Pratibhanusarini --- 九州インド哲学ブログ2

On Indian Philosophy and Buddhist Studies

マンダナ『命令の分析』上巻の校訂本

エリオット・スターン博士の『命令の分析』上巻の校訂といえば,校訂をする人達の間では驚異の博論です.

難解で知られるマンダナミシュラの『命令の分析』,それにたいするヴァーチャスパティの浩瀚な『ニヤーヤカニカー』,それに,ケーララの二つの注釈.以上の四つを校訂したもの.

しかも,それを同一ページに四つ並べるというインドスタイルで校訂されています.(言ってみれば,シャンカラの『ブラフマスートラ』のニルナヤサーガル版みたいな感じです.)

つまり,一頁がA,B,C,D段に区切られて,四つの注釈が同時に並べられているのです.

当然,Aの本文は一行だけ,あるいは,全くない場合もあります.

註釈のほうが長いのが普通ですから,一頁すべてをBやCやDが埋めるという頁が多くなるのは当然です.(例えばp. 112では,Aが僅か2語,Bが1行,Cが2行,Dが13行というようになっています.)

そして,隣の頁には,異読,および,平行句情報が詳細に記されています.(スターン博士は,まさに職人的に,あちらこちらから平行句を細かく調べています.)

この組み方だけでも驚くべき仕事量ですが,さらに,すべて手書きです.

手書きのデーヴァナーガリー.

アメリカの博論シリーズから3巻で出ています.

膨大な量です.

これを読者が使いこなすのは結構大変です.

なにしろ手書きですから,やはり,読みにくい.

しかも,『命令の分析』本文のA段は,とびとびになっていますから,一行あったかと思うと,10頁とんで,次の一行があったりします.

註釈のB段を飛ばしてAの本文だけ読もうとすると,結構,やっかいです.

しかも,テクスト本文の正書法は,写本に近いやり方で,現代普通に見られるやり方とは少し違った(癖のある)スタイルです.

慣れると,これも居心地いいのですが,慣れるまでは違和感がかなりあります.

結果として,それほど頻繁に使われている仕事とは言えません.

手書きの原稿をすらすらと読む人というのは少ないでしょう.

しかし,間違いなく,インド哲学文献のサンスクリット校訂という分野での金字塔の一つと言えます.使ってみると,よく考えられているのが分かります.

難解な『命令の分析』を校訂するには相当の力が必要です.

ダルマキールティのPV自注も難しいテクストの一つですが,マンダナのVVは,また別の難しさがあります.

彼の思考についていくには,相当の訓練を要します.(本文の難解さは,ウダヤナに通じるところがあります.)

まだ若かったであろうヴァーチャスパティがこのような挑戦的な本文に真っ向から立ち向かったというのも納得です.

結構丁寧な(本文を理解するのに助けになる)註釈を書いてくれています.

マンダナに立ち向かう人は勇者です.

マンダナを素手で読む人というのは,当然,世の中にはほとんどいません.

それは,PV自注を素手で読む人が少ないのと同じです.

なにしろ,マンダナといえば,バルトリハリ,クマーリラ,プラバーカラ,ダルマキールティを視野に収めて,その上に,独自の教学を打ち立てた人です.

もうどれだけ大変かというのが,前提となる文献リストだけからでも,分かるでしょう.

紀元後700年頃の「インド哲学全部」といっていいでしょう.

マンダナの主要著作(『使役行為分析』『命令分析』『語蕾論証』『ブラフマン論証』)が日本語でお手軽に読めるような時は,果たして来るのでしょうか.

ちなみに,スターン博士はフィラデルフィア在住.

Uペン滞在時には,あれこれとお世話になりました.

さらに,ちなみに,インドから出ているVV校訂本には,大昔のパンディットシリーズ,そして,それを恐らく写したのであろうゴースワーミー本の二つがあります.

パンディットは,東大統合図書館の奥の奥に在る書庫の下段から引っ張り出して,埃で手を黒くしながらコピーしたのを思い出します.

