Pratibhanusarini --- 九州インド哲学ブログ2

On Indian Philosophy and Buddhist Studies

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  1. 2013/11/17(日) 07:42:06|
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清弁の聖典観

天界等という超経験的対象すなわち見られたことがないもの(adṛṣṭa)については,ヴェーダだけが一次情報源として独占的に説くことができ,人間の思弁である推論はそれを知らせることができないというのがミーマーンサーの主張です.したがって,聖典という言葉が推論に還元されることはありません.対象が別である以上,認識手段も別となるのです.

バーヴィヴェーカは,ディグナーガに則って,聖典を推論に還元可能と考えます.江島先生は,チベット訳に基づいて次のように訳しています.

江島 1969:890:
《証相(liṅga)との結合関係を直接経験しない者は,直接経験したこと(dṛṣṭārtha)にもとづいて推論した上で,〔そこで〕把握されるべきものを把握する。従って〔それを聖典だけにもとづいて〕直接的に〔把握するのでは〕ない》(MHK. IX. 60)(川崎ではIX 53)


そして,訳の後に次のように説明を加えています.

「聖典には超感覚的なものが記述されていて,我々にはそれが何を示す証相であるか理解できないことがある。しかるにBhāvavivekaは,それとてただ聖典のみによるのではなくして推論によつて把握されるべきであり,聖典は推論の素材となるものであり,その意味で聖典は推論の中に含まれると考える。」


江島先生の説明によれば,次のようにバーヴィヴェーカの主張を理解できることになります.煙から火を推論するように,聖典内の記述YからXを推論する.このように,聖典の中の超感覚的なものの記述Yというのは,何らかのものXを指し示す証因となるものであると.その意味で,聖典は推論手段,すなわち,証因であると.

火←(推論)←煙
X←(推論)←聖典内の超感覚的なものの記述Y


面白いことに,このような聖典の捉え方は,ミーマーンサー学派に少し似た発想があります.主従関係を知る判断基準として,śruti, liṅgaなど六つのpramāṇaが数えられますが,その第二番目のliṅgaが,江島先生的な捉え方と少し似ています.すなわち,ある言葉を手掛かりにマントラの適用先を探ろうとする際のliṅga(手掛かりとなる言葉)です.具体的には,nirvapāmiという語を含むマントラから,「ああ,このマントラはnirvāpaの際に用いられるマントラだな」というようにです.江島先生が,六つのpramāṇaの第二番目を知っていたかどうかは定かではありませんが,いわば,「手掛かり」のliṅgaと同じものとして聖典全体を捉えるという立場が,江島先生流のバーヴィヴェーカの聖典の位置付け方です.

また,他にもミーマーンサー内にパラレルな発想を見つけることができます.スムリティ文献の記述も,元となるヴェーダ聖典を推論させるものとして証因と同じ働きをします.その意味でスムリティは推論手段,すなわち,証因にあたると言えます.

ヴェーダの記述←(推論)←スムリティの記述


しかし,江島先生のこの解釈は本当に正しいのでしょうか.江島先生は,この時点では,サンスクリット原文にアクセスできませんでした.では,サンスクリット原文を見てみましょう.川崎1992に原文があります.

adṛṣṭaliṃgasaṃbandhe parārthād anumānataḥ/
pratipattir yato boddhye tasmād arthāntaraṃ na saḥ//


和訳は以下の通り.

川崎 1992:384
理由概念との結合関係が見ることのできないものに関して,確知がなされるようにと,他のものから推論することによって認識が行われる。この故に,これ[āgama]は[anumānaとは]別のものではないのである。


また,川崎 1992は,次の注記を付しています.

「svarga等の,証因との結合関係の経験されないものの存在について,釈尊の「諸行無常」という言葉の真理性にもとづき,釈尊の他の言葉の真理性も推論される。」


念のため,リントナーの英訳も見ておきます.

Lindtner2001:24:
Since one can understand an understandable object with no visible connection to a mark by inferring it from something else [that is visible], therefore it [āgama] is not absolutely different from [anumāna]!


江島先生の理解とは相当に違います.

bodhyeを川崎は,あたかもbodhiのdativeであるbodhayeと同一であるかのように理解していますが,リントナーのように,bodhya(知られるべきもの,あるいは,知らしめられるべきもの)のロカティブと見なすべきでしょう.parārthād anumānataḥは,川崎もリントナーも「別のものから推論することに基づいて」と理解していますが,ディグナーガの影響を考えると,「他者の為の推論に基づいて」とするのがいいでしょう.(MHK 9:54のanumānaṃ yathā svataḥがその証左となります.)筆者の和訳は以下の通り.

53. 他者の為の推論に基づいて,証因との関係が未見である所知対象についての理解があるので,それ(証言)は[推論とは]別のものではない.



