Pratibhanusarini --- 九州インド哲学ブログ2

On Indian Philosophy and Buddhist Studies

VP 145b: avicāritā

VP 2.145ab:
upaśleṣam ivārthānāṁ sā karoty avicāritā


赤松訳「それ(直観)は、[個々の単語の]それぞれの意味を接合するかのようであり,疑う余地なく決定的なものであり……」



赤松は訳注40において,小川の解釈にも言及しています.

赤松 1998:264-265, n. 40: 「ただし、「[『これがそれだ』というように]確定判断されることのないものではあるが、」(小川、前掲論文)という解釈もある。この解釈は、「直観知が、概念的には把捉され得」ないと、バルトリハリが考えていたということに根拠を置いたものである。



マンダナがkiṁ katham anusaṁdhīyata iti vicāravikalāと言うときのanusaṁdhānaは,推論に関わる一連の思考作用を挙げるヴァーチャスパティもその一つとして言及するhetuparāmarśaのことだと第一義的には考えることができるでしょう.(なお,ヴァーチャスパティは推論思考過程の一連の全てだと解釈しています.dharmisvarūpadarśana-taddharmasaṁdeha-jijñāsā-pakṣadharmahetuparāmarśa-pramāṇāntarābādhānām ...)

マンダナ,ヴァーチャスパティの解釈は,小川の解釈(ラグナータ・シャルマーの解釈avicāritā = idaṁ tad ity anirdhāritasvarūpāpiに基づく)を支持します.

総合的に見て,この解釈を取るのが,やはり穏当かと思われます.
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  1. 2017/01/27(金) 19:43:56|
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VP 2.149b

VP 2.149ab:
赤松訳「春になればオスのカッコウが鳴き始める。それを一体誰が妨げられようか。」

現行の読み(svaravṛttiṁ vikurute madhau puṁskokilasya kaḥ)を採用するにしても,

「春にオスのカッコウの声調(鳴き声の調子)を誰が変化させるのか」となるでしょうか.

ラグナータシャルマーはvikuruteを,「オスのカッコウに変化を生じさせて為す」puṁskokile vikāraṁ samutpādya kuruteと解釈しています.変化させる,ということでしょう.原義の「変化」でいけるので,「妨げる」という意味を無理に持ってくる必要はないと思われます.

ラグナータ・シャルマーが異読に注意を払うように,マンダナおよびヴァーチャスパティは別の読みで引いています.

svaravṛttiṁ vikurute madhau puṁskokilaḥ katham

こちらのほうが古い読みと考えられます.現在の資料状況から総合的に判断して,オリジナルとしては,今のところ,こちらを採用すべきでしょう.

「春にオスのカッコウが声調(鳴き声の調子)を変えるのはどうしてか」

とでもなるでしょうか.

しかし,ラグナータシャルマー師,マンダナまで見ているとは流石です.

ちなみに,カルドナ先生の先生です.
  1. 2017/01/27(金) 19:27:59|
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Rec Coffee in Maidashi

IMG_5855.jpg
  1. 2017/01/25(水) 22:12:38|
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Nanglo appears in the town paper FUKUOKA


  1. 2017/01/24(火) 17:17:45|
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すべての認識は言葉を本質とする

文法学者バルトリハリから見れば,この世界は言葉を本質とするものに他なりません.

言葉が貫通してないものはありません.

表示者と表示対象は一体であり,全てに言葉が行き渡っており,言葉こそがこの一切の本質です.

我々の認識も全て,言葉から成っており,言葉を本質としています.

我々の認識が持っている「言葉を本質とすること」という本性を離れては,認識ということそれ自体がありえないのです.

このような本性を離れては,認識という光それ自体が光り輝かなくなってしまいます.

言葉を本質とすること,それは,言い換えれば,有分別,つまり,言語的な反省知を含んでいるということです.

言葉を本質とすること――認識が持つ永遠のもの――それがもしも[言葉から]去って行くならば,輝きは輝かなくなるだろう.それ(言葉を本質とすること)は,言語的反省を有するからである.

  1. 2017/01/24(火) 07:46:08|
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तेन > ते न

前後趣旨が通じないので,あーでもないこーでもない.

