Pratibhanusarini --- 九州インド哲学ブログ2

On Indian Philosophy and Buddhist Studies

アポーハ論ワークショップ(龍谷大学)

アポーハ論ワークショップ

2014年 8月 2日(土)13:00—18:00

龍谷大学大宮学舎 西黌2階 大会議室

報告者
13:00-14:00
片岡啓(九州大学准教授)
「アポーハ論の史的展開」

14:00-15:00
吉水清孝(東北大学教授)
「ディグナーガのアポーハ説での固有名から普通名詞へ」

コメンテーター

15:20-16:00
八木沢敬(カリフォルニア州立大学ノースリッジ校教授)

16:00-16:40
小川英世(広島大学教授)

16:50-18:00
自由討議


科学研究費基盤研究(C)「ジネーンドラブッディ『集量論複注』
梵語写本の批判的校訂」(研究代表者:桂 紹隆)主催
丸井浩 ダルシャナ科研共催




apoha論というのは「排除」論.

例えば「牛」という単語の意味は何か,という疑問にたいして,仏教徒のディグナーガは,非牛の排除だと答えます.
(厳密には,非牛の排除に限定された諸存在を言葉は語る,というようにディグナーガは言っています.)

つまり,「牛」の意味は「牛でないものでないものだ」と答えるわけです.

簡単に言うと「牛でしかないもの」ということです.

このように,他者の排除(つまり,非牛の排除)によって言葉は対象を(つまり牛を)語る,というのがディグナーガの主張です.

この理論は,その後も仏教論理学の中で継承されます.

「アポーハ論」として知られる議論です.

もちろん,この変てこな意味論は,他学派から批判されることになります.

その中で,いろいろな展開を見せることになります.

仏教論理学の歴史の中でも,ディグナーガの説はそのまま継承される訳ではなく,時代時代の批判に応じて,姿を変えていくことになります.

アポーハ論の展開をながめることで,仏教論理学史の変遷を追うことも可能ですし,また,他学派との応酬も視野に入ってきます.

本邦では,その昔,京大を中心として錚々たるメンバーがアポーハ論を取り上げてきました.

梶山先生,服部先生しかり,そして,カナダ帰りの桂先生.

また,その当時,フランス帰りの若き俊英であった赤松先生.

それから30年あまり.

本邦ではすっかり「やり尽くされた」感が漂っていたのか,ほとんど誰も手を付けることがありませんでした.

これだけの大御所を前にして新たにやるというのは面倒なものです.

私がアポーハ論に手を付けたのが2008年.

アポーハ論というよりは,ジャヤンタ研究(ジャヤンタの語意論研究)の一環としてです.

Pindのディグナーガ研究の博論が2009年にネットで公開されています.

このあたりから,アポーハ論をもう一度取り上げる機運が高まってきます.

セミナーをまとめたその名もずばりのApohaという英語の論文集も最近出ています.

パリマル・パティルやローレンス・マックレー,それに,パトリック・マック・アリスターなど,新たな世代の研究者も参入.

本邦でも,最近では,私の他に,石田さん,岡田さんがアポーハ論に取り組んでいます.

数年前にはウィーンで,アポーハワークショップが開かれ,ジャヤンタの『ニヤーヤ・マンジャリー』(論理花房)中のアポーハ論を取り上げ,みなで読書会.

シュタインケルナー先生,桂先生といった大御所から,ケルナー,マックレー,マック・アリスター,ワトソン,それに,日本からは,自分の他に,石田さん,岡田さんなど,多くの人が参加しました.

駒澤の金沢先生も,『インド論理学研究』の次の号では,アポーハ論を特集するとのこと.

そのような文脈の中でのアポーハ論ワークショップ.

分析の八木沢先生をコメンテーターに迎えての会.

さすが,マティラル先生の精神を受け継ぐ桂先生です.

楽しいことになりそうです.

私の発表は,わたしがここ最近取り組んできたジャヤンタの視点から見たアポーハ論の史的展開です.

ディグナーガ,ダルマキールティ,ダルモッタラという三巨匠のアポーハ論を,クマーリラの批判など,外の視点を入れながら眺めていきます.

ここ最近発表した諸論文の内容を,簡潔に一つにまとめたようなものになるはずです.

拙稿は,以下からダウンロードできます.

http://www.k4.dion.ne.jp/~sanskrit/WorksJ.html

暑い京都にむさくるしい研究者が大集合ですから,さぞ暑苦しいでしょう.

