Pratibhanusarini --- 九州インド哲学ブログ2

On Indian Philosophy and Buddhist Studies

Darshana meeting at Nagoya

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「インドの存在論」ということで,ここ数年間,皆で集まり色々と議論していますが,ようやく,持ち寄るネタの左右の幅も見えてきて,全体が姿を現わしてきたような感じです.

存在に関してインドで議論されるようなものについて,ほぼ,ある代表的なパターンが見えてきた,と言えるでしょう.

今回は,「内属」に関する発表が二つ.

個物としての牛に,普遍である牛性が内属する.
個物としての牛に,色という或る性質が内属する.
個物としての牛に,進行という或る運動が内属する.
部分に全体が内属する.

といったような場合の内属のことです.

存在するもの同士の関係に関する概念のひとつです.

最後の,

一原子体に二原子体という全体が内属する.
壺の半分と半分とに,壺の全体が内属する.

というようなヴァイシェーシカの発想法は,少し風変わりに映るかもしれません.

ヴァイシェーシカ学派でも,内属(例:「牛性が牛に内属する」)をきっちり定義しようとしていますが,実際には,あれこれと問題があるようです.

伝統的な訳語では「和合」です.

現代の代表的な訳語である「内属」inherenceという語感とは違う感じがします.

サンスクリットのsam-ava-i(合・下・行く)のsamの語感から言えば,和合のほうが近いでしょう.

しかし,avaを生かすと「属」というのも,決して悪くはありません.


筑女の川尻氏は,シヴァ派の存在論についての発表でした.

サーンキヤ,シャイヴァシッダーンタ,アビナヴァグプタのトリカ神学の一元論と,順を追って丁寧に説明してくれていました.


インド哲学のバランスから言うと,シヴァ教の他にも,ヴェーダーンタ神学の発表者も欲しいところでした.


小川先生を始めとした他大学の先生方からの有益なコメントも多数あり,参加した院生・ポスドクの刺激にもなった様子でした.

普段ならうことのない先生から,いろいろと違った見方を教わるということは重要です.

また,大学を越えた研究者の交流の場ということで,学会とはまた違う,非常に重要な機会を提供しています.

(インド仏教全般を含まない狭義の)インド哲学プロパーで集まる機会となると,なかなかないので,突っ込んだ議論をかわすことができる機会でした.

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池下のシャティ.

ネパール人コックが3人,日本人オーナーのもと,きびきびと働いていました.
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  1. 2013/08/25(日) 10:17:36|
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インド哲学の存在論

2011-‐‑‒2014 年度科研基盤研究(A)

「インド哲学諸派における<存在>をめぐる議論の解明」(ダルシャナ科研)

2013 年度合同研究会

8 月 23 日(金)・24 日(土)

会場 名古屋大学 東⼭キャンパス 文学部・文学研究科棟1階会議室

研究発表1
平野克典先生(愛知学院大学)
「内属関係(samavāya)から⾒るヴァイシェーシカ学派の<存在>の諸相」

研究発表2 堀田和義先⽣(東京大学)
「ジャイナ教の内属批判」

研究発表3
横⼭剛先生(京都大学)
「説一切有部後期の範疇論体系はなぜ五位を採らないのか—『阿毘曇⼼論』以後の展開に基づく考察̶—」


研究発表4
友成有紀先生(東京大学)
「アパシャブダに意味対象は存在するか?」

研究発表5
川尻洋平先生(筑紫女学園大学)
「シヴァ教神学の存在論:⼆元論から一元論へ」

研究発表6
吉⽔清孝先⽣(東北大学)
「『カテゴリー論』における実体(ousia)・普遍・個体について」
  1. 2013/08/21(水) 22:15:28|
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At Maitighar

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卒業生とマイティガルにて.

皆が集まれる馴染みの場所があるというのは助かります.

しかし,マイティガル,久々のOGも,行きつくのに結構迷ったとのこと.

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写真は,人気のマトンほうれん草のカレーとモモのセット.

クマールさんによれば,店のBGMにチャーリー君のCDを流していたら,「これ,ほしい」というお客さんもいたとのこと.

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Tシャツは,クメール文字表と象さん.
  1. 2013/08/18(日) 08:23:16|
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Takeshi Sakasegawa at Hard Rock Cafe, Fukuoka

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九大印哲OBのチャーリーこと,逆瀬川 剛史(さかせがわ たけし)君.

6月,7月に続いて,8月もハードロックカフェ福岡に登場.

オリジナルにカヴァーも交えながら各30分,二回の演奏.

今夏は,大阪,横浜のHRCでも,演奏とのこと.

http://blog.livedoor.jp/takeshi_sakasegawa/archives/cat_48914.html

曲紹介とチューニングの合間にも,ちゃんと,ハードロックカフェの「本日のスペシャルドリンク」の宣伝.

プロのDJのように流暢にこなしていました.

仕事を任せても安心・安定のチャーリー君でした.

