Pratibhanusarini --- 九州インド哲学ブログ2

On Indian Philosophy and Buddhist Studies

第27回 西日本インド学仏教学会

晴天というべきか,かんかん照りの中,九大で開催.

参加者は,九大,筑女,広大,山口県立大,京大,筑波など.

田村さんは,あいにくのキャンセル.



12:30-13:00
氏名:佐藤智岳
所属:九州大学大学院
発表題目:Tattvasaṃgrahapañjikāにおける世尊の有分別状態での説法


13:00-13:30
氏名: 斉藤茜
所属: 日本学術振興会
発表題目: 概念化の過程における言葉の四様態と Śaivasiddhānta の三宝について


13:30-14:00
氏名:上田 真啓(うえだ まさひろ)
所属:京都大学文学研究科 非常勤講師
題目:Vyavahārasūtra 注釈文献研究


14:00-14:30
氏名: 志田泰盛
所属: 筑波大学
題目: 音声の永遠性論証における pratyabhijñā[na]―スチャリタミシュラの刹那滅論批判部の校訂ノート―


14:30-15:00
氏名:川村悠人
所属:京都大学(学振研究員)
発表題目:パーニニ文典解釈装置chandovat sūtrāṇi bhavantiの論理


15:00-15:30
氏名:田村昌己
所属:広島大学大学院
題目:中観派の世俗観ーバーヴィヴェーカとチャンドラキールティー



15:30-16:00
氏名:青原彰子
所属:広島大学大学院
発表題目:『静慮無色定大論』における遍満所縁


16:00-16:30
氏名:大前 太
所属:島根県立大学
題目:シュローカ・ヴァールッティカおよびタントラ・ヴァールッティカ関係写本について


16:30-17:00
氏名:鈴木隆泰
所属:山口県立大学(国際文化学部国際文化学科)
題目:『妙法蓮華経』「常不軽菩薩品」偈文中に表れる一節を巡って


17:00-17:30
氏名 : 北野新太郎
所属 : 九州大学 非常勤講師
発表題目 : 初期唯識思想特有の認識の構造についての一考察──「外のアートマン」をめぐって ──




参加申込者が多数のため,数人は断らざるを得ませんでした.

枠もぎりぎりいっぱいで,しかも,12:30から開始という,早めの開始でした.

一切休憩なしでしたが,田村さんが急遽キャンセルとなったため,結果として30分の休憩を挟むことになりました.

内容は,タイトルからも分かるように,多岐にわたります.

本当は、もう少し質疑の時間を延長確保したいのですが,多人数の発表を確保するためには,痛し痒し,仕方ありません.

20分10分ではなく,20分20分くらい欲しい感じでした.

発表がどうしても長くなり,残り5分程度ということになると,どうしても,質問者が一人だけ,というようなことになり,複数の人が満足できるほどの時間確保が不可能となってしまいます.

事前の資料配付により,関心のあるテーマについては各自予習できるので,一層,質疑応答の時間確保が望まれるところですが,ひとまずは,現状でのやりくりを考えるしかないでしょう.

コーヒーブレイク・カンファレンスのように,事前に読んできて,本番では質疑応答だけをやる,という手もありますが,そこまでドラスティックな変更は,まだ,日本の印哲業界では一般的ではないので,ひとまずは見送り.

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  1. 2016/07/30(土) 12:19:47|
  2. 未分類

Nabi-san in Ito campus, Kyushu uni.

  1. 2016/07/25(月) 23:10:08|
  2. 未分類

South asian foods in Fukuoka

  1. 2016/07/24(日) 21:43:09|
  2. 未分類

South Asian Classical Studies, 11, 2016

SACS2016English


A Japanese Translation of Mṛgajātaka (Haribhaṭṭajātakamālā 11)
Okano Kiyoshi

A Hermeneutic Approach to the Aṅgulimāla-sutta in the Theravāda Buddhism
Shimizu Toshifumi

Tadvat and Apohavat:
Dignāga and Kumārila on viśeṣaṇaviśeṣyatva
Kataoka Kei

A Study of the Opening Section of Yamāri's Pramāṇavārttikālaṅkāranibandha
(P phe 208a7-210b8; D phe 174b1-176a6)
Matsuoka Hiroko

An Annotated Japanese Translation of Ratnakīrti's Īśvarasādhanadūṣaṇa (III)
Moriyama Shinya

A Study on the Genesis of Madhusūdana Sarasvatī's Theory of Īśvara
Manabe Tomohiro

The Role and Classification of Sound (nāda, dhvani) in the Grammarians'
Theory of Language
Saito Akane