夏の鍋会みたいなものでしょうか.

わざわざ見物に来る人も,よっぽどの物好きに違いありません.(そういえば,横地先生も「行こうかな~」と仰っていました.)
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  1. 2014/07/29(火) 06:04:44|
  2. 未分類

西日本印仏学会

西日本学会 001

西日本印仏学会も無事に終了.

今回が学会デビューの院生もあり.

20分の発表に15分の質疑応答.

今回は,発表者数もぎちぎちに詰めることなく,比較的十分に質疑の時間が取れたのは幸いでした.

違う視点からの有意義なコメントが,あまり形式ばらずに貰えるのは,小さい学会のいいところです.

ダルマキールティ関係では,広大の中須賀さんの発表が非常に整理されていて興味深いものでした.

推理と知覚判断におけるapohaの意味の微妙な違いを取り上げたものです.

『南アジア古典学』9号の出版も,この学会に何とか間に合いました.

九大・広大の他,鈴木先生率いる山口県立大グループも多数参加.

終了後は賑やかな懇親会となりました.

九大の学部生・院生・OBが事務・受付によく動いてくれて,滞りなく,万事進行.

来年,2015年は,通常通りであれば,広大会場になります.(希望があれば,他でやってもいいのですが.)
  1. 2014/07/28(月) 07:25:31|
  2. 未分類

筑前インド月と亀(福岡県朝倉市秋月)

月と亀
  1. 2014/07/21(月) 08:55:51|
  2. 未分類

日本南アジア学会九州支部 7月定例研究会

 「日本南アジア学会九州支部 7月定例研究会」

日時:7月19日(土)13:30-17:00

会場:九州大学教育学部会議室(教育学部棟1階)

    〒812-8581 福岡市東区箱崎6-19-1
    TEL:092-642-4445
    地図、交通案内は http://www.education.kyushu-u.ac.jp/accesses をご参照ください。

発表者:
赤井ひさ子氏(東海大学福岡短期大学)
「インド・県教育研究所:初等教員養成課程在学生への質的検討の試み」

石井一也(香川大学)
「ガンディー思想の現代的意義:コンヴィヴィアリティを軸として」



幹事:針塚瑞樹(九州大学大学院人間環境学研究院 助教)
    〒812-8581 福岡市東区箱崎6-19-1
    九州大学教育学部 TEL&FAX:092-642-4445
  1. 2014/07/20(日) 07:22:54|
  2. 未分類

西日本印仏学会

志賀島 012

投稿者が多く,いろいろと手間取った『南アジア古典学』ですが,ようやく編集も終わり,印刷屋に入稿.

来週は,西日本印仏学会.

泊まりは志賀島の勝馬海岸です.


第25回西日本インド学仏教学会学術大会
日時 2014年7月26日(土)13:00-
会場 九州大学


======================================================================

プログラム

13:00-13:35 (発表20分、質疑応答15分)
佐藤智岳(九州大学大学院)
『五蘊論』安慧釈は前六識の同時生起を認めるのか

13:35-14:10
中須賀美幸(広島大学大学院)
ダルマキールティのアポーハ論
- 知覚判断と付託の欠如(samaropaviveka)-

14:10-14:45
川村悠人(日本学術振興会特別研究員PD)
Bhattikavya文法学部門の構成について
-動詞語根からの派生形規則とtripadi規則の例証の意味-

14:45-15:20
Deniyaye Pannaloka(九州大学大学院)
『十万頌般若』第16章のラサ写本と九大写本を中心とする比較研究


15:20-15:35 Tea Break


15:35-16:10
鈴木隆泰(山口県立大学教授)
『法華経』と『大法鼓経』の一乗説


16:10-16:45
源重浩(熊本県立大学非常勤講師)
新古唯識における「見るもの」と「見られるもの」

16:45-17:20
北野新太郎(九州大学非常勤講師)
 初期唯識文献と認識論・論理学における grahya-grahaka-bhava という語の意味の違いについて
 ── アーラヤ識の二重にはたらく対象志向性との関係を中心として ──
  1. 2014/07/18(金) 19:33:06|
  2. 未分類

Tsuki to Kame, Akizuki, Fukuoka

秋月 021

秋月 029

秋月 012

秋月 064

秋月 047
  1. 2014/07/18(金) 19:26:13|
  2. 未分類

On what is the cognition “cow” based? Dignāga’s theory of apoha

Kataoka 2013e was published in Journal of Indian and Buddhist Studies (2013), 62-1, 448(81)--441(88).

