

前回は揚げてない鶏だったので,今回は揚げ.
5バーツアップでした.
しかし,ノーマルについてくる肝二切れは付いてませんでした.
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- 2017/03/31(金) 22:08:56|
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垂れ目のお兄ちゃんが愛想よくて落ち着けます.
メニューにはないですが,みんなオムレツを頼んでいるので,試しに注文.
「ベーコン,チーズ,ハム,どれを入れるか」
と聞かれましたが,選ぶのも面倒なので
「全部」
にしました.
人柄そのままで優しい味,うまかったです.
- 2017/03/30(木) 19:33:57|
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グレッグが帰国するので,6人でディナー.
ベジタリアンのJ-Classというタイ料理屋.
大学でケータリングする際も,ここを使っているそうです.
確かに美味.
そして安い.
グレッグは,空港近くの温泉でぎりぎりまで粘ってから,飛行機に乗るのだそうです.
トルステンによると,こちらの大学の不便なところは,研究室が夜まで開いてないところ.
夕方になるとすぐに追い出されるそうです.
「ハンブルクだと午前の1時までいたのに」
「日本人は,自分が帰った後も,まだ居残っていた」
ハンブルクに今残っている日本人で思い付くのはH君くらいです.
「H?」
と聞くと,ランカアヴァターラ校訂中の日本人だとのこと.
というわけで,H確定.頑張っている様子です.
- 2017/03/30(木) 19:16:05|
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MAVのサンスクリットがないのが非常に残念です.
護山 2011は,冒頭から
「間違った構想作用」(abhūtaparikalpa)
と,間違ってしまっています.タトプルシャで解釈して「非実在を構想する作用」とでも表現しておくべきでした.
tādātmyaとtadutpattiで自己認識と推論とを振り分けるというラトナーカラシャーンティの見方は,面白い見方です.
護山 2011: 474: 「「欺きのないこと」を同一性・因果性いずれかの結合関係として定義し,自己認識と推理のそれぞれに振り分けていること」
護山氏は,それ以上論じていませんが,私が思うに,つまりは,独自相を直接に知る知覚と,独自相を間接的に知る推理というような二項対立でラトナーカラシャーンティは考えていることになるでしょう.(同一視・実体視であるadhyavasāyaが結果的にOKなのはこのtadutpattiがあるおかげです.)
共通相-----------------推理
|tadutpatti
独自相1----------------知覚
tādātmya
ここで言う独自相というのは,白という現れのことであって,外界対象ではありません.
だから,「それを本体とする」つまり「プラカーシャを本体とする」のです.同体です.
この独自相に因果関係を通じて拘束されているものが共通相です.
この時,推理は「山に火1がないわけではない」という仕方(ayogavyavaccheda,結合の無の排除)で,独自相に関する新たな情報を伝えてくれます.
推理がもつ確定niścayaの働きというのは,samāropavyavacchedaですから,この場合は,「山に火1がない」という誤った考えを排除してくれます.そして,知覚判断や正しい想起(いずれも欺くことがない)とは違って,この情報は新規だと考えているようです.
とすると,知覚判断が持つsamāropavivekaについては既知情報に関わるということになるのでしょうか.恐らくそうでしょう.(青でないことはない,ということは,既に新得経験の知覚の段階で分かっていることでしょう.)
ここらへんは,中須賀さんに聞いてみないといけません.
ただし,以前から思っていましたが,samāropavyavacchedaに対してsamāropavivekaとあるので,いずれも行為を指しているとするのが自然なので,付託の排除,に対して,付託の識別,というのを意味するのがvivekaだと思われます.中須賀さんは,欠如,という意味を考えていますが,その欠如,すなわち,無の再確認,という意味で,ダルマキールティは,vivekaという語を用いているのではないでしょうか.vivekaを欠如とすると,samāropavyavacchedaのほうが付託の排除という行為で,samāropavivekaのほうは付託の欠如ということになり,バランスを欠いてしまいます.私としては,以下のように整理したいところです.