Bhaṭṭi's Knowledge of Kātyāyana's and Patañjali's Arguments
Kawamura Yuto

KYUSHU UNIVERSITY
DEPARTMENT OF INDOLOGY
  1. 2016/07/22(金) 22:44:44|
  2. 未分類

『南アジア古典学』11号,2016年

SACS2016


Haribhaṭṭajātakamālā 第11話『鹿ジャータカ』和訳
岡野 潔
1-16

パーリ上座部におけるアングリマーラ経釈義
―聖典の字義と、阿毘達磨による解釈―
清水 俊史 
17-48

tadvat とapohavat
――限定関係をめぐるディグナーガとクマーリラの一議論――
片岡 啓
49-74

ヤマーリ著『プラマーナ・ヴァールッティカ・アランカーラ・ニバンダ』
冒頭部 (P phe 208a7-210b8; D phe 174b1-176a6) の研究
松岡 寛子
75-125

ラトナキールティ著『主宰神証明の論駁』和訳研究(下)
護山 真也
127-146

マドゥスーダナ・サラスヴァティーの主宰神論形成に関する一考察
眞鍋 智裕
147-168

文法学派言語理論における音(nāda, dhvani)の役割と分類
斉藤 茜
169-195

Bhaṭṭi's Knowledge of Kātyāyana's and Patañjali's Arguments
Yuto Kawamura
197-203
  1. 2016/07/22(金) 22:39:19|
  2. 未分類

アレッサンドロ・グラヘリ『ニヤーヤマンジャリーの歴史・伝承――スポータ章の批判校訂』

インド学の場合,刊本は多くの誤植にまみれています.

我々も,特に期待してないので,「またか」という具合で,いちいち気にもとめず,誤植は勝手に直します.

インドの印刷所のレベルは(日本人の普通の感覚からすると)驚くほど低いので,はなから期待していないのです.

印刷所だけでなく,編集作業もかなりいい加減だったりすることがうかがえます.

読み手の我々も「インドは暑いから仕方ないか」と寛容の精神を発揮せざるをえません.

「新しい版が出ているな」と思ってよく見てみると,エディターの名前と値段だけを変えて,昔の版を丸パクリ,ということが,別に珍しくもないのが,インド刊本の世界です.

そのような環境で育つと,どうしても,テクスト校訂に求めるスタンダードが低くなってしまいます.

勢い,インド学において,「批判校訂」に期待するレベルは低いものとならざるをえません.

身近にお手本がない状況です.

輪をかけて困るのが,インド哲学の場合です.

インド哲学の場合,「文字に拘泥せず,中身を,アイデアを知りたいのだ」という研究者が多くなります.

いちいち写本から校訂する,などというのは,哲学志向の人間の嗜好には合わないのです.

するとどうなるでしょう.

インド哲学研究者の中で,テクスト校訂に手を染める人はますます少数となります.

結局,いつまで経っても,誤植だらけのいい加減なインド刊本を使い続ける,という苦海に沈み続けることになります.

闇から闇への,タマスの世界です.

また,インドのサンスクリット写本を集める苦労というのは,かなりのものです.

まず,日本には,写本カタログがそろっていない,という不備があります.

図書館が貧弱すぎます.

イギリスであれば,大英図書館やオックスフォードのボードレイアン図書館にサンスクリット写本が山ほどありますので,まず,基礎となる幾つかの写本を複写し,それで,手慣らしをすることができます.

写本研究への敷居が低いのです.

イギリスなら,まだ確実に写本が取れるという保証があるからいいものの,インドだとそうはいきません.

わざわざバスを乗り継いで行っても「複写は駄目」とかいうことは普通にあります.

やる気も失せるというものです.

写本蒐集は,時間もエネルギーも,そして,金もかかるのです.

わたしも,校訂にひとまず十分な量の写本を集めるのに,10年ほどかかりました.

校訂はようやくそれからです.

また,先達が少ないので,どの写本が良本か,という情報もありませんから,まったくランダムにあれこれ集めることになります.

ロスが大きいのです.

馬鹿なデーヴァナーガリー写本を沢山あつめても,一向に読みが直らない,ということになりかねません.




で,本題のニヤーヤマンジャリー.

写本情報を網羅的にまとめた研究書が出ました.

アレッサンドロ・グラヘリによるスポータ章の研究.

ウィーンの個人プロジェクトとして行われたものです.

写本の情報がまとめられているので,至極便利です.

今後は,この情報を頼りに,効率的に進めていくことができます.

前半では,刊本相互の関係,写本相互の関係について,詳しく検討が為されています.

プーナのBORIのシャーラダー写本が重要であることは間違いありませんが,さらに,南インド写本が重要であることが分かります.