The original Japanese title is:

牛の認識は何に基づくのか?――ディグナーガのアポーハ論――,『印度学仏教学研究』62-1, 448(81)--441(88).

[Ushi no Ninshiki wa Nani ni Motozukunoka? Dignāga no Apoha ron. Indogaku Bukkyogaku Kenkyu, 62-1.]

You can download it from here.

The following is an English summary of this article, also published separately in 62-3, 2014.




On what is the cognition “cow” based?:
Dignāga’s theory of apoha

Kei KATAOKA

According to Dignāga, the word “cow” makes one understand a cow in a general form by excluding non-cows. How then can one understand non-cows to be excluded? Hattori and Akamatsu regard the absence of a dewlap, etc. as the cause for excluding non-cows. Tanizawa criticises Akamatsu by pointing out that accepting positive criteria such as a dewlap does not make sense in the apoha theory. The source text to be investigated is PS(V) V 41, where Dignāga replies to his Sāṃkhya opponent Mādhava. A close examination of PS(V) and Jinendrabuddhi’s commentary on it indicates that Tanizawa is basically right. The view that one understands “cow” by observing a dewlap, etc. (sāsnādidarśanād gopratyayaḥ) is to be assigned to Mādhava. Dignāga does refer to this view as an example to support his thesis. Mādhava critically points out that accepting the Sāṃkhya view on the cause of the cognition “cow” contradicts Dignāga’s own view (svamataviruddhaḥ) and amounts to giving up what he has accepted (abhyupetahāniḥ). Dignāga wards off Mādhava’s criticism stating that he refers to the Sāṃkhya view only by tentatively accepting it (abhyupagamya). Mādhava’s view that a cow is precisely the collection of dewlap, etc. (sāsnādisamūha eva gauḥ) is indeed incompatible with Dignāga’s own view that X is precisely the nonexistence of non-X (ātmāntarābhāva evātmāntarāṇi). A cow, for Dignāga, is precisely the nonexistence of non-cows. As Dignāga himself explicitly states, a cognition of a cow excluded from non-cows (agonivṛttagopratyayaḥ) cannot be based on the observation of a dewlap, etc. (sāsnādidarśananimittaḥ). Dignāga’s main thesis that one cognises “X” by observing the nonexistence of non-X is consistent. Considering Dignāga’s own view, the understanding of the apoha theory by Hattori and Akamatsu is inappropriate.




牛の認識は何に基づくのか?
――ディグナーガのアポーハ論――

片岡 啓

ディグナーガによれば,「牛」という語は,非牛を排除することで,牛を一般的な形で理解させる.では,その非牛はどのようにして理解されるのだろうか.服部と赤松は,喉袋等を持たないことが非牛排除の原因であると考える.谷澤は赤松を批判し,喉袋等の肯定的な存在を最初に認めることはアポーハ論においては意味を為さないと指摘する.ディグナーガの意図を探るのに資料となるのはPS(V) V 41である.そこでディグナーガは,サーンキヤ学者のマーダヴァの批判に答えている.ディグナーガのPS(V)およびジネーンドラブッディ註を検討すると,谷澤の違和感が基本的に正しいことが判明する.まず,喉袋等を見ることで「牛」という理解が生じるという見解はマーダヴァに帰すことができる.そしてディグナーガは,自身の見解を提示する際に,以上の見解を実例として引く.マーダヴァはこれを批判する.すなわち,「牛」理解の原因として喉袋等を立てるサーンキヤ学派の見解を実例として引き,認めることは,アポーハ論者自身の説と矛盾し,自説放棄の過失に陥ってしまうと.ディグナーガは,このマーダヴァの批判を排し,サーンキヤ説への言及は「仮に認めた上」でのものと回答する.「牛は喉袋等の集合に他ならない」とするマーダヴァの見解は,「自体は他体の無に他ならない」とするディグナーガ自身の説と相容れない.ディグナーガにとって,牛とは,端的に,非牛の非存在である.ディグナーガ自身が明言するように,非牛から退いた牛の理解は,喉袋等を見ることに基づくものではありえない.「自体の理解は他体の無を見ることに基づく」というディグナーガの基本的主張は一貫している.ディグナーガの自説に照らしてみる限り,服部・赤松のアポーハ論理解は不適切と言わざるを得ない.
  1. 2014/07/16(水) 08:00:25|
  2. 未分類

On Dignāga’s Semantics: The Role of Inference by Means of Horns

Kataoka 2012g was published in Journal of Indian and Buddhist Studies (2012), 61-1, 425(94)-419(100).
The original Japanese title is:
ディグナーガの意味論をめぐって――有角性による推論の位置付け――,『印度学仏教学研究』61-1, 425(94)-419(100). [Dignāga no Imiron o megutte: Yūkakusei ni yoru Suiron no Ichizuke. Indogaku Bukkyogaku Kenkyu]

You can download it from here.

