Pratibhanusarini --- 九州インド哲学ブログ2

On Indian Philosophy and Buddhist Studies

MMK 5.4:定義の行なわれないところ?

梶山の理解が,原文が意図するものから乖離しつつあるのを見ました.

次の説明は,その乖離の延長線上にあるもので,明らかに龍樹の意図したこととは異なります.

梶山 130
定義されているものに定義はおこらず、定義されていないものにも定義はおこらない、ということは、ことばとその対象との関係を的確に表わしている。…(中略)…。もし、たとえば机ということばや、本を読んだりものを書いたりする台という定義が特定の一つの机に固着して離れないならば、われわれは他の同種のものを机と呼べなくなる。だから、定義されているものに定義は行われず、存在しないのである。しかし、また、まったく定義されていないものにも定義は存しない。



無抵抗という特質1を既に持っている虚空に更にもう一つの無抵抗という特質2が働くことは無駄だし,不可能だし,もしあえて働くというのならば,無限連鎖となってしまう,というのが龍樹の意図するところです.

月称もそのように理解しています.

逆に,無抵抗という特質を欠いた虚空というのは,そもそも存在しない(つまり特質の無い存在はない)のですから,存在しないものに対して無抵抗という特質が働くことはありえません.

すなわち,特質がないものに特質が働くこともないわけです.

以上から,特質を持っていようが持っていまいが,その存在に特質が働くことはない,ということが言えることになります.

MMK 5.4は,この文脈にあります.


Siderits and Katsura 2013: 62:
lakṣaṇāsaṃpravṛttau ca na lakṣyam upapadyate/
lakṣyasyānupapattau ca lakṣaṇasyāpy asaṃbhavaḥ//4
And if there is no function of the defining characteristic, it does not hold that there is a bearer of defining characteristic.
And if a bearer of defining characteristic does not hold, a defining characteristic is likewise impossible.



S & Kの英訳に問題はありません.

いっぽう,梶山の以下の和訳と解説は,原意からは,ずれたものとなってしまっています.

梶山 130-131

定義の行なわれないところには定義の対象はありえない。定義の対象のないところには定義もありえない。(五・四)
だから、定義の対象も存在しないし、定義も存在しない。定義と定義の対象とを離れたいかなる事物もまたない。(五・五)


ナーガールジュナがいっていることは、ことば、その意味としての定義に厳密に一致するものはないということである。ことばがそれと一致するものをもつならば、どうしてその同じことばが他のものに適用されるのか。しかしまったく一致しなければ名づけも定義も行うことができない。ことばとその対象との関係は同一でもなく別異でもない。



ラクシャナを定義と訳したことから,以上のような乖離が始まってしまったように思います.

龍樹が言っていることは,梶山が解説するような複雑な事態ではありません.

既に定義的特質を持つものに更に定義的特質が働くとするならば二つの定義的特質があることになってしまう,というような論法が龍樹の頭にあると思われます.

このような論法は,すでに,「行く者が行く」とすると二つの「行く」があることになる,という第二章の議論で見たところです.

また,「行かない行く者」というのがありえないように,「特質の無い存在」というのもありえない,ということです.

だから,いずれの場合も,「定義的特質が発動する(向かっていく)」ことがないのです.

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  1. 2016/06/28(火) 18:41:59|
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MMK 5.2:定義の問題

MMK 5.2の梶山訳は少し違和感を抱かせます.

MMK 5.2
Siderits and Katsura 2013:60
alakṣaṇo na kaścic ca bhāvaḥ saṃvidyate kva cit/
asaty alakṣaṇe bhāve kramatāṃ kuha lakṣaṇam//2
Nowhere does there exist any such thing as an existent without defining characteristic.
An existent devoid of defining characteristic being unreal, where would a defining characteristic function?



S & Kの英訳は特に問題ありません.

これと比べると梶山訳は,少し調子が異なります.

梶山 1998 (1969):128-129(梶山雄一・上山春平『空の論理〈中観〉』):
ラクシャナはものに備わっている特質であるが、同時に特質づけるものとしての定義、つまり、ことばの意味をも表わす。ラクシャナは定義されるものである。ものの特質といっても、そのものに対する人間の定義、理解を別にしてあるわけはない。空間の特質は、抵抗性のないもの、という定義であり、地の特質は、堅いという性質、という定義である。

空間の定義より前にはいかなる空間も存在しない。もし定義よりも前にあるとすれば、それは定義されていないものとなってしまおう。(五・一)
けれど定義されていないものなどはどこにも存在しない。定義されていないものが存在しないときに、定義はどこにおいて行われようか。(五・二)
定義されていないものにおいて定義は行われない。定義されているものにおいても行われない。定義されているものと定義されていないものと異なった〔存在もしない〕ものにおいても行われない。(五・三)

われわれは知覚によっては、物体や空気や光と別に空間そのものを見はしない。空間とは抵抗性をもたないで物体に場所を与えるもの、という定義がされてはじめて,思惟によって空間を知る。定義以前には、いいかえれば、見ているかぎりでは空間は存在しないし、定義されていない空間は我々にとって存在しない。



もちろん,龍樹から見れば,定義的特質という客観的な存在は,所詮は人間の分別が生み出した主観的な存在にすぎず,言葉の意味たる定義にすぎないということになるでしょうが,アビダルマから見れば,定義的特質は客観的に存在するものであり,まさに,その存在の本体であるものです.

そこを飛ばして,いきなり,龍樹自身の視点から,言葉の意味という側に引き付けてラクシャナを説明するのは,少々危険です.

というのも,帰謬論法の醍醐味は,「乗り突っ込み」にあるからです.

アビダルマ自身が前提とする考え方に沿って,そのシステムの崩壊を促す論法が帰謬です.

だとすると,ここで,ラクシャナをいきなり言葉の意味とするのは,結論を急ぎすぎることになり,また,帰謬論法の醍醐味を失わせることになりかねません.

やはり,客観的に存在する定義的特質として記述すべきです.

「定義されていないものなどはどこにも存在しない」

という文は,原文を直訳するならば,英訳にもあるように,

「定義的特質を持たない何らかの存在がどこかに存在することはない」(=どこにも定義的特質を持たない存在などない)

となります.

インド哲学において定義的特質であるラクシャナは,客観的な特徴・特質のことです.

決して,定義文のことではありません.

また,定義文の意味という概念的なものを第一義的に指すわけでもありません.(もちろん,それは,言葉の意味を何と考えるか,それぞれの学派のシステム次第でしょうが.)

普通の語義として,ラクシャナは,マーク,印ということです.

印と印づけられるものが,定義的特質ラクシャナと,それによって特質づけられるものラクシヤにあたります.

龍樹がここで意図しているのは,梶山訳の

「定義されていない空間はわれわれにとって存在しない」

というのとは少しニュアンスが異なります.

無抵抗という定義的特質を欠くような虚空は,そもそも虚空ではないから,定義的特質を持たない存在など,どこにもない,というのが彼の言わんとすることです.

「定義されていない」というような,定義づけの主体を予想させる動的なニュアンスを感じさせる語(例えばalakṣyamāṇa)はここにはなく,あるのは,単に,「ラクシャナのない」というalakṣaṇaという語だけです.

定義づけの主体を感じさせる語はここには表れていません.

梶山訳だと,ニュアンスが違ってきてしまいます.




梶山雄一の凄みは,龍樹の言葉を,自分自身の理解を通して消化した上で,解説できる点にあります.

作者の言葉の上っ面に振り回されない一流たる所以です.

自分の頭で考えて,理解して,十分に消化した上で,自分の言葉で,ひとつひとつの説明を紡ぎ出しているという印象を強く受けます.

ここでも,龍樹になりきって,自身の理解を通した上で,龍樹の言葉を解説してくれています.

しかし,今の場合,龍樹になりきりすぎたあまり,アビダルマの実在論的な視点をすっ飛ばしてしまった,という感じがします.

  1. 2016/06/28(火) 08:10:39|
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MMK 6.9cd

MMK 6.9cd:

Siderits and Katsura 2013:70:
katamasmin pṛthagbhāve sahabhāvaṃ satīcchasi//9//

If there is distinctness of the two, in which do you posit co-occurrence?



S & K seem to understand the structure of the sentence as follows:

pṛthagbhāve sati sahabhāvaṃ katamasmin icchasi/


But here the intended structure is:

katamasmin pṛthagbhāve sati sahabhāvaṃ icchasi/



See, e.g. Walleser p. 35 (quoted in Teramoto p. 101):

Bei was für einem Getrennt-(Verschiden-)sein wünschest du Zusammensein?



Therefore, the line should be understood as follows:

In the presence of what kind of distinctness do you claim co-occurrence? [There is no distinctness that can be assumed.]



Around here Nāgārjuna has in mind the following anvaya and vyatireka:

pṛthagbhāva → sahabhāva
¬pṛthagbhāva →¬sahabhāva



In 6.9ab he denies the establishment of pṛthagbhāva.
It seems that the denial of pṛthagbhāva is not a mere assumption in 6.9cd, but probably intended as an actual (accepted, established) fact.

