Pratibhanusarini --- 九州インド哲学ブログ2

On Indian Philosophy and Buddhist Studies

TS 1202

伊原1951は,TS1202を翻訳しています.

原文は以下.

TS 1202 (GOS):
yasya tarhi na bāhyo 'rtho 'py anyathāvṛtta iṣyate/
vandhyāsutādiśabdasya tena kvā'poha ucyate// 1202



訳と注は以下.

伊原 1951:21
「(汝アポーハ論者は,語の意味対象は``他の否定”であるといふが,)然らば,``石女の子”等の語については,(汝の主張する,意味対象たる)``他の否定"*は,外界の対象としても(存在するとは)認められない.そういふ語によつて,(意味として支持されるところの)アポーハとは,何について言はれるのか?」
*蔵訳gshan-las-ldog-paとあるにより梵文訂正




蔵訳によるまでもなく,カマラシーラ注には,anyavyāvṛttaの語がありますから,anyathāvṛttaは,anyavyāvṛttaだと分かります.

thāとvyāですから,プレスでの誤植の可能性が大きいでしょう.

そして,チベット訳からも分かるように,意味は「他の排除」ではなく「他から排除されたもの」となるはずです.

カマラシーラ注にも,anyāpoḍhaの語が見えます.

シャーンタラクシタやカマラシーラにおいては特にそうですが,「排除」なのか「排除されたもの」なのかは,「アポーハ」という語の語義解釈に関わる肝の部分です.
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  1. 2011/10/31(月) 08:36:40|
  2. 未分類

本邦におけるアポーハ論研究

アポーハ論研究は,1930年代のシチェルバッコイ,フワウワルナー,ムカジーあたりの研究から本格化します.

本邦では,早くも,1951年に伊原先生の論文が現れています.

伊原 照蓮
1951 「タットヷサングラハに於けるアポーハ説について」『文化』(東北大学文学会),15-1, 14-29.

フラウワルナーやシチェルバッコイは引いていますが,ムカジーを引いていないのが奇異に映ります.

戦後の時期ですから,東北大では,まだ手元になかったのでしょうか.

テクストとして,ディグナーガのPS, ダルマキールティのPV I,それにメインとなる寂護のTSと蓮華戒のTSP,それに最後に,少しばかりラトナキールティのASを加えています.

NACSISによると,ムカジーの1935年版を所蔵しているのは,東大・京大のみのようです.

The Buddhist philosophy of universal flux :
an exposition of the philosophy of critical realism as expounded by the school of Dignāga /
by Satkari Mookerjee. -- (BA17388637)
Calcutta : University of Calcutta, 1935
xlvii, 448 p. ; 25 cm
著者標目: Mookerjee, Satkari
所蔵図書館 2
京大文 仏教 GI||38 914629
東大文 印哲 3号館I:543 4800452783
  1. 2011/10/30(日) 12:18:25|
  2. 未分類

他者排除の語意論

アポーハ論は,語が「他者を排除することで語る」と言います

「木」は木ならざるものを排除しながら

また「牛」は非牛を排除しながら,自らの対象を表示する,といいます

要するに「牛」と言った時には,「牛のみ」というように,他者の排除が組み込まれている,というわけです

何かを肯定すると,既に,否定が組み込まれている

「牛のみ」は「牛でないものでない」ということです

語の本質的な機能は他者の排除にあり

というわけで,「牛」という語の意味は「牛でないものでない」つまり,非牛の排除,馬などの排除だ,というわけです

しかし,我々が日常,文を使う時,全部に「のみ」をつけるわけではありません

「この牛は白いねー」なら,「この牛は白くないことはない」という意味で「白いのみ」というような意図です

ここで,牛以外をことさらに排除することは意図されていません

逆に「白いのはこの牛だけだねー」なら,「この牛のみ」というところに焦点があります

牛以外の他のものが排除されていますが,「白いのは」については,別に,他者の排除は意識されていません

全部に「のみ」をつけると文が分裂してしまう,というのが聖典解釈学ミーマーンサーの基本原則です

一文に「のみ」は一個だけです

というわけで,アポーハ論は,全部に「のみ」をつけて考えるわけですから,もう,文分裂しまくり,ということになります

一個の単語だけを考察するときには「肯定が既に否定を組み込んでいる」「「牛」は非牛の排除をする」と言われると納得しますが,文の単位で考えると,少々,実感にそぐわなくなってきます

「青い蓮」と言うと,青の集合と蓮の集合を考えて,それぞれの重なり領域,排除領域を考えたがりますが,実際の文章は「青いのは蓮だけだ」や「この蓮は青くないことはない」や「青い蓮がある」というようなものです

したがって,青のクラスと蓮のクラスの重なり,あるいは,排除,というのは,どうも現実にそぐわない気がします

(そもそも,クラス,集合の論理で,現実の言語認識を分析するやり方は,説明できないことが多い気がします.)


否定は肯定を前提とする,ということは言えるでしょう

しかし,それと同様に,肯定が否定を前提としている,

あるいは,肯定・否定は表裏一体である,

というようなことは,我々の認知の在り方からいうと,そぐわないでしょう

まず肯定あり,そこから否定がある,というのが我々の認知の在り方で,常に,肯定・否定が表裏一体としてあるわけではありません

「のみ」を付しうる肯定表現は,確かに,他者の排除を含んでいますが,だからといって,全ての単語にそれを拡大適用することはできません

今日(だけ)は,非常に(だけ),天気の(だけ),いい(だけ),一日(だけ),でした(だけ)

MMK3094291
  1. 2011/10/27(木) 19:51:26|
  2. 未分類

Series "Mahayana Buddhism": Buddhist logic and epistemology

The series "Mahayana Buddhism" is being published from Shunjusha.

