Pratibhanusarini --- 九州インド哲学ブログ2

On Indian Philosophy and Buddhist Studies

PST 39,5

次の最後の文は問題です.

PSṬ 39,3-5:
icchāmātrāyattavṛttayo hi śabdās te puruṣair icchayā yatra yatra yathābhūte niyujyante, taṃ tam arthaṃ tathābhūtaṃ pratyāyayantaḥ kena cāryante.



最新の和訳で吉田哲氏は次のように訳されています.

吉田[2011:145]:
実際、それら発話意欲のみに由来して起こる語が、人々によって恣意的にあれこれに対してある仕方で適用される際に、それぞれの対象をそのような仕方で現に理解させていながら、誰が〔そのことを〕疑うだろうか



kena cāryanteは直訳すれば「誰によって動かされるだろうか」となります.vicāryanteと同義と取って,「疑われる」の意味に取ったのでしょうか.しかし,一般的な用例ではありません.

筆者としては,昔のブログ(http://kaula.blog110.fc2.com/blog-entry-260.html)で指摘したように,cāryanteをvāryanteと訂正するのがベストと考えます.


片岡:
というのも,言葉というのは,[取り決めの]欲求のみに応じて[対象に対して]働くものであるから,それは,人が欲求により或る意味に適用するならば,そのそれぞれの意味をその通りに理解させる,それを誰が止められようか(vāryante)*.
*校訂テクストのcāryanteをvāryanteに訂正する.



チベットにはcis rjod par byedとありますから,kena vācyanteあたりを想定したのでしょうか.あまり助けにはなりません.

検索すれば多く引っかかることから分かるように,kena vārya(n)teというのは,一般的によく用いられる表現です.

また,icchāmātrāyattavṛttayo hi śabdāsに関してですが,発話意欲というよりは,言語協約,語意関係の取り決めに関しての欲求・意欲・意図のことでしょう.

ここでのvṛttiは,言葉が対象に対して働くこと,適用されることであり,単に「起こる」「生起」では,少しずれます.
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  1. 2012/01/30(月) 08:00:00|
  2. 未分類

辻直四郎訳『シャクンタラー姫』

精査するほどに完璧に訳されているのが分かる辻訳ですが,珍しく訳が欠けていました.

どこかの段階で抜けたのでしょう.

61頁の最後の行と62頁の一行目,シャクンタラーがドゥフシャンタ王への恋煩いにかかっている場面.

シャクンタラーを看病する二人の女友達と,それを離れて覗き見るドゥシャンタ王.


王 アヌスーヤーも余と同じことを考えている。

〈訳抜け〉balīo kkhu me āāso. ṇa sahasā sakkaṇomi ṇivediduṃ.(わらわの病はとてもひどいのです.押して告げるは無理というもの。)

プリヤンヴァダー シャクンタラーさま、アヌスーヤーさまのおっしゃることは、尤もでございます。なぜ御自分のその悩みをおかくしなさいます。



珍しいこともあるものだと思っていたら,さらに,同じページの62頁にもう一か所.


シャクンタラー (溜息をついて)あなたさまがたのほか、誰にお話し申す人がございましょう。

〈訳抜け〉kiṃ tu āāsaittiā vo bhavissaṃ. (しかしながら、わらわは、お二人に苦労をかけることになりましょう。)

二人の友達 シャクンタラーさま、さればこそわたくしどもが、無理にもお願い申すのでございます。



近接して二か所となると,印刷段階というよりは,草稿の段階で訳し落したのかもしれません.

あるいは一杯引っかけながら訳していたのしょうか.

『シャクンタラー姫』
カーリダーサ作
辻直四郎訳
岩波文庫
1996年6月17日 第7刷(1977年8月16日 第一刷発行)
  1. 2012/01/27(金) 19:05:59|
  2. 未分類

Fukuoka Asian Art Museum: Collecting India

開会式.

司会は,テレビ西日本アナウンサーの新垣泉子さん.

たくさんの人が集まる中,まず,福岡市教育長の酒井龍彦氏による挨拶.

さすが挨拶慣れしています.

