Pratibhanusarini --- 九州インド哲学ブログ2

On Indian Philosophy and Buddhist Studies

Saṃkṣepaśārīrakam 2:132

佐竹 2004:75-76
ajñānaṃ sakala-bramodbhavana-kṛt piṇḍeṣu samānyavat jīvānāṃ
pratibimba-kalpa-vapuṣāṃ bimbopame|
vidvāṃsaṃ purusaṃ jahāti bhajate vidyāvihīnaṃ naram
naṣṭānaṣṭam iva ātma piṇḍam adhunā jātis tathā eke jaguh|| (SŚ II,132)

〔対象としてブラフマンを、基体として多くのjīvaを持つ〕すべての迷妄を生ずる制作者である唯一の無明(ajñāna)を、身体の中に共通に持っている、ブラフマンである原型(bimba)の似姿として映像(pratibimba)として仮定された形のjīvaが存在する。今、普遍的な属性(jāti)が、失われた自己の身体は〔捨て去り〕、失われていない〔身体は存在し続ける〕ように、賢者は〔無明を〕捨て去り、愚かな人は〔無明を〕享受する、と、このように〔ある人は〕主張する。



ゆったりと流れるśārdūlavikrīḍita韻律の本詩節.

まず,いくつか転写の誤りがあります.

またbrahmaṇiという単語が抜け落ちています.

また切り方にも問題があります.

散文ではない韻文の場合,恣意的に外連声を解消することは許されません.

また合成語の場合は,もちろん,単語を切り離すことはできません.

ajñānaṃ sakala-bhramodbhavana-kṛt piṇḍeṣu sāmānyavaj
jīvānāṃ pratibimba-kalpa-vapuṣāṃ bimbopame brahmaṇi|
vidvāṃsaṃ puruaṃ jahāti bhajate vidyāvihīnaṃ nara
naṣṭānaṣṭam ivātmapiṇḍam adhunā jātis tathaike jagu|| (SŚ II,132)



細かい解釈の相違をいちいち記すことはしませんが,筆者の和訳は以下のようなものです.

ちょうど諸個物の上に[一つの]共通性があるように,一切の錯誤を生み出す[一つの]無知は,反射像に喩えられる在り方を有する[無数の]諸個我にあり,原像に喩えられるブラフマンを対象とする.[無知は]知を持つ[解脱した]人を捨て,知を欠いた[未解脱の]人を受容する.ちょうど今,共通性が,滅した固有の個物を捨て,滅していない固有の個物を受容するのと同じように.[以上のように]或る者達は主張している.



一つの共通性は多くの個物の一つ一つにその全体をもって属します.

同じように無知=無明は,一つでありながら,多くの諸個我に,その全体をもって属します.

ここで個我は無数ですが,それは原像であるブラフマンを写した反射像であり,本当の意味で個我とブラフマンとが別であるわけではありません.

無知が一つである場合,解脱した人と解脱してない人の違いが問題となります.

しかし,ちょうど共通性が,滅した個物にもはや属すことがないように,無知も,知を持つ人=解脱した人には属すことがありません.

このように,ブラフマン(一)=諸個我(多)の齟齬を,原像・反射像の比喩で回避しつつ,一者である無明がどのようにして或る人に働き,或る人には働かないのかを,共通性と諸個物の例で説明するのが,本詩節の眼目です.

vidvāṃsaṃ purusaṃ jahātiにおける行為対象は「知を持つ人を」であり,行為主体は,前の文から続く「無知」です.

つまり「知を持つ人を[無知が]捨てる」となるはずです.

どうすれば著者のように「賢者は〔無明を〕捨て去り」となるのでしょうか.

またpiṇḍeṣu sāmānyavatを著者は「身体の中に共通に持っている」と訳しているようです.

ここは比喩のソースである個物と普遍のことを指しているので,piṇḍeṣuは個体・個物のことであり,sāmānyaは後で出てくるjātiと同じもの,すなわち,共通性・普遍を指します.

