Pratibhanusarini --- 九州インド哲学ブログ2

On Indian Philosophy and Buddhist Studies

テクストの構成分析

インドのサンスクリット文献の場合,注釈があることが多いので,何か分からないことがあると,注釈に頼ることになります.

しかし,注釈というのは,あくまでも,注釈でしかありません.

後代のテクストです.

著者自身の全くあずかり知らぬ所です.

確かに,注釈者は知識もあり,理解もすぐれています.

しかし,注釈者は,実証学者ではありません.

何らかの動機に突き動かされて書いている場合もあるわけです.

つまり,自分の解釈を読み込む場合もあるわけです.

注釈がいかなる性格のものであれ,ひとまず,ターゲットのテクストから切り離して考える必要があります.




さて,では,簡潔な本文それ自体から,著者の意図を読み取るにはどうすればいいのでしょうか.

たった一行の文,そこから,何をどう読み取ればいいのでしょうか.

著者自身の意図を知るのにまずすべきは,全体の構成を分析することです.

構成を丹念に分析することで,その一文の背景,意図が,たとえ明文化されていなくても浮かび上がってきます.

つまり,この文脈だからこういう一文がある,ということが分かるのです.

これによって,何を著者がその簡潔な一文で伝えようとしているのか,文の焦点は何なのかが,全体の文脈から確定できることになります.

一文だけからは方向性がぼんやりしていたのが,前後の構成から,はっきりと方向を定めることができるのです.

『シャバラ注』もしかり,また,ディグナーガの『集量論』もしかり.

たとえ一文が簡潔でも,前後の文脈,また,全体の中での位置を丹念に調べることで,その一文の言わんとしていることが明らかになります.

このようにして,注釈にたとえ頼らずしても,テクストそれ自体の中から,読解の糸口をつかむことができるようになります.




ここでいう構成とは,チベットのテクストに見られるような科段・科文のことです.

テクスト分析,内容梗概のことです.つまり,

1.
1.1.
1.1.1.
1.1.2.
1.2.
1.2.1.
1.2.2.
1.3.
2.

といったような構成のことです.

もちろん,著者が科段を意識して明示しているチベットのテクストとは違って,サンスクリット文献では,読み手が構成を分析するしかありません.

しかし,テクストの深い読解のために,科段作成の作業は不可欠です.

テクスト研究において,科段作成は絶対に必要不可欠だと私は考えますが,必ずしも,全ての人が分析を行っているわけではありません.

また,入れ子構造の有機的な構成ではなく,単に,1, 2, 3, 4, 5, 6, というように,各パラグラフの内容を,相互連関・上位下位の関係を気にせず,羅列してるだけの場合も見られます.




テクストの全体を読み,構成を明らかにするのは,面倒な作業です.

しかし,それを抜きにしてテクストの深い読解はありえないでしょう.
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  1. 2015/01/29(木) 01:49:37|
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スパイスロードのスパイス

SpiceRoadSpice.jpg

閉店した高砂のスパイスロード.

店主の高田さんが小分けのスパイスを売っています.

早速購入.

同封のレシピ通りに作ってみました.

まんまスパイスロードの味になりました.

なお,塩は10gだと多すぎるので,7gくらいでいいようです.

また,レシピにある「水300mlを三回に分けて入れ」というのは,100X3回の意味だそうです.(冒頭に水の総量300mlと書いてあります.)

間違って300X3で作った人がいたそうです.

確かに,この一文だけ読むと,300X3支持のほうが多数を占めるかもしれません.

生成文法の構文でも,「それぞれ」が入るのか否かで解釈が分かれるのを思い出しました.
  1. 2015/01/28(水) 21:41:14|
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論文の良さ

日本語人の私にとって,英語の論文を読むのは,日本語より当然面倒くさいわけですが,サンダーソン教授の論文は,分かりやすいので,さくさくと読み進めることができます.

明晰だからです.

では,いい論文の明晰性の中身とは何なのでしょうか?

サンスクリットの論書の文章は,(無味乾燥にも)「AはBである.Cだから」という構造をしているのが基本です.

サンダーソン先生の文章も,主張と根拠が明確なので分かりやすい.

Cの根拠については,脚注で,一次資料を挙げて詳しく議論してくれています.

