Pratibhanusarini --- 九州インド哲学ブログ2

On Indian Philosophy and Buddhist Studies

Shiiki Hall, Ito Campus, Kyushu University, Fukuoka

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  1. 2014/04/26(土) 22:53:26|
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第25回西日本インド学仏教学会学術大会(九州大学)

第25回西日本インド学仏教学会学術大会
日時 2014年7月26日(土)13:00-
会場 九州大学文学部

懇親会・宿泊 浜幸屋
〒811-0325福岡県福岡市東区勝馬279-1
http://www.hamakouya.com/
(ホテルの送迎バスにて九大会場から移動)
  1. 2014/04/21(月) 19:05:32|
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訂正

注釈者の解釈に従う護山さんの訳通りに,次のような入れ替わりを想定したほうがよさそうです.

[Q] nanu jñeyānityatayā jñānam anityam iti kutaḥ?

[A]
a. jñeyarūpe vyāpāro vā pramāṇatvaṃ,
b. jñeyarūpād utpattiḥ,
c. tatsvabhāvatā
veti na pakṣāntarasambhavaḥ.

atra

1. vyāpṛtasyāvyāpṛtasya vā yadi na viśeṣaḥ, kathaṃ vyāpāretaravivekaḥ?

2. [Q] atha darpaṇasthānīyaṃ tat. yo ya evārthaḥ sannihitaḥ sa sa eva pratibhātīti cet.

3. [A] artha eva tarhi svasāmagrītas tathā bhavati, na jñātur vyāpāraḥ.

4.[Q] atha niścalonmiṣitalocano 'pi samāpatato 'rthān krameṇa paśyati. na kadācid aparāparavilakṣaṇavyāpārarūpatā paropalakṣyate, tathā tasyāpi.

5. [A] atrocyate---

vyāpāraś cakṣuṣas tatrāpy anvayavyatirekataḥ/
nānvayavyatirekitvaṃ sthāṇor nityasya vidyate//226//

6. tasmād artha evāyam evambhūtaḥ, nāsya grahaṇe vyāpāraḥ kaścid iti kathaṃ pramāṇam?

まずここで定説側は三つのpramanatvaの可能性を示していますが,反論者側に帰せられるのは,注釈者がいうように,aだけのようです.つまり,対象への働きかけを認識手段性と解釈しています.後の二つは,ここでは関係なし.

常住な認識は鏡のように,変化することなく,近くに在るものを映しだします.

対象←(働き)---常住な認識
対象←(映す)---変化しない鏡

しかし,ここで,「現れる」というのは,対象側の働きであって,主体側の働きではありません.

対象が現れてくるのです.

そのことを述べて「対象だけが自らの原因総体からそのようなものとなるのであって,認識主体の働きではない」とあります.

神が「見ている」のではなくて,単に,対象が現れてきているだけだ,ということです.

これにたいして,反論者が,主体側の働きの変化がなくとも,継起的に対象を次々と見る事例が挙げられます.

これにたいして定説が,anvayaとvyatirekaで答えるという構造です.

内容理解に関しては,護山 2010が日本語で読めます.

「プラジュニャーカラグプタによる主宰神の全知者批判」
人文科学論集,人間情報学科編 44:21-36 (2010)
信州大学

http://hdl.handle.net/10091/10040
  1. 2014/04/20(日) 09:14:17|
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神が述べようとする対象はいかなるものか?

発話に至るプロセスというのは,我々人間の場合,知覚してすぐに発話するという単純なものではありません.

それだと「見たままを垂れ流す人」になってしまいます.

実際には,間に,発話欲求(vivakṣā)というものが介在します.

知覚⇒発話欲求⇒発話

彼は全てを見て,そして,親切にも慈悲に基づいて全てを説こうとして,そして実際に全てを説くのです.

こういう図式をもってすれば,彼の発話は,知覚した全てを報告していると言えるのではないでしょうか?

しかし,発話欲求なるものが,常住な神にありうるのか,非常に問題です.

vivakṣāniyamo nāma na nityasyopapattimān//233cd//
発話欲求による制限というのは,常住なものにはありえない.(発話欲求によって常住な神が制約されることはありえない.)

なぜ,発話欲求によって常住な神が制限されることはありえないのでしょうか?

知覚 ⇒ 欲求
 |    |
神  =  神

知覚する神と欲求する神が同一なら問題ありません.

しかし,知覚と欲求というのは別々のものです.

知覚する神と,欲求する神は別物になるはずです.

神は変化していることになります.

つまり,無常になってしまいます.

変化するはずのない神が,知覚してから欲求するなどということが,どうしてあるでしょうか.

そのような変化する神は,もはや,信頼すべき認識手段たりえません.

vivakṣās tāḥ pṛthagbhūtā darśanāni tathā pṛthak/
kenaikatā bhavad draṣṭuḥ, pramāṇaṃ sa ca vaḥ kathaṃ//234//
その諸発話欲求は別々にあり,同様に知覚も別々にある.(=発話欲求と知覚とは別々のものである.)
どうして知覚者が一者であろうか?そして,あなたにとって,そのような者がどうして認識手段であろうか?

しかし,これに対してニヤーヤ側は,知覚するのも発話欲求するのも同じ神であって,知覚された全てを捉える神も,発話欲求された全てを捉える神も同じ神だから問題ない,と答えるかもしれません.

vivakṣitasya dṛśyasya sa eva grāhako yadi/235ab
発話欲求されたものと知覚されるものを捉えるのは,同じ彼だ,ともし言うならば.

しかし,発話欲求を持つ者と,発話欲求を持たない知覚者が同一などと,どうして言えるのでしょうか?

対象が別である以上,知覚と発話欲求とは別物です.

したがって,知覚者と発話欲求者とは別物です.

vivakṣitetaratvasya katham ekata udgrahaḥ//235cd//
発話欲求されたものであることと,そうでないものであること(=知覚されたものであること)とが,どうして,同一と把握されようか?

知覚対象≠ 発話欲求対象
 ↑      ↑
知覚  ≠  発話


もしも,知覚対象と発話欲求対象が違うにもかかわらず,知覚と発話は別ではない同じだ,と主張するならば,明瞭に現れる知覚対象と不明瞭にぼんやりと現れる推論対象とをそれぞれ扱う知覚と推論も同一ということになってしまいます.

pratyakṣānumayor evam ekatā kena nocyate/
知覚と推論とが同様に一つだと,どうして,言われないことがあろうか.

