Pratibhanusarini --- 九州インド哲学ブログ2

On Indian Philosophy and Buddhist Studies

received: Bhāviveka, Dharmakīrti and Kumārila

HELMUT KRASSER
Bhāviveka, Dharmakīrti and Kumārila
535-594

Devadattīyam
Johannes Bronkhorst Felicitation Volume

FRANÇOIS Vo egeli, vincent Eltschinger,
danielle Feller, Maria piera Candotti,
Bogdan Diaconescu & malhar Kulkarni (eds)

Bern: Peter Lang, 2012
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  1. 2012/07/30(月) 18:49:44|
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西日本印仏研後記

学会もようやく終了.

参加者は,北は仙台から,南は熊本まで.

学生諸君の協力もあり,大過なく進行することができました.

また,ペーパーも,事前に予習ができたこともあり,質問も,実質的なものが多かったように思います.

学会でよくある「早口での難解な分野外の発表→全員ぽかーん→質問皆無」という無益は生じませんでした.

何よりも,小川先生が強調されるように,「テクストを正確に読む」ということが求められた学会でした.

その点に質問が集中しました.

大学院生・ポスドク全体のサンスクリットのレヴェルが格段にあがっているのを感じます.

来年の第24回は,順当に,広島大学で開催の予定です.

昨今は,一学期の15回授業が通達により厳しく求められ,日程的にも,非常に設定が厳しくなっています.

学部生は試験前の土日ということで,7月末の土日は,なかなか大変です.

とはいえ,忙しいのは現代人の常.

ブーブー言いながらも,なんとか続けていくしかないでしょう.
  1. 2012/07/30(月) 07:39:21|
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西日本インド学仏教学会

西日本インド学仏教学会は,戸崎先生と桂先生から始まっています.

つまるところ,広大と九大の印哲の合同の学会が出発点です.

当初は,発表数は少なく,ゆったりと発表質問討議が行われていたそうです.

いまは,院生数の増加もあり,一人30分です.

また,広大,九大のみならず,京大の院生も多数参加しています.

今年の内容も多彩です.

例年,中身のある討議をするために,予めレジメを配ることにしています.

今年は,期限の一週前に全員提出.

無事に予習を進めることができます.

インド哲学プロパーで見ても,凄い発表が目白押しです.

川尻さんのは,シャイヴァの一元論である再認識学派のウトパラデーヴァ.

しかも,その写本研究という非常にレヴェルの高い発表.

IPTの断片の研究.

間違いなく世界的な業績です.

地味に写本を調査することの大切さを教えてくれます.

まさに「額に汗して」の業績です.

松岡さんも,同じく,熱い西インドを歩いた成果の報告.

TSとTSP写本の情報の再整理です.

この情報を欲しい人は山といることでしょう.

こちらも,世界的な業績です.

川村さんは,非常にテクニカルな文法学.

それを文学の体裁を取った文法実例書でもあるバッティカーヴィヤの中で確認するもの.

ラーマーヤナの話を使いながら,文法規則のいちいちを実例で説明するという体裁です.

彼の一連の研究の一つで,今回も,先行研究を訂正する重要な知見が含まれています.

以上は広大出身者.

京大からは斉藤さん.

スポータシッディです.

マンダナの難しい文体についていくのは大変です.

今回は,ダルマキールティ対マンダナ(それにクマーリラ),という,難しい学匠の東西横綱を対決させて,まな板に載せます.

料理人も大変です.

池端さんも,ヴェーダーンタの二大巨頭,シャンカラとマドヴァの対決ショー.

と,このように,仏教,ヴェーダーンタ,ミーマーンサー,文法学,さらにはシャイヴァまで.

研究の視点も,従来からあるオーソドックスな解釈議論だけでなく,一次資料である写本に基づいた研究まで,幅広くなっています.

一昔前は,考えられなかったようなレヴェルで議論がなされています.

バッティカーヴィヤを読み解く日本人など,1980年代に,誰が想像したでしょうか.

川尻さんのは,凝っていて,写本の縁に書いてあるマージナルノートに基づく研究です.

シャイヴァ研究は,本邦においては,まだまだこれからの分野です.

また,本邦では,シャーラダー写本を扱う人も,ごくごく限られています.(今回の写本は,デーヴァナーガリー.)

松岡さんのは,グジャラート留学時代の貴重なスライドもあるようで,実に楽しみです.


広大出身の川尻さん,松岡さんの現在の正式な所属は京大です.

