Pratibhanusarini --- 九州インド哲学ブログ2

On Indian Philosophy and Buddhist Studies

学会という場を提供する労力

学会を組織して運営していく,というのは結構面倒です.

幸い,うちの場合は,そこまででっかいものは運営せず,毎年,広大の印哲と交互にこじんまりとした(しかし実のある)学会を行うだけです.(最近は,九大・広大だけでなく,京大の院生もよく参加してくれています.)

福岡開催は2年に1回ですので,負担もそこまでではありません.

基本,教室を押さえる,宿泊先を押さえる,発表を募ってプログラムを作って事前に資料をアップロードする,などなどの仕事です.当日の受付などを除けば,基本,事務担当のわたし一人でできる仕事です.

会社なら仕事なので,できて当然のような仕事ですが,大学の場合は,これは,「仕事」というよりは付加的なものなので,面倒と思う人は多いでしょう.

学会が必須業務ではない,という証拠に,学会のために教室を借りようとすると大学に「教室使用料」なるものを払わねばなりません.(自分の会社で会議をやるのに会議室使用料を払う,というようなものです.)

学会は外部の組織なので,外部の組織が中の施設を使うのに金を払うのは当然,という発想です.

学会活動は,要するに,研究者の勝手な遊びだと言うのと変わりありません.

海外の大学なら,学会をやるとむしろ補助が出たりするのですが,日本の国立大学法人では,逆に金を取られるというわけです.

つまり,ほんとは,学会なんかやらずに週末は家で大人しくしてたほうが(経済的には)まし,ということです.

それでもやるのは,うちのように小さいと,目的がはっきりしていて,「院生のため」ということです.

目に見える目的があるので,そこは分かりやすいです.

しかし,参加者が500人にもなるような学会を組織するとなると,これは大変です.

自分の院生のため,というようなインセンティブもかなり薄れます.

むしろ,院生が働かされるので,院生のためにならない,というようなことになりかねません.

後進のためになる学会の適正なサイズというのはあるかもしれません.

学会もでっかくなりすぎると,どうも,本末転倒になりがちです.

そもそも,学会運営で一番面倒なのが,懇親会だったりします.

学会が小さければ組織するのも大したことありませんが,大きくなると大変です.

大規模なパーティーは面倒だからなくてもいいと思います.

そもそも学会は学術メインの集まりなのですから,その後の懇親会が,事務担当者1人の能力を超えるような規模のものは,やめたがまし,と思います.

教室借りて発表をする場を用意する,というただそれだけの本来の目的が何か別のものに変わってきたなら危険信号だと思います.
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  1. 2015/11/28(土) 17:13:48|
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排除と不排除の意味論

文には,実現可能なOKな文と,世間的に許されない,そうでない文(*)とがあります.

意味論を構築する際には,そのような言語事実に即して理論を組み立てる必要があります.

ディグナーガは,排除意味論だけがそのような言語事実をうまく説明できると考えていました.

整理すると次のような例文です.

上位:桜は木だOK
同位:木は樹だOK      桜は松だ
下位:この木は桜だOK

桜を上位の普遍と結びつけて説明することがあります.「この桜は木だ」「この桜は存在だ」などと.

また,同義語を並べるのも問題ありません.「木というのは樹だよ」という意味で「木は樹だ」と言えます.

また,下位の普遍である特殊と結びつけることもあります.特定化です.「この木は桜だ」「この木はソメイヨシノだ」というように.

しかし,同位であっても,排除しあうものは併置することができません.「桜は松だ」は世間的にはアウトです.

意味の世界において,桜は松と相互排除の関係にあります.

そのような排除の関係が意味の区分けを成り立たせているのです.

だから,意味論は,排除意味論として,否定的なものを根拠にして組み立てるべきだ,というのがディグナーガの主張です.

