantrasya gūḍhākāreṅgitasya ca/
phalānumeyāḥ prārambhāḥ saṃskārāḥ prāktanā iva// Raghuvaṃśa 1.20



風間先生の「あとがき」に「ただ,ときに必要と思われる説明が欠けているところがあったり,また大きな重複があったりしたので,部分的に細くしたり,書き改めたりした」とあるように,遺稿に風間先生(姉妹シリーズのラテン語文法を担当)が手を入れています.

また巻末の動詞の語根表は,吉水清孝さんによるものです.

読者を飽きさせぬよう,数章ごとに「雑学のよろこび」というエッセイが挿入されています.

装丁は間村俊一さんです.




目次
まえがき(上村勝彦)
序章 サンスクリット語の文字,アルファベットとその発音
第1章 名詞(形容詞)の格変化(1)
第2章 名詞(形容詞)の格変化(2)
第3章 名詞(形容詞)の格変化(3)
    
    雑学のよろこび1

第4章 名詞(形容詞)の格変化(4)
第5章 名詞(形容詞)の格変化(5)
第6章 名詞(形容詞)の格変化(6)
第7章 名詞(形容詞)の格変化(7)

    雑学のよろこび2

第8章 -vat, -mat, -anで終わる名詞
第9章 -han, -in, -vas, -iyasで終わる名詞
第10章 形容詞の比較法,数詞
第11章 代名詞
第12章 関係代名詞

    雑学のよろこび3

第13章 動詞の第1種活用
第14章 動詞の第2種活用
第15章 動詞の第2種活用

    雑学のよろこび4

第16章 動詞の第2種活用
第17章 動詞の第2種活用
第18章 動詞の第2種活用
第19章 動詞の第2種活用

    雑学のよろこび5

第20章 未来
第21章 アオリスト(1)
第22章 アオリスト(1)
第23章 完了

    雑学のよろこび6

第24章 受動態と使役動詞
第25章 意欲法,強意活用,名詞起源の動詞
第26章 準動詞――現在分詞,完了分詞,過去分詞

    雑学のよろこび7

第27章 動詞的形容詞,不定詞,絶対詞
第28章 複合語
第29章 連声法(1)
第30章 連声法(2)

    雑学のよろこび8

第31章 サンスクリット撰文集

サンスクリット語とはどんな言語か
サンスクリット語の辞書のひき方
サンスクリット語 作品・文献案内
サンスクリット語 辞書・文法書案内
動詞語根一覧表
文法事項索引
語彙集
あとがき(風間喜代三)




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  1. 2010/01/28(木) 18:06:35|
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Kashi beach

Kashihama5

『点と線』の香椎浜.

もうここからは志賀島は見えませんが.
  1. 2010/01/17(日) 19:27:34|
  2. 未分類

九大印哲新年会

恒例の九大印哲新年会,大名の某エスニックにて.

残念ながら,スリランカから帰国したばかりの留学生は,ここ最近,寒かったせいでしょうか,風邪で欠席でした.

リーチャーは仕事で欠席.代理でGackyに登場願いました.

とはいえ,集まると,なかなかの大所帯です.

大陸からも二人.

白酒が無いのが残念でした.

松本さんの卒論提出祝いも兼ねて盛り上がりました.

こちら側の世俗の向こう,彼岸の勝義の席からは,果てしなき唯識三性説の話が聞こえてきました.

遍計所執性の気がします.

二次会は,三原さん勤務のカフェで,まったりと.
  1. 2010/01/15(金) 23:54:33|
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Kei Kataoka: Exegetical Problems of Pramāṇasamuccaya 1.9 (in Japanese)

片岡啓2009d
『集量論』I 9解釈の問題点――ディグナーガとジネーンドラブッディ――
『印度学仏教学研究』58-1, 455(106)-449(112).

