Pratibhanusarini --- 九州インド哲学ブログ2

On Indian Philosophy and Buddhist Studies

現代インド地域研究2011年度国内全体集会

NIHUプログラム『現代インド地域研究』2011年度国内全体集会
テーマ:「インドにおける経済発展̶都市・農村の変動̶」
日 時:2011年11月26日(土)・27日(日)
会 場:広島大学文学研究科講義棟 B204講義室(東広島キャンパス,広島県東広島市鏡山1-2-3)
主 催:『現代インド地域研究』東京大学拠点(TINDAS),広島大学拠点(HINDAS)

HINDAS 007

【11月26日(土)】
14:00-18:00 第1セッション「農村の長期変動と工業化」
座長:絵所秀紀(法政大)
14:00-14:30 水島 司(東京大)「インド農村の長期変動」
14:30-15:00 川島博之(東京大)「21世紀のインドの食料と水」
15:00-15:30 佐藤隆広(JNU/神戸大学)「インド農村工業化のダイナミクス」
15:45-16:15 山崎幸治(神戸大)「インドにおける非農業雇用と貧困削減」
16:15-16:45 和田一哉(東京大/NIHU)「非農業雇用と子供に対する教育投資」
16:45-17:00 コメント 宇佐美好文(東京大)
17:00-18:00 質疑・討論

HINDAS 012


【11月27日(日)】
9:00-12:20 第2セッション「大都市の発展と社会変動」
座長:日野正輝(東北大)
9:00-9:30 由井義通(広島大)「デリー首都圏地域(NCR)における都市開発と郊外生活空間」
9:30-10:00 友澤和夫(広島大)「インド工業化の空間構造̶デリー首都圏の自動車産業集積に着目し
て̶」
10:00-10:30 澤 宗則(神戸大)「インドの郊外農村の社会変動」
10:30-11:00 針塚瑞樹(筑紫女学園大・非常勤)「都市における貧困層の子どもの教育とNGO
̶ニューデリー、ストリートチルドレンを対象とした実践を中心に̶」
11:15-11:30 コメント 岩谷彩子(広島大)
11:30-12:20 質疑・討論


HINDAS 015



13:30-17:00 第3セッション「インドの経済発展をどうみるか」
座長:押川文子(京都大)
13:30-14:05 内川秀二(ジェトロ・アジア経済研究所)「製造業の発展と雇用創出」
14:05-14:40 岡田亜弥(名古屋大)「インドの産業人材育成と経済発展」
14:40-15:15 柳澤 悠(東京大)「農村社会の変容と経済発展̶サービス部門の拡大を中心に̶」
15:30-17:00 総合討論


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  1. 2011/11/28(月) 08:00:46|
  2. 未分類

Rakan-ji Temple, Oita

耶馬渓 082
耶馬渓 111
耶馬渓 075
  1. 2011/11/20(日) 23:19:08|
  2. 未分類

Kanoko-ohashi Bridge

甑島 1503甑島 1504甑島 1545甑島 1552
  1. 2011/11/18(金) 08:00:13|
  2. 未分類

Nagame-no-hama beach, Kami-koshiki-jima island, Kagoshima

甑島 1195

  1. 2011/11/16(水) 21:20:28|
  2. 未分類

Koshiki-daimyojin, Kamikoshiki-jima island, Kagoshima

甑島 1642

  1. 2011/11/14(月) 22:50:15|
  2. 未分類

Teuchi-kaigan beach, Shimo-koshiki-jima island, Kagoshima

甑島 651

  1. 2011/11/14(月) 20:20:51|
  2. 未分類

ガンダーラ写本研究センター

松田先生からの情報

http://www.badw.de/aktuell/pressemitteilungen/archiv/2011/PM_2011_29/index.html

21年間で860万ユーロ(Das Projekt mit einer Laufzeit von 21 Jahren und einem Gesamtvolumen von 8,6 Millionen Euro)というと,想像もつきません.

約9億円ということでしょうか.