つまり,一つ一つの主張には(資料などに基づく)根拠があるわけです.

一次資料からの根拠をどんどん積み重ねて歴史を再構成すると,最終的には,オリジナルな主張となります.

もちろん,資料根拠から歴史(宗教史)を再構成する力は(誰もが納得するような)「常識」と呼ぶようなバランスとセンスが必要ですが.

というわけで,「明晰」の中身は,主張と根拠,そして,それらからなる一つ一つの構成要素の束ね方(ストーリー)の妙,ということになるでしょうか.

読みにくい論文の例に,情報量は多いが,雑多な情報が混じりすぎ,というものがあります.

また細かい分類をしても,単なる羅列になりがち,というような例もあります.

資料に基づく根拠を集めても,取捨選択,整理して,すっきりした分類や分かりやすいストーリーを作る必要があります.

収集→選択・整理→組み立て,ということでしょうか.

サンダーソン教授の論文は,圧倒的な情報量ですが,ストーリーが明確なので,不要な情報を詰め込んだだけの論文とは違って,一つ一つが有機的に身になります.
  1. 2015/01/28(水) 21:02:20|
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桂紹隆
清弁とアポーハ論
インド論理学研究,7(forthcoming)

MHK5のアポーハ論の箇所の和訳.
中観心論の研究も,かなり蓄積が進んでいます.
論文末に桂先生は,比較のための参照として,次の翻訳を引用しています.

山口 1941
Hoornaert 2001
斎藤 2007
Eckel 2008
Tamura 2010

諸訳比べると分かりますが,結構,違います.
いったいどれがいいのか,なぜ,先行訳・解釈は駄目なのか,いずれ,細かく検討する必要がありそうです.
桂先生も,本論文では,新たな訳を提示するのみで,細かく議論まではされていません.
チベット訳や注釈のTJを参照せずにMHKのヴァース原文だけを読むと,ほかにも解釈の可能性は色々ありそうですが,案外,そういうものは,先行諸訳でも考慮されていなかったりします.みなさん,チベット訳や,あるいは,TJをきっちりと参照されているのでしょう.(つまり,最初から,サンスクリット原文からであれば自然に起こるであろうような或る可能性は全く考慮されていない.)
そういう普通に起こるであろう疑問点に関して,先行研究では,まだまだ十分な(総合的な)検討がなされていないような印象を受けました.
まだ,左に右に手探りの状態で,きちんとしたルートが確定していないのではないか,という印象です.
なぜ,このような解釈は駄目で,このような解釈でないといけないのか,そして,それがベストなのか,というような議論が必要な段階に入ってきたように思います.(つまり,自身の解釈が,チベット訳に基づくのか,TJに基づくのか,あるいは,MHKのパラレルに基づくのか,などという根拠付けです.)

ただし,清弁の基本構想は明らかで,これに関しては,間違いなく桂先生の次の観察が正しいでしょう.

さらに、目下のコンテクストでは、分別の対象は言葉の対象であり、言葉の対象は<他者による否定>と規定される共通性であるが、それは実在しないから、分別の対象も存在しない、という瑜伽行派の主張が否定される。清弁は、単なる共通性ではなくて、共通性を伴う個々の実在が言葉の対象であると主張するのである。



これを基軸として,解釈の分かれるヴァースも再検討する必要があるでしょう.
  1. 2015/01/21(水) 01:35:06|
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received

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Dharmakirti on the Duality of the Object
Pramanavarttika III 1-63
Eli Franco and Miyako Notake
Leipziger Studien zu Kultur und Geschichte Sud- und Zentralasiens
Lit Verlag
2014
  1. 2015/01/20(火) 18:18:03|
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Maitigharにて印哲新年会

Maitighar54309853.jpg

パパド
セクワ
モモ
マトンほうれん草
汁無しチキン
汁有りチキン
野菜
イモ
ダール


三年生はえらく上品に注いでます.

Maitighar5034953.jpg

全員,無事に,卒論・修論も提出.
  1. 2015/01/20(火) 00:07:23|
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Pind 2009: 169, n. 124

Maitighar450982534.jpg




ディグナーガのアポーハ論の研究であるPindの博論.

面白い注がありました.