これにたいして反論者側は,知覚と推論も,究極的には同一だと言うかもしれません.

同じ対象に対する二つのアプローチですが,そのアプローチの区別は世俗的なものであって,勝義的には同じだというのです.

paramārthata ekatvaṃ tayor api mataṃ yadi//236//
勝義的には,その両者(知覚と推論)も同一と認められるともし言うならば,

もしそうであるならば,発話欲求されたものと,知覚されたものも,その両者がたとえ同時にあるにせよ,継起的にあるにせよ,いずれにしても,同一ということになるでしょう.

krameṇa yugapad vāpi na bhedo sti tayor api/237ab
(もしそうならば)順序をもっても,同時でも,いずれにしても,両者にも区別はない[ということになる].

まず,継起的に,知覚されたものと発話欲求されたものがある場合を考えてみましょう.

はたして,両者は,同一と言えるのでしょうか?

言えません.普通に考えて,知覚されたものがT1時にあって,次に,発話欲求されたものがT2時にあるとき,その両者は別物だと言われるでしょう.

krameṇaivekarūpatvaṃ na pramāṇena pratīyate//237cd//
継起的な場合に同一であるということは,正しい認識手段によっては,理解されることがない.

では,同時にある場合は,どうでしょうか?

すなわち,知覚されたものと発話欲求されたものとが同時にある場合です.

その場合,知覚主体と発話欲求主体とは異なります.

知覚対象 ? 発話欲求対象
 ↑        ↑
知覚主体 ≠ 発話欲求主体


主体が異なる以上,その対象となる両者も異なるはずです.

知覚対象と発話欲求対象が異なる以上,発話対象は全てではありえず,神の教示は無駄となります.

tenānyena ca yad vastu jñātraikatvena mīyate/238ab
tad ekam iti kiṃ satyam, asatyatve vṛthā vacaḥ // 238 //
認識主体Aと,それとは別の認識主体Bによって,実在が一つと認識される場合,その実在が一つであるというのがどうして本当であろうか.本当でないならば,[神の]発言は[全てを捉えていない以上]虚ろなものである.

  1. 2014/04/19(土) 20:39:36|
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神の教えは神が知覚した内容に基づくのか?

神は全知です.

神の認識(それは知覚認識でしょう)は,全てを捉えています.

全て
 ↑
知覚

そして,この知覚に基づいて神は教えを説きます.

合わせると,全てを知覚した後に,それに基づいて,全てを説くということになります.

全て=全て
↑   ↑
知覚⇒教示

しかし,このような図式は本当に正しいのでしょうか?

もし,知覚の直後に,それに基づいて教示があるならば,神の言葉は,神が見た所の全てを説いていることになるでしょう.

見たものを,その知覚に基づいて間髪おかずに,機械的に,神が報告しているならばです.

sarvārthadarśanāyātaḥ śabdaḥ sarvasya vācakaḥ/233ab
全対象の知覚に由来するならば,その言葉は全ての表示者である.

しかし,対象Xの発言は,必ず,対象Xの知覚の直後にあって,それに由来する,という法則は成り立っているのでしょうか?

そのような法則は成り立っていませんし,理解されていません.

tadanantarabhāvitvaṃ niyataṃ cen na gamyate//232cd//
[発言が]それ(知覚)の直後にあることが,必然的なものとして,知られていないならば.

私の発言は,適当に言ってる可能性がありますし,必ずしも,直前の知覚に基づいているわけではありません.

発言を引き起こしている原因は,いろいろ考えられます.

したがって,神が全知だからといって,神の発言の対象までもが同じく全てだとは言えないのです.

sarvārthadarśane tasya vacaso 'rthaḥ ka ucyate/232ab
彼が全ての対象を知覚する場合,彼の発言の対象は何だと言われるのか?




プラジュニャーカラの議論は少し入り組んでいますが,次のようになっていると思われます.

232ab: 神が全知の場合,彼の発言の対象は同じく全てと言えるのか?
232cd: 言えない.なぜならば,発言が必ず知覚に基づくという法則は理解されていないので.
233ab: もしそのような法則があれば,すなわち,発言が知覚由来ならば,発言の対象も全てだと言えるだろうが.

  1. 2014/04/19(土) 19:35:33|
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神は過去のものを認識するのか?

神の心には,過去や未来の対象が現れてくるのでしょうか?

しかし,神は常住です.

そして,全知全能です.

神は直接に対象を見ます.

すると,我々が目の前の壺を見るように,神は過去の事物を見ることができると考えられます.

すると,神にとって,2000年前のものでも,1万年前のものでも,「いまそこにあるもの」としてのみ見えるはずです.

つまり,神の認識において,過去のものや未来のものはないことになります.

神の心には,ものは,つねに,いま現在のものとして現れてきます.

これにたいしてニヤーヤは,答えます.

いやいや,神は過去のものを「過去のもの」として認識する(229c:atītatvena vijñānam).

現在のものを「現在のもの」として認識する.

未来のものを「未来のもの」として認識する.

それゆえ,神の認識においても,三時の区別はあると.

つまり,過去のものは過去のものとして神の認識の上に現れてくる,というのです.

しかし,これはおかしいでしょう.

神に今現在認識されているならば,その対象Xは「過ぎ去ったもの」すなわち「過去のもの」ではありえません.いまそこにあるものvartamānaとなるはずです.

私の認識にXが現れてきているならば,そのXは,今現在,わたしの目の前にある「現在のもの」にほかなりません.

このことは,鏡の例からも分かります.

鏡に過去のものが映るでしょうか?

鏡に映るのは現在のものだけです.

鏡が現に今存在する時にのみ,そのような現れが可能となります.

鏡が現に今存在しない時には,そのような現れはありえません.

つまり,鏡が今現在あるのと同様,そこに映っている対象も,今現在あるものでしかありえません.

この鏡の例からも分かるように,鏡のような神の心に映るのは,現在のものだけです.

過去のものや未来のものが映ることはあり得ません.

なぜならば,いま現れてきている以上,それは,現在のものだからです.

これにたいしてニヤーヤは,鏡と違って神の心は常住だから,過去・現在・未来と三時にわたってあるので,それに対応して過去のものの現れ,現在のものの現れ,未来のものの現れ,という区分が考えられると言うかもしれません.