7月発売新譜CDのジャケットは,印哲お抱え絵師T女史のデザイン.
  1. 2013/08/11(日) 12:50:49|
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九大印哲オープンキャンパス

土曜日は,朝も10時からオープンキャンパス.

高校生が大挙,大学を訪ねてきて,いろいろな研究室を訪問します.

出足は早いです.

10時には既に,高校生が,暑いコンクリートの構内を歩きまわり,さらに,迷路のような文学部棟内をきょろきょろ,うろうろしています.

その間には,アルバイトで雇われた大学生の案内係.

ちゃんと,それ用につくられたTシャツを着ています.

講義棟でやっている入学案内のレクチャーも,毎年人がいっぱい,時間で入れ替え制のようです.

いま構内をうろついている高校生も,きっと,ぎゅうぎゅうで,入れなかったのでしょう.

印哲も,おそまきながら開店準備.

狭い研究室の中で,ああでもないこうでもないと机の配置を変えます.


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高校生相手に誰が喋るのか心配していましたが,無事に,S君が大役を果たしてくれました.

高校生も熱心に話を聞いています.

人が入っていると,安心してか,さらに高校生が入ってきます.

S君が第一陣と話しこんでいる中,次鋒のT女史が第二陣に対応.

こちらもなかなかの対応ぶりです.

雰囲気を出すため,インドのお香も,ドア付近で焚きます.

すると,隣の英文を出てきた高校生が

「なんか,におわね?」

などと言っています.ポンディ土産のお香のサンダル(栴檀)です.

お昼過ぎには,カレーが到着.

以前は,研究室内で調理したこともありましたが,油が散ると本にも悪かろうということで,今回は自宅調理のカレーを持ちこみました.

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カレーのいいにおいがする中,なぜか,高校生の訪問が絶えません.

1時も過ぎて,さすがにお腹がすいたので,「お昼にします」ということで,高校生には一度退散願いました.

ご飯は各自持ち寄り.

タッパのご飯にカレーをかけます.

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こちらの大きなタッパ,ご飯も二合ほども入っているでしょうか.

食べる気まんまんの学生でした.

カレーを少し残して終了.

昼も過ぎると,高校生の姿もまばらになります.

午後遅くになると,高校が仕立てたバスの時間もあったりでしょうか,

そんな中でも,興味をもった学生がちらほらと訪ねてきます.

午前に訪ねてきて,長居して,一度ランチタイムに御退散願った高校生も,再度訪問してくれました.

えらく熱心な高校生です.

4時には終了.

暑い中,ご苦労様でした.

最後に皆で記念撮影.

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後から聞いたところでは,朝一の訪問客は,付添いの親御さんだったそうです.

「ヨーガに興味があるので」ということで,研究室内のいろいろな本を見てから,帰られたそうです.
  1. 2013/08/04(日) 09:53:27|
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九大印哲の戸崎・赤松時代

戸崎は1977年に九州大学文学部助教授となる.1983年,伊原の退官の後,同年7月1日付けで戸崎が教授に昇任する.ライフワークである法称の量評釈知覚章の研究を『仏教認識論の研究』(大東出版社,1979年・1985年)として出版する.演習では『ウパデーシャ・サーハスリー』『唯識三十頌安慧釈』『ウバヤ・アビサーリカー』『シュローカヴァールッティカ』『ラグヴァンシャ』等,広範な演習指導を展開する.1982年10月,戸田宏文が梵文法華経の研究論文により文学博士の学位を授与されている.1983年2月末,印哲研究室は,新装研究棟一階の元独文研究室に入居した.1984年以来,10月下旬に一泊二日の日程で九大印哲研修を行い,第一回と第二回を阿蘇の麓にある筑紫短大の光雲荘,1986年の第三回を志賀島国民休暇村で行っている.また同年には,印哲初の留学生である鄭 養淑(チョン・ヤンスク)が修士課程に入学している.1987年4月23日には,非常勤講師も勤めていた針貝邦生が『古典インド聖典解釈学研究』により文学博士の学位を授与された.

1987年11月1日,京都大学人文科学研究所助手だった赤松明彦(1953年1月生)が九州大学文学部助教授として着任.赤松は,1976年京都大学文学部哲学科卒業、同大学院修士課程修了、1983年パリ第3大学博士課程修了、文学博士を授与される.論理学を中心に,インド思想全般にわたる研究で知られる.1988年には,研究室に台湾出身の陳宋元が研究生として加わる.1989年4月から,九大文学部非常勤講師となっていた中川正法は,10月に筑紫女学園短期大学の講師に就任.1990年3月17日には,白寿を迎える干潟の祝賀会が催される.1990年5月には,九大と広大が中心となって発足した西日本インド学仏教学会の第一回の学術大会が志賀島にて開催される.1991年8月には『伊原照蓮博士古稀記念論文集』が上梓され,9月28日に西鉄グランドホテルにて祝賀会が催された.1991年10月には,台湾から研究生として釈見弘を迎えている.1992年には,外薗幸一が『ラリタヴィスタラ』の研究で文学博士の学位を取得.戸崎は1993年,九州大学定年退官.同年九州大学名誉教授となる.同年8月に,山口女子大学教授となる.

