Pratibhanusarini --- 九州インド哲学ブログ2

On Indian Philosophy and Buddhist Studies

西日本宗教学会第四回鹿児島大会

西日本宗教学会第4回鹿児島大会

鹿児島 028



1日目:3月29日(土)
14:00 岩屋公園キャンプ場清流の杜(鹿児島県南九州市川辺町清水3882、0993-56-5465)
14:30 シンポ開始・趣旨説明(司会西村明)
14:40 宮下亮善(天台宗南泉院住職)基調報告1
14:55 奥健一郎(鹿児島大学稲盛アカデミー教授)基調報告2
15:10 パネルディスカッション
パネリスト宮下亮善・奥健一郎・穂森幸一(鹿児島市内牧師神父の会・カナルファ)・
野村浩史(鹿児島県神社庁)・末吉利行(立正佼成会鹿児島教会・懇和会事務局)
16:00 休憩(20分)
16:20 コメント(関一敏(九州大学)・萩原修子(熊本学園大学)、各10分
16:40 レスポンス・フロアディスカッション
17:30 閉会の挨拶(長谷千代子(九州大学))


鹿児島 034


2日目:3月30日(日)

個人発表@清流の杜会議室
・午前の部(司会:片岡)
8:45-9:35 楊大為(鹿児島大学大学院)
変貌する地域社会とカトリック教会―奄美大島小宿集落と小宿教会の事例をめぐって―
9:35-10:25 大坪加奈子(九州大学大学院)
カンボジア仏教と公共宗教(仮題)
(15分休憩)
10:40-11:30 宇野功一(京都造形芸術大学)
グルジェフの修行法―自己観察・自己想起・祈り―(仮題)

11:30-12:50 昼休み(弁当配布・晴天の時は公園でどうぞ)
(運営委員会@清流の杜和室11:30-、ゴミがある場合は昼休みまでに回収します。)
12:50-13:10 総会@清流の杜会議室

鹿児島 078


・午後の部(司会前半2名:木村、後半2名:白川)
13:10-14:00 岡本圭史(九州大学大学院)
  改宗を促す脅威――ケニア海岸地方ドゥルマの妖術と「霊」をめぐる語り
14:00-14:50 町泰樹(志學館大学)
  明治期の与論島における葬送儀礼の変容
(15分休憩)
15:05-15:55 西村明(東京大学大学院)
橋を架ける―パフォーマティヴな記憶の比較論
15:55-16:45 関一敏(九州大学大学院)
無我と輪廻は矛盾するか?(仮)

鹿児島 082
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  1. 2014/03/30(日) 22:51:57|
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己自身を知れという命令の無駄

「天界を望む者は祭れ」という命令を理解するというのは、単に、文意を理解するに留まりません。

文意を理解し、すなわち、祭式から天界が生じるということを理解し、さらにそうして理解した祭式行為を実際に行って初めて聞き手は、命令を理解したことになります。

命令→意味理解→発動→果報(天界)

同じように考えると「(解脱を望む者は)アートマンを知れ」というように、ウパニシャッドを、アートマン認識という行為を命令する文として理解できることになります。

命令→意味理解→発動→果報(解脱)

しかし、これは奇妙なことになります。

命令→意味理解→アートマン認識

ウパニシャッドの文の理解がそのままアートマンの真実の理解だからです。

意味理解をすることと別にアートマン認識を行う必要はないのです。

命令→文意理解=アートマン認識

すなわち、祭式命令と違い、アートマン認識を目指すウパニシャッドの場合、文意理解の上に更に上位の目的があるわけではなく、文意理解がそのままアートマン認識という目標そのものなのです。

祭式行為を理解しただけで実行しない人は、本当の意味で命令を理解したことにはなりません。

しかしウパニシャッドの場合、文意を理解することがそのままアートマン理解なのです。

したがって、「アートマンを知れ」という命令が別個に必要になることはありません。

ウパニシャッドの文を聞けば自動的にアートマンは理解されているのです。

  1. 2014/03/27(木) 18:45:54|
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graduation party

卒業式1 122

九大の卒業式は,最近は,国際センターで行われてきました.

しかし,今年からは,伊都の椎木講堂で開かれることに.

式終了後,文学部卒業生が箱崎キャンパスまで移動するのには,かなりの時間がかかります.

例年,卒業式が終わって2時過ぎから,生協を貸し切っての文学部の祝賀会でした.

が,今年は,諸事情を勘案して,4時半から.

卒業生も大変です.

