Pratibhanusarini --- 九州インド哲学ブログ2

On Indian Philosophy and Buddhist Studies

世界をそのようにデザインした方がいる?



ねじを考えてみましょう.

ねじのように意味あるもの,役立つものは,明らかにそれを作った人,デザインした人がいます.

ねじを作る機械,また,ねじによって作られた車もそうです.

意味あるものには作者がいます.

今,世界の全ては,相互に裨益作用を持つ意味あるものです.

したがって,この世の全てにも作者がいるはずです.




残念でした.

作者(あるいは創造原因)が一者とは限らないからです.

部品を多人数で作ることもありますから,それと同様だとすると,この世界にも多数の神がいた,ということになってしまいます.

たとえ世界の原因があったとしても,その原因が単一である,という保証はないのです.

世界の原因は複数かもしれないのです.

作者が単一とは限らない,というわけです.
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  1. 2016/12/30(金) 09:33:15|
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神が全てを知ることはない



未来・現在・過去の三世に渡る世界全ては無限です.

無限というのは「これだけ」という形では計測できない,限りが分からない,ということです.

したがって,「主宰神が無限なる全てを知る」と主張する場合,主宰神はどれだけかその全体量が計測不可能な全てを知るということになります.

その場合,主宰神は「どれだけか」の全体量を知らないことになってしまいます.

つまり,神の全知を証明しようとしたはずが,逆に,神の無知を証明してしまうことになるのです.

要するに,無限を知ることはできない,というのも,無限というのは知り得ないものだから,ということです.もし知れるならばそれは無限ではありませんから.

鎮めの儀礼をしようとしたはずが,逆に,鬼が出現してしまった,という全く逆のことをしでかしてしまっています.

そういえば,昔,授業中に友人が鼻血を出しました.

先生は,「鼻血を止めてやる」と自信満々,首筋をとんとんと叩きます.

友人,逆に,鼻血が止まらなくなってしまいました.

逆効果,というやつです.

むかし,大学院から移ってきた人が,先生に,お歳暮を贈りました.

真面目な先生は,「こういうのはいりません」「こういうことはしないでください」と激高.

これも,逆効果.
  1. 2016/12/30(金) 09:19:47|
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Miyajidake, Fukuoka

  1. 2016/12/29(木) 18:04:42|
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Mr. Takada's Pasta

  1. 2016/12/29(木) 13:04:23|
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Mr. Takada's Middle eastern foods




  1. 2016/12/29(木) 12:59:05|
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Osaka Halal Restaurant, Chibune

  1. 2016/12/29(木) 12:56:03|
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Nangloghar, Fukuoka

  1. 2016/12/29(木) 12:51:22|
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106, Fukuoka

  1. 2016/12/29(木) 12:49:40|
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Apfelstrudel, Sailer, Fukuoka

  1. 2016/12/29(木) 12:45:15|
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Tunapaha2 Solaria stage, Fukuoka



  1. 2016/12/29(木) 12:39:59|
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言葉一元論と認識一元論

「牛」という語は牛という対象を表示します.

「牛」→牛

また,「牛」という頭の中にある認識は,牛という対象を志向しています.

「牛」→牛

このように,認識と言葉とは,同じく,対象に向かっていきます.つまり,対象を持つものと,対象の関係にあります.

対象を持つもの→対象
viṣayin  → viṣaya

「対象を持つもの」という言い方が面倒なので,日本語風に述べるならば,

主観→客観
主体→客体

あるいは

主→客

と言っても良いでしょう.主客の分化などというと,どこぞの禅哲学みたいですが,それと似たようなことです.

さて,主客の二分というと,唯識が想い出されます.「一切は心に過ぎない」と標榜するヨーガ行派は,

把握するもの→把握されるもの
 grāhaka → grāhya

という宿痾を,我々の心の病の根本的なあり方と喝破しました.

これは,基本的には,認識を軸に据えた見方です.

もう一つの「主」(対象を持つもの)である言葉を軸に据えると次のように言えます.

表示するもの→表示されるもの
vācaka → vācya

サンスクリット学者・言語学者のソシュール流に格好良く

シニフィアン→シニフィエ

と述べたいところです.(福田さんは対応するチベット語の訳語を,そのように訳しています.)

これこそまさに,文法学者バルトリハリの言いたいことです.

ちなみに,眞諦譯の『婆藪槃豆法師傳』 (No. 2049)によれば,ヴァスバンドゥは,バルトリハリの師匠のヴァスラータ(婆修羅多)を論破したそうです.

とすると,紀元後400年頃の唯識も文法学も,同じ穴の狢で,両者ともに

主→客

の二分を,心の病だと見抜いていたということになります.

主客未分の状態をヨーガ行者達は認識を軸足に「唯識」と述べ,文法学者達は言葉を軸足に「言葉ブラフマン一元」と述べていたことになります.




ヴァスラータの記事をSATから,そのまま引用すると以下.

新日王妹夫婆羅門名
T2049_.50.0190b23: 婆修羅多。是外道法師解毘伽羅論。天親造
T2049_.50.0190b24: 倶舍18論。此外道以毘伽羅論義破法師所立
T2049_.50.0190b25: 文句。謂與毘伽羅論相違令法師救之。若不
T2049_.50.0190b26: 能救此論則壞。法師云我若不解毘伽羅論
T2049_.50.0190b27: 豈能解19其深20義。法師仍造論破毘伽羅論
T2049_.50.0190b28: 三十二品始末皆壞。於是失毘伽羅論。唯此
T2049_.50.0190b29: 論在。
  1. 2016/12/29(木) 11:19:16|
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部分と全体

インド哲学で部分と全体と言うと,原子論(極微論)のことか,と思われるかもしれませんが,言葉に関しても,部分と全体という視点を用いて議論が進められることがあります.

