Pratibhanusarini --- 九州インド哲学ブログ2

On Indian Philosophy and Buddhist Studies

拙著短評

エリーザが拙著の短い紹介を書いてくれています.

here
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  1. 2012/08/31(金) 08:25:57|
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科研費シール

科研費シールが配られていました.(「科研費ロゴシール」)

紫に白抜きの,ピカピカのシールです.

フォントは頭の良さげな細身のフォントです.

科研費にたいする国民への周知が必要との配慮のようです.

実際,多くの研究が科研費に支えられていますから,このようなPRの努力も現今の状況下では必要でしょう.

あとは,科研を受けた旨の記し方の見本も明記してあります.

従来,「明記してください」というだけで,いったいどのように明記すればいいのか,あまり印象がなかったので,このように簡単な様式で統一してくれると非常に助かります.

This work was supported by JSPS KAKENHI Grant Number 12345678.

本研究はJSPS科研費12345678の助成を受けたものです。



で大丈夫だそうです.区分を記す必要はないそうです.

たしかに「文部科学省云々科学研究費基盤A」だの「科研B」だの「科研C」だの「若手云々」だのと言われても,部外者には無関係のことです.

相手に伝えるときの目線の置き方の基本というのは,どこでも変わらないはずです.
  1. 2012/08/27(月) 18:27:16|
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インド哲学における写本研究

Matsumoto2 045


インド哲学というと,やはり,インドの哲学というだけあって,哲学を目指す人が多くなります.

当然,思想そのものを問題にしたい,という態度となります.

その結果,それまでの基礎作業は,さっさと済ませたいという欲求が勝つことになります.

「サンスクリット語なんて時間かかるし,思想をやるのだから,翻訳で読めればそれでいいじゃない?」

という質問を受けることがあります.

西洋哲学なら,たしかに,多くの信頼できる翻訳があり,しかも,既に何度も翻訳されて改善されてきているので,そのようなことも可能でしょう.

しかし,インド哲学の分野では,ほぼ不可能です.

このことは,中にいる人ならば,誰でも分かります.

まともな翻訳が実に少ないからです.

昔の英訳があったりしても,使えるものは,本当に僅かです.

びっくりするくらいにいい加減です.

というわけで,しぶしぶサンスクリット語をやるにしても,その先,では,信頼できるテクストがあるか,というと,実はそれも問題となるのが,インド哲学の分野です.

西洋哲学と違って,テクスト批判すら怪しいのです.

写本に基づいてまともに校訂されたものは僅かです.

何度も出版されていても,単に,前の出版をコピーしただけというものがほとんどです.

つまり,テクストそのものが,ちゃんと校訂される必要があります.

このことも,中にいる人はよく知っています.

しかし,写本を集めるのが大変なので,とりあえず,手元にある出版本で済ませてきた,というのが現状でしょう.

いまから20年前,インド哲学の分野で写本に関わっている人というのは,ごく僅かでした.

針貝先生が,こつこつと『タントラヴァールッティカ』の写本研究を続けているのが目に留まる唯一の例です.

大前さんが,その頃,インド各地をめぐり,写本を集めていました.

というわけで,インド留学時代,各地の図書館を回ると必ず「お前はオミャーを知ってるか?」と聞かれたものです.

ベナレスの何処に写本図書館があって,誰に会って,どのように写本コピーの申請をすればよいのか,どこに泊るのが便利かなどなど,実践的な情報を教えてくれたのも,ほぼ大前さんだけでした.

誰もやっていないので,分かるわけがありません.

また,そのころはネットというものもなかったので,情報を得るのが大変でした.

大前さんがひょっこりとマドラスに来た時に,いろいろと話を伺ったのを思い出します.

しかし,いまはどうでしょう.

若手研究者の多くが,インドに渡って実際に写本に触れています.

足繁くインドに通っている若手といえば,志田,松岡,川尻の名前が思い浮かびます.

一昔前では考えられないことです.

ネットが発達したおかげで,情報の共有も早くなりました.

東文研助手の時にまとめたインド写本図書館情報も,日本人だけでなく,海外の人にも使われているようです.

日本語版

英語版

情報の共有が早くなったとはいえ,インドはインドです.

インドまで行って写本を集める,という作業が大変であることには変わりありません.

とはいえ,その大変な作業を敢えてやろうという人が出てくるのも,インドの魅力のなせるわざでしょうか.

インド調査旅行は,単に研究だけではなく,抗菌力と人間力を鍛えるのにも大いに役立ちます.(初回旅行で腹を壊すのは,ほぼ不可避でしょうけど.)

現代インド研究者の場合,「自分のフィールド」というものがあり,訪問するインドは,実は一部に限られます.

