Pratibhanusarini --- 九州インド哲学ブログ2

On Indian Philosophy and Buddhist Studies

Thanks to Sankibo

本郷といえば、インド関係図書輸入のナガラ図書、そして、仏教書専門書店の山喜房仏書林

ナガラは森さん、山喜房は浅地さん

重要な新刊は無いかと、まめにチェックをしたものです


福岡から電話にて

「山喜房さんですか? ご無沙汰しています、えーっと、発注をお願いしたいのですが」

「あー、よーございますよ。5冊ですね。」

「メールでも送ったので、住所など、詳細はそちらを見てもらえれば」

「あー、メールね。私はメールは見ないから」

浅地社長、何事もなく言い切りました

メールのチェックは吉山さんの担当のようでした

直接電話して良かったです

さっさと用事が済みました
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  1. 2011/04/30(土) 21:48:29|
  2. 未分類

パル判事

インド研究の難しさは,まず語学にあります.

近現代史になれば,現地語に加えて,相当の英語能力が必要となります.

ある政治家を論じようとしても,その全体像を捉えようと思うならば,たとえばガンディーであれば,英語だけでなく,グジャラーティーやヒンディー語の資料を読みこなせる能力が必要でしょう.

当然,近現代史をやる人は,語学に応じて「自分の地域」というものを持つことになります.

北インドも南インドも同時にやる人,というのは当然,ほぼいません.(したがって,北インド研究者は,案外,南インドを旅行したことすらない人が多いのです.)

ベンガルを扱うなら当然ベンガル語.

一人で複数の言語をマスターすることは容易ではなく,せいぜい,一つ二つが外国人の限界でしょう.

著者は(最近は少なくなったが昔は多かった)カルカッタ留学組.

当然,ベンガル語はお手の物.

いまの若手では,ベンガル語をやっているという人も,コルカタに留学するという人も余り見かけません.

語学の習得は一朝一夕には不可能です.

ちゃんとした準備のある人のみが対象となる資料をコントロールできます.

インド研究が大変なわけです.

という意味では,「ヨーロッパの専門家」が成立困難なのと同様に,「インドの専門家」は成立困難であるとも言えます.(いるのは,ポーランドの専門家とか,ベンガルの専門家とか,というわけです.)

あとがきの「東京の国立公文書館の文書公開の仕方には問題があると言わざるを得ない」(p. 238)には受けました.

インドの図書館で苦労するのは普通ですが,まさか日本とは.

インド研究者は大概,現地で苦労しているので寛容の度合いが高いものですが,それを怒らせるとは余程の対応の悪さだったのでしょう.


中里成章:『パル判事』岩波新書

p. 183
蓮華大章>蓮華大


本書で久々に「木村日紀」の名を目にしました.

昔,東大の木村日紀文庫を漁ったのを思い出しました.
  1. 2011/04/20(水) 21:08:41|
  2. 未分類

ゲルク派の時間論

著書において根本さんは,丁寧に時間論を詰めていきます.

まずは広くインド全般.

そして,ツォンカパに至るまでの流れ.

様々な流れ,可能性の中から,一部がツォンカパへと流れ込み,そして,(仏教的には)きわめて特異な時間論が展開されます.

その歴史的経緯を丁寧に追っています.

また,ツォンカパの特異な主張を極めて明快に説明しています.

消滅状態を単なる無ではなく一種の「もの」として扱うという態度は,ヴァイシェーシカやミーマーンサーのpradhvaṃsa-abhāvaを容易に想起させます.

ゲルク派の特異な存在論,それはしばしば――もちろん世俗レベルにおいてという違いはあるでしょうけど――インド実在論と重なります.

実際,シャーキャチョクデンのツォンカパ批判によれば,「消滅状態が効果的事物であるとするならば,ミーマーンサー学派の説に陥ってしま(う)」(根本著,p. 47)とのこと.

納得です.

また,刹那がいわゆる「瞬間」ではない,というツォンカパの立場も,或る程度の持続をもってモノが消滅状態に至るというプロセスを考えれば,特に違和感なく,受け入れ可能です.

p. 9, n. 28:
Śabdānityatādhikaraṇa > Śabdanityatādhikaraṇa

p. 101, n. 19:
sarvāntyo api > sarvāntyo 'pi

p. 105, n. 25:
vyavasyanti īkṣaṇād > vyavasyantīkṣaṇād

  1. 2011/04/17(日) 18:52:54|
  2. 未分類

pratihatavighna

金沢さんの論文は,いつもながら,様々な情報に満ちていて有益です.

金沢 篤
「戯曲『シャクンタラー姫』の和訳(1)─「カーマ・シャーストラ」受容史構築のために─」
『駒澤大學佛學部論集』第40號, 2009, 458(107)-405(160) (PDFはこちら

p. 424に金沢訳を提示されています.

「障碍(pratihata)を打破する(bighna)」

とあります.しかし,正しくは

「障碍(vighna)が打破された(pratihata)」

でしょう.

なお,辻直四郎と田中於兎彌の関係について,金沢さんの言及がなかった点では,同じ東京府立第一中学卒だったことが注意に値するでしょう.

「なお、辻直四郎・足利惇氏・田中於兎彌・土井久弥(1916−1983)は数年ずつずれているが、いずれも東京府立第一中学卒である。」(片岡 [2008d:155, n.11],「「印哲」は何を目指してきたのか?」 『南アジア研究』20, 142-159)

人のつながりの再構成は実に厄介です.
  1. 2011/04/15(金) 21:04:27|
  2. 未分類

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