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Pratibhanusarini --- 九州インド哲学ブログ2

On Indian Philosophy and Buddhist Studies

意麺




頑固婆の店と書いてますが、親切なおばちゃんでした。
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  1. 2016/06/17(金) 22:43:57|
  2. 未分類

vyāpāra and phala

次の説明には若干の疑問が生じます.

小澤 2014:23左:
このような註釈のゆれは,伝統的に動詞語根の指し示す意味が「行為」と「その果」(phala)という二側面で理解されることに由来する25.したがって,ここでもナーガールジュナはサンスクリット語の言語観を利用して,意図的に“karman” の語に「行為」と「行為目的」の両義性を持たせて第8 章の議論を展開していたといえる.



ここで小澤氏は次の二つが由来の原因・結果の関係にあると主張しています.


1.伝統的に動詞語根の指し示す意味が「行為」と「その果」(phala)という二側面で理解されること

2.このような註釈のゆれがあること,すなわち,意図的に“karman” の語に「行為」と「行為目的」の両義性を持たせること



小澤氏は,次のような平行関係を念頭に置いていたと考えられます.

vyāpāra(行為) --- phala(その果)
karman(行為) --- karman(行為目的)



しかし,このような形で二つを平行に捉えることはできません.

まず,動詞語根の意味には,vyāpāraとphalaとの両方が含まれています.

「お粥を調理する」(odanaṃ pacati)では,「調理」(pac)によって,一連の動作だけでなく,米が柔らかくなることという結果までもが表わされています.

しかし,そのことと,"karman"という語が行為と行為対象の両義を持ちうることとは無関係です.

したがって,1を由来の原因として2が導かれることはありません.

小澤氏は,karmanを「行為目的」と訳したために,phalaと同一視してしまったのでしょう.

しかし,行為対象(行為目的)と言うときのkarmanと,動詞語根の意味の一側面としてのphalaとは,ひとまず別のものです.(もちろん,間接的には関係し得ます.すなわち,柔らかくなるという結果を持つのはお粥という行為対象です.)

関係を図式化するなら,次のような感じになるでしょうか.

動詞語根の意味dhātvarthaとしての行為karman(=作用vyāpāra+結果phala)---行為対象karman

すなわち

vyāpāra(行為) --- phala(その果)
karman(行為) --- karman(行為対象)

のような平行関係ではなく,第一のkarmanの中に上の二つが含まれることになります.

vyāpāra+phala
 karman(行為)--------------------------karman(行為対象)




"guṇa"という語の二つの意味である従属要素と性質, śaktiの二つの用法である,ものの能力と語の直接表示機能, そして,phala(作用の結果)とkarman(行為対象)という,本来,分けて考えるべき二つを小澤氏は結びつけて考えてしまっていることが,誤った説明の背景にあると考えられます.

  1. 2016/06/17(金) 19:47:48|
  2. 未分類

kārakaとśakti


次の註記7には若干の問題があります.

小澤 2014:27, n. 7:
行為関与要素の「属性」は後の文法学派では「直接表示機能」(śakti)と説明されるようになる.チャンドラキールティも行為関与要素を直接表示機能と説明する.



小澤氏は,ここでのśaktiを直接表示機能と理解しています.

しかし,ここで問題となっているśaktiは,語の能力である直接表示機能ではなく,例えばデーヴァダッタという実体が持つ,行為を実現する能力のことです.

すなわち,あるものXを行為参与者として捉える時のその側面は,ものそのものではなくて,そのものが持つśakti,すなわち,能力だというのが,行為参与者理論における能力を理解する際のポイントです.

ここでのśaktiは,語の表示機能,直接表示能力としての「直接表示機能」ではありません.

次の二つを区別すべきです.

1.あるものが持つ行為参与者(すなわち行為を実現するもの)としての能力

2.語が持つ能力(=直接表示能力)



小澤氏は続けてチャンドラキールティの原文を引用の後に和訳されています.

確認していきましょう.