1.推論の働きsamāropavyavaccheda付託の排除
「火が無いことはない」(未知)
2.知覚判断の働きsamāropaviveka付託の識別(=付託の無の再確認)
「青でないことはない」(先行知覚により既知)
tadutpattiの例である火と煙の因果関係からも分かるように,通常,プラマーナ論は,外界対象の存在を前提としています.
したがって,外界対象の存在を認めない唯識の場合,通常の意味での客観的な因果関係を,認識の現れという独自相間の関係に置き換えて考えないといけなくなります.
つまり,独自相としての現れの間の関係によって,プラマーナ論を再構築し直す必要が生じてきます.
全体として,「唯識目線から見た世俗プラマーナの再構築」ということがラトナーカラシャーンティの念頭にあるのでしょう.
- 2017/03/29(水) 19:44:04|
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壁一面に飾られたメニューを指さしで頼んだところ,ゆでおきのゆるゆるのびのび麺を調理したかのような超柔い焼き太麺が出てきました.
博多やわやわうどんに慣れると,これもまた美味いと思えてきます.
- 2017/03/29(水) 19:10:42|
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sākārasagdhiと称して夕食会.
形象軍団12名.
張本さんと歩いて早く到着したので,「マティア」という名前で予約があるかどうかを店主に尋ねたところ,「ああ,これこれ」と示されたテーブルの上の予約名が「Sakaya」でした.
日本人グループ,あるいは,酒屋さんでしょうか.
ともあれ座って待つことに.
結局,マティアは,サーカーラサグディという名前で予約していたようで,それを,店の人がSakayaと表記していたようです.
ちなみに,この中華料理屋の和成豊,グレッグによると,タクシーの運チャンに「ワセホン」と言っても通じないそうです.
なぜかタイ語では,「ワホンセ」と順序が入れ替わっているとのこと.
最後にマティア持ち込みのチョコレートケーキ(つまりザッハートルテ)がデザートとして登場.
ハルが,発動対象としてチョコレートケーキを例に出すことから,わざわざ持ち込んだそうです.
わたしは,その前にパフェを食べていたので,ケーキに対する発動が起こりませんでした.
起こったのは,無関心(upekṣā).
ちょうど数が一個たりなかったので,隣のデーヴィーにパス.
ビアシンを頼むと,氷一杯のグラスに注いでくれました.
そして,グラス半分に減る前に,店の人がすかさず注ぎ足しに来ます.
エンドレスのアナヴァスター.
しかし,氷のせいで,ほとんど酔いません.
- 2017/03/29(水) 07:13:44|
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[形象1(実在)←新得経験1]
⇒判断1
⇒[外界対象1←発動1]
新得経験が或る特定の形象1(認識と同体のものとして実在である)を持つとき,特定性を持つに至ります.
それに応じた判断1が生じます.
そして,それに応じた発動1が生じます.
こうして,特定対象1が獲得されることになります.
このように,形象を実在と考える場合にのみ,発動の入り乱れが回避されます.
つまり,整合性・規則性が保たれます.
例えば,青という外界対象は,黄とは異なる特殊性を持っています.
この特殊性のおかげで,それぞれの働きは異なるわけです.
つまり,青は青の認識を生み出しますが,黄の認識を生み出すことはありません.
実在には,このような特殊性・特定性があるのです.
青⇒青の認識
したがって,形象を実在と考えることは,この特定性・違いを説明するのに本質的なことです.
いっぽう,形象虚偽論のように,形象を虚偽としたらどうなるでしょうか.
SSS: また,形象が非実在である場合には,水の認識と炎の認識との間に何の違いもなくなってしまうので,水の新得経験からでも,炎の分別があることになってしまう.同様に,炎の分別から,飲みたい人・浸かりたい人が発動することになってしまうだろう.しかし[現実には],[水を]飲みたい人は,「ここに火がある」と思って,発動するわけではない.
[虚偽形象1(非実在)←新得経験1「*水!」]
⇒判断2「火だ」
⇒[外界対象1←発動1]
この場合,出発点である実在(形象)の特定性がありませんから,何でもありになってしまいます.