図書館印が次頁に写るのを抑えるために間に挟まれた新聞紙が戦時中のものだったりします.
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  1. 2014/11/30(日) 23:02:07|
  2. 未分類

正書法,表記の仕方をめぐって

デーヴァナーガリー文字を採用する場合でも,テクストの出し方には色々な流儀があります.

同じテクスト内で統一してあれば,いずれも問題ありません.

好みの問題です.

最右翼は,エリオットスターン博士の方式です.

インド写本のオリジナルに近い方を好むやり方です.

その場合,例えば,次のようになります.

न्यायौषधिवनेभ्योयमाहृतः परमो रसः

ローマナイズで分節すると次のようになります.
nyāyauṣadhi-vanebhyo 'yam āhṛtaḥ paramo rasaḥ

bhyoの後のアヴァグラハ"ऽ"は付けませんし,スペースも空けません.

アヴァグラハは,写本ではあったりなかったりですが,ないことのほうが多いでしょう.

現代の校訂本では付けることの方が多いのですが,あえて,写本に近い形で出さないという方針です.

アヴァグラハは付けるが空けないという人もいます.

न्यायौषधिवनेभ्योयमाहृतः परमो रसः

また,写本ではダンダ|はあったりなかったりですが,ダンダに関しては,つけないというエディターは,まず,いないでしょう.

問題は,ダブル・ダンダ||やハーフダンダです.

ダブルダンダ||は詩節の終わりだけ,というのが普通ですが,校訂本では,よく,段落の終わりに使う人も見られます.

また,ダンダほどではない文章の途中の句切りを示すのにコンマを使う人もいます.

いっぽう,コンマのような洋物ではなく,インド式のハーフダンダを使う人も見られます.

また,

यत् ... तत् सामस्त्यात् पूर्वम्

というような文章の場合,デーヴァナーガリーでは,普通,tatの後を続けて書いてतत्सामस्त्यात् としますが,読者の理解のために,あえて,合成語ではないですよということを示す為に句切る人もいます.こちらのほうが,もちろん,親切です.

tatsāmastyātとtat sāmastyātとでは,解釈が違ってくるからです.

初心者向けの教科書などでは,デーヴァナーガリー文字を使っていても,あえて,ローマ字テクストのように句切る人が見られます.普及を考えるインド人校訂者は,こちらのほうに傾く傾向があります.

逆に,サンスクリット文書の通常の形を好む人は,続けて書くのを好みます.もちろん,いずれも好みです.

そのほか,サンディをするかしないかは,結構,大きな問題です.

もちろん,サンディというのは,話者の好みでしてもしなくてもどっちでもいいので,必ずしもサンディを適用しなければならないというわけではありません.あえて二語を切って,サンディさせなくてもいいわけです.

たとえば,句切りが二語の間にある場合,そこでサンディをさせなくてもいいわけです.

そのほか,引用文をどのように出すかということも問題となります.

洋物の引用符“...”で区切るというやり方もありますし,あるいは,前後のサンディをさせずに出すという(写本にも見られるような)やり方もありますし,あるいは,厳密にサンディさせてそのまま出すというやり方もあります.

サンディということを厳密に考えると,続けて書きたくなるのも分かりますが,どこで線引きするかと言うのは,厳密に考えると難しい問題で,最終的には,正誤というよりは,好みの問題となります.

できるだけ写本に近いインド・オリジナル伝統遵守の守旧派(といってもダンダは使う)と,コンマ,分節,引用符を多用する現代派の両極の間で,いろいろな流儀が可能です.

あなたは何派でしょうか?
  1. 2014/11/30(日) 12:55:09|
  2. 未分類

梵語原典校訂作業

サンスクリット原典の校訂作業が,何故,必要なのでしょうか?

1.未出版
2.既出版

1.未だ出版されてない文献の校訂が必要であることは言うまでもありません.

2.また,既に出版されているものであっても,十分に批判的な校訂が為されていないものについては,やはり,その必要性については明らかでしょう.信頼できない校訂本の上に立って研究を進めると,土台が揺らぐ可能性が常にあるからです.