また,ここでのvatは,「を持つ」ではなく「のよう」のほうのvatです.

ラーマティールタの注釈もivaを用いて説明しています.
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  1. 2013/06/26(水) 23:36:09|
  2. 未分類

Saṃkṣepaśārīrakam 1:7

本邦ではサルヴァジュニャアートマンの研究もなかなかないので,貴重な研究です.

このような貴重な成果がネットで簡単に見られるのは非常に助かります.

佐竹正行 2004
『サルヴァジュニャートマンの不二一元論思想―シャンカラとの比較を通して―』
博士論文(東洋大学)
Download here or here




しかしながら,サンスクリット語のローマ字転写の方式は,現在の学界では全く一般的でないものです.

それは単語(特に合成語の中身)の切り方をめぐるものです.

著者のテクスト引用と和訳は以下の通りです.

p. 29
vaktāram āsādya yam eva nityā sarasvatī svārtha samanvitā āsīt|
nirasta dustarka kalaṅka paṅkā namāmi taṃ śaṅkaram arcita aṅghrim|| (SŚ I,7)

誤った見解や汚れ、泥を破壊する永遠の知識の本来の意味を発見した解釈者である、聖なるシャンカラを、私は心から尊敬し、彼の足下に敬礼する。



外連声までも切り離してしまうと詩節の韻律(upendravajrā)が乱れてしまいます.

また,合成語の中まで含めて,すべての単語をぶつぶつと切ってしまう著者の切り方では,どの単語が合成語なのか全く見分けが付かなくなってしまいます.

通常であれば,次のようにローマ字転写すべきものです.

vaktāram āsādya yam eva nityā
sarasvatī svārthasamanvitāsīt/
nirastadustarkakalaṅkapaṅkā
namāmi taṃ śaṅkaram arcitāṅghrim// (SŚ I,7)



和訳の問題点は数多くあります.

まず,namāmi taṃ śaṅkaramが主文です.

すなわち「(私は)敬礼する,彼を,シャンカラを」ですから,「かのシャンカラに敬礼する」となります.

しかし,著者は,taṃ śaṅkaram arcitaと取ったようです.

そして,それを「聖なるシャンカラを、私は心から尊敬し」と訳出します.

もちろん,構文的にこれは不可能です.(著者は,表記だけでなく,解釈においても,arcita aṅghrimと切って解釈していることになります.)

arcitāṅghrimは,シャンカラに係るバフヴリーヒの形容句であり,「崇められた足を持つ[シャンカラ]に」となります.

taṃ śaṅkaram arcitaを「聖なるシャンカラを、私は心から尊敬し」と解釈した以上,著者は,残りのnamāmi ... aṅghrimを「彼の足下に敬礼する」と訳出することになります.

既に述べたように,arcitāṅghrimは合成語ですから,このような切り離し方は不可能です.

なお,ラーマティールタによる注釈がbrahmavidyārthibhiḥ(梵知を求める者達)としているように,ここで,足を崇める主体としては,学生・弟子達が想定されています.

すなわち,学生たちによって足下に平伏されているシャンカラに私は敬礼するという意味になります.

以上から分かるように,著者は,ぶつぶつと単語を切り離した結果,表記のみならず構文解釈においても,無理な切り方と結び付け方をしていることになります.

nirasta-dustarka-kalaṅka-paṅkāを著者は「誤った見解や汚れ、泥を破壊する」としていますが,これも,注釈が素直にそう解釈するように,dustarkaというkalaṅkaからなるpaṅkaがnirastaされた,というように取るのが普通です.

全体としてのこのバフヴリーヒはサラスヴァティーに係っていますが「泥を破壊する永遠の知識」では意味が通じません.

「泥が取り除かれたサラスヴァティー河」という意味になるはずです.