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          『集量論』I 9解釈の問題点
     ――ディグナーガとジネーンドラブッディ――

                片岡 啓

問題の所在  ディグナーガがPS I 8cd-10 で取り上げる「量と量果」の問題は ,戸崎[1963][1979][1985]により注釈者ダルマキールティの立場が既に明らかにされている .ダルマキールティの枠組みがジネーンドラブッディに継承されることも戸崎[1979:46]の指摘の通りである.このことは2005年に出版されたPSṬ校訂本のapparatusにエディターが付した引用文献類からも確認できる .そこではPSṬの多くのパッセージがPVを受けたものであることが丹念に跡付けられている .達意的に注釈していくPVと異なり,ジネーンドラブッディは逐語的にPS(V)を注釈する.同時にダルマキールティの理解をPS(V)の中に読み取る.結果としてディグナーガの本文とのズレが浮き彫りになることがある.それは畢竟ディグナーガとダルマキールティの理解の差である.ジネーンドラブッディの場合,PS(V)本文に即して注釈していくため,その差異が眼に見え易いという利点がある.

 ディグナーガはPS I 9aにおいて「あるいはここ(知覚)で自己認識が結果である」(svasaṃvittiḥ phalaṃ vātra)と宣言し,自己認識(svasaṃvitti)を結果とする立場がオプションとしてありうることを明らかにする.注釈者ダルマキールティの理解に沿って従来,経量部に二説を認めながら,次のような解釈がなされてきた .

              認識手段            結果
I 8cd 経量部1  対象の現れを持つこと   外界対象認識
I 9ab-cd 経量部2  対象の現れを持つこと    自己認識
I 9ab, 10 唯識    把握主体の形象          自己認識

PS I 9aのvāで結ばれる「(A)あるいは(B)」のAに相当するのは,「あるいは」が含意するように「自己認識を結果としない」見解であり,ヴァスバンドゥが『倶舎論』I 42で示す見解を受けてPS I 8cdで念頭に置かれる経量部1の立場,すなわち,外界対象認識を結果とする立場である.いっぽうBに相当するのは経量部2と唯識に共通する立場,すなわち「自己認識を結果と認める」立場である.ジネーンドラブッディもこのようなディグナーガ解釈を示す.しかし自己認識を結果とする経量部説をディグナーガ自身は認めていたのか.本稿では,まず経量部2をPS(V) I 9に読み込むのが適当かを検討した上で,ディグナーガにおいて経量部に二説(経量部1と経量部2)を立てるのが適切かを検討する.

PS(V) I 9和訳  ディグナーガのPS I 9および自注PSVの直訳をまず示す .

I 9a: あるいはここで自己認識が結果である.
なぜなら認識は二つの現れを持つ――それ自身の現れをもつ,また,対象の現われをもつ――からである.二つの現れを持つその[認識]の自己認識が結果である.なぜか.
I 9b: なぜなら対象の確定はそれに[従った]形を持つからである.
なぜならば,対象を伴った認識が対象である場合(1),自己認識に従った形で,対象を「望ましい」あるいは「望ましくない」と理解するからである.いっぽう(tu),外界のものに他ならない対象が認識対象である場合には(2)
I 9c : これが〈対象の現われを持つこと〉が認識手段である.
なぜならその場合,認識によって自己認識されるにもかかわらず,[認識]それ自体については考慮することなく,これ(認識)が〈[外界]対象の現れを持つこと〉のみが認識手段となるからである.なぜならば,その対象が
I 9d: それによって認識されるからである.
なぜならば,XやYという形で――善・不善などとして――対象の形象が認識内に入り込むと,その同じXやYという形で,その対象が認識されるからである.

PS(V) I 9の構成  すぐに看取されるように,詩節の分節に沿って全体の構成は四つに分かれる.

PS(V) I 9a: 自己認識が結果である
PS(V) I 9b: 理由説明:自己認識に従って相分が理解されるから
PS(V) I 9c: 対象の現れを持つことが認識手段である
PS(V) I 9d: 理由説明:それによって外界対象が認識されるから

また下線部(2)のtuに明らかなように,二つの立場が対比されていることが分かる.「対象を伴った認識が対象である」(saviṣayaṃ jñānam arthaḥ)場合と「外界のものに他ならない対象が認識対象である」(bāhya evārthaḥ prameyaḥ)場合とである.単純にいえば,内的なものが対象である場合と外的なものが対象である場合である.この対立を素直に受け取るならば,二つのケースは,唯識と経量部の立場に言及するものと考えられる.それぞれの立場の説明も,認識内の相分を対象とする場合と,外界対象を対象とする場合という,唯識と経量部の対立を明確化したものと考えるのが最も自然である.自己認識を結果とする立場と,自己認識ではなく外界対象認識を結果とする立場とである.