うちの学生もハードスケジュールの様子でした.

朝から伊都に出かけ,終わって箱崎に戻って,そして研究室で学位記を受け取り,そして,生協での祝賀会.

終わってから両親と天神で食事.

それが終わって,夜十時からは,サークルの追いコンがスタート.

祝賀会が終わった夕方の時点で既に眠そうでした.
  1. 2014/03/25(火) 23:02:52|
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Shinghe to しんは

Singhe234132490853
Singhe4309583453
  1. 2014/03/23(日) 21:03:12|
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肯定即否定

地面に壺がない状況.

地面(だけ)を肯定することが即壺の否定である,と一部の仏教徒は考えます.

ここではAの肯定が,そのまま,非AであるBの否定だと考えられています.

さらに言えば,彼は,これを客観的な事実に基づくと考えています.

すなわち,地面の本質として壺の非存在をとらえます.

壺の非存在
  ||
地面の存在

地面(だけ)の存在と壺の非存在とは相即関係にあります.

イコールです.

矛盾関係という含意から導き出されるわけではないのです.

そうではなく,存在は,客観的に,他の非存在を本質とする,というのが仏教徒の考えです.

「これは赤い」と知覚するとき,「これは白くない」という否定をしたことになります.

しかし,仏教徒の言っていることは正しいのでしょうか?




一元論の神学者であるマンダナにとっては,これはゆゆしき問題です.

というのも,存在である神が非存在を本質とすることになってしまうからです.

これは許せません.

この世界の本質であるブラフマンは存在オンリーでなくてはいけません.

そこに非存在が入ってはいけないのです.

したがって,彼は,「Aの肯定=Bの否定」ということを認めません.

「この花は赤い」と知覚した時,確かに,「この花は白くない」ということは分かります.

しかし,それは,あくまでも間接的にわかるだけです.

見ることがそのまま否定になるわけではありません.

矛盾関係から分かるだけで,間接的に分かるだけです.

仏教徒:花は赤い=花は白くない

マンダナ:花は赤い→(赤≠白)→花は白くない

また,「花は赤い」から,たしかに,「花は白くない」は正しいですが,赤以外の全てのものの否定ということを考えると,「花は芳しくない」というように,芳香の否定もなされるはずです.

花は赤い=花は白くない,花は芳しくない,,,,,,,

つまり,あれば目に見えるはずの白の否定だけでなく,あっても目には見えない(鼻でしかかげない)香りの否定まで,そこには含まれることになってしまいます.

一者の肯定は,無限の多数の否定を含んでいますから,無制限に否定されることになってしまうのです.

「花は赤い」という知覚は,一者の肯定でその働きを終えているのであって,他を考慮することがありません.

他を考慮するときに,他の否定が可能になります.

「他の考慮」というのは,人間的な思惟の働きです.

したがって,少なくとも認識のレヴェルでは,一者の肯定が即,他の否定とは言えないのです.

マンダナは,存在レヴェルでも,(Aの)存在=(Bの)非存在,という仏教徒のテーゼを否定しようとします.

それは長い議論になります.
  1. 2014/03/20(木) 07:42:14|
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根本的無知=幻

atra kecid āhuḥ. vastusiddhāv eṣa doṣaḥ. nāsiddhaṃ vastu vastvantaraniṣpattaye ’lam, na māyāmātre. na hi māyāyāṃ kācid anupapattiḥ. anupapadyamānārthaiva hi māyā. upapadyamānārthatve yathārthabhāvān na māyā syāt. (BSi 10.9--11)

これについて,或る者達は述べている.実在成立の場合に,以上(相互依存)は問題となる――未成立の実在は,別の実在を生み出さない(無知が先行して成立していない場合には,個我の別を生み出しえない)――のであって,単なる幻の場合,[以上は問題では]ない.なぜなら,幻には,ありえないということは何もないからである.というのも,ありえない対象を持つのが,幻だからである.説明が付く対象を持つならば,対象通りに[無知は]あることになるのだから,[無知は]幻ではなくなってしまう.



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個我は,ブラフマンと別異ではありません.

本来,個我は,ブラフマンと同一です.

にもかかわらず,個我はブラフマンと別であるかのように見えます.

それは無知である無明の働きのせいです.

では,その無明とは一体なんなのでしょうか?

それは,ブラフマンと別に存在するものなのでしょうか?

ブラフマンが知を本質とする以上,ブラフマンに無知があるはずもありません.

では,無知は,個我に所属するのでしょうか?

