Pratibhanusarini --- 九州インド哲学ブログ2

On Indian Philosophy and Buddhist Studies

Mahodara at Base Camp

カレー会 016

進学生のための新歓atマイティーガルに始まり,印哲BBQ,そして,ベースキャンプでカレー会と,5月はリア充な印哲.

余り気にせず「中辛」を注文した院生は味覚麻痺と大量発汗に陥ってました.(わたしは「ちょい辛」)

ゲストに比較宗教の5年生も入れて楽しいカレー会でした.

同じ並びのサーガルは,先日,知人が7時前に行った所,「満席」で入れなかったとのこと.

そんなこともあるんですねー.

夏ということでしょうか.

すぐ近くにエベレストキッチン(旧ポカラキッチン)もあるので,大名・赤坂は,カレーに困ることはありません.




以下は高砂のスパロ,日パ友好カレー.

spr324094823
spr534095823

なぜか最近はインディカ米.

Kyoto 009
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  1. 2014/05/30(金) 08:07:41|
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ūrdhvatākākanilayavat

Kakanilaya

ソームデーヴ・ヴァースデーヴァ博士の部屋の前の木にカラスが巣をつくってました.

暗闇で直立のものを見ると,「人だろうか,杭棒だろうか」という疑惑が生じます.

しかし,その上に鳥の巣があるのを見れば,「これは人ではなく杭棒に違いない」という確定知が生じます.

同じように,「蓮」と「青い」も,二つの語を用いることで,一般から特殊への特化を見せます.

「蓮」と言われただけでは,青いのかそうでないのか分かりませんが,「青い」と付け加えることで,「青い蓮」と特定化されます.

しかし,人の頭の高さの杭棒にカラスが巣を作ることは,この高い木の巣を見ても分かるように,普通,ないでしょう.

ディグナーガの喩例「直立性とカラスの巣のように」は,現実性の点で,問題があります.
  1. 2014/05/29(木) 08:00:04|
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Before and After Mr. Ishigaki's Wedding Party

東京石垣結婚式 018




IshigakiRyoParty20140517.jpg

IshigakiRyo4.jpg

IshigakiRyoParty2.jpg




東京石垣結婚式 027
東京石垣結婚式 034
  1. 2014/05/19(月) 18:21:44|
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nañchedaḥ kartavyo na vā

室屋安孝
『ニヤーヤ・スートラ・タートパルヤ・ディーピカー』について
印仏研 62-1, 2013
pp. 288(241)-282(247)

いつもながら,完璧な職人仕事の論文で,いろいろと有益な情報満載です.

ajñātārthaprakāśa感,炸裂です.

気になったのは一点だけ.

p. 286
anyathā *dūṣaṇasyāśrayasyānir*deśe na tasyāvayavasyedaṃ dūṣaṇam iti saṃśayaprasaṅgāt.

*dūṣaṇasyāśraya-] Mss. ORIML, GOML; dūṣaṇāśraya ed.
*-deśe na] em., Ms. ORIML; deśena ed., Ms. GOML.



この二番目の訂正です.

エディションと室屋さん(YM)を比べると次の違い.(1番目については今は気にしないことにします.)

Ed: anyathā dūṣaṇāśrayasyānirdeśena tasyāvayavasyedaṃ dūṣaṇam iti saṃśayaprasaṅgāt.
YM: anyathā dūṣaṇasyāśrayasyānirdeśe na tasyāvayavasyedaṃ dūṣaṇam iti saṃśayaprasaṅgāt.

naを切り離すかどうか,という,部外者にはどうでもいいマイクロフィロロジー魂の訂正です.

わくわくします.

直訳すると次のような違いになるでしょうか.

1.さもないと,論難の的を示さないので,「あの支分についてこの論難がある」という[点について]疑惑があることになってしまうから.

2.さもないと[すなわち]論難の的を示さない場合,「あの支分のこれは論難ではない」という疑問があることになってしまうから.

