Pratibhanusarini --- 九州インド哲学ブログ2

On Indian Philosophy and Buddhist Studies

錯誤における意官の独立性の否定

きらきら光る真珠母貝を銀と思い込んでしまう錯誤は,なぜ起きるのでしょうか.

ひとつの説明として,意官(心)のせいだ,と考えることができます.

この場合,意官は何でも自分の力で作り出せる,と考えることになります.

たとえば夢の場合を考えてみましょう.

夢の場合,あきらかに,真珠母貝に相当するような「場としての対象」が必要ではありません.

完全に外界がゼロの状態で,あたかも目の前に女性がいるかのように,女性の夢を見せることができます.

意官の非他依存性,独立性です.

意官こそが把握対象を作り出す主体となるのです.




しかし,真珠母貝の例からも分かるように,もしも意官が何でも自由に作り出せると考えるならば,目の前の真珠母貝は不要ということになってしまいます.

つまり,きらきら光る真珠母貝が目の前になくても,意官は自在に銀の映像を作り出すことができることになってしまいます.

しかし,現実には,真珠母貝のようにきらきら光るもの(つまり銀に似たもの)がある時に錯誤は起きるのであって,それ以外の場合には起こりません.

したがって,意官は,類似性に刺激を受けて覚醒してくる潜在印象に何らかの仕方で依存していると考えるのが正しいということになります.

夢の場合も,意官は,対象映像を自在に作り出しているわけではなく,過去に経験したものを想起しているだけです.

ここでも潜在印象(過去の記憶)に依存していると考えるのが正しいのです.

つまり,夢の認識において,意官は,過去の直接経験とその潜在印象(記憶)に依存しているのであって,独立自在の,非他依存的なものではありません.
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  1. 2016/08/23(火) 19:51:25|
  2. 未分類

世界を創造した神は存在するのか?

インド古典文献に「創造主の存在論証」というトピックがあります.

世界の創造・存続・帰滅を司る一者としての神の存在論証です.

とくに創造神たる一者の論証が焦点になっています.

二つ,メインとなる推論式があります.

主張:この山などには作った者がいるはずだ.
理由:結果だから.
喩例:壺などと同様に.

結果である壺などには,陶工という作者がいます.つまり,「結果→作者」が推論できます.同じ図式で考えると,山なども結果である以上,作者がいるだろう,という推論です.

すぐに気がつくように,果たして壺と同様の意味で山などは「結果」と呼べるのだろうかという疑問が湧きます.

普通に考えて,人為の結果(人工物)と自然(非人為)の結果(自然生成物)という二つは区別されるべきでしょう.

その他にも次の推論式があります.

主張:この山などには作った者がいるはずだ.
理由:配列があるから.
喩例:壺のように.

壺は部分の組み合わせからできています.

つまり,レゴを組み合わせるように,部分から成っています.

部分を組み合わせる人がいるはずだということになります.

この図式を当てはめて考えると,ある形状・配列を有している山など(例えば美しい形をした富士山)にも,作者がいるはずだ,ということが推論できます.

キリスト教神学でいう「デザイナーとしての神」と同じ発想の推論です.

デザインが現に目の前にあるからには,背後にデザイナーとしての神がいるはずだ,という推論です.

ここでも,問題は,果たして,人為のデザインと,自然にできたデザイン(というか形)とが同じかということです.

つまり「配列」といっても,それは単に,同音異義語ではないか,という疑問がでてきます.

人為の配列
非人為の配列

の二種類に,たまたま,同じ「配列」という語を適用しているだけで,実際には,二つは区別すべきではないか,という疑問です.

前者は作者を予想させますが,後者は予想させないのではないか,という突っ込みが可能なわけです.

インド古典の世界では,

1.主宰神を認める学派:ニヤーヤ学派など
2.主宰神の存在を認めない学派:ミーマーンサー学派,仏教

が中心となって議論を進めてきました.

面白いことに,バラモン教学のミーマーンサーと,仏教とが,ここでは意見を同じくしています.

ダルマキールティも,クマーリラの見解を前提として援用している様子です(H.クラッサーによる見方).