しかし,個我に所属するならば,ブラフマンと別異の個我があって,はじめて無明が存在することになってしまいます.

別異の個我が無明の原因となります.(個我の別異性→無明の成立)

さらに,個我に依存する無明が,翻って,ブラフマンと別なる個我を成立させることになります.(無明の成立→個我の別異性)

これでは相互依存になってしまいます.

すなわち,無明のおかげで個我の別が成立し,個我の成立のおかげで,その上に無明が存立することになります.

無明(の個我への所属・成立)⇄個我(の別異性)

或る者たちは,この場合の相互依存には問題がないといいます.

すなわち,無明と個我は,無始なので,この場合の相互依存は,鶏と卵と同様,全く問題がないという解決方法です.

これが二番目に述べられている解決方法なので,マンダナの最終的解決方法でしょう.

第一番目に述べられているのは,開き直りのような解決方法です.

すなわち,「訳の分からないものが無明=幻なのだ」という回答です.

それがここで述べられている解決法です.

無知は幻(幻影を生み出す原因,幻力,幻術,幻化作用)です.

訳の分からないもの,説明のつかないものを対象としているこそ「幻」と呼ばれるのです.

幻(力)⇒説明不可能な対象

説明不可能なありえないような対象を見せてくれるのが幻(幻術,マジック)です.

要するに,訳の分からないものが無知=幻化因だ,ということです.

だから,理論的不整合は問題とはならない,という回答です.

マンダナにとって,無明は,有るとも無いとも断定不可能で,また,ブラフマンと別とも非別とも断定不可能なものです.

要するに,「よく分からないもの」ということです.

よく分からないけど,幻のように,実際的な働きを持ちます.




ビットコインも,有るか無いかよく分からないものですが,実際的な働きは持ちます.

幻影は実際的な働きを持つのです.

その意味で,全く存在しない空華(実際的な働きを持たない)とは異なります.




この世界の多様性を生み出す原因である無明,それは「よく分からないもの」「有るか無いかよく分からない幻」なのです.

理論的に説明が付かないからこそ,無明は「幻」と呼ばれるのです.

訳が分からないから「魔法」と呼ばれるのです.
  1. 2014/03/14(金) 18:50:21|
  2. 未分類

虚と実の二諦論

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ダルマキールティが言うように,本当に実在するものは効果を持ちます.

彼にとっては「存在」の定義が「効果的作用を持つもの」です.

効果的作用を持たないものは,そもそも,「存在」ですらありません.

存在:効果的作用をもつもの
非存在:効果的作用をもたないもの

しかし,ダルマキールティの言うように,非存在は効果的作用を絶対にもたないのでしょうか?

神学では,これは困ったことになります.

非存在であっても効果的作用を持つというように認めないと困ったことになるのです.

実と虚の対立で考えてみましょう.

実:本当に存在するもの
虚:本当には存在しないもの

どうやって,人間は,虚なる手段によって実なるブラフマンを知ることができるのでしょうか.

同じ問題は,中観でも論じられます.

世俗(虚偽)の手段によって,どうやって,勝義が理解されるのでしょうか?

人間は,高みにある実に上るのに,虚なる梯子を必要とします.

すると,たとえ虚であっても,何らかの効果を持つということを認めないと困ります.

「嘘も方便」ということで,嘘のものでも効果を持ち得るのです.プラシーボ効果です.

マンダナは次のように言います.

「『虚なるものは,いかなる効果も持ち得ない』という決まりはない.幻影は,悦びや恐れの原因となるからである.また,虚は実を認識する原因となるからである.たとえば,線描のガヴァヤや,文字の音素のように.」(BSi 13--14)

虚⇒実なる効果
幻影⇒悦び・恐れ
虚⇒実の認識
線描のガヴァヤ⇒実のガヴァヤの認識
文字⇒音素の認識

おもしろいことに,虚なる例として文字が出てきます.

書かれた文字のことです.

インドでは,発声された音(さらに厳密にいうと,発声された具体的な何ヘルツの音響によって開顕した永遠の音素)が実在であって,文字は,単にそれを写したもの,写像(pratibimba)でしかありません.

文字を言葉と考える傾向が強い漢字圏の人間にはちょっと抵抗があります.

が,インドでは,いまでも,言葉シャブドや言語バーシャーというのは喋っている音のことを指して言います.

文字リピとは区別されます.

同じ言語を喋っていても,地方地方で違う文字を使っている国です.

言葉と文字の区別は,インド人にとっては,身近です.

識字率が低いというのもあるかもしれません.