ディグナーガは以上を見事に半詩節で表現しています.

anyatve 'pi na sāmānyabhedaparyāyavācyanut/5:25cd

anyatve 他であること
api も
na ない
sāmānya 普遍
bheda 特殊
paryāya 同義語
vācya 表示されるもの
nut 排除する

他であっても(=自分以外のものであることに変わりはなくても),普遍[語]・特殊[語]・同義語によって表示されるものを[語は]排除しない.


排除と不排除とをきれいに説明することが意味論においては根幹となるとディグナーガは考えていたのです.
  1. 2015/11/28(土) 09:42:38|
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唯識の反基礎付け主義

経量部・唯識の有形象認識論は,我々の認識が正しいことの基盤を提供するような説ではありません.

むしろ逆に,我々の認識が誤っていることを言うために主張されているということを忘れてはならないでしょう.

すなわち,唯識無境という教理のために開発された理論です.

したがって,基礎付け主義というより,むしろ,基礎破壊主義とでも呼ぶべき動機に裏打ちされています.

彼等の理論は,我々の真正な知覚を考察するために発達したのではなく,むしろ,我々が真正と思っている通常の知覚が実は根本的に錯誤している,ということを暴露するために編み出されたものなのです.

すなわち,我々を宗教的に覚醒させるための方便なのです.

ヴェーダーンタの知覚理論を神学理論と呼ぶなら,同じように,仏教の知覚理論も,いわば神学のための理論だと言って良いでしょう.

仏教「認識」論というものが,なにか,認識を客観的に捉えた科学的な理論だとするのは早合点です.

彼等が最終的に目指すのは,我々凡人の認識が(我々が通常「真正な知覚」と呼んでいるものまで含めて)誤っている,ということを示すことなのです.
  1. 2015/11/27(金) 20:16:08|
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有形象認識論雑感

分かりやすいので経量部説に立って説明します.

まず,壺の形象Xがあります.

その壺によって,認識の中に似た形象X’が投げ込まれます.

この形象X’を認識が把握します.

実際には,形象X’を持った認識が生じる,ということです.

ここで問題なのは,形象X'を認識が捉える,というような言い方をしてしまうと無現連鎖に陥ってしまうことです.

というのも,その形象X’を捉えるために,認識内に更に別の形象X''が必要となるからです.

というのも,有形象認識論が言っているのは,「対象を捉えるというのは,その対象によって引き起こされて,しかも,その対象の形象Xと似た認識内の形象X’を捉えることだ」ということだったからです.

したがって,形象X'を捉えるためにも,それと似た形象’’が必要になる,ということになります.

それを避けるためには,「捉える」というような動的な捉え方をあらためる必要があります.

結局,「形象X’を持った認識が生じる」というような言い方に落ち着くことになります.

ここで「持った」というのは,実際には同一同体の関係にあります.

この同一性の関係がゆえに,vyavasthaapaka-vyavasthaapyaの関係がなりたつというのが,仏教論理学者達の見解です.

すなわち,認識が特定の対象を志向しているという認識対象の特定性の問題です.

無形象認識論のように,「外界対象の形象Xを持った認識が生じる」という場合には,内と外で距離があるから,特定の形象を捉えることに難が生じる,というのです.

無形象認識論:  X→認識

有形象認識論:  X≒ X'
           |
           認識

しかし,無形象認識論の側から見れば,X'と認識の関係を認めるくらいなら,最初から,外界対象の形象Xと認識の間に関係があると言った方がモデルはシンプルではないか,と言いたくなります.

センスデータに相当するX’にどれくらいの情報量が詰め込まれているか,という問題になると,結局,citra-advaitaとかの理論に見られるように,様々な困難を抱えることになります.

なら,無形象認識論のほうが遙かに楽でしょう.

月を写す水面.

そこにゆがみがあれば映像にゆがみも生じるでしょう.

その反射像自体の存在論的な位置づけをどうみなすかが認識論の立場の違いを生み出します.

水面の上の反射像それ自体を真実(依他起=因果的に生じてきた有)とみなすことになる形象真実論的な有形象認識論は,様々な困難を抱えることになるはずです.