10分経って,ようやく,तेनではなくते नであることに気がついて問題解決.

よくある引っかけですが,तेनと一語で印刷してあると,やはり,引っかかってしまいます.

写本で最初から隙間が無ければ,いずれの可能性も考えるというものですが,刊本だと,ついつい,刊本にある通りに読んでしまいます.で,तेनしか念頭になかったので,手間取りました.

前後趣旨が通じないので,最初は,あれこれと工夫しながら,否定辞がどこかに隠れてないかなど,様々な可能性を考えていましたが,結局,否定辞をアクロバティックに補う必要もなく解決して良かったです.

この箇所は,註釈もなく,ノーヒントですから,難しい.

少なくとも,刊本のエディターは,意味を正しく理解してなかったということでしょう.

ちなみに,その少し前の箇所では,否定辞が余計に入ってました.

こちらは,註釈では明らかに無いので,単なる誤植として否定辞を削除.

ゲシュタルト的な全体論者であるバルトリハリは,単語や意義素というのは,後付けで抽出されたもので,本当にあるのは文というひとまとまりの無部分の全体だとしましたが,以上のような経験を鑑みると,確かにその通りです.

同じ音でも,全体が分かって初めて,有意に分割することが可能です.

ひと連なりの音をどこで区切るか,その区切りは決して自明ではありません.

tenaのように同じ音でも,分け方は異なりうるのです.

文意理解は,部分(語意)を足していって全体(文意)が構成される,というような単純なものではないということです.

サンスクリット,中でも,韻を踏んで書かれた詩文の場合には,全体の閃き(プラティバー)が先行するというのを実感する瞬間がしばしばあります.

馴染みのある内容が書かれている場合,最初のキーワード一語を見た瞬間に,全体の意味は分かっています.

あとは,それを確認するだけの作業ということも,よくあります.

最初に分かって,あとは,その確信を強めていく段階です.

宝石鑑定士の比喩と同様です.

全体の理解が違うと部分の捉え方も違ってくる,なにか,パラダイムの転換と似たところがあります.
  1. 2017/01/20(金) 00:13:12|
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九大箱崎赤煉瓦

  1. 2017/01/15(日) 23:14:44|
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Girimukha House

  1. 2017/01/15(日) 13:32:37|
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もしも一切智者だったなら

不浄な汚い汁までダイレクトに感じることになってしまう,とクマーリラは批判します.

一切智者とは「全てを知る人」のことです.

全ては,まさしく全てですから,ダルマとアダルマという宗教的真理だけでなく,髪の毛,体毛,ガンガーの岸の砂の数など,いろんなもの「全て」を含みます.

当然,その中には「不浄な液体」も含まれます.

しかも,一切智者は,それら全てをダイレクトに知覚で知るわけですから,不浄な汁・液体を直証・直覚するわけです.

すると,膿や尿,経血,さらには酒といった,その当時のインド宗教界で不浄とされていた液体まで,ダイレクトに感じていることになってしまいます.

そういう趣味の人や健康のために飲尿している人ならともかく,世尊と呼ばれる人,その方が,尿を直接に味わっているということになってしまうのです.また酒をダイレクトに味わっていることになってしまうのです.

誰がそんな一切智者を想定するだろうか,とクマーリラは指摘しています.

全てを知る,というときの全ては,いいことばかりではない,ということです.

これを膨らませれば,当然,一切智者は,全てを直接に知る(いわば「ダイレクトに見る」)ことになりますから,覗きもしてることになるので,現代なら軽犯罪法で捕まるでしょう.また,火事や虐待など,各種の通報・通告義務も果たさねばなりませんから,結構いそがしくなります.

現代日本だと,全知者になっても悩みは絶えないでしょう.

もちろん,後8世紀の仏教学僧シャーンタラクシタは,クマーリラの批判に対する答えも用意しています.
  1. 2017/01/13(金) 07:04:28|
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ヴェーダの非人為性と一切智者の存在

どのような教理にも弱点というのはあります.

ミーマーンサーの弱点は,非人為の聖典,という点にあります.