グジャラート研究者ならグジャラート,タミル研究者ならタミルナードというわけです.

ベンガル研究者は,南インドに行ったことなどなかったりします.

それは必然でしょう.

サンスクリット研究者のよいところは,対象領域がインド全国にまたがることです.

図書館は,ばらばらと各地にあります.

というわけで,土地に制限されることなく,北から南,西から東まで回ることができます.

大体,どこにいっても,サンスクリット写本の図書館があるはずです.

どんな分野も,とことん追及する楽しみというのは尽きないものです.

ベナレスまでわざわざ出かけたけど,三日間とも図書館が休み,滞在終了タイムアップ.

マドラスまで出かけて行ったけど,取り付く島もなく図書館長から(三本目以降の)写真撮影申請却下.

どんなにがんばっても駄目なものは駄目.

タンジャーブールまで出かけたけど,やっぱり写本の状態が悪いからダメ.

ティルパティまで出かけたけど,やっぱりダメ―.

またまたベナレスに出かけたけど,図書館の中での写本の場所が分からず,写本が行方不明(mislocation)だからダメ―.(写本はちゃんと元の場所に直しましょう!)

アラハバードまで出かけたけど,コピー機が壊れていて駄目.

二日目は街中でコピーしてくれることになったけど,今度は,街中が停電でやっぱりダメ―.

などなど,自分も友人も,苦労話は尽きません.

六波羅蜜の布施・忍辱・精進は向上した気がします.

熱い中,苦々しい思いをしながらも,熱く甘いチャイをフーフー飲んで癒され,失意から回復します.
  1. 2012/08/27(月) 08:01:59|
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ミーマーンサーにおける「断片」研究

Matsumoto2 027


古典インドの聖典解釈学であるミーマーンサー.

その伝統の中でも多くの著作が失われてきました.

その中でも三つと言われれば,次の資料を挙げるでしょう.

1.
まず,ディグナーガの『集量論』(チベット訳が二本)に言及されるミーマーンサーの古説.(ただし,『集量論』自体が,チベット訳二本と,ジネーンドラブッディの『集量論註』から再構成されるものです.)

フラウワルナーの研究があり,シュタインケルナーも,他と合わせて,それらの断片を回収中です.


2.
次に,『シャバラ註』に引用される「註作者」の註.

『ジャイミニ経』にたいする註釈として,現在,『シャバラ註』が残っていますが,その『シャバラ註』の中に,彼に先行する「註作者」の説が,長く引用されています.

面白いことに,スートラ1.1.3-5に対して,シャバラ自身の註釈と,註作者の註釈とが,『シャバラ註』の中に同時に存在するわけです.

シャバラ自身が「いっぽう註作者は別の仕方で説明している」と導入・紹介しています.

伝統的な聖典解釈学の部分ではなく,最新流行の認識論の部分について,特に,註作者の見解に依拠しています.

シャバラ註のこの部分の批判的校訂本を発表したのはフラウワルナーです.(また,この部分の内容分析を行ったのは,フラウワルナーの弟子のツァンゲンベルクです.)

今回の断片シンポジウムでも,藤井さんがこの註作者断片に関する興味深い分析結果を発表していました.


3.
最後に,仏教徒のシャーンタラクシタの『真理綱要』に引用されるクマーリラの『ブリハット・ティーカー』.

フラウワルナー以前のインド人の研究がありますが,この分野でも,ラトナキールティによる引用なども含めて検討し,決定的な業績をものしたのはフラウワルナーです.

『ブリハットティーカー』断片は,特に,『真理綱要』の最後の二章に大量に引用されています.

真理論と全知者論についての個所です.

仏教とミーマーンサーの激しい論争点となった個所です.

仏教批判に必死になっていくクマーリラの様子がうかがえます.

批判が学問の発展に重要であることを教えてくれます.

このブリハットティーカー断片も,あちこちにあり,ばらばらと研究があるので,体系的な回収が必要です.

シンポジウムのコーヒー休憩でも,何度か「是非,あなたでもあなたの学生でもだれでもいいから,集めるか,集めさせなさい」と言われました.

体系的,網羅的な研究,という意味では,やはり,シュタインケルナー教授は大きな視点を有しています.

日本人研究者は,えてして,体系的な研究は苦手なものです.

日本におけるミーマーンサー研究者といえば,伊原,針貝,金沢,倉田,大前,吉水,片岡,藤井,志田,石村などの名前がすぐに思い浮かびます.

しかし,まだまだ,次代の研究者がやるべきことはいくらでもあります.



ミーマーンサーの研究史について,詳しくは,『ミーマーンサー研究序説』を参照.
  1. 2012/08/27(月) 07:43:21|
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インド哲学文献における「断片」

Matsumoto2 038


サンスクリット語文献の歴史は,紀元前1000年から約3000年に渡ります.