音素と文という対立があることを見ました.

通常,言葉には三つの単位があるとし,それらを巡って「意味理解」が議論されます.

音素であるg
語であるgauḥ


です.

そして,音素が意味を理解させないのは自明なので,語意と文意とが,どのようにして理解させられるのかが問題となります.

音素
語→語意
文→文意

当然,ニヤーヤやミーマーンサーのような部分先行主義者たちは,音素からどのようにして文意が理解されるのかを説明します.

ミーマーンサーでは,ごくごく常識的に,次のステップを考えます.

音素

語→語意
   ↓
  文意

音素の集まり(g-au-ḥ)が語であり,語から語意(「牛」)が理解され,語意(「牛を」「連れてこい」)の組み合わせが文意(「牛を連れてこい」)となります.

逆に,文法学のような全体先行主義者は,文が基本単位であって,それ以下は仮に分析抽出されたものだと考えます.

(音素)
(語スポータ→語意)
文スポータ→文意

さて,部分と全体ということを言い出すと,極端な人は,次のような問題を指摘することができます.

部分には部分があるはずだ.なぜ音素で止まるのか?音素の部分を考え,さらに,その部分にも,さらなる部分があるはずだ.

あるいは,

全体にはもっと大きい全体があるはずだ.なぜ文で止まるのか?

音素論者に対しては,音素より小さい単位があってもいいのではないか,という問いかけが成り立ちます.原子でなぜ止まるのか,もっと小さい単位があるのではないか,という問いかけと同じです.

また,全体先行主義者の文スポータ論者に対しては,文より大きい単位,パラグラフ,文脈,一著作,この世の言語的テクスト(発話)全て,というように極大を求めることができます.

常識的に考えて,音素より小さい単位を考えることに意味はありません.

というのも,有意味な単位である語gauḥの部分である音素gより小さい単位を考えることは普通ないからです.

いっぽう,常識的に考えても,この世の言語的テクスト(発話)すべてを考えることは可能です.

それらは有意味です.

文→文意
パラグラフ→意味
文脈→意味
著作→意味
全てのテクスト→意味

文法学者は何と答えるでしょうか?

忘れてはいけませんが,バルトリハリのような文法学者は,言葉ブラフマン論者ですから,「まさにそのとおり」と答えます.

それどころか,意味まで含めて「言葉ブラフマン」なる一元だ,と考えます.

つまり

「全てのテクスト→意味」

という総体の全て,つまり,この世の言葉と意味の全てが,一元なる言葉ブラフマンだと考えます.

もちろん,「真実には」という限定付きですが.

常識的には,人は文という単位を用い,語を単独で用いることはありません.

通常,「牛!」「牛!」だけで意思を疎通させることはありません.

「牛がどうしたの?」と言われることでしょう.

動詞をつけて一文を完成させます.そこで聞き手の期待は鎮まります.

また,(インド哲学の考え方では)幼児は,文から意味を学んでいくと考えられています.

文と文意理解(そしてそれに沿った行動)の観察から,足し算・引き算という抽出作用を経て,語意を割り出します.

したがって,日常レベルでは,文という単位を基本と考えるべきだ,というのが文法学派の常識レベルでの見解です.

もちろん,真剣を抜くならば,「言葉ブラフマン一元論」ということになりますが,それは,究極レベルにおいての話です.

ゲシュタルト心理学のように,全体が先行するのだ,という心理学の発見を待たずとも,文という全体が先行するという考え方は非常に魅力的です.

「予測変換」という考え方は現代では画期的ですが,確かに,我々は,gを聞いた段階でも既に語全体を予想しながら,さらに,gauḥという語を聞いた段階でも,文全体を予測しながら,相手の話を聞きます.

「g」という音を聞いた段階で,すでに,「牛」という語スポータ全体を理解する場合は大いにありますし,さらには,「牛を連れてこい」という全体を予想できる場合だって,たまには,あるでしょう.

あとは,確信を高めていく段階です.

文法学者は,宝石鑑定士の比喩を用いて,全体先行主義を理解させようとします.

最初に見た段階で既にある程度のぼんやりとした予想が宝石鑑定士にはあります.

あれこれと調べて何回も見ますが,それは,最初の確信を高めていくためです.

つまり,最初から全体が,ぼんやりとではですが,見えているのです.

最後に100%の確信で,「ルビーだ」「ダイヤだ」と断定します.

音素(あるいは音響という空気の動きである風)から語スポータや文スポータという基本単位を理解するのも同じようなものだと考えることができます.
  1. 2016/12/29(木) 10:39:04|
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時間幅のある諸部分と,無時間的な単一の全体との間の溝を埋めるには

「言葉」と言われるものは具体的には何なのでしょうか?

それは個々の音素という部分に還元できるものなのでしょうか,あるいは,「語」や「文」として我々が単純に理解するような,不可分・単一の全体なのでしょうか?

まず,ここでいう言葉とは,意味を理解させる原因となるものです.

例えば煙は,火を理解させる,という意味では,対象理解原因ではありますが,それは,今の文脈では問題になりません.

意味理解原因としての言葉,それを聞いたときに意味が理解されることになる,そういう言葉が一体何なのかが問題となっています.

伝統的には,この論題は,音素の実在を認める立場と,スポータを認める立場の対論として議論されてきたものです.例えば「スポータ論」などと呼ばれる論題が,それにあたります.