学術振興会の研究員制度も,大学院修了後は,他大学への所属を求めるようになっています.

大学間の交流は,一昔前からは考えられないくらい進んでいます.

内地留学ということも,旧世代では,先生同士の疎遠さを反映して,ほとんど考えられなかったことです.

そういえば,その昔,東大の先生が院生時代に,京大に内地留学しようとして果たせなかったという話を聞いたことがあります.

かつての中村元・平川彰の東大印哲,そして,三聖人のいた黄金期の京大印哲・梵文は,どうも,相互交流の跡が全く見られません.

純粋に学問的な言及関係すら,あまり明瞭ではありません.

相互にクロスすることのない別世界に住んでいたかのように感じられます.

いまでは,学振のみならず,京大の白眉プロジェクトなどのポスドク制度もあり,研究員の交流も驚くほど進んでいます.

また,東大出身者が京大の先生になり,逆に,京大出身者が東大の先生になるなど,一昔前の印哲では考えられなかったことです.

それも,いまは,普通です.

特に驚くほどのことでもありません.

そのような交流も,人間の付き合いですから,日頃の交流があってのことです.

慣れ合いは学問の発展のためには回避すべきことですが,単なる無関係の相互無視ではなく,互いに切磋琢磨していくことが重要です.
  1. 2012/07/27(金) 22:38:17|
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正しさの定義

KataosaKaigan 001


認識の正しさを問う時,では,その正しさとは何なのか,ということが問題になります.

ニヤーヤは,ごく普通の考え方をします.

つまり,正しさとは,対象通りということだ,という考え方です.

対象を正しく捉えている時,対象があるがままに認識が対象を捉えている時,その認識は正しいといいます.

Xという様態を持つ対象Yを,その通りにXとして捉える認識,というわけです.

ミーマーンサー学派は,正しさを定義する必要はありませんでした.

正しくないものを定義すれば,残りが正しいものだからです.

では,正しくない認識とは何でしょうか.

認識の非存在,疑惑,錯誤の三種を考えます.

何も認識が生じてない無知の状態も,一種の誤った認識と考えているわけです.

疑惑とは,暗闇の向こうに立っているものを見て「人かな棒かな」と疑うAorBの認識です.(後代のニヤーヤでは,もう少し厳密に,A or non-Aの疑惑と考えます.)

錯誤とは,対象通りでない認識のことで,我々が普通に思い描く,誤った認識のことです.

海岸に輝く貝殻を銀の硬貨だと間違ったり,道路に横たわっている縄を蛇だとびびったり,あるいは,1Q84ではありませんが,目の異常によって二つの月を見るということがあります.

これ以外が正しい認識になります.

ここまでは,我々の常識と変わりません.

しかし,ミーマーンサーでは,この上に更に「その情報が新しい」という条件を考えます.

つまり,繰り返しの情報を扱う認識は「正しくない」というのです.

ここらへんで,実は,「正しい認識の手段」や「正しい認識」というプラマーナやプラマーの実質的な内容が,微妙に違うことに気がつくことになります.

ミーマーンサー学派において,プラマーナとは,人間にとり有用なことを教える手段でなければならないのです.

ヴェーダ聖典がまさにそうです.

したがって,繰り返しの情報を与えるようなものは無駄です.

最初の情報提供で用は済んでいるからです.

この「新しさ」という観点を入れ込んだ上で,彼らは,「正しい認識」や「正しい認識の手段」を考えるのです.

一度読んだニュースを,二回も読む必要はありません.

ニュースは,その名の通り「新しさ」が命です.

フレッシュな情報を扱うもの,それが人間にとり有用な認識です.

想起や繰り返しの認識は,たとえ対象通りであっても有用ではありません.

したがって,ミーマーンサー学派では,「情報が新しくない」という理由から,これらをプラマー(正しい認識)から外します.

実際,インド哲学全般において,想起は,対象通りのものも含めて,伝統的には,プラマーから外されてきました.

つまり,必ずしも対象通りの認識がプラマーではなかった,ということです.

人間にとって有用な,何らかの働きをなすような認識がプラマーである,という考え方は,ニヤーヤ学派も,或る意味,常識的に前提としていた,ということになります.
  1. 2012/07/27(金) 08:29:06|
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正しい宗教とは?

KataosaKaigan 013


正しい宗教とは何か,ということを突き詰めていくと,認識の正しさとは何か,というところまで行ってしまいます.