現在の対象A-----現在の鏡a

過去の対象A-----認識a
現在の対象B-----認識b
未来の対象C-----認識c

しかし,常住な神の認識には「(何かが)現れる」という結果がありえないことは既に述べたとおりです.

神が認識する,だけでなく,虚空が認識する,と言ってもいいことになるからです.

atītānāgato yo 'rthaḥ sa kathaṃ pratibhāsate/
*atītatvena vijñānam ity atītaṃ kathaṃ bhavet//229//
na ca darpaṇasaṃkrāntir atītādeḥ kathaṃcana/
pratibhāsas tathābhūto darpaṇe sati sambhavī//230//
pratibhāso na nityasya kāryam ity uditaṃ puraḥ/
ākāśāder api prāptaṃ tadarthagrahaṇaṃ na kim//231// (Moriyama 2014:108)

I prefer "atītatvena", as Moriyama accepts, to "atītatve na". See Moriyama 2014:192, n.19.
  1. 2014/04/19(土) 12:45:01|
  2. 未分類

虚空は教示しないのか?

対象を神が認識する時,対象と神との関係は動的なものでも,静的なものでもありえませんでした.

対象にたいする働きかけや,対象に資する・役立つという働きを,常住なものは持ち得ないのです.

対象←(資する)---神

しかし,ニヤーヤは次のように答えます.

行為であれば,確かに,常住な主体は持ち得ないかもしれません.

しかし,見るという作用は,もっと静的なもので,常住な主体も持ちえるのではないか,と.

つまり,対象に資するというのは,単に,対象を眺める,という意味で,そこに,積極的な対象への働きかけがあるわけではありません.

「見る」というのは,きわめて静的な対象との関わり方だというのです.

彼がいる時,そこに,見るという静的な関係が成立する.

ここに,否定的随伴は必要ありません.

鏡があるとき,そこに,「鏡に写される」という静的な関係が成立するのと同じように,彼がそこにいれば,「彼が見る」という静的な関係が成立するのです.

以上に対して,仏教側は答えます.

そうだとすると,常住な神だけでなく,虚空についても「虚空が見る」ということが言えることになってしまいます.

神があるときにと同様,虚空があるときに,認識するという行為が成立しているからです.

否定的随伴がない以上,どっちが原因となっているのかが分かりません.

神---->認識
虚空---->認識

神がいるから認識が成立しているのか,虚空があるから認識が成立しているのか,いったいどっちなのか.

これにたいしてニヤーヤは答えます.

神が認識者であって,虚空ではない.

なぜならば,神が教示するからであって,虚空は教示しないからである.

これに仏教は答えます.

しかし,神が教示したとどうして分かるのかと.

というのも,いま,

原因  結果
神 ⇒ 教示

という因果関係がありますが,この因果関係というのは,肯定的随伴・否定的随伴に基づいてわかることです.


しかし,神がいない状況というのは考えられません.常住だからです.


したがって,原因は,神でも虚空でも,どっちでもいいことになります.どっちか分かりません.いずれも肯定的随伴を満たしているからです.

原因  結果
神 ⇒ 教示
虚空⇒ 教示


[Q] atha tena darśanād upayogaḥ.
[A] nanu tad evedaṃ paricoditaṃ "kathaṃ tena?" iti.
[Q] tasmin sati tathābhūtam [darśanam] iti "tena" ity ucyate.
[A] ākāśādiṣv api [satsu] tad [darśanam] iti kathaṃ sa eva draṣṭā?
[Q] ākāśasya tadarthanirdeśābhāvāt sa eva draṣṭā, nākāśādiḥ.

[A]
“nirdeśo vacanaṃ tasmād” etad eva kuto matam/
sarvathāvyatireke ca kāraṇatvaṃ na budhyate//228//

For the ambiguous, hidden referents,[satsu] and [darśanam], see Yamari's explanation referred to by Moriyama 2014:192, n. 16.

I would like to construe pada A as meaning: instruction-speech [arises] from Him.
  1. 2014/04/19(土) 11:23:32|
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PVA ad II 8

[Q] atha so 'rtho bhavatu *pramāṇasya, sa tu tatsambandhīti "tena jñātaḥ" ucyate.

[A] naitad upapannam. yataḥ---

sambandho 'nvayapūrveṇa vyatirekeṇa sidhyati/
nityasyāvyatirekasya kutaḥ sambandhasambhavaḥ // 227 //

na khalu nityam avyatirekam "kvacid upayogi" iti śakyaṃ vijñātum.

*pramāṇasya] emendation (based on Tibetan); pramāṇam Moriyama
  1. 2014/04/19(土) 10:58:49|
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神の認識は対象と関係し得るか?

対象Aを常住な主宰神が認識するという場合,動的な関係を想定してきました.

つまり,

1.対象Aを認識aが捉えるという働き.(A←a)

2.あるいは,対象Aから認識aが生じる.(A→a)

3.あるいは,対象Aが認識aの中に現れ出るようなものとして生じてくる,そのような本性をもつものとして生じてくる.

以上の三つです.いずれにも問題がありました.動的な関係は主体の側の変化というものを必要とします.

3の場合,A→a, ~A→~aという肯定的随伴,否定的随伴が問題となりました.

そこで,もっと静的な関係,単なる関係を考えればいいのではないでしょうか.

つまり,「認識aの対象A」という時,この「の」という属格は,単なる静的な関係を表しているのであって,動的な働きを表しているわけではないと.

対象A ----(静的関係)----認識a

このように静的な関係があるときに「認識aによって対象Aが認識された」というように言うだけであって,実際には,そこには動的な働きというのは何も含まれていないのではないか.

ニヤーヤはこのように主張します.

これにたいして仏教側の答えはつぎのようなもの.

関係というのは,肯定的随伴・否定的随伴で定まるものです.

A→a
~A→~a

いま,認識aは常住である以上,「Aがないときにaがない」ということが言えません.

すなわち,否定的随伴を持ちえません.

したがって,aについて関係を言うことはできないのです.

「この対象Aはこの認識aの対象である」と言いたくても,この認識aが常住であれば,関係を確立することはできないのです.

というのも,それを言うためには「対象Aがないとき,認識aもない」という否定的随伴がなければ,関係は確立しえないからです.
  1. 2014/04/19(土) 10:52:53|
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PVA ad II 8

[Q] nanu jñeyānityatayā jñānam anityam iti kutaḥ?

