Pratibhanusarini --- 九州インド哲学ブログ2

On Indian Philosophy and Buddhist Studies

犢子部

無我を説く善逝の系譜に連なりながらも、五蘊と同じでもなく別でもない我(アートマン)を、プドガラの名の下に説くのが、犢子部です。


TS 336: いっぽう、或る者達は、善逝の子孫を自認するにもかかわらず、プドガラと称して、[五蘊と]同じでもなく別でもないアートマンを説く。



そもそもアートマンとは何でしょうか。

1.善・悪の行為の主体
2.行為の結果の享受主体
3.前の五蘊を捨てて、次の五蘊を取る輪廻の主体

このアートマンの定義的特質の全てをプドガラは満たしています。

結局の所、犢子部は、実質的にアートマンに相当するものを「プドガラ」と呼んでいるだけです。

つまり、仏教徒であるにもかかわらず、アートマンを説いていることになるわけです。

したがって、無我の教えに反する論者だと、シャーンタラクシタは批判しているわけです。


337. 【犢子部】プドガラは、五蘊と別ではない。外道の見解となってしまうので。非別でもない。複数などとなってしまうので。それゆえ、[五蘊と別とも非別とも]言い表されえないというのが正しい。



プドガラが五蘊と別であるならば、五蘊とは別なものとして常住なアートマンを立てる外道の説と同じになってしまいます。

かといって、五蘊と同じならば、五蘊が多数であるように、プドガラも多数となってしまいます。

そうすると、プドガラは一者ではないということになってしまいます。

これでは、犢子部が認めたい常住な一者――行為主体・享受主体・輪廻主体たりうるもの――とはならなくなってしまいます。

それゆえ、犢子部は、五蘊と別でも非別でもないものとしてプドガラなる一者を立てます。

それは五蘊と別とも別でないとも言い表され得ないものです。

五蘊と別非別断定不可能なもの、それがプドガラです。




これに対するシャーンタラクシタの回答はシンプルです。

1.実在であれば、それは、五蘊と別か非別かいずれかである。(P→Q)
2.いま、プドガラは、五蘊と別でも非別でもない。(¬Q)
   ――――――――――――――――――
3.それゆえ、プドガラは、実在ではない。(¬P)

つまり、能遍の非知覚という論証因により、プドガラは、勝義としては存在しないということが導かれます。

なんとも論理的で杓子定規な回答です。
スポンサーサイト
  1. 2015/02/25(水) 00:43:53|
  2. 未分類

真如の知

我々は、「自分が対象を見ている」と思っています。

唯識の考えによれば、これは間違いです。

「自分が対象を見ている」というのは、唯識の用語で言うと、把握主体が被把握対象を捉えている、という構造になります。

能取・所取の二元というものです。つまり、主客の対立です。

これは存在しないというのです。

非有性<-------------確定
  |
[客←主]

主客の二元が非有であることを確定することが、でっちあげられたものについてよく知ることです。

つまり、遍計所執性について知悉するということです。

しかし、これだけでは「無い」という認識だけで、一方に偏ってしまいます。

さらに、「現れてきている」という側面を捉える必要があります。

すなわち、心が、非有である主客の二元性をもって現れてきているという構造を捉える必要があります。

これが、他に依存しているもの(現れ)についてよく知ることです。

つまり、依他起性について知悉することです。

非有性
   |
[客←主]-----------現れ
         |
         心

心が、実際には非有である主客の二元の形をとって現れてきているという、現れ出しの側面を捉えるのが、依他起性について知悉することです。

以上、でっちあげられたものと他依存のものについてよく知ることが、いわゆる円成実性の知にあたります

つまり、我々の認識の仕組みについてよく知ることです。

非実のでっちあげという構造を正しく捉えればいいわけです。

ありのままに捉えること、それが、真如の知です。

つまり、この世の全ては単に認識させられているものにすぎないという唯識の気付きです。

遍計所執性・依他起性・円成実性の三性説は漢字が難しいので敷居が高いのですが、サンスクリットで読むと、実に単純なことしか言っていません。

つまり、実際には存在しないでっち上げられたものが現れてきているということであり、心がそのようなものとして現れてきているということです。だから、「すべては認識させられているだけ」ということになるのです。