多くの文献が残されてきましたが,それよりも遥かに多くの文献が失われてきました.

ある一つの文献が流行すれば,他の多くの文献は読まれなくなり,したがって,口承伝承で伝えられることや,あるいは,書写されることもなくなっていきます.

よく読まれるものというのは,どうしても,一つのメジャーテクストに収斂していく傾向をもちます.

ベストセラーが席捲すれば,マイナーな本の場所がなくなるのと同じです.

人間の記憶は限られていますし,売り場面積も限られています.

写本というのは,それほど長く持つわけではありません.

乾燥地帯ならいざしらず,湿気の多い場所では,数百年もすれば,なめした椰子の葉も,ぼろぼろになってしまいます.

ぼろぼろになって失われる前に誰かが書写しなければ,そのテクストは永遠に失われます.

また,通常,そのテクストを読むために書写するのですから,そのテクストを理解し教える人がいなくなれば,当然,テクストが書写されることもなくなります.

希少なテクストを求めて,それを書写した人は,今も昔も存在しました.

しかし,コピー機のない当時,遠方にでかけて手書きで書写するには,材料と人件費と日数がかかります.

王侯などのパトロンの支援がなければ無理な話です.

多くのテクストが失われてきました.

しかし,全体が失われた一部のテクストも,断片という形で残ることがあります.

例えば,同時代の人や,少し後の人,あるいは,百年後の人が,引用することで部分的に残るのです.

注釈が残っているのに,元のテクストが失われている,という場合もあります.

また,他学派が引用する場合もあります.

その場合は,相手を批判するために,相手のテクストを「敵の説」としてまず引用します.

それから批判するわけです.

あるいは,直接の注釈文献でなくとも,後代の同じ学派の人が「先師の説」として,その当時には残っていたテクストを引用することがあります.

このようにして,現在は散逸したが,その当時には(全体あるいは一部が)残っていたテクストが,「断片」として現在に残ることがあります.

インド哲学史を再構成する上で,断片は重要な文献証拠となります.

現在残っているテクストの多くはメジャーなテクストで,いままでその伝統が保持されてきたものです.

しかし,断片で残っているものは,後代には流行らなくなったけど,その当時には盛んに読まれていたものを含みます.

つまり,その当時の教養を再現するにあたって重要なパズルのピース群となります.

思想の展開を探る上でも,引用される文献というのは,ある一つの学説を代表することが多くあります.

当然,「思想史上のミッシングリンク」といったものを説明する重要な材料を提供してくれることになります.

ここで一つの疑問が生じます.

いったい,ある「断片」が引用されるとき,その「断片」は,本当に正しく引用されているのだろうか,という疑問です.

つまり,元のテクストと比べようがないのですから,ひょっとしたら改竄されている可能性だってあるわけです.

でっちあげかもしれません.

本当にそのテクストが存在したかどうか,断片が一つしかなければ,それすらも疑わしくなってくるのです.

つまり,何を断片と断定するのか,という,断片の判断基準が問題となります.

著者が勝手に要約したものであって,その詩節自体は著者の創作で,過去に存在したテクストそのままの引用ではない場合があるのです.

また,誰の何というテクストからの引用かということが明示されていない場合が多くあります.

断片の帰属の問題です.

実際,これまでの研究で「断片」とされてきたものも,詳細に検討すると,断片ではないということがあります.

あるいは,著者が,昔の事情をよく知らずに,口から出まかせで,「これはXからの引用だ」ということもあります.(これは,古今東西,「偉い」先生にはよくあることです.)

時代が離れているにもかかわらず,突然,断片の帰属が明らかになっている場合など,疑う必要があります.

したがって,断片の認定にあたっては,慎重に事を運ぶ必要があります.

インド哲学史の場合,反論者からの引用が,断片回収のための宝の山となります.

例えばジャイナ教徒が他学派の見解を引用する場合,

また,仏教徒がサーンキヤ学派や聖典解釈学派のテクストを引用する場合などです.

いずれも,相手を批判するために,少し先行する敵のテクストを引用します.

ここで重要なのは,敵の説を批判する場合,その引用あるいは理解は正確でなければならない,ということです.

文字通りである必要はなくとも,少なくとも,その意味において,敵の説の理解が間違っていては,批判は意味を失います.

せっかく批判しても,「そんなことは誰も言ってない」と言い返されては終わりです.

つまり,引用の動機を考えると,敵側からの引用というのは,正確であることが期待できるのです.

つまり,断片回収にあたって,敵側からの引用は,信頼すべき宝庫となりえるということです.

このことは重要なことです.