ニヤーヤやミーマーンサーは要素還元主義を取るので,最終的には,音素を言葉の実質とします.(ニヤーヤでは音素という言葉/音声を無常と考え,ミーマーンサーでは音素という言葉/音声は常住であると考えます.)

いっぽう文法学派は,全体が先にあり,要素還元は仮のものだと考えるので,文スポータこそが言葉だと考えます.

語スポータなる単一体も,実際には,文から抽出された部分として,仮のものに過ぎません.

しかし,いま,議論の都合上,語が何か,ということに話題を限定すれば,語は,音素の集合に還元できない全体であるとするのが文法学派であり,逆に,音素の集まりであるとするのがニヤーヤやミーマーンサーです.

要素還元主義と全体先行主義という相反する見方が,ここでは鋭く対立します.

どちらの理論にも長所・短所がそれぞれあります.

語という全体を,個々の音素に還元した場合には,音素の順序や,(常住あるいは無常である)諸音素から全体としての語の理解がどうして可能となるのか,といったことが問題として浮かび上がってきます.

逆に,語という全体を最初に認める場合には,では,実際に我々が認識する諸部分である音素(たとえばg-au-ḥ)がどのようにしてあるのか,あるいは,"gauḥ"という語の全体は,部分のどれから理解されているのか,最初の音素gを聞いたときに既に語全体が理解されているのか,あるいは,g, au, ḥという全ての音素を聞いたときに語全体が"gauḥ"として理解されるのか,などの問題が浮かび上がってきます.

いずれも一筋縄では解決しない問題群です.

時間の幅のある諸音素の連なり(およびその理解)と,無時間的な単一の語(およびその理解)という両者の溝を埋める理論が必要となってくるのです.
  1. 2016/12/28(水) 23:49:41|
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印仏研65-1

抜き刷りのPDFが編集部の近藤さんより送られてきました.

片岡啓
「ディグナーガによる不排除と包摂の意味論」
『印度学仏教学研究』65-1
395(130)--388(137)
  1. 2016/12/27(火) 19:30:01|
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ナングロのメニュー

NangloGharEdge 015

写真の61は,62のグンドルックの間違いでしょうね.

また,写真の63も,ほうれん草の64の間違いと思われます.

どうでもいいですが.

きっと,どこかで番号がずれたのでしょう.
  1. 2016/12/27(火) 18:27:31|
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とみー画伯

WagimokoTeien

生協を出たところに見覚えのある絵が.

トミー画伯.

卒業しても御活躍の様子です.
  1. 2016/12/27(火) 18:22:53|
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『ヨガ・ボディ』のカタカナ表記


インド人名などのインド関係語彙のカタカナ表記に関しては,統一や正確な表記というのは,カタカナそのものの限界がありますし,また,原語の綴りに沿うのか,あるいは,実際の発音に近くするのかなど,どのように表記するのかについては幅があるので,一概に誤りとは言えません.
次のものは,「私ならこう書くだろう」というものです.
左が喜多氏のもの,右が私の提案.特に目に付くものだけ拾ってみました.
一部,欧米人の人名も含んでいます.


『ヨガ・ボディ』
喜多千草訳

p. v
マリンソン→マランソン
ブーネマン→ビューネマン
ユジャスティク→ウジャスティック
ギャビン→ゲイヴィン

p. vi
ラクスミ・タッタカルヤ→ラクシュミー・タターチャーリヤ
シャーマ→シャルマー
シャンカー→シャンカル

p. 8
アヤンガー→アイヤンガール
バネルジェ→バナジー/バネルジー

p. 11
ヨガ・シャーラ→ヨーガ・シャーラー

p. 12
ヨガーサナガル→ヨーガアーサナガル
サンダラム→スンダラム

p. 27
ヴィンヤサ→ヴィニヤーサ

p. 33
ウトカタサナ→ウトカタアーサナ/ウトカターサナ

p. 34
ブラーマナ→ブラーフマナ
シヴェータシヴァタラ→シュヴェーターシュヴァタラ
プラティハラ→プラティアーハーラ
ディヤナ→ディヤーナ
ダラナ→ダーラナー
サマディ→サマーディ