インドの出版本の多くが,かなりテキトーです.

ほとんどは,前の版のコピーです.エディターの名前と値段と出版社が変わっているだけで,あとは,ただ前のをまる写しなどというのは,しょっちゅうです.

しかも,そのまま前の版を出してくれればいいものを,まる写しの上に組み直していたりするので,間違いが増えている場合のほうが多いのです.

つまり,改訂ではなく改悪です.新しい版ほど悪くなっていきます.

インドで出ている原典校訂の諸版を比べて,その系統――どの版がどの版に基づいているのか――を丹念に調べると,本当に呆れかえることばかりです.

間違いはそのまま踏襲,その上に,さらなる誤植が,エディターや印刷屋によって付加され,最新版は,とんでもないことになっています.

クマーリラの復註である『タントラヴァールッティカ』も,最新の出版であるターラーパブリケーションのものは,誤植が多すぎてうんざりします.

入手や購入のしやすさから言えば,当然,新しい版のほうがアクセスが容易ですから,結果として,悪い版が多く出回ることになります.

結局,テクスト校訂の質から言うと,一番最初に出た版が一番ましということが多々あります.(もちろん,同じエディターが,第二版の改訂版を出している場合は,この限りではありません.)

つまり,こういうことです.

写本に基づいて校訂したのは,多くの場合,最初の版だけだったりするわけです.

後の人は,写本を追加してチェックしたり,新たに写本に基づいて校訂したりということをしないことのほうが多いのです.

「既に出版があるのだから,それを使った方が早い」という考え方です.

このような考え方をするから,新しい版ほど悪いものが出来あがるのです.




インドで出ている校訂本の多くが,写本に見られる異読の情報をまともに記していません.

あまり系統の異ならない写本(例えば同じカルカッタの写本二つ)を適当に校合しているだけ,ということが多いのが実際の所です.北や南の系統の違いそうな写本を集めて校訂するというようなことは余り見られません.

そして,写本に見られる異読については,時たま,気が向いた時に記すだけ,という感じです.

つまり,メインのテクストを作ってそれで終わりなのです.

これだと,読者は,或る読みの確実さについて,情報を与えられていないので,疑いが生じたときに困ってしまいます.

1.この読みはいかなる写本に基づくのか.
2.他の写本で別の読みをしているものはないのか.
3.あるいは,ひょっとしたら,どの写本にもこの読みはないが,エディターが独自に訂正したものなのか.
4.単なる印刷屋のミスなのか.(誤植の多い校訂版の場合に持つ疑問)

このような疑問が生じたときに,それを解決する手掛かり,つまり,証拠が,インドで出版された多くの校訂本には全くと言っていいほど与えられていないことがほとんどです.

断りもなしに,写本の読みを勝手に直されている場合も結構あります.

しかし,読者は,それがそのような読みであるということの情報を与えられていないのです.

そうすると困ったことが起こります.

たとえばAのテクストの写本には,aとbという二つの異読があったのに,その情報を記すことなく校訂者は,bを採用します.

Aを引用するテクストBの校訂者は,実際にはaという読みしか写本にはないにもかかわらず,先行出版であるAを見ることで,bというように勝手に訂正します.

そうすると,Bが確証してくれているaという読みは,失われることになってしまいます.

先行出版に異読情報が記してあったならば,Bの校訂者は,aを採用したでしょう.しかし,先行出版の威力というのは偉大で,人間は,ついつい既にある権威におもねってしまいます.理解しやすかったりするbを採用したくなるのです.




校訂というのは,写本情報を記せばいいだけで,時間をかければ誰でもできるし,頭を使わない非創造的な作業だ,と思っている人がいるかもしれません.

しかし,これは大きな間違いです.

和訳の場合を考えてみましょう.

サンスクリット原典の和訳を見ると,その人のサンスクリットの理解度というのは直ぐに露呈してしまいます.

論文であれば,サンスクリット原典の中で自分で理解できたところだけを資料に使って,分からない所は飛ばすので,自分の無理解が露呈することはありません.