つまり,水の新得経験から水の分別があるのと同様に,水の新得経験から火の分別があってもよいのです.
なぜなら,見えているのは実在ではなく非実在なので,特殊性を持ち得ないからです.
無の上に区別を設けて,それによって,新得経験に特殊性があると考えることはできないのです.
水の新得経験⇒火の分別⇒水への発動
結果として,形象虚偽論では,発動の入り交じりが帰結してしまいます.
「ここに火がある」と思ってプールに飛び込むことになるのです.
虚偽形象Aと虚偽形象Bの違いというものが,そもそも存在しえないのですから,特定性を継承していくことがありえないわけです.
顔無しAと顔無しBとを描き分けろ,といっても,難しいのと同じです.
机の上における壺の非存在とリンゴの非存在とを描き分けることはできません.
虚偽形象Aと虚偽形象Bとは,新得経験Aと新得経験Bとに違いを生み出し得ないのです.なぜなら非実在だから.つまり,働きを持たないから.
もちろん,唯識であれば,青というのも,外にある青ではなく,特定の潜在余力Aによって生み出された青の形象ということになるでしょう.
いずれにせよ,特定の働きを持つものは,実在でなければならないというのが,形象真実論が形象虚偽論に対して行ったここでの批判です.
しかし,冷静に考えると,実在性を全く欠いた虚像であっても,立派に特定の働きを持ちうると思いますけど...
ややこしいこと言わずとも,形象虚偽論でいいでしょう,という気がします.
- 2017/03/28(火) 20:59:55|
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ラテアートの非存在に限定された無地カプチーノも久々です.
風間俊介似のお兄ちゃんも相変わらず.
参加者の一部は,形象論のやりすぎで,aelikaカフェのことを,アリーカカフェと称しています.
- 2017/03/28(火) 19:09:33|
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水が見えています.
しかし,錯誤の場合,実際に見ているのは逃げ水という影像・形象であって,水というリアルな外界対象ではありません.
つまり,実際に把捉しているのは,認識内の形象,あるいは,虚像であって,外界の水ではありません.
ダルマキールティは,錯誤の一種である判断を「ひとつにすること」と説明します.
つまり,認識内形象を水だと思い込むこと,同一視が彼にとっての「ひとつにすること」,すなわち,判断です.
二つを一つにすること,これは,非XをXと思い込む,水でないものを水を思い込む,というように錯誤を説明する形象真実論の錯誤理解では,簡単に説明がつきます.
しかし,一階建ての単純構造,すなわち,aaropaを単なる虚構と考え,それを錯誤とする形象虚偽論では,説明が困難となります.
Jはここを突いてきます.
ラトナーカラシャーンティよ,君にとって,一つにすることとは何なのか,と.
もしも,ラトナーカラシャーンティが,物理的に一つにすることだ,と答えたとしたら,次のような問題が生じます.(実際には,ラトナーカラシャーンティがそのように答えることはありえませんが,仮にの話です.そして,この批判方法は,ダルモッタラにあるものと同じものです.)
虚偽のものというのは,因果関係上に入るものではありえません.
虚偽のものというのは,無のことであって,それは要するに,絶対無と同じだ,とジュニャーナシュリーは考えます.(もちろん,ラトナーカラシャーンティにとって,両者には違いがあります.牛性と兎角とは,性質を異にします.牛性は現れますが,兎角は現れません.)
兎角という絶対無は因果関係上に入ることがありません.すなわち,兎角には原因がありません.(? ⇒ 兎角)
同様に,虚偽のもの,虚構されたものは,無である以上,原因を持ち得ません.(
原因 ⇒ 虚偽のもの)
したがって,二つのものが物理的に一つとなった結果として,虚偽のものがあるというのは,間違いということになります.
SSS: もしも,一つになることを引き起こすこと[が,一つにすること]だ,と言うならば,虚構されるものと虚構対象(虚構の土台)とは,「或る時に一つになること」がないので,[物理的に二つのものが一つになることは]全く不可能である.というのも,兎角に原因は何もないからである.