文字を知らない人というのは,言葉を知らないわけではありません.

文字は,あくまでも,原像(bimba)に対する写像(pratibimba)です.

しかし,文字は,本当の言葉である音素を理解する原因となります.

つまり,虚なるものが実なるものの認識に役立ち得るのです.

つまり,虚であっても実なる効果を持ちえます.

同じように,ウパニシャッドの文章という世俗的な虚なるものは,ブラフマンという実なるものの認識に役立ち得るのです.

ウパニシャッドの文章⇒ブラフマンを認識する

中観の二諦説も似たような構造をとります.




ジャヤンタは次のような趣旨のことを述べています.(NM II 182)

「虚であっても実なるものの手段となる」ということはない.虚なる蛇咬が実なる気絶をもたらすという例が引かれていたが,これはおかしい.というのも,ここでは,毒かもという疑惑が原因となっているからである.疑惑は認識であり,認識は虚ではなく実である.したがって,この場合,虚ではなく実が,実なるものの手段となっているのである.



ジャヤンタは流石に鋭い.

虚なる蛇咬⇒気絶・死亡(ショック死)

という実例にたいして,それをもたらしたのが,虚なるものではなくして実なるものであることを指摘しています.

すなわち,ここで実際の原因となっているのは「毒蛇に咬まれたかも」という毒の可能性を考える疑惑知です.

疑惑知⇒気絶・死亡

したがって,ここでもやはり,原因となっているのは虚ではなく実ということになります.

虚⇒実の認識

にたいして,

の認識⇒実の認識

というように,隠れていた「認識」を明示して,構図を書き換えたわけです.

常識的に考えても,実際には毒蛇に咬まれていない人がショックで死ぬのは,その人の誤った認識が原因なわけで,非存在という虚なるものが原因となるわけではありません.
  1. 2014/03/11(火) 18:42:37|
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śaṅkāviṣa疑惑の毒

「毒蛇に咬まれたかも」という疑惑だけでも死ぬことがあるそうです.

ショック死の一種でしょうか.

VV Stern 316.1--322.1:
naivam, jñānasyaiva tatra kāraṇatvāt, śaṅkāviṣeṇāpi maraṇadarśanāt.
そうではない.知だけがそれの原因だからである.疑惑の毒(毒かもという疑い)によっても死ぬのが見られるからである.



(cf. BSi 14.14: tathā mithyāhidaṃśo maraṇahetuḥ.)

BSSBh ad 2.1.14, 458.13--459.1:
naiṣa doṣaḥ, śaṅkāviṣādinimittamaraṇādikāryopalabdheḥ, svapnadarśanāvasthasya ca sarpadaṃśanodakasnānādikāryadarśanāt.
そのような過失はない.疑惑の毒等が原因で死ぬ等の結果が見られるからである.また夢見状態の人に,蛇咬・水浴等という結果が見られるからである.



この二つを比べると,どうも,マンダナの表現をシャンカラが引いて使っているような気がします.

マンダナの表現は口語的であり,そのまま分かるものです.

シャンカラの堅い合成語表現は,この比喩が既知であるかのように扱っています.

しかし,マンダナのVVの冒頭の議論を知っていればすぐに分かります.

そうでないと,この合成語だけから分かれといっても,少し分かりにくいでしょう.

「等」「等」とつけているのも,既知の喩例に「等」を慎重に付け加えているような感じです.

マンダナのVV,やはり,重要です.
  1. 2014/03/11(火) 07:55:33|
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ApDhS 1-7-20-3

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「ちょうど,マンゴーは果実目的でも,それがあると,木陰や芳香が付随してあるように,ダルマを実践すると,利益が付随して生じてくる.」

目的AのためにあるものXが,Aとは別のBという利益までついでにもたらす,というお得な話でした.

X⇒A+B

マンゴーは,もちろん,果実目的に植えますが,ついでに,木陰や芳香も提供してくれます.

マンゴー⇒果実+木陰・芳香

同じように,ダルマ(善行)は,上昇・繁栄(天界等)目的ですが,ついでに,様々な現実的な利益をもたらしてくれます.

ダルマ⇒上昇+利益

しかし,あくまでも,ダルマは上昇目的です.

目先の現実的な利益を目的としているわけではありません.

マンゴーを,木陰目的や,芳香目的で飢えないのと同じです.

したがって,現実的な目先の利益を目指してダルマを行うのは本末転倒ということになります.

そのような付随的利益が生じない場合もあるのですから.