クマーリラが『頌評釈』の「教令章」でつめたのは,この原理的な話でした.

ジャヤンタは,それを,実践のレヴェルにまで落としてきます.

つまり,真理論の応用です.applied theory of truthとでもなるでしょうか.

宗教大臣のようなことを務めていたであろうジャヤンタにとって,怪しげなカルト宗教の跋扈を許すことはできませんでした.

社会の風紀が乱れるからです.

しかし,何を基準として,正しい宗教と正しくない宗教とを分けるのでしょうか.

現実との妥協が必要なことは最初から見えています.

ヴェーダだけが正しい,というがちがちの伝統主義者,保守派でありますが,かといって,社会で既に認められている一派を,完全に否定することはできません.

うまいこと,どうしても駄目な部分だけを取り除くような基準が必要です.

ジャヤンタは,『論理の花房』の一章を設けて,そのことを論じます.

その話は,彼の戯曲『宗教の空騒ぎ』にまで展開を見せます.

パンチャラートラというヴィシュヌ教の一派を認めるのかどうかが問題でした.

そして,そのきっかけとなったのが,黒衣派という怪しげなカルト集団の跋扈でした.

また,シヴァ教の一派の中の,タントリックで怪しい性交儀礼などを含むものも問題です.

結論部分においてジャヤンタは,次のような基準を設けます.

1.伝統的にある(新しくない)
2.社会でその存在が認められている
3.識者が受け入れている
4.動機が不純でない
5.眉をひそめるようなものでない

まず,新興宗教は駄目だ,ということになります.

社会で或る程度認知されている必要があります.

また,多くの識者が受け入れているということも必要です.

その宗教の,特に創始者の動機が金儲けとかではない,ということも重要です.

そして,最後は,性交儀礼や死体儀礼のような,怪しげなカルトは駄目,ということです.

結局のところ,哲学者としてのジャヤンタの側面よりも,政治家としての現実的な判断が優先されます.

反社会的な宗教は駄目だ,ということです.

世間一般の人々が受け入れられないようなものは,やはり,「正しくない」ということです.

宗教は時に世間的基準からの離脱を目指し,超俗の独自の世界を目指します.

社会の側は,遠心力で遠くへ行こうとする宗教を引きとめにかかります.

そして,世間のコントロール下に置こうとします.

このような世俗と超俗の緊張関係は,様々な文献にあらわれます.

マヌ法典の四住期というのも,遊行期を最後に含めて,いわば,社会システムの一つとして超俗を取り込もうとしています.

バラモン家長達の苦労がうかがえます.
  1. 2012/07/27(金) 08:10:09|
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宗教の正しさの基準

KataosaKaigan 017


いったい,或る宗教が正しいとか,間違っているとか言うとき,我々は何をもって,そのように言っているのでしょうか.

「オーム真理教は間違っている」と言うとき,そこには,宗教の正しさあるいは正しくなさに関する基準があるはずです.

我々は,ほとんど無意識のうちに,「正しい」「誤っている」という判断を下します.

しかし,それは,どのような要素からなっているのでしょうか.

あるいは,正しさの定義,または,正しくなさの定義とは,あるのでしょうか.

あるいは,それはそもそも定義可能なのでしょうか.

そして,正しさと正しくなさを共に定義する必要はあるのでしょうか.

正しくなさを定義してしまえば,正しさは「その他」として残るので,正しさを定義する必要など,そもそもないのではないでしょうか.

だとすれば,正しくない宗教というものに意識を集中すればよいことになります.

いったい,宗教が正しくない基準とは何でしょうか.

オーム真理教のニュースを見たとき,多くの人は,直感的に「胡散臭い」と思います.

それは,創始者の顔を見れば明らかだからです.

つまり,宗教の正しさや,正しくなさ,というのは,その宗教を唱えている人の正しさあるいは正しくなさに依存しているということです.

つまり,我々が,聖典や宗教の正しさと言っているとき,実は,それを作った人の正しさあるいは正しくなさを問題にしていることが考えられるのです.

ニヤーヤ学派の考え方は,このようなものです.

つまり,宗教や聖典が正しい正しくないというのは,それを作った人の正しさ正しくなさに依存している.

つまるところ,それは,その人がもっている良い条件と悪い条件のことです.

その人が伝える情報が正しいか誤っているか,ということは,その人が,正しくその情報を捉えているか,そして,それを正しく伝えているか,という二つの側面から問題となります.

ニュースを考えると分かりよいでしょう.