今後,ニヤーヤマンジャリーを扱う際に常に参照すべきガイドとなるでしょう.

異読に関しては,意味のある異読のみを挙げていて,無意味な間違いについては,ネットで別に掲載されています.

重要な異読が埋もれてしまわないように,という配慮です.

確かに,アラハバード写本などは,馬鹿な間違いが多いので,いちいち全部記録していたら,間違いの記録だらけになってしまうのは確かです.

沢山写本を扱う際の葛藤です.




誤植や間違いのストレスを感じることなく,安心して読めるテクストというのは,インド哲学では稀です.

今後,この方面の研究が続くことを期待します.




肝心の中身についてですが,スポータというのは,いわゆる「全体としての語」のことです.

つまり,音素という部分に分解されない,ひとまとまりの語,意味を開顕するひとまとまりの言葉がスポータ(蕾)です.

文法学のスポータ論にたいして,音素論のニヤーヤ学派が批判する,という構図になっています.
  1. 2016/07/21(木) 08:10:00|
  2. 未分類

Amma back in June 2011

FukuokaJune 033

焼き色がいまいちです.
  1. 2016/07/19(火) 19:08:05|
  2. 未分類

Amma back in 2011 Feb

AmmaNewCook03984342

新しいコックさんに変わって,やる気満々.

企画で,ドーサフェスティバル.

2500円.

AmmaNewCook034985234

プレーンドーサばっかりだと,いまいちお腹が張りません.

マサラドーサを追加注文.

その後に,おまけで来たプレーンドーサ.

ドーサ尽くしでした.

企画としての迷走感は否めませんでした.

また,客はわたし一人でした.

いちおう「フェスティバル」と銘打っていましたが.

客一人でフェスティバルを成立させるのは非常な困難が伴います.
  1. 2016/07/19(火) 18:55:24|
  2. 未分類

Amma back in 2011 Jan

Amma09853405934q
Amma0932854
  1. 2016/07/19(火) 18:46:15|
  2. 未分類

Ratnatrayapariksa



年代不詳のシュリーカンタのRTP,三宝考察.

その註釈は,おなじみのアゴーラシヴァ師.

ここでの三宝とは,シヴァ,シャクティ,そして,ビンドゥ.

ビンドゥに関しては,このほか,Nadakarikaとその注にも詳しい記述があります.

担当は斉藤さん.

RTPのムーラの写本は,マイソール写本.

ナンディナーガリーの貴重な写本です.

クオリティーも非常に高いので,参照するとテクストが直ります.

アゴーラシヴァ註の方は,ポンディのもの.

こちらの写本は余りクオリティーは高くない感じです.

肝心のビンドゥまでは行き着かず,その前提となる,シャイヴァシッダーンタの世界観のイントロ的な部分で一日終了.

全体を読むにはまだまだ時間がかかりそうです.




DSC03896.jpg

張本さんのリクエストで近くの「たく味」へ.
  1. 2016/07/19(火) 07:25:41|
  2. 未分類

on Yogayajnavalkya



西暦1024年(=samvat 144)の奥書のあるネパール写本に基づいてソームデーヴが校訂中.

かなり手強そうです.

中性・男性も自由に入れ替わっていますので,校訂の際は,判断に迷います.

今回読んだ箇所は,プラナヴァ,つまり,a-u-mについての章.

ひたすら,a-u-mについて.

章立ての骨組みは

1. ārṣa聖仙に関して
2. chandas韻律
3. daivatya神格に関して
4. brāhmaṇa神話など
4.1. nirukta語源
4.2. samutpatti由来
4.3. prayojana目的
4.4. pratiṣṭhāna設置
4.5. stuti,称賛
5. viniyoga使用法

テキストとしては,ヴィシュヴァルーパ以前に溯りそうですから,かなり古そうです.

情報として面白いのは,その当時のヨーガの流派を列挙した箇所.

1. ヒラニヤガルバ
2. カピラ
3. アパーンタラタマ
4. サナトクマーラ
5. ブラフミシュタ
6. パーシュパタ
7. パーンチャラートラ




KyotoYoga 160

10:30からの研究会前に,9時からの巡航を見物.

一瞬で通り過ぎてしまう博多祇園山笠とちがい,ゆるりゆるりのはんなりでした.
  1. 2016/07/17(日) 23:22:12|
  2. 未分類

on pasupata yoga

  1. 2016/07/17(日) 23:20:27|
  2. 未分類

rathasya gati

  1. 2016/07/15(金) 18:48:35|
  2. 未分類

rathayatra



隣の研究室の院生の姿が見えます。



  1. 2016/07/15(金) 08:27:03|
  2. 未分類

文系図書館奥丘上に文学部が聳え立つ予定

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書家の柿沼康二さんの揮毫になります.


