Pratibhanusarini --- 九州インド哲学ブログ2

On Indian Philosophy and Buddhist Studies

Khyati Workshop: The First Meeting at Kyushu University, Fukuoka

Khyati is perhaps one of the neglected areas of studies in our field. "In our" I mean Indian philosophy.

Kuppuswami Sastri's introduction to the Brahmasiddhi is well known as containing a useful summary of khyati theories described by Mandana Misra.

Mandana's famous short treatise "Vibhramaviveka" was studied by a German scholar, Schmithausen, for his PhD.

Since then not so much has been done on this topic.

Why?

This is probably because Mandana's work is difficult to read.

Furthermore, the textual condition of the Vibhramaviveka is unfortunately not so good.

The text is poorly transmitted.

Some verses are dubious. Here and there readers have to supply words in order to make sense out of it.

Inviting Dr. Somdev Vasudeva from Kyoto University, we read together relevant materials at Kyushu University.

VibhramaVivekaMs.jpg
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  1. 2015/08/28(金) 23:20:34|
  2. 未分類

Published: John Taber and Kei Kataoka: Coreference and Qualification: Dignāga Debated by Kumārila and Dharmakīrti

Coreference and Qualification: Dignāga Debated by Kumārila and Dharmakīrti
John Taber and Kei Kataoka
The Oxford Handbook of Indian Philosophy (Forthcoming)
Edited by Jonardon Ganeri
Oxford Handbooks Online
Online Publication Date: Aug 2015
DOI: 10.1093/oxfordhb/9780199314621.013.19
Oxford Handbooks Online
  1. 2015/08/20(木) 07:08:50|
  2. 未分類

インド古典の楽しみ方

クマーリラが著した復註釈(ミーマーンサー経に対するもの)である『頌評釈』は,章によって異なりますが,三つの註釈が残っています.

一番古い註釈がウンベーカのもの.

欠落部の後半の一部はジャヤミシュラの註釈が残っています.

次がスチャリタミシュラ.

最後にパールタサーラティミシュラ.

西洋哲学の対象とは違って,インドの場合,クマーリラからして年代は,はっきりしたことは分かりません.

が,おおよそ,次のような感じです.

600 クマーリラ

750 ウンベーカ

900 スチャリタ

1050 パールタサーラティ

分かりやすく150年おきに並べておきましょう.

ジャヤミシュラの年代については,学界の定説はありません.

おそらくウンベーカと同様の古い学者の感じがします.

このほか,カマラシーラもクマーリラの詩節引用(シャーンタラクシタによる)に対して詳細なコメンタリーを残していますから,一部の詩節については,カマラシーラも,いわば,クマーリラへの註釈家として利用可能です.まとめると以下のようになります.

600 クマーリラ

750 ウンベーカ/ジャヤミシュラ/カマラシーラ

900 スチャリタ

1050 パールタサーラティ

当然ですが,同一の詩節にたいして,それぞれが少しずつ異なることを言う場合もあります.

つまり,註釈者の見解が割れる時があるのです.

もちろん,最も重視すべきは古いコメンタリーです.

しかし,全ての場合に一番古いものが原意に近いかというと,そうでない場合もありますから,文脈などを手がかりにクマーリラの原意を計りつつ,かつ,諸註釈を慎重に見比べる必要があります.

細かい所に注目して見てみると,註釈者達も,いろいろと苦労していることが分かります.

彼らも我々と同じく,クマーリラのテクストを前に,ああじゃない,こうじゃないと,あれこれと苦闘していたわけです.

時に正直に,「いや,ここは本来はこうあるべきだけど,こういう理由からこうクマーリラは書いているのだ」というような,本音を吐露したような註釈を残してくれていることもあります.

古典との格闘というのは,常に続くものなのです.

古典を継承するというのは,決して「そのまま受け取って終わり」というような楽な作業ではありません.

多くの貴重な古典が既に失われたとはいえ,我々は,実際には,スチャリタやパールタサーラティなどよりも,ずっと眺望の良い位置に立っています.

それは,クマーリラが批判している相手であるディグナーガのテクストについて,クマーリラとは独立に,知ることができるからです.

手写しの写本しかなかった昔,テクストへのアクセスというのは,恵まれた図書館があれば別でしょうが,いろいろな困難があったと考えられます.

博覧強記のインド人といえども,もとのテクストや,あるいは,教師・対論者がいないことには,記憶のしようがありません.

そのような状況を考えると,我々は,あれこれのテクストを客観的に比較しながら,クマーリラのテクストに対峙できるわけですから,比較的恵まれていると言えるのです.