唯識の形象虚偽論,あるいは,もっと単純に外界実在論の無形象認識論に立つほうが楽でしょう.
  1. 2015/11/27(金) 19:10:20|
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Spice Magic Calcutta

smc5246
  1. 2015/11/23(月) 21:18:00|
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プルジャ

プルジャダイニング0852
  1. 2015/11/23(月) 21:15:48|
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yuki-ishigaki2015

パパと同じで目立ちたがり、是非、ブログに出してくれとのこと。さすが石垣家。
  1. 2015/11/23(月) 21:10:36|
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福岡の南印料理事情

Ammaa 001


九大OGの記者さんが訪問.

最近の福岡に於ける南インド料理の「流行」について.

どれほど店を回っているのかと逆質問したところ,ゼリージュ,ポラポラ,106,それに,隠し球でちゃんと〇〇〇まで回っていました.

中間の番長も電話取材したとのこと.

ちゃんと研究されているのにまずは感心.

東京の事情も,ダバインディアも含め,それなりに予習されてきたようでした.

しかし,大阪事情,さらには,福岡・九州におけるスリランカ料理の特殊な状況,さらに,スパイスロードをはじめとしたスパイスカレー事情については,まだ暗いという様子でした.

ましてや,最近のビリヤニ事情については,まったくノーマークの様子でした.

もちろん,マルハバやザエカの名前はご存じなかったようです.

リッチでクリーミーなカレーにナンを一つの特徴とする北インド系のレストラン料理(宮廷料理というか,福岡の場合,安い出来合ソースの亜流の化学調味料たっぷりのお手軽安価カレーにナン食べ放題)にたいして,野菜に米の健康的な,腹一杯になっても腹もたれしないヴェジタリアン・ミールスを一つの典型とする南インド料理.

その間には結構な開きが実はあります.

その間を埋めるものとして,福岡では,米のカレーである,ツナパハを始めとするスリランカ料理屋の存在,そして,日本人が工夫したスパイスカレーの存在(スパイスロードを一つの典型とする)を抜きにすることはできないでしょう.

おおざっぱに言えば,

1.ナン:北インド風
2.米:スリランカ風,日本人のスパイスカレー
3.米:南インド風

という発展段階を考えるべきだ,ということです.

一足飛びに1→3,すなわち,北インドから南インドの直結を考えるのは,福岡の場合はあてはまらないのではないか,ということです.

そこに,

4.東京での南インド料理屋の成功,

さらには,

5.大阪に於けるスパイスカレー(合い掛けに典型的なスリランカ料理も含む)の隆盛,

という二つの影響を加味することになります.

2それ自体を5の影響(5→2)と見てもいいでしょうし,あるいは,同時平行で3をもたらした((2+5)→3)と,いずれと見るかは意見の分かれるところでしょうが,スパイスロードは,直接には大阪を参照しているわけではないので,前者の方が穏当な見方でしょう.

また,ツナパハ・ヌワラエリアの成功は,大阪とは無関係であるということも,前者の見方を支持することになります.

まとめると次のような感じです.
     
   4  
    ↘
1→2→3
    ↗
   5   

主軸としては,北インドのナンカレーから,米で食べるカレーの工夫・受容を経て,ようやく南インドのヴェジミールスを受け入れる素地が福岡の人に準備され,そこに,南インドが流行っている東京と,米で食べるスパイスカレーの大阪の影響がある,というような構図になるでしょうか.

本格的な南インド料理にこだわった「あんまー」が福岡にひとつの流れを作り出せなかったのは,まだ,1から2への中途段階,あるいは,それ以前の1の段階にあったからだと考えられます.

もちろん,細かいことを言い出せば,給食カレーやボンカレーのような従来の「和食」の一部となったカレーライスや,あるいは,欧風カレーというようなことも考えねばなりませんが,それは,主要因として考える必要はないと思います.いれたければ,ゼロ0として,1の前提に立てれば良いだけです.

また,タージ,サリー,グローリーといった古くからの例外的な存在も考える必要はありますが,いずれも,1あるいは2の範囲で処理できるでしょう.