生じないからといって,そのダルマがダルマとしての役目を果たしてないということにはなりません.

マンゴーが木陰をもたらさないからといって怒るのは筋違いです.

おまけでついてくるポイント目的で買い物するようなものです.




しかし,現実には,おまけのカード目的に,商品のお菓子を捨てる子供がいるくらいです.

付随する利益目的でダルマを実践する人もいたということでしょう.

そして現世利益が生じないと怒る人もいたことでしょう.

ポイントを付け間違うと激怒するお客と同じです.

人間,せっかちです.

それにたいして,とりあえず,言い訳を並べて,死後の天界まで果報は先延ばしにするのがバラモンの戦略です.

「天界に生まれなかったじゃないか,どうしてくれる」と文句を言うことはできないからです.

目の白内障手術をしておいて,「一週間安静にしておくように」といって,その間に,どこか遠くに行ってしまう,昔のインドの放浪系施術師と同じです.

失敗しても,そのときには,もういませんから,知ったこっちゃありません.

顧客には遠い先に果報を設定しておいて,自分は目先の利益で潤う.

「バラモンに学ぶ,宗教ビジネスのヒント」でした.
  1. 2014/03/09(日) 09:29:19|
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1. 過去のものや未来のものがそれ自体として存在しないと考える場合,どのような問題があるでしょうか?

まず,過去の壺・未来の壺は存在しないことになります.(これから壺になる)粘土片や(以前に壺であったものが破壊された後に残る)陶片があるだけです.

それらは壺ではありません.

したがって,「過去の壺」「未来の壺」と言う時,現在時の壺の上に三つの時があることになります.

つまり,現在の壺の上にある属性として過去や未来を考えるしかありません.

現在の壺が「過去の壺」とか「未来の壺」とか言われていることになります.

しかし,この場合,三時が現在の壺の上に同時に在ることになってしまいます.これは困ります.

     未来・現在・過去
粘土片     壺      陶片

2. これに対して,現在の壺の上にではなく,粘土片の上に未来の壺を見て,陶片の上に過去の壺を見るとすればよいのではないか,という反論が考えられます.

こうすれば,現在の壺の上に過去・現在・未来が同居するという過失は回避できます.

すなわち,粘土片を指して「未来の壺」と呼び,陶片を指して「過去の壺」と呼んでいると考えるわけです.

未来   現在   過去
粘土片  壺     陶片

しかし,壺ならぬ粘土片を「(未来の)壺」呼んでもいいという理屈を許すと,馬を「牛」と呼んでもいいということになってしまいます.

「牛」



3. そこで次に,粘土片や陶片といった肯定的な存在ではなく,非存在を考えることで問題の回避が図られます.

すなわち,壺の前無を捉えて「未来の壺」と呼び,壺の已滅無(後無)を捉えて「過去の壺」と呼んでいると考えればいいわけです.

未来  現在  過去
前無  壺   已滅無

しかし,この場合も問題があります.

というのも,実際には非存在であるものを「存在」と呼んでいることになるからです.

非存在を存在と呼ぶのは,正直者には相応しくない発言です.

4. また,なぜ,壺の前無を「未来の壺」とだけ呼ぶのでしょうか.別に「未来の陶工」と呼んでもいいのではないでしょうか.

「未来の陶工」  「現在の壺」  「過去の陶工」
前無          壺       已滅無

これに対する反論としては,壺は(過去・未来の時には)見られていないからで,陶工は見られているからだという回答がありえます.

すなわち,陶工はずっといるのにたいして,壺は未だ存在せず,そこに見られていないから,壺の前無については,「未来の壺」と呼ぶのであって「未来の陶工」と呼ぶことはないのだ,という反論です.

5. しかし,この反論も説得力を持ちません.

というのも,陶工の家の中には,確かに(過去・未来の時においては)壺は見られておらず,陶工は見られていますが,しかし,見られてないものは他にも沢山ありうるからです.

例えば象や虎です.

したがって,壺の前無を,見られていない象を用いて「未来の象」と呼んでも,「未来の壺」と同様に,問題がないことになってしまいます.

いずれも見られていないことに変わりはないからです.

「未来の象」  「現在の壺」  「過去の象」
前無         壺      已滅無

6. これに対して,壺の已滅無に関しては,壺は以前に見られたことがあるので,それが見られなくなることで「過去の壺」と呼ばれるのだ,という反論が可能です.

すなわち,象は以前に見られたことがないので,現在見られないからといって,壺の已滅無を「過去の象」と呼ぶことはないのです.