  PS(V) I 9ab唯識 対象を伴った認識が対象である場合(自己認識が結果)
  PS(V) I 9cd経量部 外界対象が認識対象である場合(外界対象認識が結果)

しかしダルマキールティを受けたジネーンドラブッディの解釈は異なる.彼によれば,前半は経量部2と唯識に共通する立場であり ,後半は,その両者の中でも経量部2に関する但し書きと解釈される.つまりtuで結ばれ,内と外の対立を描くかに見えたPS I 9abとI 9cdは等しく経量部2を説明しうるというのである.ジネーンドラブッディは,唯識と同じく経量部においても見分である把握主体の形象(grāhakākāra)が認識手段とされるのではないかという反論を予想した上で,それを否定する形で「いっぽう外界対象が認識対象である[経量部の]場合には,自己認識を結果として立てるが,認識が〈対象の現れを持つこと〉が認識手段として認められるのであって,唯識のように把握主体の形象が[認識手段として立てられるわけ]ではない」(PSṬ 71.15­72.2)とディグナーガが述べたと注釈する(cf. PV III 346).

  PS(V) I 9ab 唯識+経量部2  対象を伴った認識が対象である場合
  PS(V) I 9cd  経量部2      外界対象が認識対象である場合

このジネーンドラブッディの解釈は明らかに不自然である.というのも,この解釈に従えば,ディグナーガは同じ経量部2の見解をtuで対立させた上に,対立する二つの説明を与えたことになるからである.すなわち,経量部においては,内的なものが対象であり,かつ,外的なものが対象である,ということになってしまう.この不具合に気づいていたからであろう,ジネーンドラブッディは,「対象を伴った認識が対象である」(saviṣayaṃ jñānam arthaḥ)について無理な解釈を行う.すなわち彼によれば,saviṣayamというのはjñānamにかかるバフヴリーヒではなく,「対象とともに」(saha viṣayeṇa)という不変化辞(avyayībhāva)と解釈される.すなわち「対象[が認識対象である場合]とともに,認識が認識対象である場合」と理解される.「認識手段の対象として,[楽などといった]認識に依拠する場合だけでなく……[青などの]対象に依拠する場合も[自己認識が結果である]」(PSṬ 71.9­11)と解釈されるのである .経量部においても,もちろん楽などの認識それ自体の自己認識を認めている.しかし「あるいは自己認識が結果である」という場合の自己認識とは,そのような内的な認識に限られるわけではない.青などの外界対象の認識についても「自己認識が結果である」といえるというのである(PSṬ 71.1ff).このような解釈を図ることで前半と後半の対立は解消する.すなわち,いずれにおいても,青などの対象が認識対象である場合が問題とされていると解釈することが可能である.

  PS(V) I 9ab 唯識+経量部2 認識や対象が認識対象である場合
  PS(V) I 9cd 経量部2     外界対象が認識対象である場合

しかしディグナーガのサンスクリット原文を見るとき,この解釈がおよそ不自然であるのは明白である.

PSV I 9ab yadā hi saviṣayaṃ jñānam arthaḥ
PSV I 9cd yadā tu bāhya evārthaḥ prameyaḥ

bāhya evaという限定から明らかなように,ここでは内と外が対比されているのであり,ジネーンドラブッディの解釈は明らかに二次的な解釈である.saviṣayamを「対象を伴った[認識]」ではなく「対象とともに」と解釈し,全体を「認識の場合と同様,[青などの]対象を認識対象とする場合」と理解し直すジネーンドラブッディの解釈は,経量部2の立場をPS I 9に通底するものとして読み込むという欲求に動機づけられたものと考えられる.
I 9d解釈の問題点  PS I 9aの「あるいは自己認識が結果である」とする立場に経量部2を読み込もうとするジネーンドラブッディの解釈が不自然であることを確認した.ディグナーガの原意において,I 9abとI 9cdの対立は,唯識+経量部2と経量部2の対比ではなく,単純に唯識と経量部の対立と捉えるのが自然である.次に取り上げるのは,I 8cdの経量部1とI 9cdの経量部2という区別をディグナーガが認めていたかどうか,という問題である.ジネーンドラブッディは,「AあるいはB」のAに相当する経量部1においては(外界)対象理解(arthādhigati, viṣayasaṃvitti)が結果となり,Bの経量部2においては自己認識が結果として立てられると,ディグナーガの発言を理解していた.