三階の渡り廊下の上の屋根は,もともとはなかったのですが,雨の日にはさすがに不便だということで,後付け.




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崖にへばりつくような格好の図書館.



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文系棟は,その奥の丘の上に立ちます.

文系棟のてっぺんが,むかしあった丘の頂上の高さにあたるそうです.

古墳の山をきりくずして,そこに代わりに文系棟が立つ,という格好になります。

itocampusw0945835

元岡の古墳が紀元後7世紀初頭(キャンパス近くの元岡G古墳群6号墳から出土した庚寅鉄製銘大刀の製造刻印日が西暦570年1月6日)ということですから,年代的には,玄奘のインド留学ちょっと前,クマーリラやダルマキールティの時代となります.


https://www.google.co.jp/maps/@33.5990907,130.2246289,17z
  1. 2016/07/13(水) 08:04:17|
  2. 未分類

Amma back in Oct 2009

ammapiewptkae
ammaopiuetei
ammaoitewaporigad
ammapiewrpoia

山口さんと一緒に行ったときのもの.

いずれも綺麗な色をしています.
  1. 2016/07/10(日) 10:19:35|
  2. 未分類

Amma back in Oct 2009

Amma2009goidugwa
  1. 2016/07/10(日) 10:15:01|
  2. 未分類

Amma back in Oct 2009

amma098352432q
amma094q409ritwea
amma-09w4wqrtwqe
amma098534-5934

オープン当初のあんまーのランチ.

ベジとノンベジがありますが,ベジ680円は,今考えると激安です.

コックさんの腕は超一流でした.

しかし,残念なことに,西新・城西近辺で理解できる人は少なかったと思われます.

そもそも,福岡では,南インド料理自体,まだ知られてない状況でしたから.

「(カレーが)ぬるい」とかいう文句が出ているのを見たことがありますが,手で食べるものだから,かんかんの熱々ではないのは当然です.

期待している「(ナンとこってりカレーの)インド料理」と違ったのでしょう,結構,残されて帰るお客さんも多かったようです.

どんな分野もパイオニアというのは苦労しますね.

多くの人が対象について全く知らない状況だと,その状況を打破するのは非常な困難を伴います.

多くのひとは(期待外れの)未知のものに遭遇すると,怒って帰るか,よくて無視するか,ということでしょう.

未知のものを楽しむ人というのは,ドーパミン分泌が多い,新しもの好きのごくごく一部でしょう.

やはり,方便に巧みな世尊と同様,何かを多くの人に伝えるためには,それなりの方策が必要になる,ということでもあります.

声聞・独覚と仏陀の違いとして,教えるのが下手か上手いかというのがあります.

自分が分かっていても人に教えるには,やはり,それなりの手練手管が必要ということです.
  1. 2016/07/10(日) 10:09:35|
  2. 未分類

Late Prof. Junzo Tanizawa back in Oct 2002

南アジア 023
南アジア 060

Meeting of the Association of South Asian Studies at Tokyo University of Foreign Studies in 2002.
  1. 2016/07/09(土) 15:30:33|
  2. 未分類

Ropponmatsu Campus, Kyushu Uni., back in Nov 2008

六本松 002
六本松 010
六本松 019
六本松 015
  1. 2016/07/09(土) 15:01:26|
  2. 未分類

Welcome Party at Maitighar in May 2007

IMG_4152.jpg
  1. 2016/07/09(土) 14:57:39|
  2. 未分類

Late Prof. Kamimura back in April 2002

KamimuraKatsuhiko2002.jpg

Late Prof. Kamimura, in 2002, when I worked at the institute as assistant professor.
  1. 2016/07/09(土) 14:42:52|
  2. 未分類

中道

山本 2011: 474
「中道」madhyamā



正確にはmadhyamā pratipatのpratipatまで含めて初めて「中道」です.

madhyamāだけだと,「真ん中の」という意味にしかなりません.
  1. 2016/07/09(土) 12:06:06|
  2. 未分類

śivam, not sivam

山本 2011: 485
yaḥ pratītyasamutpādaṃ prapañcopaśamaṃ sivam/
deśayāmāsa saṃbuddhastaṃ vande vadatām varam//



こちらも,De Jong 1994(1977)で「正解」を確認しておきましょう.

yaḥ pratītyasamutpādaṃ prapañcopaśamaṃ śivam/
deśayāmāsa saṃbuddhas taṃ vande vadatā varam//



三箇所違いがあります.

