Pratibhanusarini --- 九州インド哲学ブログ2

On Indian Philosophy and Buddhist Studies

アンプラグド・ライブ

Unplugged15.jpg

当日300円でした。
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  1. 2014/12/22(月) 00:01:35|
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研究室の大掃除

kenkyushitsu 001

先週は研究室の大掃除

学生がそろって、きれいにしてくれました。

しかし、いろいろと堆積物が出てくるわ出てくるわで、ようやく終わったのは半分のみ。

残り半分は、また月曜日に続きを。

掃除後に皆で天神へ。

よく見ると、ボーダー横線ばかりですが、シヴァ系?
  1. 2014/12/21(日) 23:51:12|
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インド思想史学会 第21回学術大会

インド思想史学会 第21回学術大会

開催日 2014 年 12 月 20 日(土)

会 場 京都大学 楽友会館 2 階 会議・講演室

(理事会 11:30 – 12:30 京都大学 楽友会館 2 階 会議室5)

参加受付 12:30 – 京都大学 楽友会館 2 階 会議・講演室前

研究発表者および発表題目

13:00 – 13:50 Jonathan Duquette (JSPS Postdoctoral Fellow, Kyoto University)
“On Appaya Dıksita’s Engagement with Vyasatırtha’s Tarkatandavam”

13:50 – 14:40 川村 悠人(広島大学・日本学術振興会特別研究員 PD)
「文法学伝統における Bhattikavya の地位—非文法的表現 subhru 正当化の歴史—」


—— 休 憩 ——

14:55 – 15:45 山崎 一穂(東洋大学・日本学術振興会特別研究員 PD)
「Ksemendra の仏教説話作品における〈荘厳法〉について」

15:45 – 16:35 藤井 正人(京都大学・教授)
「Jaiminıya-Upanisad-Brahmana の再生説の諸相」

—— 休 憩 ——

16:50 – 17:40 澤井 義次(天理大学・教授)
「『師と弟子の関係』(gurusisyasambandha)の意味構造—シャンカラ派の宗教思想への宗教学的な視座—」

総会 17:40 – 18:00
  1. 2014/12/21(日) 23:37:52|
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RINDAS 2014年度第5回伝統思想研究会

◆ RINDAS 2014年度第5回伝統思想研究会

日時:2014年12月19日(金) 17:00~19:00
場所:龍谷大学大宮キャンパス・西黌2階 大会議室

報告:吉水清孝(東北大学教授)
  「クマーリラによる「宗教としての仏教」批判―法源論の見地から―」
コメンテーター:桂 紹隆(龍谷大学教授)
  1. 2014/12/21(日) 23:31:41|
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「世俗」と云うは「口の液」と云うが如し

クマーリラは二諦説を批判しています。

本当なものは本当、誤ったものは誤ったもの、というようにはっきり分かれるので、「世俗だけど真実」というようなものはない、というのが彼の意図するところです。

つまり、黒か白かはっきりしているので、「世俗諦」なるものは無い、ということです。

下の1か3だけで、2はない、というのです。

1. 勝義諦(正しい)
2. 世俗諦(誤り・正しい)
3. 邪世俗(誤り)

クマーリラから見れば、「世俗」というのは「誤り」ということです。

「諦」というのは本当ということです。

すると、「世俗・諦」は、結局、「誤った・本当」、というような矛盾した表現となってしまいます。

クマーリラによれば、「誤り」をわざわざ「世俗」というような当たり障りのない言葉に置き換えるのは、「唾」を「口の液」と言い換えるようなものだそうです。

それは、人を欺くためです。

言葉は正しく使いましょう、ということです。

詐欺的表現 正しい表現
世俗       誤り
口の液      唾

言葉の誤りを正すことで色々な欺瞞が見えてきます。

いっぽう、仏教から見れば、「嘘も方便」ということになるでしょうか。
  1. 2014/12/17(水) 08:00:21|
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チャトニーのこったら、イドリーついか