ジャヤンタの主宰神論証──Nyayamanjari「主宰神論証」定説部の和訳── 『哲学年報』(九州大学文学部)69, 17-69.
http://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/handle/2324/16928/pa017.pdf
神を否定する方法:Nyayamanjari「主宰神論証」前主張部の読解.『哲学年報』(九州大学文学部)68, 27-71.
http://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/handle/2324/13925/pa027.pdf

"Critical Edition of the Isvarasiddhi Section of Bhatta Jayanta's Nyayamanjari." 『東洋文化研究所紀要』148, 350(79)-297(132).
http://repository.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/dspace/handle/2261/1973
  1. 2016/08/16(火) 18:49:14|
  2. 未分類

OHR



スペシャルメニューのマトンマサラ.

巨大も巨大.

相当の大きさです.

さすがにフォークとナイフでは無理なので,むしゃぶりつくしかありません.(周囲のひとは,ナイフとフォークで上品に食べていましたが.)

ビリヤニも食べたかったのですが,さすがにお腹いっぱいです.

かき氷もメニューにあるのが気になります.
  1. 2016/08/15(月) 00:04:15|
  2. 未分類

OHR




A,B,Cとありましたが,Cのビリヤニのセットに.

あとからローティも追加.

いつきても,ダールがうまい.

ローティも美味.

魚はタイとのこと.
  1. 2016/08/11(木) 15:14:09|
  2. 未分類

Ali's Kitchen



セイロンカリーにもう一度と思いましたが,ちょうどお休み.

そこで歩いて心斎橋へ.

アリーズキッチン.

駅近の立地はやはり便利です.

前回ビリヤニを食べたので,今回は,何があるかを聞いて,マトンニハーリー.

マルハバとはまた違う味わいでした.
  1. 2016/08/11(木) 15:13:01|
  2. 未分類

Ceyron Curry



見た目も綺麗なセイロンカリーのアンブラ.

時間が遅かったのであいにくマトンやチキンは売り切れ.

ノンベジの選択肢は,フィッシュ,ビーフ,ポークの三択でした.

ライスは200プラスでバスマティーに変更可能.
  1. 2016/08/11(木) 15:11:13|
  2. 未分類

Textの怪しみ方

どうも読めません.

否定辞のnaがいらないのではないか,と思うのですが.

ということで,写本をチェック.

しかし,写本は,どう見ても,naがある読みを持っています.

シャーラダー写本が駄目なら,つぎは,マラヤーラム写本.

しかし,こちらも明らかにnaがあります.

うーむ.

どうやら,刊本の読みは,現行のもので正しそうだ,という見通しが立ちます.

つぎにすべきは,読みを疑うことではなく,この読みを前提にして,なんとか,意味が通る解釈を行うことです.

あれこれと可能性を考えます.

また,前に溯って,ヒントがないか探します.

こういう場合は,往々にして,句読点,つまり,文章の区切り方を変えることで,解釈の抜け道が見えてきます.

複雑なyat ... tatの可能性を,あれこれと考えて,ようやく理解できました.

どうやら,問答の問と答とが,ぽんぽんと切り替わっている,というのが事情でした.

つまり,Aにたいして,つぎBさん.つぎに,さらにAさんの反論.さらにBさんからの回答,といった具合です.

刊本では,その切り替えが反映された改行を行っていません.

したがって,刊本で読むと,一文に見えてしまうわけです.

区切りや,あるいは,区切りを反映した句読点がいかに解釈にとって重要か,ということです.

校訂者の仕事は,単に異読の記録に終わるわけではありません.

テクストを読みやすいように,あるいは,自分の解釈に沿って,読者が理解しやすいように改行,区切ることも,重要な仕事のひとつです.

そのためには,いわずもがなですが,テクストの内容まで理解していなければなりません.
  1. 2016/08/03(水) 08:21:29|
  2. 未分類

第二回錯誤論研究会



昨年度は京都大学のヴァースデーヴァ博士をお招きして,関連文献を読み進めました.

今年は,石村博士を招へい,関連文献を集中的に読み進めています.

広大の中須賀さんも急遽参加決定.

細かく読んでいくと,やはり,あれこれと変なところが出てきます.

そのような箇所は,いったん写本に戻ってチェック.

すると,やはり,読みが違う,というような箇所が既に何カ所か出てきました.

和訳して何かおかしい,という箇所は,サンスクリットがおかしい,ということが,実際にあるわけです.

自分のもつ「おかしい」という感覚を大事にすべきだと再認識しました.

日本語であろうが,サンスクリットであろうが,やはり,おかしいものはおかしいわけで,昔の人であれ今の人であれ,インド人であれ日本人であれ,論理の筋道・記述の仕方というのには共通したものがある,ということです.
  1. 2016/08/01(月) 19:06:43|
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