スパイスカレーは,カレーライスの延長線上にあるとはいえ,北インド料理の流行ということを抜きにして,一足飛びに,カレーライスからスパイスカレーを結びつけるのは乱暴でしょう.

スパイスの量的な多寡の違いが明白にあります.

お子ちゃまは,カレーライスは食べるけど,スパイスカレーは食べられません.

したがって,0→1→2という発展段階を考えるのが妥当ということになります.

また,スリランカ料理が2に入るというのは重要です.

ダシの効いていないヴェジミールスを楽しんで食べるのは,日本人には,いきなりは難しいでしょう.

しかし,カツオダシの効いたスリランカ料理なら,日本人の米食文化には受け入れやすいと言えます.

南インドに近く,しかも,カツオダシの効いたスリランカ料理でワンクッション入れることで,すんなりとダシの効いてないタミル食を受け入れる素地もできてきた,ということです.

その他,ヨーガ(例えばマイソールのアシュタアンガヨーガのクラスなどに短期留学する人)や,菜食などの健康ブームということも,周辺状況としては南インドの菜食を後押しする要因となったとは言えますが,主要因とまで言う必要はないでしょう.

さて,では,ビリヤニのような肉のうまみがある炊き込みご飯は,どのように考えれば良いのか,という疑問も湧いてきます.

これについては,特に,流れを考える必要はないと思います.

ビリヤニ自体は,レストランでは面倒なので出さなかっただけで,もし出していたら,最初から美味しいものとして日本人は受け入れていたでしょう.

これまでは,(そしてインドでも,もしビリヤニ専門店ではなくて,ホテルで注文すればそうですが)粉かけピラフみたいな簡易ヴァージョンしか出されていなかったので,これまで知られていなかっただけ,ということが言えると思います.

肉の旨味というのは,まあ,好きな人は好きなので,パキスタン料理に関しては,1の北インドの範囲内で考えるべきであり,ビリヤニも,単にその中での発展・拡張と見なすべきでしょう.

北インドの家庭料理(例えば熊本のインド食堂)に関しては,かなり例外的な事象なので発展段階をどう見るかという難しさはあります.

しかし,段階としては最終段階にあたるので,3と同時並行あるいは付随事象,あるいは,3の後にくる段階として立てた方がいいかもしれません.

どまどま流通センター店で一時的に出していたネパール料理の酒に合うつまみ系のものとかは,結構な最終形態として別立てしたくなります.

しかし,家庭料理と言うことになると,最終的には,レストランで食べる必要がなくなってくる,ということになります.

つまり,普通に日本の家庭でも印度家庭料理のレシピ―が増えてくる,という事象につながっていくことになるでしょう.

amma 003

カレーの辛島先生(東洋史)が解説をしていたころ日本で流行っていたのは北インド風のレストラン料理だけでした.

しかし,アジャンタも本当は出身はタミルです.

20年以上前,インド旅行をしていたとき,マドラスでギータさんという日本人のお婆さんの家を訪問したことがあります.

彼女が結婚したインド人を介して,アジャンタとは親戚関係にあるとのことでした.

息子さん(顔は完全にインド人)とも(英語で)話をしました.

日本に帰ってアジャンタにも行きましたが,いかんせん,学生には高すぎる店でした.

麹町のアジャンタ,結局,数回しか行けませんでした.

しかし,その後,日本は価格破壊の時代.

インド料理屋も,それまでは高級店で一回行けば2500円以上は絶対するという価格帯から,一気に,夜でも1500円で食べられるし,昼のランチなら,1000円以内で食べられるという時代に変化していきました.

サムラートも昔は高級風の店作りだったのに,渋谷にいきなり格安の店を出すようになったのには驚いたものです.

その後は,ご存じのように,格安のインド料理店が雨後の竹の子のようにチェーン展開していきましたし,その流れは,都内の中心地だけでなく,郊外にも広がっていきました.

南インド留学から帰ってきた当初,南インド料理といえば,何もありませんでした.