  1. 2013/08/04(日) 09:13:41|
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伊原・松濤・戸崎時代

1951年には,伊原照蓮(1920年3月25日~2012年1月29日)が九州大学講師として着任,1954年には助教授となる.

1958年,松濤誠廉(1903--1979年11月10日)が第二代の主任教授として大正大学より赴任.松濤は1930年東京帝国大学文学部印度哲学梵文学科卒業,同年より1935年までハンブルク大学に留学,W. Schubring教授の許でインド学,特にジャイナ教について研究した.帰国後,東京帝国大学附属図書館において同館所蔵高楠順次郎・河口慧海将来の梵文写本を調査,1944年,その目録を完成した.1965年にA catalogue of the Sanskrit manuscripts in the Tokyo University Library, comp. by Seiren Matunami(東京大学図書館所蔵梵文冩本目録)として鈴木学術財団より出版された.松濤はサンスクリット,アルダマーガディー等の語学力を駆使し,ジャイナ教,インド文学,パーリ仏教,大乗仏教特に華厳・天台等,幅広く研究を進める.「六師外道の思想精神」(世界精神史講座第3巻,1940年),「耆那教に現れたる十二因縁類型」(仏教論叢第1輯,1947年),「瑜伽行派の祖としての馬鳴」(大正大学研究紀要第39輯,1954年),「馬鳴著端正なる難陀」(大正大学研究紀要42,1957年),「Saundaranandaに現れたSabdalamkara」(中野教授古稀記念論文集所収,1960年),Buddhistic Variants of two Portions of the Isibhasiyaim(印度学仏教学研究9-2,1961年)がある.毎夏,富士裾野般若道場に於て自ら坐禅を行っていた.福岡周辺の山々に登るのを趣味とし,1960年には研究室でも雷山千如寺に遠足している.また,学生が仏教を学びながら仏教を知らないことにならない様にとの配慮から,1964年12月には,聖福寺に於いて研究室一同で坐禅を行っている.茶器,花瓶等の蒐集にも熱心で,研究室の図書の間に,唐津・高取はもちろん,中国・朝鮮等の古窯陶磁器が風趣を添えていた.1966年退官の際の最終講義の講題は「解脱の人格」である.1967年に松濤誠廉著『仏教における信と行』(松濤誠廉教授九大定年退官記念論文集)が平楽寺書店より出版されている.

伊原照蓮は,1944年東北帝国大学法文学部文科印度学科卒業,1951年九州大学講師,1954年に助教授となる.1955年の干潟の退官後,1956年8月より1958年7月までハーバード大学およびインドに出張.東北大学の恩師である金倉円照の学風を継ぎインドの論理学を専門とすると共に,言語哲学にも研究領域を拡げる.『ニヤーヤシッダーンタ・ムクターヴァリー』『ブラフマスートラ・シャンカラ注』『ラグシッダーンタ・カウムディー』『サーヒティヤダルパナ』『マハーバーシャ』『ガンダヴューハ』等を演習で読む.

この時期,院生のインド留学は盛んで,戸崎宏正がナーランダ(1955--1958),高原信一がデカン・カレッジ(1959年--1961年),篠田正成がナーランダ(1965--1968),花木泰堅がヴァイシャーリー(1966年--1968年),奥田真隆がBHU(1968年--1970年)にそれぞれ留学している.奥田の一カ月の奨学金は月に300ルピー(約15000円)であった.1967年,九大山岳部ヒマラヤ遠征の予備調査の後,インド・パキスタン留学中の篠田・花木両先輩を訪ねた西野英世(大学院博士課程)は,1968年7月20日に前穂高で落石という不慮の事故の為逝去している.

伊原は1967年教授となる.前後する時期の助手として,高原信一(?--1959),戸崎宏正(1961--1964),篠田正成(1964--1965),戸田宏文(1965--1968),高原信一(1968--1969),篠田正成(1969--1970),長尾陸司(1970--1972),針貝邦生(1972--1976),奥田真隆(1976--1980)がいる.

戸崎宏正(1930年1月20日生)は,1953年九州大学文学部哲学科(インド哲学史専攻)卒業,同大学院修士課程(インド哲学仏教史専攻)修了(1955年),同博士課程に進学後,1955年7月より1958年8月まで,ナーランダ仏教研究所に留学,仏教論理学を学ぶ.1961年より1964年まで九州大学文学部助手を務める.1965年に筑紫女学園短期大学助教授となり,1966年に『法称の研究』により文学博士(甲種)を九州大学より授与される.これは文学部新制博士第一号である.1970年より1977年まで九州大学文学部の非常勤講師としてカーリダーサ作『ヴィクラマ・ウルヴァシーヤ』,ハルシャ作『ラトナーヴァリー』等を演習で読む.なお1972年10月,印哲講座は,初の女性進学者(後藤ゆかり)を迎えている.1973年5月には,日本印度学仏教学会の学術大会開催校となっている.1973年11月,戸崎は,干潟の校訂本に基づき,善勇猛般若経の和訳を出版している(中央公論社『大乗仏典』第1巻所収).1974年6月,干潟は,永年住んだ妙楽寺から太宰府の筑紫女学園短大学長官舎に居を移す.戸崎は,1974年10月より1975年2月までハーバード大学に留学.1975年には波多江輝子・博子(1986年1月8日逝去)の両姉妹と中川正法が進学している.1976年7月3日,干潟も参加し,干潟揮毫の万葉の歌碑(志賀島小学校庭の八号石)を研究室総勢14名で訪ねている.
  1. 2013/08/04(日) 09:08:57|
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九大印哲の干潟・小野島時代