例えば現代の仏教研究者にしても,自身が信心深い仏教徒である場合には,「外道が言っていることは信用できない」「引用の最初から歪曲しているのだろう」「捻じ曲げて解釈しているに違いない」「仏教の真意を再現していない」と頭から思っていることも考えられます.

その場合,外道文献における引用・解釈を信用しない,ということになってしまいます.

しかし,解釈の捻じ曲げということは,敵側ではなく,むしろ,味方の側に起こることです.

ディグナーガ(仏教)→クマーリラ(聖典解釈学)→ダルマキールティ(仏教)という連鎖を考えてみましょう.

クマーリラは,ディグナーガを批判するにあたって,ディグナーガの説を正しく再現する必要があります.

ダルマキールティは,ディグナーガを批判するクマーリラを批判するにあたって,「ディグナーガはそんなことは言っていない.実はディグナーガの真意はこういうことだ」という言い方をするはずです.

つまり,誰がディグナーガの真意を捻じ曲げる可能性があるのか,ということになると,敵側ではなく味方のほうがあやしいのです.

クマーリラの批判に答えるために,ダルマキールティは,仏教説をアップデートする必要に迫られます.

同時に,それを伝統に帰属させる必要があります.

したがって,「ディグナーガの真意はこうである」と強弁する必要に迫られることになります.

引用文献の形を変えることはありませんが,引用文献の解釈は変えることになります.

逆に,敵側にその意図はないわけです.

文献を引用し,それを,相手の真意に即して理解するのが,批判作業の前提となる最初の作業です.(ただしクマーリラの場合,著作が詩節なので,ディグナーガの文献をそのままの形で引用することは,形態上,不可能ですが.)

文字通りの引用という断片(テクスト断片)と,思想内容の要約という意味での断片(思想断片).

後者は,あるいは,思想への言及と言うべきかもしれません.

動機という観点からすると,このように,敵側は,正確に相手の説を再現する必要に迫られるということが分かります.

シュタインケルナー教授は,断片シンポジウムの基調講演において,引用における伝統の中と外との動機の違いを強調されていました.

この問題意識は,私が日頃意識しているものと同じものです.

全面的に賛成です.

しかし,桂先生は,このような意見には少し首肯できない部分がある様子でした.

各人が念頭に置く事例が様々ですから,「断片」ということですべての事例を一般化すると,細部において話が食い違う点が出てくるのかもしれません.

ともあれ,今は失われてしまった貴重なテクストの断片というのは,思想史再構成の浪漫を駆り立てるものです.

それは,単に思想史の再構成ということにとどまりません.

思想という生き物が,どのように成長しうるのかという一つの事例を示してくれているのです.

一人の頭の中で思考実験せずとも,歴史の中で実際に実験してくれているわけです.

連綿と続いてきたバラモンの脳内実験場を断片の中に探り出すというのは,面白い挑戦です.

インド哲学研究のこの面白い分野を切り開いたのも,またしても,フラウワルナー教授でした.

場を作ってくれた,という意味で,我々は,フラウワルナー教授,シュタインケルナー教授に多くを負っていることは間違いありません.
  1. 2012/08/26(日) 15:51:31|
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Upasamhara session

Matsumoto4 015

On the last day we had 4 papers on Mimamsa: Fujii, Shida, Kataoka, and Yoshimizu.

Omae and Ishimura were also present.

Altogether 6 Mimamsakas in a room! (Perhaps it is a record.)
  1. 2012/08/25(土) 00:58:35|
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Soba prepared by a soba champion (Soba Meijin)

Matsumoto3 050
Matsumoto3 063
Matsumoto3 087
Matsumoto3 102
Matsumoto3 092
Matsumoto3 101
  1. 2012/08/24(金) 08:38:11|
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Fragments of Indian Philosophy

http://nyaya.oeaw.ac.at/
  1. 2012/08/23(木) 18:32:50|
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信州大学での断片シンポジウム

旧一勧ビルのHarmonie Bienでのレセプション

挨拶される桂先生

「みなさんファイト(=ガチンコ議論)しましょう」とのことでした.

Darshan 064


ウィーンからはシュタインケルナー先生

Darshan 039


信州に集まった日本勢は,東北,東京,早稲田,名古屋,京都,広島,九州ほか.

若手も多く参加しています.

発表が楽しみです.
  1. 2012/08/21(火) 06:22:18|
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京大インド学じゃーなる

Shinshu 037

マルチな才能で,ヴェーダーンタ神学だけではなく,漫画もよくする池端編集長.

今年も「京大インド学じゃーなる」を配布してくださいました.