特に,PDFでの共有によりテクストの共有が物理的に楽になった21世紀の古典文献学は,以前より遙かに恵まれた状況にあります.

昔は無風の図書館のコピー機でよく汗を流したものですが,昨今は,そこまで苦労せずとも,PDF等によりテクスト入手が容易になりました.

思い出すのが,東大の総合図書館の書庫の奥のほうにあるパンディット・シリーズ.

世界的にも貴重な本が,比較的きれいな状態で残っています.

赤茶けた分厚い本の真ん中を必死に押さえつけながらコピーをすると,手も薄汚れてきて次第に真っ黒になってきます.

マンダナ著『命令の分析』も,そのパンディットシリーズが初版なので,一所懸命コピーしました.

中に挟まっている新聞の記事が日露戦争だったりしたのが笑えました.

いまとなっては懐かしい思い出ですが,あんまり繰り返したくない作業です.

特に夏はごめんです.
  1. 2015/08/18(火) 18:59:27|
  2. 未分類

Appeal by the Opponents of the Security-related Bills at Kyushu University

https://sites.google.com/site/kyudaiampo/english

https://sites.google.com/site/kyudaiampo/seimei

白石浜 013
  1. 2015/08/14(金) 07:55:35|
  2. 未分類

記憶の潜在印象vāsanā

「潜在印象は経験したことのあるものしか想起させない」とクマーリラは言います.

それは当然のことです.

牛1を知覚した場合,翌日に想起されるのは牛1であって,牛2ではありません.

潜在印象はごくごく限られた仕事しかしないのです.

そういえば,スポータのところにも潜在印象の議論があったな,と思って見返してみると,次のようにありました.

「たとえ想起原因性が潜在印象の上に定まっているとしても,別の仕事に対する能力が,それに禁じられているわけではない」

つまり,潜在印象は,想起以外の仕事をしてもいいそうです.

オスアシリ 003


クマーリラも結構自由です.
  1. 2015/08/14(金) 07:52:04|
  2. 未分類

インドの暑い時

ゴールデンウィークあたりのインドと来たら夏真っ盛り

外出は一日一回に控え,できるだけ涼しいところで過ごすようにします

外から帰るたびにシャワー,洗濯,そして,洗濯物を干す

という作業を繰り返します

暑い中で疲れているので,シャツの水は絞らずに,ぼたぼた水が滴っているのを,そのまま洗濯紐にかけます

それでも,2時間もあれば,すぐに乾いてくれます

さすがインドの夏

もちろん,そんな直射ですから,インドの洗濯ばさみは,すぐに壊れてしまいます

単にインド製品のクオリティーが低い,というだけではなくて,あの直射に毎日やられたら,プラスチックも音を上げて当然でしょう.