九州帝国大学法文学部創立の1925年,干潟龍祥が助教授として来任.翌年の1926年5月12日,法文学部文科に印度哲学史講座(1954年「インド哲学史」と改名)が増設された.初代の教授は干潟龍祥(1892年2月7日--1991年10月13日),助教授は小野島行忍.

干潟は1917年東京帝国大学文科大学哲学科を卒業.大学院時代に原始仏典の研究に関する一部を1922年「Suttanipataの研究」(仏教学雑誌3-2)として発表.1923年に東京帝国大学講師を委嘱された.1925年に九州帝国大学法文学部助教授として来任.南條目録で玄奘訳大般若経第六会に当たるとされていた当時未出版の梵文善勇猛般若経に関し,1925年「般若経の諸問題」(宗教研究2-4)において,第十六会に相当することを公表した.1926年,印度哲学史講座の教授に就任後,1927年,英仏独印に留学,広く資料の蒐集に努めると共に,Leumann教授の許で仏教梵語の研究を深め,1929年に帰朝した.外遊中は中野義照が講師に当たった(1927年3月--1929年3月).帰国当時は「インドより赴任した日本語の上手な外人教師」と思う学生もあったと云う.干潟は原始仏教より進んで大乗仏教の菩薩思想の起源を求めて本生経(Jataka)類の研究に着手する.文献のみならず彫刻絵画等考古学的美術史的資料をも研究材料として活用,研究は『本生経類の思想史的研究・付本生経類照合全表』(東洋文庫,1954年刊行)に結実する.本論文により1950年文学博士の学位が授与された.1954年,本書により干潟は西日本文化賞を得た.干潟は30年の長きに亘って在任し,その間,附属図書館長,初代の文学部長(1949年7月--1953年7月の2期),教育学部長(1950年2月--1953年4月),教養部長を歴任して教育行政の面においてもその手腕を発揮し,また日本学術会議会員(2期)としてその責務を果たした.1955年3月末,停年退官,同年名誉教授となる.干潟は九州の文化にも関心を寄せ,「彦山の修験と豊後の石仏」(福岡日日新聞,1935年6月8日~21日),「豊後高田市熊野権現石仏上の梵字マンダラについて」(印度学仏教学研究6-1, 1958年)を発表,国東半島および臼杵深田の石仏をはじめ大分県一帯にわたる石仏の実地調査に何回となく赴いている.


梵文善勇猛般若経(ケンブジッリ大学所蔵写本)に関しては,留学の際に撮った写本の写真に基づき,漢訳・西蔵訳と校合,詳細な序文を付した研究は,退官記念委員会により1958年,Suvikrantavikrami-pariprccha Prajnaparamita-sutra, with An Introductory Essay(Committee of Commemoration Program for Dr. Hikata's Retirement from Professorship, Fukuoka)として出版されている.1960年福岡女子大学学長となった.名誉教授となった後も,福岡市御町妙楽寺(卒業生の渡辺省吾が住職)境内に住み,4年間,講師として直接に学生の指導に当たる.1962年2月7日に古稀を迎え,3月7日には永豊泰で祝賀会が催された.1963年4月に研究室は3階に移り,1964年には新館に移っている.1964年6月『干潟博士古稀記念論文集』が古稀記念会により出版される.1964年当時,卒業生の中で一番の長老は梅田信隆(東林寺住職、後に曹洞宗大本山総持寺21生貫首)であり,大野義山(筑紫女学園)を始め,卒業生の数は既に40名近くに達しており,毎年,新入生歓迎と卒業生送別の会を催していた.干潟は1965年に紫綬褒章受章.助手だった戸田宏文(1968年より徳島大学教養部に転任)他の協力も得ながら,1967年に『大正新修大蔵経索引本縁部』を出版している.1969年からは日本学士院会員となっている.

小野島行忍は,1922年東京帝国大学文学部梵文学科を卒業,1926年九州帝国大学助教授に任ぜられ,1945年病没するまで在任した.専攻分野は梵文学であり,「リツ・サンハーラ」(文学研究10, 11, 13),「梵詩メーガ・ヅータ散文訳」(文学研究28, 29, 31)の訳業を残している.小野島助教授没後,渡邊照宏が助教授に任ぜられ,1948年より1953年まで在任したが,その間病気のためついに赴任することがなかった.干潟教授退官後,京都大学教授長尾雅人が一時,併任教授であった(1956年6月--1958年3月).
  1. 2013/08/04(日) 09:04:23|
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不殺生研究所

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九大文学部同窓会報11(1968年)23-24頁には,花木泰堅氏が「忍辱怠惰」と題して寄稿されています.

