Pratibhanusarini --- 九州インド哲学ブログ2

On Indian Philosophy and Buddhist Studies

論文>車

テクストを繰り返し読んでいると,色々な文章が混ざり合い,そのうちに,問題となる個所が整理されてきます.

そして,問題が「AなのかAでないのか」という形にまで煮詰められ,そこで更に悩むことになります.

ブレイクスルーとなるアイデアは,茫漠とした意識(無意識)の中から生み出されてきます.

論文の核となるアイデアを掴むのは,空気を固めて固形化するような作業です.

広がりから問題を探し出し,固めて,きれいに提示して,きれいに解決しなければなりません.

明け方とか,うたたねとか,そのような時に忽然と分かるもの,と世間でよく言われるのがアイデアの創出です.

そのほか,思わぬときに,意識せずに,閃くものです.

或る先生は,大学の研究室に向かう車の運転中に「これだ!」と,思い至ったそうです.

文字に記さないアイデアは水蒸気のようなもの.

早く文字に起こさないと,気化して雲散霧消してしまいます.

それを文字に記すことで,氷の状態となって,安定化します.

その作業を終わるまでは油断禁物です.

件の先生,なんと運悪く,途中で,後ろの車におかまを掘られたそうです.

早く研究室に行ってアイデアを書き記したいは,いっぽうで,この事故処理をしなければいけないわ.

ここで事故処理をして,警察を呼んでたら,論文のネタがどこかに行ってしまうかもしれません.

先生は,そこで迷わず決断.

「いいから,大したことないから」

というわけで,おかまを不問にして,そのまま相手を許して大学に行ったそうです.

そして,アイデアを記して一安心.

しかし,あとからおかまの跡を確認したところ,思ったより,ぶつけられていたそうです.

「かみさんに怒られるわ」

千載一遇の論文アイデアの創出の瞬間,研究者の醍醐味は,ここにあります.

他の瑣末事が後回しなのは当然です.
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  1. 2011/12/29(木) 08:06:58|
  2. 未分類

インド思想史学会(京都大学)

インド思想史学会第18回学術大会

開催日  2011 年12 月17 日(土)

会 場  京都大学楽友会館2 階会議・講演室

研究発表者および発表題目

13:00 -13:50 金菱 哲宏(京都大学・博士課程)
「Yogabhasya に見られる`svavyanjakanjana'」

13:50 - 14:40 近藤 隼人(東京大学・博士課程)
「古典サーンキヤ体系におけるaptavacana の位置づけ--Yuktidipika を中心に|」


14:55 - 15:45 池端 惟人(京都大学・非常勤講師)
「`Dvaita' にとってのSamkhya「二元」論」

15:45 - 16:35 置田 清和(京都大学・日本学術振興会特別研究員PD)
The Sound of the Fifth Note: A Vaisnava Reinterpretation of a Muktaka Verse Attributed to Silabhattarika"


16:50 - 17:40 松田 和信(佛教大学・教授)
「スティラマティの倶舎論注釈書Tattvartha の梵文写本について」


今回は楽友会館にて

若い人の発表が続き,ここ最近「高齢化」の続くインド思想史学会も,少し若返った様子です

服部先生を中心とするダルシャナ(インド哲学の論書)から,インド学全般へと発表内容にも広がりを見せていた本学会ですが,今回は,珍しく,インド哲学ど真ん中の発表が続きました

金菱,近藤,池端,三氏の発表はいずれも博論へと直結するもの

各自がこれまで追ってきた内容について,その一断面を切り出したものです

いずれもダルシャナ科研メンバー

置田氏は,インド音楽を流しながらの登場

考察するヴァースはkaumaara-hara(処女を奪う[クリシュナ様])で始まるもの

詩論の中でも,「愛」srngaraの味わいrasaについて

sambhogaでもなくvipralambhaでもない愛がありうるのか,という詩論上,きわめて難しい問題に関わるものです

最後の発表は松田先生によるアビダルマ写本研究の現状報告

大きいテクストなので,まだまだ時間がかかるそうです

論理学関係の人材が欠けているらしく,参加メンバーを募集中

ProfMatsuda

二階から一階に移動して懇親会

会長挨拶は井狩先生

さらに,乾杯は創設者の服部先生

ProfHattori

副学長の赤松先生も久々に参加
  1. 2011/12/19(月) 06:32:57|
  2. 未分類

received: Series Mahayana Buddhism, Vol. 2

シリーズ大乗仏教2
大乗仏教の誕生
春秋社
2011年12月10日
2800円+税

斎藤明:大乗仏教の成立
下田正弘:経典を創出する
渡辺章悟:大乗仏典における法滅と授記の役割
平岡聡:変容する仏陀
馬場紀寿:上座部仏教と大乗仏教
本庄良文:アビダルマ仏教と大乗仏教
赤松明彦:ヒンドゥー教と大乗仏教
吉水清孝:中世初期における仏教思想の再形成