その後,出品コレクターの一人,黒田豊氏による挨拶.

挨拶の中で氏は,学芸員の五十嵐理奈氏の労をねぎらいます.

是非,関西,関東にもこの展示を持って行ってもらいたいとのこと.

あとは,儀礼通りのテープカット.


アジ美インド 007


開会後は,黒田氏によるギャラリートークに続いて,岩立フォークテキスタイルミュージアムの学芸員による解説.

多くの人が入場する中,ゼミのレポート課題にでも指定されたのでしょうか,熱心にノートをとる女子大生のグループも散見されました.

そして,会場には,関さんの姿も.

杉本コレクションのバービー人形群を見て馬鹿受けの御様子でした.




日本のアーティスト/コレクターの眼
魅せられて、
インド。

Collecting India:
Fascination with Indian Visual Culture in Contemporary Japan

福岡アジア美術館
Fukuoka Asian Art Museum

2012/1/21~3/11(10:00~20:00)
Wednesday Holiday

http://faam.city.fukuoka.lg.jp/cgi-bin/exhibition/exhibition.cgi?eid=10745


一つだけ,デーヴァナーガリー文字の天地がひっくり返った作品がありました.
  1. 2012/01/21(土) 12:28:59|
  2. 未分類

「脱文献学的考察」の考察

シリーズ大乗仏教9「認識論と論理学」が出版されました.

その末尾を飾るのは,谷貞志先生の「「刹那滅」論証――時間実体(タイム・サブスタンス)への挑戦」です.

他の論考とは毛色の違うことはタイトルからも明らかです.

「思想史」ではなく,いわゆる「哲学」を目指したものです.

出だしから奮っています.


一 脱文献学的考察
ここでは「文献にある以上のことを語ってはならない」とする現在インド学・仏教学において最も有力な文献学的傾向のフレームを敢えて超えて,ダイレクトに「刹那滅とは何か」を哲学的に問題にする.(p. 260)



サンスクリット文献を丁寧に読んで,そこに書いてあることを忠実に再現し,報告する.

そんな滅私奉公的な「文献学」を私は目指さない.

そうではなく,文献から哲学を掘りだして,生き返らせて,その内容を批判的に吟味し,格闘していく,そんな「哲学」を目指す,という態度表明です.

たしかに,「文献学」の作業は,地道にサンスクリット文献を読んで,そこにある内容に頭を追い付かせながら,なんとか言っていることを理解する,というだけで一日一日が暮れていく,そんなものかもしれません.

そして,文献に書いてもないことを勝手に言い出したり,自分で再構築したり応用したりしたら,先生から怒られる,同僚からは疎んじられる――そういうイメージなのかもしれません.

これに関しては,「文献学者」としては一言文句を言っておく必要があるでしょう.

「文献にある以上のことを語ってはならない」という信条を,文献学の信条とするのは間違いだと.

文献に書いてあることをそのまま再現する,日本語に置き換える,それ以上のことは文献には存在しないし語ってはならない,という態度は,私が「文献学チャールヴァーカ」と呼ぶものです.

すなわち,知覚しか認めない,文献に「見られるもの」しか認めない,という意味で,チャールヴァーカ(目に見えるものしか信じないインドの唯物論者)的な態度です.

これは,私の考える文献学とは異なります.

なぜならば,我々の認識方法は,知覚だけに限られないからです.

聖典解釈学ミーマーンサーでは,六つの認識型を考えます.

知覚のほかに,推論,比喩,言葉,アブダクション(「そうとしか考えられない」ことによる想定,仮説の設定),前五つの認識手段の非存在(=対象としての非存在「無い」を認識する方法),があります.

したがって,文献に直に書いてあることだけでなく,我々は,文献に書いてないことも「推論」できるはずです.

「こう書いてあるから,当然,こういうことが前提にあるはずだ」という推論です.

煙から火を推論するのと同じです.

たとえ目に見えなくとも,火があるのは確実です.

たとえ直に文献に書いてなくとも,十分な証拠があれば,目に見えないものも推論できます.

これは十分に「文献証拠に基づくもの」です.