その中に次の記述があります.

一九六六年十月来所した当時は驚くと同時に失敗すること度々であった。その最たるものは研究所の名称に不殺生なる語のあることであった。この語はジャイナ教の専売特許であることを熟知していたが故に、これを日本的に単なる形容詞と考えたことに起因する。研究所近くに週二回市場が立つ。そこでは野菜や山羊の肉が入手出来る。(市場まで山羊を引いて来て人の面前で頸をしめ、心臓をえぐって肉にして売る。勿論骨のある肉である。)蛋白質の補給を感じていた小生はナーランダの篠田正成氏と語り合って、こっそりと山羊のスキ焼きに日本の味を楽しんだのである。翌朝早速教授より「ここは不殺生研究所だから食べないように」と注意を受けた。大学或いは研究所は学問の場という考えは、インドでは通用しないことを体験したのである。
(24頁上段)



篠田正成氏は,1964--1965年と1969--1970年の二回,印哲の助手を務めています.

その間,1965--1968年,ナーランダのパーリ研究所に留学しています.

一方,花木泰堅氏は,ヴァイシャーリーの「プラークリット・ジャイナ教・不殺生」研究所に1966年--1968年の間,留学しています.

インド慣れした篠田先輩と,インド留学で間もない花木後輩がスキ焼を嬉々としてつつく様子が目に浮かぶようです.

  1. 2013/08/02(金) 23:57:32|
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松濤先生

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同窓会報8(1965年)には,次の記事が載っています.(内容は1964年について.)

十二月一日より八日(釈尊成道の日)まで、市内聖福寺に於て研究室一同座禅をする予定である。これは「仏教を学びながら、仏教を知らない」ことにならない様にと云う松濤先生の御発言によるものである。(75頁)



さて,そんな松濤先生ですが,「九大生活をかえりみて」という項に,「筑紫野をあとに」という記事を寄稿されています.(同窓会報9,1966年,35-36頁)

着任以来、福岡周辺の山々を一つ一つ登って見た。油山のような小さな山は独りで、高いのは学生諸君に引っぱって貰って。それで今ではこの山々に心のこりはない。
 志賀島も独りで幾度か一周した。朝鮮にコレラがはやった時、東京の知人に生物を馳走して、あとで神経質にも気をやんだこともあった。然し志賀の島は秋が一番好きだった。

志賀に咲く菊とすゝきとつわぶきと

下手ながらこんな句がでたこともある。



健康な方だったようです.

とはいえ,「病気」もあったとのこと.


福岡では、風邪位で幸い病気をしたことはなかったが、病気と名づけてよいものに,骨董があった。



さらに,記事の末尾(36頁下段)には次の歌が.


最後に腰折一つ

海碧く山親しかりけり筑紫野は春雨けぶれ目伏せゆかまし



なかなかの趣味人だったようです.
  1. 2013/08/02(金) 23:55:24|
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1964年当時の研究室の様子

九大文学部同窓会報8(1965年)には,助手の篠田先生による次の記事が載っています.(内容は1964年について)

印度哲学史専攻の卒業生は既に四十名近くに達している。この中、一番の長老は梅田信隆現市内東林寺住職である。研究室では毎年新入生歓迎と卒業生送別の会があり、渡辺省吾妙楽寺住職、筑紫女学園の大野義山、安松憲成、庄崎慶昭氏及び城戸寛電子工業大学講師等福岡在住の諸先輩も常に出席される。この会では、梅田先輩の「雨はショボショボ」と云う隠し芸も披露され、一同腹はねじれ、涙を流す賑わいをするを常としている。



この中,妙楽寺は,干潟名誉教授が退官後に住んでいた所です.

1974年6月,干潟先生は,永年住んだ妙楽寺から太宰府の筑紫女学園短大学長官舎に居を移しています.

しかし,「雨はショボショボ」の内容が気になります.

ちなみに,印哲講座が初の女性進学者を迎えたのは,1972年10月のことでした.

それまでは「女人禁制」だったようです.
  1. 2013/08/02(金) 22:39:36|
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松濤先生

1958年,松濤誠廉(1903--1979年11月10日)が第二代の主任教授として大正大学より赴任します.

松濤先生は、1930年東京帝国大学文学部印度哲学梵文学科卒業,同年より1935年までハンブルク大学に留学,W. Schubring教授の許でインド学,特にジャイナ教について研究しています.

帰国後,東京帝国大学附属図書館において同館所蔵高楠順次郎・河口慧海将来の梵文写本を調査,1944年,その目録を完成します.

1965年にA catalogue of the Sanskrit manuscripts in the Tokyo University Library, comp. by Seiren Matunami(東京大学図書館所蔵梵文冩本目録)として鈴木学術財団より出版されています.

九大文学部同窓会報8(1965年)には,次の記事(助手の篠田先生による)が載っています.(内容は1964年について.)