このJの議論は,兎角が絶対無の例として引かれること,そして,形象虚偽論すなわちasatkhyaati説の無asatがしばしば,絶対無atyanta-asatと同じと見なされた上で批判されるという錯誤論の議論パターンを知ってないと理解困難でしょう.
原因 結果
虚構されるもの(水)+虚構の土台(逃げ水) ⇒ 虚偽のもの
? ⇒ 兎角
- 2017/03/28(火) 19:05:58|
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大乗の仏菩薩の重要な特徴に「方便に巧み」(善巧方便)というのがありますが,ハルの教え方は本当に上手です.
独覚・声聞レベルだと,所知障が残るので,教えの巧さまでは,マスターしていません.
- 2017/03/28(火) 12:42:55|
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バンディットハウスからバスでキャンパスへ.
3個目あたりの停留所.
人文と社会学の棟.
今回は3階の部屋.
下では,社会学が,何かのワークショップでしょうか,朝から美味しそうな食事を用意していました.
- 2017/03/28(火) 12:37:07|
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1.無形象説
ニヤーヤ,ヴァイシェーシカ,ミーマーンサー
有部
2.有形象説
2.1.形象虚偽論(無相,無形象説)
2.2.形象真実論(有相,有形象説)
鏡像や水面に映った反射像のような行相(アーカーラ)を考えている有部をどうするかは議論が分かれるところでしょうし,実際,有部の中も色々なのでしょうが,ひとまず,後代の理解にしたがって,いわゆる無形象説(1)のほうに分類しておきます.行相は智(プラジュニャー)の中にあるというよりは,「行相は智である」というように,智そのものに還元されるので,「認識内に行相がある」あるいは「認識が行相を持つ」という言い方はしっくりこないように思います.
無形象ニラーカーラ,有形象サーカーラという言い方は,二箇所に出てくるので,最初はとまどってしまいますが,文脈で,すぐに分かります.インド人著者の中で混乱はありません.
ややこしいので,虚偽アリーカ,真実サティヤという対立図式を用いるほうが無用な混乱がありません.
形象虚偽論において,形象は虚偽なので,形象は非有(無)アサット,したがって無形象ということになるので,「無形象」という名は,ちゃんと実を表しています.
解脱時には,形象が完全にないわけで,プラカーシャしか残りませんから,無形象の正体がはっきりと分かります.
解脱するまでは虚偽の形象が現れているので,「現れているけど非有(無)」ということになるので,虚偽とするわけです.(もちろん,有形象論者からすれば,「現れているけど無」というのはナンセンスです.)
牛性みたいに,実体としては無いけれども,現れだけはあるわけです.(夢に登場する影像も,現れているけど無です.)
それは青等の知覚対象についても同様だというのが,形象虚偽論者の主張です.
虚偽の形象が現れていて,その虚偽の形象は,解脱時には完全に雲散霧消してしまいます.
これに対して,解脱時でもきれいな形象(プラカーシャと同体)が残ると考えるのが有形象説です.
認識と同体ですから,当然,形象も残るわけです.この意味で形象は真実です.
形象=プラカーシャ
このプラカーシャと同体である形象の上に外界対象を付託するから誤りが起こるだけです.
アーローパ(でっちあげ)は混乱しますが,形象虚偽論と形象真実論では意味が違うので注意が必要です.(というのが,再三の私の主張です.)
形象虚偽論に於いては,つまるところ,概念構想・分別・遍計などのヴィカルパ,パリカルパと同義で,要するに,虚構することです.つまり,単純に「でっちあげること」「虚構すること」です.
これに対して,ジュニャーナシュリー自身が自説で理解するアーローパは,いわゆるアディアーローパ(~の上に載せる)で付託の意味です.スーパーインポジションです.つまり,Xの上に非Xを載せる,という二階建てで理解される錯誤(ブラーンティ,ブラマ,ヴィブラマ)です.
外界対象
|
形象=プラカーシャ
プラカーシャと同体である形象(現れている形象)の上に外界対象を「載せること」が形象真実論におけるアーローパ(付託)です.