犯行現場を目撃してなくとも,指紋やDNA型から犯人を特定できるのと同じです.


また,「~のようだ」「~みたいなものだ」というように類比的に理解することも可能です.

比喩のミクロな使い方をすれば,次のことも言えます.

哲学文献は,抽象的な語意に満ちていますが,それを記述する動詞語根は,実際には,物理的な行為を表すものがほとんどです.

プラマーナも,もともとは「量る」という動詞語根から来ています.

その語感を捉えるために,「ああ,秤で重さを量るみたいなものだな」と比喩的に理解することは,哲学文献を読むにあたっても,とても重要なことです.

そして,それは「文献に直には書いてないこと」かもしれませんが,比喩を通して文献から理解できることです.

つまり,文献証拠から十分に(我々の比喩的理解の方法を使って)理解できることです.

全くの自分勝手な想像というわけではありません.

マクロな比喩の使い方をすれば,現代思想と比べながら「~の言ってることと似ている」という了解方法もあります.

これが発展すれば(つまり軸足をサンスクリット文献と現代哲学文献の両方に等しく置くならば),いわゆる「比較思想」となるでしょう.

文献に書いてある内容を捉えるには,このような比喩的な理解も重要な働きをします.

比喩的理解は,文献に全く基づかない,というわけではありません.

あくまでもサンスクリット文献に軸足を置きながら,現代人としてそれを読み解くには,比喩的理解も必要ですし,そのような「読み込み」が入ることも十分に意識しておく必要があります.

正しく文献に基づいた比喩的理解・比較思想は,十分に文献を理解する作業です.

そして,神ならぬ自分の足場を考えた時,古代の文献を理解するにあたって,このような比喩的理解が重要な役割を果たしていること,本質的であることは,必然です.


同じように,同時代や,先行文献から,さらには,同じ著者が他の個所で言っていることから,語義を明確にすること,さらに,そこでは直接に言ってないような内容を補うことができます.

これは「言葉」に基づく補完作業です.

典型的にはいわゆる用例検索というもので,従来の文献学においても,これが最も重要な作業とされてきました.

これは面倒くさい地道な作業なので,「哲学指向」の研究者は嫌がるかもしれません.

谷先生の言う「文献にあること」のイメージも,これがメインかもしれません.

しかし用例から分かることには,非常に大きいものがあります.

この作業を怠ることはできません.

私の見るところ,この作業は,哲学文献を扱う「文献学」においても十分になされてきたとは言えません.

注釈文献やチベット訳を見て終わり,ということが多々あるからです.

そうではなく,もっと重視すべきは,著者自身の他の用例,さらには,同時代文献・先行文献での用例です.

我々は,著者自身の当時の教養を再現する必要性を認識しなければなりません.


そのほか,推論と似た作業ですが,「こう言っているから,こう考えるしかない」というアブダクションも可能です.

直接にはXは,どこにも書いてないが,常識的に考えて「Yと書いてるのだから,Xがあるとしか考えられない」という補完の作業です.

仮説の構築です.

たとえば,思想史上のミッシングリンクの想定です.

このような文献はいまだ見つかっていないが,思想史の発展から考えて,このようなことが言われていたはずだ,という想定が可能となります.

意外かもしれませんが,写本に基づく文献の校訂作業においても,このような「創造的・想像的作業」は重要です.

emendationや,さらに一歩進んだconjectureと言われるものです.

校訂作業は,単に写本の異読情報を記録するだけではないのです.

校訂には,校訂者の主体的な取り組みが必要不可欠です.(したがって,校訂本は,誰が作っても同じものになるわけではありません.その意味では,校訂本は,一種の芸術でもあります.)


以上,五つの認識手段のいずれを用いても認識されない場合,そのような内容は「文献には無い」「文献は意図していない」ということになります.

このような意味で「文献に無いもの」を勝手にこちら側で作り上げて理解するのは,文献学の範囲を超えます.

それは文献に根を持たないものですし,著者が意図していないものですし,学者が文献に帰することが許されないものです.


結局のところ,谷先生と私の理解の相違は,「文献学」の語義定義の違いということだけかもしれません.