まず,「シヴァ」の綴りは,sivamではなくśivamです.

また,s tの間にスペースが必要です.

また,vの前のmはṃになります.

吉祥を意味するśivamの綴りを間違うことは実に不吉な間違いです.

スペルミスというのは,英語でもそうですが,やはり,当該言語への習熟度を如実に表わす指標となりえます.

したがって,学会論文においては,スペルミスのないよう,細心の注意を払うべきです.

それは決して「どうでもいいこと」として許されるものではありません.少なくとも学界のペーパーにおいては.




その他,誤>正で示すと,

山本 2011: 480:
Vigrahavyavartanī > Vigrahavyāvartanī

480
√hr > √h

475(二箇所)
prajñāpāramītā > prajñāpārami
prajñāpāramītā > prajñāpārami

474
pāramītā > pārami

サンスクリット語の原義を論じる文脈で,般若波羅蜜多(しかも意味は「智慧の完成」)のサンスクリットのスペルを間違えるのは,さすがに皮肉としか言いようがありません.

正しいスペルも知らない人にetymologyを論じて欲しくないと多くの研究者は思うことでしょう.たとえその直観的な指摘があたっていたとしても.

「本稿は「印度学仏教学」や「真宗学」の論文ではなく,むしろ「<反仏教学>としての仏教学の論文であり……本稿の「取り扱い」および「服用」に際しては,その点に重々注意されるよう,あらかじめお願いしておきたい」(山本 2011: 493)とのことですが,しかしながら,だからといって明らかなスペルミスが許されるというわけではないでしょう.学界という場において発表されたペーパーである以上は.

山本 2011: 473
実践ために>実践ために

468
教える(jñapayate) > 教える(jñāpayate)

456
親鸞が「仮」の開顕が重視するのは>親鸞が「仮」の開顕重視するのは

445, n. 24
vyavahārasatyamanagamya > vyavahārasatyam anāgamya

445, n. 25
vyavahāramanāśrtya > vyavahāram anāśritya

444, n. 32
nityapradīpta eva syādpradīpanahetukaḥ > nityapradīpta eva syād apradīpanahetukaḥ

443, n. 35

evameva nirmitakopamena [madīyena] śūnyena vacanena nirmitakastrīsādṛśeṣu [sarvabhāva]niḥsvabhāveṣu yoyaṃ svabhāvagrāhaḥah sa nivartyate sa pratiṣidhyate
>
evam eva nirmitakopamena [madīyena] śūnyena vacanena nirmitakastrīsadṛśeṣu sarvabhāva]niḥsvabhāveṣu yo 'yaṃ svabhāvagrāha sa nivartyate sa pratiṣidhyate

443, n. 36
prapañcātīitamavyayam > prapañcātītam avyayam



次のアマラコーシャ注の和訳は多くの問題を孕んでいます.

442, n. 42
概念説明が顛倒している。たとえば,知識からprapañcaへの顛倒がおこるように。細かな記述というのは,ことばの過剰なることである。たとえば過剰なprapañcaにより(細かな記述があると言われるように)。語に対応した事物のprapañcaなどでは,prapañcaにおいて言葉が過剰であれば,語義は字義通りでなくなる(atasmin taditi pratyayo viparyāsaḥ /yathā -- `prapañcasya layo jñānāt’ iti /vistaraḥ śabdabāhulyam /yathā --`alamatiprapañena’ iti / padārthaprapañcaḥ ityādau śabdavyatirikte prapañce śabda anupacārikaḥ)」



まず,最初

atasmin taditi pratyayo viparyāsaḥ

ですが,「概念説明が顛倒している」と訳されていますが,直訳すると,「非XをXとする理解が顛倒である」となります.

また,テクストも,分かち書きすれば,atasmin tad iti pratyayo viparyāsaḥとなります.

次の

yathā -- `prapañcasya layo jñānāt’ iti

を「たとえば,知識からprapañcaへの顛倒がおこるように」と訳されていますが,「たとえば,「知識によりプラパンチャ(=顛倒)がなくなる」という[表現がある]ように」とでも訳すべきでしょう.

yathā --`alamatiprapañena’ iti

ですが,まずyathā --`alam atiprapañcena’ itiとスペースを入れ,なおかつ,スペルミスを直します.

「たとえば過剰なprapañcaにより(細かな記述があると言われるように)」

と訳されていますが,正しくは,

「たとえば,「過剰なプラパンチャ(詳述)はもう十分だ」という[表現がある]ように」

とでも訳すべきでしょう.alam + instrumentalで,「~はもう十分」という構文です.