小澤 2014:27, n. 7:
[Pras 96.11-97.2, ad. MMK 2.6] atha syāt, yadāyaṃ devadattaḥ *sthitaḥ san bhāṣate paśyati ca*, tadaiko 'nekakriyo dṛṣṭaḥ / evam ekasmin gantari kriyādvayaṃ bhaviṣyati / iti // naivaṃ / śaktir hi kārako na dravyaṃ, kriyābhedāc ca tatsādhanasyāpi śakteḥ siddha eva bhedaḥ/ na hi sthitikriyayā vaktā syāt //
dravyam ekam iti cet / bhavatv evaṃ, na tu dravyaṃ kārakaḥ, kiṃ tarhi śaktiḥ, sā ca bhidyata eva / api ca sadṛśakriyādvayakārakatvaṃ naikadeśikasya dṛṣṭaṃ, ato naikasya gantur gamanadvayaṃ //
〔あるいは,次のような反論が〕あるかもしれない.当のデーヴァダッタがじっとしている時に,語り,見るという場合,その場合には,一人に複数の行為が経験される.そのように,一人の「歩く者」に二つの行為はありえるだろう,と.それはそのようではない.というのは,〔動詞の〕直接表示機能(śakti)は行為関与要素(kāraka)であって,〔デーヴァダッタという〕‘もの’(dravya)ではないからだ.そして,行為が違うのだから,それの行為関与要素をともなう〔動詞の〕直接表示機能にも区別が成立しているにほかならない.というのは,「じっとしている」という行為によって,話者であるのはないから.もし,〔反論者が,じっとしていて,話して見ているデーヴァダッタという〕‘もの’ は一つである〔というならば,〕〔それは〕そのようであろう.だが,‘もの’が行為関与要素なのではない.ではどうかといえば,〔動詞の〕直接表示機能〔が行為関与要素〕なのである.そして,それが〔「話者」や「見者」とでは〕区別されているのにほかならない.さらにまた,類似する二つの直接表示機能の行為関与要素性が,一部分にあることは経験されない.したがって,一人の「歩く者」に二つの「歩くこと」は存在しないのである.




問題となるのは次の箇所です.

サンスクリットと対応させながら見ていきましょう.


śaktir hi kārako na dravyaṃ,
小澤訳:というのは,〔動詞の〕直接表示機能(śakti)は行為関与要素(kāraka)であって,〔デーヴァダッタという〕‘もの’(dravya)ではないからだ.
片岡訳:なぜなら,実体ではなく能力が行為参与者だからである.



ここで,デーヴァダッタという実体は一つですが,じっとしているという行為を実現する行為参与者としての能力1と,語るという行為を実現する行為参与者としての能力2と,見るという行為を実現する行為参与者としての能力3は別である,ということが月称が言わんとすることです.

ここでのśaktiは,直接表示機能ではなく,デーヴァダッタという実体にある,異なる行為を実現する能力のことです.

同じ問題は次の文章からも明らかです.

na tu dravyaṃ kārakaḥ, kiṃ tarhi śaktiḥ,
小澤訳:だが,‘もの’が行為関与要素なのではない.ではどうかといえば,〔動詞の〕直接表示機能〔が行為関与要素〕なのである.
片岡訳:しかし実体は行為参与者ではない.そうではなく能力が[行為参与者である].



ここでも,月称は,行為参与者を,デーヴァダッタという実体にある能力として捉えています.

ここでいう śaktiは,小澤氏が理解したような「〔動詞の〕直接表示機能」ではありえません.

  1. 2016/06/17(金) 19:15:13|
  2. 未分類

格と行為参与者

以下の記述には若干の問題があります.(以下,赤字強調は筆者による)

小澤 2014:20左:
パーニニ文法の特徴は,文章表現の中心に動詞(具体的には動詞語根が表示する意味)を置き,その文章表現に関わる名詞の「格」を,動詞が表示する行為の実現に関与する要素「行為関与要素」(kāraka)として組織する点にある.



名詞の格=行為参与者

ということは言えません.名詞の格は言葉の世界に属し,行為参与者は意味の世界に属すからです.


小澤 2014:20左:
この「行為関与要素」として定立される語は,実体(dravya)としてではなく,あくまでも文章を構成する要素として理解され,文章表現の主たるもの(pradhāna),「行為」を実現に導く従属的なもの(guṇa)と位置づけられる7



ここでも同じ問題があります.