やろうとしていることのメインの部分は同じです.

文献に書いてあること,著者の意図を正しく理解し評価する,ということです.

そして,それは,直に書いてあることだけでは分からない,ということです.

我々が持っている手持ちの様々な道具を使って理解する必要があるということです.

哲学文献を読むのに,我々の哲学的思考を停止させるわけにはいかないのは当然です.

「疾走するダルマキールティ」に追いつくには,我々も疾走する必要があります.

TT09842
  1. 2012/01/13(金) 08:15:12|
  2. 未分類

シリーズ大乗仏教9 認識論と論理学

シリーズ大乗仏教9 認識論と論理学
春秋社
監修:高崎直道
編者:桂紹隆・斎藤明・下田正弘・末木文美士
2012年1月20日
2800円+税

1.桂紹隆:仏教論理学の構造とその意義 3-48
2.稲見正浩:存在論――存在と因果 49ー90
3.船山徹:認識論――知覚の理論とその展開 91-120
4.岩田孝:論理学――法称の論理学 121-153
5.小野基:真理論――プラマーナとは何か 155-188
6.片岡啓:言語哲学――アポーハ論 189-226
7.護山真也:全知者証明・輪廻の照明 227-257
8.谷貞志:「刹那滅」論証――時間実体(タイム・サブスタンス)への挑戦 259-294

TT98421
  1. 2012/01/12(木) 18:28:57|
  2. 未分類

印哲新年会@カフェマノマノ

2012新年会 017

今年の印哲新年会は,Cafeマノマノにて.

2012新年会 027
  1. 2012/01/10(火) 23:14:20|
  2. 未分類

received: Birgit Kellner : Self-awareness (svasamvedana) and Infinite Regresses

Birgit Kellner
Self-awareness (svasamvedana) and Infinite Regresses:
A Comparison of Arguments by Dignaga and Dharmakirti
Journal of Indian Philosophy, 39, 411-426

仏教論理学・認識論といえばウィーン.

フラウワルナー,シュタインケルナー,クラッサー教授と続きます.

ケルナー教授は,現在は,ハイデルベルク大学.

かつては広大の桂先生の下に留学されていたこともあり,日本語もぺらぺらの才媛です.

仏教プラマーナ文献の書誌データの体系的な蒐集も彼女のおかげです.

上の論文は,ディグナーガのPS 1.12に見られる無限連鎖の話を取り上げたもの.

ディグナーガとダルマキールティを比較しています.

そして,ディグナーガの無限連鎖の話が,あくまでも,想起の話であることを指摘しています.

マティラルなど,先行研究では,想起の話であることを無視していたようで,単純に,「認識1←認識2←認識3…」という無限連鎖を考えて,それをディグナーガに帰していたようです.

なんともお粗末な話です.

ディグナーガの場合は,もう少し手が込んでいます.

対象の経験1を経験2が捉えることで想起1が生み出されます.

想起1が起こるのは,経験2があるおかげです.

さらに,経験2の想起があるのは,経験3があるからです.

対象←経験1←経験2←経験3…
        ↖  ⇓  ↖  ⇓
          想起1  想起2 …

このような無限連鎖を想定するのが,ディグナーガの無限連鎖の議論です.

つまり,仏教の立てる自己認識を認めない場合には,無限連鎖という過失に陥ってしまう,というわけです.

ケルナー教授は,この議論の問題点を明らかにします.

そもそも,無限連鎖が本当に起こるのでしょうか.

その場合,経験は常に想起されなければならない,ということが前提になっています.

しかし,想起が起こらない場合は,容易に想像できます.

われわれは,昨日の経験を全部想起するわけではありません.

対象←経験1←(経験2)
        ↖  ⇓  
          想起1 

想起1で止まっても,何も問題ないはずです.

想起1を可能にした経験2については,別に,想起する必要はないとすればよいのです.

これで無限連鎖が止まることになります.

実際に,ジネーンドラブッディも,このように無限連鎖が止まるという反論を登場させています.

彼は穴に気が付いています.

ケルナー教授は次のように述べます.