とはいえ,買ってすぐに12個のうちの幾つかは,ボキっと折れたりするのも事実です




真夏といえども,室内でひっそり過ごしている間はまだいいほうです

これが,外出しなくてはいけない,となると大変です

真夏の寺院訪問

これはしんどい

さすがに真夏本番に寺院巡りをするひとはいませんが,それでも,春休みに旅行するとなると3月頃

ちょうど毎日毎日どんどん暑くなる時期です

エアコンの効いたタクシーに乗っている間はいいのですが,そこから降りて寺院に入ると大変

ましてや,寺院の建物内は無風

じとっと背中にシャツがくっついてきます

ズボンの後ろ,腰のあたりに汗がたまってきます

また,外壁周囲のパネルを撮影しようとすると,どうしても直射に頭をさらすことになります

裸足の足は焼けるは,頭は痛くなるわ,大変です

しかし,直射の時ほど綺麗な写真がとれるのも事実

我慢して頑張ります

10時から12時あたりまで写真を撮ったりして過ごすと,もうギブアップ寸前

頭痛がしてくる手前です

早めに退散

チャイ屋の軒先の陰で涼を取ります




寺院訪問は,まだ自分のペースで退却できるからいいほうです

それよりもきついのが真夏のローカルバス

まず乗り込むところからきつい

砂埃のあがるバスステーションで待つのも不快

自分のバスを探したら座席確保ですぐに乗り込みます

窓際の席を確保

しかし,そこから出発までは結構時間があります

その間,バスは停車してますから,無風状態

無風の車内,汗はだらだら

しかも,既にすえた匂いを放っている座席の背もたれ

そこから背中を放し,背筋を伸ばして待つことになります

そのうち自分の背中も汗だらだら,シートと変わらないくらいに不潔になってきます

もうどうでもよくなって,えいやっと背もたれに背中を付けることになります

密着すると熱い

また背中を離します

そんなこんなでようやくバスが出発

次に待っているのは,前の人との窓枠の取り合い

押し合いへし合いして均衡状態をさぐります

油断していると自分の窓が埋められて,相手が全枠取ったりしています

そこを徐々に押し戻していく作業

前との戦いと同時並行で,左隣とは,座席の肘掛けの取り合い

ちょっと手を放すと既に相手の肘がどかっとかかっています

油断も隙もありません




車が走り出すと風が窓から入ってきて,生き返ります

あのべとべとした首の汗も乾いて塩に変わっていきます

マハーバリプラムに行く途中に広がる雄大な塩田を見ながら,自分の首でも製塩




タミルナードはローカルバスのクオリティーも,道路のクオリティーもまだまし

アーンドラとなるとこれはひどい

4人がけではなく5人がけ

しかもシートは板張りの堅いやつ

小学校の椅子みたいな座り心地です

そこにぎゅうぎゅう詰めで,隣と密着して乗ることになります

嗚呼不快哉!

走ってくれたらまだましです

あるときは,表通りを折れて,どこかの修理工場にそのまま入っていきました

無風の修理工場内で1時間以上,車内で他の客と待たされました

インドのバス,メンテは基本,問題が生じてからします

したがって,客を乗せてる時に問題が発生すると,その時に初めて対応します

幹線道路の両脇にはよく,木に正面衝突したバスの残骸を見ましたが,まあ,居眠り運転だけじゃなくて,いろいろとメンテ上の不具合もあったりするのでしょう

くわばらくわばら




そういえば,デリー空港では,滑走路脇に飛行機の残骸を見たことがありました

日本ではなかなかない光景です
  1. 2015/08/10(月) 20:35:16|
  2. 未分類

マンダナの難しさ

「Aである,Bだから.」という構文が,サンスクリット論書には多く見られます.

これだけだと迷うことはないのですが,これを拡張すると,文章解釈に迷いが生じることになります.

「Aである,BだからCだから」という場合,

1.A←B←C (AであるのはBだから.BであるのはCだから.)
2.A←(B→C) (Aである.Bである以上Cだから.)

あるいは,ひょっとすると,caが消えている場合もあるかもしれません.(そしてそれは写本の問題かもしれません.)その場合には,

3. A←(B+C) (Aである.BかつCだから.)

という構造も考える必要があります.

また,yadi A tadaa Bなら「もしAならその場合B」という解釈で迷いようはありません.

しかし,A cet B Cという文章の場合,cet「もし」がどこまで係っているのか迷うことになります.

1. if A, then B. C ... (もしAならBである.Cは……)
2. if A is B, then C (もしAがBであるなら,Cである.)

という可能性です.

サンスクリット写本には句読点が基本的にはないので,校訂者が適宜打つ必要があります.

漢文に自分で句読点を打つのと似た作業が必要になります.

良い校訂の場合,解釈を前提とした句読点(ダンダやハーフダンダ,あるいは,ピリオドやコンマ,あるいは,サンディ解消によるスペース)が必要となります.

マンダナの難しさは,この構文解釈の難しさにかかるところが大きいと感じます.

ほかにも,前主張と後主張が激しく入れ替わるために,どっちがどっちなのか,文脈を丁寧に追わないと形だけからは分からないという問題があります.




クップスワーミ・シャーストリーによるBrahmasiddhi校訂は非常に優れたものです.

その理由の一つは,構文解釈を踏まえて校訂者が考えた句分けを親切に残してくれている点にあります.

写本からテクストを起こすだけが校訂作業だと思っている間は,校訂の醍醐味は分からないでしょう.

「この文章がどうしても分からない」という時は,ダンダの位置を疑ってみると解決することがよくあります.

校訂テクストというのは,「人為のもの」なので,どうしてもそこに後からの間違いが入り込むわけです.

信頼できる校訂者の校訂の場合,あまり疑ってかかることなくスラスラと読めるのでストレスフリーです.(そのような校訂者は,註釈も読み込んで,それに沿って句読点を打ってくれていたりします.)

いっぽう,テキトーな校訂の場合,いちいち疑ってかかる必要があるので,読むのに苦労することになります.

ジグザグあれこれの可能性を考えながら進むことになります.

オフロードを行くのも時には楽しいですが,やはり,舗装された道を通るのが楽ちんです.