S & K 2013:70:
pṛthagbhāvāprasiddheś ca sahabhāvo na sidhyati/

And if distinctness is not established, co-occurrence is not established.



I prefer "because" to "if" for the ablative of aprasiddheḥ here. (N could have used pṛthagbhāvāprasiddhau or pṛthagbhāve 'prasiddhe instead of pṛthagbhāvāprasiddheḥ, if he intended a mere assumption.)

  1. 2016/06/27(月) 07:26:56|
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秋本勝:仏教実在論の研究――三世実有説論争――(上)

秋本勝
仏教実在論の研究
――三世実有説論争――
(上)
山喜房佛書林
2016/3/1
12000yen+tax




p. 12
l. 14
問題を>問題が

p. 21
木来>未来

「どうしてそれ(過去、木来のもの)に関してそれ(過去、未来の随眠anuśaya)と」

tatra tena vāのvāが訳出されていないようです

脚注6に引かれるSAでは,tatra tena caとなっています.

さらに,その下に引かれるAKBhでは,tena tasmin saṃprayuktaḥとありますから,何もありません.

迷うところです.難しそうです.

p. 23, n. 12
cakṣurvjñānavad > cakṣurvijñānavad

p. 25
「棒」ですが,vartikāやgulikāやmṛdguḍikāから見ると,球状の玉ではないでしょうか.

p. 26, n. 17
細かいことですが,
”avasthāntarato (na*) dravyāntarataḥ”
の頭の”ですが,
“avasthāntarato (na*) dravyāntarataḥ”
というように,“にしてほしいと思います.気になって仕方ないので.(同様の例はp. 43, n, 78)

その下の
’na’

‘na’
にしていただけたらと思います.
Wordの設定のせいでしょうか.

あと,Word原稿では,よくあることですが,細かいことを言えば,

p. 21, n. 6の
‘nuśayo
のアヴァグラハも
’nuśayo
というように,向きを直してほしものです.(同様の例は他にも多数ありますが,例えば,p. 31, n. 31.また,p. 44, l. 15のyo ‘yamも.)

p. 26, n. 17
pūrvāparā-pekṣayā > pūrvāparāpekṣayā

もともとの原稿で入れていたハイフンが最終版では不要になったのでしょうか.あるいは,改訂したときにずれたのでしょうか.ともあれ,ハイフンを削除.(同様の例はp.43, n. 78のdravyā-ntarataḥ)

p. 28
「そ[れ自身]の本体をもって」
原語は,tenaivātmanāですので,「同一の」「同じその」くらいでしょうか.「それ自身の」だと,tasyaを想定してしまいかねません.

p. 28, n. 23
取果・与果(phaladānaparigraha)
ですが,順番通りを考慮すると,
与果・取果(phaladānapratigrahaṇa)
となるでしょうか.さらに,ここの原文では,parigrahaではなくpratigrahaṇaと出ています.

p. 29,
その存在要素がそれ自身の本体をもって

原文は
sa eva dharmas tenaivātmanā
ですから,
その同じ存在要素が同一の本体をもって
くらいでしょうか.好みの問題かもしれませんが.

p. 30, l. 1
言った]  こと > 言った]こと
不要なスペースが入っています.

p. 30
「論法」
原語は,
vācoyuktiḥ
ですから,「もの言い」「言葉遣い」「言い方」くらいでしょうか.

なお,p. 46, l. 12の原文では
vāco yuktiḥ
と切り離されていますが,vācoyuktiḥというように,一語としてくっつける必要があります.

p. 30, n. 29
dharmān anyac > dharmān nānyac

p. 31
あなたに提示される
原語はtavopasthitamです.なんと訳すべきなのでしょうか.「提示される」は違うような気がします.原意は「近くに立つ」ですから,「あなたに降りかかってくる」とかでしょうか.

p. 31
従って。>従って、

p. 31
過去のものはある(過ぎ去って『ある』)、未来のものはある(まだ来ずに『ある』と言われたのである

過去のものもある(過ぎ去って『ある』)、未来のものもある(まだ来ずに『ある』)と言われたのである

原語にapiがあるので追加.さらに,最後の)を追加.





p. 42, l. 14
anāmataṃ > anāgataṃ

p. 42, l. 23
dharmasyādhvasu,
の最後のコンマは不要ではないでしょうか?


p. 44, l. 20
krrrtvā > kṛtvā

ṛなどは,昔の入力方式から変換したときに,いかにも間違いが生じそうな箇所です.怖いです.

p. 45, l. 1
yady atītam api dravyato ‘sty anāgatam iti|
ですが,「もし過去のものも未来のものも実在するなら、」と訳されていることから分かるように,最後のitiはapiの可能性がないでしょうか.また,最後のダンダは取ったほうがよくないでしょうか.もちろん,ダンダをどう打つかというのは,校訂者の趣味の問題が多分にありますが.また,アヴァグラハの‘ は ’ に変換.

p. 45
l. 4
kāitram > kāritram

l. 4
sabhāgatetvādīnāṃ > sabhāgahetvādīnāṃ

p. 45, l. 12
aītam > atītam

praty-utpannaṃ > pratyutpannaṃ
ハイフン削除

p. 46, l. 23
tasmāt bhūta > tasmād bhūta-
サンディ



  1. 2016/06/26(日) 10:14:16|
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MMK 5.6c: bhāvābhāvavidharmā

Siderits and Katsuraによる中論英訳は,その基となった英訳が龍谷の雑誌に掲載されています.

新訳では一部に改訂が施されているようです.

しかし,次の改訂は,いまひとつ理由が不明です.

まずは旧訳を確認.

MMK 5.6cd:
bhāvābhāvavidharmā ca bhāvābhāvāv avaiti kaḥ//

Siderits and Katsura 2005-2006 (『インド学チベット学研究』9/10), p. 155
And who is there who, lacking the nature of either an existent or a non-existent, cognizes what is both existent and non-existent?


旧訳には特に問題はありません.

強いて言えば,dのbhāvābhāvāvは, 「存在と非存在とを」であって,「存在かつ非存在であるものを」ではないでしょう.

いっぽう新訳は以下の通り.

Siderits and Katsura 2013: 63:
And existent and nonexistent are contradictory properties; who cognizes something, whether existent or nonexistent?


なぜ,このように改訂されたのか,理解に苦しみます.

月称も,存在・非存在とは異質のparīkṣakaḥに言及しています.

bhāvābhāvavidharmāは,明らかにkaḥに係っています.

チベット訳に多く依拠する寺本訳は前後を切ってしまっています.

寺本 p. 88:
「存在と,無存在とは不相應の法なり、誰によりて存在と、無存在とを知るや」。


いっぽうWalleserは問題がありません.

Wer, von Sein und Nichtsein verschieden, erkennt sein und Nichtsein?



チベット訳においても,

dṅos daṅ dṅos med mi mthun chos
gaṅ gis


は,切り離さずに理解すべきでしょう.

漢訳も,詩節(5.6cd)部分の

T1564_.30.0007c17:     有無既已無 知有無者誰



は,少し端折った訳ですが,青目釈は,人に係るのを前提にしていることが読み取れます.

T1564_.30.0007c20: 當有無。眼見耳聞尚不可得。何況無物。問
T1564_.30.0007c21: 曰。以無有有故無亦無。應當有知有無
T1564_.30.0007c22: 者。答曰。若有知者。應在有中應在無中
T1564_.30.0007c23: 有無既破。知者亦同破



般若灯論の中に出る詩節も同様と読み取ることができるでしょう.

T1566_.30.0072b04:     與體無體異 何處有解者



  1. 2016/06/24(金) 18:50:07|
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received: 堀内俊郎 『世親の阿含経解釈――『釈軌論』第2章訳註――』

堀内俊郎
『世親の阿含経解釈――『釈軌論』第2章訳註――』
2016年5月23日
山喜房佛書林
xix pp.
238 pp.

Toshio Horiuchi
Vasubandhu's Exegesis of the Agamas: An Annotated Japanese Translation of Chapter 2 of the Vyakhyayukti
Tokyo: The Sankibo Press, 2016
5500 yen +tax




p. 99, n. 650
jus > juṣ

p. 141
ということよって、>ということよって、

  1. 2016/06/24(金) 18:07:14|
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律文献に登場する女性アンドロイド

月称の『プラサンナパダー』に,「からくり師が操るからくりの乙女」という単語が出てきます.

Prasannapadā §77, p. 214,
vinaye ca --- yantrakārakāritā yantrayuvatiḥ sadbhūtayuvatiśūnyā sadbhūtayuvatirūpeṇa pratibhāsate. tasya ca citrakarasya kāmarāgāspadībhūtā.

MacDonald, p. 179
And in the Vinaya, a mechanical woman (yantrayuvati) made by a builder of [such] devices (yantrakāra), which was empty of a real (sadbhūta) woman, appears to be a real young woman, and became the object of the lust and desire of the painter (citrakara).346



アンは親切に脚注を振ってくれています.律のお話の筋は以下の通り.