要するに,天界等の未経験対象についてであっても,他者の為の推論に基づいて,正しい理解が可能であるということを言っていることになります.

川崎の注記はTJに基づくものでしょう.それを考慮すると,結局,ディグナーガの言っていることと同じ意味で,聖典は推論に還元されることになります.いまは,TJやディグナーガの詳しい考察は省きます.

サンスクリット原文からは遠く離れた江島先生の理解(誤解)も,TJの記述に一部影響されたものでしょう.

TJを考慮すると次のようになります.

「既見対象に関して正しいから未見対象についても聖典は正しいはずだ」という推論に裏付けられることで,未見対象を説く聖典記述はその権威を裏付けられる.したがって,未見対象を扱う聖典記述は推論と別物ではない,と.

思弁による吟味を経て,推論に裏付けられることで,聖典は権威を持つというのが,バーヴィヴェーカの基本的考えです.その考えは,この詩節でも一貫していると言ってよいでしょう.
  1. 2013/11/15(金) 19:03:24|
  2. 未分類

MHK 9:14

MHK IX 13(川崎ではIX 14)の和訳について,江島1969:893は,脚注4を付して次のように述べています.

これはPrajñāpradīpa Tsha 153b1にも出る。しかもVākyapadīya I. 42 …(中略)…と極似する。中村教授(前掲論文)はこれをVākyapadīyaからの直接的な引用と考えられているが,MHK. の本文となっていることからその推測には多少の疑問が生じる。いずれにしてもSanskrit Manuscriptを見る機会があれば氷解する問題である。(旧字は新字に改めた.)


江島先生はこの段階では,サンスクリット原文を知りません.川崎 1990:411によればMHK原文は以下.

MHK 9:14:
pādasparśād ivāndhānāṃ viṣame pathi dhāvatām/
anumānapradhānānāṃ pātaḥ teṣāṃ na durlabhaḥ//

ヴァーキヤパディーヤの原文は以下.

VP 1:42:
hastasparśād ivāndhena viṣame pathi dhāvatā/
anumānapradhānena vinipāto na durlabhaḥ//

若干の細かい表現の異同はありますが,中村先生のように「直接的な引用」と言ってよいでしょう.「直接的な引用」という表現に引っ掛かるのであれば,「ヴァーキヤパディーヤを受けたものである」とは言えるでしょう.

江島先生は,「MHK. の本文である」から「直接的な引用ではない」という原則を念頭に置いているようです.

しかし,インドの多くの文献の場合,そのようなことは必ずしもいえないでしょう.

良い句があれば,断りもなくコピペするのがインド流です.

また,バルトリハリくらいの大物からの引用であれば,いちいち断らずとも,その場で聞く人は皆「ああ,あれね」と分かったことでしょう.
  1. 2013/11/15(金) 18:56:26|
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Bhāvavivekaの聖典観

江島恵教
Bhāvavivekaの聖典観
印仏研 17-2(1969), 894--889

893頁:
Mīmāṃsā学派はVedaを絶対的権威とするのであり,推論を一応知識根拠として認めはするが,推論は聖典の裏づけなくしてそれだけで独立の権威ではありえないとする。少くともBhāvavivekaが問題とするMīmāṃsā学派はそういう考えをもっていた。(旧字は新字に改めた.)


「推論は聖典の裏づけなくしてそれだけで独立の権威ではありえない」というのは,「宗教的事象であるダルマに関しては」という限定をつけるべきでしょう.知覚領域・経験的事象に関しても,推論は,独立した権威ではありえません.知覚を前提とするものだからです.煙から火を推論する場合,竈での体験や,山の上に立ち昇る煙の目撃体験という二つの知覚は少なくとも必要です.その意味で推論は「独立の権威」ではありえません.また,ダルマに関して,独立した権威であるのはヴェーダのみであり,スムリティなどは元となるヴェーダを推論させるものとして,原則的には,二次的な位置付けしか与えられません.

聖典観について論じる際には,扱う対象が何なのかということを意識しないといけません.「一応知識根拠として認めはするが,推論は聖典の裏づけなくしてそれだけで独立の権威ではありえない」という部分に,通常のミーマーンサー学説との違和感を覚えたのでしょう,「少くとも」と江島先生は補足しています.

しかし,知覚とヴェーダが一次的な情報源であり,推論が一次的情報源に基づくものである(特に知覚に基づくものであるpratyakṣapūrvaka)という基本的性格に関して,バーヴィヴェーカ以前と以後のミーマーンサー学説で大きな違いがあるわけではありません.