現場を直接に見て,それを正しく伝えること.

つまり,知覚と正直,という二条件です.

それに,人々に正しいことを伝えようという使命感が動機となっている必要があります.

インドでは,人々に伝えようという慈悲と表現されるものです.

つまり,人々に伝えようという慈悲,対象の正しい把握,嘘をつくことなく正しく伝えるという正直さというのが三大条件となります.

さらにいえば,伝えるための手段をもっている,ということも必要になります.

つまり,頭には情報があっても,口がいい間違えることもあります.

ちゃんと言葉にする能力,言い間違えない能力というのも,条件の一つとなります.

逆を考えれば,正しくない宗教や聖典も分かるでしょう.

慈悲ではなく,貪欲に駆られた人の宗教は間違っています.

こうすれば天国に行ける,こうすれば苦しみから解放される等,その対象を正しく捉えた上で発言しているのかどうかが問題となります.

つまり,本人自身が本当に悟っているのかどうか,ということです.

さらに,上の条件とも一部重複しますが,貪欲に駆られている場合は,嘘をついて人を騙すなどが起こります.

バラモン教からの仏教批判は,このような論点に集中します.

仏陀は所詮,物欲に駆られて,人々をそそのかして騙しているだけだ,というのです.

以上は,ニヤーヤ学派の見方です.

しかし,これとは全く異なる「正しさ」の見方も可能です.

ミーマーンサー学派において,ヴェーダという聖典は作者を持たないものです.

とすれば,上のようなニヤーヤ学派の戦略は,ミーマーンサー学派にとっては,取るべき戦略でないのは,最初から明らかです.

作者がいないということは,正しさを云々できないことになるからです.

あるいは,作者がいないということは,聖典の正しさの条件が欠けているということになるのですから,正しくないということを帰結します.

では,ミーマーンサー学派は,どのように正しさを考えたのでしょうか.

基本的な考え方は,「間違っていなければ正しい」というものです.

つまり,基本正しい,例外的に誤り,というものです.

これは,認識一般を考えると分かりやすいでしょう.

我々は,自分の認識を99%信じて行動しています.

つまり,平常時,ノーマルな状態において,認識は正しいのです.

それをわざわざ疑ったりはしません.

しかし,誤りの条件が考えられるとき,例外的に,「ああ,間違いだったな」と分かります.

たとえば,あとから誰かに間違いを指摘されたり,自分で後から間違いに気がついたりしたとき「ああ,あのときの認識は間違いだった」と分かります.

あるいは,間違いの原因を発見したときも,その認識の誤りに気がつくことが出来ます.

駅のプラットフォームにいる人が動いていると思っていたら,実際には,自分の乗っている電車が動いていることに気がつくことがあります.

見た目は,人が動いているのですが,この場合,誤りを引き起こしている原因に気がつくわけです.

「ああ,電車が動いているんだな」と.

これは,インド哲学では,船と岸辺の木の例として言及されるものです.

あるいは,旋火輪も,よくあげられます.

そのほか,感覚器官の異常ということも考えられます.

飛蚊症や白内障です.

ないものが見えることがあります.

このように,誤りの原因に気がつくことで,認識の間違いに気がつくわけです.

1.認識の誤りの原因に気がついて,認識を訂正する
2.対象とのズレに気がついて,後から訂正する

このような例外的なケース以外は,特に問題なければ,正しい,ということになります.

宗教も同じです.

誤りの原因がなければ正しいわけです.

誤りが持ち込まれる最大の要因は「人間」です.

つまり,人間は,貪欲などに満ち満ちて,嘘をつきます.

そのような人間があらわした聖典など,どうして信用できるでしょうか.

大昔から伝えられてきた非人為の,人が作ったものではない,永遠の聖典であるヴェーダこそが正しい,というのがミーマーンサーの主張です.

非人為の著作というかわった主張ではありますが,そこには,実は,真理をめぐる大事な点が指摘されています.

クマーリラの主張は,認識の正しさは,最初から備わっているが,後から悪条件によって打ち消されるというものです.

つまり,デフォルト状態では,認識は正しいのです.

ちょうど,健康な状態がノーマルな状態,病気にやられた状態がアブノーマルな状態というのと同じです.

正常と異常,という分け方になります.

彼は,このような認識の正しさのあり方を「認識は自ら正しい」と呼び,「他から正しい」とするニヤーヤ学派の考え方を批判しました.

他律的真理への批判です.

