Pratibhanusarini --- 九州インド哲学ブログ2

On Indian Philosophy and Buddhist Studies

インド思想史学会(東京大学山上会館)

インド思想史学会 035

20回目を迎えたインド思想史学会.

毎年,12月の終わりに京大で開催するのが定例です.

が,今年は,はじめて東京にて開催.

発表者は5名.

石田,伊澤,張本,和田,丸井の各氏.


インド思想史学会 022



石田さんは,ダルモッタラのアポーハ論について.

いま現在,ダルモッタラのアポーハ論などを読んでいるのは,私と石田さんくらいでしょう.

というわけで,質疑タイムになると議論は白熱.

ともあれ,およそ納得できないことばかりでした.

司会の藤井先生に「では,他の方も質問したいでしょうから」と制されて私の質問は終了.

えらく長くやりとりしてしまいましたが,かなり,実質的な議論ができました.

インド思想史学会は,質疑の時間をたっぷり取ってあるので非常に有意義です.


インド思想史学会 005


焦点は,分別知の対象として所取形象(grahya-akara)をダルモッタラが認めているのか否かという問題です.

ダルモッタラは,分別知の対象として所取形象を全く認めないというのが私のダルモッタラ理解です.

それに対して石田さんは,分別知の対象として,所取形象をダルモッタラが認めているということのようです.

配布されたペーパーは,かなり曖昧模糊とした書き方で読み取りにくいのですが,質疑応答の中で,はっきりそうおっしゃっていました.

しかも,石田さんの理解によれば,所取形象を虚構形象の上に載せることがダルモッタラにとってのadhyavasayaの意味であり,それが,ダルモッタラにとっての「付託」(samaropa)ということだそうです.

これも,ペーパーでは曖昧模糊とした書き方で読み取りにくいのですが,質疑応答の中で明らかになりました.

石田さんによれば,ダルモッタラは,付託説を積極的に認めているということです.

驚きです.

私自身は,ダルモッタラが付託説を、同時付託説も含めて、明瞭に否定している,という理解を取っています.

これは,私だけでなく,関連するサンスクリット資料やチベット資料を読めば,素直にそう読めるからです.

私のこの感覚は特別なものでもなんでもなく,現代インドのインド哲学研究者であるSenも,普通にそのように解釈しています.

いっぽう,重要な先行研究である赤松先生のペーパーでは,特に疑問とすることなく同時付託説をダルモッタラ自身の解釈とされています.

それについて,私は,明瞭に異議を唱え,最近,ペーパーで批判をしました.

同時付託説をダルモッタラの批判対象ではなく承認対象だとする石田さんの解釈は,その意味では,赤松説の(一部の)復権を目指していると言えます.

とはいえ,石田説は,赤松説と全同ではありません.

赤松先生の理解によれば,所取形象=内的形象を外界対象に付託すること(あるいは外界対象を所取形象に付託すること)が付託の中身です.

赤松先生の理解では,aropitaは「付託されたもの」なので,赤松説に「虚構されたもの」という理解は登場しません.(ダルモッタラのaropitaを付託されたものではなく虚構されたものと解釈するのは,最近の私の,そして私特有の,主張です.)

いっぽう,石田さんの理解では,私の最近の主張を一部いれて,ダルモッタラのaropitaが,付託されたものではなくて,虚構されたものであることを認めています.

その意味では,石田さんの主張(所取形象を虚構形象に付託する)は,全体として,新たな第三の主張ということになります.

1.赤松説によるダルモッタラ理解:所取形象(内的形象)を外界対象に付託する,あるいは,所取形象に外界対象を付託する(同時付託説)

2.石田説によるダルモッタラ理解:所取形象(内的形象)を虚構形象に付託する,あるいは,虚構形象を所取形象に付託する(同時付託説)

3.片岡説によるダルモッタラ理解:adhyavasayaとは付託(samaropana)ではない.ダルモッタラは,そのような理解を批判している.虚構形象(aropita)は,単に,虚構されるだけである.adhyavasayaとは,ダルモッタラによれば,虚構形象と外界対象との無区別であり,区別の無決定(bheda-anadhyavasaya)のことである.ダルモッタラにとり,adhyavasayaは,積極的・肯定的な意味でのabheda-adhyavasaya(同一視)ではなく,両者を区別しないことというネガティブなものである.

石田さんは,ダルモッタラのadhyavasaya理解が,このように,abheda-graha(非別の把握=同一視)ではなく,bheda-agraha(区別の無把握)であるということに特に注意を払っておられないようでした.