MacDonald, p. 179, n. 346の要旨:

1. マディヤデーシャの絵師がギリシャ(イオニア)に行く.
2.機械の女に給仕される.
3.彼女を誘う.
4.彼女が返事をしない
5.彼女の手を引っ張る.
6.彼女がばらばらになる.
7.機械の女と知って恥ずかしくなる.(=恥をかかされる.)
   ....



アンも言及している四百論の対応箇所は以下の通り.上田さんの和訳があります.

上田昇 1994 (『チャンドラキールティ著『四百論注』第一~八章和訳』,山喜房), p. 115:
「或る画工がからくり師の家に泊まった。彼(からくり師)は彼をからかおうと思って、からくりの娘を[部屋に]送った。彼(画工)は、「この侍女は私が好きなように享受するために送られた」と考えて、手を取って引っ張ったので、木がこわれてしまった。彼(画工)はそれを見て非常に驚いた。彼は仕返しのために壁面に自分を自殺したように画いた。それを見て、からくり師は、「ああ、軽率にからくりに触れた画工は驚いて自分を絞め殺した」と思った。」



ギルギットのサンスクリットはさておき,漢文(根本説一切有部毘奈耶藥事,No. 1448 義淨譯,Vol. 24)だと次の箇所に相当します.

T1448_.24.0077a25: 如。佛告諸苾芻。汝等諦聽。非但今時。乃往古
T1448_.24.0077a26: 昔。於中天國。有一畫師。其人因事。往詣餘國
T1448_.24.0077a27: 至已。還向畫師家停。然而主人作一轉關木
T1448_.24.0077a28: 。彩色莊嚴。令其供給看侍。對前而住。客便
T1448_.24.0077a29: 喚曰。來於此眠臥。其木女默然而立。斯人念
T1448_.24.0077b01: 曰。主人發遣此女。看侍於我。即以手挽。其索 画像
T1448_.24.0077b02: 即斷。身手倶散。極生羞恥。便作是念。今者被
T1448_.24.0077b03: 其私裏辱我。我應對衆而爲恥辱。斯人即於
T1448_.24.0077b04: 當門牆上。畫自己身。猶如自絞入門扇後隱
T1448_.24.0077b05: 身而住。主人怪晩日高不起。即往看之。開
T1448_.24.0077b06: 門乃見自絞而死。便作是念。彼人何故自勒
T1448_.24.0077b07: 咽喉。復見木人聚在地上。縁我勝彼由斯致
T1448_.24.0077b08: 死。其國立法。有人死者。先奏王知然後殯



機械仕掛けの女は,「轉關木女」と訳されています.筋書きで整理すると以下の通り.

1.於中天國。有一畫師。其人因事。往詣餘國至已。還向畫師家停。
2.然而主人作一轉關木女。彩色莊嚴。令其供給看侍。對前而住。
3.客便喚曰。來於此眠臥。
4.其木女默然而立。斯人念曰。主人發遣此女。看侍於我。
5.即以手挽。
6.其索画像即斷。身手倶散。
7.極生羞恥。
   .....



絵師の台詞が「來於此眠臥」と直接的なのが笑えます.

  1. 2016/06/22(水) 22:15:47|
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中論研究の環境変化

中論のサンスクリット原典,さらに,その基となるべき月称の『プラサンナパダー』に関しては,最近,ようやくにして,土台となるべき基礎的研究がまとまった形で出版されて,爾後の研究者にとっても,容易に,つまりあれこれの論攷から情報をこまめに自分で取捨選択しながら拾う努力をさしてせずとも,吟味検討考察を行う準備が整ってきたように感じます.

叶少勇『中論頌』,中西書局,2011年

Mark Siderits and Shoryu Katsura: Nagarjuna's Middle way, Wisdom Publications, 2013

Anne MacDonald: In Clear Words, ÖAW, 2015


なかでもウィーンのアンの情報量は圧倒的です.

今後,彼女が脚注で示した膨大な情報を(学界の常識として)消化していく時間がしばらく必要になるでしょう.

今後の研究者は,アンの研究水準を保つ(あるいは少なくとも目指す,あるいは,できれば超える)必要があります.

後から見れば,2010年代は,中論研究の画期となるのではないでしょうか.

  1. 2016/06/21(火) 18:47:38|
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日本南アジア学会九州支部 6月定例研究会

日本南アジア学会九州支部 6月定例研究会

日時:6月18日(土)13:30-17:00
 

会場:福岡大学七隈キャンパス・2号館(商学部棟)7階 27Bゼミ室 
地下鉄七隈線福大前下車 http://www.fukuoka-u.ac.jp/help/map/
  
     
発表者:
石上悦朗(福岡大学)
:インドの経済・産業発展と人間開発――議論の整理を中心に

和田一哉(長崎県立大学)
:What is Participation for Development? Econometric Evidence from India


難波美和子先生からは,次の報告書を頂戴いたしました.ありがとうございます.

平成25年度~27年度
科学研究費
挑戦的萌芽研究
「現代インド英語文学とグローバル化する英語」
研究報告書

目次
1.現代インドの英語文学を考える―――難波美和子
2.独立後インドにおける文芸的英語文学―――森本素世子
3.インド英語とインド英語文学―――榎木薗鉄也
4.現代インドにおける「大衆小説」とその受容―――小松久恵
5.インドの当世ベストセラー小説:チェータン・バガト,アヌジャー・チャウハーン,アミーシュ,その現象とこれから―――関口真里
6.デリーにおける読者アンケートと国際ブックフェアの報告―――松木園久子
7.インドにおけるグラフィックノベル―――大工原 彩


長島弘先生からは次の論考を頂戴いたしました.

「1730年前後作成のスーラト絵図を読み解く」
守川知子編著『移動と交流の近世アジア史』
北海道大学出版会
2016年
第7章
pp. 185-214

  1. 2016/06/20(月) 07:50:58|
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月称における二種の「相互依存」の使い分け?

小澤千晶 2006b
「清弁と相互依存の縁起― 『般若灯論』の用例を中心として―」
『印佛研』55-1, 458(55)-454(59)

小澤 2006bは,月称の相互依存に二つがあると主張しています.

小澤 2006b:457(56)-456(57):
「月称は,聖者の見る世間を表すparasparāpekṣikī siddhiḥと,増益した自性からなるparasparāpekṣayā (pra-) siddhiḥの使い分けを徹底することで,同じ「相互依存」ではあっても,有自性論に成り立つ「相互依存」と無自性の「相互依存」の区別を明確にする.」



仮に相互依存1と相互依存2とすると,次のように整理できます.

相互依存1:聖者の見る世間を表すparasparāpekṣikī siddhiḥ,無自性の「相互依存」
相互依存2:増益した自性からなるparasparāpekṣayā (pra-) siddhiḥ,有自性論に成り立つ「相互依存」



小澤 2006bによれば,月称の特徴は,相互依存1を積極的に提示する点にあります.

小澤 2006b:458(55):
「他方,月称(Candrakīrti)は,縁起した世俗を「相互依存した成立」(parasparāpekṣikī siddhiḥ)と捉えて,自身の縁起観として積極的に提示する.」



このような二種の区別は,小澤によれば,「依存」(apekṣā)という語の用法を月称が使い分けていることに基づきます.

小澤 2006b:458(55):
「月称の縁起解釈の特徴は,「依存」(apekṣā)という語の用法を使い分けることで,二種の世俗観をあらわす点にあり」




具体的には次の区別です.

小澤 2006b:457(56):
「前述の「相互依存した成立」の場合には「相互」と「成立」の語が同格で表現されていたのに対し,ここでは具格によって表現されている.これは,「智慧の目が無明という眼病に傷付けられているために,諸存在に顛倒した自性を増益して,あるものにある特殊性」(Pras 58.1-3)を増益した凡夫たちにとって,世間の成立は,その増益した自性を根拠に確立していることを意味する,成立のための作因を表す具格であるとみられる.つまり,凡夫たちにとっての世間,世俗諦はparasparāpekṣayā siddhiḥとして立ち現れる世間であり,それが無考察に確立していることから「世間的成立」(prasiddhi)とされているといえよう.」



整理すると次のようになります.(なお,小澤氏の言いたかったのは,「相互」と「成立」の語が同格で表現されていた,ということではなく,「相互依存」と「成立」の語が同格で表現されていた,ということだと推測されますので,そのように以下では訂正して理解しておきます.なぜならば,「相互依存した成立」(parasparāpekṣikī siddhiḥ)において同格なのは,「相互依存した」と「成立」だからであって,「相互」と「成立」ではないからです.)

相互依存1:「相互[依存]」と「成立」の語が同格で表現されていた

相互依存2:
[「相互依存」が]具格によって表現されている
世間の成立は,その増益した自性を根拠に確立していることを意味する,成立のための作因を表す具格である



すなわち,「相互依存1した=成立」というように同格で述べられる場合には,相互依存1となる,というのです.