[A]
1. jñeyarūpe vyāpāro vā pramāṇatvaṃ,
2. jñeyarūpād utpattiḥ,
3. tatsvabhāvatā
veti na pakṣāntarasambhavaḥ.

atra

1. vyāpṛtasyāvyāpṛtasya vā yadi na viśeṣaḥ, kathaṃ vyāpāretaravivekaḥ?

2. [Q] atha darpaṇasthānīyaṃ tat.

[A] yo ya evārthaḥ sannihitaḥ sa sa eva pratibhātīti cet.

3. [Q] artha eva tarhi svasāmagrītas tathā bhavati, na jñātur vyāpāraḥ.

[A] atha niścalonmiṣitalocano 'pi samāpatato 'rthān krameṇa paśyati.

[Q] na kadācid aparāparavilakṣaṇavyāpārarūpatā paropalakṣyate, tathā tasyāpi.

4. [A] atrocyate---

vyāpāraś cakṣuṣas tatrāpy anvayavyatirekataḥ/
nānvayavyatirekitvaṃ sthāṇor nityasya vidyate//226//

tasmāt "artha evāyam evambhūtaḥ, nāsya grahaṇe vyāpāraḥ kaścit" iti kathaṃ pramāṇam?




After discussing this issue with Moriyama san, I agree with his understanding. Mine is wrong. The following one that Moriyama san assumes is correct.

[Q] nanu jñeyānityatayā jñānam anityam iti kutaḥ?

[A]
a. jñeyarūpe vyāpāro vā pramāṇatvaṃ,
b. jñeyarūpād utpattiḥ,
c. tatsvabhāvatā
veti na pakṣāntarasambhavaḥ.

atra

1. vyāpṛtasyāvyāpṛtasya vā yadi na viśeṣaḥ, kathaṃ vyāpāretaravivekaḥ?

2. [Q] atha darpaṇasthānīyaṃ tat. yo ya evārthaḥ sannihitaḥ sa sa eva pratibhātīti cet.

3. [A] artha eva tarhi svasāmagrītas tathā bhavati, na jñātur vyāpāraḥ.

4. [Q] atha niścalonmiṣitalocano 'pi samāpatato 'rthān krameṇa paśyati. na kadācid aparāparavilakṣaṇavyāpārarūpatā paropalakṣyate, tathā tasyāpi.

5. [A] atrocyate---

vyāpāraś cakṣuṣas tatrāpy anvayavyatirekataḥ/
nānvayavyatirekitvaṃ sthāṇor nityasya vidyate//226//

6. tasmād artha evāyam evambhūtaḥ, nāsya grahaṇe vyāpāraḥ kaścid iti kathaṃ pramāṇam?


Here only the candidate a (jneyarupe vyapara = pramanatva) is assumed as being ascribed to the opponent.
  1. 2014/04/19(土) 10:24:44|
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神は認識するのか?

人知(知覚・推論)を超えた宗教的真理は誰が説いたのか.

インドでは,主宰神(創造主),あるいは,ヴェーダ,を考えます.

いずれも常住なものです.

知覚や推論が情報を与えてくれる認識手段であるのと同様に,主宰神やヴェーダも認識手段であると考えます.

しかも,瞬間に滅する認識とは違って,主宰神やヴェーダは常住です.

しかし,常住な認識手段なるものがあるのでしょうか.

神の認識がどのようであるべきか,考えてみましょう.

神が常住である以上,その属性としてある認識も常住なはずです.

瞬間瞬間に滅するような認識,つまり,我々が通常持つような意味での認識を神が持つことは考えられません.

常住なる神の属性は常住でなければなりません.

神の認識は,不変なのです.

しかし,不変で常住な認識というものを,果して考えることが適切なのでしょうか?

そんなものはないと,ダルマキールティや,その注釈者であるプラジュニャーカラは答えます.

1.認識たるもの,そもそも,常住たりえない.

これは,分かるでしょう.ダルマキールティは,まず,ここを強調します.

次の議論は,もう少し,手が込んでます.

2.正しい認識というのは,実在と一対一に対応する認識のこと,本当に実在するものの認識のことです.

いま,仏教論理学では,実在=効果的作用を持つもの,としますので,働きを持つ以上,そのようなものは全て無常です.

常住なものは働きを持ち得ないからです.

対象が無常である以上,それを捉える認識も無常なはずです.

常住な認識はありえません.

このようにダルマキールティは,PV II 8で説きます.

これにたいしてニヤーヤ学者は次のように反論します.

いやいや,神が持つ認識というのは,鏡みたいなものだ,と.

鏡というのは不変です.

対象によって変化するわけではありません.

不動不変でありながら,対象を写しだします.

つまり,主体の側が変化せずとも,対象を写しだすことは可能です.

鏡のような神の認識.

メタファー構造は次のようになります.

鏡        神の認識
対象を写しだす  対象を写しだす
不変       不変

しかし,神の認識の中に対象が現れ出すという時,主体の側に何らかの変化が起こっているのではないでしょうか?

これにたいして,ニヤーヤ側は答えます.

いや,現れ出すというのは,あくまでも客体の側の働きであって,主体の側の働きではない,と.

これにたいして仏教は批判します.

いろいろな対象を見る時,主体の側に変化があります.

Aを見て,その後Bを見ます.Bを見て,その後,Cを見ます.

このように,A,B,Cを順番に見ます.

一気に見るわけではありません.

常住な認識ならば,順序をもって見るのではなく,一気に見るはずです.

しかし,認識たるもの,順序をもって見るのが普通だと考えられます.

これにニヤーヤは答えます.

Aを見る時の働き,Bを見る時の働き,Cを見る時の働きといった,違う働きが認識内部にあるわけではない,と.

そのようなことは,我々は現に経験しません.

認識は認識として同じです.

同じように,主宰神の認識というのも,不動・不変と考えらます.

これに仏教は答えます.

対象Aがあるとき,知覚aが生じる.

対象Aがないとき,知覚aもない.

このように,知覚aが持つ対象Aへの働きというのは,肯定的随伴・否定的随伴によって定まります.

知覚が持つ働きというのは,肯定的随伴・否定的随伴に基づくものです.

しかし,不動・不変の認識というのは,肯定的随伴・否定的随伴を持ちえません.

対象Aがあるとき,神の認識aが生じる

対象Aがないとき,神の認識aもない.


ということは言えません.