以前に見られて今見られない壺だけを用いて「過去の壺」と呼ぶわけです.

しかし,これも問題があります.

以前に見られて今見られてないものは,壺それ自体だけではなく,壺の生産作用も同様だからです.

すなわち「過去の壺」というように壺を用いて呼称してもいいのと同様,「過去の壺生産作用」というように呼んでもいいことになります.

壺生産作用は,以前には見られて今見られないからです.

7. これにたいして次のような反論が可能です.いま見られていない壺生産作用は,いいかえれば,生産作用の已滅無です.

その生産作用の已滅無という非存在は,壺に属すものとして考えられます.

したがって,作用の已滅無を指して「過去の壺」と言う場合,その已滅無が所属している壺に言及しているので問題はない,というのです.


作用の已滅無


しかし,これも問題があります.

というのも,作用の已滅無という非存在と,壺という存在の間には,いかなる関係もありえないからです.

したがって,作用の已滅無を壺に帰属させ,その属性と見ることはできないことになります.
  1. 2014/03/08(土) 20:34:55|
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相・別・着・無別の写本公案

桂研TSの三世実有

TSPに

lak.sa.nabhedaasa.mgaabhinnaa

とあります。

謎です。

相・別・(無)着・無別の

となります。

しかし、全体の文脈としては、チベット訳にあるように、「相の別によって異なる」となるはずです。

しかしながらテキストはabhinnaaですから「異ならない」としかなりません。

また、aasa.mgaなのかasa.mgaなのかも謎です。

最初の案はasa.mgaとして「相の別と結び付かない限り異ならない」。

そうすれば全体としてチベットと同じになります。

しかしサンスクリットとしては無理があります。

asa.mgaといえば無着。

しかし「着かない」という否定が言いたいなら、否定を明示するはずで、こんな紛らわしい表現はしないでしょう。

aasa.mgaとするのが自然です。

「相の別と結び付くことで異ならない」となります。

しかし、これでは求める意味と逆になってしまいます。

abhinnaaをbhinnaと訂正すべきでしょうか。

しかしnnaがnnaaとなることは考えにくいです。

nnaaを活かしたままチベットのような意味にするにはどうすればいいでしょうか。


aasa.mgaは、重い意味がないとすれば、まず、bheda-aasa.mga(別と結び付くことで)は「別によって」と理解できます。

これでチベット訳の意図は理解できます。

では、abhinnaaをチベットがbhinnaaであるかのように理解しているのは、どうすれば解決できるのでしょうか。

aaを活かしたままabhinnaではなくbhinnaとするには、aasa.mgaad bhinnaaと、dが抜けたと考えれば解決します。

というわけで最終的な訂正案としてはdを付け足して、次のように解釈します。

lak.sa.na-bheda-aasa.mgaad bhinnaa

「では念のため、もう一度写本をチェック」と桂先生。

皆でチェックし直すと写本には確かに

lak.sa.nabhedaasa.mgaabhinnaa

とあります。

しかしよくみるとbhiの上に何か書いてあります。

よくよく見るとdのようです。

つまりdbhiと訂正したいようです。

つまり書写生も、aasa.gaabhinnaaと書いたけど、dを補ってaasa.mgaad bhinnaaと訂正したい、ということのようです。

というわけで最終的には写本にも支持される、ということで一件落着。

「相の別と結び付くことで異なる」となります。

意味不明の音の連なりが、ちゃんと意味を成す瞬間です。

abhinnaをbhinnaとなす、これ如何に?

という写本公案、認可です。

梵語写本検定があれば、二級くらいでしょうか。
  1. 2014/03/08(土) 07:33:00|
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シヴァ誕生

「マハーシヴァラートリがシヴァ誕生を祝う日」なる和文記事をみて「?」となりました。

シヴァの息子のスカンダ(韋駄天)なら、『クマーラサンバヴァ』という詩聖カーリダーサの作品もあるように、また、南インドのあちこちの寺院に親子三人の仲よさげなソーマースカンダの図像もあるように、「息子の誕生」ということで理解できます。