全ての認識は想起されなければならないという,より一般的な信念から帰結するものであるが,しかしながら,そのようなことは,事実の主張としては,全く説得力を欠いたものである.



どうにも,ディグナーガの議論は,このままでは,あまり説得力を持たないもののようです.

ケルナー教授は,結論において次のように締めています.

自己認識を打ち立てようとする彼の戦略は全体として説得力を持たないものである.



おそらく,論争において,この無限連鎖の議論はまだ十分に練られていなかったのでしょう.

ディグナーガ自身の考えた新しい議論だったのかもしれません.

一連の議論の最後に位置することからも,最後に付け加えた議論だったのかもしれません.

批判を受けていない議論というのは,弱くなりがちです.

いずれにせよ,自己認識と無限連鎖に関しては,もう少し洗練された議論が必要となります.

それにはダルマキールティを待たねばなりません.

Gaetano 003
  1. 2012/01/08(日) 13:13:42|
  2. 未分類

自己認識における我執臭

仏教認識論における「自己認識」とは,認識が対象と同時に,認識それ自身をも認識するというものです.

自証,自覚作用のことです.

認識は,対象に対して働くと同時に,認識それ自身に対しても同時に働くことになります.

この自覚作用は直接的なので知覚の一種です.

     ↷
対象←認識

このような認識の在り方(二面性)を証明するものとして,これを少し外から眺める認識である想起が利用されます.

「青を見ているなあ」という現在の知覚を後から思い出すとき,すなわち「昨日,青を見ていたなあ」という想起においては,青という対象と同時に,見ているという認識それ自体についても思い出しています.

対象←認識
   ↖↑
   想起

想起というのは,「経験した対象しか思い出すことはできない」という原則に縛られたものです.

たとえば,会ったことのない田中君の顔を思い出すことはできません.

青は昨日経験したから,今日,思い出すことができます.

同じように考えると,昨日の時点で,認識それ自体も経験されていた,ということになるはずです.

そうでなければ,「見ていたなあ」という思い出しはないはずだからです.

つまり,二つが想起されるということから,対象の経験と同時に,認識の経験が昨日の時点であったことが証明されます.

対象の経験によって対象の想起が生み出され,認識の経験により認識の想起が生み出されるのです.


     ↷
対象←認識
   ⇘ ⇓
   想起

このような自己認識を認めない立場もインドにはあります.

ニヤーヤやミーマーンサーの立場です.

認識は,対象を眺めるだけで,自分自身を捉えることはありません.

その場合,認識1は,認識2により認識されることになります.

対象←認識1←(認識2)

「青を見ているなあ」という自覚があっても,その時,「青を見ているなあ(と私は思っている)」という認識2の部分は認識されていません.

認識2は黒子として隠れています.

認識1をモニタリングするだけです.

これは,認識3を付け加えた場合でも同じです.

すなわち,「青を見ているなあと私は思っている(と私は思っている)」という場合も,最終のモニタリングする認識3は,黒子として隠れています.

対象←認識1←認識2←(認識3)

現代の脳科学は,このような立場に立つはずです.

先行する脳内現象をモニタリングするが,それ自体をモニタリングするには,さらに別のものが必要となるはずです.

このような立場に立つ場合,想起は,次のように説明されます.

対象の認識1により,「青」の部分が想起可能となります.

また,対象の認識1をモニタリングする認識2により,「見ていたなあ」の部分が想起可能となります.

すなわち,認識1と認識2のおかげで「昨日青を見ていたなあ」という想起が生み出されるのです.

     
対象←認識1←(認識2)
         ⇘  ⇓
          想起

ここで,認識2自体は,黒子として隠れたままで,経験されていません.

隠れたままで認識1を捉え,それにより,想起を生み出すのです.

認識2がない場合は,当然,想起も,「青があったなあ」という形を取るでしょう.

対象←(認識1)
      ⇓
     想起

しかし,このような黒子の存在である認識2は,仏教にとっては,実に気持ち悪い,許しがたい存在です.

見た自覚がないのに見ている,ということになるのですから,当然です.