いっぽう,「相互依存2によって成立」というように,成立のための作因を表わす具格で述べられる場合には,相互依存2となる,というのです.

しかも,「相互依存2によって成立」というときには,「増益した自性を根拠として,相互依存によって成立」という意味となる,というのです.

相互依存2の根拠となった月称の原文について,小澤 2006bは,次のように和訳を示しています.

小澤 2006b:457(56):
「世間的事物たちは,道理なきままに,智慧の目が無明という眼病に傷付けられている一切世間にとっては,世間的に成立するに至っている(prasiddhim upagatā).それゆえ,〔それら諸事物は〕ただただ相互依存によってのみ世間的成立(parasparāpekṣayaiva kevalaṃ prasiddhim)に至ると,凡夫たちは〔有自性論的に〕承認している.」



ここで小澤氏は最後に「有自性論的に」という語を補っています.

しかし,この語を補うことは,月称の考えに反します.

なぜなら,月称にとって世間的事物というのは,凡夫たちが有自性論的に承認しているものではなく,前半で述べられるように,道理なきままに成立するに至っているものだからです.

つまり,凡夫は,有自性か無自性かということは全く考えていません.

たとえば次のような文章が月称にはあります.

Prasannapadā §43-44(MacDonald p. 171):
loko hi svataḥ parata ity evamādikaṃ vicāram anavatārya "kāraṇāt kāryam utpadyate" ity etāvanmātraṃ pratipannaḥ. evam ācācyo 'pi vyavasthāpayām āsa.

MacDonald p. 99:
for the world, not having launched an investigation (vicāra) [into whether things arise] from self [or] other, etc., presumes [merely] this much: an effect arises from a cause. The Master [Nāgārjuna] has also determined it thus [i.e., that arising from self is negated without qualification].



小澤氏自身,「無考察に確立している」と述べています.

以上から,小澤氏の言う,「増益した自性からなるparasparāpekṣayā (pra-) siddhiḥの使い分け」というもの,すなわち,相互依存2の存在は,小澤氏の示した限りでは,文献証拠を欠くことになります.

なぜなら,引用された月称の原文には,「増益した自性」という語はないどころか,むしろ,それを前提とすることは否定されることが十分に推測されるからです.

また,具格の存在を根拠として有自性論に成り立つ相互依存を主張する場合,次の文章は,どのように理解すればよいのでしょうか.

Prasannapadā §104 (MacDonald, pp. 261-262)
evaṃ pṛthivyādīnāṃ yady api kāṭhinyādivyatiriktaṃ vicāryamāṇaṃ lakṣyaṃ nāsti, lakṣyavyatirekeṇa ca lakṣaṇaṃ nirāśrayam, tathāpi saṃvṛtir eṣeti parasparāpekṣāmātrayā siddhyā siddhiṃ vyavasthāpayām babhūvur ācāryāḥ. avaśyaṃ caitad evam abhyupeyam.



論点となる箇所は次のように英訳されています.

MacDonald §104 (p. 257):
... the Masters have determined that there is establishment (siddhi) by virtue of an establishment (siddhi) [that consists in] mere mutual reliance (parasparāpekṣā).



ここでは,具格が用いられているにもかかわらず,その相互依存は,相互依存2ではなく,むしろ,相互依存1の特徴があてはまります.

以上から,同格と具格との使い分けによって二種の相互依存を月称が区別している,という小澤 2006bの主張は成り立たないことになります.

最も大きな問題は,相互依存2の文献証拠とされる引用文の訳文に,「有自性論的に」という語を小澤氏が補って理解していることです.

月称にとっての相互依存とは,mātraやkevalaという語の使用から分かるように,有自性や無自性といった道理を問わないレベルのものだと考えられます.

相互依存というのは,学問(シャーストラ)的には忌避されるべきものです.

しかし,学問的な探求に入ってない世間的なレベルでは許されるものであり,そのまま認められるべきものだと,月称は考えていた,と推察できます.

なお,サンスクリット語の表現としてのみ見たとき,

1. parasparāpekṣikī siddhiḥ
2. parasparāpekṣayā siddhiḥ

のいずれも同じ意味を表示していると考えられます.すなわち,いずれも等しく,

0. parasparāpekṣayā sidhyanti

ということを表わしていると考えられます.次の例が参考になるでしょう.

Prasannapadā §123 (MacDonald, p. 275)
tad evaṃ pramāṇacatuṣṭayāl lokasyārthādhigamo vyavasthāpyate//
tāni ca parasparāpekṣayā sidhyanti/ tasmāl laukikam evāstu yathādṛṣṭam.

MacDonald p. 292:
Thus the world's apprehension of objects is in this way established as being from the four-fold means of valid cognition. And those [means of valid cognition and their objects] are established in reliance on each other. Therefore, just let worldly [things] be, the way [they are] observed.



  1. 2016/06/19(日) 18:47:56|
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意麺




頑固婆の店と書いてますが、親切なおばちゃんでした。
  1. 2016/06/17(金) 22:43:57|
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vyāpāra and phala

次の説明には若干の疑問が生じます.

小澤 2014:23左:
このような註釈のゆれは,伝統的に動詞語根の指し示す意味が「行為」と「その果」(phala)という二側面で理解されることに由来する25.したがって,ここでもナーガールジュナはサンスクリット語の言語観を利用して,意図的に“karman” の語に「行為」と「行為目的」の両義性を持たせて第8 章の議論を展開していたといえる.



ここで小澤氏は次の二つが由来の原因・結果の関係にあると主張しています.


1.伝統的に動詞語根の指し示す意味が「行為」と「その果」(phala)という二側面で理解されること

2.このような註釈のゆれがあること,すなわち,意図的に“karman” の語に「行為」と「行為目的」の両義性を持たせること



小澤氏は,次のような平行関係を念頭に置いていたと考えられます.

vyāpāra(行為) --- phala(その果)
karman(行為) --- karman(行為目的)



しかし,このような形で二つを平行に捉えることはできません.

まず,動詞語根の意味には,vyāpāraとphalaとの両方が含まれています.

「お粥を調理する」(odanaṃ pacati)では,「調理」(pac)によって,一連の動作だけでなく,米が柔らかくなることという結果までもが表わされています.

しかし,そのことと,"karman"という語が行為と行為対象の両義を持ちうることとは無関係です.

したがって,1を由来の原因として2が導かれることはありません.

小澤氏は,karmanを「行為目的」と訳したために,phalaと同一視してしまったのでしょう.

しかし,行為対象(行為目的)と言うときのkarmanと,動詞語根の意味の一側面としてのphalaとは,ひとまず別のものです.(もちろん,間接的には関係し得ます.すなわち,柔らかくなるという結果を持つのはお粥という行為対象です.)

関係を図式化するなら,次のような感じになるでしょうか.

動詞語根の意味dhātvarthaとしての行為karman(=作用vyāpāra+結果phala)---行為対象karman

すなわち

vyāpāra(行為) --- phala(その果)
karman(行為) --- karman(行為対象)

のような平行関係ではなく,第一のkarmanの中に上の二つが含まれることになります.

vyāpāra+phala
 karman(行為)--------------------------karman(行為対象)




"guṇa"という語の二つの意味である従属要素と性質, śaktiの二つの用法である,ものの能力と語の直接表示機能, そして,phala(作用の結果)とkarman(行為対象)という,本来,分けて考えるべき二つを小澤氏は結びつけて考えてしまっていることが,誤った説明の背景にあると考えられます.

  1. 2016/06/17(金) 19:47:48|
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kārakaとśakti


次の註記7には若干の問題があります.

小澤 2014:27, n. 7:
行為関与要素の「属性」は後の文法学派では「直接表示機能」(śakti)と説明されるようになる.チャンドラキールティも行為関与要素を直接表示機能と説明する.



小澤氏は,ここでのśaktiを直接表示機能と理解しています.

しかし,ここで問題となっているśaktiは,語の能力である直接表示機能ではなく,例えばデーヴァダッタという実体が持つ,行為を実現する能力のことです.

すなわち,あるものXを行為参与者として捉える時のその側面は,ものそのものではなくて,そのものが持つśakti,すなわち,能力だというのが,行為参与者理論における能力を理解する際のポイントです.

ここでのśaktiは,語の表示機能,直接表示能力としての「直接表示機能」ではありません.

次の二つを区別すべきです.

1.あるものが持つ行為参与者(すなわち行為を実現するもの)としての能力

2.語が持つ能力(=直接表示能力)



小澤氏は続けてチャンドラキールティの原文を引用の後に和訳されています.

確認していきましょう.