2011年度 京都大学ジュニアキャンパスでのポスターセッションの資料をまとめたパンフレットです.
  1. 2012/08/20(月) 06:10:17|
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信州大学でのインド哲学セミナー

「印哲」と言うと,インド哲学ばかりではなくて,インド仏教(さらには仏教学全般)も含めての通称です.

最もわかりやすい集合体が,「日本印度学仏教学会」です.

いっぽう,純粋に,インドの哲学文献ばかりを研究している人の集まりとなると,それほど数が多いわけではありません.

集団としては,京都大学の印哲(インド古典学)が主催する「インド思想史学会」がすぐに思い浮かびます.

丸井・桂両先生が先導するインド哲学の科研プロジェクト.

統一のテーマは存在論です.

一日目は,プロジェクトの各分担班から四人の発表.

ヴェーダーンタ(池端),ジャイナ(上田),シャイヴァ(片岡),新ニヤーヤ(和田)と,多彩な発表が相次ぎました.

科研プロジェクト全体を陰で支える岩崎さんは,公式ツウィッターまで準備されたようです.

https://twitter.com/jastt_symposium

インド哲学関係者は,浮世離れした隠遁者の集団かと思いきや,案に相違して,事務能力が高い人が多いのですが,このような裏方の仕事の薫習によるものでしょうか.

Shinshu 027

二日目は,分析哲学の八木沢先生による存在論についての講演.

フレーゲ,ラッセル,ヴィトゲンシュタイン,クワイン,タルスキ,クリプキあたりの話を,うまく噛み砕いて(インド哲学研究者にもわかるように)話してくださいました.

「存在とは何か?」と「何が存在するのか?」というお話でした.

Shinshu 030

新論理学における非存在での発表だった和田先生は,八木沢先生に,非存在についてあれこれと質問.

インド哲学では,絶対無の代表は兎の角です.

丸い三角のようなものは例に出しません.

そのようなものは,そもそも矛盾した表現として全く考慮されていなかったようです.

Shinshu 039

ミーティングを終えて,ホテル近くを散策.

オクトーバーフェストならぬ,サマーフェストのビール祭り.

すると,向こう側から見慣れた顔が二人.

ウィーンのプレッツ博士とシュタインケルナー教授でした.

嗅覚はさすがです.

日曜日ということで,開いている店は限られているのですが,ウィーン組と連れだって,近くの「蔵」で夕食.

ウィーンで研究を進められている渡辺さん,江崎さんとも,久々の再会でした.
  1. 2012/08/20(月) 05:32:38|
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インド論理学研究4

ようやく出たようです.

インド論理学研究

http://blog.goo.ne.jp/indianlogic/e/ac1554f28b6d659071edc560479155da

平成23年度(第IV号)

目次

【特別寄稿】アパダーナと法華経(松山俊太郎) 1

ガンゲーシャの「遍充五定義」における第3定義と第5定義の論理形式
―図式による形式化の観点から―(和田壽弘) 13

『中論』第2章訳注(1)(立川武蔵) 39

『有形象証明論』SAkArasiddhizAstra「自己認識章」和訳研究(3)
(新井一光) 55

『廻諍論』第26偈を典拠とするツォンカパの思想(四津谷孝道) 63

チベット仏教論理学における<理解(rtogs pa)>の概念について
(西沢史仁) 97

アティシャに由来するレティン寺旧蔵の梵文写本
―1934年のチベットにおける梵本調査を起点として―(加納和雄) 123

svabhAvapratibandha 研究の見取り図(片岡啓) 163

svabhAvapratibandhaの複合語解釈(福田洋一) 205

svabhAvapratibandha を解く(金沢篤) 223

ミーマーンサー学派の隠喩論(下)(針貝邦生) 253

BhaTTikAvya 第1章―テキスト・和訳・註解―(和田悠元) 275

欧文目次 291
編集後記(金沢篤) 293


発行日:2012年3月31日
発行者:インド論理学研究会(駒大金沢研究室内)
発行所:山喜房佛書林(Tel:03-3811-5361)
定価:6,000円(税別)
ISSN 1884-7382
  1. 2012/08/17(金) 08:11:35|
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ケンスル・リンポチェ・テンパ・ゲルツェン師ご遷化

ケンスル・リンポチェ・テンパ・ゲルツェン師追悼祈願法要のお知らせ

http://www.mmba.jp/geshelamonlam
  1. 2012/08/15(水) 02:13:47|
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註釈者達の諸解釈をどう捉えるべきか?

インドのテクストは,註釈の形をとることがほとんどです.

根本テクストにたいして,100年後に註釈が著され,さらに100年後に註釈の註釈(=復註釈),さらに100年後に復註釈にたいする註釈(復々註釈)という感じです.