石田さんのダルモッタラ解釈は.全体として,ダルモッタラの体系の中で,いろいろな齟齬をきたすと言わざるを得ません.

石田さん自身が質疑応答の中で認めておられましたが,石田さんの付託理解では,外界対象がどこにも登場せず,その役割がはっきりしてきません.

石田さんの今回のペーパーは,2008年6月27日にアトランタで行われたIABSで石田さんが発表されたペーパー(未出版)を,最近の私の論考を考慮して,リヴァイズされたもの,というように捉えることが出来ます.(アトランタでの発表があったこと、それゆえ本発表が一種の改訂版であることについては,石田さんは触れておられませんでした.)

その時は,bhava-abhava-sadharanaというアポーハの性格規定で,ダルモッタラが新たに提示してくる概念について,その歴史的背景をバルトリハリやクマーリラの中に探るものでした.

ダルモッタラのbhava-abhava-sadharanaという性格規定は以下のようなものです.

「牛」と言った時の非牛の排除というアポーハが,「牛がいる」「牛がいない」というように,「ある」「ない」という両語が表す存在・非存在と結び付き得ることから,「牛」の語意対象それ自体は,存在でもなく非存在でもなく,存在と非存在の両方に結び付き得るものだ,というものです.


「ある」---「牛が」---「ない」

存在---非牛の排除---非存在



それについて,IABSの発表で石田さんは,バルトリハリやクマーリラに遡って,その概念の歴史的背景を探っておられました.

今回のペーパーは,それに,私の最近の主張である「aropita=虚構形象」(not 付託形象)というものを加味して,さらに,私の一部のダルモッタラ解釈について異議を唱えられたものと看做すことができます.(発表の中では,社交辞令でしょうか,「片岡説に異議を唱えるものではないが」と,わざわざ断っておられましたが.)

全体としての石田さんの発表の趣旨は,ダルモッタラの虚構形象説が,bhava-abhava-sadharanaという性格規定を重要な背景としている,すなわち,そこに由来する,それによって引き起こされた説である,というものと理解できます.

つまり,bhava-abhava-sadharanaという概念規定がゆえに,虚構されたものaropitaという概念をダルモッタラは導入してきたのだ,という理解です.

bhava-abhava-sadharanaという性格規定を,ダルモッタラ説全体の中でどの程度の比重を占めるものと見るのか,私の見解はかなり異なります.

これについては,今回は,質疑応答の中で触れる暇はありませんでした.

私の後にコメントした小川先生は,この点について,石田さんの理解について,反対の立場を取っておられるようでした.

いろいろと小川先生はコメントされていましたが,「語意が虚構である(語意は虚構でなければならない)」ということのほうが中心にある,という理解だと思われます.

したがって,この位置づけ,両者の比重を考慮すると,順番としては,虚構形象が,語意に必要とされるbhava-abhava-sadharanaという性格を十分に満たす,ということになります.

両者の位置づけについて,この一つの性格規定に,石田さんのように過度の比重を与える必要はないように私は思います.(そして小川先生もそう考えておられるのでしょう.)

1.石田説:性格規定⇒虚構
2.片岡・小川説:虚構⇒性格規定

私自身は,ダルモッタラの虚構重視は,彼のnirakaravada/alika-akara-vadaという背景を考慮する必要があると主張してきました.

3.片岡説:形象虚偽論⇒虚構⇒性格規定

石田さんの今回の発表は,この点でも,私とは異なることになります.

次のHistory of Indian Thoughtで出版されるのでしょうか.(ただし,石田さんは出版について慎重派で,これまでも「発表すれども出版せず」ということがありましたので,今回も,ちゃんと出版されるのかどうかは分かりません.)

出版の最終形で,石田さんの主張を再度確認してから,私自身の反論を述べたいと思います.

とはいえ,最近のHITは出版が遅れがちですので,しばらく間があくかもしれません.

そのころには,私にとっても,アポーハ論などは排除されて,遠い忘却の彼方にあるかもしれません.

インド思想史学会 030

ハンブルクから来日の張本さんは,最近取り組まれておられるスシュルタのネパール写本について.

インド思想史学会 043

途中で,プロジェクターの接続が切れてしまい,筋を追うのがちょっと難しくなってしまいました.

阪大の榎本先生からは,質疑応答の冒頭で,「ちゃんと筋を終えるレジメを配ってください」との注文コメント.

日本人としては,やはり,完全原稿に近い配布資料がないと,筋を追うのに不安が残ってしまいます.