なぜ,認識の正しさが他に基づいている,他によって証明されると考えてはいけないのでしょうか.

クマーリラは,その原理的な欠陥を指摘します.

認識1は,認識1以外の別のものによって,その正しさが証明されなければならないとしましょう.

その場合,その認識1を検証する認識2が必要となります.

たとえば,水を遠くから見たとき,水の認識1が生じます.

しかし,本当に水はそこにあるのでしょうか.

疑えば疑うことが出来ます.

蜃気楼や陽炎かもしれません.

もうちょっと近づいて見てみます.

やはり,水です.この認識2が,認識1の正しさを証明してくれます.

しかし,認識2もひょっとすると間違いかもしれません.

もうちょっと近づいて実際に触ったり,あるいは,飲んでみたりすることで,「やはり水だ」と確認することが出来ます.

認識3の登場です.

しかし,疑えばきりはないものです.

ひょっとしたら,この喉の潤いの認識3も,実は間違いかもしれません.

まったくの錯覚という可能性はぬぐいきれません.

この認識3を証明する認識4が必要になります.

というようにして,無限後退に陥ってしまいます.

つまり,認識の正しさを,その認識以外によって証明しようとする場合,無限後退となるのです.

基礎付け主義は,このような過失に陥らざるを得ないのです.

どこまでいっても,基礎の基礎を問えば,切りがないわけです.

「水を飲んで潤った認識は疑いようがなく正しい」というように,認識3だけを特別扱いすることができるかもしれません.

ニヤーヤ学派も,後代になると,一部のタイプの認識を,特別扱いするようになります.

つまり,全ての認識が他律的に正しいという他律論からの一部退却です.

一部の認識は自ら正しいということを認めるようになるのです.

その意味で,クマーリラの他律論批判,基礎付け主義批判は,実に的を得たものでした.

紀元後7世紀のインドにおいて,既に,認識の基礎付け主義が無限後退に陥るということが,鋭く指摘されていたわけです.
  1. 2012/07/27(金) 07:41:46|
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SACS 7, 2012

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今年は全部で462頁となりました.(定期購読の申し込みは岡野教授まで.)

原稿を重ねて印刷屋に渡すときには,あたかも電話帳のようでした.

しかし,紙を薄くすることで,例年の厚さをキープ.

しかし,9名も揃うと,内容は相当に肉厚です.

ラトナキールティのCAP和訳(護山真也)など,便利至極このうえなしです.

またバッティの文法規則も,丁寧に解説してあります(川村悠人).

着実に本邦の研究レヴェルが上がり,また,研究が地道に前進を続けているのが実感できます.

私自身の研究は,この3月にエリーザ・フレスキ博士と共同研究をした成果です.

『論理の花房』の「全ての宗教は正しい」という章の英訳です.



  1. 2012/07/26(木) 00:25:07|
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クマーリラ:排除が表示対象ではないのは「常識」である

Mīmāṃsāślokavārttika apoha, 176:
evaṃ sādhanamārgeṇa vācyāvācyanirūpaṇam/
nāvatiṣṭhata ity atra kathyate lokavartmanā//

Shiraishihama 027

『弥曼蹉頌評釈』「排除」章 第百七十六偈
以上のように,[アポーハが]表示対象であるか表示対象でないかの確定は,論証の道によっては定まることがないので,これについては,世間の道によって語られる.

Shiraishihama 030
  1. 2012/07/22(日) 17:54:15|
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Halal Restaurant in Hakozaki, Fukuoka: ナビさん

Navisan 008

Nabi san

Indian and Egyptian foods

(The cook is Indian and the owner is Egyptian.)

They opened a new restaurant outside the campus. (The old foodcart inside the campus, which has become a more fixed hut, still exists in front of the main library.)

near Hakozaki Campus, Kyushu Uni

(No alcohol, No smoking)

Get off at the Hakozaki Kyudai mae station, walk towards the Komatsumon, and you will find the restaurant on the left side.

They ordered a tandoor so that it would reach from India before the opening day (July 16th). As is usually the case concerning India, it has not reached yet. Now they use an electric oven instead to cook nans.

  1. 2012/07/20(金) 22:41:14|
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In(dia)-Ja(pan)-Mex(ico)

2012/7/20
17:30-19:00
Meeting Room, Faculty of Letters, Kyushu Uni

Bert Winther- Tamaki
University of California, Irvine

"Commensurable Distinctions: Modern Indian, Mexican, and Japanese Art"
  1. 2012/07/20(金) 22:28:36|
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Published: South Asian Classical Studies, 7, 2012

南アジア古典学
第7号
2012年

SACS2012-1

South Asian Classical Studies
No. 7
2012

SACS2012-2
  1. 2012/07/19(木) 18:30:50|
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南アジア研究集会

今年で45回を迎える南アジア研究集会.