p. 35
ヨガスートラバーシャ→ヨーガスートラバーシャ
ブロンクホースト→ブロンクホルスト

p. 36
ラクシャ→ラクシヤ
ヴァスデヴァ→ヴァースデーヴァ

p. 37
ゲランダ・サンヒター→ゲーランダ・サンヒター
ヨガ・プラディーピカー→ヨーガ・プラディーピカー
マリンソン→マランソン

p. 38
アーロギャ→アーローギヤ
マユラサナ→マユーラーサナ/マユーラアーサナ
ムードラ→ムドラー
ナーディ→ナーディー

p. 52
アクハラ→アカーラー

p. 54
ブラーマニズム→ブラフマニズム

p. 58
アルヤン宗教→アーリヤ人の宗教

p. 62
ヴァジュロリー・ムードラ→ヴァジュローリー・ムドラー
サットヴィック・サダナ→サートヴィク・サーダナ

p. 63
マハラジャ・ランジェート・シンハ→マハーラージャー・ランジート・シング

p. 67
アルヤ・サマジ→アーリヤ・サマージ

p. 76
ウルドヴァ・ダヌラサナ→ウールドゥヴァ・ダヌルアーサナ
アドムカヴァルコナサナ→アドームカ・ヴリクシャアーサナ

p. 89
ネティ・クリーヤ→ネーティ・クリヤー

p. 93
ジュナーナ→ジュニャーナ

p. 133
パンディツ、サドゥス→パンディット達、サードゥ達/サドゥー達
武闘派アクハラ→武闘派アカーラー

p. 148
ヨガカルヤ・サンダラム→ヨーガアーチャーリヤ・スンダラム

p. 151
ヨガ・ミマムサ→ヨーガ・ミーマーンサー
マニブハイ・ハリブハイ・デサイ→マニバーイー・ハリバーイー・デーサイ

p. 157
シーガラモクシャシャヘテー→シーグラ・モークシャシヤ・ヘートゥフ

p. 159
プラクルティ→プラクリティ
プルシャルタ→プルシャアルタ
サムスカラヴァサナ→サンスカーラ・ヴァーサナー

p. 160
サルタン→スルターン

p. 168
ジャムバナサン→ジャンブナータン

p. 222
ヨガ・ソパーナ・プルヴァカツシュカ→ヨーガ・ソーパーナ・プールヴァチャトゥシュカ
プルソッタム→プルショーッタム

p. 230
デシカチャ→デーシカーチャール

p. 235
シャーマ→シャルマー




インド諸語の長音・短音については,単に統一・一貫性という観点から必要なだけで,ヒンディー語では実際には1.5長くらいですから,短音で示しても大過はありません.
しかし,一方を長音にしたにもかかわらず,他方を長音で表記しないという一貫性の無さは問題になるでしょう.
khaやthaなどの帯気音については,カタカナでは,カやタと表わすしかないでしょう.
神経質な人はハの小字を右下につけたりしますが,通常の日本語に馴染まず,書くのも読むのも,面倒すぎます.
日本語の発音の場合,実際には,語頭のkaは,khaになってることもあります.つまり,日本語では帯気・無気の区別がないので,どちらも「カ」で構わないでしょう.
thaは,舌を歯に挟んだ英語のthではなく,タの帯気音です.サとするのは,単に,インド諸語の無知に由来する誤りです.
しかし,たまに,アメリカにいるインド系2世だと,現地の発音に合わせて,Raghunathan(ラグナータン)が,ラグネイサンと発音させている例もありますので,そのあたりは注意が必要です.
caは,チャです.カではありません.
yogacaryaはヨガカルヤではなく,ヨーガ・アーチャーリヤ(yogācārya < yoga-ācārya)です.
ここになると,サンスクリット語におけるサンディ(連声法)の知識も少しは必要ですし,元の単語を想定する知識も必要になります.

śīghramokṣasyahetuḥは,そのままサンスクリット語なので,サンスクリット語の知識がないと,さすがに分からないでしょう.
英語原書p. 120には,スペースなしで,śīghramokṣasyahetuḥとありますが,通常なら,śīghramokṣasya hetuḥとスペースが必要です.
さらに,合成語内の語を分かつと,śīghra-mokṣasya hetuḥとなります.速い解脱の原因,という意味です.

アーサナ(坐法,ポーズ)については,サンスクリット語がそのまま使われますので,サンスクリット語の知識がないと無理です.『ヨガ・ボディ』76頁には,いくつかのアーサナ名が列挙されています.

最も酷いのが,「アドムカヴァルコナサナ」です.

このカタカナを見ても原語が想定できないほどです.

原書p.59には,adhomukhavṛkṣāsanaとあります.

adho-mukha-vṛkṣāsana < adho-mukha-vṛkṣa-āsana

です.直訳すると,下向き・顔・木・坐法です.つまり,顔を下に向けた木のポーズということです.

どこをどうすれば,vṛkṣāが「ヴァルコナ」になるのでしょうか.非常に興味深い間違いです.




インド文化やサンスクリット語,あるいは,ヒンディー語,カンナダ語,タミル語など現代諸語を含めたインド諸語の知識もなしにヨーガの研究書を,普通の英語本を訳すように日本人が訳すとどうなるか,という実験の場としては,様々なヴァリエーションの過誤を提示してくれているという点で,興味深い訳本です.

喜多氏の「アルヤン宗教」の原書表記(p. 45)はAryan Religionです.普通は「アーリア/アーリヤ人の宗教」と訳すでしょう.

また,『ヨガ・ボディ』71頁には

19世紀に市民権を奪われたナーガ語を話す人びとが



とあります.原文p. 55には

The swell of disenfranchised nāgas during the nineteenth century ...



とあります.ここでいうナーガは,出家遊行者の一派を指しているのであって,言語集団を指しているわけではありません.

ナーガについては,前章の第二章で扱われています.喜多氏自身52頁で

ダシャナーミ・アクハラのナーガ・サンニヤーシンは



と訳しています.原文はnāga saṃnyāsins of the Daśanāmi akhāṛasです(p. 40).
つまり,ダシャナーミ・アカーラーの出家遊行者を特に指示していることが分かります.いわゆるサドゥーの一派を指しているのです.武闘派ヨーギンの一派を指しているというわけです.
  1. 2016/12/24(土) 18:29:35|
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ヨーガの知識

クリシュナムアーチャーリヤ,結構,ナショナリスティックな発言をしています.

1934年当時といえば,ガーンディーの不服従運動が盛んなときですから,外国人(特にイギリス人)に対する意識は高かったでしょう.