対象Aがあろうがなかろうが,神の認識aはあるからです.

つまり,シヴァ神の認識は,肯定的随伴・否定的随伴を持たない以上,対象に対しての「働き」なるものを持ち得ないのです.

それゆえ,「主体の側が変化するのではなく,対象だけが,鏡の中に現れるように,神の認識の中に,現れてくるのだ.神の認識それ自体には,変動的な何らの働きもないのだ」というニヤーヤの主張は崩れることになります.

主体の側が変化せずに諸対象を捉えることなど不可能なのです.




上の議論を整理し直してみましょう.

1.認識する=主体が客体に働きかける.

このように認識を捉えた場合,神には働きがあったりなかったりという変化があることになってしまいます.

2.認識する=対象に基づいて認識が生じてくる

対象Aがあるときに,認識aが生じてくることになります.これも困ります.

これにたいしてニヤーヤは,認識する=対象が不動な鏡みたいな認識の中に現れてくること,と考え,主体の側の変化を否定していました.すなわち,

3.認識する(=認識される)=対象が現れ出すという本性を持って生じてくる

この場合,複数の対象が順番に現れ出してくるという主体の側の違いが問題となりますが,ニヤーヤは,認識内部に何らの変化もないと否定します.

これにたいして仏教側は,

4.認識する=対象が有る時,認識が生じる,対象が無い時,認識がない

というように定義して,常住なものが認識することがありえないことを指摘します.



訂正:

護山さんと意見交換した結果,やはり,彼の意見(Moriyama訳)のほうが正しいでしょう.

議論の入れ替わりについては,訂正版を参照.
  1. 2014/04/19(土) 08:00:05|
  2. 未分類

「牛はガバヤに似ている」と「ガバヤは牛に似ている」の違い

BotanicalGardenFukuokaCity


TSPを読んでいると,upamanaの定義と例に,カマラシーラが言及.

ここは,「ガバヤは牛みたいだ」と「牛はガバヤみたいだ」がミーマーンサーにおいて区別される,ということを知らないと,たぶん,合点がいかないでしょう.

詳しくは拙稿1999に論じています.http://www2.lit.kyushu-u.ac.jp/~kkataoka/Kataoka/Kataoka_1999b.pdf

要するにこういうことです.

まず,upamanaの状況とは以下のようなもの.

1.街の人Aが森の人Bから「ガバヤは牛に似ている」と聞く.これは証言知.

2.街の人が森に行って,牛に似たものを目撃する.これは直接知覚.「これ(ガバヤ)は牛に似ている」という内容が知覚の中身.

3.その直後にAは「(家にいるあの)牛はガバヤに似ているな~」と理解する.これがupamanaの中身.これは,証言知でもないし,知覚でもない.upamana独自の内容である.

以上です.

ここでは,牛とガバヤの類似性といっても,双方向的に考えられているのではなく,方向が区別されます.

それは,ミーマーンサー特有の文の分析があるからです.

既知情報と未知情報を区別します.

「ガバヤは」という時,ガバヤが既知,「牛に似ている」というのが新規情報.

これが証言の内容.

いっぽう,「(あの)牛は」という時,牛が既知,「(この)ガバヤに似ている」というのが新規情報.

この新規情報は,知覚内容とも異なり,また,証言内容とも異なります.

したがって,これが,upamana独自の内容と考えられるわけです.

というか,ミーマーンサーの場合,upamana独自の内容を,無理矢理に考えだした,といったほうがいいでしょう.

実は,ニヤーヤでも似たようなものです.

ニヤーヤのupamana定義も,かなり無理矢理です.

「正しい認識の手段」などと大仰ぶって「正しい認識」を追求すると,世間の柔軟な知というのは死んでしまいます.

比喩というのも,そのようなものです.

つまり,厳密に「正しい」ということを追及すると,比喩などというのは,何にでも言えますから,「正しい認識の手段」として立てることなどできなくなるのです.

プラマーナ論の中で比喩は生きていけません.

しかし,比喩は四つの認識手段のひとつ,あるいは,六つの認識手段のひとつなどとして,既に「正しいもの」として認められていたものでした.

伝統を覆すわけにはいきません.

「正しい認識の手段」として比喩を無理矢理生きながらえさせるために,比喩の中身を変更することになります.

その結果,upamanaの中身は,本来の「比喩」からは程遠いものになってしまいました.

ミーマーンサーのナンセンスにたいしてニヤーヤは,「右手は左手に似ている」と「左手は右手に似ている」が区別されるなんて,という趣旨の批判を行っています.

この批判自体は,新旧を区別するというミーマーンサーの事情を無視したもので,日常文の使い方を考慮しない批判ですが,ミーマーンサーのupamanaにおける主張を一面でよく捉えたものといえるでしょう.

「牛はガバヤに似ている」と「ガバヤは牛に似ている」は違うのです.

これが,ミーマーンサーのupamanaを理解するための肝になります.

TSPの説明を理解するには,このような事情を知らないと,およそ,理解不可能でしょう.

HelaAjiya23409HelaAjiya509834234


インド哲学へのアプローチにも,いろいろな取り組み方があるでしょう.

哲学,論理,思想などなど.

しかし,彼らが「哲学的・論理的に正しい事を言っている」という視点だけでは見逃す物は大きすぎます.

彼らは哲学的にナンセンスなことも述べます.

そこには,色々な事情が背景にあります.

その背景を解きほぐしていくこと,彼らの事情がいかなるものかを理解することは,文献を正しく理解するために欠かせません.

思想史研究というのは,そのようにして進んでいきます.

「(読み手である自分の思う)正しいこと」は,まずは措いておいて,ひとまず文献の著者に寄り添って,彼らの事情を理解するのに努めること,これが最初にあるべき作業です.

「哲学的に有意義なものをインド哲学から取りだす」という,意気に燃えた(そして少し青臭い)視点から,インド哲学文献を読む時,その「ざる」は,目が荒くて,多くをすくい上げないままに終わる可能性があります.

そして,現代の我々が気が付いてない(でも大事な)ことの多くは,むしろ,ざるが取りこぼした方にあるでしょう.

記号論理学でインド哲学文献を分析しようという試みも,インド論理学においては,一時,流行りました.

しかし,それほど成功しなかったようです.

記号論理のざるでは,すくいあげられないものが多くあるということでしょう.

同様のことは宗教文献にもあてはまります.