すなわち「悪しき思弁という染みからなる泥が[シャンカラによって]取り除かれた」という意味になります.

nityā sarasvatīを著者は「永遠の知識」としていますが,サラスヴァティーは,サラスヴァティー河であり,流麗に流れる言葉の女神,弁才天です.(ここで,河と泥とは縁語になります.)

常住な言葉ですから,ヴェーダを指すことになります.

注釈もvedaと特定しています.

āsādyaを著者は「発見した」と訳しているようです.(この場合,samanvitaに相当する和訳がないことになります.)

まずこの単語の意味は単純に「得てから」です.

「得てから」は何らかの行為対象を必要としますが,それは,ここでは直前のvaktāramです.

したがって,構文全体は「[シャンカラという]語り手(解説者)を得てから」ということになります.

すると,このgerundの「~してから」の意味も生きてきます.

すなわち,シャンカラという解説者を得ることで,サラスヴァティー河が濁りを離れたということです.

濁りが無くなって,その本来の意味が明らかになった,というような趣意となります.

全体として次のような意味になるはずです.

常住なサラスヴァティー河という言葉[すなわちヴェーダ]が,他ならぬ彼という解説者を得て,悪しき思弁という染みからなる泥を取り除かれ,その本来の意味を具えたものとなった.その足が崇められた彼シャンカラに私は敬礼する.



ローマ字転写は,単に表記の問題でなく,解釈にも密接にも関わりますから,やはり疎かにできません.

サンスクリット語での詩節というと,格関係がはっきりしているので,離れている単語でも自由に結びつけて解釈していいかのように思われがちですが,実際には,いい詩節は,ナチュラルな語順というのを持っています.

ここでも,パーダa句のvaktāram āsādyaや,パーダd句のnamāmi taṃ śaṅkaramは,つながりを保って表現されています.

詩というのは(前から順番に)耳で聞いて分かるようにできていますから,当然といえば当然です.

徐々に意味があらわになる謎解きを楽しむのであれば,語順も気にしながら理解する必要があります.

語順に沿って直訳すると次のようになります.


かの話者を得てから,常住な

サラスヴァティー河は,自らの意味を備えたものとなった

悪しき思弁の染みなる泥を離れた

彼シャンカラに敬礼す,その御足が崇められたところの



辻直四郎風に訳出すると以下のような感じでしょうか.

彼を得てより永久(とこしえ)の

弁才の河 本義を具備せり

詭弁の瑕疵の泥離れつつ

敬礼す,かのシャンカラに

御足も平伏されしかの者に

  1. 2013/06/26(水) 08:00:45|
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Spice Road, Takasago, Fukuoka

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いつもながら我が道を行くぶれないスパイスロード.

入り口のヴィジュアルから既に怪しげな香りが漂っています.


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カレーメニューはいつものようにチキンマサラカレー一種類のみ.

LMSの三サイズから選択.

どれも850円オンリー.(SSだけ安くしています.)

食後,店主の高田さん,

「辛くなかったですか?」

「夏だから少し辛くしてみました」

とのこと.

いい汗,かかせてもらいました.



食後,天神の人気スパイスカレー屋Tikiの店主に遭遇.

「そういえば,今度,カレー特集の本と雑誌が出ます」

「本の表紙はTikiのカレーです」

とのこと.

夏ともなると,あれこれとカレー特集が組まれるようです.

そういえば,月曜日の印哲定例カレー研究会@ドゥニヤーに始まり,今週は,カレー続きでした.
  1. 2013/06/23(日) 11:53:17|
  2. 未分類

Marhaba, Hakomatsu, Fukuoka

Marhaba 001
Marhaba 003
Marhaba 032
Marhaba 034

九大の裏(というか元々は正面)の高架を越えた所.

パンストックの裏の裏の裏あたりの道を行くと,ありました.

マルハバ.

要するにモスクの近くです.

パーキスターン人経営の食料雑貨店.