124 Cf. PSṬ Ms B 201b4-5: na hy atra bhedābhedarūpeṇābhidhīyante, (…中略…)
(1) I regard bhedābheda as an instance of a reduplicated cpd. from < bheda +
bheda with rythmical lenghthening, denoting “various kinds of particulars.” Cf.
AiGr II.1 p. 148; Nachträge zu II.1 p. 44.



さて,Pindの提案は,本当に正しいのでしょうか?

ジネーンドラが,そんな変な用法をするでしょうか?

解決は簡単でした.

na hy atra bhedā bhedarūpeṇābhidhīyante,

間にスペースを入れるだけです.

自分が分からないところに正直に注を入れる,そして,たとえ後の人から見れば誤っていたにせよ,何らかの解決法を提案するというのは,後の人に「ここに問題がある」ということを指示してくれるので,非常に助かります.

出来合いのテクストばかり読んでいると分からないかもしれませんが,写本やトランスクリプトからテクストを起こすと,このような何でもない単語の切れ目も,写本上では繋がっているので,なかなか見えてこないのです.

にしても,ジネーンドラブッディのサンスクリットは非常にきれいで真面目なので,まあ,こんな変な語形があることは,まず想像できません.

タントラなら,テクストによっては,ほとんど何でもありですが.
  1. 2015/01/18(日) 18:30:48|
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もし排除が意味だとすると

Kujuu593484353


さて,もし,ディグナーガのいうように,非牛の排除が「牛」という語の意味だとすると,どうなるでしょうか.

すると,非馬の排除が「馬」という語の意味だということにもなります.

すると,全ての語は――「牛」「馬」「斑牛」「黒牛」「白馬」「黒馬」も――は,排除という同じ意味を持つので,同義語ということになってしまいます.

いやいや,非牛とか非馬とかの限定要素が違うのだから,限定要素の違いによって,つまり,排除対象の違いによって,排除の区別がつくのだ,という反論があるかもしれません.

しかし,外部の要素によって区別をつけるのならば,その区別は第二義的ということになってしまいます.

また,たとえ,それでもいいとして,排除対象の間の区別をつけるにしても,では次に,排除対象を――非牛グループ,非馬グループ――を,どのようにしてグループ化するのか,という問題が浮上してきます.

これは結局,個々の牛と個々の馬をどうやってグループ化するのかというのと同じ問題であり,また,排除対象の場合は数が多くてばらばらなだけに,より困難な問題です.

片岡啓 2012
言語哲学:アポーハ論
桂紹隆・斎藤明・下田正弘・末木文美士(編)『シリーズ大乗仏教9 認識論と論理学』,春秋社.
189-226.
  1. 2015/01/16(金) 08:05:21|
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テクスト解釈の問題に対する訳者の態度

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翻訳作業をしていると,いろいろと難しい問題が出てきます.

解釈上の困難が第一.

当然,先行研究がある場合には,その翻訳をチェックすることになります.

解釈上の困難という問題に対する翻訳者の態度には三種があるようです.

1.問題に気が付かない
2.問題に気が付いていたが,スルーしている
3.問題に気が付いて,取り組む(詳しく注で論じる)

1と2は,結果として,表面上は同じです.

なぜ問題から逃げるのでしょうか?

翻訳というのは,まさに,こういう解釈上の問題を解決するために取り組むものです.

それによって,後に続く人の道しるべとなるべきものです.

問題に気が付いていたのに,それから逃げて,とりあえず翻訳しました,というような先行研究には辟易します.

そして,そんな研究は,当然ですが,多いのです.

人間,大変なことからは逃げるものです.

問題に取り組むと,ぼろが出ます.

誰もそんな格好悪いことはしたくありません.

しかし,それでは,何のための翻訳なのでしょうか.

誠実さというのは,翻訳においても,重要な徳です.

まとまった量のテクストを翻訳すれば,当然,いろいろな問題が出てきます.

訳していておかしいところが出てきます.

それは,テクストクリティークの問題かもしれませんし,あるいは,テクストは正しいが,ひょっとしたら,句読点の違いかもしれません.あるいは,単に,解釈が至らないだけなのかもしれません.

面白いことに,問題というのは,誰にとっても問題です.