Yoga Makaranda p. 30:
The foreigners have stolen all the skills and knowledge and treasures of mother India, either right in front of us or in a hidden way. They pretend that they have discovered all this by themselves, bundle it together, and then bring it back here as though doing us a favour and in exchange take all the money and things we have saved up for our family’s welfare. After some time passes, they will try and do the same thing with yogavidya. We can clearly state that the blame for this is that while we have read the books required for the knowledge of yoga to shine, we have not understood or studied the concepts or brought them into our experience. If we still sleep and keep our eyes closed, then the foreigners will become our gurus in yogavidya.



ポイントをまとめると,

1.外国人はインドの技術・知識・富を盗んだ.
2.自分で発見したかのようなふりをして.
3.同じ事をヨーガの知識についてもするだろう.
4.知識はちゃんと理解し経験に落とし込まねばならない.
5.うかうかしてると,外国人がヨーガの知識のグルになってしまう.
  1. 2016/12/21(水) 19:05:24|
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śva-dṛti-nikṣipta-kṣīra-vat

クリシュナムアーチャーリヤの『ヨーガ・マカランダ』(ヨーガの蜜)には次の比喩が見られます.(オリジナルは1934年のカンナダ語版ですが,ここでは,1938年のタミル語版に基づく英訳から紹介.)

Yoga Makaranda, English translation (2006) from the Tamil version published in 1938, (originally published in Kannada in 1934):
p. 18: For example, everybody knows that pure cow's milk gives good health and happiness. Yet if it is poured in a cup made of pig's skin or dog's skin, it turns into poison and becomes harmful.



犬の皮袋の比喩はミーマーンサー伝統の復注釈者であるクマーリラの『タントラヴァールッティカ』に見つかります.

TV ad JS 1.3.7 (see also Kataoka 2011: II 400):
śvadṛtinikṣiptakṣīravad anupayogy aviśrambhaṇīyaṃ ca.
犬の皮袋に入れられたミルクのように,役には立たないし,信用できない.



しかし,恐らくクリシュナムアーチャーリヤの直接のソースは,クマーリラに基づく次のヤームナの『聖典権威論』(アーガマプラーマーニヤ)でしょう.

Yāmuna’s Āgamaprāmāṇya:
tāny anupayogyāny avisrambhaṇīyāni ca śvadṛtinikṣiptakṣīravad iti manyāmahe.



クリシュナムアーチャーリヤは,16歳の時に夢でナータムニのお告げを受けたというくらいですから,熱心なヴァイシュナヴァ(その中のテンガライ派)でした.

当然,ヤームナの著作は,覚えるくらいに熱心に読んでいたことでしょう.

  1. 2016/12/21(水) 07:45:45|
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ミーマーンサーは今も昔も難しい

シングルトンの『ヨーガボディー』に面白い記事を見つけました.


B. K. S. Iyengar also notes that at the beginning of his royal employ, Krishnamacharya had originally been engaged to teach mimamsa at the Pathasala, but was reassigned to the yogasala when the students complained to the Maharaja that the lessons were too difficult (Iyengar 2000: 53). Yoga Body原著 p. 197

またB.K.S.アイヤンガールによれば,クリシュナムアーチャーリヤが王に雇われた当初,元々は学院でミーマーンサーを教えていたのだが,生徒がクリシュナムアーチャーリヤの教える内容が難しすぎるとマハーラージャに文句を言ったことでヨーガ教室に配置換えされたということである.(『ヨガボディ』和訳258頁に相当訳あり.ここでは適宜訂正を加えている)



これによれば,クリシュナムアーチャーリヤ,最初は,ヨーガではなく,ミーマーンサーを教えていたとのことです.

実際,ベナレスでミーマーンサーを習っていたようですし,G.ジャーとも付き合いがあったとのことですから,結構,ミーマーンサーには通じていたのでしょう.

たしかに,ミーマーンサーとかいきなり教えられたら,中高校生は文句言うでしょう.
  1. 2016/12/20(火) 19:22:13|
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received: Kazuo Kano: Buddha-Nature and Emptiness

KazuoKano2016.jpg

Kazuo Kano
Buddha-Nature and Emptiness
rNgog Blo-ldan-shes-rab and A Transmission of the Ratnagotravibhaga from India to Tibet
Arbeitskreis fuer tibetische und buddhistische Studien Universitaet Wien
Wien 2016
Wiener Studien zur Tibetologie und Buddhismuskunde Heft 91




仏教(文献)学者でKazunobu Matsudaを知らない人はもぐりでしょう.

もうひとりのKazも然り.

本著のKazuo Kanoも,いまや,世界的に有名な若手仏教学研究者のひとり.

国内・国外,どこの研究会に行っても,よく顔を合わせます.

私と似たところに出入りしているせいもあり,さらに,彼がより広くworld wideに活動しているせいもあるでしょう.

彼のハンブルク提出博論の一部,研究篇に相当する部分がこれ.

「これ」といっても,16+488で,500頁を超える大部の著.それが,まだ博論の「一部」だというのだから驚きです.

このあと,原典・翻訳篇が控えていますから,あわせると.大変な分量になります.

内容は,高崎先生の研究で日本人には馴染みのあるラトナゴートラヴィバーガ,そのチベットでの古い註釈を中心としたもの.

つまり,インドとチベットをつなぐ結節点となるゴク・ロデン・シェーラプの注を核に,インドからチベットにいたる系譜を追うという,実に気宇壮大な研究です.

本書の目的については,彼自身がp. 12以下でまとめてくれています.

原文は非常に流麗な英語ですが,私の無粋な日本語で直訳すると以下の通り.