ヴェーダ聖典は,人が作ったものではない,という主張です.

普通,テクストというのは,誰かが作ったものです.

しかし,ヴェーダというのは,代々伝承されてきたもので,誰かが作ったものではありません.

師から弟子へ,ずっと昔から伝承されてきたものです.

始まりはありません.

つまり永遠です.

神が作ったものでもありません.

ミーマーンサーでは,神による世界創造というものを認めません.

ヴェーダは永遠なのです.

このように非人為性ということを,聖典ヴェーダに関して主張するのが,ミーマーンサーです.

しかし,常識的に考えて,テクストというのは,誰かが作ったものです.

つまり,作者がいるはずです.

するとどうなるでしょう.

ダルマ・アダルマという善悪――宗教的な事柄――を説くヴェーダには作者がいる,ということになります.

そうすると,その作者は,ダルマ・アダルマについて,自分で知っていた,ということになります.

つまり,ダルマ・アダルマという宗教的な真理を知覚(直覚)できる人がいた,ということを認めることになってしまいます.

ヴェーダの非人為性ということを突き崩せば,自動的に,一切智者,或いは,ダルマ智者の存在を認めざるを得なくなるのです.
  1. 2017/01/12(木) 18:24:58|
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「陳那と法称における自証について」について

Ueda, Yoshifumi(上田 義文)
[1955]
「陳那と法称とにおける自証について」『東海仏教』1, 2--10.

[1957]
『大乗仏教思想の根本構造』,百華苑.

上田 1957: 192, n. 5に『集量論』1.10が引かれています.

しかし,yad ābhāsaṁ prameyaṁ tatとあります.

これだけで,このヴァースを正しく理解していないことがばれてしまいます.

正しくは,スペースなしの

yabhāsaṁ prameyaṁ tat

です.

男性名詞のābhāsaが,主格なのに中性で終わっているのを理解できてない時点で,このヴァースの理解は既に覚束ないでしょう.

学部レベルの引っかけ問題でよくあるように,言うまでもなくバフヴリーヒです.

隠れた中性主格のjñānamに係ります.

1950年代ですから,服部先生の偉大なHattori 1968は,まだ出ていません.

基本的な研究があるのとないのとでは大違いです.

Hattori 1968: 29:
k. 10. whatever the form in which it [viz., a cognition] appears,
that [form] is [recognized as] the object of cognition {prameya).



サンホセ州立大のコース教材なのでしょう,一部のPDFが上がっていました.

http://www.sjsu.edu/people/anand.vaidya/courses/c2/s0/Hattori-Dignaga-on-Perception-Examination.pdf
  1. 2017/01/12(木) 08:06:39|
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ジュニャーナシュリーの形象論

https://www.facebook.com/notes/buddhist-studies-at-mahidol/ratn%C4%81kara-readings-2017-j%C3%B1%C4%81na%C5%9Br%C4%ABmitras-s%C4%81k%C4%81rasiddhi%C5%9B%C4%81stra-with-prof-harunaga-isa/10155495438988032

3月にマヒドンで,ジュニャーナシュリーの有形象論を,ハルが読んでくれるそうです.

JNAの形象論は,最も難解なテクストのひとつでしょう.

テクストも写本ひとつなので,どこまで信用できるか分かりませんし.

貴重な機会になるのは間違いありません.
  1. 2017/01/12(木) 07:29:39|
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印哲新年会



クマールさんのマイティーガルにて。

卒論修論も無事提出。

教授からのお言葉は「今の時代はPDFで文献揃えられるので、昔みたいにコピーに膨大な時間を費やし高価な本を買って大量の本を常に抱えてカタツムリ生活しなくても、パソコン一台で身軽に自由に遊牧生活できるから、有意義に時間を使える今の学生は昔の三倍できるはず」というものでした。

教授の学生時代は、コピー機が導入したてのころ。

ある先輩は、(文献を読む暇もないくらいに)朝から晩まで,月に20万もコピーしてたそうです。

私も,基本文献を揃える段階にあった修士の頃は,文学部図書館の無風の書架で雑誌をあさり,汗だらだらたらしながらコピーしたのを想い出します.何冊も合冊で綴じた分厚い雑誌だと,よく押しつけないとコピーの真ん中が真っ黒になるので,力を入れないといけないのも,疲れる原因でした.