行為参与者=語

ということは言えません.行為参与者は意味の世界に属し,語は言葉の世界に属すものだからです.

以上の文章における説明では,言葉と意味とが混じって説明されてしまっています.

guṇaに関して小澤氏が付された脚注7については,また別稿にて.




上に続けて,さらに小澤氏は次のように述べています.

この“guṇa” は,実体との関係でいうと「属性」と理解される.サンスクリットの言語観の特徴としては,この属性と基体との関係が重視されている点があげられる.パタンジャリ(Patañjali)は『マハーバーシャ』(Mahābhāṣya)の冒頭で,「ことば(􃶄abda)とは何か」という問いを提出し,実体(dravya),行為(kriyā),性質(guṇa),種(jāti)を例示した上で,それらを退け,最終的に「それが発声されることによって,観念(saṃpratyaya)が生じるもの」という答えを導いている(MBh I, 1.10-12).



しかし,行為vs行為参与者の対立で用いられる主要素vs従属要素というときのpradhāna対guṇaのguṇaと,実体(dravya),行為(kriyā),性質(guṇa),種(jāti)という時のguṇaとは同一視できるようなものではありません.

全く別物です.

簡単に言えば,たとえば「壺を作る」において,壺という行為対象は,作るという行為(主要素)に対して従属要素ですが,しかし,「実体との関係でいうと「属性」として理解される」ようなものではありません.つまり,ヴァイシェーシカで言うような性質ではありません.

小澤氏は,guṇaの異なる二つの用法を混同しています.

1.sādhyaたる主要素(行為)との対立で用いられるsādhanaたる従属要素(行為参与者)

2.実体・性質・運動などという文脈での性質


もちろん,語源的には同じですが,用法として,二つはまず切り離して理解すべきです.

  1. 2016/06/17(金) 18:31:09|
  2. 未分類

月称にとってのkriyāとkarman

同じことは,月称についても当てはまります.

小澤 2014:22-23:
その第1偈の "karma"に対して,チャンドラキールティは "karturīpsitatamaṃ karma"というパーニニの規定(P 1.4.49)を引用して"karman"が「目的」を意味すると明示している(Pras 180.14).しかし一方で,第2偈ab句の註釈に際しては "
na cākartṛkaṃ karma saṃbhavati, vandhyāsūnor iva ghaṭakaraṇam"「そして,行為者のない行為は生じない.たとえば石女の息子が瓶を作るごとく」"na hy akṛtānantaryakarmaṇa ānantaryakarmakārakatvaṃ dṛṣṭam"「というのは,いまだなされていない無間業には,無間業の行為者であることを見ることはないから」(Pras181.8, 18)と「行為」を意味するようにも解説している.このような註釈のゆれは,……」



本当に,月称は,karmanの両義の間で「ゆれ」ているのでしょうか?

しかし,龍樹が行為に対してはkriyāという語を用いて,karmanと区別してくれているように,月称も,この文脈では,無用な混乱を避けるためでしょう,行為に対してはkriyāという語を用いています.

小澤氏が問題とした二文は,それぞれ,次のように解釈すべきでしょう.(akṛtānantaryakarmaṇaḥは,yena akṛtam ānantaryakarma tasyaというように,バフヴリーヒで理解すべきでしょう.)

また[一般的に],行為主体のない行為対象はありえない.ちょうど,石女の息子が瓶を作ることが[ありえないの]と同じように.

というのも,無間業を未だ作ってない者が,無間業を作る主体であることは見られていないから.



確かに,月称の最初の文章は誤解を招くものです.

というのも,この文章では,karmanとghaṭakaraṇamとが平行するように読めてしまうからです.

しかし,文脈上,ここで月称が意図しているのは,karmanとghaṭaと理解すべきでしょう.

第1偈の註釈において月称が疑いなくkarmanを行為対象と理解している以上,その直後の第2偈において,karmanを行為と理解しているという小澤氏の解釈には相当の無理があります.

第二の喩例も確かに誤解を招きやすいものですが,ここでは,無間業という罪業(adharma, cf. MMK 8.5)が作られる対象として意図されているのでしょう.

つまり,業がここでは行為対象として意図されているということです.

業が,作るという行為としてではなく,作られる対象として意図されている,ということです.