小澤 2014:27, n. 7:
[Pras 96.11-97.2, ad. MMK 2.6] atha syāt, yadāyaṃ devadattaḥ *sthitaḥ san bhāṣate paśyati ca*, tadaiko 'nekakriyo dṛṣṭaḥ / evam ekasmin gantari kriyādvayaṃ bhaviṣyati / iti // naivaṃ / śaktir hi kārako na dravyaṃ, kriyābhedāc ca tatsādhanasyāpi śakteḥ siddha eva bhedaḥ/ na hi sthitikriyayā vaktā syāt //
dravyam ekam iti cet / bhavatv evaṃ, na tu dravyaṃ kārakaḥ, kiṃ tarhi śaktiḥ, sā ca bhidyata eva / api ca sadṛśakriyādvayakārakatvaṃ naikadeśikasya dṛṣṭaṃ, ato naikasya gantur gamanadvayaṃ //
〔あるいは,次のような反論が〕あるかもしれない.当のデーヴァダッタがじっとしている時に,語り,見るという場合,その場合には,一人に複数の行為が経験される.そのように,一人の「歩く者」に二つの行為はありえるだろう,と.それはそのようではない.というのは,〔動詞の〕直接表示機能(śakti)は行為関与要素(kāraka)であって,〔デーヴァダッタという〕‘もの’(dravya)ではないからだ.そして,行為が違うのだから,それの行為関与要素をともなう〔動詞の〕直接表示機能にも区別が成立しているにほかならない.というのは,「じっとしている」という行為によって,話者であるのはないから.もし,〔反論者が,じっとしていて,話して見ているデーヴァダッタという〕‘もの’ は一つである〔というならば,〕〔それは〕そのようであろう.だが,‘もの’が行為関与要素なのではない.ではどうかといえば,〔動詞の〕直接表示機能〔が行為関与要素〕なのである.そして,それが〔「話者」や「見者」とでは〕区別されているのにほかならない.さらにまた,類似する二つの直接表示機能の行為関与要素性が,一部分にあることは経験されない.したがって,一人の「歩く者」に二つの「歩くこと」は存在しないのである.




問題となるのは次の箇所です.

サンスクリットと対応させながら見ていきましょう.


śaktir hi kārako na dravyaṃ,
小澤訳:というのは,〔動詞の〕直接表示機能(śakti)は行為関与要素(kāraka)であって,〔デーヴァダッタという〕‘もの’(dravya)ではないからだ.
片岡訳:なぜなら,実体ではなく能力が行為参与者だからである.



ここで,デーヴァダッタという実体は一つですが,じっとしているという行為を実現する行為参与者としての能力1と,語るという行為を実現する行為参与者としての能力2と,見るという行為を実現する行為参与者としての能力3は別である,ということが月称が言わんとすることです.

ここでのśaktiは,直接表示機能ではなく,デーヴァダッタという実体にある,異なる行為を実現する能力のことです.

同じ問題は次の文章からも明らかです.

na tu dravyaṃ kārakaḥ, kiṃ tarhi śaktiḥ,
小澤訳:だが,‘もの’が行為関与要素なのではない.ではどうかといえば,〔動詞の〕直接表示機能〔が行為関与要素〕なのである.
片岡訳:しかし実体は行為参与者ではない.そうではなく能力が[行為参与者である].



ここでも,月称は,行為参与者を,デーヴァダッタという実体にある能力として捉えています.

ここでいう śaktiは,小澤氏が理解したような「〔動詞の〕直接表示機能」ではありえません.

  1. 2016/06/17(金) 19:15:13|
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格と行為参与者

以下の記述には若干の問題があります.(以下,赤字強調は筆者による)

小澤 2014:20左:
パーニニ文法の特徴は,文章表現の中心に動詞(具体的には動詞語根が表示する意味)を置き,その文章表現に関わる名詞の「格」を,動詞が表示する行為の実現に関与する要素「行為関与要素」(kāraka)として組織する点にある.



名詞の格=行為参与者

ということは言えません.名詞の格は言葉の世界に属し,行為参与者は意味の世界に属すからです.


小澤 2014:20左:
この「行為関与要素」として定立される語は,実体(dravya)としてではなく,あくまでも文章を構成する要素として理解され,文章表現の主たるもの(pradhāna),「行為」を実現に導く従属的なもの(guṇa)と位置づけられる7



ここでも同じ問題があります.

行為参与者=語

ということは言えません.行為参与者は意味の世界に属し,語は言葉の世界に属すものだからです.

以上の文章における説明では,言葉と意味とが混じって説明されてしまっています.

guṇaに関して小澤氏が付された脚注7については,また別稿にて.




上に続けて,さらに小澤氏は次のように述べています.

この“guṇa” は,実体との関係でいうと「属性」と理解される.サンスクリットの言語観の特徴としては,この属性と基体との関係が重視されている点があげられる.パタンジャリ(Patañjali)は『マハーバーシャ』(Mahābhāṣya)の冒頭で,「ことば(􃶄abda)とは何か」という問いを提出し,実体(dravya),行為(kriyā),性質(guṇa),種(jāti)を例示した上で,それらを退け,最終的に「それが発声されることによって,観念(saṃpratyaya)が生じるもの」という答えを導いている(MBh I, 1.10-12).



しかし,行為vs行為参与者の対立で用いられる主要素vs従属要素というときのpradhāna対guṇaのguṇaと,実体(dravya),行為(kriyā),性質(guṇa),種(jāti)という時のguṇaとは同一視できるようなものではありません.

全く別物です.

簡単に言えば,たとえば「壺を作る」において,壺という行為対象は,作るという行為(主要素)に対して従属要素ですが,しかし,「実体との関係でいうと「属性」として理解される」ようなものではありません.つまり,ヴァイシェーシカで言うような性質ではありません.

小澤氏は,guṇaの異なる二つの用法を混同しています.

1.sādhyaたる主要素(行為)との対立で用いられるsādhanaたる従属要素(行為参与者)

2.実体・性質・運動などという文脈での性質


もちろん,語源的には同じですが,用法として,二つはまず切り離して理解すべきです.

  1. 2016/06/17(金) 18:31:09|
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月称にとってのkriyāとkarman

同じことは,月称についても当てはまります.

小澤 2014:22-23:
その第1偈の "karma"に対して,チャンドラキールティは "karturīpsitatamaṃ karma"というパーニニの規定(P 1.4.49)を引用して"karman"が「目的」を意味すると明示している(Pras 180.14).しかし一方で,第2偈ab句の註釈に際しては "
na cākartṛkaṃ karma saṃbhavati, vandhyāsūnor iva ghaṭakaraṇam"「そして,行為者のない行為は生じない.たとえば石女の息子が瓶を作るごとく」"na hy akṛtānantaryakarmaṇa ānantaryakarmakārakatvaṃ dṛṣṭam"「というのは,いまだなされていない無間業には,無間業の行為者であることを見ることはないから」(Pras181.8, 18)と「行為」を意味するようにも解説している.このような註釈のゆれは,……」



本当に,月称は,karmanの両義の間で「ゆれ」ているのでしょうか?

しかし,龍樹が行為に対してはkriyāという語を用いて,karmanと区別してくれているように,月称も,この文脈では,無用な混乱を避けるためでしょう,行為に対してはkriyāという語を用いています.

小澤氏が問題とした二文は,それぞれ,次のように解釈すべきでしょう.(akṛtānantaryakarmaṇaḥは,yena akṛtam ānantaryakarma tasyaというように,バフヴリーヒで理解すべきでしょう.)

また[一般的に],行為主体のない行為対象はありえない.ちょうど,石女の息子が瓶を作ることが[ありえないの]と同じように.

というのも,無間業を未だ作ってない者が,無間業を作る主体であることは見られていないから.



確かに,月称の最初の文章は誤解を招くものです.

というのも,この文章では,karmanとghaṭakaraṇamとが平行するように読めてしまうからです.

しかし,文脈上,ここで月称が意図しているのは,karmanとghaṭaと理解すべきでしょう.

第1偈の註釈において月称が疑いなくkarmanを行為対象と理解している以上,その直後の第2偈において,karmanを行為と理解しているという小澤氏の解釈には相当の無理があります.

第二の喩例も確かに誤解を招きやすいものですが,ここでは,無間業という罪業(adharma, cf. MMK 8.5)が作られる対象として意図されているのでしょう.

つまり,業がここでは行為対象として意図されているということです.

業が,作るという行為としてではなく,作られる対象として意図されている,ということです.




小澤氏も認めるように,第1偈への註釈において,月称は疑いようもなく,karmanを行為対象だと理解しています.

したがって,その理解が以降も続いているとするのが,全体を最も無理なく解釈できる理解です.


Prasannapadā ad MMK 8.1:
tatra karotīti kārakaḥ kartā. ... kriyata iti karma.

Cf. 『般若燈論』 ad MMK 8.1cd (T1566_.30.0080a10):
所作名業。能作名者。



同じように,karmanは,清弁によっても,行為対象と明示的に註釈されています.

第1偈のkarmanが第2偈になって突然に「行為」とも理解されるようになる,と考えることには無理があります.

  1. 2016/06/17(金) 08:10:11|
  2. 未分類

karman at MMK 8.1-2


小澤 2014:23左:
「したがって,ここでもナーガールジュナはサンスクリット語の言語観を利用して,意図的に“karman”の語に「行為」と「行為目的」の両義性を持たせて第8章の議論を展開していたといえる.」

小澤 2014:23右:
「以上のことから,ナーガールジュナが第8章で用いる“karman”が「行為」を意味するか「行為目的」を意味するかは断定できないものの,その両義性が意識されい(sic)ていることは指摘できよう.」



小澤氏の主張は揺れていますが,弱い主張と強い主張として,次の二つにまとめられます.