Already the first volume came out.

The rest volumes are coming soon.

I have been waiting especially for the volume on Buddhist logic and epistemology.

I remember that I checked a draft of my friend several years ago.

Now I almost forgot what I read.

******************

This month, on 6th October, I got a call.

The call is about the series.

Suddenly I became involved in the series.

What I was asked to write is the chapter on Apoha.

The deadline is the end of this month.

I managed to finish writing a paper and submitted it to the editor on 26th.

20 days' work.

The publisher said that it would be published in January, 2012.


yogasthaḥ kuru karmāṇi sangaṃ tyaktvā dhanaṃjaya/

siddhyasiddhyoḥ samo bhūtvā samatvaṃ yoga ucyate// Gītā

LeCousCous093
  1. 2011/10/27(木) 19:13:03|
  2. 未分類

アポーハの語意論

「木が有る」「木が無い」というように,「木」というのは,「有る」とも「無い」とも結びつきます.

ということは,木それ自体は,有るのでもなく,無いのでもないということになります.

もし木が有るならば,「木が」だけで十分で,「木が有る」というのは重複になるからです.

逆に,「木が無い」というのは矛盾です.

有るものが無いということになるからです.

ダルモッタラは,このようなわけで,「木」という語が表す意味は,有るにも無いにも共通するものだと主張します.

つまり,「木」の意味は,外界実在という存在ではありえない,というのです.

「木」の意味は,肯定・否定に結び付きうる,それ自体は存在でも非存在でもない,ふわふわしたものだ,というわけです.

この有無共通に基づく議論は,それほど説得力があるとは思えません.

「あ,木だ」と言った時,この発言は,木が有ることを言っています.

「あ,木だ」と言った時に,木が無いことは指さないでしょう.

「有る」はしばしば省略可能です.

つまりそれは,既に「木が(有る)」の「木」に肯定が含まれているからでしょう.

単語の意味は基本,肯定を含んでいるとしたほうが,はるかに全体としては楽です.


「木が有る」というような表現は,別の行為,たとえば「木が揺れている」「木が切り倒される」というような,同列にありうる他の行為にたいして「木が有る」と言っているような感じがあります.

「木」だけで,既に有ることは分かっていますが,他の行為を否定するために,「有る」と付け足すのでしょう.

そのように考えた方が楽です.

「木」という語それ自体は,肯定でも否定でもないとすると,「くるま!」と聞いた時に,車が有るのか無いのか分からないことになります.

無色透明の車とは何でしょうか.

車という単語の意味は,存在でも非存在でもないものなのでしょうか.

最も楽な考え方は,やはり,肯定がデフォルトで,否定がそれの打ち消し,という考え方ではないでしょうか.

もっとも,インドでは,バルトリハリ以来の心像説の伝統があるので,存在・非存在のいずれにも結び付く,それゆえ,外界の存在ではありえない,という議論のほうが,アカデミックに映るでしょうけど.

kuishinbo092
  1. 2011/10/27(木) 18:08:37|
  2. 未分類

viparyayadosa

toyobunko 004

「時空をこえる」とチベット文字も反転して見える,ということでしょうか.
  1. 2011/10/19(水) 22:36:39|
  2. 未分類

Obituary: Prof. Kazuhiko Murai, Kyushu University

英文の村井先生(57歳)が13日に逝去されました

箱崎駅近くの平成会館での通夜に参列
  1. 2011/10/16(日) 09:45:08|
  2. 未分類

Dosai at Amma

ドーサ32
  1. 2011/10/16(日) 09:23:17|
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The Amma Cook from Andhra

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お喋り好きのヴィラさん

サキーナさん曰く「弾丸トーク」

いつもはこのように元気です

が,昨日はキッチンの中で,いつになくおとなしいと思ったら,風邪の様子

あるいは過労でしょうか

気温がさがったからかもしれません
  1. 2011/10/16(日) 09:19:42|
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South Indian Meals Ready at Amma, Fukuoka

いろいろと試行錯誤があったようですが,ようやくランチセットの中身も固まってきたようです

amma722
amma723
amma730

これからディナーのメニューを練り直すとのこと
  1. 2011/10/16(日) 09:10:58|
  2. 未分類

buddha = vibuddha:心の花開いた人

buddhaというのは,budhの過去分詞

ktaをどう解釈するのか

karmakartariだと「(自ら)知った人」

あるいはkartariに解釈してprabuddhaの意味で「目覚めた」というくらいでしょう

ヤショーミトラによれば,他にもあるそうです

vibuddha,つまり,開いた

蓮が開いた,というのと同様に,心が開いた,のだそうです

つまり,仏陀=心が花開いた人,ということになります

こちらの方が,無明の闇からの寝起きの目覚めのイメージより,よほど綺麗です

さらに,karmaniもありだそうです

この場合だと「知られた」つまり,凄い美徳をもつ人として,また,欠点を離れた人として「知られた人」ということになります
  1. 2011/10/16(日) 08:56:06|
  2. 未分類

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