カレーリーフができたときは嬉しくて結構かよいました.

最初は客が少なくて(何も言われませんでしたけど客数から見ると明らかに)苦労されていたようです.

一度は,ネットで,「一ヶ月に一度は来てくれると助かります」というような泣き言も書いているのを見たことがあります.

ネガティブ発言を反省されたのでしょうか,すぐに消されていましたが,やはり,受け入れられる前の苦労というのは並大抵ではなかったのでしょう.

当初,南インドの米食(日本国産,特に,福島の米)へのこだわりで,「ナンには合いません」というような姿勢だったのが,いかんせん,ナンを求める客の要望に抗しきれなかったのか,あるいは,経営的にナンを置くのも仕方なしと判断されたのか,ナンも黙って出すようになっていました.

その後,ダバインディアやダルマサーガルがど真ん中で成功.

アジャンタ系のAラージは,立地的にはど真ん中ではありませんが,物好きな人は早速チェックしていました.

そして,働いていたコックさんたちが独立して,さらに,南インド料理を各地に普及.

同時に,周辺では,レストランがないなら自分らで作ろうという流れがグルジリ,さらには,マサラワーラーなどで拡散.

福岡にも,アジ美にはマサラワーラーが来てくれましたし,また,グルジリの流れを汲むトラさんの会が,既に,何回も催されています.

レストラン以外の周辺状況,つまり,ないなら自分らで,という流れも,福岡の場合,重要な要素として,つまり,6として別個に考える必要があるでしょう.

Amma 008

写真はいずれも「あんまー」の初代のコックさん(2009~2010)の料理.

  1. 2015/11/19(木) 22:06:05|
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信大2日目

ShinshuUniversityweiwe
日曜日の2日目.

トップバッターは,Koji Tanakaさん.

オーストラリア国立大.

論理学の人ですが,最近は,チャンドラキールティとダルマキールティで,ティレマンスとも仕事している方です.

推論のほうとも絡めて,一般的に,比較哲学についてのアプローチの仕方について.

二番手は,パトリック.彼が最近取り組んでいるプラジュニャーカラの知覚と推論の相互依存的関係について.知覚と推論の前後関係に関する記述について,サンスクリットの読みで質問が集中していました.

続いて,護山さんの発表のはずでしたが,時間が押していたこともあり,「休憩!」の会場の声.

予定変更で昼食ランチ休憩.とんかつ屋の弁当.美味でした.

午後は,オーガナイザーの護山さんから.

ダルマキールティが付け加えたabhraantaという限定句をめぐって.

つまり,飛蚊症みたいな,無分別な錯誤した疑似知覚がある,という問題です.

「それ縄だよ」とかとは違って,誰かに指摘されても訂正できず,病気の原因を取り除かない限り直らないという錯誤です.

続いて,co-organizerの三谷さん,

いわば,主語・述語から,動詞中心主義のパラフレーズによる世界分析の方法.

pacyate svayamと似たような例を引いてきていました.小川先生のような文法学者,バルトリハリ研究者がいなかったのが残念です.さらに,そこから,西田の「場」とか「絶対無」まで.本人いわく「一線を越えちゃいました」とのこと.少なくとも,インドの場合,神学まで地続きで一直線なので,そこまで行っても普通で,理解範囲内です.

休憩後,哲学2連荘.

藤川さんは幻覚.無を直接に見るという立場について.無を立てるという立場なので,ダルモッタラの形象虚偽論や,マンダナの言うasatkhyaatiと同じ立場ですが,微妙に違うところもあるようです.藤川さんの説明では,空華のような絶対無も,ここでいうnonexistentに含めるようです.asatkhyaatiで言うasatは,絶対無は含まないはずです.

西村さんは,知覚の非連続性について.最近の科学的知見に基づく理論の整理.経量部の有形象論の中でも,ダルモッタラの形象虚偽論を更に発展させたような立場と見なせます.aakaaraが時間的幅を持つかどうか,ということで,幅を持つということのようです.