本書の目的は,チベットにおける,RGVに関わる註釈伝統の諸発生源を研究することにある.そのために,rNgogによる,最古のチベット語注釈書であるTheg pa chen po rgyud bla ma'i bstan bcos kyi don bsdus pa を研究する.それにより,インドからチベットにいたるRGVの伝承に関する歴史的・教理的背景を明らかにし,また,チベットにおける以後のRGVに関する教理的発展に対するrNgogのインパクトを見極める.……



歴史の順を追って,各種の重要な情報が,本文では読みやすく,そして,脚注では微に入り細に入り,細かく関連情報が記されています.

すごい研究が出たものです.

本邦の仏教学の水準の高さを示す記念碑的な研究として評価されることになるはずです.
  1. 2016/12/19(月) 08:01:23|
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インド思想史学会



インド思想史学会 第 23 回(2016 年度)学術大会のご案内

開催日   2016 年 12 月 17 日(土)
会 場  京都大学 楽友会館 2 階 会議・講演室

13:30 – 14:20
高橋 健二(京都大学文学研究科・博士課程・日本学術振興会特別研究員 DC)
「Manavadharmasastra 第1章と Mahabharata 第 12 巻第 224–225 章における創造・帰滅説の編纂過程の再考」

14:20 – 15:10
川村 悠人(京都大学文学研究科・日本学術振興会特別研究員 SPD)
「接辞重複問題に見るパタンジャリの言語理論」

—— 休 憩 ——

15:30 – 16:20
酒井 真道(関西大学文学部・准教授)
「瞬間性推理と内遍充をめぐる思想史の一考察 —ドゥルヴェーカミシュラが伝えるアルチャタとダルモーッタラの見解の相違—」

16:20 – 17:10
藤井 正人(京都大学人文科学研究所・教授)
「ヴェーダ文献における yoga/yukti について」




もともとは服部先生の作った学会ですから,ダルシャナ中心でしたが,今回の発表を見ても分かるように,現在の日本のインド学の多様性と高度な専門性を表わす発表構成となっています.

高橋さんの発表が扱うのは,ダルマ文献とマハーバーラタ,いわゆる「インド学」のど真ん中という感じの発表内容.古くから取り上げられてきたテクスト群を扱っています.

川村さんのは,パーニニ文法のテクニカルな問題について.フランス語で文法学について著作を物された大地原先生の時代には,パーニニ文法のテクニカルな問題について日本語で発表する人も皆無だったでしょうし,聞いてもちんぷんかんぷんだったでしょうが,現在では,小川先生の薫陶を受けた若手がこの分野を牽引してくれています.

京大に於けるヴェーダ学の伝統を守る藤井先生の発表は,トリに相応しい包括的な発表でした.

酒井さんのは,仏教論理学における,いわゆる「内遍充」「外遍充」の問題.本邦では,志賀さんも盛んに議論している問題です.以下で詳しく見てみましょう.





インド哲学の諸伝統において,古くは,ニヤーヤ学派に代表的なように,通常,外遍充とされる立場を取ります.

つまり,竈など,周知のものにおいて火と煙の遍充関係を確定してから,次に,同類例とは別のものである,未だ疑惑の渦中にある山について,それを主題として,火があるのを煙から推論します.

遍充関係が確定されるのは,主題である山「以外」,すなわち,主題の「外」においてです.

これが外遍充と見なされる立場です.

インド哲学は,基本的には,このような外遍充の立場を前提としています.

「竈のように,山も」というのが基本だからです.

これにたいして,ダルマキールティ以降では,必ずしも,このような立場を取りません.

というのも,(世俗レベルでの)客観的な拘束関係(pratibandha)ということを考えるので,表面上の現象に拘泥する必要がないので,遍充関係確定にあたっても,「竈のように」ということを言う必要が,本質的には,なくなるからです.

あくまでも,因果関係や同一性という拘束関係を確定することが大事なのであって,竈など周知のところで,火と煙の上っ面の同居を見ることは,遍充関係確定の根拠とはならない,と考えるからです.

ダルマキールティによれば,遍充関係は,「見た目」ではなく「実質」で決めるべきものであって,そして,その実質は,火から煙という因果関係か,シンシャパーは木を本体とする,という同一性のいずれかに限定されます.そして,この拘束関係は,「すべてを取り込む遍充」であって,主題と同類例の区別を持ち込む必要はありません.それらの区別はそこにはないのです.主題であるか同類例であるかを問わず,全てを包括して遍充が確定されるのです.

また,同一性の確定に典型的に見られるように,ダルマキールティでは,「仮にそうじゃないとするとおかしいことになる」「木じゃないとするとシンシャパーではありえないはずだ」という思考実験を持ち出すので,経験に依拠する必要がありません.

「存在するなら,刹那滅である」「というのも,もし刹那滅でないならば,常住ということになるが,常住なものは,効果的作用の能力を持たないので,効果的作用物=現在存在たりえない,ということになってしまうから」というわけです.

この場合,明らかに「外遍充」ではありません.

というのも,主題も中に含まれているからです.

では,内遍充と呼んで良いのか,という問題が出てきます.

そこは,微妙な問題になってきて,それについて,小野基先生も,酒井さんも,問題にしているところです.

というのも,内遍充というのは,ジャイナの「そう考えないとおかしいこと」一本槍の推論方法を特徴的に指す名称だからです.

これにたいして,ダルマキールティの場合,あくまでも,主題所属性(煙が山という主題の属性であること)という第一条件を必要とします.

ジャイナとは異なるのです.

したがって,ダルマキールティの立場を単純に「内遍充」と呼ぶことに関しては,少し慎重にならなければならない,ということになります.