地下鉄箱崎九大前のAzharと同じような感じです.

しかし,冷蔵庫が充実しており,ハラールの食肉を多く扱っています.

また,予約した方が無難ですが,カレーメニューも.

本日は,マトンカレーにナン.

近くにモスクがあるので,金曜日は混むそうです.

オーナー:

「アイフォン・アプリのHalalで調べたらすぐに出てくるよ」
  1. 2013/06/18(火) 19:28:13|
  2. 未分類

Sakitsu Catholic Church, Amakusa, Kumamoto

SakitsuTenshuDo4
SakitsuTenshuDo2

  1. 2013/06/15(土) 08:34:45|
  2. 未分類

sarvavyāpī Kumamon

Kumamon32098
Kumamon4230982
Kumamon320983543
Kumamon503498412
  1. 2013/06/15(土) 08:26:45|
  2. 未分類

Ōe Catholic Church, Amakusa, Kumamoto

OeTenshuDo11933

OeCatholicChurch2

  1. 2013/06/15(土) 08:21:16|
  2. 未分類

The Kyushu Shinkansen

TheKyushuShinkansen1

アメリカ人の先生:

「Theはおかしいねー」

「どうして,誰もチェックしなかった?」

私:「……」
  1. 2013/06/15(土) 08:10:52|
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日本印度学仏教学会第64回学術大会

第三部会

8月31日(土)午後の部(13:20-16:00)

1. 有形象知識論証の成立過程 松岡寛子
2. Dignaga, Bhaviveka and Xuanzan(玄奘)---On the "Restriction of the Proposition (*Paksavisesana)" 何歓歓
3. ダルマキールティによる「諸行無常」の証明 酒井真道
4. ダルモーッタラにおける分別知の構造 石田尚敬
5. プラマーナの定義---プラジュニャーカラグプタの解釈をめぐって--- 小野基
6. プラジュニャーカラグプタにおける対象認識---反復経験との関わりを中心に--- 三代舞
7. 牛の認識は何に基づくのか?---ディグナーガのアポーハ論--- 片岡啓
8. アポーハ論的「排除」について---語の意味(artha)のモデル--- 上田昇

4~6は片岡が司会担当.


9月1日(日)13:40-16:10
パネルA(第1多目的ホール)
インド哲学における〈存在〉をめぐる議論の諸相

代表 丸井浩
1. 存在とカテゴリー---新ニヤーヤ学派のカテゴリー論--- 和田壽弘
2. ミーマーンサー・ヴェーダーンタ存在論におけるbhedabhedaをめぐって--- 吉水清孝
3. 意味と存在 小川英世
4. シヴァ教の存在論 片岡啓
5. コメント 桂紹隆
  1. 2013/06/11(火) 08:22:05|
  2. 未分類

南アジア古典学 第八号

目下編集中です.


ISSN 1881-2074
南 ア ジ ア 古 典 学
2013第8号

目 次

立世阿毘曇論日月行品の研究
林 隆夫

DharmottaraはApoha論で何を否定したのか?
片岡 啓

バッティ、カーティアーヤナ、パタンジャリ
—Bhaṭṭikāvya 6.87–93におけるAṣṭādhyāyī 3.2.1–16の例証—
川村 悠人

顛倒の議論に見る音素とスポータの共存方法
斉藤 茜

バーヴィヴェーカの円成実性批判
田村 昌己

KalpalatāとAvadānamālāの研究(4)
— Nārakapūrvika, Pretībhūtamaharddhikā など —
岡野 潔

Śākyarakṣita's Vṛttamālāvivṛti on Jñānaśrīmitra's Vṛttamālāstuti (1)
Michael HAHN


九 州 大 学 大 学 院 人 文 科 学 府 ・ 文 学 部
イ ン ド 哲 学 史 研 究 室

  1. 2013/06/02(日) 19:52:02|
  2. 未分類

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