文献(複写)蒐集の修行は,その後,写本(複写)蒐集へとつながったので,辛い修行も忍辱波羅蜜に役に立ったと言えば役に立ちましたが,若い時の苦労,なければないに越したことはありません.読みたいと思って即PDFで読める今のほうが,よっぽどいいです.

修証一等と言いますが,果たして,コピー作務も悟りと相即するものなのでしょうか.澤木興道風に言えば「コピーする姿がそのまま尊い仏じゃ」!?
  1. 2017/01/11(水) 19:03:16|
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悟った状態で説法できるのか?

仏陀が悟った状態で,つまり,無分別知覚の状態で説法できるのか,という問題は,ミーマーンサー学者クマーリラの『ブリハットティーカー』に議論され,批判されています.それを受けてシャーンタラクシタも議論・反論しています.

昔の日本人も,別の文脈で,つまり,大日如来が法身で果たして説法できるのかどうか,というコンテクストで盛んに議論していたとのこと.

渡辺 新治 1998「自証説法について(II)」
『智山学報』61, 127-141


みんな,悩みどころは同じです.

言語を離れた悟りと,言語を用いた説法のギャップは,仏教の教理的弱点のひとつでしょう.

大日如来に不可能はないはずなので,「法身で説く」と言い切った方が潔いですが,それを言ってしまっては,理屈をこね回す教理家の仕事がなくなってしまいます.
  1. 2017/01/10(火) 19:13:16|
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しゅうりょう

「終了」と打ったつもりが「集量」と真っ先に変換されてしまいました。

うちのパソコン、病んでますね。(ちなみに、読み癖としては、集量=じゅうりょう)

頭の中も同様だとすると、はたしてこの先、世俗ヴィヤヴァハーラでやっていけるのでしょうか。

「自己認識」も、世間一般では、ディグナーガの言うような意味では使わないですし、、、、

唯識・仏教認識論をやりすぎると、世間の用語法から乖離して、「意味の分からないことを喋る人」になる危険があるかもです。
  1. 2017/01/09(月) 14:38:45|
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svasaṃvedya

原田和宗氏によれば,『ニヤーヤバーシャ』に見られるsvasaṃvedyaをディグナーガが自説の「自己認識」に巧く利用したとのこと.

さすが,鋭い指摘です.

原田和宗 1997
「愛欲などの自己認識」
『印度學佛教學研究』46-1,190-193.
https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/46/1/46_1_190/_pdf


個我の性質である楽・苦・欲などは,自内証です.各自,自分の心に問えば「ああ苦しい」という感覚があることは,他人に確かめるまでもなく分かります.各自自分で感じることのできるものです.そのことをNBhでは「自分で感じられるもの」と言っただけのことです.

しかし,これを厳密にとれば,ディグナーガが主張する認識の自証へとつながってしまいます.

ニヤーヤの言説をうまく利用して,彼らの無形象認識論とは逆の有形象認識論を主張するのに巧く利用したということになります.

ディグナーガ,お見事.

そして,決して自明ではないその経緯を感じとった原田氏の嗅覚は鋭い.

「愛欲などの自己認識」というディグナーガの一節から,そこに話が着地するとは,仏教内伝統で問題解決を図ろうとする研究者にとっては,予想外だったことでしょう.

含意を取れば「あなた自身,楽・苦・欲などを「自内証」と認めているんだから,知も自証されるということになりますよ」というわけです.
  1. 2017/01/09(月) 09:26:16|
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Ardhagiri South Indian Room

  1. 2017/01/08(日) 19:55:04|
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ardhajaratiiya


インドなのか中華なのか?
  1. 2017/01/05(木) 19:04:38|
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非カレーの排除



  1. 2017/01/05(木) 19:02:11|
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非カレー

  1. 2017/01/05(木) 19:00:20|
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適量

ハタヨーガ文献はヨーガの準備段階として様々なことを説いています.

その中に節食も言われています.