āśrayaといっているのは,拠り所・場所,要するに,扱っている当の対象,議論の的のことです.āspadaとも言われます.「何について」の「何」にあたるものです.

NBh 317.1--2 (VN: 52.9--10): apratyuccārayan kimāśrayaṃ parapakṣapratiṣedhaṃ kuryād iti.「再説しないと,彼は,何について,他者主張否定を,しているのか」.

というのを参考にすると,何についての論難なのかが分からないという文脈にあることが分かります.

つまり,「Aについての論難なのか,あるいは,Aについてでないのか」ということが分からない,ということです.

太郎の主張にたいして,批判者である花子が,例えばその理由について不備があるというように批判する場合,花子は,理由についての論難である旨を明らかにしてしてから,つまり,論点を明らかにしてから,批判します.

つまり,「これについては」と論点を最初に明示します.

「太郎の理由について,次の論難がある」というわけです.

太郎の主張の全部を繰り返しはしませんが,その理由については繰り返す必要があるということです.

太郎の支分について再説しない場合には,何について論難を行っているのかが,明らかでなくなってしまい,疑惑が生じるというわけです.

色々と考慮すべき点はありますが,校訂本のままの1のほうが良さそうです.

室屋さんによれば,いずれ英語版を出すとのことです.




NSやNBhは,大して細かく考えていません.

太郎の主張を花子がちゃんと受け止めて繰り返せないと負け,みたいな感じです.

NVになると,色々と議論があったようです.

花子が反論するなら,別に,綺麗にまるごと太郎の言ってることをそのまま繰り返す必要はないだろう,花子が反論する際に太郎の主張については取り上げることになるから,どのみち繰り返していることになるじゃないか,反論しているのに繰り返さないということは,そもそもありえないだろう,というような意識です.

ウッディヨータカラも相当な暇人です.

さらに,このNSTDになると,また,ダルマキールティまで考慮して,色々と凝ったことを言っています.

さらに,ヴァーチャスパティが,その上を行く,というような発展を遂げています.

一つのスートラを扱うだけで,インド哲学史上の高峰群を縦走しなければならないことになってしまいます.

このNSTDは,高峰として有名ではありませんが,興趣に富んでいるという点では,マニアックな沢登りといった感じでしょうか.

山あり谷あり,インド哲学史の研究者は大変です.
  1. 2014/05/14(水) 08:10:49|
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ヴァーチャスパティとジュニャーナシュリーの相互関係

ヴァーチャスパティの相対年代については,ダルマキールティ学会の室屋さんの論文があります.

Bhāsarvajña’s interpretation of bhāva eva nāśaḥ and a related chronological problem
Helmut Krasser, Horst Lasic, Eli Franco, Birgit Kellner (eds),
Religion and Logic in Buddhist Philosophical Analysis.
Proceedings of the Fouth International Dharmakīrti Conference, Vienna, August 23--27, 2005, Wien 2011, pp. 341--361.

その結論によれば,もう少し議論は複雑になるようです.

Muroya 2011:359:
If these two assumptions were the case, they would provide an indication of the following chronological sequence: first the NBhūṣ and the NKaṇ, then the AhVA, and finally the NVTṬ.



Vacas's NKan    Bhasarvajna's NBhus
   |
Jnanasri's AhVA
   |
Vacas's NVTT

ということです.

このように,ヴァーチャスパティとジュニャーナシュリーについては著作毎に分けて,もう少し微視的に見る必要があるようです.

室屋さんが同時に指摘するように,ジュニャーナシュリーは,AhVA (Ahetuka-vinasa-adhikara)以外では,例えば,Apohaでは,NVTTに言及しています.

すると,ヴァーチャスパティとジュニャーナシュリーは,同時代で相互に影響,著作毎に方向が違う,というような具合になるでしょう.

つまり,

Vacas's NKan
       Jnanasri's AhVA
Vacas's NVTT
       Jnanasri's Apoha

というような流れを想定しないといけません.