1年間だと4000万円以上になります.
  1. 2011/11/10(木) 18:35:54|
  2. 未分類

received: Arlo Griffiths "Imagine Lankapura at Prambanan"

In:
From Lanka Eastwards
The Ramayana in the Literature and Visual Arts of Indonesia
Andrea Acri, Helen Creese, Arlo Griffiths (eds)
Series: Verhandelingen 247
xvi+259 pp
Illustrated
ISBN: 978 90 6718 384 0
Leiden: KITLV Press, 2011

http://www.kitlv.nl/book/show/1314
  1. 2011/11/06(日) 12:52:53|
  2. 未分類

日本南アジア学会九州支部 12月度定例研究会

「日本南アジア学会九州支部 12月度定例研究会」

日時:12月3日(土)13:30-17:00

会場:福岡大学セミナーハウス

発表者:弘中 和彦氏 (九州大学名誉教授)
     「21世紀インドの教育政策における卓越性追求の構造的特質(仮)」

    古田 弘子氏 (熊本大学)
     「インドのインクルーシブ教育について: チェンナイ周辺における調査結果を中心に(仮)」
  1. 2011/11/06(日) 07:54:50|
  2. 未分類

垂肉を持たないものではない

服部[1977:48]は,知覚対象である自相と,分別知(概念構想)の対象である共相の対立を重視し,次のようにアポーハ論の背景を記述します.


服部[1977:48]
On perceiving the particular which is endowed with dewlap, horns, a hump on the back, and so forth, one understands that it is not a non-cow, because one knows that a non-cow (e.g., a horse, an elephant, or the like) is not endowed with these attributes.



すなわち,垂肉・角・背こぶ等という特徴を持った個物を見た時に,非牛である馬等がそれらの特徴を持たないが故に,人がそれを非牛ではないと理解する.こうして,非牛から知覚対象の個物を区別し,「牛」という観念を得る.このようにして概念構想された牛一般が「牛」という語の意味である,というわけです.

しかし,この服部[1977]の説明では,垂肉等の肯定的存在を排除の拠り所として最初に認めることになってしまいます.

筆者と同じ疑問は,既に谷澤[1998:15, n.2]が赤松[1980:975]の同様の記述に対して表明しています.


赤松[1980:975]
例えば,顎下の垂肉,角などを持って目の前を歩いている個々の物は,確かに,そのような特徴を持たないものからの異なりを共通して持つものとして我々に認識される.




谷澤[1998:15, n.2]
しかし,これらの著書・論文の多くは,アポーハ論に対して全く疑問が表明されずに論が進められているという点でも,非常に刺激的であった.
たとえば,ダルマキールティのアポーハ論を扱った代表的論文である赤松(1980, 975)には次のような記述がある.

「例えば,顎下の垂肉,角などを持って目の前を歩いている個々の物は,確かに,そのような特徴を持たないものからの異なりを共通性として持つものとして我々に認識される.我々はそのような異なりをそれら諸個物の共通性としてとらえ,その異なりを表示するために「牛」という語をその異他性としての共通性の指標として使用するのである.これが,ディグナーガ,及びダルマキールティの主張である.」

この説明を読んで,果して納得する者がどれだけいるのであろうか.
どうしてこのような「主張」が成立するのだろうか.
これはまさに初めに顎下の垂肉などの肯定的な特徴ありきではないのか.




共通性の理解を説明するには多をつなぐ一者をどこかに求めなければなりませんが,垂肉等の定義的特徴をその一者に充当することは,アポーハ論という否定的意味論の意義を根本的に失わせるものです.




赤松 明彦
1980 「ダルマキールティのアポーハ論」『哲学研究』540, 87-115.

服部 正明
1977 “The Sautrāntika Background of the Apoha Theory.” In: Buddhist Thought and Civilization: Essays in Honor of Herbert V. Guenther on His Sixtieth Birthday, edited by Leslie S. Kawamura and Keith Scott, Emeryville: Dharma Publishing, 47-58.


谷澤 淳三
1998 「アポーハ論は何を説いているのか」『信州大学人文学部 人文科学論集<人間情報学科編>32, 3-19.
  1. 2011/11/03(木) 11:53:42|
  2. 未分類

差異としての意味における肯定・否定の同時性

ディグナーガのアポーハ論のモデルは,非牛の排除が共通性の役割を果たすというものです.