しかし、永遠なはずのシヴァに関して「誕生」とは、とんと聞いたことがありません。

リンガウドバヴァ(シヴァリンガの隆起)ならありますが、これは「誕生」ではありません。

英語のwikiをチェック。

シヴァとシャクティの合一を祝う日とのこと。

納得です。

新月の真っ暗な薄気味悪い日ですから、火葬場でうろつく修行者の恐ろしげなパワーも全開なことでしょう。

怪しげな丸薬を調合してみたり、尸を使ってタントリックな儀礼をしてみたりと、妖術を行うには最適の日です。




マハーシヴァラートリと聞くと、ダヤーナンド・サラスワティーの子供の時の話を思い出します。

アーリアサマージの創始者です。




マハーシヴァラートリの新月の夜、お寺に集う老若男女。

断食して一晩中眠ることなくシヴァをあがめます。

一晩中眠ることなく起きていれば、大変なご利益があるとのこと。

しかし、実際にはどうでしょう。

信心深い少年を除いて、大人たちは眠りこけてしまっています。

しかもシヴァ像にはネズミが出て来て好き放題。

全知全能どころかネズミ一匹も退治できないシヴァ神。

少年は偶像の神への疑念を抱くようになります。




アーリアサマージは偶像崇拝否定なので話半分に聞く必要がありますが、いかにもありそうな話です。

ちなみにダヤーナンド・サラスワティーが師から習い、入れ込んだテキストは、文法学の『マハーバーシャ』です。

というわけで、アーリアサマージ系の学者である碩学ユディシュティラ・ミーマーンサカは、ヒンディー語訳を残しています。

残念ながら未完ですが。
  1. 2014/03/03(月) 23:01:47|
  2. 未分類

南印定食集会

南インド料理 061
サンバル ラッサム ダール オーラン ビーツのマスダート風パチャディ 
パイナップルパチャディ キャベツのトーレン イステゥ アヴィアル 
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  1. 2014/03/01(土) 22:19:08|
  2. 未分類

スポーツ選手と研究者

「メダルを噛むな」や「メダルを取れなかったくせにへらへらするな」と言う人がいたとして,その人の発想は,どこに一貫性があるのでしょうか.

いったい,どのような思考過程を経て,上のような発言が生じてくるのでしょうか.

基本的な構造としては,「国が金を出しているからメダルを取って当然」「取れないやつは税金投入の無駄」「取れないなら,せめて申し訳なくしろ」という保守的な考え方があるでしょう.

国家→スポーツ選手→メダル→国威発揚


という構造です.

ネズミも取れない役立たずの猫がのうのうと昼寝しているのを見て腹立てるのと同じ構図です.

ここでは,メダル獲得に主眼があります.

スポーツ選手それぞれが,どのような人生を送ってきたのか,どのような困難を抱えているのか,その顔つきや性格は無視されます.

大事なのは,メダル獲得マシンとしての,道具的人間です.

スポーツ選手個人個人がどのようであるか,また,選手のこれまでの人生での修養がどのようにして大舞台で発揮されるのか,そういった個々人の事情や人格は無視されます.

大事なのは,メダルの数です.

したがって,選手の極めて個人的な人格の発露であるメダルを噛むという自由な行為は慎まねばならないことになります.

白い歯を見せて笑う,というのは個性を持った人間の自由な感情の発露だからです.

そのような個人の自由な行動は許されないのです.

そこに「人間」が存在してはならないのです.

工事現場の交通整理のおじさんが,個性を発揮して,新体操のリボンで楽しそうに交通整理をしだしたら,「いらんことするな」と,工事会社のお偉方は怒るでしょう.

そこでは仏頂面で淡々と仕事をする交通整理マシーンが求められているのです.

国家に奉仕すればいいのです.




逆に,「噛もうがどうしようが選手個人の勝手でしょう」というリベラルな人は,個人を大事にします.

そこでは,国家の影は限りなく薄くなります.

大事なのは個人です.

また,メダルという「成果」も第一義的に重要,というわけではありません.

それは,あくまでも,日々の訓練を充実させるための一つの目標点でしかありません.

もちろんそこにおいても,メダルや,それを通じた国威の発揚という「成果」を否定するわけではありません.

しかし,それはあくまでも,後から付いてくるものにすぎないのです.

メダルの獲得が全てを正当化することはないのです.

また,メダルの無い事が全て(例えば選手のこれまでの努力)を否定することもありません.

大事なのは,メダルの数ではなく,選手の人格の発露ということになります.

過去→現在


優れたスポーツ選手というのは,また,個性的であります.

国家に強制されて取り組んでいるわけではありません.

高い目標に耐え、自己の能力を不断に高めていくためには,自発性や志を高める必要があります.

それは,自分自身の中からしか出てきません.

補助金があるとしても,それは,あくまでも,自発性や自分のやる気を高めるのに間接的に資するのであって,直接に補助金が頑張らせるわけではありません.