ともあれ,ヴァーチャスパティに関しては,ジュニャーナシュリーとほぼ同時代として,10世紀後半頃(そしてジュニャーナシュリーよりも年長)としておけば大過ないでしょう.

私としては,スチャリタをそれ以前に置きたいので,やはり,10世紀前半頃が妥当な線になるでしょう.

ほかにも色々と考慮すべき点はありますが,現状ベストの案としては,ひとまず,大体こんな感じにならざるをえないでしょう.
  1. 2014/05/13(火) 23:27:39|
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Nyayasucinibandha

MUROYA, Yasutaka
“Apropos the Nyāyasūcīnibandha: Some Historical Problems and the Manuscript Transmission of the Nyāyasūtra,” Journal of the Ganganatha Jha Kendriya Sanskrit Vidyapeetha 62 (2006), pp. 405–432.

拙稿のKataoka 2014aで,スチャリタの年代をヴァーチャスパティと絡めて論じる際に,従来の議論でのお約束とでも言うべきNyayasucinibandhaのコロフォンの年代にも言及しました.

しかし,室屋さんの上掲論文によれば,そもそも,NSNがヴァーチャスパティ作ということが,極めて疑わしいとのことです.

Muroya 2006:23: Under this assumption, inasmuch as the printed NSN regards the relevant relationship as upodghāta, strong doubt is throuwn upon the antiquity of the work, resulting from the alleged authorship of Vācaspati Miśra I.



NSNに見られる,あるスートラ群を,先行するスートラ群の「序」(upodghaata)とする解釈は,古い解釈には見られないとのこと.

古い解釈では,prasa"nga(波及的議論)とするのが普通.たとえばウダヤナ.

つまり,NSNのスートラの位置付け方は,どうも,新しいようだ,ということです.

Ke"sava Mi"sraより後の解釈.

というわけで,これまでに言われているNSNの著者問題についての疑義もあわせて考えると,やはり,現状では,ヴァーチャスパティ作ということを前提にして議論するのは,危険の様です.

したがって,我々は,コロフォンの年代に縛られずに議論したほうがよい,ということになります.

ともあれ,Kataoka 2014aでの議論では,絶対年代(といっても,その数字の解釈が分かれるので「絶対」じゃないのですが)を重視しておらず,むしろ,相対年代にあうような「絶対」年代の解釈を取ってきただけなので,メインの議論に影響はありません.

いずれにしても,ヴァーチャスパティの下限としては,ひとまず,ジュニャーナシュリーミトラ以前となります.

しかし,不要なものを述べるとnigrahasthaanaになりますから,不要な言及は削除すべきです.

I mentioned in my article, Kataoka 2014a, the disputed year "898" (976 AD according to some scholars) of Vacaspati Misra I's Nyayasucinibandha, when I discussed the chronology of Sucarita Misra in relation to Vacaspati Misra I.

But probably the consideration of the year recorded in the ms colophon is not necessary, because the Nyayasucinibandha is probably not authored by Vacaspati Misra I.

Muroya 2006 casts a doubt on the authorship, basing himself on solid evidence. I am convinced by his argument.

Under the present circumstances (unless some strong evidence pops up for his authorship), we should not take it seriously that the NSN is authored by Vacaspati Misra I. Hence we do not have to worry about the disputed date recorded in the colophon of the NSN.

What we should take into consideration as the lower limit of his date is the fact that Jnanasrimitra knows Vacaspati Misra I.

I thank Dr. Muroya for his pointing out to me the relevant material.