今回の酒井さんの発表は,アルチャタ,ダルモッタラ,ドゥルヴェーカミシュラのテクストを取り上げたもので,特に,ドゥルヴェーカミシュラの記述をもとに,これらの問題を洗い直したものです.

ダルマキールティに註釈するアルチャタに,さらに復注を書いているドゥルヴェーカミシュラの『理由の滴の注の光』という復注は,一部,テクストが怪しい箇所もあって,一筋縄ではいかない感じがします.

また,解釈も,結構難しい箇所があります.




発表後の会場からの質問は,最初に私,次に隣に座っていた志賀さん,最後に,横地さんでした.

横地さんによれば,virasiibhaavaというのは,「まずくなる」というような意味ではなくして,「読者が興味を失う」という意味だそうです.

確かに,rasaをそういう意味で使いますね.
  1. 2016/12/18(日) 06:29:47|
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箱崎・法文学部本館の已滅無を(認識手段の)非存在により認識する

旧法文5945wewr
旧法文03984523
旧法文0983453
  1. 2016/12/16(金) 19:50:47|
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マンダナ・ミシュラの全知者批判

インド哲学文献に言及されるsarvajña(一切智者・全知者)は,文字通り,一切を認識する者,ということです.具体的には,仏教の仏陀,サーンキヤのカピラ,ジャイナのワルダマーナ,さらには,ニヤーヤの主宰神です.このようなナンセンスな存在そのものを認めないのがバラモン正統派の聖典解釈学ミーマーンサー学派のクマーリラであり,それに連なるバッタ派です.全知者を批判するには様々な批判方法あるいは批判段階があります.知られるべき全てとは何か,全てを知ることは可能か,全てを知る人がたとえいるとしても仏陀がそうであることはない,さらには,全知者がいるというそのことを確認する証拠となる認識手段(pramāṇa)は何か,自称「全知者」本人が「自分は全知者です」と言っているだけなのか,あるいは,弟子が全知なる師匠の全知者性を確認したのか,さらには,(言語が関わる概念知を離れた)無分別の瞑想状態で(言葉を発して)説法できるのか,一部しか説かないのに全てを説いたことになるのか云々.ミーマーンサー学派の聖典論に照らせば,仏陀など,人間が作った(pauruṣeya),ヴェーダに基づかない(avaidika)宗教書(ダルマ・アダルマを扱うテクスト)は,すべて,人知に基づく妄想でしかなく,仏陀の説法は,所詮は,誤知に基づく情報であり,愚かな人達を騙して儲けようとする貪欲などの何らかの不純な動機に突き動かされたものでしかありません.

さて,マンダナは,ここに新たな批判方法を加えています.「これだけ性の批判」とでも言うべきものです.「全て」というとき,普通我々は,その全体を知っています.つまり,1,2,3,... nという全体を知った後に,「これら全て」という指示代名詞が成立します.もしその全体を知らないとすると,全てなのか一部なのかは不明となってしまいます.アラブの富豪夫人が日本のデパートに来て,「ここからここまで全部頂戴」といって服を買うとき,それは,その一列の端から端までの全ての服を指しているはずです.また,五十嵐先生はよく,駒場の授業が終わって渋谷の居酒屋にいくと,「このお薦め,上から下まで,六つ全部頂戴」という注文の仕方をしていました.これも,「全て」が何を指しているかを知ってから注文しているわけです.もし,五十嵐先生が,「全て」が何を指すか知らないならば,すなわち,6つが全てであることを知らないとしたら,店員が5皿しか持ってこなくとも気がつかないことになってしまいます.しかし,現実にはそのようなことはないわけで,「あと一つまだ来てないよ」と先生は指摘することでしょう.

仏教のヨーガ行派では,修道論において,「あらん限り性」ということを説きます.つまり,全てが空であることを知り,唯識であることを知る修道の段階においては,「全て」が何を指しているのか,その全体量を確定する必要があります.そして,次にその質(yathāvadbhāvikatā)について知らねばなりません.この最初のものがyāvadbhāvikatāであり,「あらん限りのもの性」です.これと同じものに言及するのが,マンダナの言う「これだけ性」iyattāです.これだけ,この全てが「全て」である,ということが,全知者が全てを知る際には必要となる.つまり,その量・規模の全体を知る必要があるのです.しかし,未来・現在・過去の三時に渡る,この無限なる世界の全てを知ることは可能なのでしょうか.無限ということは,限りが無いということです.(仏教では,輪廻世界には始まりが無いと考えますから,過去は無限です.同様に,未来も無限です.) つまり,それは,確定不可能ということになるはずです.もし「これだけ」という確定が可能であるならば,それは無限ではありません.つまり,「これだけ」と「無限」とは相容れないのです.無限の全てを知ることは,このように,概念的にそもそも不可能ということになります.マンダナは,このような「説明不可能」「論理的にありえないこと」(anupapatti)を彼独自の全知者批判において指摘しています.さすが,泣く子も黙るマンダナ・ミシュラ,切れ味抜群です.果たして仏教徒は,マンダナの批判にまともに答えることができるのでしょうか? 多分,無理.
  1. 2016/12/16(金) 07:57:05|
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A Nepali Restaurant, New Road, Hakozaki

NewRoad 009
NewRoad 011
NewRoad 014
  1. 2016/12/16(金) 07:54:23|
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ヴァーチャスパティ・ミシュラ:「地球は丸い」

ヴァーチャスパティ・ミシュラは,ジュニャーナシュリー・ミトラと同時代ですから,紀元後10世紀頃に活躍したと考えられます.