つまり,実在する普遍としての牛性の代替として,非牛の排除を立てるものです.

非牛の排除に限定されたものとして牛があります.

「牛」  →  非牛の排除  ⇔  馬等
         |     |
         牛    牛

後代においては,「牛である」=「馬等ではない」という肯定・否定の同時性が強調されるようになりますが,ディグナーガの段階において,そのような同時性は全く予期されていません.

明らかに否定が先だと考えています.

「牛だ」という肯定ではなく,「馬等ではない」という否定が先にある,というのがディグナーガのアイデアです.

それこそが,普遍という肯定の代わりに排除という否定を導入したディグナーガの功績でもあります.

「牛のみ」というのは,内容的に「馬等ではない」ということですから,意味は否定です.

否定が先にあります.

「否定的随伴のみを通じて推論がある」という彼の言葉も,そのような否定先行の立場を裏付けるものです.

ソシュールなどの差異の同時性にうかれて,ディグナーガにまで同時性を読み込むのは,ディグナーガの本意からずれます.

また,クマーリラがディグナーガを批判する時の視点も,否定を先とするディグナーガの見方についてです.


SV apoha 83:
また既成の非牛が排除されるはずである.
そして,非牛とは牛の否定を本質とする.
そこで非により否定される牛そのものが何なのかを述べるべきである.



非牛の排除のためには,非牛が既に成立しているものとして手元になければなりません.

いま,非牛=牛の否定,です.

それゆえ,牛の否定,における「牛」とは何かを明らかにする必要があります.

いわゆるCompositionalityの問題です.

結局,肯定的な牛が一番最初にある,ということを認めざるを得ません.

つまり,クマーリラの指摘は,

牛⇒非牛⇒非牛の排除

の順で成立する,というものです.

当然,クマーリラが予想するディグナーガの主張は,非牛の排除が先行する,というものでなければなりません.

Tillemans 2011が言うところの「トップダウン」のモデルというのも,この意味です.

すなわち,普遍と同様に,いきなり非牛の排除が立てられている,ということです.

そして,このことは,ディグナーガの予想する語意習得の否定的側面からはっきりと裏付けられます.

SKNSM 103
  1. 2011/11/03(木) 08:58:25|
  2. 未分類

我々の理解はそうなっている

梶山1960:80

此の点についてバーチャスパティ(やジャヤンタバツタ)は抗議して,言語認識に於て実在する対象が顕現せず,言葉がそれと無関係であるならば,ある言葉を聞いて他のものを避けつつ特定の対象に向かつて行為することがどうして可能になるか,と逆襲する.

ラトナキールチは答える.たとえ外物を把握しなくても,概念は特定の原因聚から生じ,特定の形相と機能を持つている,水という語を聞いた者は山や石に向かうことなく,水のみに向つて行為する.それはあたかも煙の知識が見えない火を推理せしめるように,自然に定まつたことであつて,何人もその因果関係が何故に可能となるかの理由を問うことは許されない.



対応するラトナキールティのASは以下です.(60,17-19)



ucyate. yady api viśvam agṛhītaṃ tathāpi vikalpasya niyatasāmagrīprasūtatvena niyatākāratayā niyataśaktitvāt niyataiva jalādau pravṛttiḥ. dhūmasya parokṣāgnijñānajananavat.

niyataviṣayā hi bhāvāḥ pramāṇapariniṣṭhitasvabhāvā na śaktisāṃkaryaparyanuyogabhājaḥ.



直訳すると以下のようになります.


答える.たとえ全てが把握されていないにせよ,分別は,特定の原因総体から生じるので,特定の形象を持つ.それゆえに,特定の能力を持つ.したがって,水等に向かう発動は,特定的でないことはない.ちょうど煙が目に見えない火の認識を生みだすのと同じである.

なぜならば,特定の対象領域を持つ諸存在は,認識手段により確定した本性を持つのであり,能力の混交について問われるべきものではないからである.