「二空が、即、唯識ぞ」などと言われると、論理の飛躍に恐れをなしますが、なんのことはない、実に単純なことでした。

単純すぎて有り難みがないので、有り難みを増すためには、難しい漢字を使った方がいいかもしれません。

また、自分でも言ってることがよく分からないときは、難しい漢字で武装した方が良いでしょう。
  1. 2015/02/24(火) 09:29:48|
  2. 未分類

前主張の意義

インドの論書においては、パターンとして、まず、敵の説(前主張)を提示してから、次に、それに対する論難(後主張)が提示され、自説が示されます。

前主張(P)と後主張(U)です。

この前主張について、インドの議論のスタイルに慣れない人には誤解があるかもしれません。

誤解というのは、つまりPを提示する際に、U側は、故意にねじ曲げて提示している、あるいは、わざと批判しやすいように提示している、Pの本意とは違う形で提示している、という捉え方です。

現代にあるような一部の稚拙な論争ではそうかもしれません。

テレビで見るような論戦では、相手の攻撃しやすいところだけを取り上げて、しかも少し曲げて、それで、相手を打ち負かすというのがテクニックなのかもしれません。

しかし、インドの論書の場合、わたしが読んだ限り、そのような印象を受けることはまれです。

まず、的確に相手の主張を捉えています。

そのうえで、核心を突いた批判をします。

まさに、哲学的な、真に建設的な議論が成立しているわけです。

相手の主張を正しく受け止めて、それでいながら、その主張が成立しないことを、一般的な形で(つまり両者が認める論拠や喩例という基盤に立って)突き崩そうとしています。

例えば哲学議論において重要な問題として、Pの定義が狭すぎるavyaapti、或いは、広すぎるativyaapti、というのがあります。

「AはBである。これは100%正しい」というPの主張に対しては、「いやいや、こういう反例がある」というケースを一つ示せば、相手の主張は崩れてしまいます。Pが用いる論証における理由(論証因)の不定anaikaantika・逸脱vyabhicaaraを示すわけです。

相手の主張を正しく受け止めながら、なおかつ、その相手の論理に従って、それが成り立たないことを示すのは、インド人が得意とするところです。「あなたの論証では、むしろ、逆のことを証明することになる」という矛盾因viruddhahetuの指摘です。

論争において、もしUがPの主張を正しく受け止めていないなら、すなわち、Pの前主張を正しく提示していないなら、そもそも、Pに対する適切な論難とはならないはずですから、Pの側からは「そんなことは我々は主張していないから、Uの論難は的外れだ」と言い返されて、論争は終わってしまいます。

的外れなことを言ったUのほうが、むしろ、負けとなってしまいます。

インドの論争において、Pの主張の核心を正しく捉えて反論することは重要なのです。

歴史上残ってきた(つまり後代の人々に人気を博してきた)批判というのは、このように、Pの主張をUが正しく捉えた上で、本質的な批判を行っているものばかりです。

非核心的な的外れ、あるいは、その場しのぎの単なる揚げ足取りの批判というのは、そのひと一代限りで終わってしまって、その後、引き継がれることはありません。

何が言いたいかというと、前主張に書かれた内容は、Pの説の核心を再建するのに重要な手がかりとなるということです。

P説が同時代の人、少し後の人によってどのように理解されてきたのか、どのような文脈で捉えられていたのかというのを知るのに、前主張における内容というのは、極めて重要な資料なのです。

定説Xだけを知るのは簡単です。

しかし、我々は、或る説Xを正しく理解するにあたっては、その敵の側Yによってどのように記述されているかをも正しく理解する必要があるのです。

敵の瞳に映った自分の姿をよく見てみることで、客観的な評価がより確実なものとなるのです。

Yに書かれたXの主張は前主張だから真剣に取り上げるに値しないという態度、つまり、Xが自説として書いた後主張だけを見て事足れりとする態度は、サンスクリット論書の取り組み方としては、極めて浅薄・幼稚な見方です。

私の師のヴェンカタラーマン教授がしばしば強調されていたように、前主張を正しく捉えてこそ、そして、曲解して弱くするどころかむしろ相手の主張を強くするくらいに深く正しく捉えてこそ、真のインド哲学者と言えるでしょう。