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マドラス留学時の書き込みを見ていたら、

「チャトニーのこったら、イドリーついか」

という書き込みを見つけました。

1996年12月10日(火)に読んだシャバラ注の一部に対する書き込み。

J.ヴェンカタラーマン教授は、聖典解釈学の規則背景の考え方を、日常生活で説明するのが得意でした。

「郵便局に行くと、、、」
「マーケットに行くと、、、」

という例によく言及されました。

ここでも、説明したかった内容は、「普通は主要素に従属要素が従うが、時には、従属要素に主要素が従う場合もある」ということです。

従属要素が無駄になってしまう場合、それが無駄にならないように、主要素の方が想定されることもある、という趣旨です。

そこで出てきたのが、この書き込みの説明でした。

チャトニーが残った場合、そのままだと無駄になるので、無駄にならないように、イドリーを追加注文することがあります。

この場合、付け合わせの従属要素にあわせて主要素が持ってこられることになります。

もう一つ、その下に書き込み。

「子供について大人がディズニーにいく」

とあります。

これも趣旨は明らかです。

従属要素に主要素が従うということです。
  1. 2014/12/11(木) 22:25:48|
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文字の向こうの人

シャバラといえば、わたしにとっては、間違いなく、一番親しい人です。

なにしろ、2年間、インドで何も他にやることがないときに、毎日毎日読み込んだ相手です。

親しくないわけがありません。

日本なら、本を片手に眠くなってうつらうつら寝ようか、というような状態でも、インドにいると、壁と天井が暑くて眠れません。

天井にぶら下がる扇風機から吹き下ろす昼間の熱風。

昼寝すると体を壊します。

よく、無防備に昼寝してしまい、嫌な汗をかいて、夕方には風邪を引いて、体を壊したのを思い出します。

暑いところでの昼寝は禁物。(昼の昼間に涼むなら、冷房の効いた映画館でも行くべきです。)

「良い具合」というのがない回帰線の国。




以上のような気候条件はともあれ、インドにいくと、本を読む暇は異常にあります。

ほかにやることがないので当然です。

テレビもない、酒もない、喋る相手もない、そして、そのときには、まだネットもなかったのでした。

暑くて外に出るのも嫌、となると、部屋でじっと本を読むのが一番まし、ということになります。

しかし、です。

そのシャバラのテキスト。

実際のところ、どれだけ、シャバラの原文といえるのでしょうか?

ほんとに正しいのでしょうか?

これが、どっこい、写本という観点から見ると、そうでもない、というのが実情です。

これまでの刊本は、カルカッタの写本に基づいています。

ケーララあたりの写本と比べると、どうも、かなり怪しいというのが分かります。

南の写本と比べると、結構、読みの違うところが、ぼろぼろと出てきます。

シャバラの注釈だけならともかく、スートラまでもが違う、というようなことも、「音声常住論」を校訂したときには出くわしました。

むかし、ティルパティにいたころ、「この人は、すごいパンディットだ。ミーマーンサー・スートラを全部暗唱している」というパンディットを見たことがあります。

あの人は、間違ったスートラを覚えている、ということになります。

間違った刊本が出回って、それで勉強して、それを暗唱して、それを人々に教える。

これは悪ではないでしょうか。(すくなくとも、ヴェーダの暗唱で、間違って詩句を覚えていたなら、それは、無効であるばかりか有害でさえあります。)

いったい、いつまで、このような状態が続くのでしょうか。

別に、ミーマーンサー・スートラの一節で間違おうがどうしようが、一銭の得にも損にもなりませんし、また、シャバラのパッセージのあるところが、読みが間違っていて読めなかろうがどうであろうが、まあ、現代人にとってはどうでもいいといえばどうでもいい問題です。

が、しかしです。

これまで、暇に任せてシャバラに命をかけて読み込んできた身としては、そうはいきません。

一字一句に至るまで、間違いがあるのは許せないのです。

最後の最後までオリジナル復元を追求する必要があります。(ちなみに、サンスクリット語で「校訂」はśodhakāryam「浄化作業」です。)

聖書の一字一句、細かいところまで、テクストクリティークにこだわる人々は沢山います。(それは、たとえば別の宗教に属す第三者から見ればどうでもいいことですし、つまるところ、本人のこだわりに過ぎないとも言えます。)

したがって、聖書に関しては、「ここまでやるか」というような細かい議論がなされます。

それは、別に、どのテクストにも同じように当てはまりうることです。




むかし、ジャイナの聖者、ジャンブヴィジャヤ・ジーに直接、お目にかかったときのこと。

ディグナーガのPS原文がウィーンで校訂されているのを知って、「くれくれー」というように大はしゃぎだったのを思い出します。

若かりし頃にチベット訳を通してサンスクリット原文を想定して還梵していたディグナーガの『集量論』が、ジネーンドラの注釈を通してとはいえ、かなりの正確さで再現されたのですから、その嬉しさたるや、大変なものでしょう。

