Pratibhanusarini --- 九州インド哲学ブログ2

On Indian Philosophy and Buddhist Studies

received: 麦文彪:「普庵咒」における悉曇字母について

麦文彪:
「普庵咒」における悉曇字母について
――仏教真言の中国化の一例――

東方学報 88
189--219

麦博士からもう一本,興味深い論考を頂戴しました.

普庵咒(ふあんじゅ)は,読んで字のごとく,普庵禅師(1115--1169)の唱えた霊験あらたかな呪文です.

それを歌詞とした曲が,古琴でも演奏されます.

しかし,その構成,起源,変遷については不明なことが多いようです.

麦博士は,関連する問題を明らかにしています.

つまるところ,インドの字母表にあれこれと手を加えて作られたものが,あれやこれやと変化した,ということです.

インドの字母表というのは,

ka, kha, ga, gha, ṅa

などの音声の表のことです.(varṇamālā, 音素列,字母花輪)

例えば,法隆寺の『佛頂尊勝陀羅尼』(6世紀?)の写本を見ると,最後にaからkṣaまでの51の梵字が載っています.

中国で『釋談章』や『悉曇章』と呼ばれるものです.

例えば義浄は,文法学の最初に習う字母練習表である『悉曇章』の18章300頌余りを「六歳の童子はこれを学び,六ヶ月で終了する」と言っています.

サンスクリット語のアルファベットであるこの字母表を,音写用の漢字でもって書写したのが普庵咒の起源になります.

迦迦迦研界

というようになります.

研のように鼻音がついているのが変わっています.

麦博士の比較によれば,ダルマクシェーマ(曇無讖,Dharmakṣema,385--433)が漢訳した『大般涅槃経』との対応が濃厚とのことです.

普庵咒の原型はこの周辺に考えられるようです.

また,いったん漢字になったものを,さらに,原型を復元すべく梵字に還元して,ということもあったとのこと.

いろいろと複雑ですが,要するに,インドの小学一年生の音素列練習表が,漢字に音写・書写され,文字となって,配列にアレンジを加えて,ありがたい効き目のある呪文となったものということです.




そういえば,「呪文は何故効くのか?」ということを,仏教論理学者のダルマキールティが議論していました.(大前1989参照)

「作った人が凄いから」というのが仏教の答えです.

「これを唱えた人の望みが叶うように」という現実化の能力を持っている人がいるということです.

としてみれば,呪文の中身がどうであるかは余り重要ではありません.

効果をもたらす媒体メディアは,呪文でなくてもいい,他の形態をとることもある,とダルマキールティは考えています.

例えば,手で結ぶ印であるムドラー,地面に描かれたマンダラ,あるいは,禅定ディヤーナです.

作った人の威力が呪文などのメディアに転移して,そして,そのメディアを通じて,作った人の誓い(真実語)が現実化すればいいわけです.




こうして見てみると,念仏を媒体として現実化する弥陀の誓願というのも,構造としては密教的・呪術的です.

ただし,真宗の教義では,呪術のような怪しげなものを忌避します.

また,「念仏によって現実化する」のではなく,念仏という行為の中に既に弥陀の誓願が現実化している,というように答えることでしょう.

坐禅することで悟るのではなく,坐禅そのものが悟りの姿だという曹洞宗の考え方と同じ方向です.

手段目的関係を放棄して,現在のこの瞬間に徹底する宗教の高いレヴェルではそうでしょう.

しかし,呪術的思考というのは,誰にでもあります.

「念仏によって救われる」というのは,一般人にとっては,「作った阿弥陀様が凄いから」という発想で,まずは理解されることでしょう.




ちなみに,ダルマキールティの論敵であるミーマーンサー学派は,ヴェーダのマントラが「誰かによってつくられた」ということを認めません.

それは誰かが作ったわけではなく,非人為のもので,永遠のものです.

だから,人間の誤謬が入り込むことなく,誤りなく正しいものなのです.

したがって,正しく執行された儀礼の中で正しく発音されれば,所期の効果をもたらすわけです.

なお,ミーマーンサーの伝統の中には「ダルマ開顕論」という考え方があります.(片岡1999

「儀礼によって果報をもたらす」という,手段目的関係の果報目的主義に立つのではなく,「儀礼の中にダルマが現成する」という行為徹底主義の考え方に立つわけです.(「ダンマがあらわになる」という玉城先生の言を思い出します.)

仏祖の行履が自分の行住坐臥に現成するのと同じで,現在の儀礼の中に全てが尽きており現れてくるという点では,儀礼主義を徹底した考え方と言えます.

してみると,ダルマ開顕論は,曹洞禅と同じ方向にあると言えます.

道元禅師も,ダルマ開顕論を早くに知っていたならば,早道できていたことでしょう.

また,個人個人の行住坐臥だけではなく,広く,その社会実現形として,僧伽を国全体に及ぼし整えれば,正法が現世に実現することになります.




映画「遺体」の中で,お坊様が遺体安置所でお経をあげるシーンがあります.

「お経によって救われた」という見方もできるでしょう.

これが多くの人の受け取り方でしょう.

もう一つの受け取り方として,「読経という行為の中に正法が現れている」という見方も可能です.

としてみると,仏教僧団のローカルな社会活動の取り組み方にも,二つの考え方が可能ということになります.

「社会活動によって人々を助ける」という目的中心主義と,「社会活動が仏教そのものの現れである」という行為中心主義です.

人によって受け取り方は様々ですから,どちらか一方に限定するのではなく,場面場面で使い分け,全体として併用するのがいいでしょう.

遺伝子と同じで,種全体の生き残りのためには,多様性を残しておいた方が得策です.




してみると,大学の在り方にも,二つの考え方が可能ということになります.

有為な人材を育てるという目標を立てて,大学をその手段とみなすならば,「大学教育によって有為の人材を育てる」という手段目的関係主義に立つことになります.

したがって,早く安く効果的に目的を達成できるならば,それがベストの手段ということになります.

たとえば,怪しげな手段で集めた金で大学を立てたとしても,それは,大学教育の目的を達成するために効果的であるならば,別に問題はないということになります.

マザーテレサも,少し怪しげな寄付金を受け入れていたことで,一部の人から非難を受けていたこともあるようです.

しかし,目の前の貧しい人を救うという高い目標のためには,金の出所・性質を問う必要はないのです.

お金が等しく目的を実現してくれる以上,その性格を問う必要はないのです.

また,目的中心ですから,最も効果的に人を育てる教育方法を,あれやこれやと模索することになります.

目的のためには手段は何でもいいわけです.

極端な話,ネット媒介で人を効果的に育てることができるならば,それでいいわけで,大学という建物も不要となるわけです.

英語教育も,同じ効果が安くあがればそれに越したことはないわけで,ネットでフィリピン人の大学生とチャットすればいいということになります.

実際,効率主義の英会話学校はそうするわけです.

いっぽう,行為中心主義に立てば,ちょっと違う話になります.

そこでは,威儀を正した教育が必要となります.

なぜならば,教育行為こそが理念の現実化したものだからです.

教育効果というものは,あくまでも二次的なもので,おのずから付いてくるという性質のものとみなされます.

では,その理念形とは何かと言われれば,昔からの伝統的な理想とされる教育ということになるでしょう.

保守的となるわけです.

明治大正の「教養主義」というのは,こちらの考え方でしょう.

古典教育というのは,このような考え方に立つのが普通です.

西欧のエリートの教育理念も,似たようなものでしょう.

どちらの考え方がいいというわけではなく,どちらも我々は使っているというのが現実です.

美味しければ何でもいいという発想ならば,美味しい中華を路上の屋台で,ランニングから腹出しながら,サンダル履きで,口に掻き込んで,楽しめばいいわけです.