インド思想史学会 003


発表の最後は丸井先生.

pramanyaに関して.

冒頭で言及されていたように,京大で行われた国際サンスクリット学会での英語の発表をリヴァイズしたもの.

国際サンスクリット学会のものは,Scriptural Authority and Apologetics in the Indian Religio-Philosphical environment と題して行われたパネル,その中での発表.(なお,このパネルでの諸発表をひとつの論文集にまとめたものは,つい先日,ウィーンから出版されました.が,丸井先生の論考は収録されていません.その旨,論文集のはしがきに言及されています.)

プログラムによれば,2009年9月2日水曜日の17:40-18:10に,丸井先生は発表されています.

その時のタイトルは,Examination of the meaning of pramanya with special reference to its use of the Veda or verbal testimony (sabda) in the Codanasutradhikarana of the Slokavarttika and some Nyaya texts.

今回のタイトルは「pramanyaという概念を考える―――『シュローカ・ヴァールッティカ』教令章を中心に」.

クマーリラのチョーダナー章については,私の英語の大部の本が2011年に出ていますので,その情報を新たに入れ込んで,内容をリヴァイズされた,ということのようです.

丸井先生の最終的な結論としては,pramanyaについては,

1.(ある認識が)正しい認識であること,
2.(ある認識手段が)正しい認識の手段であること,



という二つに訳しわけるのではなく,「妥当性」validityという一つで行ける,ということのようでした.

その妥当性が,あとから,知にかかったり認識手段に適用されたり,という理解のようです.

通常のpramanya理解
pramanya  1. pramaatva正しい認識であること
       2. pramaa-karana-tva正しい認識の手段であること



丸井説
pramanya 妥当性 (1. 知の妥当性,2. 認識手段の妥当性)



世界のどこにも,このような解釈を取っている人はいません。

また,このような解釈を支持するorこのような解釈に納得する人も恐らくいないと思います.

サンスクリット語である以上,pramanyaが最初にpramatvaとpramakaranatvaの二つに分かれるのは自明だからです.

サンスクリット文法を踏まえた人ならばそう答えるはずです.

ただし,表現として一つに重なっていますので,テクストの中で,時に厳密に区別せずに使われることはあります.

両者の区別を厳密に扱うべき文脈でなければ,両者を厳密に区別して扱わないことはままありますし,それで通じますし,特に不都合は生じません.

しかし,書いた当人も,詳しく聞かれれば,ちゃんと両者を区別するはずです.

大して問題にならない文脈であれば,いちいち踏み込まずに語を使用することは普通に日常に見られることです.

しかし,だからといって,pramanyaの意味が区別されずに一つである,ということにはなりません.

引用文献のテイバーTaberさんの綴りがTaborとなっていて,それが何度も繰り返されているのが気になって仕方ありませんでした.

まあ,外国人も日本名の綴りはしょっちゅう間違っているので,お互い様ということで,アリかもしれませんが.

わたしも,日本人からは「カタヤマさん」と呼ばれることが多いので,「あ,どうも,カタヤマです」と答えるようにしています.

abhyupagamasiddhantaみたいなものです.
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  1. 2013/12/23(月) 08:22:31|
  2. 未分類

インド+イスラム

IIB

印哲とイスラム研究室,久々の合同食事会.

舞鶴のザエカを貸切.

サモサ,チキンティッカ,チキンビリヤニを堪能.

いろいろと忙しい季節,出られない学生も多かったのですが,それでも,7+7,総勢14名.

6時に始まって,がやがやと8:30まで歓談.

学生の交流も図れて有意義な会でした.

連日の大口予約の準備で,アリさんも,お疲れの様子.

なお,イスラム研究室は,普段は,友来,御島,帰郷のローテーションだそうです.
  1. 2013/12/18(水) 21:46:43|
  2. 未分類

Published: Scriptural Authority, Reason and Action

2009年に京大で開催された国際サンスクリット学会の一つの部会の発表をまとめたもの.

色々とあって出版が遅れていましたが,ようやく出ました.

学会にはなかったペーパーも加わっているので,遅れて出たことで,内容的には更に充実が図られています.

出版まで漕ぎつけてくれた編者の二人に感謝です.


Vincent Eltschinger, Helmut Krasser (eds.),
Scriptural authority, reason and action.
Proceedings of a panel at the 14th World Sanskrit Conference, Kyoto Sept. 1-5, 2009.
Wien 2013.