最後は,締め.

まずは吉水千鶴子さん.

最後に桂先生.

マティラルから始まって,最近のコセルまで.

哲学者とインド哲学研究者・文献学者の分業・協同を可能にするこういう機会が貴重とのこと.その通りです.

雨もようやく止んでました.グラノフ先生は徒歩で帰宿.

わたしは,西村・藤川・パトリックの四人でタクシー乗り合い.

隣の藤川さんと日本語で細かいところを会話.

色々と勉強になりました.

西村さんのお薦め通り,まずは,フィッシュあたりから勉強します.
  1. 2015/11/17(火) 06:29:26|
  2. 未分類

信大近くで蕎麦

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谷沢さんが毎週月曜日に通っていた蕎麦屋にてランチ.

店主とひとしきり談義.

楽座通信も熟読.




昔の谷沢さんのメールを見返すと,なかなか良いアドヴァイスを戴いてました.

講義のシラバスをどう書いたらいいんでしょうか,という私の質問に対する谷沢さんからの答え.

「文学部の学生が広く出てくるようならば,そして,それなりの数に出てきてほしいと思うのならば,全くインド哲学を知らない者の視点がシラバスにも必要になります。印哲以外はあまり出てこないならば,専門的な記述でもかまわないでしょうが。私の場合は,シラバスでは,一般的な観点から,一体「何が問題なのか」ということを強調して書くようにしています。普段は印哲の専門家同士で話をしている内容を,そうではない学生にできる限りわかりやすく(問題自体が難しいのですから,わかりやすければ良いというわけではないことは言うまでもありませんが)語ろうと努力することは,結局自分のためになります。」



谷沢さんのことですから,「どうだ,俺もなかなか良いこと言うだろう」と自画自賛もしたと思います.
  1. 2015/11/14(土) 23:10:52|
  2. 未分類

知覚の比較哲学

ShinshuSympo2.jpg


国際シンポ,信大1日目.

今日到着する人もいるので,午後1時より.

新しい中央図書館の二階.ガラス張りのセミナールーム.

Comparative Philosophy of Perceptionと銘打って,護山准教授が人文学科の同僚である三谷准教授と企画.

前半は印哲関係が並び,後半は哲学関係の発表.

きょうは,まず,護山准教授の挨拶.

そして,フランコ教授(ライプチッヒ)の基調講演.

ハルプファスやテイバーなどの意見を受けて,自身の立場を表明.

具体例としては,ロックとダルマキールティを例に取っていました.

休憩を挟んで,まずは,プライゼンダンツ教授.

知覚されないものの障害(小さすぎ等)のリストについて.

有名なのはサーンキヤカーリカーのリストがありますが,それに先行するリストをウパニシャッドから詳しく調査.

続いて2番目が自分の順番.

哲学にも通じるような比較になりそうなネタということで,今回は,錯誤について.

幸い,印哲サイドと,哲学サイド両方から質問があがりました.

結局のところ,やはり,象の幻影の正体が何なのか,ということが問題になりそうです.

休憩.

セミナールームは飲食禁止のため,一階にて,コーヒー,お茶.

信大生スタッフが活躍.

休憩後は,グラノフ教授(イェール).

十八番ネタのカンダナカンダカーディヤ.

今回は,知覚の定義について.

最後に岩崎洋一博士(名古屋).

こちらは,ナヴィヤ,とくに,無分別知覚の問題について,限定要素の知覚の先行性と絡めて議論.

人文ホールに移動して,懇親会.

哲学の西村さん,藤川さんと談義.

やはり,「概念的」の幅が問題となるので,そこは余りほじらない方がいいとのこと.

というか,そこは,結局議論としては不毛になるかも,という見通しだそうです.

もうちょっと細かい道具立てで切り込んだ方が有益だろうとのこと.

8時すぎ,時差ぼけのため既に眠たいパトリック他と先に宿へ.

ShinshuSympo3.jpg
  1. 2015/11/14(土) 22:47:46|
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