地雷は避けて通ればいいのです.

しかし,和訳となるとそうはいきません.

地雷原も抜けていかねばならなくなります.

そこで爆死ということになります.

難しいパッセージに対して脚注もつけずに素通りしている人は沢山いますが,そこで実力のほどが分かってしまいます.

つまり,分かってないのです.

校訂本の作成は,和訳より更に,その人の理解度が露呈してしまうものです.

1.読みの採用

まず問われるのが,どの読みを採用するのか,という判断のセンスです.

こればっかりは,訓練がないと無理です.難易度は様々です.

しかし,簡単に言えば,テクスト校訂は,「間違いを直す」ということです.

新聞・雑誌を読んで誤植があれば,我々は直ぐに気が付いて,頭の中で「これは間違いだな」と直します.(あるいは,「これは記者自身による漢字の思い違いだな」と気が付いたりします.)

サンスクリットテクストでも同じことです.

正しい(オリジナルの)読みを採用し,間違いを除くという作業です.たとえ写本に見られない読みであっても,様々な状況証拠から,正しい読みを提案する場合もあります.これが「間違いを正す」ということです.(写本に見られる異読のノイズを取り去って,作者の意図したオリジナルの読みを再現するというのが目標です.)

2.分節化

校訂本を作るにあたっては,サンスクリット写本のように,句読点もスペースもなしにずらずらと書き連ねるわけには行きません.

単語を分けて,句読点を打って,さらに,段落分けをしなければなりません.

これは,テクストの深い理解がなければ,できないことです.

段落分けというのは,非常に時間のかかる作業です.

テクスト全体の構造を理解していなければならないからです.

また,サンスクリット写本の多くは,句切りがなかったりします.

つまり,一文がどこで終わるのかは,実は,エディター任せなのです.

句読点をどこで打つか,それだけで,エディターがどの程度テクストを理解しているのか,すぐにバレてしまうのです.

すぐれたエディターは,すぐれた句読点を打ちます.

漢文の校訂と同じです.

テクストを理解しているエディターは,ちゃんと句分けができるのです.

ひとつひとつの句切りにセンスが問われます.

クップスワーミシャーストリー校訂の『ブラフマシッディ』を読むと,句切りの良さに,いつも感謝します.

登山ルートを開発してくれた人に感謝するのと同じです.

手をかけるのが必要な場所に,しっかり,手掛かりを用意してくれているのです.

逆に,テクストの内容を理解していない校訂本は,段落は適当,句切りも適当,というようなことになります.そのような校訂本は読み解くのに非常に苦労します.

日本語や英語では,句読点が最初から既にありますから,このような問題は起きないのですが,ずらずらと続く漢文の校勘と同じような問題が,サンスクリットでは起こるのです.

結果として,同じ写本資料を使ったとしても,異なる二人が校訂すれば,全く違った形の校訂本が二つできることになります.

採用した異読,句切り方などで,大きな違いが出てくるのです.

さらに,体裁の違いでは,デザイン的なセンスを問われることにもなります.丁寧な手作業なしに,校訂本は完成しません.

そのほかの方針の違いでも,エディターの姿勢が問われます.

ローマ字かデーヴァナーガリーか,異読の出し方がポジティブかネガティブか,異読をどのように出すのか,などなどです.

ローマ字で出すということは,インド人読者は無視するということになります.(チベット語をローマ字で読むチベット僧がいないのと同じことです.)

また,平行句情報などでは,エディターの知識が問われます.

先行する文献の平行句,あるいは,同じ著者の他の箇所の参考となる用例などです.

さらに,「既に述べた」「後で述べられるだろう」といったテクスト内の相互参照箇所について,ちゃんと参照箇所を記すのは,結構大変な作業だったりします.




このように,テクストと,その背景を含めた総合的な理解が,校訂本作成には必要となるのです.

和訳に下手に手を出すと火傷するのと同様に,テクスト校訂に素人が手を出すと火傷するのは,こういう訳です.(もちろん,誰でも取りかかった最初は素人なわけです.)

多くの人が避けて通るのも当然です.