Correction to Kataoka 2014a:352(11), line 8 (thanks to Dr. Elisa Freschi):

partivikalpaṃ > prativikalpaṃ
  1. 2014/05/13(火) 08:00:49|
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仏陀は人々の迷妄を世俗・勝義の二つのレヴェルで取り除く

Moriyama 2014:20, n. 21:

   na sarvo vyavahāreṇa prāmāṇyam avagacchati|
   pramāṇalakṣaṇaṃ tena parasparavirodhavat||219||
   pratyakṣādipramāṇena paraloko na gamyate|
   āgamād aparaḥ prāhety ato na vyavahārataḥ||220||
tasmāt,
   vyavahāraparāmarśāt śāstraṃ mohanivartanam|
   pūrvāparasyāsmaraṇaṃ śāstreṇānena vāryate||221||

"Not everyone understand [a cognition's] validity [just] from [one's] everyday activities. [Only] by this [everyday activity, however,] the characteristic of means of valid cognition is mutually contradictory. [Therefore, one needs religious treatises for ascertaining the pramanalaksana.] (219)
Other existences after death (paraloka) are not apprehended by [ordinary] means of valid cognition like perception. Thus, others claim that [such objects are known] from scripture (agama), but not from everyday activies. (220)
After such consideration of everyday activities, a religious treatise removes confusion [about pramanalaksana]. Buy this religious treatise, [one's] non-recollection (i.e., delusion) about past and future [existences] is [also] removed. (220)



護山さんは,まず,tenaを,「それ,すなわち,日常活動」と理解しています.しかし,普通に考えると「それゆえ,だから」ではないでしょうか.

219ab: 日常活動からプラマーナの定義を全人が理解することはない.
219cd: だから,プラマーナの定義は,相互に矛盾する.


これが普通の論理展開だと思われます.

日常活動→(219ab)→プラマーナ定義の理解の無→(219cd)→人々のプラマーナ定義の相互矛盾


という論理展開です.

護山さんの理解だと,

219ab: 日常活動からプラマーナの定義を全人が理解することはない.
219cd: しかしながら,この日常活動のせいで,プラマーナの定義は,相互に矛盾する.
補い:だから,プラマーナの定義を確立するのに教示が必要となる.


となります.つまり,日常活動というのが,頼りないもので,プラマーナの定義を十全に導かせるようなものでないので,プラマーナの定義が相互に矛盾している状況がある,という理解になります.

日常活動→(219ab)→プラマーナ定義の理解の無
日常活動→(219cd)→人々のプラマーナ定義の相互矛盾
--------------------------------------------
∴ プラマーナ定義に教示が必要


このように考えると,219abと219cdの役割分担が失われてしまいます.

つまり,同じようなことを繰り返し述べていることになってしまいます.

しかし,219cdは,護山さんの補いと同内容を述べていると考えるほうが自然です.

つまり,疑惑状況がある=疑惑を取り除く教示が必要

ということです.

219abと219cdは,vyavahaaraについて同じようなことを別の角度から述べているのではなくて,ステップを踏んだ論理展開であって,したがってtenaは「それゆえ」と考えるほうがいいと私は考えます.

細かいですが.

もうひとつ.シュローカの外にあるtasmaatの理解.

護山さんは,ここでのtasmaatを「それゆえ」ではなく「そのような」というように,vyavahaaraparaamar"saatにかけて理解していますが,そうでしょうか?

まずは,219と220の含意を明らかにしてみましょう.

219: 教示は,日常活動からは分からない〈世間的プラマーナの定義〉を教える.(A)
220: 教示は,日常活動からは分からない〈来世〉を教える.(B)


以上をAとBとしておきましょう.

護山さんの全体的な理解は次のようになると思われます.

221ab: A(日常プラマーナの定義の確立)のあとにB(宗教的事項の確立)に対応する事態(勝義レヴェルでの迷妄除去)がある.


221abにおける「日常活動の考察」は,文脈から,教示が世間的プラマーナについて検討すること,という文脈で捉えることができます.この点について,私と護山さんの理解に違いはありません.

仏陀は,日常活動をよくよく考察することで,世間的プラマーナの定義を示したということになります.

日常活動をよく考察する主語は「教示」と考えられます.

護山さんは,日常活動を考察すること(それを通じて世間的プラマーナの定義を示すこと)の後に,教示は,来世に関する迷妄を取り除く,と理解していることになります.

つまり,護山説のポイントは,「そのような(tasmaat)Aの後に,勝義レヴェルの迷妄の除去がある」ということになります.