したがって,或るテクストを研究する際には,根本テクストの一行にたいして,註釈を数ページ,更に,復註釈を何十ページ,復々註釈を何十ページと読むことになります.

たとえば,ジャイミニスートラの1.1.2は,codanalaksano 'rtho dharmahというたった一行ですが,これにたいして,シャバラの註釈は数ページにわたってあり,さらに,それにたいしてクマーリラの復註釈が286.5詩節あります.

Cf. http://verlag.oeaw.ac.at/products/Sachgebiete/Asienforschung/Kumarila-on-Truth-Omniscience-and-Killing.html?language=en


そして,クマーリラのこの数百詩節にたいして,ウンヴェーカ,スチャリタミシュラ,パールタサーラティミシュラという三人の註釈家が,それぞれ註釈を残しています.

また,クマーリラの失われた著作である『ブリハットティーカー』に対応詩節があり,それが,シャーンタラクシタの『真理綱要』に引用されています.

そして,『真理綱要』にたいしては,カマラシーラの懇切丁寧な註釈が残されています.

したがって,古い解釈を押さえるためには,カマラシーラの註釈も見る必要があります.

また,9世紀後半のジャヤンタも,クマーリラの『頌評釈』の詩節を念頭に置きながら,その内容を散文で説明しています.

したがって,その当時の解釈を知るためには,ジャヤンタの解説も踏まえる必要があります.

このように,ある一つのテクストを研究するにあたっては,様々な解釈可能性が広がっています.

このように,様々な解釈可能性が広がる場合,それを整理するには,どのようにすればよいのでしょうか.

従来の研究は,ランダムに註釈を見て,手頃な解釈をとってきて,それを見ながら,自分の解釈を残す,という手法が一般的です.

つまり,いずれかの註釈に則りながら,それを或るテクストの解釈とする,という考え方です.

或る註釈者の解釈をもって,自分の解釈とするわけです.

それで「客観性」が担保されると考えるわけです.

しかし,註釈者は,あくまでも註釈者です.

根本テクストと同じ考え方をしている保障はありません.

また,註釈者同士が意見を異にする場合が往々にしてあります.

その場合,我々はどのような態度をとるべきでしょうか.

最もシンプルな考え方は,異読と同様に考えることです.

写本の異読情報は,それぞれ別に記録しておき,そのうえで,どれがいいか,どれがオリジナルか,個別に判断を下すことになります.

もちろん,最も古い写本が重要であることは論を俟ちませんが,それだけとも限りません.

他のテクストに引用される場合,写本情報よりも,そちらの情報のほうが信頼度が高いということもあります.

様々な情報の価値を勘案しながら,オリジナルの読みがどれかを採用していくことになります.

解釈についても,同じことがいえます.

つまり,まずは,異なる解釈を記録する必要があります.

註釈者達が異なる解釈をおこなっている場合,まずは,その諸解釈を記録する必要があります.


そのうえで,どれが根本テクストに即した本来の著者の考え方なのか,様々な要因を考慮しながら,最終的な判断をくだすことになります.

なにも記録することなく,適当にどれか一つの解釈を,何の断りもなく持ってくるという態度は,「客観的」と言えるものではありません.

実際には,多くのインドにおける出版は,異読に関して,いい加減な考え方に基づいています.

つまり,写本を数本みて,適当に手頃な読みを選び,その情報の詳細については記さず,結論だけを書くというものです.

つまり,本文テクストを「確定」する過程は記録せず,結果だけを記すという手法です.

しかし,これは,反証不可能という点で,非科学的な考え方です.

反論できる材料を残さないというのは,実験の再現不可能ということになり,非科学的と言われても仕方ありません.

十分に反論する材料を残しておくこと,検証可能性を考慮することが,全体の進歩・前進のためには必要なことです.

異読と同様に,解釈に関しても,自分の結論だけを記すのではなく,その過程を記す必要があります.

そして,註釈者の異解釈や,さらには,先行研究の異解釈があるならば,それをまずは記録する必要があります.

そのうえで,どれが最も著者の意図するところを押さえているのか,個別に思案する必要があります.

テクストの読みだけでなく,解釈可能性に関しても,何の断りもなく結論だけを記すことは,「非科学的」ということになります.

インド哲学文献の先行研究を批判的に眺めるとき,このような問題意識の欠落に気がつかされます.

このような問題意識の欠落は,とくにインド哲学文献に関して,本邦では,思想研究(解釈研究)・思想史研究一本槍で,写本に基づいた研究がほとんど行われてこなかったということとも無関係ではないでしょう.

「何が正しいのか」を知りたいという性急な欲求は,正しくないものを無視させます.

しかし,正しくないものを記録することは,後進が道を間違えないようにするために重要なことです.