弱い主張:
ナーガールジュナが第8章で用いる“karman”が「行為」を意味するか「行為目的」を意味するかは断定できない

強い主張:
両義性が意識されている
意図的に“karman”の語に「行為」と「行為目的」の両義性を持たせて第8章の議論を展開していた



まずは,問題となっている,第8章冒頭の二偈を確認しておきましょう.

Siderits & Katsura 2013:91:

sadbhūtaḥ kārakaḥ karma sadbhūtaṃ na karoty ayam/
kārako nāpy asabhūtaḥ karmāsadbhūtam īhate//1//

1. A real agent does not bring about a real object;
nor does an unreal agent aim at an unreal object.

sadbhūtasya kriyā nāsti karma ca syād akartṛkam/
sadbhūtasya kriyā nāsti kartā ca syād akarmakaḥ//2//

2. There is no activity (kriyā) with respect to an agent that is real, [so] the object would be without an agent.
There is no activity with respect to an object that is real, so too the agent would be without an object.



小澤氏の強い主張は,赤字部分のkarmanについて,「意図的に“karman”の語に「行為」と「行為目的」の両義性を持たせて」いるというものです.

弱い主張は,「“karman”が「行為」を意味するか「行為目的」を意味するかは断定できない」というものです.

本当に,我々は,ここでのkarmanが行為対象(小澤氏の言う「行為目的」)に限定されないと言えるのでしょうか.

英訳で確認できるように,Siderits & Katsura は,シンプルに,karmanをobjectに限定しています.

この英訳はまったく正当であると私も考えます.

これに対して,小澤氏の見解は,次のように偈を理解しようとするものです.小澤 2014:29左, n. 24にMMK 8.1の原文が引かれるものの,小澤氏自身の訳文は示されていないので,上の英訳を転用して,ここで,小澤氏の意図を明確化しておきます.

1. A real agent does not bring about a real object/action;
nor does an unreal agent aim at an unreal object/action.

2. There is no activity (kriyā) with respect to an agent that is real, [so] the object/action would be without an agent.
There is no activity with respect to an object/action that is real, so too the agent would be without an object/action.


小澤氏の意図するところは,karmanに両義性がある,あるいは,必ずしも行為目的に限定されない,というものです.

つまり,行為目的・行為の両方がナーガールジュナによって意図されている,あるいは,少なくとも意識されている,ということです.

これは本当でしょうか.

karmanという語でもって行為も意図されていると仮に考えてみましょう.

その場合,2cは次のように理解されることになります.(sadbhūtasyaの係り先である隠れたkarmaṇaḥを補います.)

sadbhūtasya [karmaṇaḥ] kriyā nāsti
There is no activity with respect to an action that is real



この場合,sadbhūtasya [karmaṇaḥ] kriyā nāsti は,「現に存在するものである(=実有である)行為を作る働きは存在しない」となってしまいます.

「行為対象を作る働きは存在しない」なら理解できますが,「行為を作る働きは存在しない」は変です.

なぜならば,karmanを行為と解釈した場合,明らかに行為であるkriyāと重複することになるからです.「作る働きを作る働き」となってしまいます.

「作られる対象を作る働き」なら,難なく理解できます.

つまり,小澤氏の解釈に従う場合,ナーガールジュナがわざわざ行為に対してkriyāという別の語を用いてくれていることが説明不可能となります.

したがって,ここでのkarmanは一義的に行為対象に定まると考えなければなりません.

以上から,次の小澤氏の主張は間違いだと言えます.

小澤 2014:23左:
「したがって,ここでもナーガールジュナはサンスクリット語の言語観を利用して,意図的に“karman”の語に「行為」と「行為目的」の両義性を持たせて第8章の議論を展開していたといえる.」



簡潔にポイントを述べるなら,「なぜなら行為に対して,この文脈では,ナーガールジュナは,無用な混乱を招かないように,kriyāという別の語を用いてくれているから」ということになります.

また,MMK 8.4におけるkriyā kartā karaṇam caという言及は,第8章でのkarmanが行為参与者の文脈での行為対象でしかないことを示唆します.

すなわち,kriyāと対置する文脈での kartā, karman, karaṇaという行為参与者のうちのkarmanが問題とされているのです.

一般的にkarmanという語が行為(kriyā)を意味するからと言って,この特殊な文脈でも行為(kriyā)を意味すると考えるのは無理があります.




確かに,小澤氏が持った理解あるいは疑問は,理解できなくもありません.

というのも,MMK 2.24-25においてナーガールジュナは三種(sadbhūta, asadbhūta, sadasadbhūta)のgamana(行くという行為)に言及するからです.

それと平行すると考えれば,MMK 8においても,三種は,行為対象でなく,行為と考えることもできるからです.

小澤氏は次のように述べています.


小澤 2014:22右:
ここで簡潔に二偈にまとめられた「行為者」と「行為」との九種の関係は,第8章「業と作者の考察」(karmakārakaparikṣā (sic))に至ってそれぞれを枚挙して論じられている.したがって,第8章の議論は,第2章での文脈を受けて「行為者」と「行為」の関係を主題に展開していることが想定されるが,……」



しかし,Siderits & Katsuraもそう理解したように,第8章では,行為主体と行為対象の関係が論じられています.

さらに,karmanが行為対象しか意味し得ない平行する用例がMMK 10.1にあります.

小澤氏自身,次のように原文と訳文とを示しています.

yadīndhanaṃ bhaved agnir ekatvaṃ kartṛkarmaṇoḥ/
anyaś ced indhanād agnir indhanād apy ṛte bhavet// MMK 10.1

もし薪が火であるなら,行為者と行為目的には同一性が存在することになるだろう.もし,火が薪と異なるものならば,薪なしでも存在するであろう.



なお,Siderits & Katsura 2013:110による原文(上と少し異なります;小澤 2014:29左, n. 21参照)と英訳は次の通り.

yad indhanaṃ sa ced agnir ekatvaṃ kartṛkarmaṇoḥ/
anyaś ced indhanād agnir indhanād apy ṛte bhavet//1//

1. If the fuel were identical with the fire, then agent and object would be one.
If fire were distinct from fuel, then there would be fire without fuel.



小澤氏自身,「ここでは,「薪」が「行為目的」,「火」が「行為者」とされて」と解説するように,ここでの,karmanは行為対象でしかありえません.

密接に平行する議論において,kartṛ (kāraka)と対になるkarmanが行為対象として用いられている以上,第8章におけるkartṛ (kāraka)と対になるkarmanも,行為対象とのみ理解すべきでしょう.

小澤氏の強い主張が正しいならば,ここでのkarmanについても,両義が意図されていたことになります.

つまり,

もし薪が火であるなら,行為者と行為目的/行為には同一性が存在することになるだろう.もし,火が薪と異なるものならば,薪なしでも存在するであろう.



と理解しなければいけないことになります.


しかし,薪が行為対象であって行為でないのは明らかです.
  1. 2016/06/17(金) 07:46:25|
  2. 未分類

バインミー




結構並んでいました。

美味しそうです。

腹に余裕がないのでパス。
  1. 2016/06/16(木) 23:35:18|
  2. 未分類

kāraka and karman

同様の問題は次の論文にも見られます.


小澤千晶 2006
「清弁と相互依存の縁起― 『般若灯論』の用例を中心として―」
『印佛研』55-1, 458(55)-454(59).

ここで主題となっているMMK 8.12におけるkārakaとkarmanとは行為主体と行為対象のことです.

Siderits & Katsura 2013は正しく次のように英訳しています.

pratītya kārakaḥ karma taṃ pratītya ca kārakam/
karma pravartate nānyat paśyāmaḥ siddhikāraṇam//12//
12. The agent occurs in dependence on the object, and the object occurs in dependence on the agent; we see no other way to establish them.



小澤氏は次のように解説しています.

『中論』第8章12偈の註釈にあたって,月称はその詩頌が「陽炎の水のごとき世俗的な諸事物が世間的に成り立っている(prasiddhi)のは,〈これを縁とすることのみ〉を承認することによってこそであって,他のことによってではない」(Pras 189.1-3)ことを示しているとした後,次のように述べている.

この世では,行為もしないで行為に無関係なものが行為者であることはないから,行為に依存した行為者が行為者なのである.また,いかなるものであっても,行為者が行為していないようなものが行為であることはないから,「その行為者に依って,行為が生起する」(MMKⅧ-12b)のである.現に行われていることにこそ〈行為〉という名称(vyapadesa)があるのだから.したがって以上のように,行為と行為者には相互依存した成立(parasparāpekṣikī siddhiḥ)以外に,「他の成立の根拠を我々は見ない」(MMKⅧ-12d)のである.(Pras189.6-9)



以上,赤字部分の「行為」は全てkarmanの訳ですが,いずれも,行為対象と置換すべきです.