その次の和訳も全く要点を得ていませんが,「詳述はもう十分」でしょう.
  1. 2016/07/09(土) 11:17:48|
  2. 未分類

サンスクリットのローマナイズにおける単語の分かち書き

It is not appropriate.

という文章が

Itisnotappropriate.

と書いてあったら,面食らってしまうことでしょう.

正書法とは,そういうものです.

ある集団の中で常識的に正しいものとして認められているものです.

サンスクリットの正書法,今の場合,ローマナイズされたものに関しても,研究者が常識的に是とする正書法が存在します.

もちろん,ローマナイズされた初期の頃,正書法は一定ではありませんでした.

欧米においては,単語の区切りを設けるという観念が一般的であったのにたいして,あくまでもデーヴァナーガリーを基準に考えるインドでは,語と語とを区切るという考え方は,サンスクリットに関しては,意識する必要はなかったからだと思われます.

というのも,デーヴァナーガリーでは,サンスクリットの文章は,ずらずらと語を連ねて書くからです.

また,語が子音で終わる場合(例えば-m)には,次の語の冒頭の母音(例えばa-)と一字にして(例えばmaとして)表記するからです.

したがってインド人がローマナイズする場合,ずらずらと繋げて書いてある場合も見られます.

いっぽう,本邦において,サンスクリット語のローマナイズは,学問の成り立ちからして,当然,欧米基準です.

したがって,ローマナイズするときは,語と語とを区切るのが一般的です.

たとえデーヴァナーガリーで一字として書かれていても,分かち書きするというのが一般的に学界で認められた正書法です.

しかし,そうでない例も,たまに見られます.

山本伸裕 2011:「龍樹の「空」思想から親鸞の「方便」論へ――「戯論」prapañcaと「智度言」prajñaptiとの差異について――」
『東洋文化研究所紀要』160, 441(196)--496(141)

山本 2011: 485:
anirodhamanutpādamanucchedamaśāśvatam/
anekārthamanānārthamanāgamamanirsamam//



文献表を見ると,三枝先生の中論が挙がっていますから,そこから取ってきたものと思われます.

三枝先生のものであれ,あるいは,山本氏のものであれ,これが学会のペーパーに出てきたら,多くの研究者は眉をしかめることでしょう.

正直に,「ローマナイズの仕方を勉強された方がよろしいかと」と言う人も出てくるでしょう.

現在の学界で普通に認められている正書法からは大きく逸脱するからです.

三枝先生のものが不適切であるならば,引用の際には,適宜,訂正するか,あるいは,sicなり原文ママなり,註記をすべきでしょう.

そうでない場合,普通には,引用した本人もそれを是として認めている,ということになってしまいます.

Siderits & Katsura 2013: 13の「正解」を念のために確認しておきましょう.


anirodham anutpādam anucchedam aśāśvatam/
anekārtham anānārtham anāgamam anirgamam//



このように,語と語の間にスペースが必要である,というのが現代の研究者が常識的に認めている正書法です.

また最後を山本氏はanirsamamと書いてますが,正しくは,anirgamamです.

2011年の段階では,S & Kは利用可能ではありませんでしたが,最も信頼すべきものとして,すでにDe Jong 1977は利用可能でした.

Nāgārjuna’s Mūlamadhyamakakārikā Prajñā nāma.
Edited by J. W. de Jong
Revised by Christian Lindtner
The Adyar Library and Research Centre
Second Edition 2004

手元の2004の第二版では,左右見開きで,ローマナイズとデーヴァナーガリーが掲載されています.

そこでは,S & Kと同じように区切られています.

山本氏は,三枝ではなく,信頼度の高いものとして学界で認められていたDe Jong 1977や,その第二版を参照すべきだったと思います.

議論の中身以前の,学界での作法の問題です.
  1. 2016/07/09(土) 11:08:33|
  2. 未分類

PV 3.129-130


護山2015: 49:
asyedam iti sambandhe yāv arthau pratibhāsinau/
tayor eva hi sambandho na tadendriyagocaraḥ//PV 3.129//
viśadapratibhāsasya tadārthasyāvibhāvanāt/
vijñānābhāsabhedo hi padārthānāṃ viśeṣakaḥ//PV 3.130//

実に,「これ(=知覚対象)にはこの語がある」と関係づける場合,その二つの対象(知覚対象と語)が現に顕現していれば,他ならぬ両者に(直接的な)関係がある。だが,その(語を適用する)時点では,感覚される対象(=知覚対象)はすでにない。その時点では,鮮明な顕現をもつ対象は現れていないからである。というのも,認識の顕現(=形象)の違いが,諸事物を個別化する要因だからである。



護山による説明は以下の通り.

p. 49
語が対象を分節化するという常識的な理解に反し,語の適用に先立つ知覚の場面で,形象が事物を個別化する。知覚の度にその都度,対象は個別化されている以上,それに語が適用されることはない。知覚の場面では,前言語的に,対象が形象により切り分けられている。このような個別化の働きを担う形象は,言わば「原初的な概念」とでも呼ぶべきものであろう。興味深いことに,セラーズもまた,対象の気づきに先立つ,「概念」の働きを強調する。



ここでの護山の理解はダルマキールティのシステムから考えて疑問があります.