ミーマーンサーの立場では,認識は,「青だ」という形を取るのであって,「青を見ているなあ」というように,自覚作用を含んでいません.

「青を私は見ているなあ」という自覚作用がない「青だ」という認識は,いったい誰に帰属するのでしょうか.

その認識は本当に自分のものなのでしょうか.

誰か他の人に属していてもいいのではないのか,ということになります.

物←(私)

物←(彼)

「私が経験している」という部分は,あくまでも黒子として顕在化していないのですから,この場合,実際には「彼が経験してい」てもいいはずです.

ジネーンドラブッディは,次のように言っています.

それでは,自分に属する経験というのは何に基づいて成立しているのか.というのも,もし経験が成立するならば,それは,自分に属すか,他人に属すか,という区分があるはずである.しかし,そのような区分は成立していない.それが成立していない以上,いずれの場合も見えない点で違いはないのだから,「自分だけにこの経験が属し他人にではない」というこのことは,目に見えない知覚によっては,分からない.



「私が見ている」という部分が隠れているならば,実際には「彼が見ている」のでもいいではないか,という詰問です.

対象だけがスポットライトを浴びているが,その光源であるスポットライトは隠れて見えていない場合があります.

東京国立博物館の法隆寺館にあるピンライトなどは,仏像だけが綺麗にうきあがって,ピンライト自体を意識させません.

灯台もと暗しの状態です.

光源はAかもしれないし,Bかもしれません.

その場合,確かに,光源がどこにあるのかが分かりません.

本当に自分が見ているのかどうかは自明ではないのです.

これにたいして,仏教の自己認識理論では,光は必ず自明でなければならないと考えます.

光自体が見えていなければ,その光が照らし出す他体をも光は照らし出せないというのです.

光源が明らかでなければ,対象も明らかではない,というのです.

ジネーンドラブッディは次のような遍充式を述べています.

或る対象Xを捉える知覚が見えないならば,その対象Xは見えない.



対象X(見える)←知覚(見える)

対象X(見えない)←知覚(見えない)

対象Xだけが見えて,知覚は見えていないというような状況を認めないわけです.

対象X(見える)←知覚(見えない)

自己認識理論において,「我」への執着は相当なものです.

Gaetano 002
  1. 2012/01/08(日) 07:49:01|
  2. 未分類

福岡のネパール料理屋:マイティガル@上人橋

いつもお世話になっているクマールさんのマイティガル.

昨年末も,忘年会で11人.

印哲学生に,ヒンディー語の受講生も合わせての会でした.

予約してメニューも頼んでから行ったのですが,正解でした.

すぐに後から他のグループが4人.

さらにカップル.

さらに後から佐賀からのバイク集団が3人.

かれらは席がないのでカウンター.

というわけで,お店は一杯.

一人で切り盛りするクマールさんも,てんてこ舞いです.

年末の忘年会シーズンとはいえ,こんなに混むこともあるんですねー.

セクワとモモ,それに,カレーを5種類ほど頼んで,みなで取り分けます.

若い人が多いだけに,ご飯のおかわりが相次ぎます.

松岡君は三杯おかわり.

まだまだ行けそうでしたが,止めておきました.

飲まなかったので,一人,1300円弱.

2011年の福岡カレー事情といえば,北天神のスリランカ料理の名店「ポルポル」は,あえなく閉店.

本当にいいお店でした.

早く再開してほしいものです.

松岡君には,激辛チキンカレーで,いい汗をかいてもらわねばなりません.

さらには,城西の南インド料理「あんまー」のインド人コックは突然の帰国.

東京と違って,やはり,南インド料理は,福岡ではまだまだ難しいのかもしれません.

現地の味を楽しめる,というのは,いずれにせよ,贅沢なことです.

しばらくは,南アジアのみならず,タイ,中東,アフリカあたりまで手を広げるしかありません.

Gurutora 142

写真は,昨年秋開催「ぐるとら」の様子.

zellige093

こちらはZelligesのファラフェル.
  1. 2012/01/06(金) 22:47:03|
  2. 未分類

Sudan eat-in: Kebabooz

Kebabooz 023
Kebabooz 006

The only one Ethiopian restaurant Fasika is no more.