又毎夏、富士裾野般若道場に於て自ら坐禅をされる。既に仏教の奥義を究めておられる御様子である。先生は又雅趣深く、茶器,花瓶等の蒐集でも有名である。先生の研究室には、図書の間に、唐津、高取は勿論,中国、朝鮮等の古窯陶磁器が風趣を添えている.今年の新館への移転の時には、特別のリヤカーで静かに運んだ。



「今年」とあるのは,1964年のことです.

この年に,旧法文学部棟から現在の新館へ移転が行われたようです.

1966年、退官の際の最終講義の講題は「解脱の人格」です。

1967年に松濤誠廉著『仏教における信と行』(松濤誠廉教授九大定年退官記念論文集)が平楽寺書店より出版されています.
  1. 2013/08/02(金) 22:29:55|
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ヂャイナ僧を訪ねる

九大文学部同窓会報7(1964年),42-43頁に,伊原先生が寄稿されています.

タイトルは「ヂャイナ僧を訪ねる」.

非常に興味深い文章なので,長くなりますが,全文を引用してみましょう.


ヂャイナ僧を訪ねる

                   伊原照蓮

 五年ほど前の八月のある朝私は西北インドのサウラーシュトラ半島のバヴナガルの駅に降りた。ここは支線の終着駅でさいはての町,降りる人もまばらである。かねての約束どおりヂャイナ僧ヂャムブヴィヂャヤ師からの使いが出迎えてくれていた。ドーティ姿の裸足の男である。私は朝食を摂っていなかったので、その男と共に駅の待合室に入った。朝食はボムベイより持参のゆで卵と果物である。私がゆで卵を包みよりとり出して割ろうとすると、いままで側でお喋りしていたその男が、急にお喋りをやめてふいと,外に出ていってしまった。なにか急に要事でも思い出したのであろうとその時は気にもしなかったが、食事をおえて室を出ると、室の外をその男がぶらぶら歩いている。私の顔を見ると、お前は卵を喰べるのか,と詰問口調である。私はハッとした。ヂャムブヴィヂャヤ師からの使いとしてきたぐらいだから,この男もヂャイナ教徒にちがいない。ヂャイナ教徒は不殺生をもっとも尊ぶ。食事はすべて菜食である。もっとも印度では菜食はヂャイナ教徒にかぎらない。インド教徒はvegetarianとnon-vegetarianとにはっきり区別されている。後者では羊肉や卵を使った料理を出す。私もあの暑いところで、野菜ばかりでは身体が保たないから、non-vegetarian食堂へ行ってよく卵を喰べた。私のそれまで附合ったインド人も、卵ぐらいはみな平気で喰べた。それに慣れていたのでヂャムブヴィヂャヤ師の使いの前でついうっかり卵を喰べてしまったのである。使いの男が、卵を食べたことを詰問したのは、なにも主義主張からではない。もっと生理的なものだ。いかにも、お! 気味がわるい、と感じていることがその態度から知れる。これでは、この男からヂ師への報告はあまりよくないな、と覚悟する。
 目指す村は、ここからバスで二時間、沙漠地帯のはずれにある。岩塩で生計をたてているところらしい。丁度雨期で、ヂャムブヴィヂャヤ師がその村に滞在しているのだ。使いの男はそれでも気持ちよく私の荷物を持ったり、いろいろと世話をしてくれる。少しお喋りだが、気は良い男のようだ。お前の宿は、村で一番の医者の家にきめてあるという。やがてバスはその村に着く。
 私は荷物を置くと村一番のインテリでもあるその医者につれられて早速ヂャムブヴィヂャヤ師に逢いに行った。師は年の頃四十才ぐらい、細面やせ形の、いかにも聡明といった感じの人である。白衣を着、勿論裸足、左手にはガーゼのようなものを持って話すときには口をおおい、左手には小型の草箒ようのものを持っている。前者は息を吸うときに空中の微生物が鼻や口に入るのを防ぐためのもの、後者は歩くときに掃いて地面の微生物を踏みつぶさないようにするためのもの、共に不殺生のためのものだ。あとから小柄の老僧が現われる。この老僧は師の父でありまた学問上の先生でもあるとのこと。このときこのかなり広い白亜の僧院に留まっていたのはこの両人だけ、他には誰もいない。食事は毎朝乞食(コツジキ)に出かけて村人の布施をうけてすますし、洗濯などは村の信者達が世話してくれるのであろう。生活は簡素そのものだ。もっとも僧院の二階には書庫があり、ヂャイナ教の大蔵経がぎっしり左右両壁に沿った棚に積み上げられている。また教祖マハーヴィーラを祀った礼拝堂は別棟である。夕方のそこでの勤行に出てみたが、結跏趺坐・五体投地など仏教の場合とまったく同じだ。堂内は薄暗く、尊像は毒々しい彩色で少しグロテスクな感じを与える。
 ヂャムブヴィヂャヤ師を私が訪ねたのはヂャイナ教そのものに関心があったからではない。後期ヂャイナ教と後期仏教との間には交渉があった。ヂャイナ教で仏教の論書に註釈を書いた人もいる。仏教教団はインド国内では滅亡してしまったが、ヂャイナ教団は今日まで連綿とつづいている。だからヂャイナの僧院には仏教の写本が保存されている可能性があるし、事実最近その二、三のものが発見された。その間の事情、今後の見通しなどを知りたいというのが私の目的だ。私のこの希望は、ここでは充分満たされなかった。ヂ師自身必ずしもその間の事情をよく知っているわけではなかったから。ヂ師は私に他のヂャイナ僧への紹介状を書いてくれた。
 翌日ヂ師は村の人々を僧院に集めて説教をした。その中で私への歓迎の言葉ものべてくれた。仏教とヂャイナ教は兄弟のようなものだともいった。私のために、代々の祖師を讃歎する歌もうたってくれた。少しかすれた豊かなバスが単調なメロディを繰り返えす。それが広くもない会堂に響きわたる。白一色の聴衆は半ばその歌に耳を傾け、半ば日本人の顔を物珍しげに眺めている。いまでもその光景が目に浮ぶ。
 その日の午後私はヂ師に難題をもちかけられた。折角ヂャイナの僧院を訪ねたのだからこの機会にヂ師の父を戒師として不殺生の誓いをたてろという。私はヂャイナ教の論理学に興味を感ずるとはいった。機会があればそれを勉強したいと思うともいった。しかしヂャイナそのものに別に感服したといったわけでもなし、私が歴とした仏教徒であることはヂ師に予め告げてある。にもかかわらずヂ師はインド人特有のあのねばっこい調子で迫ってくる。おさしみ・うなぎ等々日本での食べものが私の頭にひらめく。インドにいるかぎりは菜食主義も不可能ではなかろうが、日本に帰ってからの菜食主義の実行は私にはできない相談だ。今ここで誓いをたてるのは簡単だが、日本に帰った後は実行不可能だ。誓いを破るよりは誓いをたてない方がましだから、好意は謝するが、と断る。ヂ師はやや不服そうにみえた。私はそこに活きたヂャイナ教を見た思いがした。
 夕刻庭でヂ父子の写真を撮り僧院を辞した。そしてその翌日その村を発った。