歴史に残ってきたインドの偉大な哲学者というのは、みな、そのような真に建設的な議論応酬をしています。

そのおかげで我々は、貴重な断片資料を手にしたりするわけです。

例えば仏教徒のシャーンタラクシタは、敵のクマーリラの失われた詩節を多数保存してくれています。

まず前主張においてクマーリラの詩節を引いて、それから、それを受けた批判を行っています。

シャーンタラクシタに対する注釈者であるカマラシーラは、クマーリラの詩節に対しても、すぐれた注釈を残してくれています。

もちろんカマラシーラは、シャーンタラクシタに対して注釈しているわけですが、結果的に、クマーリラの詩節に対して注釈を残したことになるわけです。

その内容を読むと、ミーマーンサー学者より勝れたミーマーンサー学者だと評価できます。

後代のミーマーンサー学者より、よっぽど深くミーマーンサーを理解して、それを的確に表現しています。

ここには、的確に相手の説を理解しようという姿勢がうかがえます。

その上で、批判を行っているのです。

ミーマーンサー文献だけを読んでミーマーンサーを知ったつもりになるならば、また、仏教文献だけを読んで仏教を知ったつもりになるならば、カマラシーラからはその浅薄さを笑われることでしょう。

自像の成立は他者の目を本質的に必要とするものです。
  1. 2015/02/23(月) 01:34:30|
  2. 未分類

スキリング先生(Skilling 2013:126, n. 37)の本を読んでいると、干潟先生校訂の善勇猛般若経の一節が引かれていました。

dhātuśaḥ satvāḥ saṃsyandanti, hīnādhimuktikā hīnādhimuktikair udārādhimuktikā udārādhimuktikair iti.



そのまま直訳すると

界毎に衆生は一緒に走る。劣った信解を持つ人達は、劣った信解を持つ人達と、高貴な信解を持つ人達は高貴な信解を持つ人達と。



心の中には基盤となる色々な要素(素質)があるでしょうが、個々人の志操・信念・こだわりの違いによって様々に発現してくる要素に応じて似たもの同士、類は友を呼ぶ、ということのようです。

気高いadhimuktiを持ちたいものです。
  1. 2015/02/21(土) 09:59:36|
  2. 未分類

Buddhist Studies: The Role of Sanskrit

Mahidol9 001


仏教研究におけるサンスクリットの役割というテーマで四人の発表。

スキリング教授のキーノート講演につづいて、アイザクソン教授、フランチェスコ教授、ハリモト博士の発表。

アイザクソン教授は、Vanaratnaの自筆写本について。

フランチェスコ教授は、まさに、仏教研究におけるサンスクリットの役割について。チベット訳の間違いを例に議論。

なぜ翻訳じゃだめなのか、なぜ意味だけ取り出すだけでは駄目なのか、という問題です。

ハリモト博士は、既に二本の論文を書いているTS注断片(カマラシーラのものではない)に関して、仏教文献を扱うにあたっても、仏教内外のテクストを扱うことが必要・重要であることについて。

会場には、ジャン・ナティエさんの姿も。

なぜ、仏教を研究するのにサンスクリットが必要なのでしょうか?

恐らく、日本でも昔には議論があったはずです。

が、いまでは、誰も改めて疑問にする必要を感じていません。

サンスクリットの重要性が、少なくともここ100年の経験で明らかだからでしょう。

サンスクリット研究がなかったとしたら、日本の仏教研究はどうなっていたのでしょうか?
  1. 2015/02/21(土) 01:54:15|
  2. 未分類

仏教研究前線

仏教研究の最先端は、もう、これまでとは全くちがう状況が、どんどん出現しつつあって、教科書なんて、全然追いついていません。

アフガニスタンの地面の下から写本資料は出てくるは、あれこれと考古学の調査もすすむは、さらには、中国・チベットにあったサンスクリット写本資料が徐々に公開されるわと、もう、お祭り騒ぎです。

チベット仏教も、これまでになかった膨大な量の(しかも重要な)著作集がどんどん公刊されています。

今まで全く手つかずだったパーリ語の注釈類も、アクセスが容易になってきています。

しかも、データは、漢文・パーリ・サンスクリット・チベット、それぞれ膨大な量が電子化され、少なくとも、どこに何があるかは、かなり検索がたやすくなっていて、横の比較もハードルが低くなってきています。