自分の実力(あるいは無知)をさらけ出すことになるからです.




手のかかった美しいテクスト校訂に出会うと感動します.

誤植やあれこれの疑惑にいらいらさせられることなく,テクストを純粋に読む悦びが,そこにはあります.

そのような悦びを人々に提供しようと精進努力する校訂菩薩が少ないのは非常に嘆かわしいことです.

まあ,一銭の得にもなりませんから,当然っちゃー当然っちゃけど.
  1. 2014/11/30(日) 11:25:37|
  2. 未分類

日本南アジア学会九州支部 12月定例研究会


 「日本南アジア学会九州支部 12月定例研究会」

日時:12月6日(土)13:30-17:00(懇親会は17:15-19:15)

会場:九州大学教育学部会議室(教育学部棟1階)

   〒812-8581 福岡市東区箱崎6-19-1

   地図、交通案内は http://www.education.kyushu-u.ac.jp/accesses をご参照ください。

発表者:

片岡啓氏(九州大学)

「クマーリラの聖典論――写本蒐集から殺生まで――」

要旨:
聖典解釈学ミーマーンサーの学匠であるクマーリラ(紀元後7世紀前半頃)は,『ミーマーンサー・スートラ』への復注釈者として知られる.発表者は,2011年に,次の英文単著をウィーンのオーストリア科学アカデミーより上梓した.

Kumarila on Truth, Omniscience, and Killing. Part 1: A Critical Edition of Mimamsa-Slokavarttika ad 1.1.2 (Codanasutra). Part 2: An Annotated Translation of Mimamsa-Slokavarttika ad 1.1.2 (Codanasutra). Verlag der Osterreichischen Akademie der Wissenschaften. 97 + 627 pages.

本書は,『ミーマーンサー・スートラ』1.1.2に対するクマーリラの復注釈を取り上げた研究である.第一部は7刊本と5写本に基づくサンスクリット原典の校訂であり,第二部は,解題,および,英訳・訳注から構成される.本章でクマーリラは,ヴェーダという聖典の権威の問題を取り上げる.そこでは,ヴェーダ聖典の位置付けが問題となる.クマーリラは,聖典が正しいとはどういうことかを論じる中で,一般的に認識が正しいとはどういうことか,という真理論の問題を取り上げる.また,ヴェーダだけがダルマに関して正しい情報ソースである,ということを主張する文脈で,仏陀などの全知者の存在を否定する.また,ヴェーダ中に見られる供犠内殺生や呪い殺しの儀礼など,殺生の問題も論じている.今回の発表では,(汗をかく)インド写本蒐集や(眼に悪い)テキスト校訂の苦労から,バラモン教と仏教の白熱した論争史,真理論・全知者論・殺生論まで,本章の研究に関連・付随する様々な話題を広く浅く,或いは時にオタク的に深く,提供する心づもりである.玄奘が留学した当時の知的世界の雰囲気を伝えられれば幸いである.


鹿毛理恵氏(佐賀大学)

「スリランカにおける家事労働者の国際移動~ジェンダーをめぐる政治経済学的再考~」

要旨:
発表内容は、著書である「国際労働移動の経済的便益と社会的費用:スリランカの出稼ぎ女性家事労働者の実態調査」(日本評論社、2014年)について報告するとともに、あらためてスリランカのジェンダーをめぐる政治経済学的アプローチをもって、家事労働者の国際移動の背景や影響について再考するものです。

参加費:研究会参加費 500円
    研究会終了後、同会場にて懇親会を予定しています。

幹事:針塚瑞樹(別府大学文学部講師)
    〒874-8501 大分県別府市北石垣82
    別府大学文学部教職課程 TEL:0977-67-0101(代)
  1. 2014/11/27(木) 18:27:04|
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ダルシャナ科研シンポ


        インドの大地が育んだ世界認識の枠組み
            〜東西哲学対話の再出発〜


                  記

 日時 2014年11月23日(日)10:00-18:00
 会場 東京大学本郷キャンパス 法文2号館 中2階 教員談話室

【プログラム】
 基調説明 10:00 ‒10:20  丸井 浩(東京大学教授・インド哲学)