論文に引かれているサンスクリット原文を見ると,その論文の著者の理解がどの程度のものか,よく分かります.

理解している人はちゃんと句分けしてくれています.

そうでない人は,校訂本そのままに載せて「人任せ」あるいは「人のせい」にします.

また往々にして,校訂本を写し間違ったりして,新たな間違いを付加します.

あるいは,校訂本の間違いをsicも付けずにそのままに残したりしています.

あるいは,デーヴァナーガリー文字の校訂本をローマナイズして表記する時に,学界標準のスペース空けを全く無視した表記をしたりします.

「読者に分かるように親切に」というのは,日本語の地の文だけでなく,サンスクリット原典引用についても言えるわけです.
  1. 2015/08/10(月) 08:10:13|
  2. 未分類

心と虚構物の非別性もまた虚構である

無いものが現れている――これが唯識の見方です.

重要なのは,現れそのものは現実として因果上にあるということです.

これは嘘ではありません.

嘘なのは,把握主体・把握対象という二元にまとめられる二元世界です.

無いものの現れ,それが二元という嘘を本当は欠いていること――これが不変の真実です.

ただし,唯識では,「二元の無」という否定に終わるのではなく,「二元の無が有る」という肯定を強調します.

「二元の無」に終始し,さらには,現れの側までも否定してしまうと,中観的な見方に堕してしまうと瑜伽行派は怖れます.

否定辞をparyudaasaと取って,「非二元」の結果として浮かび上がってきた「空の有」を掬い取り,「二元を欠いていることは有る」とする――これが最高の真実です.

現れてきている無いもの,それは虚偽であり増益(ぞうやく)されたものであり,要するに,全くのでっち上げの虚構物です.

無いものを有るとすること――それが増益(ぞうやく)です.(ちなみに東芝の増益(ぞうえき)の実態は増益(ぞうやく)でした.)

では,この「無いもの」の正体は何なのでしょうか?

それは,潜在印象に惑乱せられた心が作り上げたものに過ぎません.

また,それを,心と不二の内的な心像,内的形象と捉えるのは(無相唯識から見れば)間違いです.

心と同一としてしまうと,それは,因果上にあるものとして,「他に拠ってあるもの」となってしまいます.

虚構物は心と同一ではありません.

かといって,心を離れた全く別のものとしてどこか外に存在しているわけでもありません.

心と虚構物との関係もまた,虚偽の同一性・非別性と表現されるべきものなのです.

したがって,心と虚構物との同一性・非別性を真実のものと考える無相唯識中観の見解は(ラトナーカラシャーンティに言わせれば)間違いということになります.




その昔,マンダナ・ミシュラは,アートマンと無明の関係を「断定不可能」と喝破しました.

無明は,アートマンの内にあるわけでも外にあるわけでもありません.

心の実在だけを認める唯識も,アートマンの実在だけを認めるアドヴァイタと同じ問題を抱えています.

その解決方法が類似してくるのは必然でしょう.
  1. 2015/08/08(土) 10:25:20|
  2. 未分類

Ichigo Masamichi: Yogacara-Madhyamika view of Haribhadra

後期唯識,形象マニア必携の書が出ています.
7月5日に発行されたばかり.
7月17日に開講された講義の教科書です.
「経量部→有相唯識→無相唯識→中観」に興味がある人にとっては,願ったり叶ったりのそのものずばりの書です.
梶山・松本の議論を紹介した上で,ハリバドラのサンスクリット資料解読を手がかりに,一郷先生自身の見解を提示されています.
まったく同じ資料を目の前にしていても,解釈は,人によってえらく違うものです.
まして,それがチベット資料となると,あれこれと想像をたくましくして背景を読み込むので,ngo boひとつとっても,相当の懸隔.

唯識(この世界は単に心が認識させているに過ぎない)の論証の一つに「同じものでも人によって違って見えるから」というのがありますが,まさに,この論争自体,唯識世界を証明しているのかもしれません.
重要な一次資料の多くがチベット訳しか残っていない後期唯識,議論が絶えることはなさそうです.

にしても,安居でこのような高度な専門書を読むとは,東本願寺,恐るべしです.

IchigoMasamichi.jpg



2015年 安居次講

ハリバドラの伝える
瑜伽行中観派思想

一郷正道

東本願寺

ISBN978-4-8341-0513-1
C3015 \3000E
定価=本体3000円(税別)
発行=東本願寺出版

http://www.higashihonganji.or.jp/photo/12149/
  1. 2015/08/08(土) 09:25:37|
  2. 未分類

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