どちらの思考モデルが経験的に優れているかと問われれば,スポーツ選手は後者だと答えるでしょう.

金がなければ一流のスポーツ選手は育ちません.

が,だからといって,金を与えたからといって国家の強制で個人の力が伸びるわけではないのです.

重要なのは個人が個人として力を発揮することで,国家はそれをサポートするに留まります.

金で雇った傭兵部隊と,愛国に燃える国民軍のどちらが強いか,というのも似たようなものです.

個人個人の志の高い低いが結果を左右します.




同じ構造は,昨今の大学にも見られます.

保守派の見方は次のようなものです.

国家→研究者→発明・発見→富国・国威発揚


「税金を投入しているのだから,発明して特許とって,国富を増やせ」というわけです.

研究者一人一人がどのようであるかはどうでもいいことです.

そこに求められているのは道具的人間です.

いっぽう,リベラルな見方は,研究者個人の自由な発想と取り組みを重視します.

成果を否定するわけではありませんが,それは,あくまでも,後から付いてくるものです.

真理探究が第一義であって,金になる応用ということは第二義的な位置しか持たないのです.

要するに,自分が面白いと思うから徹底して取り組むのであって,研究成果が金になるかどうかということは,研究者個人にとっては,第二義的な価値しか持ちません.

どちらの思考モデルが,最終的に優れた研究成果を生み出すことに資するのでしょうか.

これまでの研究によれば,研究者個人個人の取り組みを広くサポートするしかないようです.

ノーベル賞級の重要な発見・発明をすることになる研究者も,その研究の初期においては,驚くほど僅かな金額の科学研究費を貰って,細々と研究をしています.

最初から,あちこち派手に助成金をもらっていたスター選手というわけではないのです.

スポーツと違って,学問の場合,どの研究者が化けるか,ということは,もっと分かりません.

研究の初期から目を付けて,そこに補助金を集中させる,ということは,学問の世界ではほぼ不可能です.

つまり,どこにダイヤの原石が隠れているかということは,身体能力が目に見えるスポーツよりも,もっと分かりにくいのです.

何億という金が集中するのは,ノーベル賞級の研究者でも,相当後になってからです.

どこに何が隠れているか分からないのですから,広く薄く芽を育てる必要があります.

十年も二十年も経ってからようやく成果が出るかどうか,しかも,それも決して確かではないような研究に補助金を広く出せるのは国くらいでしょう.

野菜であれば,最初から間引きして,一部に栄養を集中させるほうが得策です.

しかし,研究において,そのような初期からの資源集中は,最終的には不利な結果をもたらすことになります.

スポーツでも研究でも,成果を拙速に求める余り,逆に成果から遠ざかるという現象が生じうるのです.




沙漠化した荒れ地に緑を復活させるのに,どうしたら一番よいのか,というのを思い出しました.

予めいろいろ考えて厳選した一部の種を植える,というやり方が最も効率的に思えます.

しかし,そうではありません.

とりあえず,あれこれの種をまぜたものを,ばーっと,適当に蒔きます.

そして,その場所その土地にあったものが生えてきたのを大事にするという考え方のほうがうまくいくのです.

生えてこなかった種は無駄ということになります.

しかし,その土地に何が適しているかということは,最初から分かるわけではないのです.

やってみて,あとから対処・対応する.

そういうフィードバックの学習システムが重要です.

「カイゼン」というのはボトムアップの学習システムだったはずですが,なぜか昨今の大学では,トップダウンの変革や資源集中が重視されます.

シビアな国際競争の中での意思決定の迅速化ということのようです。

が、神ならぬ身の人間が、未来を予測して完璧な計画など立てられるのでしょうか。

一昔前のインド社会主義の計画経済みたいなことになりはしないのでしょうか。

地味にカイゼンを続けることは,あまり派手ではありませんし耳目を引くものでもありません.

また,税金投入を正当化するためにも,「一所懸命やってます」「変革してます」というポーズが必要となります。

株主にアピールするため,企業があれこれ派手な変革を打つのと同じです.

しかし,長い目で見て本当に成果を生み出すのはどういう行動なのか,よくよく考える必要があります.

スポーツ選手がメダルをもたらす機械ではなく個性をもった人間であり、まさに個性をもった人間として高い目標に到達しうるのと同様、研究者が国家という会社の道具ではなく、個性をもった一人の人間であり、まさに、そのような個人として独創的な成果をもたらすということを考える必要があるでしょう。
  1. 2014/03/01(土) 00:40:29|
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