また,ジュニャーナシュリーが第二章の最後の方でも注意を促していますが,両説では,プラカーシャの語義解釈が異なります.
真実論ではプラカーシャは現れ出す主体です.つまり,形象に他なりません.“prakāśate” iti prakāśa ākāra eva.
虚偽論ではプラカーシャは現れ出すという行為です.prakāśanaṃ parakāśa iti.
つまり,形象が現れ出すという行為(あるいは事象)です.
要するに,「現れ」といっても,現れているものなのか,あるいは,現れることなのか,という違いです.
形象真実論では,現れているものがそのままプラカーシャであり,それが最後まで残るのは当然です.
いっぽう形象虚偽論では,プラカーシャという輝きだけが残り,形象はなくなります.そこに現れているものは無いわけです.現れるものなくして現れることだけがある,という状態です.
以上,この二説の対立だけを論じてきましたが,マンダナミシュラが整理したように,より広く錯誤論という文脈で形象論は捉え直す必要があります.
つまり,形象論は,広義の錯誤論に包括されます.
我々の全ての計らいが誤りである以上,錯誤論の守備範囲は,単に「蛇縄」「貝銀」といった狭義の錯誤に終わるわけではないのです.
ちなみに,張本さん,ホースを蛇と間違えるのではなく,蛇をホースと間違えたそうです.
- 2017/03/28(火) 07:48:35|
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休憩中。
あと、ワンセッションで第二章、終わりそうです。
さすが、ハル。
- 2017/03/27(月) 17:00:14|
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ということをジュニャーナシュリーは述べています.
「顛倒に安んじる以上の者は真のヨーガーチャーラには非ず」だそうです.
「なんとかは仏教にあらず」と同様,この時代も議論で盛り上がっていたようです.
- 2017/03/27(月) 09:00:40|
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この時代,結構,充実しています.
まず,わたしがずっとやってきたジャヤンタ.
アレッサンドロのまとまった研究も出て,かなりやりやすくなりました.
資料の全体が見えているので,これからは,迷うことがありません.
実際,これからやろうという若手も各地に増えています.
時間はかかりますが,流れは,いったんできると,変化が早いように思います.
同じく,ラトナーカラシャーンティ,ジュニャーナシュリー(J),ラトナキールティ.
Jはサンスクリットが難しく,テクストの悪さもあったでしょうが,頼りなしに挑む人が少ない文献でした.
無酸素単独登頂みたいな感じです.
しかし,徐々にここらへんをやろうという人も増えてきています.
今回のマヒドンでの読書会,JのSSS.
Jの中でも特に難解とされています.
桂先生も昔,何度か読み通そうと挑戦されたそうですが,途中で挫折されたとのこと.
今回の読書会では,院生が写本も予め照合してくれているので,かなり前進しています.
写本から見ると,やはり,現行のエディションでは,ちょこちょこと違うので,それが全体像をぼやかしてしまい,ついには読者を挫折に追い込むのも無理はありません.
しかし,ちゃんとしたエディションを一旦見てしまえば,実際,それほど読みづらいわけでもありません.
もちろん,ラトナーカラシャーンティのPPUみたいに誰にでも分かるように書いているわけではありませんが.
やはり,写本チェックというのは,この手の文献を読む際には欠かせません.
アポーハ関連でやらざるをえなくなったスチャリタミシュラもこの時代です.
ヴァーチャスもいますし,また,バーサルヴァジュニャもいます.
あれこれと横の交錯関係を気にしながら研究するには,非常に面白い時代です.
魅力的な分野であるのは間違いありません.
それに,一緒に読んでくれる仲間がいるというのは,非常に幸せなことです.
この時代の前後,ぱっと思い付くだけでも,魅力的な著者たちがひしめいています.
シャーリカナータ
ジャヤンタ
スチャリタ
ヴァーチャスパティ
ラトナーカラシャーンティ
ジュニャーナシュリー
ラトナキールティ
これに,ヴィヨーマシヴァ,バーサルヴァジュニャも入ります.