The following is an English summary of this article, also published separately in 61-3, 2013.




On Dignāga’s Semantics: The Role of Inference by Means of Horns

Kei KATAOKA

Yoshimizu recently published two articles on Dignāga’s theory of apoha. He claims that “the word ‘‘cow’’ excludes all horses by virtue of the fact that horns are never seen on them.” Thus, “the word ‘‘cow’’ can exclude all of them collectively by virtue of the fact that none of them has all the members of the set of characteristics that form the worldly definition of ‘‘cow’’.’’ Horns, one of the characteristic features of cows, are indeed mentioned by Dignāga in PS(V) 5:43. But a close look at the passage reveals that here Dignāga refers to the function of an inferential reason viṣāṇitva and not the function of a word “cow.” Dignāga mentions the simple inference by means of horns. With the word yathā Dignāga intends that a word “cow” communicates cow in general by excluding others, just as an inferential reason such as viṣāṇitva does. It is not the case that Dignāga refers to horns as a basis for a word “cow” to exclude the non-cow. Yoshimizu understands Dignāga’s semantics as being parallel to the modern semantics of componential analysis. But this interpretation is not supported by Dignāga’s text. The present conclusion is also supported by Mādhava and Kumārila. Neither of them assumes Dignāga’s theory to be as Yoshimizu takes it.




ディグナーガの意味論をめぐって
――有角性による推論の位置付け――

片岡 啓

吉水はディグナーガのアポーハ論に関して二つの論文を最近発表した.そこで彼は「「牛」という語は,角が馬に見られないことから全ての牛を排除する」とした.すなわち,「「牛」という語は,牛の世間的定義を構成する特徴のいずれも馬が持たないことから,まとめて馬を排除する」のである.確かに,牛の特徴の一つである角に,ディグナーガはPS(V) 5:43で言及する.しかし,細かく見ると,ここでディグナーガが言及しているのは,有角性という証因の機能であって,「牛」という言葉の機能ではない.ディグナーガは角による単純な推論に言及しているに過ぎない.yathāという語によりディグナーガが意図したのは,有角性という証因と同じ様に,「牛」という語が他者を排除しながら牛一般を理解させるということである.「牛」という語が非牛を排除する根拠として角に言及しているわけではない.吉水は,意義素の意味論とパラレルなものとしてディグナーガの意味論を理解している.しかしその理解はディグナーガの原典に支持されない.また,筆者の結論は,マーダヴァとクマーリラに支持される.彼らが前提とするディグナーガの理論は,吉水のディグナーガ理解とは異なる.
  1. 2014/07/16(水) 07:28:15|
  2. 未分類

Taḍka, Kyoto

京都 197
  1. 2014/07/15(火) 20:20:21|
  2. 未分類

Ratna Cafe, Kyoto

京都 037

京都 032
  1. 2014/07/15(火) 20:19:11|
  2. 未分類

Sanko-bashi, Haruyoshi, Fukuoka: A Japanese Style Grill Restaurant

Sankobashi1.jpg

A new branch of "Kaminari-bachi" opened last month, named "Sanko-bashi", literally "three-light-bridge".
  1. 2014/07/15(火) 20:08:13|
  2. 未分類

イフタールパーティー

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五十周年記念講堂にある旧ファカルティークラブにて,マスジド主催のイフタールパーティー.

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パンジャービーを来た背の高い白人女性が相席

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アメリカ領事館広報の方でした.

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インドのアメリカ領事館でも働いていたそうです.

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思わぬ所で思わぬ人に会う日でした.