分別が本質的に錯誤であるにもかかわらず,分別知に基づく我々の行動がなぜうまく行くのか,それは,次のような因果関係に依ります.

特定の原因⇒特定の(形象と能力を持つ)分別⇒特定の(対象に向かう)発動



つまり,分別は本性上,そういうものだ,ということです.

これについては,これ以上問うても仕方ないということです.

梶山は「自然に定まつたことであって,何人も…その理由を問うことは許されない」と表現します.

一種の本性論svabhāvavādaです.

ダルマキールティ的なアポーハ論・概念論の行きつく先は,結局のところ,「我々の分別は,そのようになっているから,それ以上問うても仕方ない」というところに収斂することになります.

これについては,Tillemans 2011(in Apoha: Buddhist Nominalism and Human Cognition. Columbia University Press)が論考の結部で論じています.


After all, there are attractive nominalisms that, in effect, take samenesses or resemblances as primitive, needing no further explanatory postulates, ... .

As we saw previously, taking sameness as primitive seems to be what Dharmakīrti actually did in his bottom-up theory, although only when we were near the end of the causal chain and dealing with sameness of judgments. The basic standpoint, then, seems to be that at the end of the causal story, the apparent similarity between certain judgments is not an analysandum needing a further analysans; it is primitive and all the other samenesses (e.g., between perceptual images or between individual things) are explicable in terms of that sameness of judgment.



ダルマキールティの結論を言うならば,分別知,すなわち,同一の判断というのは,これ以上説明不要の既定の事実にして基底となる事実だ,というわけです.

これでは敵前逃亡ではないか,説明拒否ではないのか,問題に目をつぶっているだけではないのか.

果たしてこのような立場でいいのかどうか.

その点を更にTillemansは論じます.

彼の結論は,むしろいいことだ,というものです.


The interesting feature of this version of bottom-up Apohavāda, if the theory is carried out consistently, would be Dharmakīrti's enlightened refusal to play a metaphysician's game that was best put aside.



普遍のような形而上の存在を立てずとも説明できるわけですから,ダルマキールティ説は優れている,というわけです.

SKNSM 082
  1. 2011/11/02(水) 08:00:00|
  2. 未分類

アポーハの語義解釈と三種の分類

梶山1960は,「アポーハ論の分類と批判」と題して,冒頭の内容を紹介しています.



ラトナキ-ルチはアポーハ論の形態を図式的に分類している.アポーハシッディの冒頭に於いて反対者は批判のためにアポーハを三種に分類して考察する.
(一)アポーハとは一つの積極的な意味が他のものから排除されるか,他のものがこれから,或いはこれに於いて排除されるか,いずれかの仕方で異種のものと区別された外的な対象である.
(二)そのように異種を否定した積極的な観念像(buddhyākāra概念)である.
(三)否定そのものがアポーハであって,他のものの否定のみの謂である.



ASの原文は以下のようになっています.(梶山の解釈に沿って分節しておきます.)


apohaśabdārtho nirucyate. nanu ko 'yam apoho nāma.
(1) kim idam anyasmād apohyate. asmād vā'nyad apohyate. asmin vānyad apohyata iti vyutpattyā vijātivyāvṛttaṃ bāhyam eva vivakṣitam.
(2)buddhyākāro vā.
(3)yadi vā apohanam apoha ity anyavyāvṛttimātraṃ
iti trayaḥ pakṣāḥ.



ここにはアポーハの三種の分類があがっています.

(一)外的な対象
(二)観念像
(三)否定

また,最初に三つの語義解釈があげられています.

(a) これが他のものから排除される
(b) 他のものがこれからasmāt排除される
(c) 他のものがこれに於いてasmin排除される

梶山の解釈で,まず気がつくことは,下線部「そのように異種を否定した」に対応する原文がないことです.

「そのように」は何を指すのでしょうか?

日本語で普通に考えると,直前の「いずれかの仕方で」を指すはずです.

ということは,最初の三つの語義分析の選択肢が(二)にも係っていると解釈したことになります.

三つの語義分析は(一)と(二)だけに係り,(三)には係らない,ということになります.