                           認識手段    結果
   PS(V) I 8cd  経量部1  対象の現れを持つこと  対象理解
   PS(V) I 9ab-cd 経量部2  対象の現れを持つこと  自己認識

認識手段についてはディグナーガがI 9cで述べるように「対象の現れを持つことが認識手段」である.ジネーンドラブッディにとって都合が悪いのはPS(V) I 9d: yasmāt so 'rthaḥ tena mīyate(なぜならその対象は,それ(対象の現れを持つことという認識手段)によって認識されるからである)である.I 9cにおいて「対象の現れを持つこと」が認識手段となることを宣言した後,ディグナーガはI 9dにおいて,その理由として〈対象の現れを持つこと〉(viṣayābhāsatā)を手段として対象認識があることを挙げる.ここにあるのは「対象の現れを持つこと」と「対象認識」の因果関係,手段結果関係である(量→果:viṣayābhāsatā→artho mīyate).ここでディグナーガは認識結果が「対象認識」であると明言している.もしジネーンドラブッディのいうように,I 9dが経量部2についての説明であるならば,ここは「自己認識」が結果とされるべきである.ジネーンドラブッディは,この問題に気がついている.そして,この不都合を逃れるために手の込んだ解釈を施す.それは大略次のようなものである(PSṬ 72.10­73.10).

 まずartho mīyateが,対象認識(arthasaṃvid)を第一義的に指すことはジネーンドラブッディも認めている.しかし,ここでディグナーガが意図しているのは対象認識の結果としての対象確定(arthaniścaya)であるとジネーンドラブッディは解釈する(PSṬ 72.10: mīyata iti niścīyate).すなわち,対象認識と対象確定との間にある因果関係を通じた転義的用法(upacāra)によってmīyateはniścīyateを指示する.結果として「対象の現れを持つことによって対象が確定される」というのがディグナーガの言わんとしたこととなるというのである(量→果:viṣayābhāsatā→artho niścīyate).また「自己認識が結果である」というI 9aの発言は,ジネーンドラブッディによれば「[対象認識は]勝義的には[自己認識を]本質とするので自己認識が結果だと述べた」(PSṬ 73.9: paramārthatas tādātmyāt svasaṃvittiḥ phalam uktam)のである(cf. PV 350bcd).I 9dでは転義的に「対象認識が結果である」と述べることで,認識手段である〈対象の現れを持つこと〉と結果である対象認識(→対象確定)とが同じ外界対象に向かっており,「認識手段と結果とが向かう対象にズレがない」(PSṬ 73.7: pramāṇaphalayor viṣayabhedo na bhavati)ということが明らかにされているというのである(cf. PV 350a).これがディグナーガが勝義的な立場からではなく,転義的な用法を用いてまで「対象認識が結果である」と発言した意図であるとジネーンドラブッディは結論付ける.

 以上のジネーンドラブッディの解釈は無理に無理を重ねたものである.まずartho mīyateというI 9dの発言は,ジネーンドラブッディも認めているように,言葉の第一義として「対象認識」が結果であることを明言するものであり,これを転義的用法と解釈する必要はない.あえて転義的用法と取ったとしても,「対象確定が結果である」との発言となり,これはI 9aの「自己認識が結果である」との発言と矛盾することになる.この矛盾を解消するためにジネーンドラブッディは,さらに「勝義的には」「転義的用法では」という区分を持ち出して「だから矛盾しない」(PSṬ 73.10: ity aviruddham)と強弁する.いずれも経量部1と別に経量部2を立てようとすることから生じた無理である.最初から「対象認識が結果である」とI 9dの発言を第一義で,経量部1の立場で解釈すれば何の問題も起こらない.しかもyadā tu bāhya evārthaḥ prameyaḥというI 9cdの導入句も自然に解釈できるのである.すなわちディグナーガにおいて経量部1と別に経量部2を立てる必要はないとするのがPS(V)本文に即した自然な解釈である.

ディグナーガの前提とする手段・結果の二説  以上を踏まえると,ディグナーガの本意として次のような解釈の可能性が考えられる.