また,正しいと思っていた解釈が実は誤っていたという場合も往々にしてあります.

他の解釈可能性の道をオープンにしておくためにも,異解釈のための材料を残しておくことは重要なことです.

幸い,現代では,パソコンの導入により,かつてのような手書き原稿,印刷所との校正の往復という煩雑さから解放されて,研究者は,多くの資料・材料を論文上に残すことが個人的に可能となっています.

つまり,資料を豊富に記録することが現実的に可能となっています.

印刷所とやりとりすることなく,複雑な異読情報を記したテクスト校訂をおこなうことが,パソコンのおかげで,個人的に画面上で行うことが可能となっています.

このような状況の違いも考慮すれば,なおさら,現代において,反論材料を残さないことの怠慢は批判されてしかるべきということになります.
  1. 2012/08/15(水) 01:52:36|
  2. 未分類

祝:タタアーチャーリヤ教授受賞

ポンディシェリで習っていたタタアーチャーリヤ教授が受賞


http://www.ifpindia.org/+Prof-R-Tatacharya-awarded-the-Chevalier-de-la-Legion-d-Honneur,260+.html

Prof. R. Tatacharya awarded the ‘Chevalier de la Légion d’Honneur’

Professor Navalpakkam Ramanuja Tatacharya, professor and associated researcher at the French Institute of Pondicherry, is a leading authority in the fields of shastras (sciences) that are the Nyaya, the Vyakarana, the Mimamsa and the Vedanta.

In recognition of his scholarly achievements, he was conferred the prestigious title of ‘Chevalier de la Légion d’Honneur’ from the Government of France in a ceremony which was held at the French Consulate in Pondicherry on 12 July 2012, in the presence of his Excellency, Mr. François RICHIER, Ambassador of France in India.
  1. 2012/08/12(日) 01:25:05|
  2. 未分類

South Indian Samples

Annapurna2309845623
  1. 2012/08/09(木) 08:10:05|
  2. 未分類

The Center of the Universe

TCOTU2TCOTU
  1. 2012/08/09(木) 08:00:49|
  2. 未分類

Annapurna

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  1. 2012/08/09(木) 07:51:04|
  2. 未分類

Zacatecas

zacatecas: tacos-tequila
  1. 2012/08/08(水) 18:32:20|
  2. 未分類

断片シンポ

Japan-Austria International Symposium on

Transmission and Tradition

The Meaning and the Role of “Fragments” in Indian Philosophy


日墺共同国際シンポジウム
伝統知の継承と発展
インド哲学史における“テキスト断片”の意味をさぐる

20–24 August 2012, Matsumoto


JASTT (Japan-Austria International Symposium on Transmission and Tradition)




Conference Hall at Shinshu University, located on the 6th floor of Faculty of Arts Building.




Day 2: 21 Aug. (Tuesday)

10:30 – 11:30 a.m. Keynote Lecture by Ernst Steinkellner (Austrian Academy of Sciences)

Harvesting in the Pramanasamuccayatika: Methodological and Organisational Remarks


1:30 – 3:00 p.m. Session 1

Chair: Shoryu Katsura (Ryukoku Univ.)

1. Hiroshi Marui (Univ. of Tokyo)

How to Identify the Fragments from the “Acaryah” and “Vyakhyatarah” in the Nyayamanjari

2. Ernst Prets (Austrian Academy of Sciences)

Early Nyaya Fragments, Aviddhakarna, and other Uncertainties

3. Shinya Moriyama (Shinshu Univ.)

Another Look at the Ivarasadhana-Fragment of Aviddhakarna


3:30 – 5:00 p.m. Session 2

Chair: Kei Kataoka (Kyushu Univ.)

1. Yohei Kawajiri (Japan Society for the Promotion of Science)

New Fragments of the Ivarapratyabhijnavivrti

2. Koji Ezaki (Austrian Academy of Sciences)

On the Textual Fragments of Bhatta Udbhata

3. Christian Ferstl (Austrian Academy of Sciences)

Disregarded Material for the Study of the Pasupatas



Day 3: 22 Aug. (Wednesday)



10:00 – 11:00 a.m. Session 3

Chair: Ernst Prets (Austrian Academy of Sciences)

1. Himal Trikha (Austrian Academy of Sciences)

Intertextual References in the Satyasasanapariksa of the Jaina Vidyanandin

2. Yasutaka Muroya (Univ. of Leipzig)

Remarks on the Nyaya Tradition Represented by Vacaspati Misra





11:30 – 12:30 p.m. Session 4

Chair: Toshihiro Wada (Nagoya University)

1. Hideyo Ogawa (Hiroshima Univ.)

On a Bias for Doxographical Accounts in Later Commentaries on Bhartrhari's Vakyapadiya

2. Ashok Aklujkar (Univ. of British Columbia)

Recovering Bhartrhari’s Vakyapadiya-vrtti from Bhoja’Srngara-prakasa



Day 4: 23 Aug. (Thursday.)