「前言語的に,対象が形象により切り分けられている」とはどういうことでしょうか.

A.対象の区別に基づいて形象の区別がある.
B.形象の区別に基づいて対象の区別がある.

という二つの可能性のうち,AではなくBである,という主張になります.

しかし,ダルマキールティの知覚理論はAに立つものであって,Bを認めるものではありえません.

因果関係は一方向です.

したがって,護山が文献証拠として提示するPV 3.130cdの護山解釈(戸崎解釈と異なることがn. 11に註記される)は問題を孕んでいると言わざるを得ません.

大きな問題は,果たしてpadārthaが,護山が理解したように,諸事物=外界対象=実在=独自相を指しているのか,ということです.

しかし,直訳するとpadārthaは「語の対象」であり「語の意味」です.

すなわち,これが実在=独自相を指していると理解するのは疑わしいと思わざるを得ません.

語の意味,語の対象と取るべきではないでしょうか.

すると,問題の文章は,特に問題なく理解できるようになります.

すなわち,「認識内の現れの違いが,語意を区別づけるものだ」,というだけの内容となります.

これは,それ以前の記述と整合性を持ちます.

すなわち,ここで描かれているのは,関係づけられるべき語や語意というのが,独自相ではなく,あくまでも,認識内の形象である不明瞭な現れに過ぎないということです.

ダルマキールティは

「現れている対象,その両者のみに関係づけがある」

と述べ,さらに,感覚器官の対象である明瞭な現れをもつ対象が関係づけにおいては認識されていないことを指摘しています.

つまり,語意関係習得において現れているのは不明瞭な現れを持つ対象,共通相なのです.

直前のダルマキールティの発言を考慮すべきでしょう.

戸崎 1985: 208:
viṣayo yaś ca śabdānāṃ saṃyojyeta sa eva taiḥ// 128
そして言葉の対象のみがそれら(=言葉)と結びつけられるであろう。



普通に考えれば,padārthaとダルマキールティが言っているのは, śabdānāṃ viṣayaḥだと考えられます.

以上から,護山のPV 3.130cd理解は問題を孕んでおり,また,それに基づく上記の主張は極めて疑わしいと私は考えます.
  1. 2016/07/08(金) 20:14:59|
  2. 未分類

護山真也 2015「仏教認識論と〈所与の神話〉」

p. 43
奇妙な符号>奇妙な符合



p. 45
「勿論,私たちの認識はこの二種に限られるわけではない。両者に含まれない認識として,一群の概念知(確定知niścaya,実体視adhyavasāya,世間的理解lokapratīti)が存在する。」



ここで,護山氏は,知覚と推論に含まれない認識として確定知を挙げています.

しかし,中須賀美幸の一連の研究にも明らかなように,推論は確定知です.

推論は,付託を排除するものであり,確定知そのものです.

また,その次に,あたかも確定知と別なものであるかのように,実体視を挙げています.

しかし,中須賀が論じるように,確定知は,推理と知覚判断の二種に別れます.

したがって,実体視も確定知の一種です.

分別や確定知の分類については,中須賀美幸による一連の研究を参照のこと.

p. 45
それらは,私たちに未知の情報を提供するものではなく



護山氏の言う「それら」は,直前の「一群の概念知(確定知niścaya,実体視adhyavasāya,世間的理解lokapratīti)」を指しています.

しかし,確定知である推論は,付託の排除を本質とするものとして,未知の情報をもたらします.

「確定知niścayaの一種である実体視adhyavasāya」としておけば,問題はなかったように思います.




p. 46で護山氏は,認識プロセスを挙げています.すなわち,

外界対象⇒感覚+自己認識⇒確定知⇒行為発動

というプロセスです.

しかし,中須賀氏の研究からも明らかなように,このプロセスモデルは,概念知モデルの一例に過ぎません.(中須賀美幸「ダルマキールティの知覚判断説と仏教真理論におけるその受容」『哲学』(広島哲学会)67, 71-84, 2015 )

すべてがこうなるわけではありません.

護山氏が描いているのは,知覚判断の例だけになります.

そのことは注意しておく必要があるでしょう.