「宗教的真理(だけ)をインド哲学・インド仏教文献から取り出そう」という視点は,狭すぎます.

きっとその人は,自分が信じる宗教的真理を,膨大な文献のどこかに見出すことでしょう.

しかし,同時に,当時の多くの事情を見逃すことでしょう.

その中には,自分の知らないもっと大事なことが隠れているはずです.

七面倒くさい文献学・思想史研究がなぜ重要なのか,さっさと真理だけに迫ればいいではないか,という思いが起こるのは仕方ありません.

しかし,そのような態度を取らせているものは,私には,真理への情熱よりも一種の怠けのように思われます.

OkanoCurry098432343
  1. 2014/04/18(金) 07:49:48|
  2. 未分類

ダルモッタラにおける所取形象の位置づけ

「ウシ」という音を聞いた時に我々は何を認識しているのでしょうか?

言い換えるならば,「牛」という語の意味(対象)は何でしょうか?

具体的な牛という外界対象が目の前に存在せずとも,我々は,頭の中に牛を思い浮かべることができます.

そうすると,頭の中に浮かぶ牛のイメージが,「牛」という語が直接に指すものだと考えることができます.

ダルマキールティや彼に近い注釈者であるシャーキャブッディは,認識内のイメージ(ただしそれは本質的には錯誤している)を語の対象だと考えました.

分別知の対象は,認識内のイメージなのです.

牛を直接知覚すると,言葉にできない独自相が把握されます.

その時,実際に起こっているのは,外界対象が認識内に形象を投げ込む,ということです.

認識過程も,仏教では,因果関係で捉えます.

しかし,知覚の直後に生じる「これは牛だ」という判断は,そのように,外界対象からダイレクトに(間違いなく自動的に)引き起こされるようなものではありません.

知覚判断と呼ばれる思い込み・分別知には,認識者側の主体的・能動的な働きである潜在印象(過去に蓄積した習慣の力)の働きが加わっています.

したがって,それは,うまく目的を達してはくれますが,本質的に正しいものではなく,錯誤したものなのです.

この,潜在印象の働きが多分に加わった分別知の対象を,ダルマキールティやシャーキャブッディは,認識内に浮かんだイメージだと考えるわけです.

しかし,そのイメージは,間接的には外界対象とつながっています.

したがって,期待を裏切ることなく目的を達成してくれることになります.

つまり,外界との間接的なつながりがあるので,知覚の直後に生じるその「牛だ」という分別知にしたがって,牛に近づいて,乳を搾ることができるのです.


また,「牛だ」という判断が生じる時,我々は,この対象を,認識内の形象だとは思っていません.

外界対象そのものだと思い込んでいます.

すなわち,認識内形象を外界対象だと思い込んでいるのです.

認識内形象に外界対象性を載っけている(付託している)わけです.


外界対象性
  |
認識内形象


認識内形象と外界対象を「ひとつにしてしまっている」「一緒くたしてしまっている」わけです.

シャーキャブッディにとって,ダルマキールティが言うところの「思い込み」「判断」「ひとつにする」という作用は,このように,「XにYを付託する(載せる)」という付託作用に他なりません.

しかし,分別知の対象は,シャーキャブッディが考えたように,認識内のイメージだと考えていいのでしょうか?




これに不満だったのがダルモッタラです.

唯識の三性説で考え直してみましょう.

うえのシャーキャブッディの見解では,認識内のイメージは,「他によって引き起こされたもの」として,世俗レヴェルでの実在性を保証されます.

すなわち,依他起paratantraなわけです.

つまり,円成実parinispannaのように勝義的に真実ではないにせよ,因果関係の上にあるものとして,世俗レヴェルでの真実性を付与されるものです.

しかし,分別知の形象は,本当に,世俗レヴェルであるもの,因果関係上に生じてくるものと言えるのでしょうか?

つまり,認識の中に確固として実在するのでしょうか?

分別知の対象というのは,もっとあやふやな,ふわふわしたものでないのか?

これが,ダルモッタラの疑問でした.

つまり,分別知の対象は,ダルモッタラにとっては,妄想されたもの・遍計所執parikalpitaでしかありえません.

それは,でっちあげであり,虚構されたものであり,非真実のものです.

それは,認識内の形象として確固たる実在性を付与されるものではありえません.

彼にとっては,それは,認識の外にある外界対象でもなく,認識の中にあるイメージ(形象)でもありえません.

それは,「外でも内でもないもの」なのです.

ここに,ダルモッタラの虚構説が成立します.

すなわち,分別知の対象は,外にあるとも認識の中にあるともいえない,よく分からないけど,でもあるような虚構にすぎないのです.

ダルモッタラは,ダルマキールティ,シャーキャブッディ,シャーンタラクシタ系統の認識内形象説を批判しながら,彼自身の虚構説を打ち出します.

彼にとっては,分別知の対象は,認識内の形象であってはならなかったのです.




しかし,石田尚敬氏は,2013年の夏に発表され,そして,2014年に発刊された印仏研論文の中で次のように述べます.

ダルモーッタラが概念知に〈所取の形象〉や〈顕現〉を認めていることは前節で確認した.



驚きです.

これでは,ダルモッタラの主張と逆です.

ダルモッタラは,概念知に認識内イメージ(=所取の形象,顕現)を認めていないのです.

「認識(=内)でもない」と彼が冒頭偈で述べた時に意図していたのは,まさに,分別知の対象が認識それ自身の中にある形象(それは認識それ自体である)ではない,ということでした.

石田氏自身,論文冒頭で,冒頭偈を引用しています.

そして,石田氏自身,次のように述べています.

本詩節では,概念知によって描き出されるものが,知でもなく,外界対象でもないことが明言され,それは,非真実の〈虚構されたもの〉と述べられる.



ここでは,明白に,分別知の対象が認識内形象であることが,ダルモッタラによって否定されています.

そして,石田氏自身,そのことを繰り返しています.

にもかかわらず,石田氏は,「ダルモーッタラが概念知に〈所取の形象〉や〈顕現〉を認めている」と言います.

同じ主張を石田氏は次のように繰り返します.

ダルモーッタラが概念知に〈所取の形象〉と〈虚構されたもの〉という二つの要素を認めていることは本稿ではっきりと指摘しておきたい.



つまり,石田氏の理解によれば,ダルモッタラは,認識内形象と虚構されたものとの二つを概念知に認めていることになります.