「とも遠方より来たる」と言います。

実際、そのときは、桂先生がわざわざ日本から訪ねていったわけです。

が、それよりもなによりも、むかし自分が学び親しんだディグナーガのテキストが、まったく思いも寄らぬ形で姿をなして目の前に表れたのです。

自分が何十年も前にチベット訳から還梵したサンスクリット、それの答え合わせとなる原文が目の前に現れるとき。

うれしくないわけがありません。

そのとき、師、すでに、79歳でした。

が、まだまだやる気満々でした。

常に学び吸収しようとする学徒(vidyārthī)魂を目の当たりにしました。




写本を見ながらシャバラが思いがけず別の姿で戻ってくるとき、わたしは悦びを隠しきれません。
  1. 2014/12/09(火) 22:41:40|
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CSS

19世紀といえば、サンスクリットの世界は、もう、訳の分からないくらい凄い人たちが入り乱れていて、ごく少数を挙げるというわけにも行かないでしょうけど、その熱狂が落ち着いた20世紀の最後の四半世紀、さらに、21世紀となると、もうちょっと、分かりやすくなります。

「井の中の蛙」の私の視野でも、現代で「すごいサンスクリット学者」といえば、すぐに、カルドナ、シュミットハウゼン、サンダーソン、の三教授が挙げられます。

これに反対する人はいないでしょう。(もちろん、他にも凄い人は沢山います。あくまでも、私の直接に知っている範囲で、ということです。)

カルドナ教授は文法学。(カルドナ教授なしに現代のパーニニ文法学の研究を考えろ、というほうが無理です。)

シュミットハウゼン教授は仏教学。(唯識やりながら、シュミットハウゼン教授の大きな枠組みに対して何らかの態度を表明しないわけにはいかないでしょう。)

サンダーソン教授はシヴァ教。(サンダーソン教授以前と以後で、シヴァ教研究は、全く変わっています。)

いずれもその分野では知らぬ人がいない不動のセンターです。

(そして実際には、それ以外の分野でも凄いわけですが。)

この中では、サンダーソン教授が一番若いでしょう。

いまでは、泣く子も黙るサンダーソン教授ですが、若いときには、案外、評価されてなかったそうです。

が、そんなときにも、シュミットハウゼン教授からはちゃんと評価されていたそうです。

たしかに、1970ー80年代に、「シャイヴァ」と言われても、それを正当に評価できる土壌が整っていませんから、ある意味、当然です。

凄い人を理解できるのは、凄い人だけ、ということでしょう。

インドでついたパンディットと言えば、カルドナ先生は、インド文法学の大御所ラグナータ・シャルマー師、

サンダーソン先生は、カシミール・シャイヴァの最後のアーチャーリヤと言うべきラクシュマン・ジュー師。

(ついてもついてなくても、おそらく、変わらず凄かったとは思いますが。)

シュミットハウゼン先生は、インド的には、とくに師という人はいないと思われます。

仏教的には、独覚か声聞といったところでしょうか。(もちろん、ウィーンでのフラウワルナーという直接の師がいるわけですが。)

しかし、博論がミーマーンサーの、しかも、マンダナの『錯誤の分析』だということは重要でしょう。

インド色濃過ぎのセレクトです。

単なる唯識学者と思ったら大間違いです。

日本の唯識学者でマンダナ・ミシュラやシャーリカナータ・ミシュラの錯誤論を原文で読んだ人はどれだけいるのでしょうか?

ハンブルク大を訪問したとき、シュミットハウゼン教授についていた(信心深そうな)お坊さん留学生を沢山見かけましたが、まさか、シュミットハウゼン教授の博論が、外道の、しかも、ミーマーンサーの『錯誤の分析』だったとは、夢にも思ってなかったでしょう。

ましてや、マンダナの錯誤論と仏教の唯識理論がインドでは地続きであることを理解している人など、この濁世には、どれほどいるのでしょうか?