学部の時に習った仏教史の教科書、もちろん、今でも役に立ちますが、でも、今から見ればカヴァーしてない分野のなんと多いことか。

紀元後1000年あたりのインドの後期密教の状況など、どこにも書いてないです。

資料をまとめて全体像を結ぶ段階ではなく、いまは、とにかく個々の資料がぼこぼこ出てきて研究されるという戦国時代的な状況にあります。

全体が見えてくるのは、もっともっと先のことでしょう。

そういうのが好きな人にはほんと良い時代。

さっさと結果を見たい一般読者にとっては、混乱のまっただ中にあって迷惑千万。

自分が学部生の頃は「空だの唯識だの、同じテクストばっかりやって、飽和してるなー」と単純に思っていました。

が、時代状況がすっかり変わっています。

やるべきテクスト、今までに無かった資料が、どんどん出てきています。

また、これまでやられたテクストも、周囲の資料状況の変化により、読み直しが迫られています。




とはいえ、時代が変わっても、結局、やるべき作業は何も変わりません。

地道に一次資料を読んでそこから自分で感じることです。
  1. 2015/02/20(金) 10:23:30|
  2. 未分類

本来清浄

解脱を目指す宗教においては、空が本来澄んでいるように、心も本来澄んでいる、というのは、証明すべきような事柄ではなく、解脱が可能であるために必然的に要請される事柄のようです。

本来清浄、客塵煩悩という構造について疑いを差し挟む余地はないようです。

凡夫には、自分自身にもともと備わっている本性でないにもかかわらず、認識対象が生じてきます。

非本来的なものである認識対象が生じると、同じく、非本来的な認識、すなわち、錯誤も生じてくることになります。

心の迷乱です。

主客の二元は、本当には存在しないものであり、にもかかわらず誤って現れてきます。

parikalpitaとparatantraの構造。

abhuutaparikalpaです。

汚れは非本来的で、外からやってきたもので、もともと心にしっかりと根付いているものではありません。

それが滅すると、本来の汚れなき心が輝き出すというわけです。

顕教で無量劫かかる結果を、今生でさっさともたらしてくれる「速い」手段が密教です。

中でも、ヨーガタントラでは示唆するにとどまっていたsahajaanandaを明瞭に説いてくれているのが、ヨーギニータントラです。

「速い、美味い」の二拍子。(メソッドとして「安く」はなさそうですが、簡単ではあります。)

色々と有難いことを言ってますが、社会的な結果から無味乾燥に見れば、忙しい人でも、金さえ払えばさっさと解脱できるということです。

いますぐの結果を求める心性は今も昔も変わりません。(さすがに禅のように弾指の刹那で悟るというところまでいくと、インド的には行き過ぎた感があります。)

ちなみに、密教ならずとも、原始仏教においても、仏陀自身は「今生での解脱」ということを強調しているようです。

仏教史のダイナミズムも、或る視点から見るならば、偉大な解脱と身近な解脱、この往還でしょうか。

その時々の社会に合わせた解脱という商品のイメージ設定の微妙なさじ加減、という見方もできます。

にしても、ラトナーカラシャーンティの文章の明晰さには、ほれぼれします。

1000年前の碩学の文章がサンスクリットの原文で直接に味読できてラッキーです。

しかし、サルナートエディション、悪くはないのですが、肝心の所で間違っていたりします。

テクストも本来清浄なんでしょうけど、あまりにも取り除くべき非本来的なノイズ・汚れが多すぎます。

校訂作業が、今生でさっさと終わればいいんですが、こればっかりは時間がかかります。

ラトナーカラシャーンティの梵語原典がまとまって読めるようになるのは、まだまだ先でしょう。

まして、日本語でとなると、これまた、先の先でしょう。

和訳するとなると、まず、体系全体を理解しておく必要がありますが、発展の頂点にある後期仏教のラトナーカラの全体を捉えるのは、たやすくなさそうです。

しかも、同時代人のあれこれを批判的に意識して書いていますから、そういった背景も含めて理解するとなると、現在の後期密教・後期仏教の研究状況からすると、ますます、先の先となるでしょう。