早く安い(しかも気楽)という効率の観点からみれば,屋台が最高なわけです.

いっぽう,様々なしつらえに凝ったり,食器に凝ってみたり,マナーにうるさかったりというのも,また,食事のあり方です.




現代の応用科学の思考法というのは,勢い,効率重視になりがちです.

早く安く大量に万能細胞を作ることができれば,それに越したことはないわけです.

早くて安い効率的な手段がベストの手段ということになります.

国を代表する原子力の立派な科学者が,なぜ,人前で平気でうそをつくようになったのでしょうか.

「威儀を正す」ということがどうしてなくなったのか,考える必要があります.




3月末,九大の卒業式は,初めて,椎木講堂で行われます.

三洋信販の社長であった椎木さんの多額の寄付で建てられた講堂です.

椎木講堂での卒業式は,どのようなメッセージを卒業生に残すのでしょうか.
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  1. 2014/02/28(金) 19:20:20|
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received: Bill M. Mak "The Last Chapter of Sphujidhvaja's Yavanajataka critically edited with notes"

Bill M. Mak
"The Last Chapter of Sphujidhvaja's Yavanajataka
critically edited with notes"

SCIAMVS, 14, 2013, 59--148

矢野先生ほか,京大インド学の中で研鑽を積まれている麦博士から重要な論文を頂きました.

主要な主張点は2012年末のインド思想史学会で発表されたものです.

要するに,インド数学・天文学の碩学であるピングリー教授の説が,ヤヴァナジャータカの新写本を用いて再検討した結果,間違いだった,というものです.

ピングリー教授の,1978年のヤヴァナジャータカ校訂本での主張は,大略,次のようなものです.(麦博士が冒頭にまとめています.)

1.ヤヴァナジャータカは269/270年にスプジドゥヴァジャによって著された天文学書.

2.ヤヴァネーシュヴァラがアレクサンドリアで149/150年に著した散文を韻文化したもの.

3.バビロニア起源の演算法を含む

4.「物の名前を用いた数の表記」(bhutasamkhya)の最古の例

5.10進法の桁のゼロ記号(bindu「滴」)への最古の言及


つまり,ギリシャ語でヤヴァネーシュヴァラ(ギリシャ人の主)が紀元後149年に著わしたバビロニア系統の天文学書を,それとは別の人であるスプジドゥヴァジャが紀元後269年にサンスクリットの韻文にして翻訳した,ということです.

そして,その中に,ドット記号でゼロを表していることへの言及があるというのです.

しかも,著作年代であるシャカ暦71年や,シャカ暦191年は,物の名前を用いた数(ブータ・サンキヤー)で表現されている,ということです.

しかし,新たに入手した写本をも合わせてテクストを再校訂した結果,ピングリー教授の説が支持しがたいことが分かる,というのが麦博士の主張です.

問題となる最後の詩節は次のようなものです.(ピングリー教授の校訂本とは,随所で読みが異なります.)

iti svabhāṣāracanābhiguptād viṣṇugraheśendumayāvatārāt/
maharṣimukhyair anudṛṣṭatattvād dhorārtharatnākaravāksamudrāt//60

sūryaprasādāgatatattvadṛṣṭir lokānubhāvāya vacobhir ādyaiḥ/
idaṃ babhāṣe niravadyavākyo horārthaśāstraṃ yavaneśvaraḥ prāk//61

sphujidhvajo nāma babhūva rājā ya indravajrābhir idaṃ cakāra/
nārāyaṇārkendumayādidṛṣṭaṃ kṛtsnaṃ caturbhir matimāṃ sahasraiḥ//62



麦博士が英訳しています.

その英訳を参考に,サンスクリットから私が和訳し直すと次のようになるでしょう.

以上の様に,自国語(ギリシャ語)による著述のために守られており(秘されており),ヴィシュヌ・惑星主(太陽)・月・マヤから降臨してきたものであり,大聖仙などによってその真実が続いて直観されたものである,占星術の宝蔵である言葉の大海から[エッセンスを抽出して],ヤヴァネーシュヴァラ(ギリシャ人の主=スプジドゥヴァジャ)――彼の真実直観は太陽の恩寵由来であり,彼の文は非の打ちどころがない――は,世間の人々への同情のために,優れた言葉でもって,この占星術論を,昔,語った.

スプジドゥヴァジャという王がいた.賢明な彼は,四千のインドラヴァジュラー[韻律詩節]でもって,ナーラーヤナ・太陽・月・マヤなどが直観したこの全体を作った.



問題となるのは,ピングリー教授がブータサンキヤーとした箇所の読みです.

ピングリー教授は次のような読みを前提とされていました.

viṣṇu-graha- 1-7 (71=149 CE)

nārāyaṇa-aṅka-indu 1-9-1 (191=269 CE)

しかし,これらは,そもそも年の数を与えるものでもないというのが麦博士の主張です.

しかも,もし年数を与えるものだとしても,解釈として成り立ちえないというものです.

ヴィシュヌや月が1を表すということの証拠がありません.

また,写本によれば,aṅkaではなくarkaですから,これが数だとすると,12としなければなりません.

その場合,191年ではなく,1121年になってしまいます.

以上から,著作年代が不明になったことで,ブータサンキヤーの「最古の例」ということもいえなくなりました.

数学的なゼロの概念として最古のものは,ヴァラーハミヒラ(紀元後6世紀)のパンチャシッダーンティカーということになります.(麦博士の論文のn. 84)

そこには,binduがゼロを表す名前として用いられており,また,ゼロが数学演算の対象として扱われています.

また,物的な証拠としては,紀元後598年(シャカ暦520年)の年代を持つクメール碑文K. 151に見つかります.(同じくn. 84参照)

ゼロがドットで表されています.

ということで,いわゆる「ゼロの発見」ということの証拠としては,インド文化圏において紀元後6世紀までは遡れるということになります.
  1. 2014/02/28(金) 08:05:04|
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アルロー・グリフィス博士講演(京都大学文学部インド古典学)

Arlo講演 006
Arlo講演 009

  1. 2014/02/26(水) 07:54:48|
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サウスでチャイ

南インドだと大概コーヒーです。

最初からチャイは置いてなかったりします。

近所の安食堂もそうでした。

数軒隣に行くと、タバコ売り場も兼ねたチャイスタンド

バス停の真ん前なので、たまにそこでチャイを飲んだりします。

しかし全然うまくない。

毎回三上さんと、いかに南インドのチャイがなっとらんか、そして北インドで飲んだチャイがいかにうまかったかを語り合ったものです。

そんなこんなで南のチャイに文句垂れながら、たまにベナレスに行くと、南のコーヒーを出す専門店に通い詰めてたりします。

自分だけかと思いきや、三上さんも通っていたそうです。

マイソールコーヒー、やはり、癖になります。

中毒ですから当然です。


  1. 2014/02/24(月) 00:34:19|
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ライスにヨーグルト?