わたしがオックスフォードに遊学していた当時、サンダーソン教授は、まだ、ごく限られた数の論文しか公表していませんでした。

オックスフォードにいる人は、その凄さを知っていたのですが、会ったことのない人は「論文すくないからねー」というような評価でした。

しかし、いまでは、そんな人も、「論文でかすぎやろ」という逆の評価です。

なにしろ、一つの論文が、100頁、200頁、ほっとくと300頁とかになってしまう人です。

全体の締め切りが遅れるたびに、その間に追加が100頁増えている、というような凄まじさです。

これで、「論文書いてない」と文句言う人はいません。

つくづく人の評価というのは一面的だなと思います。

その人自身は変わってないのに、周りの評価はころころ変わるわけですから。
  1. 2014/12/08(月) 22:10:26|
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カルドナ先生

カルドナ先生がどんだけ凄いか、というのは、語っても語り尽くせないでしょう。

それは第一に

1.わたしには評価のしようがないから

ということに尽きます。

先生の分野は、わたしの想像するだけでも、

a.インド・ヨーロッパの言語学(いわゆる印欧語比較文法)

b.ヴェーダ学、音声学

c.パーニニ文法学

というようなことになるでしょう。

それに、ついでにいえば、

d.グジャラーティー文法

というものまでついています。

さらに、ミドル・インディックまで含みます。

私がペンシルヴァニアにいたときも、プラークリットの『サッタサーイー』を講読されていました。

そのような、いわゆる「言語学者」としての側面は、わたしには、まったく評価不可能です。

しかし、わたしが「すごい」と思うのは、いわゆる、「シャーストラ」に通じる学者、つまり、パンディット的な教養についてです。

もう、すごい。

インドの伝統的な学者が身につけるべき教養を身につけている、ということです。

つまり、「パーニニだけだと思ったら大間違い」ということです。

ミーマーンサーも、ニヤーヤも知っています。

もちろん、ナヴィヤの時代になると、文法学も、ニヤーヤも、ミーマーンサーも入り乱れて議論するわけですから、いずれにも通じる必要があるのは、言うまでもありません。

それらに通じるのは、ある意味、当然です。

しかし、インド伝統外にある我々にとって、その伝統に加わるのは容易ではありません。

「いったい、どんだけインドやねん」という境涯に達せられているわけです。

「もし文法学者がミーマーンサーを読んだら」ということですが、ここまでいくと、「文法学者」という規定自体が誤りと思います。

生まれ変わりの大好きなインド人は「パーニニの生まれ変わり」か、あるいは「第二のパーニニ」とか思っているようですが、あながち、間違いでもないでしょう。

サンスクリットとは言語系統の違うタミル人のサンスクリット学者を見てても思いますが、やはり、サンスクリットに国境なし。

凄い人は凄い、ということでしょう。
  1. 2014/12/08(月) 21:30:50|
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どんだけいい加減!

これまでのインド哲学研究がいかにいい加減か、という事例をさらに見ましょう。

ミーマーンサーの研究書は多くありません。

次のものは、1980年に出たものです。

Dsa1.jpg

クマーリラの有名なプラマーナ定義を取り上げた英訳です。

問題は最後のところです。

詩節の原文として、次のものが脚注で引かれています。

IMGdsa.jpg

ここでは、原文と訳文とが食い違っています。

訳文の想定する原文:na visaṃvādam ṛcchati
脚注の原文:nāpi saṃvādam ṛcchati

このような問題がなぜ起こるのでしょうか?

それは、依拠するテクストに異読があるからです。

私の校訂したテクストと異読は以下の通り。

80-11.jpg
80-12.jpg

ここでは、

na vi-

nāpi

という、よくある間違いの変化が起こっています。

しかし、内容的には全く逆の意味となってしまいます。

「食い違わない」から「合致する」になってしまうのです。

訳文と原文引用で想定する原文が「食い違っている」というみっともないことになっているのです。

このような間違いが起こるのも、そもそも、信頼できる校訂本がないことに起因します。

あれこれの刊本を見ている内に、混同してしまったのでしょう。

にしても、「いい加減」との誹りは免れ得ないでしょう。

しかし、これが、インド哲学研究のscholarshipの実態です。

いい加減な刊本と、いい加減な翻訳、いい加減な研究書、それらに囲まれながらやっていくしかないのです。

「泥に咲く蓮」とはよく言ったものです。

(もちろん、すぐれた校訂本、すぐれた翻訳、すぐれた研究書も多くはありませんが存在しますし、すぐれたパンディット・先生方も、多くはないですがいらっしゃいます。パンディットは普通、本を書いたりしませんので、その凄さというのは直接に会って習わないと分かりません。)
  1. 2014/12/06(土) 19:57:12|
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B1写本