インド仏教を学ぶのに,まず開くべき書として長く使われてきた講座大乗仏教

その新版

21世紀の劇的なインド仏教研究の進展を映しています

最新の仏教研究の「いま」を伝える書として,これ以上に便利なものは見当たりません

面白いことに,各著者の見方は決して「決定版」といった教科書的な定説をまとめたものではありません

まだ喧々諤々の議論が続く各領域を,その舞台で活躍する一線の論者が覗かせてくれる,そのような趣があります

さながら,大乗仏教研究は「戦国時代」といったところでしょうか

思想史構築の躍動感を伝えてくれます

これまでのありきたりな通俗理解が頁を繰るごとに裏切られる感すらあります

前シリーズの編者は,平川・梶山・高崎

今シリーズの編者は,桂・斉藤・下田・末木

平川→高崎→斉藤・下田という東大印哲の流れ,あるいは,梶山→桂という京大印哲の流れを見ると,一世代から二世代さがった感じです

平川や梶山に顕著なように,かつては一人が広い領域をカバーしていました

各専門家が執筆するとはいえ,或る程度,各論者の手綱を編者が引くこともできたでしょう

しかし現代では,他分野と同じく,細分化が進んでいます

今シリーズの目次を見る限り,編者といえども,各分野をくまなくカバーすることは不可能なはずです

それぞれの専門家に任されている感があります

大乗仏教のこのような多様性・多面性は,学部時代に読んだ教科書的な解説からは想像もつきません

実に刺激的な分野です

学部で習った知識は先生になった時には古くなっている,

その当然の理を思い知らせてくれるシリーズです
  1. 2011/12/12(月) 20:40:00|
  2. 未分類

南アジア学会九州支部定例研究会(福大セミナーハウス)

「日本南アジア学会九州支部 12月度定例研究会」

日時:12月3日(土)13:30-17:00

会場:福岡大学セミナーハウス

発表者:弘中 和彦氏 (九州大学名誉教授)
     「21世紀インドの教育政策における卓越性追求の構造的特質」

    古田 弘子氏 (熊本大学)
     「インドのインクルーシブ教育: チェンナイ周辺における調査より」

久々の弘中先生のご発表

最近,広島で発表したものと同じとのこと

内容は題の通り,インドの教育政策に見える「卓越」概念を追ったもの

古田先生のものは障害児の特殊教育・インクルーシブ教育に関するもの

今回は「教育」ということで,広島からは河井さんも

懇親会終了後は,そのまま車で島根まで帰っていかれました

福大セミナーハウスは,レストランのコックが若手に代わったとのこと

格段においしくなったように思います

参加者はいつものメンバーに,久々に山口さんも

さらに飯塚からはBavaさんも

次回の例会は,2~3月に小倉開催の方向
  1. 2011/12/04(日) 07:35:05|
  2. 未分類

Lecture by Prof. Takeshi Nakano

京都大学准教授
中野剛志氏 講演会

九大生と考える日本の将来
TPP亡国論2.0

2011年12月1日
18:30~20:30
九州大学箱崎文系キャンパス大講義室

TPP 006

比文の施先生による企画.

500人ほどはいたでしょうか,大講義室が満員でした.

すごい集客の人気ぶりです.

なぜか隣には女子高生まで聴講に.

講義も相当に上手いですが,質疑応答も楽しませてくれました.
  1. 2011/12/02(金) 08:00:36|
  2. 未分類

実在する相似性・類似性と実在しない普遍

牛が垂肉等の特徴を持ち,馬等がそのような特徴を持たないことから,その異なりを「牛」という語の意味とする.

このような理解をアポーハ説と説明したのが服部・赤松であり,そのような説明を批判したのが谷澤でした.

服部[1977:48]
On perceiving the particular which is endowed with dewlap, horns, a hump on the back, and so forth, one understands that it is not a non-cow, because one knows that a non-cow (e.g., a horse, an elephant, or the like) is not endowed with these attributes.

赤松[1980:975]
例えば,顎下の垂肉,角などを持って目の前を歩いている個々の物は,確かに,そのような特徴を持たないものからの異なりを共通して持つものとして我々に認識される.

谷澤[1998:15, n.2]
この説明を読んで,果して納得する者がどれだけいるのであろうか.
どうしてこのような「主張」が成立するのだろうか.
これはまさに初めに顎下の垂肉などの肯定的な特徴ありきではないのか.






要するに,アポーハ論において,外界に実在する共通した形相や,実在する相似性・類似性を認めてよいのかどうか,ということです.

谷澤の問題意識は,シデリッツ他編のアポーハ論文集でも表明されています.

Chakrabarti and Siderits 2011:26-27:
Does the resort to exclusions in place of real universals succeed in explaining how particulars appear to naturally fall into kinds or classes without in the end bringing in real resemblances? If so, how? If not, is there some account of why real resemblances need not be backed up by real universals?



実在する普遍の代わりに排除(アポーハ)に依拠するのがアポーハ論です.

その試みは,ばらばらの個物が一つのクラスを形成するかのように現れて見えるという我々の現実の理解を説明することに成功しているのでしょうか?

しかも,最終的に,実在する相似性というものを認めることなしに.

逆に,もし実在する相似性というものを認めているならば,それが,その背後に実在する普遍を持たないと,どのようにして言えるのでしょうか?

牛Aと牛Bとは実際に似ているし,実在する相似性・類似性を持っているのだが,牛性なるものは存在しないと,どのようにして言うことができるのでしょうか?
  1. 2011/12/01(木) 08:00:29|
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