ミールスにはヨーグルトがついています。

私がマドラスで通っていた近所の安い地元食堂は、ミールスが15ルピー、ヨーグルトは別料金で3ルピー。

つまり十円追加でヨーグルトがついてきます。

円高ジャパンマネーの強さを活かして、当然、毎回ヨーグルトを追加。

しかも、食後は毎回コーヒー。

ボーイにはちゃんとチップも置きます。

地元なので1ルピーですが。




日本人としては食後にスプーンでヨーグルトをデザートがわりに食べたいところです。

しかし、周りを見るとそんな人は誰もいません。

みんな、ひとしきりカレーを食べ終わると、バナナの葉皿の上に追加のライスをつがせます。

そしておもむろに容器のヨーグルトをドバーッとライスに投入

手でかき混ぜます。

わきにある漬物やら塩やらで各自の味調整。

あとは男らしく手でかきこみます。




雑談で学生に「ヨーグルトライス」というと、信じられないという反応が大半です。

わたしも留学前はそうでした。

こればっかりは譲れない線の一つが、ヨーグルトご飯。

無理と思っていました。

しかしある時、目の前の親父が、最後まで大事にとってあったヨーグルトを、「こりゃ飯にかけるんだよ」とばかりに教育的指導、勝手に私のご飯の上にかけてくれました。

お節介なお人よしはさすがタミル人。

ニコニコ笑いながら親切心からやってくれてるので怒れません。

仕方ないので、ご飯に混ぜて食べます。

親父は「もっと混ぜ混ぜせい」という手つき。

日本の米と違ってパサパサですからヨーグルトとフィットします。

レモンのピクルスと合わせると最高です。

すっかり改宗して好物の一つです。





  1. 2014/02/24(月) 00:11:22|
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サヴェーラで上村先生とシャトーブリアン

インドで牛肉といえば思い出すのがシャトーブリアン。

ティルパティ滞在も三ヶ月ほど経った頃、上村勝彦先生がマドラスにいらっしゃいました。

わたしは電車で三時間かけてマドラスへ。




先生がその昔、マドラス留学時代に習っていたのが、ラガヴァン大先生。

そして、当時はまだ若かったラージャ先生とジャーナキー先生。

わたしがいたころはアディヤール図書館のラージャ先生、クップスワーミ研究所のジャーナキー先生といえば、マドラスのサンスクリット界の大御所。

上村先生に紹介していただいたおかげで、図書館の会員証発行など、いろいろと、ことがスムーズに運びました。

自分一人だったら、紹介状がどうのこうので、なかなからちがあかなかったでしょう。

マドラス大学では写本カタログのカタログ編集室も一緒に訪ねて、これまた、必要情報をすぐに入手できました。

コネがあるのとないのでは大違い。

当然ですが、上村先生が帰られた後、編集室を一人で訪ねた所、何も見せてくれませんでした。

上には弱く、下には強い、人類普遍の役所魂。

インドは本当にいい人生経験をさせてくれます。

理由なく親切な人間などいないことを身を以て学びました。




ティルパティでは完全ベジの生活

寺みたいな所に住み込みですから当然です。

しかも聖地。

ノンヴェジの食堂も、バススタンド前のとっても汚い店だけ。

あの汚さを見ると行く気も失せるというものです。

というわけで、外食にいくのも自然と清潔なベジ食堂になります。

健康的な生活です。

毎日が夏ですから、いくら食べても、ご飯中心の寺のシンプル野菜食では、太ることはありません。

かなり痩せて見えたことでしょう。

お気に入りの老舗ホテル、サヴェーラに滞在の上村先生も心配してくれたのでしょう、滞在中はサヴェーラの高級感あふれるダイニングに何度も招待してくれました。

「ヴェジばかりでは大変でしょう。普段食べられないものを食べなさい。」

ということでシャトーブリアンを注文。

しかし三ヶ月も完全ヴェジ生活を送った後に牛は無理だったようです。

インドにきてから初めて腹を壊しました。




  1. 2014/02/23(日) 23:20:44|
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Yojo Curry at Manoma

YojoCurry

心地よい薄明かりの土間で食す御供所町のマノマ

大谷さんが南インド研修のため,二日間限定出張の養生カレー

デフォルトのセットにラッサムをプラス

鍋底の最後の方だったのでしょう、濃厚です。

ダールも良い感じのとろみ

パクチーとあいます。

南インド志向のベジカレー

外国人の作った味噌汁に期待しないのとおなじで、ラッサムは日本人が作ると何か違うことが多いのですが、このラッサムは正解

ど真ん中でした。




日本人が作る,ご飯に合うスパイスの効いたカレーというジャンル.

一つの考え方として,スパイスパンチ系(チキンカレーやマトンキーマに代表)と滋味薬膳系(ベジ中心)という二極に分けることもできるでしょう.

前者の代表は例えばスパイスロード.

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パキスタン研修を経て,高田さんのカレーも進化・変化しつづけています.

昼は定番のチキンカレー

夜はあれこれと実験

脳みそカレーをヒントにした牡蠣カレー

牛ホルモンカレーは和牛

原価の高そうな肉やクリームを使って提供.

パーキスターンのマーケットのカレーを参考にしたそうです。

しかし市井のカレーよりずっと高級感があるのは、いい材料を使っているからでしょう。

これでやっていけるのか,人ごとながら心配になります.

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養生カレーは,ベジを頼んだのもありますが,滋味系のカレーでした.

体に優しいベジ中心のカレー.

インド家庭料理を追求する、熊本のインド食堂を思い出しました.

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ベジ中心の滋味系、目指す方向としては,インドの家庭料理や南インドのベジミールスというのが極として考えられます.

「インドのベジ」といえば,タミルのミールス.

日本で言うと,ひとつの代表はダバインディア.

DDDDDDDDDDDDDDD

マドラスで食べるのと変わりません.(値段は10倍くらい違います.)

しかも,ご飯もおかわりし放題,サンバルもラッサムも.

本場と同じ形態です.




また,昨今は,京都でもミールスが食べ(ら)れます.

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こちらは,いわゆるタミルの味とはちょっと違う感じでした.

ムスリムというのもあるのかもしれません.




  1. 2014/02/23(日) 14:44:26|
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西日本宗教学会第4回学術大会(鹿児島大会)

西日本宗教学会第4回学術大会(鹿児島大会)

【日程】
2014年(平成26)3月29日(土)午後~30日(日)夕方

【場所】
川辺岩屋公園清流の杜(南九州市川辺町清水3882岩屋公園キャンプ場内)


【当日のスケジュール】
〔初日〕

14:30~17:30 特別企画シンポジウム(鹿児島県宗教者懇和会協賛)
「宗教者に学び、宗教者と学ぶ―鹿児島県宗教者懇和会と西日本宗教学会の出会い―」
 鹿児島県宗教者懇和会(以下、懇和会)は、2011年5月に結成された鹿児島県下の宗教者の対話・協力組織である。九州では30年以上の歴史を持つ長崎県宗教者懇話会を除いて、こうした取り組みはこれまで珍しかった。今回の大会では、初日の特別企画として、本学会とほぼ同時期に設立された懇和会の会員との間で、宗教者と研究者の対話・交流の機会を設ける。内容は、シンポジウム形式で懇和会会員による基調報告・パネルディスカッションのほか、学会員によるコメントと質問、会場参加者による質疑応答、食事を囲んでの懇談である。桜花の香り漂う春の一日に両会会員が集い、相互理解と各会の発展につながるヒントをつかむ機会となれば幸いである。

 開会挨拶・趣旨説明・司会西村明(東京大学・大会責任者)

 基調報告:宮下亮善(天台宗南泉院住職)

 奥健一郎(鹿児島大学稲盛アカデミー教授)

 パネリスト:宮下亮善・奥健一郎・穂森幸一(鹿児島市内牧師神父の会)・

 野村浩史(鹿児島県神社庁)・末吉利行(立正佼成会鹿児島教会・懇和会事務局)

 コメンテーター:関一敏(九州大学)・萩原修子(熊本学園大学)

 閉会の挨拶:飯嶋秀治(九州大学)



〔二日目〕

個人発表を9時開始予定
  1. 2014/02/23(日) 13:05:23|
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石垣君からじゃがポックル

石垣土産 004

イスラーム研究室の山本君から連絡

「あずかってます」

とのこと.