ミーマーンサー学説によれば,ダルマに関して人間の思弁は,一次的情報源たりえません.扱う対象に応じて認識手段には住み分けがあります.ダルマを知るにはヴェーダだけが直接の認識手段となります.「Vedaを絶対的権威とする」というのも,あくまでも,ダルマに関してです.日常の経験領域に関しては,知覚が一次情報源となることは,ミーマーンサー学者ももちろん認めています.
  1. 2013/11/15(金) 18:20:21|
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saññā-nidānā hi papañca-saṃkhā

saññā-nidānā hi papañca-saṃkhā

中谷2011:865: 「可熟物」と呼ばれるものこそ,認識の基である.

中谷2012:897: 「可熟物」と呼ばれるものは,実にsaññā(のあり方)に応じて存在する.


中谷2011:862に「(3)prapañcaの意味」と題し,saññā-nidānāをbahuvrīhiではなくtatpuruṣaと解すべきことが論じられていますが,中谷2012:894の注9に解釈を改めたことが注記されています.
  1. 2013/11/15(金) 08:12:58|
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artha-adhigati

経量部の知覚理論にしたがえば,青1の認識といっても,実際には,認識の中に生じた形象である<青1に似たもの>を新得経験しているだけです.この<青1に似たものの新得経験>は,青1そのものの認識と思い込まれることで,すなわち,青1そのものの認識として位置づけられることで,人を青(の連続体)に向けて発動させるものとなります.このように発動させるものとなることで,有効な認識となり,約束通りのものを得させるものとして(前後の食い違いがないものとして),認識手段としての資格を満たすことになります.

artha-adhigati
   || vyavasthāpya------------adhyavasāya/niścaya/vikalpa (vyavasthāpaka)
artha(sadṛśa)-anubhava
   ||
artha(sadṛśa)-pradarśana
   ||
artha(saṃtāna)-pravartana(yogya)
   ||
artha(saṃtāna)-prāpaṇa(yogya)
  1. 2013/11/08(金) 08:14:27|
  2. 未分類

correction

Kuwon Vol. 4 (2013)

p. 3, n. 8
dātubhiḥ > dhātubhiḥ

p. 5, n. 14
paccupannaṃ vā > paccuppannaṃ

p. 8
興味の範疇外 > 興味の範囲外(?)

p. 14, n. 33
nirkti > nirukti




p. 29
過大適応 > 過大適用(?)

□pariccheda > *pariccheda (Or is this a PDF problem?)

p. 35, n. 28
niṣpatiḥ > niṣpattiḥ
  1. 2013/11/07(木) 08:06:12|
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received: 久遠 研究論文集 1--4




久遠 研究論文集 第一輯

早稲田大学仏教青年会

2010/3

三世実有論証に付随してなぜ二心和合の問題が扱われるのか
飛田康裕 1--26

安慧の唯識説についての一考察
伊藤康裕 27--38

仏教論理学派による外界実在論者の認識根拠批判
三代舞 39--56




第2輯

2011/3

Philosophical argumentation in the Tibetan Buddhist tradition
Pascale Hugon 1--15

瑜伽行派アビダルマ論書の五見の定義
瀧川郁久 16--31

部分を有しない極微に場所的前後関係は存在し得るか
真鍋智裕 32--44




久遠 研究論文集 第3輯
2012/3

『識身足論』における論理的包摂関係をめぐる対論
飛田康裕 1--25

Alambanapariksaにおけるalambanaの定義について
伊藤康裕 26--40

Dharmottaraによる意知覚解釈の特徴
林慶仁 41--51

「プラマーナ」(pramana)という語のもつ二つの意味とその関係
三代舞 52--68

ダルマキールティのnigrahasthana解釈(1)
佐々木亮 69--90

カマラシーラ以降の修行論における菩提心の定義に関する一考察
佐藤晃 91--109

シュリーハルシャによる識のsvaprakasa論証
真鍋智裕 110--124




久遠 研究論文集 第4輯
2013/3

説法と聞法における名称の働き
飛田康裕 1--25

ダルモーッタラにおける対象認識
三代舞 26--40

Advaitavedanta学派のsvaprakasa論証におけるabhavapramaとはどういうものか
眞鍋智裕 41--54

ダルマキールティのnigrahasthana解釈(2)
佐々木亮 55--75

Lecture: On rNgog Blo ldan shes rab's translation of the Pramanaviniscaya
Pascale Hugon 76--80


  1. 2013/11/06(水) 21:54:11|
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RNA: anubhūteṣu hetvābhāseṣu?

RNA 32.21:
hetoḥ parokṣārthapratipādakatvam *anivṛtteṣu hetvābhāseṣu na śakyam āvedayitum|

*anivṛtteṣu] emend ;
anivṛteṣu ms.;
anubhūteṣu ed.

Cf. RNA 67.9--10:
hetoḥ parokṣārthapratipādakatvaṃ hetvābhāsatvaśaṅkānirākaraṇam antareṇa na śakyate pratipādayitum|
  1. 2013/11/04(月) 14:33:31|
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