 1. 因果 10:20 ‒11:10
    発表   丸井 浩
    コメント 一ノ瀬 正樹(東京大学教授・哲学)

 2. 普遍と個体 11:20 ‒12:10
    発表   吉水 清孝(東北大学教授・インド哲学)
    コメント 松浦 和也(東京大学助教・哲学)

 特別講演 13:30 ‒14:30
 「オントロジーの成立─西欧における〈ある〉と〈存在〉をめぐる思考の系譜」
  中畑 正志(京都大学教授・哲学)

 3. 言葉と存在 14:40 ‒15:30
    発表   小川 英世(広島大学教授・インド哲学)
    コメント 出口 康夫(京都大学准教授・哲学)

 4. 神と世界 15:40 ‒16:30
    発表   片岡 啓(九州大学准教授・インド哲学)
    コメント 手島 勲矢(元同志社大学教授・ユダヤ思想)

 全体討論と質疑応答 16:40 ‒17:40

 総括 17:40 ‒18:00
    桂 紹隆(龍谷大学教授・仏教学)

【趣旨】
 存在するとは何か、そして何が存在するのか̶ 。インドの哲学者 たちは、この問い
に取り組むため、多様な枠組みを作り上げてきた。 ● 因果─世界を支える基本原理
として因果性が存在する。〔論理学派〕 ● 普遍と個体─これらは一面的には区別さ
れない。〔聖典解釈学派〕 ● 言葉と存在─〈事物の世界〉と〈意味の世界〉は直接
対応づけられない。〔文法学派〕 ● 神と世界─清浄な神が物質原 因を変容させて世
界を創る。〔シヴァ教〕
  1. 2014/11/21(金) 18:10:40|
  2. 未分類

Tarutama Onsen Spa

九州 1428
  1. 2014/11/14(金) 07:28:22|
  2. 未分類

Komatsu Jigoku

Kuju833.jpg
  1. 2014/11/14(金) 06:14:00|
  2. 未分類

Retreat House, Kyushu University, Kuju

Kuju575.jpg
  1. 2014/11/14(金) 06:11:05|
  2. 未分類

Takachiho

Takachiho2261.jpg
  1. 2014/11/14(金) 06:02:21|
  2. 未分類

Links to Articles by Prof. Harikai Kunio



Harikai 2002: ``Baramon Kyogaku no Konkyo toshiteno Sei to Zoku---Tantravarttika Seidensho Wayaku Kenkyu (2)---'' Nishinihon Shukyogaku Zasshi 24, 2002.

http://www2.lit.kyushu-u.ac.jp/~kkataoka/Harikai/Harikai2002.pdf

Harikai 2003: ``Tenkei Kitei Yusen Gensoku (1)---Tantravarttika Seidensho Wayaku Kenkyu (3)---'' Nishinihon Shukyogaku Zasshi 25, 2003.

http://www2.lit.kyushu-u.ac.jp/~kkataoka/Harikai/Harikai2003.pdf

Harikai 2004: ``Tenkei Kitei Yusen Gensoku (2)---Tantravarttika Seidensho Wayaku Kenkyu (4)---'' Nishinihon Shukyogaku Zasshi 26, 2004.

http://www2.lit.kyushu-u.ac.jp/~kkataoka/Harikai/Harikai2004.pdf

The following is a revised version of Harikai 1974, originally published in Tetsugaku Nenpo (Faculty of Letters, Kyushu University) No. 33, 1974. ``Tantravarttika Seidensho Wayaku Kenkyu. Rondai 1: Seiden to Kanshuho Ippan no Shokensei (1).''

http://www2.lit.kyushu-u.ac.jp/~kkataoka/Harikai/Harikai1974rev.pdf


The following is a revised version of Harikai 2002 cited above.

http://www2.lit.kyushu-u.ac.jp/~kkataoka/Harikai/Harikai2002rev.pdf
  1. 2014/11/13(木) 19:11:41|
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