50人強を集めて,吉良吉田の丸十旅館に集合.

今年の幹事は名和さんとその周辺の東大関係者.

丸十旅館は,昨年の太田さんセレクトをそのまま踏襲.

アクセスが不便なことをのぞけば,誰も文句はないようです.

「飯の量が多くてよい」との感想が多かったように思います.

セントレアから予想外に遠く,余裕で時間に間に合うかと思いきや,10分ほど遅刻してしまいました.

発表での大御所は小西先生,永ノ尾先生.

永ノ尾先生は,残念ながら,一日目で帰阪.

発表の趣旨は,永ノ尾カード電子版の宣伝でした.

今年中に東文研から公開される予定とのこと.

楽しみです.

印哲関係は,わたしと幹事の馬場さんのほか,事務局の宮本先生をはじめとする東洋大関係者.

福岡からはアジ美の五十嵐さんが発表.

展覧会出品の黒崎さんも,経済ではなく切手(方寸)で発表.

一か月前から入念に準備したそうですが,肝心の回覧資料を忘れてきたそうです.

南アジア研究集会 048

第45回南アジア研究集会

日程/2012年7月14日(土)~15日(日)1泊2日
場所/愛知県西尾市
宿泊先/丸十旅館
住所/愛知県西尾市吉良町宮崎上ノ山68

南アジア研究集会 001


<プログラム>

7月14日(土)


13:00~13:40 久保徳幸 「パキスタンにおける言語問題―パンジャーブ南部サ
ラーイキー運動を中心として―」

13:40~14:20 篠置理子 「南アジアにおけるイスラーム復興運動とウルドゥー
語メディア-マウドゥーディー著作の出版・継承過程を事例として-」(仮)

14:20~15:00
中空萌 「インドの伝統的知識データベース化プロジェクトにおける知識の共
訳・翻訳と知的所有権ーーウッタラーカンド州における『人々の生物多様性登
録』プロジェクトを事例として」


南アジア研究集会 003


シンポジウム「ものから見た南アジア」

15:10~15:20 趣旨説明(名和克郎)

15:20~16:00 永ノ尾信悟 「古代インドの物質文化:祭祀道具、供物を中心と
して」


16:10~16:50 上杉彰紀 「考古学からみた北インド社会の変遷」

16:50~17:30 小西正捷 「手漉き紙・監獄紙・『改良』紙」


南アジア研究集会 005


7月15日(日)

シンポジウム(続)

9:00~9:40 深尾淳一 「『もの』からみる南インド~原史・初期歴史時代の土
器を中心にして」

9:40~10:20 小日向英俊 「南アジアの楽器にみる伝統と革新」(仮)

10:30~11:10 黒崎卓 「方寸の精巧印刷? 製造面からみたインド切手の概観」

11:10~11:50 佐藤隆広 「インドの携帯電話」

南アジア研究集会 024


シンポジウム(続)

13:00~13:40 鎌田由美子 「デカン産絨毯の生産と流通―日本に残るものを中
心に」

13:40~14:20 五十嵐理奈 「インドを集めた人を、美術館に集めること―福岡
アジア美術館特別展『魅せられて、インド。』より」

14:20~15:00 アーナンダ・クマーラ 「新野菜『セイロン瓜』導入による地域
活性化の事例から学べること」


南アジア研究集会 027

旅館からの眺めは「オーシャンヴュー」という語の対象となるのでしょうか.

「オーシャンヴュー」でないことはない,という意味のほうが,ニュアンス的には近いような気がします.

なお,目の前の海岸は「ワイキキビーチ」と名付けられています.

語と意味の関係の恣意性を想い起こさせてくれるネーミングです.

南アジア研究集会 033

部屋は広く,雰囲気も落ち着いており,ゆっくりできます.

冷房は,がんがん効くか,スウィッチを切るか,どちらかの二者択一しかないようで,温度調節が難しいというのが難点といえば難点ですが,大した問題ではありません.

南アジア研究集会 040

お隣にあるホテルは「竜宮ホテル」です.

nagasiddhi(龍成就法)を目指すようなタントラ集会には相応しいネーミングです.