せっかくなので、B1写本を見ておきましょう。

201-.jpg

一行目です。

mi thyā tvaṃ ve da bā hyā nāṃ syā da nyo nya sa pa kṣa taḥ ||

とあります。

写本に直接あたるだけで、えらい違いです。

これだけで既に正しい読みが揃っています。

『頌注』の研究があっても、写本にあたる研究というのは稀です。

しかし、その必要性も有用性も明らかでしょう。

手間暇惜しむと、ろくなことはありません。
  1. 2014/12/06(土) 19:42:12|
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ヴェーダ外からヴェーダ文へ、そして、仏陀文へ

まず原文を確定するところから始めましょう。

1261.jpg

7刊本と5写本を用いて私(Kataoka 2011)が校訂した結果がこれです。

細かい違いは置いておくとして、重要なのは、vedabāhyānāmというところです。

異読に次のようなものがあります。

126-.jpg

vedabāhyānāṃ
    ↓
vedavākyānāṃ
    ↓
bauddhavākyānāṃ

という変化が見て取れます。

hyaとkyaの変化はすぐに説明がつきます。

結合文字の形が似ているので間違うのも当然です。

また写本では、bとvの区別がないものが多くあります。

結果として、b→vとなり、hya→kyaとなって、聞き慣れない「ヴェーダ外の」から聞き慣れた「ヴェーダ文の」が完成することになります。

しかし、「ヴェーダ外」が「ヴェーダ文」になったのでは、意味が逆になってしまいます。

意味が通じません。

そこで、vedavākyānāṃの「ヴェーダ」から「仏陀の」に変えたのがbauddhavākyānāṃです。

これは、完全に恣意的な訂正です。

もちろん、これが、校訂者自身の恣意的な訂正であることを明示した上で提案していれば問題ありません。

つまり、emendationやconjectureと呼ばれる作業です。

この場合、かなり大胆な修正案となりますから、私なら、conj.とでも記すところです。

しかし、問題は、D刊本が、何に基づくのかを明示することなく勝手に訂正していることです。

読者は戸惑ってしまいます――「これはいかなる読みだろうか」と。

ここでの訂正は、頭を働かせた結果ですから、当然、評価されるべきです。

意味の通じない先行の読みである「ヴェーダ文」に訂正の必要を認めた態度は評価できます。

しかし、修正案の出所を明らかにすべきです。

また、自分勝手な修正案を出す前に、先行刊本をよくよく調べるべきです。

すると、最初の刊本であるP本に正しい読みのあったことに気がつくでしょう。

もちろん、インドで全ての材料を揃えるというのは至難の業です。

おそらく、1878年刊行のパンディットシリーズの刊本など、インドの図書館ではとうに無くなっているか、あるいは、あっても、ぼろぼろでしょう。

日本でも、このパンディット本を持っている図書館は少ないはずです。(わたしは、東大の書庫の奥から出してきてコピーしました。)

しかし、タートパリヤティーカー注のついたマドラス本Mなら、まだ何とか入手可能だったはずです。




ともあれ、ここから、テクスト研究につきものの困難に何があるのかが分かります。

1.先行刊本を集めるのが大変

これは、どの学問でも同じことですが、インド研究の場合、日本の大学図書館はそれほど充実していないので、ますます大変です。

オックスフォード大学やペンシルヴァニア大学とは、所蔵の数が全く違います。

こつこつ集めるしかありません。

幸い、最近では、古い刊本もPDFで入手可能なものが多いですし、その点では、電子化・ネット化さまさまです。

さらに、その上に、

2.写本を集める

という作業が必要です。

この苦労は、ちょっと大変すぎて、一言では言い表せません。

『頌注』の場合、オックスフォード大学にいると、ボードレイアンに二つ写本があり、さらに、ロンドンの大英図書館まででかければさらに二つ写本があったりするので、これだけで、4つ揃うことになります。

しかし、日本にいると、物価の高いイギリスなど、そうそう簡単に行けるわけもありません。

学生・院生の場合はなおさらです。

しかも大英図書館のマイクロ、高すぎ。

院生の時に、あれこれと注文したら、軽く20万円超えて泣きそうになりました。

いっぽうインドに行くと、写本図書館は、全国各地に散らばっています。

しかも、イギリスのように、ちゃんと手続きをしたからといって、うまくいくとは限りません。

結構、運次第だったりします。

「ミスロケーション」といって、カタログにはあっても、書棚に見つからない場合もしばしばです。

書庫に入れるのは図書館員のみですから、自分で探すわけにも行かず、カウンターで涙をのむしかありません。

「日本からわざわざここまで来たのに、この仕打ち」と、自らの業を嘆くばかり。

ヤケ酒しようにも、そもそもビールが入手できなかったり、あったとしても冷えてなかったり、あるいは冷えていたとしてもまずくて飲む際から頭痛がしたりと、もう、どこまでも泣きっ面に蜂です。