いずれにせよ、顕教だけ、密教だけ、というような垣根を設けるのはナンセンスです。
  1. 2015/02/20(金) 09:53:47|
  2. 未分類

received: The Bodhisattva Ideal

Essays on the Emergence of Mahayana

Peter Skilling

Buddhist Publication Society, 2013
  1. 2015/02/20(金) 00:55:40|
  2. 未分類

カンティーン

学食
  1. 2015/02/19(木) 17:11:20|
  2. 未分類

ムエタイ部

Mahidol7 002

サークル棟、ムエタイ部が練習中。

  1. 2015/02/19(木) 12:15:33|
  2. 未分類

正量部

Mahidol7 004

校外にお住まいのスキリング先生も参加。
  1. 2015/02/19(木) 01:16:53|
  2. 未分類

マヒドン大の校則

Mahidol7 003
  1. 2015/02/19(木) 01:09:39|
  2. 未分類

休み時間

台北のハンスも来ているので、休憩時間にコーヒーを飲みながら、天台の話を聞いていました。

空仮中とか、英語で解説聞くと、新鮮です。

ラトナーカラシャーンティとかを見ていると、唯識→密教ですが、天台になると、唯識ゼロで、バックグラウンドは中観ばっかりです。

しかも、中国の天台だと、密教ゼロですし。

同じ「仏教」といっても、ほんと、全然違う方向があるものだなと、つくづく思います。
  1. 2015/02/18(水) 10:30:59|
  2. 未分類

休憩時間

Mahidol6 020

ブログやってるなら顔出しさせてくれ、とのこと。

グレッグとケイシー。

さすが西海岸のメンタリティー。
  1. 2015/02/17(火) 17:22:46|
  2. 未分類

耳の恋人=アーリヤシューラのジャータカマーラー

アーリヤシューラのジャータカマーラー,なかなか格調高い詩です.さすが,昔の人は違います.無粋に直訳すると以下のような感じ.

1.[自利・利他の完成により]偉大であり,良き人達の徳を取り込むことで吉祥であり,賞賛の的であり,異論なく魅惑的である,諸前世における聖者の奇跡の事績を,私の詩という掌花でもって,帰依の心をもって供養せん.



3.以上のように考察してから,人々のために,これなる努力を,聖言(アーガマ)・聖仙のもの(シャーストラ)・論理[の三つ]を欠いていない道により,私は為そう.世間の最上の人の事績の卓越性を示すことで,閃きに基づく自らの[詩]を,耳の恋人とならせるために.



写真 (16)
写真 (15)
  1. 2015/02/15(日) 10:54:26|
  2. 未分類

Don Whai Market, Nakhon Pathom

写真 (13)

夕方に行ったDon Whai寺の裏手の水上マーケット

「これは喉に効くよ」の苦汁

一杯50バーツ

結果,特に良くなったわけでも悪くなったわけでもない
  1. 2015/02/15(日) 09:34:38|
  2. 未分類

ナコン・パトンの国立博物館

Mahidol3 103
Mahidol3 116
Mahidol3 105
Mahidol3 104
  1. 2015/02/15(日) 09:24:13|
  2. 未分類

正量部のアビダルマ

正量部といえば,九大の同僚である岡野教授の研究対象でもあります.

引用・言及断片のほかは,学派所属の著者による梵語テクストが僅かしか残っておらず,研究しようにも,資料が少なすぎるのが問題でした.

岡野教授が出している和訳冒頭の解説にもあるように,資料発見の経緯は,結構ドラマチックです.

今回の研究会では,スフェラ教授が新資料を提供.

アビダルマ・サムッチャヤ・カーリカーです.

トゥッチが撮影したもので,一時,資料としてはどこに行ったか分からなくなっていましたが,資料整理により,再度,出てきました.

そして,現在,スフェラ教授が校訂準備中.

資料的に,これまたドラマチックな話が色々とあります.

内容的には,入り組んだ体系を前提としたアビダルマの綱要書だけに,私のような素人が,何の解説も無い簡潔な定義句を読みこなし,そこから内容を再構成し,さらには,有部との違いを理解するには,結構タフなテクストです.

ABhKなどと比較しながら,まずはテクストを確定していく必要があります.

一本の写本から信頼できるテクストを作るには,やはり,かなりの作業が必要です.

今回は,正量部研究の専門家でもあるスキリング教授も特別参加.

豪華メンバーです.

ラトナーカラシャーンティといい,正量部といい,仏教研究も最先端は,どんどん新たな流れが出てきます.