                      認識手段         結果
   I 8cd, I 9cd 経量部  対象の現れを持つこと   外界対象認識
   I 9ab, I 10  唯識   把握主体の形象       自己認識

ディグナーガは経量部に二説を認めていない.I 9aのvāは,経量部にたいして唯識の立場では「あるいは自己認識が結果である」との意である.そしてI 9cのtuで対比的に示されたのは唯識に対して「自己認識を結果としない」経量部の立場である.この文脈で問題とされる経量部における認識結果はI 9dで明らかにされるように自己認識ではなく対象認識である .これはI 8cdで念頭に置かれていた経量部と同じものである.I 9cd導入句のyadā tu bāhya evārthaḥ prameyaḥもこれを支持する.ジネーンドラブッディはダルマキールティに沿ってI 9に自己認識を結果とする経量部2の立場を読み込もうとした.これはディグナーガの原文に照らして無理がある.そしてその無理を承知しており,ディグナーガの原意とのズレを知っていたからこそ,ジネーンドラブッディは不都合なディグナーガの発言にたいして懇切丁寧な再解釈を施したと思われる.すなわちジネーンドラブッディは確信犯的にダルマキールティに沿ってディグナーガを読み替えたと考えられる.ジネーンドラブッディの注釈の破れが,ディグナーガの本意がどこにあるのかを示唆している.




PS(V): Dignāga's Pramāṇasamuccaya, Chapter 1. Ed. E. Steinkellner (http://ikga.oeaw.ac.at/Mat/dignaga_PS_1.pdf).

「量と量果」および「自己認識」に関する最近の研究として村上徳樹[2008]「rang rig paに関するケードゥプジェの解釈」(日本西蔵学会々報54,17­31),小林久泰[2009]「認識結果としての自己認識」(日本西蔵学会々報55,121-130),Shinya Moriyama [2008] ``The Status of Self-awareness in the Sautrāntika Epistemology''(第15回IABS発表資料)がある.先行研究に関してはそこに挙げられる文献表を参照されたい.

戸崎宏正[1968]「佛論理學說と經量部說(5)」(印仏研33,70-73),戸崎宏正[1979][1985]『仏教認識論の研究』上・下(東京:大東出版社).

PSṬ: Jinendrabuddhi's Viśālāmalavatī Pramāṇasamuccayaṭīkā. Chapter 1, Part I. Ed. E. Steinkellner, H. Krasser, H. Lasic. Austrian Academy of Sciences Press, 2005.

PV: Pramāṇavārttikaは戸崎[1979][1985]に準拠する.
戸崎[1968][1979][1985],M.Hattori[1968]Dignāga, On Perception. Cambridge: Harvard University Press.

Hattori [1968:28ff],戸崎[1985:1ff],池田道浩[1993:8]「ケードゥプジェの量果の解釈について」(日本西蔵学会々報39, 8-13)による訳,および,小林[2009]によるテクスト訂正と和訳を参照した.

厳密にはI 9cdであるが,便宜的にI 9cと呼ぶ.

「外界実在論と外界否定論の[いずれにも共通するものとして],同じ一つのスートラでもって,[前とは異なる]特定の結果の設定を為そうとしながら[ディグナーガは]言う──「あるいはここで自己認識が結果である」と.前では対象の認識が結果だと述べられた.それゆえ「あるいは」という言葉は任意選択を意味する.」(PSṬ 69.4­6)

「対象とともに認識が」がいつのまにか「認識とともに対象が」とすり替えられていることにも注意されたい.
PS I 7abに明らかなようにディグナーガは分別を含む全ての認識に自己認識を認めている.しかしPS(V) 1.9cdで問題としているのは,「認識によって自己認識されるにもかかわらず,[認識]それ自体については考慮することなく」とあるように,対象認識の側面に関してである.
  1. 2010/01/12(火) 17:52:45|
  2. 未分類

講演:上馬塲 和夫「アーユルヴェーダする!日常から非日常を発見する処方箋」

アーユルヴェーダ関連の講演が箱崎キャンパスでありました.


九州大学C&Cプロジェクト
アイデアラボウィーク「日常から非日常をみつける1週間」

2010年1月11日
13:30-16:00
箱崎キャンパス文系地区 21世紀交流プラザ

上馬塲和夫 富山県国際伝統医学センター次長

「アーユルヴェーダする!日常から非日常を発見する処方箋」

Ayurveda1



先生の簡単な自己紹介に始まり,現代の問題,その背後にある問題へと順次進まれ,アーユルヴェーダの智恵へと.

リシ・デーヴァター・チャンダスという3即1のフラクタル構造.