つまり,学部生にとっても院生にとってもポスドクにとっても先生にとっても,訳していて「何かおかしいな」と思うところ,引っかかる所は同じなのです.

学部生が「訳せない」と思うところは,案外,難しい問題を孕んでいたりするものです.

そこに大先生が悩む場合もあるのです.

能力の違いというのは,問題解決ができるかどうかにかかってきます.

テクストの易しい箇所は誰でも訳せます.

難しい所にこそ,研究者の真骨頂が発揮されます.

難しい所にこそ,そのテクストの真意を理解させる鍵があるかもしれません.

ミクロな理解がマクロへとつながるケースです.

私が祭式文献を習った永ノ尾先生は,テクスト講読においては,「こだわること」にこだわっていました.

そして,あれこれと関連する文献を持ってきていました.

ただ一つの問題を解決するためです.

研究は,このようにして,遅々として進むものだ,ということです.

そうして地道に積み重ねられて,それを記録として残してこそ,次の人に役立つものとなるのです.

紙幅の限られた媒体では詳細を割愛するのは仕方ありませんが,昨今は,雑誌も頁制限は昔ほどではないでしょう.

編集・印刷コストが下がっているからです.

また,手書きの時代と違って,脚注に情報をどんどん詰め込むことができます.

こだわりの跡を残すことが作業として遥かに容易になっています.

問題に真摯に取り組むこと,問題から逃げないこと,そこからさらに次の(より深い)問題が見えてくることになります.

問題が理解を成長させてくれると言っていいでしょう.

芋づる式に問題が明らかになっていく,そして,連鎖的に理解が進んでいくこともあります.

問題から逃げないことのメリットは大きく,問題から逃げることの逸失利益は大きいのです.

解釈上の問題がそこに在るのに見て見ぬふり――そういう研究は研究ではないでしょう.
  1. 2015/01/16(金) 05:44:59|
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ダルモッタラ:非外非内のアポーハ

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インド論理学の学匠であるジャヤンタは,仏教論理学の展開を次のように見ています.

1.ディグナーガの外なるアポーハ(非存在説)
2.ダルマキールティの内なるアポーハ(認識内形象説)
3.ダルモッタラの非外非内なるアポーハ(虚構説)

もちろん,ジャヤンタの見方は,そのままに受け取るわけには行けません.

1のディグナーガは,クマーリラを通したディグナーガですし,2のダルマキールティは,ダルマキールティの注釈家であるシャーキャブッディを通したダルマキールティです.

いずれも,ジャヤンタの時代に考えられていたディグナーガ理解や,ダルマキールティ理解ということになります.

ともあれ,ジャヤンタによれば,アポーハ論は,

1.外
2.内
3.非外非内

というような変遷を経てきたということになります.
  1. 2015/01/15(木) 23:15:13|
  2. 未分類

ダルマキールティからダルモッタラへ

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ダルマキールティは,ディグナーガのアポーハ論の中身を変えてしまいます.

彼によれば,「牛」という語と直接につながっているのは認識内の形象,つまり,心に浮かんだ牛のイメージです.

もちろん,概念知に浮かんでくるこのようなイメージは,本質的に錯誤したものです.

しかし,心に浮かんだイメージは,認識そのものと非別である以上,何らかの意味で実在性をもってしまうことになってしまいます.

ダルモッタラが心配したのはこの点です.

彼は,ダルマキールティ流の認識内形象説を批判することになります.

片岡啓 2012
アポーハとは何か?
『インド論理学研究』5, 109-134. (In fact published in April 2013, though printed as published in November 2012.)
  1. 2015/01/15(木) 23:07:26|
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言葉は推論だkila

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ディグナーガは,言葉は推論と同じだと言います.

なぜでしょうか.

それは働き方が同じだからです.

推論の証因も,語も,他者を排除することで対象を理解させます.

煙は非火を排除することで火を一般的な形で推論させます.

つまり,直接の対象は他者の排除という共通性です.

同じように,「牛」という語は,非牛を排除することで牛を一般的な形で理解させます.

ここでも,直接の対象は他者の排除という共通性です.

このように,直接の対象がいずれも同じく他者の排除なので,推論も言葉も同じだと見なされます.