釧路の石垣君(イスラーム研究室OB)から.

山本君,2月に釧路まで遊びに行ったそうです.

ありがたく頂きます.

石垣君,ありがとー.

そして,結婚,おめでとう.
  1. 2014/02/23(日) 12:37:40|
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アルロー・グリフィス博士講演会:ボロブドゥール出土鉛青銅片の陀羅尼

Arlo1

EFEOが京都にもできるそうです.

フランス極東学院.

東南アジアや東アジアのあちこちにあります.

この度,めでたく京都にも開設.

ポンディシェリのEFEOには,インド留学以来,わたしも随分お世話になってきました.

その京都のオープニングのセレモニーに,アルローも参加.

来日.

セレモニーまでの空き時間に,京大で講演会をしてくれるとのこと.

オーガナイズは,京大文学部の横地優子教授.

アルローは,フローニンゲン育ち.

若くしてライデンの正教授.

ライデンの伝統ある教授ポストについたのが,たしか30歳より前だったように覚えています.

ホンダ,ボーデヴィッツと続くヴェーダ研究の中心地ライデン.

そのヴェーダ学のホープとして若くして,教授になったのが2005年.

アタルヴァヴェーダのパイッパラーダ派の研究で重要な論文を書いています.

わたしも,彼の編集したパイッパラーダ派の論文集に寄稿したことがあります.

Kei Kataoka 2007
Was Bhatta Jayanta a Paippaladin?
The Atharvaveda and its Paippaladasakha. Historical and Philological Papers on a Vedic Tradition. Ed. A. Griffiths & A. Schmiedchen. (Indologica Halensis) Aachen: Shaker Verlag. 313-327.

その後,ライデンから,フランスのEFEOに転出.

インドネシアのEFEO研究所で,今度は,碑文研究.

ジャワ研究といえば,かつては,オランダのお家芸.

ヴェーダ学とジャワ研究の両輪という,かつてのオランダ人インド学研究者の本流を継いだわけです.

そして,EFEOの広域性を生かして,カンボジアのサンスクリット語やクメール語の碑文も渉猟.

これまでの有名な碑文の再検討,および,未出版の碑文の翻刻・校訂・分析など,重要な仕事を次々と出版しています.

その体力には,いつもながら驚かされます.

インドネシアからオランダ,結婚式に参加,すぐインドネシアに戻るとか,普通の体力では考えられないような往復も朝飯前です.

今回も,京都到着後,すぐに講演してくれるとのこと.

たぶん,長旅の疲れなどないのでしょう.

Arlo

2009年8月末に福岡に遊びに来てくれました.

焼鳥の「炭寅」で,研究室の皆と一緒にパーティーをしたのを覚えています.

インドネシア土産ということで,彼がきているのと同じような,派手派手柄のろうけつ染めバチックのシャツを貰いました.






アルロー・グリフィス博士講演会
Lecture by Dr. Arlo Griffiths

Title: The Heart of the One of Great Wrath (mahāraudra-nāma-hrdaya):
A dhāraṇī Inscribed on a Lead-Bronze Foil Unearthed near Borobudur

Date/Time: Feb. 24 (Mon.) 15:00--16:30
Place: Seminar Room 2, 2nd Floor, the Faculty of Letters Bldg.,
Yoshida Main Campus, Kyoto Univ.




グリフィス博士のEFEOでの紹介文:
Having been trained in Indology (with a focus on Sanskrit) at the University of Leiden and at Harvard, Arlo Griffiths began his academic career with a doctoral fellowship from the Netherlands Organization for Scientific Research that allowed him to pursue research in Vedic philology. His research focused on the Paippalāda tradition of the Atharvaveda, still alive in Orissa (India) to this day. In the field, he learned the (Indo-Aryan) Oriya language, and started being interested in non-brahmanicak traditions. In the margin of his doctoral research, he was able to do some work in the domain of descriptive linguistics of the tribal languages of the region, particularly those belonging to the so-called 'Munda' branch of the Austroasiatic family. While still remaining active as Indologist with a specialty in Vedic studies, the focus of his recherch gradually shifted to Southeast Asia, first and foremost the epigraphical documents in Sanskrit and in vernacular languages, both Austroasiatic and Austronesian (Old Khmer, Old Cham, Old Javanese). His research priority is the publication of so far unstudied manuscripts and epigraphical documents, in the form of critical editions, and their exploitation from the historical point of view.

Having obtained the doctorate at Leiden University in 2004, Arlo Griffiths was immediately appointed lecturer in Indian Religions at the University of Groningen. The next year, in 2005, he returned to Leiden, having been appointed to the Chair of Sanskrit. He joined the EFEO in 2008, and has been posted at his branch in Jakarta since January 2009.
  1. 2014/02/23(日) 11:34:09|
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衆賢における「仕事」の内実

会社でバリバリ仕事をして金を稼ぐ太郎,というのが現在法のイメージです.

「働き」を持つのが現在法です.

その前の,朝早くに家にいた太郎が過去法,仕事終わって夜にジムにいることになる太郎が未来法です.

では,会社にいるのに全く仕事をしない次郎はどうなるのでしょうか?

給料泥棒の次郎です.

あるいは,何も生み出さないけど,会社には毎日御迎えの車で来る名誉顧問はどうなるのでしょうか?

給料泥棒の次郎や,名誉顧問は,生産性という働きを持ちません.

生産するのが会社員であり,働きを持つのが現在法です.

生産しないようなものは会社員ではなく,働きを持たないものは現在法ではないことになってしまいます.

つまり,次郎や顧問は,会社にいても,会社員の資格を満たさないことになってしまいます.

このように,世親は,経量部の立場にたって,有部の立場を批判します.

すなわち,働きを持つものを現在法とする世友説を,働きを持たない現在法があることを指摘して批判するのです.

彼が挙げているのは暗闇での眼です.

光があれば目は機能します.

働きを持つわけです.

眼識を立派に生み出すので,働きを持つので,現在法としての資格を満たします.

しかし,暗闇での眼は,眼識を生み出しません.

働きを持たないのです.

したがって,働きを持たない以上,現在法の資格を満たさないことになります.

同じ現在時にあっても,働く目と働かない眼とで,いっぽうは現在法と呼ばれ,他方は現在法と呼ばれないことになってしまいます.

これでは困ります.

つまり,働き(結果を与えること,生み出すこと)でもって区別することはできないのではないか,というわけです.

また,会社だけが,生産性を持つ場所でしょうか?

家でも在宅勤務が可能です.

家内制手工業であれば,家でも生産できます.

つまり,過去のものも,結果を生み出すという働きを持ちえます.

すると,過去のものも現在法ということになってしまいます.

以上,二つの問題に,有部はどのように答えればいいのでしょうか?

1.現在時のものも働きを持たないものは非現在法になってしまう

2.過去時のものも働きをもつものは現在法になってしまう

有部の衆賢は,世親の問いに答えます.

生み出す必要はない,と.

ここでいう「働き」とは,生産性のことではなくて,成果の受け取りのことだと.

つまり,会社にいるだけで何も生み出さない次郎も,これまでの成果として給料を立派に受け取ることができるのだから,それだけで十分に「働いている」と言える,というのです.

名誉顧問も,給料受け取るのが「仕事」なわけで,何も生み出す必要はないのです.

結果を受け取る(phalākṣepa, pratigrahaṇa)のが現在法の「仕事」なわけで,結果を与えることではない,と衆賢は言います.

ばりばり仕事する太郎のイメージで現在法を捉えていましたが,衆賢の考えるところによれば,給料泥棒の次郎や,会社にくるだけの名誉顧問が,純粋な意味での現在法ということになります.