すると,護山理解の全体は次のようになります.

219: Aがある.
220: Bがある.
そのような
221ab: Aの後に,勝義レヴェルの迷妄除去がある.
221cd: 勝義レヴェルの迷妄除去とは前世・来世の迷妄(前世・来世を憶えてないこと)を取り除くことである.


いっぽう,私の考えるように,tasmaatを接続詞として「だから」と取った場合はどうなるでしょうか.

219: Aがある.
220: Bがある.
それゆえ
221ab: 日常活動を検討する(≒Aする)ことで,世間レヴェルの迷妄除去がある.
221cd: 前世・来世についての無知を除く(≒Bする)ことで,勝義レヴェルの迷妄除去がある.


私の場合,221bのmohanivartanamは,世俗レヴェルのものであって,勝義レヴェルのものではない,と考えます.

いっぽう護山理解では,221bのmohanivartanamを勝義レヴェルのものと考えていました.

しかし,ここでプラジュニャーカラが示したいことの趣旨は,ダルマキールティが言う「迷妄の除去」には二つのタイプがあるということです.

世間的なレヴェルのものと,勝義的なレヴェルのものとです.

A.世間的レヴェルの迷妄を取り除く=知覚・推論の定義を示す
B.勝義的レヴェルの迷妄を取り除く=来世を示す


とすると,構成としては,yathaasa.mkhyamで,221abと221cdのそれぞれが,AとBに対応する示していると考えた方がきれいです.

つまり,221abは,全体として,Aについて語っているのであって,A→Bということを示しているわけではない,ということです.

私の理解によれば,次のようになります.

219: 世間的プラマーナについての迷妄がある.仏陀は世間的プラマーナの定義を示した.
220: 来世についての迷妄がある.仏陀は来世を示した.
それゆえ,
221ab: 日常活動を検討することで,仏陀は,世間レヴェルの迷妄を取り除く.
221cd: 前世・来世について我々が覚えてないという無知を取り除くことで,仏陀は勝義レヴェルの迷妄を取り除く.


こんな風に理解したほうが,きれいでしょう.

そもそも,vyavahaaraparaamar"saatというアブラティブを,pa"scaatもないのに「後に」(after)と理解するのは無理があります.

世俗レヴェルの話の後に勝義レヴェルの話がある,あるいは,前者に基づいて後者があるというのは事実としてはそうですが,ここでは,そこに強調点があるのではなく,あくまでも,迷妄除去に世俗と勝義の二つがあるということが言えれば十分です.

護山説だと,世俗と勝義との記述バランスが悪くなってしまいます(221a, 221bcd).

また,なぜ「そのような」という代名詞をわざわざ221の前に挿入する必要があるのか,説明がつきません.

いかがでしょうか.

まとめ:
1.tenaはvyavahaaraではなく,219abの全体を指して「それゆえ」を指す.
2.tasmaatはvyavahaaraparaamar"saatに係るのではなく,「それゆえ」を指す.ここでの「それゆえ」とは,219(A)と220(B)の二つの状況を指す.
3.vyavahaaraparaamar"saatのアブラティブは「後で」ではなく「に基づいて,することで」を意味する.
4.221bのmohanivartanamは,勝義レヴェルの迷妄除去ではなく,世俗レヴェルの迷妄除去についてのものである.
5.このように考えることで,219→221abが世俗,220→221cdが勝義で,その間の接続詞が「それゆえ」というように,体系的に理解することができる.

Dameya 006
  1. 2014/05/11(日) 15:06:08|
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仏陀,嘘つかない

Moriyama 2014:15:

In this regard, Krasser (2001: 186) has pointed out that "nowhere in the Pramanasiddhi chapter is the Buddha explicitly said to be avisamvadin," and concludes that only the second characteristic is applicable to the Buddha. True, it is not explicitly stated that the Buddha is avisamvadin, and yet example [13] should not be overlooked, in which Dharmakirti describes the Buddha as a person who does not lie. The text of PV II 145--146a and the translation by Franco are as follows:

...........[quote of PV II 145 and tr. by Franco 1997]......