Vincent Eltschinger and Helmut Krasser
Foreword . . . . . . . . . . . . vii

Peter Skilling
The tathāgata and the long tongue of truth – The authority of the Buddha in sūtra and narrrative literature . . . .. . . . . 1

Joseph Walser
On Buddhists and their chairs . .. . . . . . . . . . . . 49

Vincent Eltschinger
Turning hermeneutics into apologetics – Reasoning and ra¬tionality under changing historical circumstances . . . . . . .71

Helmut Krasser
Dignāga on air or How to get hold of supersensible objects by means of a credible person – With preliminary remarks on the composition of the Pramāṇasamuccaya . . . . . . . . . . 147

Shinya Moriyama
On the role of abhyupagama in Dharmakīrti’s scripturally based inference . . . . . . . . . . . . . . . 183

Sara McClintock
Kamalaśīla and Śāntarakṣita on scripture and reason – The limits and extent of “practical rationality” in the Tattva¬saṃgraha and Pañjikā . . . . . . . . . . . . 209

Kei Kataoka
Transmission of scripture – Exegetical problems for Kumārila and Dharmakīrti . . . . . . . . . . . . . . 239

Hugo David
Action theory and scriptural exegesis in early Advaita-Vedān¬ta (1) – Maṇḍana Miśra on upadeśa and iṣṭasādhanatā . . . . . . . 271

Piotr Balcerwowicz
The authority of the Buddha, the omniscience of the Jina and the truth of Jainism . . . . . . . . . . . . . 319

Isabelle Ratié
On reason and scripture in the Pratyabhijñā . . . . . . . . . 375

Raffaele Torella
Inherited cognitions: prasiddhi, āgama, pratibhā, śabdana – Bhar-tṛhari, Utpaladeva, Abhinavagupta, Kumārila and Dharmakīrti in dialogue . . . . . . . . . . . . . 455


筆者の論文は,次の論文と同じく,TV 1.3を扱ったもので,いわば続編にあたります.

Manu and the Buddha for Kumarila and Dharmakirti. In Religion and Logic in Buddhist Philosophical Analysis. Proceedings of the Fourth International Dharmakirti Conference. Vienna, August 23-27, 2005. Ed. Helmut Krasser, Horst Lasic, Eli Franco, Birgit Kellner. Wien. 255-269.

http://www2.lit.kyushu-u.ac.jp/~kkataoka/Kataoka/Kataoka2011d.pdf


ダルマ関係は,日本人にはそれほど受けませんが,世界のインド学では,ダルシャナよりもよっぽど関心を持たれる分野だという印象を受けます.

インド学といえば,歴史的には,(植民地経営という実利の要請から)やはり,法典研究をひとつの中心として発展してきたという背景があります.

ちょうど今週京都に来られるオリベル教授から「マヌ論文,PDFで持ってはらへんの?」というメールを今朝いただきました.
  1. 2013/12/10(火) 08:23:09|
  2. 未分類

インド思想史学会第20回学術大会

インド思想史学会第20回学術大会

開催日   2013年 12月 21日(土)

会 場  東京大学山上会館(さんじょうかいかん)2階大会議室

参加受付  13時 00分から 東京大学山上会館 2階大会議室前             

大会参加費:1000円  


研究発表者および発表題目

13:30 – 13:40開会の辞

13:40 – 14:30石田 尚敬(東京大学大学院人文社会系研究科・特任研究員)
「〈知の形象〉は語の意味か —ダルモーッタラの考察を手掛かりとして」

14:30 – 15:20伊澤 敦子(国際仏教学大学院大学附属図書館)「sarpa´sırsaと sarpanama達について」

——休憩 ——

15:35 – 16:25張本 研吾(ハンブルク大学)

“More observations on the old Nepalese Manuscripts of the Susrutasamhita”
.

16:25 – 17:15和田 壽弘(名古屋大学大学院文学研究科・教授)
「新ニヤーヤ学派における定動詞語尾の意味について —ガンゲーシャの最終的主張 —」

17:15 – 18:05丸井 浩(東京大学大学院人文社会系研究科・教授)

「pramanyaという概念を考える —『シュローカ・ヴァールッティカ』教令章を中心に」

総会   18:05 – 18:25 (発表終了後、引き続き 2階大会議室で)
  1. 2013/12/09(月) 08:29:47|
  2. 未分類

Congratulations!

Ishigaki.jpg
  1. 2013/12/02(月) 20:00:12|
  2. 未分類

Indo Shokudo, Kumamoto

IS523098
IS5340983
IS530498523
IS53409582
  1. 2013/12/01(日) 08:05:11|
  2. 未分類

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