したがって,独自相を対象とする知覚(無分別知覚)と峻別されるのです.

推論→共通相
      |
知覚→独自相

では,独自相と共通相とは,どのような関係にあるのでしょうか.

ダルマキールティに至って,このことが問題として大きく意識されるようになってきます.
  1. 2015/01/15(木) 22:51:28|
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panaso 'yam

Panasoyam5098234

「これがパナサだ」という指さしによる語意習得の例にディグナーガは言及します.(「パナサ」はサンスクリット語でジャックフルーツを意味します.)

インドの意味論では,必ずと言っていいほど,言語習得,すなわち,語意関係把握の問題が意識されます.

「牛」という語とその意味――それは個々の牛かもしれませんし,牛性という共通性かもしれませんし,あるいは,牛性に限定されたものかもしれません――の関係を学ぶことなくして,語から意味が理解されることはないからです.

彼らは語意論を論じるときは,常にこの問題を意識していました.

事情はディグナーガにとっても同じです.

当然,「牛」と,その意味である〈非牛の排除〉との関係を,どのようにして人が習得するのか,ということが彼にとっては答えるべき課題として浮かび上がってくることになります.

語意論が持つこの語意関係習得の側面からも,アポーハ論が他理論より優れている理由があるとディグナーガは考えていました.

牛以外に「牛」という語が適用されるのを見たことがない,という〈見たことのないこと〉が,語意関係把握を裏付ける根拠となります.

つまり,逸脱例・反例を見たことのないことが,「牛が無ければ「牛」という語が適用されることは決してない」という法則の根拠となるのです.

もちろん,誤って牛以外を「牛」と呼ぶことはあるかもしれませんが,ここで言っているのは,社会的に認められた正しい用法として,牛以外に「牛」という語が適用されることはこれまでなかった,ということです.ディグナーガは,もちろん,社会の通念として存在する語意関係の安定性を認めています.ただし,それは,所詮は世俗的なものであって,絶対的なものではありません.

世俗の中で認められた語意関係,これをどのようにして説明するのか,これが,バラモン教の学者にとっても,仏教の学者にとっても問題だったのです.

もちろん,仏教徒にとっては,龍樹に既に明らかなように,我々が通常思い描くような火と煙の因果関係ですら,世俗的なものでしかないのです.

Cf.片岡啓 2014
インド哲学における反証可能性の議論
『南アジア古典学』9, 259--290.
  1. 2015/01/15(木) 22:38:48|
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アポーハ:ディグナーガからダルマキールティへ

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アポーハ論はディグナーガからダルマキールティで大きく変容してしまっています.

「牛」は牛でないものでないものを指す,すなわち,非牛の排除に限定されたものを指すというのがディグナーガの見解です.

語の直接の意味,つまり,適用原因は排除です.

この排除の中身は何でしょうか?

それは,非実在(adravya)です.

ですから,ジャーティを持つものを語意とする立場と違って,間接性の問題が生じてこないのです.

ジャーティを持つものを語意とすると,間接性の問題,つまり,語が比喩的表現となってしまうのです.

つまり,

「牛」→牛性
     |
     牛

というようになります.ここでは,牛性を通して牛群が理解されることになってしまいます.

これが間接性の問題です.

しかし,アポーハの場合は,アポーハが非実在ですから,このような問題は生じません.

「牛」→排除
     |
     牛

ということですから,この排除を透過します.ここに間接性の問題は生じません.

いっぽう,クマーリラは,意地悪くも,この排除を非存在(無)と置き換えた上で,彼自身の存在論にしたがって,それを実在と捉えます.つまり,クマーリラにとっては,非存在も実在の一種なのです.したがって,クマーリラ以降,排除の存在論的位置づけが問題となってきます.

排除が存在として何なのか,これが,ディグナーガ以降,クマーリラの批判を通して,問題として浮上してくることになるのです.

Cf. 片岡啓 2012
「アポーハとは何か?」
『インド論理学研究』5, 109-134. (In fact published in April 2013, though printed as published in November 2012.)

片岡啓 2013
DharmottaraはApoha論で何を否定したのか?
『南アジア古典学』8, 51-73.
  1. 2015/01/15(木) 22:14:14|
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太郎は火だ

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同様に,「太郎は火だ」という場合の「火」も比喩的な表現です.