(一) a, b, c
(二)(a, b, c)
(三) --------

実際,(三)は,apohanam = apohaですから,a,b,cのような凝った解釈は必要ありません.

また,yadi vāという接続詞の切れ目も,それを示唆しています.

つまり(一)(二)は,a, b, cのいずれの語義解釈も持つ,ということになります.


apohaśabdārtho nirucyate. nanu ko 'yam apoho nāma.
kim

(a) idam anyasmād apohyate.
(b) asmād vā'nyad apohyate.
(c) asmin vānyad apohyata

iti vyutpattyā

(一) vijātivyāvṛttaṃ bāhyam eva vivakṣitam.
(二)buddhyākāro vā.
(三)yadi vā apohanam apoha ity anyavyāvṛttimātraṃ

iti trayaḥ pakṣāḥ.



石田2005を参照すると,シャーキャブッディやカルナカゴーミンの解釈は,次のようになります.

(1)外的な対象(自相):ここに於いてasmin他が排除される
(2)観念像:これによってanena他が排除される
(3)否定:否定すること

ラトナキールティの語義解釈は,これとは少し異なります.

(1)外的な対象:
    a. 他(異種のもの)から排除されるもの
    b. これから他(異種のもの)が排除される
    c. ここに於いて他(異種のもの)が排除される
(2)観念像
    a. 他(異種のもの)から排除されるもの
    b. これから他(異種のもの)が排除される
    c. ここに於いて他(異種のもの)が排除される

(1)の外的な対象に関しては,cがシャーキャブッディの解釈でしたが,a, bを加えていることになります.

(2)の観念像に関しては,anenaがシャーキャブッディの解釈ですが,その解釈はラトナキールティには見られません.

さらに,ジュニャーナシュリーミトラでは次のようにあります.(モークシャーカラグプタも同様です.)


yat punar
(a) anyasmād apohyate,
(c) apohyate 'nyad asmin
veti
(1) vijātivyāvṛttaṃ bāhyam eva
(2) buddhyākāro
[vā] 'nyāpoha iti gīyate.



まず,テクスト訂正ですが,[vā]の補いは最低限不可欠でしょう.

McCrea & Patil 2010:51は,respectivelyとしています.

すると,次のようになります.

(1-a)外界対象:他から排除されるもの
(2-c)観念像:ここにおいて他が排除される

興味深いことに,「ここにおいて」という場所解釈は,シャーキャブッディにおいては自相に配当されていましたが,ジュニャーナシュリーでは観念像に配当されています.

また,観念像は,ここでは排除という行為の対象とされています.(シャーキャブッディにおいては手段でした.)

ラトナキールティの前提とする配置表で見ると次の部分です.


(1)外的な対象:
    a. 他(異種のもの)から排除されるもの
    b. これから他(異種のもの)が排除される
    c. ここに於いて他(異種のもの)が排除される
(2)観念像
    a. 他(異種のもの)から排除されるもの
    b. これから他(異種のもの)が排除される
    c. ここに於いて他(異種のもの)が排除される

シャーキャブッディのanena解釈が消えていますが,ラトナキールティが,場所解釈を,自相・観念像のいずれにも適用していることから,いずれにも統一的に同じ解釈を適用しようとしたことが推測できます.

多くの解釈を網羅する総合的で,しかも,統一感のある表を作りたかったのでしょう.

ラトナキールティは,いわば,整理屋さんといったところです.

少し図式的に過ぎるところが気になるところです.

非魚の排除に限定された存在
  1. 2011/11/02(水) 07:41:30|
  2. 未分類

三分類

梶山1960:78-79


先に反論者が実在論的偏見を雑えてなした三分類はラトナキールチによつて再整理されているようである.

先の第一説は肯定的な対象を考えて後にそのものを他との区別を説く点で一応肯定的アポーハ論である.

第二説はモクシャーカラの解釈を参照すれば――相対的否定をアポーハに適用して観念像の積極性を間接的に主張するもので,否定的アポーハ論と考えられよう.

第三説はアポーハを単純否定と解するもので,ラトナキールチはこれを全く顧みない.