礼拝でお祈りをされた高松先生は,民謡をやっていただけあって,さすが大迫力の発声でした.
  1. 2014/07/15(火) 20:00:39|
  2. 未分類

SOUTH ASIAN CLASSICAL STUDIES, No. 9, 2014

SOUTH ASIAN CLASSICAL STUDIES
No. 9
2014

CONTENTS

Śākyarakṣita’s Vṛttamālāvivṛti on Jñānaśrīmitra’s Vṛttamālāstuti (2)
Michael HAHN
1

Grammatical Discussions in Śākyarakṣita’s Vṛttamālā(stuti)vivṛti
Mahesh A. DEOKAR, Lata Mahesh DEOKAR, S.S. BAHULKAR
65

A Study of the Avadānakalpalatā and the Avadānamālās (5)
– The 1st Chapter of TJAM and Tales of Virūpa and Padmākṣa –
OKANO Kiyoshi
101

Computer-aided Research in Old Palm-leaf Manuscripts in Myanmar:
Automatic Generation System of the Electronic Book by Personal Computer
FUJIWARA Kazuhiko, KASAMATSU Sunao, OUSAKA Yumi
199

A Consideration of Development of Outside of the Main Unit of Consciousness
(vijñāna-svarūpa) in the Philosophy of Consciousness-only:
On the Thought of Dharmapāla in the Cheng weishi lun
KITANO Shintaro
207

An Annotated Japanese Translation of Ratnakīrti’s Īśvarasādhanadūṣaṇa (I)
MORIYAMA Shinya
229

Falsifiability in Indian Philosophy
KATAOKA Kei
259

Maṇḍanamiśra’s Sphoṭa Theory and His Refutation of the Varṇa Theory of Dharmakīrti’s Pramāṇavārttika
SAITO Akane
291

Systematization of the Thought of Debate by Dharmakīrti:
Criticism and Acceptance of the Nyāya School’s Theory in the Vādanyāya
SASAKI Ryo
319

On the Role of the ‘Verbal Forms Section’ (tiṅantakāṇḍa) of the Bhaṭṭikāvya
KAWAMURA Yuto
371

Dharmakīrti’s Theory of Samāropavyavaccheda:
The relationship between adhyavasāya, niścaya and perceptual judgement
NAKASUKA Miyuki
397

KYUSHU UNIVERSITY
DEPARTMENT OF INDOLOGY
  1. 2014/07/06(日) 14:43:10|
  2. 未分類

南アジア古典学 第9号(2014年)

ISSN 1881-2074
南アジア古典学
2014第9号
South Asian Classical Studies, Vol. 9, 2014

目 次
Śākyarakṣita’s Vṛttamālāvivṛti on Jñānaśrīmitra’s Vṛttamālāstuti (2)
Michael HAHN
1-64

Grammatical Discussions in Śākyarakṣita’s Vṛttamālā(stuti)vivṛti
Mahesh A. DEOKAR, Lata Mahesh DEOKAR, S.S. BAHULKAR
65-100

KalpalatāとAvadānamālāの研究(5)
— TJAM 第1章 と Virūpāvadāna と Padmākṣāvadāna —
岡野 潔
101-198

貝葉古写本研究への電子工学的支援について
— ミャンマー仏教古写本 の「電子ブック」化の提案 —
藤原 和彦,笠松 直,逢坂 雄美
199-206

唯識思想における「識の自体分」の外側への展開についての一考察
—『成唯識論』の護法説をめぐって — 北野 新太郎
207-228

ラトナキールティ著『主宰神証明の論駁』和訳研究(上)
護山 真也
229-257

インド哲学における反証可能性の議論
片岡 啓
259-290

スポータ理論と音素無常論の対立
— Sphoṭasiddhiにおける Pramāṇavārttika批判の検討 — 斉藤 茜
291-317

ダルマキールティによる討論思想の体系化
— Vādanyāya におけるニヤーヤ学派説の批判と受容 —
佐々木 亮
319-370

Bhaṭṭikāvyaにおける定動詞の部(tiṅantakāṇḍa)の役割
川村 悠人
371-396

ダルマキールティの「付託の排除」論
— adhyavasāya, niścaya, 知覚判断の関係をめぐって —
中須賀 美幸
397-418


九 州 大 学 大 学 院 人 文 科 学 府 ・ 文 学 部
イ ン ド 哲 学 史 研 究 室
  1. 2014/07/06(日) 14:39:05|
  2. 未分類

āmraphalāni

nanv atathābhūtam apy arthaṃ brūyāc codanā,
yathā yat kiṃcana laukikaṃ vacanaṃ
"nadyās tīre phalāni santi" iti.
tat tathyam api bhavati, vitatham api bhavatīti.

Taipei6 343

Taipei6 023

Taipei7 024
  1. 2014/07/01(火) 22:13:03|
  2. 未分類

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