Here, the term anrta is translated as "untruth," but as Franco indicates in the subsequent square brackets, the term can also mean "lie." Thus, if we can equate anrtavacana with visamvada, the basic structure of the verse becomes clearer: The Buddha is pramana, because he ie endowed with the characteristic of pramanas, no-belying, which is equal to the proprty of his fourth epithet, the "protector" (tayin), in the sense of his revealing the path that he had experienced.



護山さんのポイントは次のようになるでしょう.

0(前提).pramanaには二つの定義的特質がある.non-belying (avisamvaditva)とilluminating non-apprehended objects (ajnatarthaprakasatva).

1(先行研究の理解).クラッサーによれば,PV IIにおいて,仏陀をavisamvadin(プラマーナの第一定義)とは形容しない.第二定義のみが仏陀に適用される.

2(護山さんによる反論). 確かに明言はされてないが,PV II 145の用例は見逃せない.そこでは,仏陀が嘘つかない人と形容されている.

3. PV II 145によれば,仏陀はanrta(非真実・嘘)を言わない.

4. ここでの「嘘を言うこと」anrtavacanaを,我々は,visamvadaと等価視できる.

しかし,本当に,護山さんの言うように,PV II 145における「仏陀は嘘つかない」と,ダルマキールティ自身の第一定義であるavisamvaditvaとを単純に結びつけて,同一視して考えてよいのでしょうか?

そもそも,avisamvadinをnon-belyingと訳すことが,既に,この同一視を用意してしまっているのではないでしょうか?

まずはダルマキールティ自身の意図するところを探ってみましょう.


PV II 1abc:
pramāṇam avisaṃvādi jñānam arthakriyāsthitiḥ
avisaṃvādanaṃ



このダルマキールティ自身の説明によれば,

A.プラマーナは,avisamvadaという性質を持つ認識だ

B.avisamvadaとは,arthakriyasthitiのことだ

とあります.つまり,arthakriyasthitiという性質を持てば,それは,avisamvadinであり,そのような性質を満たした認識がプラマーナだ,ということになります.

artha-kriya-sthitiとは,目的を作ることが定まっていることですから,つまり,効果的作用を持つこと,という趣旨になります.

つまり,効果的作用の能力を持つような認識,「水があるよ」と教えてくれる認識が,実際に,水の効果をもたらしてくれるならば,そのような認識は正しい認識だ,ということになります.

あるいは,推論のように,実際には外界実在そのものを対象としていない,一対一対応ではなくても,最終的にはうまく行くような分別知も「うまくいく」という意味でプラマーナに含まれます.

つまり,ここでダルマキールティがavisamvadinと言っている趣旨は,「それに従うと首尾よく行くような認識」ということになります.

a. ダルマキールティ自身の説明によれば,avisamvadaとはarthakriyasthitiである.

b. 首尾よく結果をもたらしてくれるような認識の性質がavisamvaditvaである.



ということで,ダルマキールティ自身の説明によれば,avisamvadaは,「(所期の目的を最終的にもたらしてくれる点で)期待を裏切らない」という意味になります.

そういう意味で,non-belyingという訳語はあてはまるわけです.

いっぽう,ダルマキールティの言うanrtaはどういう意味で用いているのでしょうか.

こちらは,まさしく,「嘘つかない」という場合の「嘘」という意味で使われています.

つまり,だまそうという悪意やその動機がないし,そういうことは彼の行動からは考えられないから嘘つかない,という文脈です.

PV II 145で,ダルマキールティが「仏陀は嘘を付かない」の根拠を三つあげています.

1.仏陀は嘘付かない.彼にとって嘘つくことは無駄だから(vaiphalyaat).つまり嘘付く理由(動機)がないから.
2.慈悲深いから(dayaalutvaat),嘘付かない.
3.他人のために一所懸命頑張ってるから,嘘付かない.