先の三分類というのは,アポーハの三種の分類のことです.

(1)外的な対象
(2)観念像
(3)否定そのもの

梶山は,アポーハの三分類を,肯定・否定論の三分類に重ね合わせてみようとするわけです.

(1)外的な対象:いちおう肯定的アポーハ論
(2)観念像:否定的アポーハ論
(3)否定そのもの:単純否定

しかし,明らかなように,肯定・否定論の分類を,そのままアポーハの三分類に重ね合わせることには無理があります.

そもそも,観念像は,相対否定ですから,他から排除された結果として浮かび上がってくる肯定的なもの,すなわち,「他から排除されたもの」という肯定にあたるはずです.

それを否定的アポーハ論に配当することはできないでしょう.

すなわち,

(1)外的な対象:肯定
(2)観念像:肯定
(3)否定そのもの:否定

となるはずです.また,肯定論・否定論・折衷論であれば,

A. 否定論:否定→肯定(異時)
B. 肯定論:肯定→否定(異時)
C. 折衷論:否定+肯定(同時)

などとなるはずです.(つまり,いずれの説においても肯定・否定の要素それ自体は共通しています.)

アポーハの内容の三分類と,肯定・否定論の分類とは,ひとまず,別個に分けて考える必要があります.

非海鮮丼の排除
  1. 2011/11/01(火) 18:14:23|
  2. 未分類

アポーハ論発展史の捉え方

伊原1951を例外的な先駆とすると,梶山1960を,本邦の本格的なアポーハ論研究の始まりとみなしてよいでしょう.

この後,京都大学を中心にアポーハ論研究が進んでいくことになります.

京大印哲の黄金時代と重なります.

梶山雄一,服部正明の両先生が活躍した時代です.(以下,敬称略)

門下から,桂紹隆,赤松明彦が,これに加わっていきます.

また,アポーハ論の周辺でも,たとえば竹中智泰による普遍論研究があります.

梶山 雄一
一九六〇 「ラトナキールチのアポーハ論」『印度学仏教学研究』8-1(15), 76-83.

この論文は,後期インド仏教の雄の一人,ラトナキールティのアポーハ論を簡潔に紹介したものです.

ここでは,アポーハ論の発展史について,次のような三段階を説きます.


ディグナーガの真意はとにかくとして,クマーリラ・ウッディヨータカラ等の批判の対象となつた限りの彼のアポーハ論やダルマキールチのアポーハ論は,なお否定的な一面を強調していたようである.

ジネーンドラブッディ,特にシャンタラクシタはアポーハに於ける肯定的な面即ち,相対的否定としてのアポーハの後にあらわされる肯定的概念の積極性を主張した.

それに対するトリローチャナ・バーチャスパティ・バーサルバジニャ(Bhāsarvajña=Nyāyabhūṣaṇakāra)などの批判を経た後,仏教論理学の最後の段階に於ては,アポーハを相対的否定によって解釈しながらも,その否定と肯定を同時的に綜合し,他の否定が積極的な観念の限定者としてあるという説――限定的アポーハ論――を展開した.この説では言葉の対象は習慣的な心理像であるが,それが外部に肯定的に投影されたものである点が強調される.ラトナキールチ(Ratnakīrti)のApohasiddhiやモクシャーカラグプタのTarkabhāṣāはこの説をとつている.



まとめると,

(1)否定:ディグナーガ,ダルマキールティ
(2)肯定:ジネーンドラブッディ,シャーンタラクシタ
(3)否定・肯定:ラトナキールティ,モークシャーカラグプタ

となります.

この見方は,ムカジーに基づくものとみなせます.(しかし梶山論文では,ムカジーの著書は言及されていません.)

ムカジー・梶山の歴史観は,後の研究により批判されることになります.

それは,ダルマキールティを「(1)否定」の組にいれることをめぐってです.

すなわち,(3)の見方が既にダルマキールティに(萌芽的にであれ)確認される,という指摘です.

シュルグナに通じない道
  1. 2011/11/01(火) 07:51:20|
  2. 未分類

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