閑話休題。

で、件のテクストですが、Kataoka 2011では、次のように英訳しています。ポイントは、これが、論証式だ、ということです。

126tr11.jpg
126tr22.jpg
  1. 2014/12/06(土) 19:02:00|
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サンスクリット語文献のヒンディー語訳の問題

サンスクリット語文献には、当然ですが、たくさんのヒンディー語訳が存在します。

そして、当然ながら、良いヒンディー語訳と、悪いヒンディー語訳とがあります。

悪いというのは、あまり助けにならない、という意味も含んでいます。

次のヒンディー語訳は、聖典解釈学者クマーリラの主著である『頌注』の「ヴェーダ教令章」第126詩節のヒンディー語訳です。

hinditr1

このヒンディー語訳を読んで内容を理解できる人は既にヒンディー語訳を必要としない人でしょう。

面倒なところは全てサンスクリットをそのまま引っ張ってきているだけで、あとは、サンスクリットの単語をヒンディー語の「てにをは」で切り貼りしただけです。

つまり、このヒンディー語が分かる人は、サンスクリット語が既に理解できているので、ヒンディー語訳は必要ないのです。(逆に、サンスクリットが理解できない人は、このヒンディー語を読んでも全く分からないでしょう。)

また、よく見るとこのヒンディー語訳は、ヒンディー語「訳」ですらありません。

詩節を敷衍して解説しているだけであって、詩節そのものを訳しているわけではありません。

どうしてこんなことが起こるのでしょうか?

この訳者は、実際の所、詩節を正確に分かってはいないのです。

分からないから、詩節そのものは訳せないのです。

では、いったい彼は、何について説明しているのでしょうか?

そのネタ本は、容易に見つかります。

『頌注』には三つの注釈があります。その三つの中でも最も読みやすいのが、スチャリタの『カーシカー』です。

実は、この「ヒンディー訳」なるものは、『頌注』のヒンディー訳などではなく、『カーシカー』をそのまま、ヒンディー語に置き換えただけのものだったのです。

『カーシカー』を見てみましょう。

svkasika1

対応は明らかです。

『カーシカー』の最初の主語は「或るヴェーダ外の異端者は」です。

ヒンディー語も同様に始めています。

いっぽうサンスクリットの原文はどうでしょうか?