ここでの「嘘」は,悪意に基づいた嘘です.つまり,動機の観点から言われている嘘のことです.

結果の観点から言われているわけではありません.

以上から分かるように,ダルマキールティは,anrtaを動機の観点から用いています.

いわゆる我々の考える「嘘」です.

一方のpramanaの定義に含まれるvisamvadaについては,結果の観点から用いています.

まとめると,次のようになります.

動機 ⇒ 嘘anrta =?= 期待を裏切るものvisamvadin ⇒ 効果的作用なし

ということで,anrtavacanaとvisamvadaとを,何の前提もなしに直結して,同一視するという護山さんの発想には少し問題があります.

もちろん,護山さんは,if we can equateというように,慎重に限定をつけています.

「もし同一視できるならば」というわけです.

しかし,単純に同一視はできないでしょう.

なぜならば,anrtavacanaのほうは「悪意に基づいてだまそうと嘘を付くこと」であるのにたいして,visamvadaのほうは「所期の結果をもたらさないこと,期待を裏切ること」(語源的に言うと「(Aの発言がBの発言と)食い違うこと」)だからです.

visamvadaをnon-belyingと訳してしまって,そこから考えると,lieが共通しているのでanrtavacana=「嘘付く」=visamvadaという等式がストレートに導けるかに見えます.

しかし,ダルマキールティ自身の意図・語義説明・文脈を考えると,単純にそのように結論することはできないと思います.

もしも「仏陀にしたがって行動すると首尾よく所期の目標を達成できた」というように,結果の観点からダルマキールティが仏陀を記述して,そのような仏陀をプラマーナと呼んでいたならば,その場合の仏陀の記述は,avisamvaditvaの内容を満たしているので,第一定義の観点から為されていると言えます.

つまり,もしもダルマキールティが,「仏陀はプラマーナである.仏陀のおかげでAさんが解脱という目標を達成したから」と言っているならば,このプラマーナは,第一定義の観点から用いられている,ということになります.仏陀の言っている内容Aが,実際の目標達成という内容Bと食い違わない,ということです.

しかし,そのような仏陀の形容は,クラッサーがそう考えたように,PV IIにはないのではないでしょうか?

少なくとも,13の用例は違うと言えます.

そこで言われているのは,嘘つく理由がない,動機がない,悪意がない,ということです.

あんな真面目で人のために一所懸命働いている人である仏陀が嘘つくなんて考えられない,ということです.

私自身は,ここでの記述を,anyathanupapattiと関連させて理解しています.詳細はKataoka 2011d.

http://www2.lit.kyushu-u.ac.jp/~kkataoka/Kataoka/Kataoka2011d.pdf

いかがでしょうか?

まとめ:ダルマキールティの言う「嘘」と「食い違い」とは同一視できない.「嘘」とは悪意に基づく嘘のことである.いっぽう「食い違い」とは,X(認識や仏陀)の教えがその通りには目標を達成してくれないこと,期待を裏切ること,である.悪意という根拠に基づく虚偽発言が「嘘」であり,結果として期待を裏切る虚偽発言が「食い違いを持つもの」である.ダルマキールティが「仏陀は嘘つかない」と言う時,それは,「仏陀の教えは実際の結果と食い違わない」というプラマーナの第一定義の観点からなされているわけではない.

OkanoCurry1.jpg
  1. 2014/05/11(日) 10:10:16|
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16th World Sanskrit Conference

Bangkok, Thailand 28 June---2 July 2015

www.sanskrit-silpakorn.org

www.ssc.su.ac.th

来年2015年の6月末~7月頭という日程ですが,すでに,「貴殿の発表を受理しました」という事務処理の気の早さ.

「受理証明」までいただきました.

いたれりつくせりです.

梵語の母国では考えられない事務処理能力です.

すでに学会参加費の払いも「早割」で可能だそうです.

どれだけ気が早いんでしょうか.

京大の次にデリー,で,その次がバンコク.

アジアが続いています.

タイということで,日本人にとっては近場で楽です.