シャイヴァや(仏教の)密教も入れると人がいすぎて大変なことになります.
- 2017/03/27(月) 01:37:36|
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タイ首都のバンコクだと最近は何かと物価も高くて,万能感も薄れます.
が,郊外のサラヤ市だと,「安い」という感じが未だ濃厚.
最近のインド都市部とか,物価もあがってきて,激安感がなくなってきたのも事実.
欧米に留学すると若干卑屈な根性になったりするのは,物価高から来る無力感や劣等感も関係あるのじゃないかと邪推.
特に金のない学生時分は,そうじゃないでしょうか.
欧米留学のひとつの短所は,物価が高いところ.
逆に長所は,システムがしっかりしているので,ついた当日からちゃんと机に向かって勉強できるところ.
台所用品一式まで揃えて貸してくれるのには驚きました.
逆に,アジア留学のひとつの短所は,システムのいい加減さ.
生活リズムに順応するのが大変.
ついてしばらくは勉強できません.
インドについて「あー,勉強できるなー」と実感したのは,ついて10ヶ月ほどしてからでした.
最初の数ヶ月は生活レベルの戦いです.
しかし,金はかからない.
その点では,心がせせこましくならないで済みます.
二項対立図式なので,一部,単純に理想化してますので,いくらでも例外はあるでしょうけど.
- 2017/03/26(日) 21:19:45|
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日本のC大に続いて,K大も,学部生向けの,マヒドン大短期研修をやっているそうです.
学部生を連れてきて,短期間,海外で英語の授業を受けさせるという例の制度です.
馬鹿高い欧米でなくても,安い価格で英語研修ができるので,マヒドン大はお薦めです.
気候も暖かくて南国気分も味わえますし.
- 2017/03/26(日) 21:17:42|
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ハルと喫茶.
その後,彼は,博論指導.
カフェレストラン「アンヤ」,サンスクリット学者には覚えやすい名前です.
- 2017/03/26(日) 19:11:33|
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サラヤに到着.
張本さんと,コンド前の屋台村で夕食.
タイは福岡からだと直行便が飛んでいるので便利です.
空港⇒電車二回乗り換えでバンワー⇒タクシーでサラヤ
で到着できます.
6時前に着くかと思いきや,ちょうど道が混んでいて,サラヤに着いたのは6時過ぎでした.
door to doorで,10時間ほど.
空港からタクシーなら,もっと短いでしょう.
- 2017/03/26(日) 18:03:32|
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青などの輝き出し.
つまり,青などが現に輝き出しています.
ここから言えるのは,青が輝き出しを体としているということ,すなわち,同体性です.
青は輝き出しから別体ではありません.
別体であれば青などは輝き出し得ないからです.
同体であるものだけが輝き出し得ます.
と聞くと,では,青などと輝き出しは完全に同体なので,形象虚偽論における形象の虚偽性と,輝き出しの真実性とは,どう処理するのか,という疑問が生じてきます.
ここからが形象真実論と形象虚偽論の分かれ目となります.
すなわち,形象虚偽論においては,同体性すらも虚構されたものでしかありません.
青などは虚構されたものであり,いっぽう,輝き出しは虚構されていない実在です.
このようにして,虚構物性と非虚構物性とが同一認識の上に同居することが無矛盾で処理できる,というのが形象虚偽論の肝です.
ジュニャーナシュリーミトラの書き方だと,ラトナーカラシャーンティの最後の最後の肝である同体性の虚構性が明示的に示されておらず,既知なるものであるかのようにうっすらと触れられ,そして,出発点を隠したまま,議論が為されているので,読者は,おそらく何のことだか分からないでしょう.(要するに,不案内な読者に分かるような書き方はしていない,ということです.)
PPUを読まずに,SSSだけを読んで,この背景を理解しろ,というほうが無理というものです.
コーヒー屋でグレッグがあれこれと彼独自の理解を喋ってくれましたが,どうも,このあたりを完全に取り損なっている様子でした.