つまり,「働く」というのは,会社に行って地位を享受して給料を受け取ることに過ぎない,というのが衆賢の考えです.

このように考えれば,1と2の問題はクリアーできます.

過去法は既に結果を享受し終わっているのですから,いまさら結果を享受することはありません.


インドの大学図書館に行くと,図書館員は,チャーイを飲みながら新聞を広げて,また,同僚とお喋りをしています.

そして,わたしのようなゲストが来たら,これ幸いと,日本の事情やら,あれこれと雑談をします.

それで「仕事している」わけです.

その意味では,衆賢の「仕事」のイメージのほうがインド的ではあります.

何も生み出さずとも,地位を享受してればそれでいいのです.

「スルとは,作る(与える)ではなく,貰うことだ」というわけです.

「喫茶去」の禅僧や,妙好人も,一種,こういう境地かもしれません.


しかし,せっかく「働き」という画期的な概念を時間論に持ち込んだ割に,衆賢に至っては,働きの中身が矮小化してしまったことは否めません.

働きという概念でもって現在時を固定するという基本的な発想を大事にするならば,この現在の「働き」をむしろ肥大化させて,現在法だけを認める(そして過去法や未来法は現在法の中に何らかの形で吸収してしまう)という方向の方が,理論の発展としては見込みがあります.

経量部のとった方策はまさにそのようなものでした.
  1. 2014/02/21(金) 18:29:54|
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三世実有法体恒有

さて,世親があげる三世実有の四説の相互の違いは何でしょうか?

1.法救説

本体はそのままに,外面だけを変えるのが,第一の法救説です.

世親によって「サーンキヤ説と同じ」と断じられることからも,基体の上にある性格だけが変化することが分かります.

太郎それ自体が朝昼晩と同じでも,朝は寝間着で在宅,昼はスーツで会社,夜は運動着でジム,というようなものです.

色々と服を着替えますが,太郎は変化せず,服だけが変化します.

このうわべの変化によって,法の「未来・現在・過去」を区別するわけです.

未来の法,現在の法,過去の法と言うのは,寝間着の太郎,スーツの太郎,運動着の太郎,というのと同じです.

衣が変化しただけです.

2.妙音説

朝も昼も夜も太郎は太郎です.

服だけを変えるとする場合,太郎と服とを完全に切り離す必要があります.

しかし,完全に別な物を考えるのはよくありません.

というのも,完全に別なものである服を,存在(法)として別個に立てる必要がでてくるからです.

しかも,そうして立てられた服は無常なものになってしまいます.

そこで,服という外面を,もう少し内面化して,太郎の内側に取り込むことを考えます.

肩書や表札(標識)です.

家にいる時は,一家の主として表札が出ています.

会社にいる時は,部長の肩書で,名札をぶらさげて入館します.また,名刺をもっています.

ジムに行く時は,年会員メンバーとして会員証をもっています.

この肩書は,太郎の中に常にあるものです.

つまり,家主・会社員・会員です.

それを外面化したものが,表札であったり名刺や首からぶら下げるID証だったり,会員証だったりします.

この肩書は,朝も昼も夜も常に太郎とともにありますが,必要な時だけに顕在化します.

朝は,家主(会社員)(会員),

昼は,(家主)会社員(会員),

夜は,(家主)(会社員)会員,

となります.

このように,太郎と切り離すことなく,衣を内面化したものとして肩書を考えることができます.

しかも,それは,必要な時だけに表面化してくれます.

どの瞬間をとらえても存在は,未来・現在・過去の三側面を備えているのですが,どれか一つだけが表面化するというわけです.

3.世友説

表面化・顕在化というような便利なスウィッチがあればいいですが,そんなに都合よくはいきません.

三つが同時にあるわけですから混乱が生じてしまいます.

家で部長面したり,会社でアスリート風情,ジムでアットホームにくつろいでみたりと,混乱しかねません.

もう少し,未来・現在・過去を,きれいに区別する必要があります.

世友は,場所の区別を考えます.

家にいる太郎,会社にいる太郎,ジムにいる太郎,というように.

つまり,未来時にある法,現在時にある法,過去時にある法,というようになります.

場所を区別することで,三時が区別できます.

4.覚天説

しかし,未来・現在・過去という時を最初から別個に立ててしまっては,元も子もありません.

それでは,時という存在が別個にあることになってしまいます.

存在としての時の影をできるだけ希釈する必要があります.

つまり,未来時・現在時・過去時が,確固として存在しては困るのです.

そこで覚天が考えたのが,相対化です.

つまり,絶対的に三時が存在するわけではなく,内部の相関関係で,未来・現在・過去が相対的に決まるというのです.

家・会社・ジムが,東・真ん中・西に並んでいます.

東の家にいる太郎,真ん中の会社にいる太郎,西のジムにいる太郎,というように三つの場所にいる太郎を区別できます.

このように相対的な位置関係で,太郎のいる場所が決定できます.

しかも,家の位置はあくまでも相対的ですから,絶対的に東なわけではありません.

会社もそうです.

東と西にある家とジムとの相対的な関係で会社の「真ん中」としての位置が決定できます.

同じように,未来と現在との間にあるのが「現在」です.

現在時という場所が絶対的に存在するわけではありません.

つまり,時を別個の存在として立てる必要はないのです.

3’再び世友

しかし,この場合,「東」にあるはずの太郎の家が,場合によっては「真ん中」や「西」にあってもよいことになってしまいます.

また,「西」にあるはずのジムが,比較のとりかたによっては「真ん中」にあっても「東」にあってもよいことになります.

場所の位置が相対的に決まるので,東・真ん中・西が,きれいに定まりません.

つまり,未来・現在・過去が,相対的なために,一定しないのです.

何らかの基準となるものが必要となります.

そこで,世友説では,働きという概念によって,現在時を固定しようとします.

「仕事して金を生み出す所」としての会社を基準点にします.

あとは簡単です.

仕事中を基準として,仕事前と仕事後というように,三つを区別することができます.

仕事前の太郎,仕事中の太郎,仕事後の太郎,というわけです.

これから仕事に行くぞという時の太郎が,未来の法です.

ばりばりと仕事をして金を稼ぐ太郎が,現在の法です.

仕事をし終わってちょっとお疲れの太郎が,過去の法です.

このように,仕事という基準を導入することで現在を固定化することで,前後を相対的に決定するというのが,世友の方策です.

まとめておきましょう.

1.時を外にまとう服として外面化.(→サーンキヤ説)

2.肩書として内面化.必要なものだけが顕在化.(→混乱)

3.太郎の位置する三つの場所を区別.

4.三つの場所の相対的な位置によって,前中後を決定.(→混乱)

3’.仕事している場所を中(現在)として固定することで,相対的に前後(未来・過去)を決定.
  1. 2014/02/21(金) 07:25:13|
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アビダルマの時間論

「三世実有」

などと聞くと難しく聞こえますが,ようするに,未来のもの,現在のもの,過去のもの,この三つがすべて有る,ということです.

倶舎論で言われるように,全部あるとする論者と,一部あるとする論者の両方がいました.

有部は「全部ある」と主張するわけです.

これにたいして,一部だけあるとする論者の代表は「現在のものだけが有る」とする経量部,というわけです.

根本裕史さんが強調されているように,別に,未来などの時間そのものが存在するわけではなく,未来のものなどが存在するというのが仏教の時間論です.

つまり,ものを離れて何か時間という実体が存在するわけではありません.

例えば「刹那」といっても,何か「刹那」という時間があるわけではなく,瞬間瞬間のもののことです.

瞬間瞬間に生じて滅するものを離れて,刹那なる時間単位がどこかに存在するわけではありません.