10年前とは全く相貌が違います.

シリーズ大乗仏教のような講座ものも,次は,30年ももたないでしょう.

10年くらいで書き換える必要が出てくるのではないでしょうか.
  1. 2015/02/14(土) 08:07:14|
  2. 未分類

ミーマーンサー関係の書評

Hugo David
Noubelles tendances dans l'étude de la Mīmāṃsā. Trous publications récentes sur l'exégèse brahmanique classique.
Le Bulletin de l'École française d'Extrême-Orient (BEFEO), 99 (2012-2013), pp. 395-408.

「ミーマーンサー研究の新潮流」と題してダヴィド博士が書いたのは,ミーマーンサーの分野で最近出版された以下の三本の書評.

James BENSON, Mahādeva Vedāntin. Mīmāṃsānyāyasaṃgraha. A Compendium of the
Principles of Mīmāṃsā. Edited and translated by, Eth no-Indology, Heidelberg Studies
in South Asian Rituals vol. 5, Wiesbaden, Harrassowitz Verlag, 2010, 905 p. [ISBN
978-34-47-05722-6, 148 €]

Kei KATAOKA, Kumārila on Truth, Omniscience, and Killing. Part 1: A Critical Edition
of Mīmāṃsā-Ślokavārttika ad 1.1.2 (Codanāsūtra), Part 2: An Annotated Translation of
Mīmāṃsā-Ślokavārttika ad 1.1.2 (Codanāsūtra), 2 vol., Philosophisch-Historische Klasse,
Sitzungsberi chte, 814. Band, Beiträge zur Kultur- und Geistesgeschichte Asiens 68,
Wien, Verlag der Österreichi schen Akademie der Wissenschaften, 2011, 97 p. et 627 p.
[ISBN 978-3-7001-7001-3, 85 €]

Elisa FRESCHI, Duty, Language and Exegesis in Prābhākara Mīmāṃsā. Including an
Edi tion and Translation of Rāmānujācārya’s Tantrarahasya, Śāstraprameyapariccheda,
Jerusalem Studies in Religion and Culture 17, Leiden / Boston, Brill, 2012, xxii-401 p.
[ISBN 978-90-04-22260-1, 135 €]
  1. 2015/02/14(土) 07:44:49|
  2. 未分類

アプラニヒタという三昧

主体・客体の二元は非存在であり,にもかかわらず現れてきます.

非実在の妄想それ自体は他に依存して生じるものですから存在します.

無いものが現れてきているという虚妄分別の他依存的なあり方を知ることが,アプラニヒタなる三昧だそうです.

有と無のコンビネーションについて瞑想する三昧です.

再生に向かって心を向けること(プラニダーナ)を防ぐ,という意味だそうです.

この世が幻であり,しかも,その幻を作り出している虚妄分別の仕組みがあると正しく知れば生まれ変わりたくもなくなるでしょう.
  1. 2015/02/13(金) 08:16:13|
  2. 未分類

空三昧:五蘊は無い

アビダルマで説かれるような全ての要素は,完全なるでっち上げなので,全く存在しないとのこと.

これが空なる三昧と呼ぶ三昧だそうです.

つまり,でっち上げられた蘊・処・界が無いことを所縁とする三昧です.

菩薩が修すべき三つの三昧の第一です.
  1. 2015/02/13(金) 07:58:54|
  2. 未分類

好みは人それぞれ

第五詩節によれば,勝者が人の為になることを様々に説いたが,それを受け取る人々の受け取り方は,それぞれの心的傾向に応じてあるとのことです.

仏陀が様々に説き,それを,人々がそれぞれのこれまでの(無始爾来の)経験蓄積に応じて受け取るという構造.

バルトリハリも似たようなことを言っていたのを思い出しました.

世界の見方なるものは,人それぞれ,生まれ・育ち・教育・環境,さらには,前世(今風に言えばDNA)によって規定されるということでしょう.

つまり,人それぞれの(これまでの潜在印象の蓄積の結果としてある)「嗜好」「好み」が,何事に関しても,発動原因ということになります.

人の好みは色々ですが,単に趣味の問題ではなく,根本的に色々な性格タイプに分かれるということで,タントラに応じた器量というのも,当然あるということになります.