また,緑字部分のkriyamāṇasyaは,「現に作られつつあるもの」という行為対象を表しています.

最初の文章であるkārakeṇa cākriyamāṇasya kasyacit karmatvābhāvātを小澤氏は

「また,いかなるものであっても,行為者が行為していないようなものが行為であることはないから」


と訳していますが,

「また,行為主体によって現に作られつつない如何なるものも行為対象ではないので」

とすべきです.

同様に,第二のkriyamāṇasyaiva karmavyapadeśātを小澤氏は,

現に行われていることにこそ〈行為〉という名称(vyapadesa)があるのだから



と訳していますが,

「現に作られつつあるものだけが「行為対象」と呼ばれるから」

とでも訳すべきでしょう.
  1. 2016/06/16(木) 08:18:52|
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Laksa麺




鍋焼きのラクサ。

見るからにうまそうです。

行列もそこそこ。

席も近くにあるし、で、これに決定。
  1. 2016/06/15(水) 22:30:05|
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薪は作用か?

小澤千晶 2006
「『中論』における無自性をめぐる五種の探求(pañcadhā mṛgyamāṇa)」
『印仏研』54-2
988(125)-985(128)

小澤 2006:988 (125):
yad indhanaṃ sa ced agnir ekatvaṃ kartṛkarmaṇoḥ
anyaś ced indhanād agnir indhanād apy ṛte bhavet// MK X-1
薪,もしそれが火であるなら,作者と作用には同一性が存在することになるだろう.もし,火が薪と異なるものならば,薪なしでも存在するであろう.(赤字強調は筆者)



小澤氏は,karmanを作用と訳した上で,さらにab句について次のように解説しています.


ab句で火と薪の同一性を批判し,作者と作用の関係と同じであるとする.



しかし,Siderits & Katsura 2013:110が正しく"If the fuel were identical with the fire, then agent and object would be one."と訳出するように,ここでのkarmanは行為ではなく行為対象(object)です.

「火が薪を燃やす」という時の,燃やすという行為の行為主体である火,行為対象となる薪の関係を問題としているわけです.

この構造を捉え損なうなら,そもそも,火と薪の議論を根本から誤解してしまっていると言わざるを得ません.

火が行為主体で薪が行為対象であるという,この明快な構造が小澤氏にはあやふやだったのでしょう,冒頭の解説においても,薪に「燃えさかる」という作用をわざわざ付けて,〈燃えさかる薪〉を現象(おそらく作用と同一視している)として解説しています.

小澤2006:988(125)
『中論』註釈者たちが紹介しているように対論者は「燃えさかる薪」という現象に対して,火を「火」と識別し,薪を「薪」と識別させる何かを自性と呼び,その火と薪の自性が相互に依存し合うことで「燃えさかる薪」という現象が生じていると説明する.(赤字強調は筆者)



確認の意味で,註釈者の一人である月称がどのように説明しているかを見ておきましょう.

tatredhyate yat tad indhanam,そこで点火(idh)されるものが薪(indhana)である.

dāhyaṃ kāṣṭhādikasaṃbhūtam. 燃やされるもの,小枝などからなるものである.

tasya dagdhā kartāgniḥ. それを燃やす者,行為主体が,火である.

tatra yadi tāvad yad indhanaṃ sa evāgnir iti parikalpyate そこで,もし,第一に,「薪=火」と想定されるならば,

tadā kartṛkarmaṇor ekatvaṃ syāt. 「行為主体=行為対象」ということになってしまう.

na caivaṃ dṛṣṭam, しかし,そのようなことは現実には見られていない.

ghaṭakumbhakārayoś chettṛchettavyayoś caikatvaprasaṅgāt, 「=陶工」,「切り手=切られる対象」,ということになってしまうからである.

tasya cānabhyupagamāt. そして,そのようなことは[君も]認めていないからである.



陶工と壺,切り手と切られる対象,という別の例が挙げられていることからも分かるように,問題となっているのは,行為主体と行為対象であって,行為主体と作用ではありません.

chettavyaが切られる対象であり,切るという行為の対象であることは一目瞭然です.

薪が行為対象であるということを捉え損なった小澤氏は,「火と薪の考察章」によって,一体,何を理解していたと言えるのでしょうか.

中論10.13において龍樹自身が言うように,「火が薪を燃やす」という構造は,第2章で論定される「行く者が行き先に行く」というのと同じ構造をしています.

つまり,行為主体・行為対象・行為が問題になっているのです.

この構造を捉え損なうならば,中論の議論の重要な一つを捉え損なったことになります.

それは,前章である第9章で論じられるpudgala(10:15: ātman) とupādānaの関係にも当てはまります.

そのことは,中論10.15で龍樹自身が指摘していることです.

ここで言う五取蘊であるupādānaは,作用ではなく行為対象が意図されています.




ナーガールジュナの言いたいことをサンスクリット原文で理解しようとするならば,行為(kriyā )と行為参与者(kāraka)について心得ておくことが肝要です.

サンスクリット文法学の常識も踏まえずにサンスクリットの世界に飛び込むと思わぬ火傷をすることになります.

議論の根幹となる第2章を正しく理解するには,文法学の背景を明らかにしている小川英世 1991 (印仏研39-2)を,まずは熟読すべきです.(*なお,小川英世氏は,行為対象であるkarmanを,kartur īpsitatamamという側面を考慮してでしょう,一貫して「目的」と訳されています.)




なお,小澤氏は,2014年の論考(「無我の教説とことば」)において第2章の文法学的背景について小川論文も引きながら論じています.

小澤千晶 2014
「無我の教説とことば」
『京都光華女子大学研究紀要』52, 19-33.

そこでは,karmanの両義性が論じられています.

後から問題に気が付かれた,ということでしょう.

しかしながら,小澤氏は,karmanに両義があることをナーガールジュナが利用していると考えているようです.

したがって,ここでもナーガールジュナはサンスクリット語の言語観を利用して,意図的に"karman"の語に「行為」と「行為目的」の両義性を持たせて第8章の議論を展開していたといえる.(p. 23左)



以上のことから,ナーガールジュナが第8章で用いる"karman"が「行為」を意味するか「行為目的」を意味するかは断定できないものの,その両義性が意識されい(sic)ていることは指摘できよう.(p. 23右)



第8章を仏語訳したMay [1959]は先にあげた第2偈の註釈を重視して<acte>と訳し(May [1959], p. 144, n. 413),Bhattacharyaはこの文脈の"karman"の両義性を踏まえ,'the <act-object>'と翻訳する(Bhattacharya [1980-1981], p. 42).また,Siderits and Katsura [2005]は'action'としていたが,2013年に出版された版ではこの章の"karman"をすべて'object'に改訂している.現段階で,筆者は両義性が意図されているという以上の結論は出せない.(p. 29右, n. 29)



これについては,またの機会に検討予定.
  1. 2016/06/15(水) 19:16:49|
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大東夜市

  1. 2016/06/14(火) 23:24:22|
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漬物

  1. 2016/06/14(火) 22:33:46|
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日本印度学仏教学会第67回学術大会

2016年9月3日(土)~9月4日(日)
東京大学文学部

第4部会(法文1号館215号)
9月3日(土) 午前の部 (9:00-11:40)

秦野貴生:仏教論理学派におけるadhyavasayaの位置づけ

佐藤智岳:『真実綱要細注』における世尊の発話欲求と慈悲

赤羽律:Satyadvayavibhangaに於けるPramanaviniscayaの影響について

石田尚敬:バーヴィヴェーカ著『中観心論』から見たディグナーガのアポーハ論

片岡啓:ディグナーガによる不排除と包摂の意味論

吉水清孝:Dignagaアポーハ説の再検討―Madhavaとの論争―

稲見正浩:宝石の光に対する宝石の認識

小野基:『如実論』について

第1部会
9月3日(土) 午後の部(13:20-16:00)
斉藤茜:音素に基づく文意理解に関する諸学説の比較検討

渡邊眞儀:時間は空間の複製なのか?―Padarthadharmasamgrahaにおける時間と方位の相違点―

平野克典:ヴァイシェーシカ学派の「普遍の定義」再検討

日比真由美:Nyayalilavatiの主宰神論証

岩崎陽一:言葉の「意味」とは何か―ガンゲーシャの普通名詞意味論を中心に―

志賀浄邦:Aptamimamsa第59偈をめぐる諸問題

張本研吾:The Epistemology of the Author of the Patanjalayogasastravivarana

室屋安孝:ウダヤナの言及する「ジャヤンタ」について
  1. 2016/06/14(火) 19:43:37|
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第27回西日本インド学仏教学会学術大会


第27回西日本インド学仏教学会学術大会

日時 2016年7月30日(土)12:30-

会場 九州大学文学部四階会議室


======================================================================

プログラム

12:30-13:00
氏名:佐藤智岳
所属:九州大学大学院
発表題目:Tattvasaṃgrahapañjikāにおける世尊の有分別の説法と慈悲(仮)