ヂ師よりの便りによれば昨年同師の父のあの老僧はなくなった.父の写真が一枚もないゆえ、私の撮った写真を送ってくれという。私は航空便でそれを送った。謹んで老僧の冥福を祈る。
(助教授・印度哲学)



「五年ほど前」といっているのは,1958年のことでしょう.

伊原照蓮(1920年3月25日~2012年1月29日)先生は、1944年東北帝国大学法文学部文科印度学科卒業,1951年九州大学講師,1954年に助教授となっています.

そして、1955年の干潟教授の退官後,「1956年8月より1958年7月までハーバード大学およびインドに出張」(伊原照蓮博士古稀記念論文集)とありますから,実際には,1958年8月までインドにいたのでしょう.

件のジャンブーヴィジャヤ師には、私も、2001年の夏に会うことができました。

http://kaula.blog110.fc2.com/blog-entry-845.html

同行のK先生は、仏教僧でありながら非菜食であることについて、師より説教されていたそうです。
  1. 2013/08/02(金) 21:32:06|
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1962年の課外演習

九大文学部同窓会報6(1963年)の研究室だよりの印哲の項には,次の記事があります.

内容は1962年の10月になります.


昨年に引き続き臨講(摩訶止観)においで頂いた立正大学阪本幸男先生の慰労会と伊原助教授の学位取得祝賀会として、十月二十六・二十七日の二日に亘り、篠田氏の幼稚園用の車で、若戸大橋、下関長府(一泊、ふぐ料理)、秋芳洞と心行くまで愉しんだ。(99頁下段)



なかなか楽しそうな研究室風景です.
  1. 2013/08/02(金) 21:21:52|
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1961年の授業内容

1962年の九大文学部同窓会報5号の研究室だよりから印哲の項を見ると,次の授業内容がうかがえます.

1961年度の授業内容になります.(執筆者は当時助手だった戸崎宏正先生です.)

松濤教授
 パーリ語
 ジャイナ原典演習
 ヴェーダ演習
 仏教原理講義(天台中心)

伊原助教授
 梵語初歩
 梵文叙事詩演習
 プラマーナワ〝ールティカ演習
 プラシャスタパーダ演習

臨時講義
阪本幸男(立正大学教授)
 華厳五教章講義
  1. 2013/08/02(金) 20:55:19|
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1960年の課外演習

九大文学部同窓会報4(1961年)の「研究室だよりあれこれ」,印度哲学の記事の中から.

十一月上旬には臨時講義として東洋文化研究所所長結城令聞教授が来られ成唯識論が講ぜられた。この間課外演習として、先生と共に研究室一同、国宝千手観音と紅葉で有名な雷山千如寺に遠足し、秋の野山の中で一日を楽しく過ごした。(47頁下段)



要するに,非常勤(臨講)の集中講義で来られた先生と一緒に紅葉を見に行った,ということのようです.