But Daimyo has a new eat-in from Sudan: Kebabooz.

A mobile cart "Kebabooz" which appeared in many events has now a fixed shop.

Small but comfortable place.

No alcohol is sold.

Two tables for four and a counter for 3 persons only.

The main menus are Kebab and Falafel.

But they also have soup and stew.

Kebabooz 013
Kebabooz 009
  1. 2012/01/05(木) 19:00:58|
  2. 未分類

received: Helmut Krasser "How to teach a Buddhist Monk to Refute the Outsiders: Text-critical Remarks on some Works by Bhaviveka"

Helmut Krasser

"How to teach a Buddhist Monk to Refute the Outsiders:
Text-critical Remarks on some Works by Bhaviveka"

Journal of Rare Buddhist texts Research Department,

51, 2011, 49-76.

清弁といえば,MMK注釈者の中でも,インドでは最もメジャーな一人です

アヴァローキタヴラタのような優れた学者が,PPにたいして浩瀚な注釈を著わしています

清弁の著作に,ヴァースで書かれた中観心論MHKがあります

そのMHKには注釈が残っており,チベット訳が現存します

思択炎Tarkajvalaと通称されているものです

そのTarkajvalaの著者をめぐっては,はたして清弁自身が書いたものなのかどうかが問題となってきました

問題とされてきたのは,Tarkajvalaにおいて,しばしば「アーチャーリヤは次のように述べている」といった表現が用いられることです

自分の著作の中で「先生はこう言った」と言うだろうか?という疑問です

MHKの研究で知られる江島先生は,TJを,後8世紀のBhavyaによるものと看做します

クラッサー教授の結論は簡単

"...the TJ to have been written down by a beginner student, and not by a later person also called Bhaviveka or something similar." (p. 69)

というものです

要するに,清弁のMHK講義を,まだ論理学にも疎い坊主学生の初心者がノートしたものと考えるのが早いというわけです

また,MHKとTJの年代については,PPの一部,メインの議論から外れた挿入個所のような部分が,チベット訳にも漢訳にも見られることを根拠に,630-632以前であるとクラッサー教授は結論づけます

漢訳者のPrabhakaramitraの訳出年代が,630-632だからです

つまり,TJの挿入ノートみたいな部分ですらも,それ以前ということです

TJは,後代の注釈というよりは,清弁当時の出来の悪い学生のノートみたいなものと考えるのがよかろう,ということです

これまでの学者が気が付いてきたように,TJは,MHKの内容を誤解していたりします

ゴーカレーは,長いコンパウンドの解釈をTJが間違っていることに気が付いています

クラッサー教授の見立ては,十分に説得力に富んだものです
  1. 2012/01/04(水) 08:10:46|
  2. 未分類

西日本インド学仏教学会第23回学術大会の予定

西日本インド学仏教学会第23回学術大会

[発表会場] 九州大学 箱崎キャンパス

[日時] 2012年7月28日(土)

[宿泊] 浜幸屋
     〒811-0325福岡県福岡市東区勝馬279-1
     http://www.hamakouya.com/

志賀島の勝馬海岸

昨年は広島大学

というわけで今年は順番通り,九州大学にて開催の予定です

日程は,いつも通り,7月最後の土曜日の予定です

宿泊は,例年の宿が取れなかったので,趣向を変えて,ビーチ傍の旅館の予定です

会場から宿泊旅館までは旅館送迎バスで移動の予定
  1. 2012/01/04(水) 08:00:30|
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Kei Kataoka 2011: “A Critical Edition of Bhaṭṭa Jayanta's Nyāyamañjarī: The Buddhist Refutation of jāti.”

Kei KATAOKA
“A Critical Edition of Bhaṭṭa Jayanta's Nyāyamañjarī:
The Buddhist Refutation of jāti.”
The Memoirs of Institute for Advanced Studies on Asia,
2011 Dec.,
160, 636(1)-594(43).

See here for the list of my works.
  1. 2012/01/02(月) 18:54:15|
  2. 未分類

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