タントラに適したゴートラというものがある,ということです.
  1. 2015/02/13(金) 07:42:53|
  2. 未分類

世界の生滅導ける徴と鈴の音ぞする

冒頭の第一詩節は,ヘールカや,ヘールカのダンスに色々な形容詞が係っています.

ヘールカのダンスは,世界を幾たびもの生滅に導きますが,その原因としてあげられるのが,目の炎,徴と鈴の音です.

目の炎は図像を見るからに燃えてますから明らかですが,徴(ケートゥ)と鈴(ガンター)は,いまひとつピンときませんでした.

後から聞いたところでは,徴=リンガ=ヴァジュラとのこと.

もちろん,手に持つアイテムとしてヴァジュラ(金剛杵)と鈴とがあります.

さらに,鈴はヨーニにも相当するのだそうです.

これだと音が破壊的に凄いのもよく分かります.

密教は,専門用語というか隠語が多いので要注意です.
  1. 2015/02/13(金) 07:30:12|
  2. 未分類

ヘーヴァジュラ注

ムクターヴァリーの冒頭第二詩節は,基本構造は,「ヘーヴァジュラに,真珠のネックレスのような注釈が作られる」というものですが,そこに形容詞が係っています.

A.それによりスートラに従うことが示された(糸通しが示された)
B.プラマーナの働きによって証明された(量と丸みにより完成した)
C.明晰な(純白の)
D.心地よい(胸につける)

まとめると,
I.ヘーヴァジュラの注釈――A.[タントラが]スートラ(アーガマ)に従うこと(調和すること)を示す,プラマーナの働きによって証明された,明晰な,心地よい――が作られる.

II.真珠のネックレス――A.糸通しが示された,サイズと丸みにより完成した,純白の,胸につける――のような注釈が作られる.

ということになります.

IIの意味に読む際には,それほどスムーズじゃないので,少し工夫が必要になりますが,それでも,言いたいことは明らかです.

基本,教証と理証の裏付けがあるということです.

スートラとプラマーナということで,そこから,自然と,糸と量,そこから,ネックレス,という発想です.

以上,アイザクソン教授の解説.

新鮮な気持ちで読みましたが,彼によれば,昔,一緒に読んだことあるそうです.

東京の時のことですから,紀元後2000年に彼が滞在していたときでしょう.
  1. 2015/02/13(金) 07:17:21|
  2. 未分類

ラトナーカラシャーンティによると

タントラの文意理解→学習→思考→修習→成就

¬タントラの文意理解→¬学習→¬思考→¬修習→¬成就

という因果関係があるので,ヘーヴァジュラ・タントラの注釈を著すのだそうです.

つまるところ,タントラを好む傾向のある一部のゴートラの人々の成就のために,タントラの意味を正しく開示するということです.
  1. 2015/02/13(金) 00:21:00|
  2. 未分類

prasiddhamukha

Mahidol 053
Mahidol 059
  1. 2015/02/13(金) 00:08:51|
  2. 未分類

不信心も過信心も同じ

ラトナーカラシャーンティによれば,仏陀に対する不信心も過信心もどっちもよくないそうです.

仏陀がしたことまでしてないと言うことが不信心.

いっぽう仏陀が言ってないことまで言ったと言うことが過信心.

どっちも,全く同様に,仏陀を貶めていることになります.

「正しい認識手段である全知者は,(我々が)重んじて崇め奉ることで,全知者とわけではない」と彼は言い切ります.

過信心は「破滅の原因」だそうです.

過小評価の損減も,過大評価の増益も,どっちもどっちということでしょう.

atisraddhaa2
atisraddhaa1
  1. 2015/02/12(木) 08:11:23|
  2. 未分類

真珠のネックレスの熱冷まし

ラトナーカラシャーンティは,『真珠のネックレス』という注釈を『ヘーヴァジュラタントラ』に対して著しています.

彼の冒頭の詩節によれば,この著作は,タントラについて心焦がしていた人々が胸=心につけることで,熱を奪い取って冷ましてくれるものだそうです.

熱冷まし本ということになります.

さすが,ラトナーカラシャーンティです,very cool!

Matsyendra1
  1. 2015/02/12(木) 07:56:42|
  2. 未分類

仏祖の習わし

ベジタリアンの研究者を招聘すると,結構,大変になります.

外食は無理.

というわけで,自炊してもらうか,家で一緒に食事ということになります.