私との見解の違いは明らかです.

石田理解:ダルモッタラは,分別知に,認識内形象と虚構されたものとの二つを認めている.

片岡理解:ダルモッタラは,分別知の対象として,認識内形象を否定し,虚構されたものを認めた.


石田氏のこの見解の根拠として,石田氏は,次のダルモッタラの文章を引いています.

石田氏の訳文のまま引用します.

(概念知の)〈所取の形象〉は,自己認識の対象であって,概念知の(対象)ではない.すなわち,確定されるもの,それが概念知の対象である.〈所取の形象〉は,確定されるものでないならば,それがどうして概念知の対象となろう.したがって,概念知は,〈語と結びつく対象〉を確定するけれども,それ自身については,概念化されないものである.(AP 237,28--238,1)



この部分を解説して,石田氏は次のように述べます.

ダルモーッタラによれば,〈所取の形象〉は,概念化されるものではなく,直接知覚の一種である自己認識の対象とされるべきものである.



石田氏がここで言う通り,ダルモッタラにとって,認識内形象は,自己認識の対象です.

つまり,認識内の形象も,認識それ自体ですから,認識が認識を捉えているので,自己認識となるわけです.

自己認識は,直接知覚の一種です.

したがって,それは,分別知ではありません.

ダルモッタラの意図するところは次のことです.

ダルマキールティ,シャーキャブッディ,シャーンタラクシタの言うように,認識内形象を分別知の対象と考えることは適切ではない.

なぜならば,認識内の形象は自己認識の対象であって,分別知の対象ではないからである.

認識内形象:自己認識の対象

虚構されたもの:分別知の対象



ダルモッタラにとって,分別知の対象となるのは,認識内形象ではなく虚構されたものです.

石田氏も,上に続けて次のように続けています.

ここで,「語と結びつく対象」と述べられているのは,〈虚構されたもの〉に他ならない.



語と結びつく対象,すなわち,語の意味となるのは,認識内形象ではなく虚構されたものだ,というのがダルモッタラの主張です.

ここまでは,ダルモッタラの原文が主張する通りであり,石田氏もそれを踏まえて説明しています.

しかし,以上から,石田氏は次のように続けて言います.(上で引用した部分)

ダルモーッタラが概念知に〈所取の形象〉と〈虚構されたもの〉という二つの要素を認めていることは本稿ではっきりと指摘しておきたい.



引用部分でダルモッタラが述べていたことは,所取の形象が分別知の対象ではなく自己認識の対象である,ということでした.

にもかかわらず,石田氏は,「ダルモーッタラが概念知に〈所取の形象〉...を認めている」と言います.

どういうことでしょうか?

ダルモッタラの原文を全く無視した解釈です.

ダルモッタラが「分別知の対象ではない」と述べている〈所取の形象〉を,石田氏は,「概念知の要素」と理解します.

なぜ,所取の形象を否定して,虚構されたものを,語意としてダルモッタラが立てるに至ったのか,という歴史的文脈からも,全く説明がつきません.

ともあれ,筆者との理解の相違は明らかです.

石田:ダルモーッタラは,概念知に,所取の形象と虚構されたものという二つの要素を認めている.

片岡:ダルモッタラは,分別知の対象として認識内形象を立てる先行説を批判した.そして,認識内形象ではなく,虚構されたもの(それは外界対象でもなく認識でもない)を,分別知の対象として立てた.



なお,石田氏は,所取の形象を,「概念知の要素」と述べ,「概念知の対象」とは述べていません.

つまり,石田氏は,「要素」という微妙な言い回しを用いています.

しかし,虚構されたものは明らかに概念知の対象です.

その意味では,ここでの「要素」は,「対象」と置き換えられます.

いっぽう,所取の形象については,

1.「要素」を「対象」に置き換えてよいのでしょうか?
2.あるいは置き換えられないのでしょうか?

1.もし概念知の対象であるならば,概念知は,虚構されたものと所取の形象という二つを対象とすることになってしまいます.

つまり,「牛」という言葉を聞いた時の語意認識には,あるいは,牛を知覚した後の知覚判断という分別知には,二つが別々に現れていることになってしまいます.

認識の中に在る客体としての所取形象と,それと別に,虚構されたものとです.

はたしてダルモッタラは,このようなことを意図していたのでしょうか?

2.逆に,置き換えられないとすると,どういうことになるのでしょうか.

概念知の対象ではないが,概念知の要素であるような所取の形象について,それが何なのか,石田氏は,より詳しく説明する必要があるでしょう.

概念知が持っている自己認識の対象として所取の形象が存在する,という意味で,石田氏が「要素」という言葉を用いていると理解してみましょう.

すると次のように整理できます.

概念知の要素1=概念知の自己認識の対象=所取の形象

概念知の要素2=概念知としての概念知の対象=虚構されたもの



しかし,ダルモッタラが語意論・分別知論において問題としているのは,概念知が概念知として機能するときの対象であって,概念知が自己認識として機能するときの対象ではありません.

石田氏は「要素」という微妙な言い方によって,概念知に二つの「要素」を認めたうえで,ダルモッタラが概念知の「要素」として所取の形象を認めていると言いたいことになります.

そして,これが石田氏独自の理解,ということになります.

しかし,これは,ダルモッタラの原文が意図するところとは全く異なります.

石田氏独自の理解は,ダルモッタラの原文に照らして間違いだと言わざるを得ません.

石田氏の見解によれば,いったい,ダルモッタラは,先行説の何を否定したかったことになるのでしょうか?

また,石田氏の見解のようにダルモッタラが所取の形象を概念知の要素として認めているならば,ダルモッタラの説は,先行説とどのように違うのでしょうか?(ダルモッタラの意図は,既に説明したように,認識内形象説が主張するような認識内の形象という所取形象は,自己認識の対象であって,概念知の対象ではありえない,ということでした.)

2のケースにしたがった場合の石田氏の理解によれば,牛を知覚した直後に生じる知覚判断の中に,認識内形象として概念知の自己認識の対象としての所取形象(牛のイメージ1)がまずあり,それとは別に,概念知としての概念知の対象として虚構されたもの(牛のイメージ2)がある,ということになります.

このようなナンセンスをダルモッタラがはたして意図していたのでしょうか?