さて,未来・現在・過去を,どのように区分設定すればよいのでしょうか.

1.表面的な見た目の違い(ものとしては同じ)

黄金は,ただの金塊だったり,指輪になったり,はたまた,イヤリングになったりと,見た目を変えることができます.

ミルクも,普通のミルクの状態だったり,ヨーグルトになったりします.

しかし,ものとしては同じです.

同じように,ものとしては同じだけど,表面的な有り様が「未来・現在・過去」と変わるだけで,本質的にものが変化するわけではない,という考え方があります.

つまり,ものは変化せず,その上にある表面的な性格だけが変化するというように,変化する部分を切り分ければいいわけです.

ややこしい仕事は外注して,本体はぬくぬくと温存するという考え方です.

これで,存在はずっと持続して,未来・現在・過去と三世にわたって存在し続けることができます.

未来性を備えたものが未来のものであって,現在性を備えたものが現在のものであって,過去性を備えたものが過去のものというように,三つを分けることができます.

しかし,この場合,サーンキヤ学派の学説と同じになってしまいます.

これはけしからんと,倶舎論のヴァスバンドゥは怒っています.

というわけで,仏教の説として,この第一見解は採用不可,とヴァスバンドゥは断じます.

2.スウィッチオン・オフ説

ものは未来相・現在相・過去相のいずれも備えています.

ただ,未来のものは未来相のスウィッチがオンになっており,他の二つがオフになっているだけで,他の二つがないわけではない,という考え方もできます.

つまり,三つの相のいずれも備えているが,どれか一つだけのスウィッチがオンになっているという考え方です.

この説を主張したゴーシャカ長老は,次のような比喩をあげています.

男が一人の女に色情を持つからといって,他の女への色情から離れたわけではないのと同じだと.

つまり,未来ちゃんに色情ロックオンしたからといって,現在ちゃん・過去ちゃんへの思いが切れているわけではなく,スウィッチオフの状態にあるだけだ,というわけです.

未来相(現在相)(過去相)

未来相だけが表面的に現れ現起していて,他の二つは括弧の中に隠れている,というわけです.

あるいは,会社の出勤ボードみたいに,名札を表にしたり,裏にしたりというわけです.

名札が表になっている相がオン,裏になっているのはオフということです.

しかし,このように考えると,スウィッチオンオフの違いだけで,いずれの存在も,三つの相を備えていることに変わりはない事になります.

つまり,或る一つの存在に,未来相・現在相・過去相の三つが同時にあることになってしまいます.

したがって,三つが入り混じってしまうことになる,とヴァスバンドゥはまたしてもお怒りです.

3.立ち位置が違う

さて,上では,表面的な見た目という性や,名札の表裏という相の違いを考えてきました.

これは,ものの上にある属性です.

ものそれ自体は温存しておいて,なんとか,属性をやりくりすることで,三世の区別を説明しようという戦略です.

これとは別の視点で問題解決を図ることも出来ます.

ものが立つ位置,場所の違いを考えるわけです.

立ち位置の違いで未来・現在・過去を説明するのです.

例えば,そろばんにおいて,球は同じでも,一の位にあればその球は一です.

十の位にあればその球は十です.

百の位にあればその球は百です.

このように,球は同じでも,その立ち位置によって,価値が変わります.

同じように,ものは同じでも,その立ち位置(位)が変わることで,未来のもの・現在のもの・過去のものと区別だてることが可能です.

この説が有部の説としては一番よろしい,とヴァスバンドゥは言っています.

4.前後相対論

上の説では,立ち位置ということを考えました.

その場合,場所を最初から設定する必要があります.

つまり,未来の場所,現在の場所,過去の場所というような,場所の違いを設定する必要があります.

これはまた一苦労です.

何か場所の区別を説明できる装置を用意しなければなりません.

しかし,そのような装置なしでも,相対的に,前中後を区別することで過去・現在・未来を区別することは可能です.

前後の相関関係で三世を区別するのです.

現在を決めるのは簡単です.

前に過ぎ去った過去があって,後にこれから来る未来があるもの,というように,前後を見ることで決まります.

過去(前)ーーー現在(中)ーーー未来(後)

しかし,この場合,前後の相関関係で考えるわけですから,過去も,現在になってしまいます.

過去(前)ーーー過去?(中)ーーー未来(後)

つまり,真ん中にある過去も,前後との関係で言うと現在になってしまうのです.

というわけで,この場合も,三世の区別がうまくつきません.

ヴァスバンドゥは,3番目の立ち位置説を採用しながら,かといって4番目の相対論に立つことなく,「働き」という概念を導入することで,三つの場所の説明をつけます.

まだ働いてないのが未来のもの,活動中が現在のもの,働き終わったものが過去のもの,というわけです.

三世実有の議論も,最後の着地は意外に常識的であっけないものでした.

確かに学者も,「研究者の卵」である学生は,まだ論文という成果を残してないという意味で未来の学者ですし,既に論文も書かず発表もしない人は「過去の人」と呼ばれます.

そもそも,「現在の」を意味するvartamanaという語からして,ニュアンスとしては「働きつつある」という意味です.

大毘婆舎論も含めて何百年も議論してきた結果,案外,結論は,極めて常識的な所に落ち着いてしまっていて,今一つものたりません.

未来のもの・現在のもの・過去のもののいずれにも分化できる万能細胞みたいなものを考えるゴーシャカ説のほうが意外性があって面白いと思います.

彼の挙げる愛欲の喩例も笑えます.

さすが,インドのお坊様は一味違います.

Ghosakaというくらいですから,「妙音」ではなくして,たぶん,けたたましくうるさい大声で議論する人だったのでしょう.

日本の学会でもこういう人はたまに見ます.

インドの学会に行くと,8割方そうです.
  1. 2014/02/19(水) 07:57:57|
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received: 桂紹隆「仏教と論理」

桂紹隆

「仏教と論理」

京都女子大学宗教・文化研究所『研究紀要』27
2014年3月
pp. 103--125

KFS53409851

仏教とは,歴史的に実在した仏陀が説いた教え,という意味です.

では,その仏陀は何を説いたのでしょうか?

また,日本人が信じている大乗仏教は,はたして「仏教」と呼べるのでしょうか?

大乗仏教が本当に「仏教」なのかどうかについて,もっと真剣に問う必要がある,と桂先生は強調されます.

現在,世界の多くの研究者が,大乗仏教の起源について多くの議論をしているのも当然です.

では,インドの大乗仏教徒たち自身は,どのような論理をもって,自分たちの保持する経典が「仏教」だと主張したのでしょうか.

かれらは,それを,先行する論理を用いて次のように言いました.

「真実を説いているから仏説だ」と.

正しい事をいっているのだから,それは,仏陀の教えに違いない,というわけです.

では,その「事実」「正しい事」とは何でしょうか.

それは,縁起,つまり,XがあればYがある,XがなければYもない,という観察から発見される因果関係のことです.

因果関係の中でも最も実践的に重要なのが「聖者のための四つの事実」(四聖諦)です.

桂先生は,ここで,この教えが「聖者のためのもの」であることに注意するよう我々にうながします.

生は苦しみに満ちており,それには原因があり,その原因をなくすための方法があり,それによって苦をなくすことが可能だというこの「苦の癒しの道」について,実は,それは,在家信者のためのものではなかったということです.

在家信者の目標は,真面目に生活して布施などをしながら僧団をサポートして功徳を積み「天に生まれ変わること」です.

つまり,在家信者は,このシステムに拠る限り,「苦をなくす」という意味で救われることは直接にはないわけです.

ここに大乗仏教が登場してくるニッチが成立します.

出家と在家という視点でながめると,親鸞聖人の登場の意義が見えてきます.