褐色性kapilatva,あるいは,鋭さtīkṣṇatvaを指示すると安慧は言っています.

tad yathā mukhye agnau tatsadṛśe ca māṇavake tayoś ca sādhāraṇe dharme kapilatve tīkṣṇatve vā saty agnir māṇavaka ity upacāraḥ kriyate.
  1. 2015/01/15(木) 19:09:52|
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太郎はライオンだ

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「太郎はライオンだ」という場合の「ライオン」は比喩表現です.

「太郎」は直接に太郎を指します.

「ライオン」は直接的にはライオンを,間接的には,力ずくでする者(暴力的に振る舞う者)であるという性質prasahyakāritāを通して,太郎を指します.

「ライオン」→ライオン→力ずくでする者性
                    |     
「太郎」          →    太郎

比喩表現が間接的だ,というのは,このような構造があるからです.
  1. 2015/01/15(木) 18:55:01|
  2. 未分類

バークタの過失

Zaeka59845340953.jpg


ディグナーガは,比喩表現ウパチャーラの問題を,バークタの過失とも言っています.

バークタというのは,被扶養者,依存して養われる者ということです.

ここでは,依存するもの,つまり,間接的,依存的,第二義的な表現ということです.

bhaj シェアする,分ける
bhakta シェアされたもの,分け与えられたもの,食べ物
bhākta いつも分け与えられた食べ物を持つもの,依存者,依存するもの

ということのようです.

bhaktaは帰依・信心bhaktiを持つ帰依者のことですが,bhāktaと音が伸びると依存者になるというのは面白いですね.

ということは,親鸞的には,bhaktaではなくてbhāktaのほうが絶対他力の真の帰依者ということになるでしょうか.
  1. 2015/01/15(木) 18:24:43|
  2. 未分類

有性を持つもの

TsukiToKameAkizuki530945832.jpg


では,「有る」というのは,有性を持つものを指すと考えればどうでしょうか.

こうすれば,個々のものを一般的に一者としてまとめながら,なおかつ,同格表現を説明できます.

「有る」→有性   物体性←「物体」
       |     |
        有る物体

「有る」が指すのは,有性を持つものであり,いっぽう,「物体」が指すのは物体性を持つものです.

これにより,同格表現の問題もクリアーできます.

二つの表現は,同じものを指すことができます.

というのも,有性と物体性とは同じものに同居しているからです.

しかし,これにも問題があるとディグナーガは言います.

「有る」が有性を指す場合,その意味は直接のものでした.

しかし,「有る」が有性を通して,有性を持つものを意味するならば,その意味は間接的となってしまいます.

意味というのは直接的なものでなければなりません.

間接的な表現というのは比喩表現です.

語が全て間接表現・比喩表現になってしまうのです.

これは困ります.
  1. 2015/01/15(木) 08:14:33|
  2. 未分類

「有る」が有性を指すなら


Maitighar450983.jpg



「有る」が個々の物ではなく,有性という共通性を指すという立場を,ディグナーガは批判します.

その場合,「有る物」「物が有る」という言い方がおかしくなると彼は言います.

「有る」→有性
       |
「物」 →物体

二階建てになるからです.

つまり,「物が有る」「有る物」という同格表現ではなく,「物の有る」という表現にならないといけないはずです.

物体と有性とは別のものだから,同じものを指す同格表現はおかしいということになるのです.
  1. 2015/01/15(木) 08:13:43|
  2. 未分類

「青い睡蓮」

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「青い睡蓮」と言う時,「青い」は一つの花が持つ属性である青という色を指し,いっぽう「睡蓮」は睡蓮という物体を指します.

「青い」→青色
       |
「睡蓮」→睡蓮

しかし,本当にこんな単純なものなのでしょうか?

サンスクリット語では,「青い」という形容詞も「睡蓮」という名詞も,語の形は同じ中性の第一格です.

つまり,「青い,かつ,睡蓮」あるいは「睡蓮は青い」というような表現になっています.

だとすると,構造的には

「青い」→青い睡蓮←「睡蓮」

というような一階建てになってくれないと困ります.