小澤氏も認めるように,第1偈への註釈において,月称は疑いようもなく,karmanを行為対象だと理解しています.

したがって,その理解が以降も続いているとするのが,全体を最も無理なく解釈できる理解です.


Prasannapadā ad MMK 8.1:
tatra karotīti kārakaḥ kartā. ... kriyata iti karma.

Cf. 『般若燈論』 ad MMK 8.1cd (T1566_.30.0080a10):
所作名業。能作名者。



同じように,karmanは,清弁によっても,行為対象と明示的に註釈されています.

第1偈のkarmanが第2偈になって突然に「行為」とも理解されるようになる,と考えることには無理があります.

  1. 2016/06/17(金) 08:10:11|
  2. 未分類

karman at MMK 8.1-2


小澤 2014:23左:
「したがって,ここでもナーガールジュナはサンスクリット語の言語観を利用して,意図的に“karman”の語に「行為」と「行為目的」の両義性を持たせて第8章の議論を展開していたといえる.」

小澤 2014:23右:
「以上のことから,ナーガールジュナが第8章で用いる“karman”が「行為」を意味するか「行為目的」を意味するかは断定できないものの,その両義性が意識されい(sic)ていることは指摘できよう.」



小澤氏の主張は揺れていますが,弱い主張と強い主張として,次の二つにまとめられます.

弱い主張:
ナーガールジュナが第8章で用いる“karman”が「行為」を意味するか「行為目的」を意味するかは断定できない

強い主張:
両義性が意識されている
意図的に“karman”の語に「行為」と「行為目的」の両義性を持たせて第8章の議論を展開していた



まずは,問題となっている,第8章冒頭の二偈を確認しておきましょう.

Siderits & Katsura 2013:91:

sadbhūtaḥ kārakaḥ karma sadbhūtaṃ na karoty ayam/
kārako nāpy asabhūtaḥ karmāsadbhūtam īhate//1//

1. A real agent does not bring about a real object;
nor does an unreal agent aim at an unreal object.

sadbhūtasya kriyā nāsti karma ca syād akartṛkam/
sadbhūtasya kriyā nāsti kartā ca syād akarmakaḥ//2//

2. There is no activity (kriyā) with respect to an agent that is real, [so] the object would be without an agent.
There is no activity with respect to an object that is real, so too the agent would be without an object.



小澤氏の強い主張は,赤字部分のkarmanについて,「意図的に“karman”の語に「行為」と「行為目的」の両義性を持たせて」いるというものです.

弱い主張は,「“karman”が「行為」を意味するか「行為目的」を意味するかは断定できない」というものです.

本当に,我々は,ここでのkarmanが行為対象(小澤氏の言う「行為目的」)に限定されないと言えるのでしょうか.

英訳で確認できるように,Siderits & Katsura は,シンプルに,karmanをobjectに限定しています.

この英訳はまったく正当であると私も考えます.

これに対して,小澤氏の見解は,次のように偈を理解しようとするものです.小澤 2014:29左, n. 24にMMK 8.1の原文が引かれるものの,小澤氏自身の訳文は示されていないので,上の英訳を転用して,ここで,小澤氏の意図を明確化しておきます.

1. A real agent does not bring about a real object/action;
nor does an unreal agent aim at an unreal object/action.

2. There is no activity (kriyā) with respect to an agent that is real, [so] the object/action would be without an agent.
There is no activity with respect to an object/action that is real, so too the agent would be without an object/action.


小澤氏の意図するところは,karmanに両義性がある,あるいは,必ずしも行為目的に限定されない,というものです.

つまり,行為目的・行為の両方がナーガールジュナによって意図されている,あるいは,少なくとも意識されている,ということです.

これは本当でしょうか.

karmanという語でもって行為も意図されていると仮に考えてみましょう.

その場合,2cは次のように理解されることになります.(sadbhūtasyaの係り先である隠れたkarmaṇaḥを補います.)

sadbhūtasya [karmaṇaḥ] kriyā nāsti
There is no activity with respect to an action that is real



この場合,sadbhūtasya [karmaṇaḥ] kriyā nāsti は,「現に存在するものである(=実有である)行為を作る働きは存在しない」となってしまいます.