しかし,石田氏は,どうも,このような理解を前提にしているようです.そして,論文の後半で,この二つの要素の関係についてダルモッタラが考えるところ(ダルモッタラによるadhyavasayaの解釈)を論じています.(この後半の問題については別の機会に論じます.)

また,ジャヤンタによるダルモッタラ理解について,石田氏は,どのように説明するのでしょうか?

ジャヤンタは,認識内形象説に対峙するものとして,それを批判するものとして,ダルモッタラの虚構説を提示しています.

このジャヤンタによるダルモッタラ理解を,石田説は,どのように説明するのでしょうか?

石田氏による独自のダルモッタラ理解は,原文理解,思想史理解,思想理解において,多くの問題を孕んだままです.

石田尚敬
「ダルモーッタラによる分別知の考察」
印度学仏教学研究62-2, 2014/3, 988(77)--984(81)

なお,石田氏は,2013年の12月のインド思想史学会でも関連する発表をなされています.

それについての筆者のコメントは以下にあります.

http://kaula.blog110.fc2.com/blog-entry-1475.html

スパイスロード 003
  1. 2014/04/10(木) 08:04:42|
  2. 未分類

received: Shinya Moriyama, Omniscience and Religious Authority

Moriyama2014

Shinya Moriyama
Omniscience and Religious Authority
A Study on Prajnakaragupta's Pramanavarttikalankarabhasya
ad Pramanavarttika II 8--10 and 29--33.
Leipziger Studien zu Kultur und Geschichte Sued- und Zentralasiens
Band 4
Zuerich: Lit Verlag GmbH & Co. KG Wien
2014


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護山さんの博論が出版されました.

2002年の夏に私がウィーン大学を訪れた時,彼はまだ博論執筆中.

インスティチュートには,京大から志賀君も留学中でした.

同じくブドロギー・チベトロギーには,ケルナーさんもいて,インドロギーのほうには室屋さん.

賑やかでした.

みなで連れだって一緒に近くのカレー屋さんに行ったのを覚えています.



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  1. 2014/04/09(水) 19:59:08|
  2. 未分類

mimaṅkṣavaḥ

mimaṅkṣavaḥという語を恐らく初めて目にしました.

「(水に)浸かろうと欲する人達」です.

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  1. 2014/04/08(火) 18:56:36|
  2. 未分類

貝葉鬱

Bayou Blues といえば,南部ザディコの大物,クリフトン・シェニエの名アルバム.

明るくご機嫌です.

いっぽう貝葉写本は,調子よく行ったかと思うと,見事に鬱にしてくれることがあります.

南インドの写本は,ヤシの葉っぱをなめした貝葉(ばいよう)写本.

いま扱っているのは,ケーララ州のマラヤラム文字の写本.

北インドのデーヴァナーガリー文字の写本は,古くは貝葉ですが,最近のものは多くが紙写本です.

文字もそれなりに大きくて扱いやすいものです.

いっぽう,南インドの写本は,最近まで貝葉で,とにかく文字が小さい.

見るのに疲れます.

パソコン画面で大きくしてから見る必要があります.

高価なノートに,貧乏学生がぎっしり詰めて書くのと同じで,貝葉も,決して安い素材ではありませんから,ぎっしりと詰めて書いてあります.

葉っぱの大きさに限定されますから,紙みたいに,人間に合わせた大きさではありません.

久々に見るマラヤラム文字にも慣れてきて,調子よく校訂作業を進めていると,途中から,なんと断簡.

左半分だけが残っていて,写本の右半分がどこかにいってしまっています.

これをいちいち記録するのは,かなり面倒な作業です.

幸い,詩節なので,記録はまだ簡単です.(第9詩節のaパーダの3音節目から,第12詩節のbパーダの4音節目までが欠落,などど書きます.)

散文だったら,えらく面倒な作業になるところでした.

ともあれ,左半分だけを解読.

記録します.

さらに,読み進めていくと,左の断簡と,右の断簡が分かれていて,別々に撮影してあるものがありました.

この場合,左と右とをつなげて読むと,綺麗に繋がります.

写本は,表も裏も,両面で有効活用してありますから,当然,この作業は,表裏の二回くりかえすことになります.

左の断簡を見てから,写真を切り替えて,次に右の断簡.

さらに裏についても同様の作業.

いやはや,面倒な作業です.

ただでさえ南インド文字の写本は時間がかかりますが,このような断簡状態になると,ますます時間を取られます.

fragments3405983456234

二か所に穴があいているのは,紐を通すための穴です.

Love & Piece
  1. 2014/04/08(火) 18:35:40|
  2. 未分類

チキンカリー at Garam, Fukuoka

GaramaFukuokaCurry1
久々のガラム.



KyudaiCampus3450982342
九大箱崎キャンパス
KyudaiCampus324923
見ると留学生達が楽しげにバーベキュー中.


FukuokaCastleRuin5340985234
舞鶴公園福岡城跡.
  1. 2014/04/08(火) 08:00:32|
  2. 未分類

articles uploaded

片岡啓(Kei KATAOKA) 2014b
ジャヤンタの普遍論――Nyayamanjari和訳――,『哲学年報』(九州大学文学部)73, 37--93.

Kei KATAOKA 2014a
Sucaritamisra's Critique of Apoha: A Critical Edition of Kasika ad Slokavarttika apoha v.1. 『東洋文化研究所紀要』(The Memoirs of Institute for Advanced Studies on Asia), 165, 362(1)--289(74).

片岡啓(Kei KATAOKA) 2013e
牛の認識は何に基づくのか?――ディグナーガのアポーハ論――,『印度学仏教学研究』62-1, 448(81)--441(88).

Kei KATAOKA 2013d
Transmission of Scripture: Exegetical Problems for Kumarila and Dharmakirti. In: Vincent Eltschinger, Helmut Krasser (eds.), Scriptural Authority, Reason and Action. Proceedings of a Panel at the 14th World Sanskrit Conference, Kyoto September 1st-5th, 2009. Wien 2013, pp. 239-269.


See the following list:
http://www.k4.dion.ne.jp/~sanskrit/WorksJ.html

  1. 2014/04/03(木) 07:15:09|
  2. 未分類

ヘルムート・クラッサー(1956-2014)

Helmut2002.jpgHelmut2005-1.jpgHelmut2005-2.jpgHelmut2005-3.jpgHelmut2012.jpgHelmut2012-1.jpg
  1. 2014/04/02(水) 18:57:10|
  2. 未分類

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