インド学研究者の場合,ベジタリアンが結構な確率でいます.

この前の北海道での合宿でも,3割ほどはベジタリアン.

ビュッフェだったので,各人が勝手に選択可能ということで,ホテル食でも何とかやり過ごせましたが.

福岡の場合,ベジタリアンだと,せっかく福岡に来てもらっても,外食の楽しみはゼロ.

1.焼き鳥などの鶏NG
2.豚NG(豚骨ラーメン,豚バラ)
3.牛NG(もつ鍋)
4.魚NG(寿司,海鮮)
5.肉餃子NG
6.博多うどんNG(つゆのだしがNG)

というわけで,福岡のスペシャルティーで,ベジタリアンが手を出せそうなものとなると,ほとんど何もありません.

サバとかうまいんですが,青魚が駄目とか,刺身が駄目とか,そういうレベルの駄目ではなく,魚そのものが駄目です.

あと,インド系のベジの人の場合,大概,玉子も駄目なので,卵を使った料理もお菓子もNG.

福岡の場合,京都と違って,別に,豆腐料理(湯葉・湯豆腐)が名物というわけでもありません.

また,蕎麦という感じでもありません.(だしが駄目なので,そばを出しても,塩で食べるしかないです.)

野菜天ぷらも,特に,名物というわけではありません.

また,菜食風のインド料理(例えば南インド料理)が発達しているわけでもありません.

外で食べるものないやん!

というわけで,おとなしく家で食べることになります.




菜食と言えば,日本が誇る禅寺.

典座の料理といえば,菜食の王道です.

とある後輩,修行のため禅寺で一年間修行.

そこは,漁師さんの信仰が厚いお寺だそうです.

というわけで,海難の厄除けと豊漁のお礼参りに,漁師さんは,マグロを持参.

お寺の冷凍庫には大量のマグロがあるそうです.

仏僧たるもの,出されたものは全てありがたく頂戴するのが,釈尊以来の習わしです.

釈尊はベジタリアンではありませんでした.

というわけで,後輩,修行中も,しっかりマグロを有難く頂戴していたそうです.

ちなみに,田舎なので,坐るくらいしか,他に全く何もやることないそうです.

彼は,空き時間には,真面目にサンスクリットを読んでいたとのこと.

不立文字が看板の宗派じゃなくてよかったです.
  1. 2015/02/03(火) 20:07:54|
  2. 未分類

原語の情報量

原語が持つ情報というのは,実に,豊かです.

同義語であっても,語源が違う単語というのはあります.

しかし,それぞれの持つ語感は,当然,異なります.

訳語の場合,それらの情報が失われてしまうことが多々あります.

つまり,著者が思い描いていた世界が,訳語のフィルターを通すことで,その情報の一部がそぎ落とされてしまうのです.

いわば,CDになるときに,上と下の音域がカットされるのと同じです.

また,一部の細かいニュアンスレヴェルの情報はカットされます.

訳語というフィルターにより,濾過される部分は多いわけです.

そうして残った部分だけが見られることになります.

例えば,失われたサンスクリット原典のチベット語訳がそうです.

チベット語訳は,原語に忠実な翻訳スタイルが定着しているとはいえ,同じ訳語から想定される原語には複数が可能です.

その中で,そぎ落とされる情報も当然でてくるわけです.

著者が意図していた意味世界を,そのまま復元するというわけにはいかないのです.

ましてや,著者のほのめかしや伏線,特定の語彙選択に込めた思いなど,微妙な語彙選択がもたらす効果については,やはり,原語なくして感づくのは至難の業です.

チベット訳だけが残るテクストの場合,先行研究を見ると,やはり,隔靴掻痒の感が拭えません.

そんなチベット訳テクストに,まれに,後からサンスクリット原典が発見されることがあります.

白黒がカラーになるようなものです.

一気に情報量が増えます.

原語でテクストを読める幸福というのは,こういう時にひしひしと感じます.
  1. 2015/02/03(火) 01:12:53|
  2. 未分類
次のページ

プロフィール

Aghora

Author:Aghora

最近の記事

最近のコメント

最近のトラックバック

月別アーカイブ

カテゴリー

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

FC2カウンター

ブログ内検索

RSSフィード

リンク

このブログをリンクに追加する