「行為対象を作る働きは存在しない」なら理解できますが,「行為を作る働きは存在しない」は変です.

なぜならば,karmanを行為と解釈した場合,明らかに行為であるkriyāと重複することになるからです.「作る働きを作る働き」となってしまいます.

「作られる対象を作る働き」なら,難なく理解できます.

つまり,小澤氏の解釈に従う場合,ナーガールジュナがわざわざ行為に対してkriyāという別の語を用いてくれていることが説明不可能となります.

したがって,ここでのkarmanは一義的に行為対象に定まると考えなければなりません.

以上から,次の小澤氏の主張は間違いだと言えます.

小澤 2014:23左:
「したがって,ここでもナーガールジュナはサンスクリット語の言語観を利用して,意図的に“karman”の語に「行為」と「行為目的」の両義性を持たせて第8章の議論を展開していたといえる.」



簡潔にポイントを述べるなら,「なぜなら行為に対して,この文脈では,ナーガールジュナは,無用な混乱を招かないように,kriyāという別の語を用いてくれているから」ということになります.

また,MMK 8.4におけるkriyā kartā karaṇam caという言及は,第8章でのkarmanが行為参与者の文脈での行為対象でしかないことを示唆します.

すなわち,kriyāと対置する文脈での kartā, karman, karaṇaという行為参与者のうちのkarmanが問題とされているのです.

一般的にkarmanという語が行為(kriyā)を意味するからと言って,この特殊な文脈でも行為(kriyā)を意味すると考えるのは無理があります.




確かに,小澤氏が持った理解あるいは疑問は,理解できなくもありません.

というのも,MMK 2.24-25においてナーガールジュナは三種(sadbhūta, asadbhūta, sadasadbhūta)のgamana(行くという行為)に言及するからです.

それと平行すると考えれば,MMK 8においても,三種は,行為対象でなく,行為と考えることもできるからです.

小澤氏は次のように述べています.


小澤 2014:22右:
ここで簡潔に二偈にまとめられた「行為者」と「行為」との九種の関係は,第8章「業と作者の考察」(karmakārakaparikṣā (sic))に至ってそれぞれを枚挙して論じられている.したがって,第8章の議論は,第2章での文脈を受けて「行為者」と「行為」の関係を主題に展開していることが想定されるが,……」



しかし,Siderits & Katsuraもそう理解したように,第8章では,行為主体と行為対象の関係が論じられています.

さらに,karmanが行為対象しか意味し得ない平行する用例がMMK 10.1にあります.

小澤氏自身,次のように原文と訳文とを示しています.

yadīndhanaṃ bhaved agnir ekatvaṃ kartṛkarmaṇoḥ/
anyaś ced indhanād agnir indhanād apy ṛte bhavet// MMK 10.1

もし薪が火であるなら,行為者と行為目的には同一性が存在することになるだろう.もし,火が薪と異なるものならば,薪なしでも存在するであろう.



なお,Siderits & Katsura 2013:110による原文(上と少し異なります;小澤 2014:29左, n. 21参照)と英訳は次の通り.

yad indhanaṃ sa ced agnir ekatvaṃ kartṛkarmaṇoḥ/
anyaś ced indhanād agnir indhanād apy ṛte bhavet//1//

1. If the fuel were identical with the fire, then agent and object would be one.
If fire were distinct from fuel, then there would be fire without fuel.



小澤氏自身,「ここでは,「薪」が「行為目的」,「火」が「行為者」とされて」と解説するように,ここでの,karmanは行為対象でしかありえません.

密接に平行する議論において,kartṛ (kāraka)と対になるkarmanが行為対象として用いられている以上,第8章におけるkartṛ (kāraka)と対になるkarmanも,行為対象とのみ理解すべきでしょう.

小澤氏の強い主張が正しいならば,ここでのkarmanについても,両義が意図されていたことになります.

つまり,

もし薪が火であるなら,行為者と行為目的/行為には同一性が存在することになるだろう.もし,火が薪と異なるものならば,薪なしでも存在するであろう.



と理解しなければいけないことになります.


しかし,薪が行為対象であって行為でないのは明らかです.
  1. 2016/06/17(金) 07:46:25|
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