「カレーブロガー」と呼ばれるかたは,珍しいものを見てついつい注文しすぎたり,また,店をはしごしたりしてしまい、結果,食べ過ぎとなり、それが続くと身体の不調を来すことが多いそうです。

不要な外的欲求に突き動かされることなく,内的な自然欲求に従い,適量を食べるよう注意しないといけません.




婆羅門のサンスクリット学者(パンディット)は,原則ベジタリアンなので,日本人が持つステレオタイプのイメージからすると健康そうに思います.

しかし実際には,ほとんどの人が運動をせずに,油と砂糖を結構とるので,あまり,健康そうな人は見かけません.

たいがい,お腹ぽんぽんで,日本だったら,健康診断で別室に連れて行かれるタイプです.

つまり,「菜食だから健康である」という遍充関係には逸脱があります.(もちろん,これは,「非菜食だから健康である」を含意しません.)

  1. 2017/01/05(木) 18:53:00|
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ヨーガの和訳の向こう



佐保田鶴治の『ヨーガ根本教典』には『ヨーガスートラ』と『ハタヨーガプラディーピカー』の和訳が収録されています.

訳語もこなれており,一般読者が日本語で読むのに至極便利です.

しかし,こうした研究があるのも,さらにそれに先行する研究の積み重ねがあればこそです.

研究者一人で何も無いところから読みやすい和訳ができるわけではありません.

自分の目に見える結果だけを性急に求めるのは間違いです.

テクスト研究には,まず,写本蒐集という作業が必要です.(例えば写本調査に関するG. ビューラーの報告が参考になります.)

それらは,現在,インド各地の大学・図書館・研究所に保存されています.また,イギリスなどの海外の図書館にもあります.

誰かが何かを集めようと思ったから蒐集されたわけで,勝手に写本が集まってきたわけではありません.

あるいは,「家にあったから」という理由で売却・寄付され,労少なくして写本が集まってくる場合も,図書館側には,インド各地の文字で書かれた写本の奥書を読んで,カタログを作るという厄介な作業が必要となります.

そうして蒐集・整理された写本に基づいて,テクスト校訂が可能となります.(また,校訂者となる個人が各地の図書館を回って写本の複写を取得するに際しては,旅費・複写費など,それ相応の費用と時間とエネルギーとが必要となります.)

次に,出版されたエディションに基づいて,学術的に堅めの,専門家向けの翻訳や訳注研究が作られます.

英訳・独訳・仏訳などです。

ヨーガに関しても事情は同じです.

写本蒐集→テクスト校訂→専門家向けの訳注→読みやすい和訳

写本蒐集を更に溯れば,写本を書き写すという学問伝統保存の営為があったことも忘れてはなりません.

紙,貝葉,樺皮は決して安価ではなかったはずです.

テクストを書き写すというのは,財とエネルギーと時間を必要とする作業です.

また,教え教えられという知の伝承がそこに生きていたからこそ,そのテクストが選び取られ,書き残されたのです.

一般書として意識していたこともあるのでしょう,底本としたサンスクリット本のエディション情報や,参照した先行諸訳について,佐保田は(少なくとも私の持っている版では)書き残していません.

下流にいて,出版本やPDFコピーで楽に結果を享受している我々は,そのテクストがここに至った経緯に,時に,思いをはせる必要があります.
  1. 2017/01/01(日) 11:56:39|
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Love letter from Kāṇādāḥ



新年の朝,自己認識(自証, svasaṃvedana)についてあれこれと考えながら,昔の自分の論考でも読み返そうと思ってパソコンを開けると,アメリカからメール.

「刊本にはkāṇādāḥとあるけど,この読みはおかしいんじゃないか.写本があったらチェックしてくれないか」とのこと.

元旦の朝から,シャーラダーとマラヤーラム写本をひっくり返してチェック.

写本は二つとも,kāṇādāḥ.

写本を見る限りでは,刊本の読みは正しいようです.

すぐに返信.向こうからも即レス.まだ,アメリカは新年明けてないとのこと.

年をまたいでのメールのやりとりでした.
  1. 2017/01/01(日) 11:19:25|
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