しかし,この両語が表しているのは,青色という性質と,睡蓮という物体であり,二階建てになっています.

すると,正確には,「睡蓮の青色」というように,属格を使って表現すべきではないでしょうか.

どのようにしてこの表現を正当化するのか,それが,インドの文法家,また,それに続く言語哲学者にとっては問題でした.

ディグナーガもこの問題を引きずりながら,彼の意味論を構築します.

彼の意味論の核は,「青い」は〈青でないものでないもの〉を指すというものであり,「睡蓮」は〈睡蓮でないものでないもの〉を指すというものです.(それって,結局のところ,青さとか睡蓮性とかではないのか,というのが聖典解釈学者のクマーリラのツッコミです.)

したがって,「青い睡蓮」というのは,青でないものでなく,かつ,睡蓮でないものでないものを指すことになります.
  1. 2015/01/15(木) 07:29:42|
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「有る」という単語から何が理解されるのか?

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「物が有る」というような文で使われる「有る」という単語からは何が理解されるのでしょうか?

ディグナーガは,まずはじめに,個々の物が理解されるという立場を批判します.

個々の物ということは,AもBもCも....ということです.

この場合,二つの問題が生じてくることになります.

1.習えない
2.使えない

まず,単語というのは,言葉とその意味の関係を習って初めて使えるものです.panasaという単語を聞いても,非サンスクリット語人には何のことか分からないでしょう.(パナサとは,サンスクリット語で,ジャックフルーツのことです.)

もし"sat"という語が,A,B,C,....という無限に有る沢山のものと関係しているなら,その関係を学ぶのには,無限の時間がかかります.実際的に,それは不可能です.つまり,「有る」という語が無数にある個々の物を理解させるというならば,それは,無理な話だということです.ディグナーガは,「無数にあるから」と言っています.

また,たとえもし関係が学べたとしても,実際には使えないでしょう.というのも,"sat"という語は,AもBもCも....全てを意味します.無数の対象との関係を知っているとしても,その聞き手は,"sat"という語からは,「Aなの?Bなの?Cなの?...」というような疑問を持つことになります.つまり,せっかく語を聞いても用をなさないわけで,疑惑をもたらすだけです.

このように,語が個々の物を意味すると考えると,問題が生じることが分かります.

したがって,個々の物ではなく,それら個々の物に共通する何らかのものを指すという立場を探ることになります.
  1. 2015/01/15(木) 07:15:49|
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svapna-vyapti-darsana



初夢に,煙と火の遍充.

〈聴覚器官の対象であること〉という理由は,〈非共通であるが故に不定である理由〉という疑似理由に分類されます.

主張:音声は常住だ
理由:聴覚器官の対象であるから
実例:???

聴覚器官の対象は音声という主題だけなので,主題以外のものであるべき同類例をこの論者は示すことができません.

つまり,「~のように」という同類例を示すことができないのです.

したがって,類例がないので,この場合,理由が常住性を論証するのか,あるいは,無常性を論証するのか,これまでの合意された経験例からは分かりません.

このような理由は不定因の一種として退けられます.

伝統的な訳語で「不共不定」と呼ばれます.

漢文だと次のように説明されます.

所言不共不定者。如有說云。聲(有法)常。(宗)所聞性故。云何知其不共。為常之同品。無常異品。皆離此所聞性因義。故名不共不定

ちなみに,文法学者やミーマーンサー学者にとって,この論証に類例はあるので問題はありません.

実例:音声性の如し

彼らのシステムにおいては,音声性(もちろん普遍なので常住)も聴覚器官の対象となるので,類例はあるのです.

したがって,音声性を認めているヴァイシェーシカ学者――音声の無常を主張する――に対しては有効な論証となりえますが,音声性を認めない仏教徒に対しては無理です.

もちろん,ヴァイシェーシカ学者も対抗論証を持ち出してきますから,結局,引き分けに持ち込まれて,この論証は二律背反のどっちつかずの状況に追い込まれるので,正しい論証にはなりえません.

対抗する論証因を必ず持ってしまう論証(viruddhāvyabhicārin:矛盾したものから逸れないもの)となってしまうわけです.

不共不定については,むかし,ここで論じました.
  1. 2015/01/03(土) 15:25:54|
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