研究集会も,例年,幹事の引き受けを探すのに苦労されているようです.

見ていると,大変なのは,発表それ自体よりも,むしろ,その周辺事項でしょうか.

二次会のドリンクの心配とか.

プロジェクターも,わざわざ東京から持ってこられたようですが,やはり,小さいのはどうしても性能が劣ります.

懇親会の部屋を別にとってあるのは,非常に便利です.

もっとも,無制限になるので,深夜3時頃まで喧々諤々となって,翌日,電池切れとなります.

しかし,泊りの研究集会の重要なポイントです.
  1. 2012/07/16(月) 08:56:36|
  2. 未分類

Miyaji-hama beach, Fukutsu city, Fukuoka

「他者の排除」(アンヤ・アポーハ)も終え,「自性被拘束」(スヴァバーヴァ・プラティバンダ)も終え,近場の海岸へ.

宮地嶽神社の鳥居の向こうに広がる海原にはウィンドサーファーが多数.

右の建物は,どこかの新興宗教の施設のようです.

Having finished two articles, on anya-apoha and svabhaavapratibandha, I visited a beach nearby.

You can see many wind-surfers in the sea behind the Torana.

The right-hand building belongs to some new sect.

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同じく福津にあるイタリア野菜のアプテーク.

香椎のリトル・ナポリにも卸していますが,京都の人気ピッツェリアにも卸しているようです.

An Italian vege shop, APutec.

Not only Little Napoli, a pizzeria in Kashii, buys vege from here, but also a popular pizzeria in Kyoto does.

アプテーク 010

こちらは天神大丸前.

山笠のシーズン到来です.

そういえば,つい先日,警察にスピード違反で切符を切られている人を見かけましたが,この長法被姿でした.

In front of Daimaru Department in Tenjin area.

The season of Yamakasa festival has come.

The other day I saw a man caught by a police; he was in this wear.

yamakasa3098346552

こちらは昔の写真.

An old photo.

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九大は,いま,七帝戦の真っ最中です.

箱崎キャンパスの体育館でも,少林寺拳法部が合掌で挨拶する姿が.

昨日の伊都での開会式には,京都大学副学長も来られたとのこと.

This year Kyushu Uni is the host of University Athletic competition.

In Hakozaki campus I saw students of Shorinji Kempo bowing to each other with anjali.

The vice presidents of Kyoto Uni also came to Ito campus for the opening ceremony.
  1. 2012/07/08(日) 16:03:30|
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svabhāvapratibandha研究の見取り図

svabhāvapratibandha研究の見取り図

片岡 啓

原稿は次号の『インド論理学研究』に掲載予定.


Kumbhakonam4094243


以下は,原稿の目次です.

1 序
2 svabhāvapratibandha の位置付け
3 シュタインケルナー説:実在基盤説
3.1 二つの本質の区別
3.2 概念間の関係の基盤としての存在上の関係
3.3 シュタインケルナー説の基調から導かれる論点
3.3.1 tādātmya の解釈
3.3.2 svabhāvapratibandha の解釈
4 松本説:方向性
4.1 実在基盤説の問題点
4.2 svabhāvapratibandha における共通性格の欠如
4.2.1 因果関係におけるsvabhāvapratibandha
4.2.2 tādātmya におけるsvabhāvapratibandha
4.2.3 tādātmya の解釈
4.2.4 svabhāvapratibandha 等の語義解釈
4.3 松本説の問題点
4.3.1 pratibandha は存在上のもの(ontological)か論理的なもの(logical)か
4.3.2 svabhāvapratibandha の二通りの解釈
4.3.3 bhāvamātrānurodhin/bhāvamātrānubandhin の解釈
5 シュタインケルナーの松本解釈
5.1 svabhāva は実在である
5.2 ontological とlogical の対立
6 桂の転向:概念と存在
6.1 Katsura 1986 の概念間関係説
6.2 Katsura 1992 の転向
7 福田の解釈
7.1 三段階の維持
7.2 共通性格としてのsvabhāvapratibandha
7.3 svabhāvapratibandha:被制約性+無化の連動
7.4 bhāvamātrānubandhin の解釈
7.5 存在レヴェルと概念レヴェル
7.6 福田説の問題点
7.6.1 論理的指示関係
7.6.2 pratibandha とsvabhāvapratibandha
7.6.3 svabhāvapratibandha の位置付け
7.6.4 無化・連動・制約
8 中井説:svabhāvapratibandha とアポーハ論
8.1 アポーハ論の位置付け
8.1.1 福田説におけるアポーハ論の位置付け
8.1.2 赤松におけるアポーハ論の位置付け
8.1.3 中井説におけるアポーハ論の位置付け
8.2 PV 3:81–84 のpratibandha
8.2.1 戸崎の理解
8.2.2 中井の理解の問題点
8.3 中井説の破綻
9 ダルマキールティの著作間の差異あるいは発展
9.1 船山の視点
9.1.1 用語の統一
9.1.2 実例の変化
9.2 谷の視点
9.2.1 谷の基本的態度
9.2.2 viparyaye bādhakapramāṇam の位置付け
10 論点整理