出家 → 出家・在家 → 在家

出家のみを対象とする救済論から,在家も含んだ大乗仏教の救済論へ,さらには,僧俗が一味となって僧も妻帯する,つまり,在家一色の救済論です.

「浄土真宗的」な仏教を捉えて,桂先生は,

「贔屓目に過ぎるかもしれませんが,親鸞聖人の登場は,大乗仏教の登場に匹敵するくらいの仏教史上の大事件ではないかと思います」


と結ばれています.

仏教における「真実」である因果関係がいかに重要かは,竜樹の『中論』を見ても明らかです.

竜樹は冒頭,サーンキヤやアビダルマなどが前提とする因果関係を否定しています.

それは,固定的な不変の本質をもった有自性のものが因果関係を持つことはありえない,という意味です.

つまり,仏陀が説いた縁起が成立するためには,ものは無自性でなければならない,というのが彼の最も言いたかったことです.


  1. 2014/02/16(日) 12:14:49|
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未来は現在の中にある


久々の桂研。

今回のテキストはヨーガスートラです。

あのヨーガの根本経典。

その注釈の注釈の研究です。

ヨーガ経に対してはヴィヤーサのヨーガ注という注釈があります。

さらにそれに対してシャンカラのヨーガスートラ注詳解という復注釈があります。

今回読んだテキストはこの復注釈でした。

ヨーガ行者の院生がマラヤラム写本をチェックして苦労して準備したテキストをもとに、みなで読み進めます。

かなり難解です。

テキストの読みが怪しい箇所もいくつもあります。

ああでもないこうでもないといろいろな想像をしながら読み進めなければいけません。

議論は三世実有について。

未来現在過去が実在するという話です。

ヨーガの議論は仏教の議論から多くをとっています。

ヴィヤーサとシャンカラはアビダルマの議論から多くをとってきているわけです。

現在のものが実在するというのは当然として、では過去と未来のものが実在するという事は、どうしていえるのでしょうか。

認識論的な理由と倫理的な理由との2つが主な理由となります。

我々が持ってる正しい認識には必ず対応する対象が実在として存在します。

壺の認識に対応して目の前に壺があります。

同様に考えると、未来のものや過去のものの認識に対応して、未来のものや過去のものが実在すると言えることになります。

認識論的な素朴実在論の立場から未来も過去もあるといえるのです。

また業の理論を前提とするとき、未来も過去も実在しないとすると倫理的には困ったことになってしまいます。

祭式をするのは天界を目指してです。

未来のものである天界がもし実在しないのならば、祭式する意味は全くないということになってしまいます。

ヨーガ学派はサーンキヤ学派の因中有果論に立ちます。

原因の中に結果はすでにあるという立場です。

粘土の中に既に壺は実在するし、また、ミルクの中に既にヨーグルトは実在すると考えます。

現在の物の中にすでに未来のものは実在すると考えるわけです。

より正確に言うならば、素材となるモノは常に存在し、その見た目が変化するだけです。

毎日違う服を着ていても私が同じであるのと同様です。

未来現在過去と言うのは単なる相の違いに過ぎません。

見た目は変化するけど、モノとして全く新たなものが生じてくるわけではありません。

変容すれども生起せず。

存在しなかったものが新たに生まれてくるということもないですし、存在するものがなくなるということもないわけです。

しかしそうだとするとヨーガ的には困ったことになってしまいます。

心の中に堆積していく潜在的な影響力であるヴァーサナーは、さまざまな行為の結果として我われの中にあります。

それを完全になくさないことには解脱は不可能です。

しかしサーンキヤとヨーガの理論においては、何かが完全になくなるという事は理論上ありえません。

したがって、心の中に堆積していく潜在的な影響力の無化についてはまたあれこれと議論する必要があるわけです。

あっちを立てるとこちらが立たず、こっちを立てるとあっちが立たず、理論家の苦労は絶えません。


KFS53409233412
  1. 2014/02/15(土) 09:32:31|
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The Syena sacrifice and technology



On the third day Prof. Shimazono talked on the arguments between Karaki Junzo and Taketani Mitsuo.

Scientists often presuppose that science is free from value.

Science itself is never bad. Only its application is wrong.

For example, nuclear science itself is not bad; only its application to wars is wrong.

So science itself is not responsible for disasters which may happen.

Scientists should pursue the truth, which is free from any value.

Technology itself is never bad. What matters is how to use it. It is human beings that are responsible for the result.

But is the modern science, represented by those on genom, etc, value-free?

Karaki severely criticizes the view that science is value-free.

The argument is similar to Kumarila's argument on ritual killings.

Traditional brahmins argue that the Syena sacrifice, although it is a black magic by which one curses one's enemy to death, is not bad by itself. Only its resultant effect, i.e. causing the death of the enemy, is ethically bad. The sacrifice is a cause and killing is an effect. The former is value-free, whereas the latter is ethically bad.

In other words, the Syena sacrifice, a kind of technology, is not bad.
It is the person who is responsible for the result.
The Vedas, which teach us the technology, are not responsible.
The Vedas tell us the truth.
They tell us the fact, but they do not tell us to do the sacrifice.
Sein and Sollen are different.

Or, Kumarila says, brahmins can accept that the Vedas command us to do it.
But what they tell us to do is not killing, but only its cause, the sacrifice.
Remember that the sacrifice and its result are diffferent.
The Vedas tell us good things, including the Syena sacrifice.

Brahmanical logic may not appeal to our modern minds.
We may think that what they try to do is just to protect the Vedas' authoritativeness.
They have a clear motivation for protecting the Vedas, which distorts the arguements.

But in fact the logic of protecting the modern science of which effects are catastrophic is the same.

Vedas tell us the black magic of which effect is killing, i.e. himsa.
Scientists tell us the technology of which effect is a catastrophy, mass killing or huge suffering.

veda---syena---himsa
science---technology---killing

What is the difference?
When protecting the authoritativeness of the modern science we do use the same logic that the traditional brahmins developed 1500 years ago in India.
If the Vedas are considered bad, similarly the modern science is to be considered bad.
If we think that the modern science is value-free or even good, similarly the Vedas are to be considered value-free or good.

Perhaps the Vedas are less evil than the modern science.
Killing one's enemy leads the sacrificer to the hell only once.
Furthermore, clever brahmins provide with a remedy sacrifice, prayascitta, by which the sacrificer can be rescued from the sin.
In the case of the nuclear science, however, the danger of radiation last for one lak years which amount to many lives.
Furthermore, we have no remedy for the catastrophic result which is not predictable, as we witnessed in Hiroshima, Nagasaki, and Fukushima.

KFS456905232
  1. 2014/02/13(木) 19:08:19|
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paramāṇu-śakti-carcā

KFS5340953

Prof. Shimazono asked students of the following question.

"If one criticizes the nuclear power, why does one not criticize the car, too?"

The answer is, of course, not easy.

1. We need both.

2. One is bad, but the other is not so bad. It is a matter of degree.

3. Both are bad. We do not need both of them.

Suppose that one selects the answer 2:

If the nuclear power is bad and is to be abolished because of X, the reason X may similarly apply to the car.

What is the difference because of which one can say that we need only the car?

For example, if one says that the nuclear power is bad because it kills or afflicts many people, the reason "because it kills or afflicts many" also apply to the car. (Furthermore, this view presupposes the idea that whatever gives a pain is bad. But this is not always the case, as Kumarila points out.)

Gandhi would definitely say that we need neither.

The modern idea of development is simply wrong and misguided.

Ultimately the issue is related to our view of value: what is life, how to live, and what is more important than the other.

Prof. Shimazono, one of the most famous scholars of religious studies in Japan, then presented various statements by religious organizations made after Fukushima.