サンスクリット原文は、論証式の形を取っています。

そこで主題となっているのは、「仏陀の文」です。

だから、原文を訳しているなら、「ヴェーダ外の」ではなく「仏陀の文の」とすべきです。

しかし、この訳者は、『カーシカー』を訳しているため、カーシカーに沿って、「ヴェーダ外の」としているのです。

そして、さらに興味深いことに、ここで、彼が挙げている原文の「仏陀の文の」(bauddhavākyānām)というのは、間違いです。

本当は、「ヴェーダ外の」(vedabāhyānām )が正しいオリジナルの形です。

直近の間違ったエディションに基づいた結果、誤った読みを挙げているのです。

つまり、そのまま取ってきたら、その元が間違っていたという例です。

格好悪いにもほどがあります。

また、このヒンディー語訳を読んで内容を理解できるならば、その人は、『カーシカー』を直接に読めるでしょう。

このヒンディー語訳は、漢文の書き下し文と言っていいくらいで、内容的には、ほとんど役に立ちません。

多くの部分がサンスクリットそのままの形で残されています。

こういうヒンディー語訳は、結構たくさんあります。

当然、内容理解には、あまり役に立ちません。

直接に原文にあたったほうがましです。




インド人だからサンスクリット分かってるだろうと思ったら大間違いです。

分かってないのに誤魔化すのは、日本人もインド人も同じです。

格好つけるために、ここでは、『カーシカー』という種本をもってきて、それで用を足しているわけです。

しかも、それが全く役に立たない単なる「梵語書き下しヒンディー」とでもいうべきものなのです。




別物の解説を持ってこられるくらいなら、G.ジャーの英訳のほうが、よっぽどましです。

JhaTr11.jpg

もっとひどいかと思ったら(失敬)、案外、ちゃんと訳しています。

しかし、最後のanyonyaṃ sapakṣataḥの所の解釈は間違いです。

G. ジャーの英訳の最後のsince以下の一文です。的外れもいいところです。




サンスクリット文献を研究する場合に困ることの第一は、

1.原文が信用できない

ということです。まず、ここからチェックする必要があります。写本まで戻る必要があります。

ここでも、vedabāhyānāmがbauddhavākyānāmになって、それをヒンディー語訳者は、そのまま持ってきてしまっていました。

つぎに、

2.翻訳が信用できない

ということです。

原文を訳したまともな翻訳というのが、本当に少ないのです。

サンスクリットを訳すインド人は、英語ネイティブではありませんから、たとえ原文を正確に理解していたとしても、表現された英語は、どうしても、原文と乖離してしまいます。サンスクリット→英語の過程で、情報が失われてしまうのです。

では、ヒンディー語訳なら役に立つかというと、そうでもないというのは上に見たとおりです。

3.サンスクリット書き下し的ヒンディー

なるものは、ほとんど役に立たないのです。せいぜい、「てにをは」でもって格関係が明らかになるくらいです。

単語それ自体の意味確定には、ほとんど助けになりません。(もちろん、単に機械的に書き下すだけではないすぐれたヒンディー語訳も沢山存在します。)

また、サンスクリット文献は専門家が専門家に向けて書いたものであり、一般読者に向けて書かれたものではありません。

したがって、原文も難しい。

となると、それを翻訳するのも大変です。

ぎゅっと内容が凝縮された詩節となると、それを解きほぐすのは、さらに難しくなります。

勢い、散文解説の注釈をもってきて誤魔化そうか、となるわけです。

こういういい加減な姿勢の上に危うげに成り立っているのがインド哲学研究の現状なのです。




では、何が必要か、というのは自明です。

1.テクストの確定

これは、写本に戻ってテクストをちゃんと確定するということです。

2.信頼できる翻訳

正しい原文をちゃんと訳した翻訳を作るという当然の作業です。

しかし、これがいかに難しいか、そしてそれゆえに、不十分にしかなされてこなかったかは、これまでの歴史を見れば明らかです。

注釈をもってきてそれで解説したつもりになるのではなく、原文そのものと格闘するというのは本当に難しいのです。

自称「パンディット」のインド人訳者も逃げ出すくらいです。
  1. 2014/12/06(土) 18:54:50|
  2. 未分類

VV 1.1

マンダナの『命令の分析』は次のように始まります.

sādhane puruṣārthasya saṃgirante tryīvidaḥ/
bodhaṃ vidhau samāyattam ataḥ sa pravivicyate// VV 1.1 (Stern 148(22).1-2)

人の目的を(puruṣārthasya)実現してくれる手段の(sādhane)認識は(bodhaṃ)命令に(vidhau)依拠している(samāyattam)と三ヴェーダに通じる人達は(tryīvidaḥ)説いている(saṃgirante).だから(ataḥ)それ(sa)(命令)が[ここで]分析される(pravivicyate).



無味乾燥で,詩としてのセンスをほとんど感じさせません.

第二詩節も,理由の単なる列挙で,詩的センスの欠如した,無理矢理のまとめ詩節という感じです.

趣というものが全くありません.

マンダナを読もうとすると,この,無味乾燥な論理の積み重ね,理由の列挙,その解説に付き合っていかねばなりません.

一つの主張を,思わず口ずさみたくなるキャッチ―な詩節に見事にまとめる,コピーライターの才を持ったクマーリラと違って,マンダナの詩節を暗記するのは難しそうです.

詠んでも功徳なさそうな感じと言えばいいでしょうか.

詩才あふれるジャヤンタのものとは対極のスタイルです.

また「Aなので,Bなので」という,論理を尽くそうとする構文を多用するのはいいのですが,それが,「AだからB」なのか,「Aである.Bなので」なのか,内容を見ないと分からないという苦労があります.

つまり,A→Bなのか,A←Bなのか,文字面だけからは判然としないのです.

校訂する際には,前から後ろに流して「AB」とするか,あるいは「A,B」というように間にコンマを打つかの違いとして判断を迫られます.
  1. 2014/12/01(月) 00:02:15|
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