福岡からも直行があるので助かります.

来年には政情も落ち着いているでしょうか?

そういえば,少し昔には洪水というのもありましたけど.

むかし旅行した雨期のカルカッタやワラナシで,荷物抱えて膝上まで浸かりながら駅に移動したのを思い出しました.

リキシャーは値段ふっかけ放題で大喜びでした.

普段ならガートから駅まで20ルピーそこそこのところが,一挙に100ルピーに高騰.

「足下を見る」とはこのことかと思いました.

足元は,道に普段は転がっているであろうそこらへんの汚物やらゴミやらが混然一体カオスで溶け込んで,とても見る気にはなれませんでした.

あれで足に切り傷とかあったら,どうするんでしょう.

マドラスも一部地域は排水が悪く,ちょっと(日本基準で言うとほんとにちょっと)雨が降り続くとすぐに冠水している場所がありました.

OkanoCurry2.jpg
  1. 2014/05/10(土) 23:51:50|
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梵語写本の黄金週間

SanskritManuscript1.jpg

左端が欠損.

ただでさえ時間がかかるのに,欠けていると,記録の手間が更に倍.

校訂テクストの脚注は「nirūpa++++++」みたいな羽目に.

いいゴールデンウィークになりそうです.

肩こりに涙目.

そういえば,海外の友人は,腕立ての器械やら,インドのレスリングの人が使うようなボールリングピンのような道具でやたら上半身を鍛えていましたが,聞くと,「写本校訂のため」とのこと.

納得です.

MalayalamManuscript1.jpg
++++ṣā t jā ti ra pi pṛ thi vī tvā di kā
  1. 2014/05/03(土) 22:37:05|
  2. 未分類

2014年度西日本インド学仏教学会学術大会(九州大学)

志賀島 018志賀島 132


  記

第25回西日本インド学仏教学会学術大会
日時 2014年7月26日(土)13:00-
会場 九州大学文学部4階会議室(*例年と同じ箱崎キャンパスですが会場が違います)

懇親会・宿泊 浜幸家(はまこうや)
〒811-0325福岡県福岡市東区勝馬279-1
http://www.hamakouya.com/
092-603-6410
(送迎バスにて九大会場から移動)


第25回西日本インド学仏教学会学術大会事務局
〒812-8581 福岡市東区箱崎6-19-1
九州大学文学部インド哲学史研究室

志賀島 094

箱崎キャンパスに轟音を轟かす頭上の飛行機ですが,この志賀島の上を抜けてから,箱崎キャンパスの真上を通って福岡空港に着陸します.
  1. 2014/05/03(土) 21:57:07|
  2. 未分類

Islamic Week at Hakozaki Campus, Kyushu Uni

イスラムウィーク 063イスラムウィーク 065イスラムウィーク 055イスラムウィーク 059イスラムウィーク 057イスラムウィーク 056イスラムウィーク 053イスラムウィーク 050イスラムウィーク 049イスラムウィーク 054イスラムウィーク 047イスラムウィーク 046イスラムウィーク 045イスラムウィーク 048イスラムウィーク 041イスラムウィーク 038イスラムウィーク 044イスラムウィーク 043イスラムウィーク 042イスラムウィーク 037イスラムウィーク 040イスラムウィーク 039イスラムウィーク 038イスラムウィーク 034イスラムウィーク 033イスラムウィーク 032イスラムウィーク 036イスラムウィーク 035イスラムウィーク 032イスラムウィーク 031イスラムウィーク 030イスラムウィーク 029イスラムウィーク 026イスラムウィーク 024イスラムウィーク 028イスラムウィーク 027イスラムウィーク 023イスラムウィーク 022イスラムウィーク 021イスラムウィーク 019イスラムウィーク 017イスラムウィーク 016イスラムウィーク 015イスラムウィーク 018イスラムウィーク 012イスラムウィーク 013イスラムウィーク 011イスラムウィーク 014
  1. 2014/05/03(土) 14:23:52|
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