さて,彼の初期作品が『論理の小粒』(ニヤーヤ・カニカー).

インド哲学文献の中でも最も難解な作品の一つとして知られるマンダナ・ミシュラの『命令の分析』(ヴィディ・ヴィヴェーカ)に対する註釈です.

マンダナは次のように述べています.

地からできている球は,別の地製物に比して,より多くの虚空の空間を占めているが,[虚空の空間]すべてを[占めている]のではないのと同じである.



ここで言う「地からできている球」が具体的に何を指しているかは必ずしも明らかではありません.

たんに粘土で作ったボールのことかもしれません.

いずれにしろ,ある球状物体Aは,同じく地製の別のものに比べて,とてつもなくでかくても,あるいは最大限でかくても,全ての空間を満たしているわけではありません.

つまり,最大と無限大とは違う,というのがポイントです.

この原文に対して,ヴァーチャスパティミシュラは次のようにコメントしています.

地からできている球[すなわち]一切個我世間の場は,巨岩・巨石などという別の地製物に比して,より多くの虚空を占めるが,全てを占めるわけではない.



sakalajīvalokādhiṣṭhānaは,直訳すると,「一切の個我世間の場」ということですから,普通に考えると,大地,つまり,地球ということになります.

マンダナは,「地製の球」と述べていて,ヴァーチャスパティがそれを,我々の大地と同定しているので,ヴァーチャスパティは,地球が球状である,と考えていたことになります.

地球が巨岩よりでっかい,つまり,この世に有るものの中で最大限に大きいからといって,一切空間を満たすわけではない,つまり,無限大ではない,と言っていることになります.

以上から,紀元後10世紀のヴァーチャスパティの世界観では「大地は球状である」ということになります.

まさしく「地球」という概念があったことになります.
  1. 2016/12/13(火) 18:22:54|
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龍樹「山は髪の毛のようだ」

渡辺慧による「みにくいアヒルの子の定理」による厳密な証明をまたずとも,直観的に,いかなるA,B,Cについても,AとBとが似ているのと同じくらい,BとCとが似ていると言えること,つまり,「似ている」という判断が主観的であり,恣意的であること,比喩というものが客観的に成り立つものではなく,主観的に重要な特徴を取り出しそこに比重を置くことで初めて成り立つものであることが分かります.

ナーガールジュナ作とされる『ヴァイダリヤ論』は,ニヤーヤの挙げる項目である「喩例」を批判するにあたって,次のように指摘します.

また,「部分的に同類であるから(喩例と)なるのだ」と言うとしても,そうではない.山と髪とのばあいのように.

それに対して,「(AはBと)部分的に同類であることによって(Bの)喩例である,とこういうことになるであろう」と言うとしても,そうではない.どうしてかというと,この世間では山と髪の毛とでさえも,存在性,単一性,有形性(など)の点で部分的に同類であるから(すべてのものは他の全てのものの喩例となってしまうから)である.(梶山雄一訳, p. 213, 『龍樹論集』)



世間的には全く似ているとされることのない山と髪の毛でさえ,様々な同質の特徴を取り出せば「似ている」と言うことはできます.

したがって,同質性をもって「似ている」と言う際の喩例というものは,客観的には成り立たないというのが作者の意図するところです.

以上から,「山には火がある.煙を持つから.竈のように」という論証において,「山≒竈」と見なす比喩は成り立たない,ということになります.

「ああいえばこういう」式の「言い返し」などを用いて論証の揚げ足を取るのが得意な龍樹から見れば,音声は,無常な壺と似ているのと同じくらい,常住な虚空と似ていると言えるでしょう.
  1. 2016/12/13(火) 05:42:32|
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Middle eastern foods in Fukuoka

  1. 2016/12/11(日) 20:40:00|
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日本南アジア学会九州支部 12月定例研究会


日時:12月10日(土)13:30-17:00

 
会場:九州大学箱崎キャンパス

発表者:
南出和余(桃山学院大学国際教養学部・准教授)
「バングラデシュ経済成長下の若者たち-農村と都市のはざまを生きる-」

Siddiqur Rahman(ジャハンギルノゴル大学人類学部・准教授/国際交流基金フェロー)
「Globalization and Public University Students in Bangladesh」
  1. 2016/12/10(土) 10:37:35|
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インド人名のカタカナ表記

これは,最も苦労するところで,ひとつの正解はないに等しいですが,明らかな間違いというものはあります.

ヨガボディ和訳 159頁:
アイヤー、サンダラム、バルスカー



英語原書では,

p. 122:
Iyer, Sundaram, Balsekar


です.

普通にカタカナ表記するなら,

アイヤー,スンダラム,バルセーカル


とすべきでしょう.

三つの内,二つが間違いです.

同様の間違いは,本和訳には多く見つかります.

インド関係本を和訳するのに,インドの言語(原語)について全く無知であるというのは,如何なものでしょうか.

ドイツ関連の英語を和訳するのに,ドイツ語について全く無知であるような研究者は,普通,いないでしょう.

インドだとなぜかそれが許されるという,志・水準の低さと甘えとが,本邦にはあるのかもしれません.

160頁には

ティップ・サルタン宮殿


とあります.英語はTippu Sultan's Palaceです.

ティプーは色々な表記がありうるので,ティップでもOKでしょうが,Sultanはスルターンなどでしょう.

以上から,uがくせ者ということが分かります.

インド人名の場合,英語向けにアの発音に対してuで表記している場合もあれば,インドの表記そのままにuを使うこともあるので,判断が難しくなります.
  1. 2016/12/04(日) 13:33:59|
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