10:00 – 11:00 a.m. Session 5

Chair: Akira Saito (Univ. of Tokyo)

1. Hisataka Ishida (Japan Society for the Promotion of Science)

Fragments of Some Unknown Commentary on Dharmakirti’s Pramanavarttikasvavrtti

2. Horst Lasic (Austrian Academy of Sciences)

Collecting treasures --- Some reflections on a database of fragments of sastric works


11:30 – 12:30 p.m. Session 6

Chair: Ernst Steinkellner (Austrian Academy of Sciences)

1. Anne MacDonald (Austrian Academy of Sciences)

Following the Fragments: An Investigation into Selected Quotations from Seventh-century

Madhyamaka Works

2. Akira Saito (Univ. of Tokyo)

A Shape in the Mist: On the Two Undecided Texts of Sutra-Citation in the Prasannapada

12:30 – 2:00 p.m. Lunch




2:00 – 3:00 p.m. Session 7

Chair: Hideyo Ogawa (Hiroshima Univ.)

1. Kyo Kano (Kobe Women’s Univ.)

Citations in the Syadvadaratnakara

2. Shin Fujinaga (Miyakonojo National College of Technology)

The Tattvarthasutra and its Sources in the Agamas


3:30 – 4:30 p.m. Session 8

Chair: Hiroshi Marui (Univ. of Tokyo)

1. Piotr Balcerowicz (Univ. of Warsaw)

Fragments from the ajivikas

2. Sung Yong Kang (Seoul National Univ.)

The Arrangement of jati-s and the Taxonomy of Fallacies


5:00 – 6:30 p.m. Round Table 2

Chair: Yoichi Iwasaki (Univ. of Tokyo)

Presentation of the Nyaya Fragments Database by Ernst Prets and his team

7:00 – 9:00 p.m. Conference Dinner

Jinbun Hall, on Shinshu University campus



Day 5: 24 Aug. (Friday)



10:00 – 11:00 a.m. Session 9

Chair: Kiyotaka Yoshimizu (Tohoku Univ.)

1. Taisei Shida (Kyoto Univ.)

On the Source of Mimamsa Theory of Sound (sabda) as an Entity (dravya)

2. Takamichi Fujii (Kokushikan Univ.)

Vrttik!ra’s Perspective on the Scriptural Authority


11:30 – 12:30 p.m. Session 10

Chair: Ashok Aklujkar (Univ. of British Columbia)

1. Kei Kataoka (Kyushu Univ.)

Adarsanamatra and Utpreksa: A Study of a Brhattika Fragment


2. Kiyotaka Yoshimizu (Tohoku Univ.)

Kumarila and his Quotations from the Pancacavimsabrahmana


2:00 – 3:00 p.m. Session 11

Chair: Piotr Balcerowicz (Univ. of Warsaw)

1. Toshikazu Watanabe (Austrian Academy of Sciences)

On the Sanskrit Fragments of the Early Sakhya Theory of Proof

2. Phillip Maas (Univ. of Vienna)

The Transmission of “Fragments” Ascribed to Pancacasikha
  1. 2012/08/08(水) 08:20:23|
  2. 未分類

ダルシャナ科研研究会(信州大学)

2011-2014 年度科研基盤研究(A)
「インド哲学諸派における<存在>をめぐる議論の解明」
2012 年度合同研究会

2012/8/18
信州⼤大学松本キャンパス 人⽂ホール

14:00-14:45 研究発表1 池端 惟人
「Vedānta 諸派のvācārambhaṇaṃ 理解
―因果関係、世界の実在性を巡るVedānta 各派の攻防―」

14:45-15:30 研究発表2 上田 真啓
「ジャイナ教文献に見られる存在のあり方
̶— ニクシェーパにおける dravya と bhāva ̶—」

15:30-15:50 休憩

15:50-16:35 研究発表3 片岡 啓
「シャイヴァ・オントロジー ――神・人・世界――」

16:35-17:20 研究発表4 和田 壽弘
「新ニヤーヤ学派における非存在(abhāva)の成立要件
──反存在(pratiyogin)の観点から──」
  1. 2012/08/08(水) 07:29:28|
  2. 未分類

UNM

UNM3
  1. 2012/08/03(金) 18:50:17|
  2. 未分類

Annapurna

Annapurna1
  1. 2012/08/03(金) 08:30:46|
  2. 未分類

UNM

UNM1

UNM2
  1. 2012/08/03(金) 08:00:47|
  2. 未分類

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