そこから様々な現象を説明していきます.

さらに,3ドーシャの話へと.

前半で既に3:30.

ブレイクで漢方茶.

後半は,いくつか重要な本の紹介も兼ねながら,調身・調息・調心.

実際に「ソーハム」(so 'ham)の呼吸法を皆で実践.

終わったのは4:30でした.

そのまま飛行機で帰られるとのことで,大急ぎで出て行かれました.

著書3冊とお茶のパックは残していかれたままでした.

言及された著者は

大島清
榎泰邦
酒井邦嘉
村上和雄
柳澤桂子
イアン・スティーブンソン
神渡良平
酒井雄哉

日本東方医学会と日本ヨーガ療法学会の紹介パンフもコピーで配布.

そして,チャラカサンヒターからの引用は当然,矢野先生からのものでした.
  1. 2010/01/11(月) 17:36:49|
  2. 未分類

Kei Kataoka: A Critical Edition of Bhatta Jayanta's Nyayamanjari: The Buddhist Refutation of Kumarila's Criticism of Apoha

Kei Kataoka 2009c

A Critical Edition of Bhatta Jayanta's Nyayamanjari: The Buddhist Refutation of Kumarila's Criticism of Apoha. The Memoirs of the Institute of Oriental Culture (東洋文化研究所紀要) 156, 498(1)-458(41).

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See here for other articles of mine
  1. 2010/01/07(木) 22:16:34|
  2. 未分類

Sarasvati

Sarasvati67

Saraswati, Kasuga, Fukuoka

Sarasvati68

Sarasvati inside Kashi shrine, Kashi, Fukuoka

Sarasvati324

Sarasvati (just a stone with only her name engraved) inside Miyajidake shrine, Fukuoka
  1. 2010/01/05(火) 20:11:00|
  2. 未分類

Komyo Zen Temple, Dazaifu, Fukuoka

Komyozenji1
  1. 2010/01/05(火) 19:48:52|
  2. 未分類

カーンチー,カイラーサナータ寺院

Kailasanatha5

玄奘(602?--664)の『大唐西域記』巻10には,次のようにカーンチーの記述があります.


達羅毗荼國
達羅毗荼國周六千余裏,國大都城號建誌補羅,周三十余裏。土地沃壤,稼穡豐盛,多花果,出寶物。氣序溫暑,風俗勇烈。深篤信義,高尚博識,而語言文字,少異中印度。伽藍百余所,僧徒萬余人,皆遵學上座部法。天祠八十余所,多露形外道也。



ドラヴィダ国の首都はカーンチープラ.

唯識の有名な学者,護法はここの生まれです.

玄奘のインド滞在が640年頃.

カイラーサナータ寺院は,同時代のナラシンハヴァルマン一世の建造.

玄奘がナーランダーに留学していた頃に建てられたというわけです.

父のマヘーンドラヴァルマン一世が有名な笑劇『酔漢の戯れ』を著わしています.

裸の行者は,きっと,笑劇にも登場するカーパーリカ派のことでしょう.

ヘヴィメタもびっくりの裸に髑髏のアイテムを身に付けた髑髏教です.

しかし,本当に一万人も仏教僧がいたのでしょうか.

本当なら,九大全体で2万人ほどですが,学部生だけだと1万人強ですから,九大の学部生全員が仏教を勉強していた,というような感じになります.

印哲の学生数からは想像もつきません.

カイラーサ・ナータとはカイラーサ山の主,つまり,シヴァのことです.

本堂の「子宮」にはシヴァ・リンガが祀られています.

数あるシヴァの中でも,この時代に多いのはソーマースカンダ(ウマー・スカンダを伴ったシヴァ)です.

奥さんのパールヴァティー,息子のスカンダと仲良く並んだシヴァの浮き彫りがこの時代の祠の内壁奥にはよく見られます.

カーパーリカ教徒は,きっと,この寺院でも,髑髏の杯に肉と酒を入れて出入りしていたに違いありません.

『酔漢の戯れ』にも犬が登場しますが,訪問時も,野良犬が軒先に気持ちよさげに寝ていました.

写真撮影で起こしてしまいました.


Kailasanatha7

  1. 2010/01/04(月) 18:11:40|
  2. 未分類

2010

2010Tiger
  1. 2010/01/01(金) 00:00:00|
  2. 未分類

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