中須賀 2015: 72
A: 直接知覚→錯誤知→推理→行動
B: 直接知覚→知覚判断→行動
C: 直接知覚→錯誤知→行動→目的実現なし



中須賀の言うBモデルを護山氏は描いていることになります.


護山氏のモデルで「確定知」とあるところは,より正確に,知覚判断に限定しておくべきでしょう.
  1. 2016/07/08(金) 18:52:24|
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PV 3.346の解釈

護山真也 2015
「仏教認識論と〈所与の神話〉」
信州大学人文科学論集2, 43-56

護山 2015: 45--46:
tadārthābhāsataivāsya pramāṇaṃ na tu sann api/
grāhakātmā 'parārthatvād bāhyeṣv artheṣv apekṣyate//PV 3. 346//

そのとき,この(認識が)対象の現れを有すること(arthābhāsatā)が,認識手段である。(その認識はその現れ)以外のものを対象としない以上,把握者としての側面は残されながらも,外界にある諸対象に依拠することはない



護山の後半部の解釈(特に「依拠することはない」という箇所)は明らかに問題を孕んでいます.

サンスクリットの構文を見る限りでは,「把握者としての側面は(grāhakātmā)は依拠されない(apekṣyate)」となっています.

この点,戸崎の和訳は正確です.

戸崎 1985: 31:
その場合,それ(=知)の対象顕現性こそが量である。能取の自体は,存在するけれども,外境対象に関しては量とみなされない。なぜならば,他(=外境)を対象としないから.



戸崎が正しく捉えたように,「能取の自体は,外境対象に関しては量とみなされない」ということ,直訳すれば,「能取の自体は,依拠されない」という構文理解が正しいのです.

護山の理解では,apekṣyateという受け身が,あたかも,apekṣateという能動であるかのように訳され理解されてしまっています.

ところで,'parārthatvādの解釈ですが,

1. {a-parārtha}-tvāt 他を対象とするものではないから(能取の自体は外界対象を対象としないから)
2. {apara-artha}-tvāt 他を対象とするから(能取の自体は[認識手段の対象である外界対象とは]別のもの(認識それ自体)を対象とするから)

という二通りが実際には可能です.(護山も戸崎も2の可能性は考慮していません.)

護山は戸崎に従って1としています.

私は2が正しいと考えます.ジネーンドラブッディの説明を参照のこと.

PSṬ 72.8--9: ayogas tv aparārthatvāt. grāhakākāro hy ātmaviṣayaḥ kathaṃ bāhye ’rthe pramāṇaṃ syāt. na hy anyaviṣayasyānyatra prāmāṇyaṃ yuktam.
片岡 2011b:38: 「ありえないのは,他のものを対象としているからである.すなわち,把握主体の形象は,それ自体を対象とする以上,どうして,外界対象を認識する手段であろうか.というのも,他を対象とするものが,それとは別のものを認識する手段となるのはおかしいからである.」



詳細については,片岡 2011e: 「Pramanasamuccayatika ad I 8cd-10和訳」の38頁,および,片岡 2010dを参照.

また,PV 3.346の位置づけ,および,ダルマキールティとディグナーガの解釈の相違については,片岡 2011bを参照.

ダルマキールティにとって最大の問題は,認識手段と結果という両者の扱う対象が一致すること,ズレてないことを示すことでした.

クマーリラからの批判を回避する必要があったのです.(片岡 2010d

PV 3.346以下では,認識手段である〈対象の現れを持つこと〉,および,結果である確定知のいずれもが,外界対象に向かっていることが示されています.

経量部説においても,唯識説と同様に,確かに,自己認識の構造は含まれています.

しかしながら,唯識とは違って,外界対象に向かっている,ということを示す必要があったのです.

したがって,唯識説と違って,把握主体の形象ではなく,対象の現れを持つことが認識手段とされ,しかも,結果についても,自己認識のほうではなく,確定知が結果として立てられるのです.

Conclusion:
Moriyama's understanding of apekṣyate (which is different from Tosaki's) is problematic.

Following Jinendrabuddhi’s understanding, it is probably better for us to interpret aparārthatvāt as “because it has something else, i.e., cognition itself, as its object” ({apara-artha}-tvāt) and not “because it is not one that has something else, an external object, as its object” ({a-parārtha}-tvāt).

  1. 2016/07/08(金) 08:10:53|
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Back in Aug 2008 in Itoshima

糸島カレーフェス 011
糸島カレーフェス 012
  1. 2016/07/07(木) 00:47:39|
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Helmut back in May 2003 at Kyoto Uni.

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  1. 2016/07/06(水) 23:18:21|
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