1958年から66年まで主任教授として九州大学に赴任した松濤先生は,山登りを好まれた様子です.

上に続けて,助手の篠田先生は次のような文を続けています.

これより数日前、松濤教授自ら目的地の下調べに行かれ、更に足を延ばされて雷山頂上より井原山迄縦走された。途中多少道を間違え時間をとった様であるが無事に帰られた。これに自信を得られてか先生は後日更に宝満山より三群山への縦走をも完遂され、現在背振山系縦走を計画中である。



松濤先生は1930から35年まで,5年もハンブルクのSchubringの許に留学しています.

この山登りの記事といい,相当に体力のある学者を想像させます.
  1. 2013/08/02(金) 20:40:32|
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ナーランダの思い出

九大文学部同窓会報4(1961年)の28-29頁に,海外留学・旅のスケッチとして,戸崎宏正(当時は博士課程)の「ナーランダの思い出」という記事が載っています.

29頁下段には,留学時の学習の苦労が次のように記されています.

英会話には苦労した。印度では大学以上は英語で講義がされる。博士課程には講義はなく、指導教官の個人指導による。私はカルカッタ大学サンスクリット学部長から退官後ナーランダの研究所長に迎えられたS・ムケルジー教授についたが、歯の抜けた御老体で、仲々聞きとり難かった。或るサンスクリットの本を読んだのであるが、当初はほとんど教授の話がわからず、私のちぐはぐな返事に当惑されたことだと思う。唯、教授の話が一通り終った後で、前日用意していた質問を出して答えて頂くようにした。苦策の計である。そうすれば教授の返事は大体想像出来る幾つかの中のいずれかであるので、何んとか理解出来たのである。



以上は聞き取りの話です.さもありなんという気がします.

さらに,インドによくある話として,授業そのものがなかなか成立しないという苦労も記されています.

毎日一時間指導をうけることにしていたが、教授は病身の上に、公務、来客が多く、しばしば妨害された。所長室で長談義をする来客の帰るのを数時間も待つことは少くなかった。(同29頁下段)



所長となると,あれこれと邪魔がはいるものです.

わたしもティルパティでは学長に習っていたので,同様の問題がありました.

朝も遅くなると難しいので,邪魔の入らない朝いちの8時頃から毎日見てもらった記憶があります.

そういえば,カルドナ教授は,毎朝,日の出前に授業が終了するように,指導をしてもらっていたそうです.

伝統的なバラモンの先生ともなると,日の出の時間の朝のお勤めがあれこれと忙しいようです.

さて,戸崎先生ですが,帰国前には,かなりの指導を受けた様子です.

一年位たった頃から或るチベットのものを一緒に読み、英訳を始めた。その間の教授の親切な指導は忘れることが出来ない。その仕事の完成を教授も強く望まれ、私もその為、半年帰国をのばしたが、それでも完成はおぼつかなかった。帰国のいよいよ迫った二ヶ月は、夜も教授は私を自宅によんで私の英訳を見て下さった。又時には病気で研究所を休まれた日も、使いを下さって自宅によばれたこともあった。お陰で、ほとんどあきらめていたのだが、帰国数日前に完成した。他の地に留学した友達の中には「偉くなった学者は教えてくれない」とこぼす者もいたが、私はムケルジー教授に感謝せねばならない。(同29頁下段)



慣れてきて相手との距離も縮まると,指導も一気に加速するというのがインド留学のよいところでしょう.

インドの場合,個人指導が毎日ですから,進み具合が日本とは違います.

なお「他の地に留学した友達」とは,梶山・服部先生のいずれかを指していると思われます.
  1. 2013/08/02(金) 19:11:27|
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松濤主任教授時代の院生のインド留学

松濤が主任教授の時代,すなわち,1958ー66年前後,九大印哲では,院生のインド留学が盛んだったようです.

戸崎宏正がナーランダ(1955--1958)
高原信一がデカン・カレッジ(1959年--1961年)
篠田正成がナーランダ(1965--1968)
花木泰堅がヴァイシャーリー(1966年--1968年)
奥田真隆がBHU(1968年--1970年)

にそれぞれ留学しています.
  1. 2013/08/02(金) 08:15:16|
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九大印哲歴代助手表

大野義山(?--1956)
高原信一(1956--1959)
戸崎宏正(1961--1964)
篠田正成(1964--1965)
戸田宏文(1965--1968)
高原信一(1968--1969)
篠田正成(1969--1970)
長尾陸司(1970--1972)
針貝邦生(1972--1976)
奥田真隆(1976--1980)
阿 理生(1980--1984)
清水新一(1984--1987)
大前 太(1987--1991)
山口英一(1991--1995)
宮本 均(1995--1998)

宮本 均(2002--2004)文学部助手
原田泰教(2007--2008)文学部助教
  1. 2013/08/02(金) 08:10:45|
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九大印哲歴代教員表



九大印哲歴代教員表
  1. 2013/08/02(金) 08:00:44|
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