序は以下の通り.

 本稿の目的は,svabhāvapratibandha研究史の概観にある.ただし,各論者の意見を単に時系列的に並べるのは本稿の意図するところではない.どの時点でどのような問題が意識され始め,それが後に受け継がれ中心的な論点として議論されていったかという,論点の発芽・成長の跡に注目したい.したがって,新たな論点や視点を提示する論考を中心に配置する.また,それ自体の影響力は少なくとも,その時代での論点の成長過程をよく反映する論考を取り上げた.系譜の主脈を描き出すことで,ここで論及しなかった論考も配置可能となるであろう.主要な論点は1980年代に登場するので,当然,その年代の論考が主考察対象となる.
 また,筆者の主な視点は,「何が正しいのか」という哲学者の視点ではなく,「何が議論されてきたのか」という思想史研究者の視点であり,さらに言えば,文化人類学者の視点である.この点で,「svabhāvapratibandhaに一家言あり」の他のパネリスト(および一部の熱い会場参加者)とは根本的に態度が異なる.各論者の意図を取り上げるに際しては,できるだけ各論者の問題意識と視点に寄り添ったつもりである.その上で,各論考を系譜上に配置し,相対的に位置付けた.また,他の研究者の視点から見た場合に容易に指摘が予想される矛盾点・問題点は逐次指摘した.この作業により,svabhāvapratibandha研究の俯瞰図を手に入れることができる.第一義的には「自己の為」に作成した見取り図であるが,類似の詳しい見取り図が存在しない以上,「他者の為」にもなると考える.



結びは以下の通り.

10. 論点整理
 svabhāvapratibandha研究史上で問題となってきた論点を整理すると以下の様になる.

1. tādātmya/tadutpattiとsvabhāvapratibandhaとは,どのような関係にあるのか.同次元のものか別次元のものか.
2. svabhāvapratibandhaのsvabhāvaは,実在なのか概念なのか.あるいはそのような二分法は適切なのか.
3. pratibandhaの具体的な意味内容は何か.単なる関係(saṃbandha)なのか否か.
4. 一方向性は,tādātmyaにおいて,どのように保証されるのか.
5. bhāvamātrānubandhinとは何か.
6. svabhāva-pratibandha, tad-ātma-tvaという合成語をどのように分析するのか.
7. svabhāvapratibandhaに関して,アポーハ論は,どのような役割を担うのか.
8. ダルマキールティの著作間で,差異あるいは発展は見られるのか.また,それをどのように説明するのか.
  1. 2012/07/04(水) 07:50:09|
  2. 未分類

Inbutsuken 2012

This year the Inbutsuken conference took place at Tsurumi University.

The university is inside the complex of Sojiji temple, one of the two head temples of the Sotoshu sect.

鶴見大学 005

The dining hall (cafeteria) of Tsurumi University.

鶴見大学 009

The Buddha hall of Sojiji temple.

鶴見大学 020

A panel session held on Sunday afternoon which I participated in as one of the five panelists attracted a hundred audiences.

This is rather amazing, because the panel was about "svabhavapratibandha".


I gave another paper in Sunday morning session to which about 50 people came.

"Exclusion of others" attracted a good number of people.

There were a lot of good papers, all of which will apper in the coming volumes of Indogaku Bukkyogaku Kenkyu.


It started raining on Sunday afternoon.

Many people got wet with rain.

Fortunately Prof. Kanazawa kindly gave me his umbrella. (He had a spare.)

He also invited me to quenching my kaṇṭhaśoṣa.

My paper for the panel (a survery of svabhavapratibandha studies) will appear in the next volume of Indo Ronrigaku Kenkyu edited by Prof. Kanazawa. (It is written in Japanese.)
  1. 2012/07/02(月) 20:33:15|
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