The key word is "honest poverty" in Christianity and "less desire, be satisfied with the given" in (Japanese) Buddhism.

Lao Tzu taught less desire.

Dogen enumerated, among eight moral precepts, less desire and being satisfied with the given at the head.

Many religious groups, if they are not too radical or too strange, refer to our want and desire.

Fukushima is not just an issue of politics and economy, but also of religion and moral.

  1. 2014/02/13(木) 07:45:56|
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調べない,知らせない,助けない

KFS0594833


1. No investigation

2. No disclosure/communication

3. No helping/rescue

Prof. Shimazono summarized the policy of government agencies of health administration related to Fukushima into three: first they do not investigate; even when they investigate, they do not disclose their collected information; even when they disclose it, they do not help people.

1. anveṣaṇa-abhāva

2. ākhyāna-abhāva

3. anugraha-abhāva

So the three things are necessary:

1. jijñāsā (investigation)

2. pramāṇa (collect knowledge/information)

3. pravṛtti (action)

The Buddha's four epithets tell us the importance of compassion, the basis of the rest, which is totally missing in government agencies.

1. karuṇā (compassion)
2. abhyāsa (practice)
3. jñāna (knowledge)
4. upadeśa (teaching)

KFS34098534423
  1. 2014/02/12(水) 07:13:03|
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Prof. Susumu Shimazono on nuclear power

KFS54039583452


Four-day intensive lectures by Prof. Susumu Shimazono (Prof. Emeritus, Tokyo Uni.) at Faculty of Letters, Kyushu University. (Organized by Dep. of Religious Studies)

On the first day he gave us a general survey of the views by related scientists and other scholars before and after Fukushima 3.11.

How the discourse of "safety" and "easiness/fearlessness" was developed, etc.

Some scientists, without scientific basis, but with the political need, emphasizes the importance of "soothing" and "providing relief".

A feeling of security (abhaya), however, is already beyond the domain of science. What scientists first should do is to provide the correct information and knowledge of risk and merit. Then people individually judge what to do after assent.

Abhaya1.jpg


About 15 students participated (mainly BA), sitting in a small seminar room of the Religious department.

In the end it seems that the Mimamsa principle (Jaiminisutra 1.3.4: hetudarśanāt) that the statement by a person of evil motivation is not reliable is true.

Many scientists are not reliable speakers, as we know well after 3.11, because they have some sort of evil motivation, ultimately greed for money. It is a simple fact that many people, scientists or not, crowd around money. But unfortunately the academic system of these days is constructed so that scientists have no other choice than to crowd around money. (Otherwise they cannot buy anything for experiment.)

It is also evident that some people do not want to listen to the inconvenient truth. And some scientists tell lies so that people do not get "unnecessarily" nervous. But being nervous is necessary if the fear is true.

Truth is truth.
It is there.
It will be revealed in the end despite of the effort of concealment.

Kumarila says in SV codana 93cd--94ab:

dveṣād asammatatvād vā na ca syād apramāṇatā//
na cātmecchābhyanujñābhyāṃ prāmāṇyam avakalpate/

And [generally speaking] invalidity can be [concluded] neither by reason of hatred nor non-acceptance; and validity can be concluded neither on the grounds of [your] own desire nor acceptance.



One cannot make it false even though one does not want it.
One cannot make it true even though one wants it.
One should first face the truth.
One should not turn one's face away from the truth.
  1. 2014/02/11(火) 18:22:36|
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鶏黄伽哩

CYC1
CYC2
CYC3
  1. 2014/02/10(月) 07:36:29|
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śoṣabhaṅga

ニヤーヤ:有情の作り手がいなければ,結果はありえない.すなわち,有情の作り手があるときにのみ結果はあるのである.このようにして,Xが結果であれば,そのXは必ず,有情の作り手を持つと言える.

仏教:有情の作り手がいなくても,結果はありえる.例えば,粘土が乾燥して割れる場合,この割れるという結果は,作り手なしでも生じるものである.したがって,結果だからといって有情の作り手がいると推論することはできない.

NIN095834253
  1. 2014/02/06(木) 08:10:01|
  2. 未分類

catur-maharaja

KFS5034985312423424356463455234o59234534


『東方学』127号(2014年1月)に高崎直道先生追悼録が組まれ,四人の先生方が寄稿されています.

服部正明,藤田宏達,辛島昇,斎藤明の四先生です.

斎藤明先生の寄稿(211頁)によれば,次の四人が高崎先生の東大印哲での同期とのこと.


三枝充悳・筑波大学名誉教授(故人)

前田恵学・愛知学院大学名誉教授(故人)

高崎直道・東京大学名誉教授(故人,--2013/5/4)

藤田宏達・北海道大学名誉教授



凄いメンバーです.

斎藤先生曰く「インド哲学研究室の同期の「四天王」と呼ばれてきた錚々たる顔ぶれ」(211頁).

  1. 2014/02/05(水) 19:08:42|
  2. 未分類

received: スカンダプラーナ第三巻

The Skandapurana
Volume III
Adhyayas 34.1--61, 53--69
The Vindhyavasini Cycle

Critical Edition with an Introduction & Annotated Enlgish Synopsis

by Yuko Yokochi

Brill - Leiden & Egbert Forsten - Groningen
2013

英語のイントロとサンスクリット原典の校訂本.
英語で内容梗概があるので,簡単に話の内容を追うことができます.

詩節の冒頭に主題が説かれます.

ヴィヤーサ:
2.「どうして黒い女神は白くなったんでしょうか?また,その訳は何でしょうか.そのことを知りたいと思います.」

サナットクマーラ:
3.「マンダラ山頂に,ウマーと,カーマ神の体を滅ぼせし者(シヴァ)とがいた.その時,様々な姿をとる[手下の]プラマタ達と一緒に,楽しむために.」

4.「さて,神は戯れて,何かの拍子に,そこにいた彼女を『黒い女』と言った.誇り高い,かの女神は怒った.」



この後,白くなるという願いをかなえてもらうため,女神は苦行することになります.

とても平明なサンスクリットですので,サンスクリット原文でも簡単に読めます.

kathaṃ bhagavatī devī kṛṣṇā gauratvam āgatā/
どうして 尊い   女神 黒い  白く    なった

kāraṇaṃ tatra kiṃ cāpi etad icchāmi veditum//2
理由   その 何 また それ 私は~したい 知り

KFS5049385234
  1. 2014/02/04(火) 18:42:57|
  2. 未分類

bhūmiparīkṣā

伊都 007


伊都の新キャンパス.

文系地区も土地を造成中.

左に見える円形の椎木講堂は既に形ができあがっています.

2014年3月の卒業式はここで行う予定です.

文系棟は,古墳を削って平らにした丘の上に建てるそうです.

古墳を記念して,ビルのてっぺんが古墳の頂上になるよう,デザインするそうです.

つまり,ビルのてっぺんに立つと,あたかも古墳の頂上に立ったかのように追憶できるそうです.

むかし,永ノ尾先生のゼミで,建築前の土地選定の際の色々(土地の考察)を読んだのを思い出しました.

インドでは,土地選定の際に,掘って骨とか出てきたら駄目だったように思います.

しかし,往復で儲けるバラモン祭官のことですから,どんな土地でも対処できるよう,修復儀礼も用意されていたことでしょう.

つまり,何か出てきても,エキストラで金払えば,エキストラの儀礼で解決してくれるということです.

それにしても,これだけ坂の勾配があると,毎日,足腰鍛えられて,健康になることでしょう.

ありがたいことです.

namo namaḥ svāhā
  1. 2014/02/02(日) 09:14:08|
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