13:00-13:30
氏名: 斉藤茜
所属: 日本学術振興会
発表題目: 概念化の過程における言葉の四様態と Śaivasiddhānta の三宝について

13:30-14:00
氏名:上田 真啓(うえだ まさひろ)
所属:京都大学文学研究科 非常勤講師
題目:Vyavahārasūtra 注釈文献研究

14:00-14:30
氏名: 志田泰盛
所属: 筑波大学
題目: 音声の永遠性論証における pratyabhijñā

14:30-15:00
氏名:川村悠人
所属:京都大学(学振研究員)
発表題目:パーニニ文典解釈装置chandovat sūtrāṇi bhavantiの論理

15:00-15:30
氏名:田村昌己
所属:広島大学大学院
題目:中観派の世俗観ーバーヴィヴェーカとチャンドラキールティー

15:30-16:00
氏名:青原彰子
所属:広島大学大学院
発表題目:『静慮無色定大論』における遍満所縁

16:00-16:30
氏名:大前 太
所属:島根県立大学
題目:シュローカ・ヴァールッティカおよびタントラ・ヴァールッティカ関係写本について

16:30-17:00
氏名:鈴木隆泰
所属:山口県立大学(国際文化学部国際文化学科)
題目:『妙法蓮華経』「常不軽菩薩品」偈文中に表れる一節を巡って

17:00-17:30
氏名 : 北野新太郎
所属 : 九州大学 非常勤講師
発表題目 : 初期唯識思想特有の認識の構造についての一考察──「外のアートマン」をめぐって ──

総会
  1. 2016/06/14(火) 19:31:06|
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ローティー



全く流行っておらず、オヤジも暇そうでした。

試したい気持ちを抑えつつ、「流行っている店=うまい店」の原則に則って通過。
  1. 2016/06/13(月) 23:21:00|
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大東夜市

  1. 2016/06/12(日) 22:29:35|
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清祺素食早點






朝からよりどりみどりの素食。

清潔な店内。

これはいい。

ただ、素食になると、どうしても、揚げ物が多くなってしまいますが。
  1. 2016/06/11(土) 20:24:50|
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莉莉水果店





大人気。

オバちゃんに横入りされそうになりながらも、行列に並んで、カウンターのオヤジにオーダー。

席で待つこと15分。無事にマンゴー到着。

皆さん、ほとんどがカキ氷を注文。


  1. 2016/06/10(金) 21:15:00|
  2. 未分類

注釈書や他の文献との比較参照なしに解読することは不可能か?

金沢豊『『中論頌』における「見」の研究』(龍谷大学提出の博士論文,2011年)
54頁

19世紀末にはMMKの翻訳研究がはじまるが、MMKが注釈書や他の文献との比較参照なしに解読することが不可能である事は、注釈書に関するの(sic)膨大な先行研究の量が物語っている。



この文章は納得できません.

まず,論理的に考えておかしいところがあります.

ここで金沢豊氏は,「注釈書に関する先行研究が多いこと」から,「注釈書などを参照することなく解読することは不可能」という推論を行っています.

しかし,このようなことが一般的に成り立つのでしょうか?

Xに対する註釈が多いということは,様々な解釈が後代において起こった,その原著Xが後代のそれぞれの時代で人気があった,あるいは,権威ある古典と考えられていた,ということを物語りますが,必ずしも,その原著Xが,原文それ自体において解読不可能であるということを意味しません.

XはXそれ自体で解読可能なこともあります

また,この推論から導かれる金沢豊氏の結論は「中論は原文それ自体で解読することは不可能である」というものです.

本当にそうなのでしょうか?

簡潔とはいえ,中論は,帰敬偈を含めて合計449偈があります.(もちろん,PrPのテクストから抽出・再構成されたものである,ということは考慮しなければなりませんが.)

1偈だけが単独であるならば,確かに,その原文の意味を捉えきるのは,注釈書なしには不可能かもしれません.

しかし,449偈もあり,しかも,それぞれがしっかりとした順序・文脈をもって構成されているものについて,「解読不可能」ということがあるのでしょうか.

それは単に原文を解読する努力を怠っているからではないでしょうか.

原著Xの原文Aについて,Aに関する注釈書を数多く引いてきて,先行研究を数多く参照するよりも,まず第一に行うべきは,同じ原著Xの同様の文脈にある原文Bや用例Cについて,詳しく検討することです.

そちらのほうが,後代のテクストにあたるより,はるかに大事だと思います.(その次に行うべきは,Xに先行するテクストの参照です.)

そうすることで,原文Aについての解読は可能になるはずです.

そのような努力も行わないで「原文単独で解読は不可能」と断ずるのは,龍樹にたいして「お前は何を言っているのか分からん」と言っているのと同じです.

しかし,見れば分かるように,龍樹の原文は,言っていることは十分に分かりますし,文脈や他の用例から,十分に補足理解可能なものです.

いったい,何をもって,あるいは,どのような問題を捉えて,「注釈書や他の文献との比較参照なしに解読することが不可能である」と仰っているのでしょうか.

どのレベルでの「解読」なのでしょうか.

常識的な意味での「解読」であれば,中論に関していえば,原文だけで十分に可能であると私は思います.

例えば次の例を見てみましょう.

svam ātmānaṃ darśanaṃ hi tat tam eva na paśyati/
na paśyati yad ātmānaṃ kathaṃ drakṣyati tat parān//2

という原文は,まず,単語の順序を散文的に直せば,

tat darśanaṃ hi tam eva svam ātmānaṃ na paśyati.
yad ātmānaṃ na paśyati tat kathaṃ parān drakṣyati.

となるでしょう.

これを直訳すれば,

「なぜならば,その視覚器官は,それ自身である自分自身を見ることがないからである.自分自身を見ることがないもの,それが,どうして,他(複数)を見るだろうか.」となります.

特に難しいところのない文章です.

「注釈書なしに解読不可能」というほどのものではありません.

龍樹の言いたいことは,この原文から十分に理解可能です.

すくなくとも「解読」ということに関して言えば,龍樹の文章は,注釈書なしには解読不可能と言うほどのものでは決してありません.

『ミーマーンサー・スートラ』の原文解読の困難に比べれば,むしろ,平易・簡潔な文章であると思います.

すなわち,注釈書なしでも,十分に解読可能な文章です.

「注釈書なしでは解読不可能」という主張は,往々にして,多くの注釈書の異なる解釈に引きずられ,原文を虚心坦懐に読む姿勢を失った結果として起こってくるのではないかと疑います.

注釈書にあたるよりも,まず,それより重要な他の証拠(原著・同著者帰属文献・同時代文献・先行文献)にあたるべきだと思います.

そして,最も重要な証拠が,原著の中の他の用例や文脈(そしてそれによって著者が示している思想・発想法・論理)であることは言を俟ちません.

実際のところ,金沢豊氏は,「見」について中論の全ての用例にあたり,細かい検討をなされています.

また,関連する先行テクストにもあたられています.

このような努力は,「注釈文献なしでも解読可能」という前提があるからだと考えられます.

また,もしも,あらゆるテクストXについて,その意味するところは,その注釈書Yを参照することなしには理解不可能だという強い主張であるならば,その場合,その注釈書Yについても,復注釈書Zを参照することなしには理解不可能だ,というようになり,無限後退が起こることになってしまいます.
  1. 2016/06/10(金) 08:30:39|
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darśanam

中論3.2については,たまたま目に付いた以下の和訳がありました.

八力広喜「『順中論』考」85頁(『北海道武蔵女子短期大学紀要』11, 1979, 63-85)

実に見るということは、それ自体を見ない。自体を見ないとき、どうして他のものを見ようか。



darśanamを「見るということ」と訳しているわけです.

しかし,漢訳者の多くが「眼」と訳していることからも分かるように,ここでは,見るという行為の手段,すなわち,視覚器官(視覚機能)を指しています.すなわち,この場合,anaとなるLyuṬは,行為ではなく手段を表わします.

「見るということは、それ自体を見ない」という訳文から,いったい,何が理解できるのでしょうか.

善意をもって解釈するならば,「見るという行為は,それ自体を見ない」ということになるはずです.

しかし,それは,もちろん,龍樹の意図したことではありません.

この偈では単に,眼がそれ自体を見ることはない,という事実が指摘されています.

そのことが,「見る手段(つまり眼)は,[眼]それ自体を見ることはない」と言われているのです.

漢訳に引きずられることなくサンスクリットから実直に訳す努力をされているのは評価できますが,しかし,テクニカルなサンスクリットの文や語を理解するには,文法学的な背景も押さえてないと,間違うことになるという一例です.

つまり,darśanamは,見るという行為を指すと解釈することも可能であり,実際,用例としてはそれが一般的でしょうが,場合によっては,すなわち,kṛt接辞が手段を表わすと解釈される場合には,見る手段を表わすことも,サンスクリット語の解釈としては可能であるということです.
  1. 2016/06/10(金) 06:54:33|
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