ここさえクリアーしてしまえば,形象虚偽論と形象真実論の違いについて大きく外すことはないでしょう.
チベット訳だけで分かれ,というのも,かなり難しいような気がします.
チベットに基づく先行研究は,どれほど理解していたのでしょうか? 要確認.
護山2011は,正確です.
護山真也 2011: 473, n. 5): 「ただし,形象虚偽論の立場からは,この同一性とは「虚偽の同一性」とも呼ばれるものであり,形象真実論のように,形象と認識とが完全に同一であることを述べているわけではない.」
先行研究に護山氏自身の台湾での発表しか挙げてませんから,この点に関して,代表的な先行研究はないのかもしれません.
- 2017/03/25(土) 20:37:13|
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最近手伝い始めた息子さん作のローティー.うまいです.
- 2017/03/22(水) 20:58:52|
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夏のトロントIABSの予行演習として龍大桂研にて発表.
PPUの外道批判の箇所について,すなわち,ラトナーカラシャーンティが他学派(三学派)のprakasa説を批判する箇所について,内容を分析したもの.
プラカーシャ,すなわち,知られた性・認識対象性・明瞭性などと呼ばれるものを,認識活動の結果として認識対象の上に生まれる属性とするのがバッタ派です.すなわち,輝き出しは対象の属性です.
プラカーシャというものを別個に立てることなく,認識の生起をもってプラカーシャと見なすのがニヤーヤ学派.アートマンの性質である認識の生起がプラカーシャであり,何か別にプラカーシャなるものがあるわけではありません.
有情であるアートマンの属性であるプラカーシャ(光)が無情な対象と接触することで対象が輝き出す(輝き出させられる)とするのが「他の人」(apara).ここでは主体の属性として光が考えられています.(イメージすると提灯あんこうみたいなものでしょうか!)

最後のは,主にプラバーカラ派を念頭に置いているのでしょう.
以上が,ラトナーカラによる敵説の記述.
もちろん,無相唯識のラトナーカラから見れば,いずれも間違いです.
なお,現代科学的に一番ましなのは,ニヤーヤ学派でしょう.
【PPU集中研究会】
03/21(火)13:00-17:00(清風館3F共同研究室1・2)
片岡啓 "Ratnakarasanti on prakasa"
+PPU読書会
03/22(水)10:00-17:00(清風館3F共同研究室1・2)
早島慧「Prajnaparamitopadesaにおける三性説」
西山亮「『般若波羅蜜多論』における中観思想」
+PPU読書会
- 2017/03/21(火) 22:51:17|
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オープン当初よりホールで頑張っていたTさんが辞められたようです。
インド料理屋,ネパール料理屋は,ホールの人のキャラクターと日本語能力(コミュニケーション能力)で,えらく雰囲気が変わります.
基本,お喋りに越したことはないでしょう.
福岡で有名なインド・ネパール料理屋も,いずれも,日本語に堪能な名物オーナーがいるからこそ,という側面も多々有り.
スラージのパチャールさん然り,前サーガルのループさん然り.
どまどまのスシルさん.そして,前のサティーのハリさん(今はバジェコセクワハウス).
いずれも,驚くべき日本語能力、そして,客とのコミュニケーション能力の高さです。
ザエカのアリさんの場合は,コミュニケーションの域を超えて,アリ師匠の落語でも聞かせて貰うといった感じです.
海外で成功するのに言語(会話)能力の高さというのは重要です.
- 2017/03/21(火) 19:57:31|
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90年代のインド料理屋といえば,高級なものでした.
麹町アジャンタなどは敷居,というか,値段が高くて,おいそれと行けるところではありませんでした.
ランク一つ下のサムラートやラージマハールといえども,夜となると結構な値段がしました.
院生風情では,せいぜいランチのお得なセットが精一杯.
新宿,六本木,上野,いずれも中心の良い場所に出店していました.
赤坂のタージといった,インド人趣味の重厚・薄暗のインド料理屋が,「いかにも」という感じのインド料理屋の姿でした.
それがじわじわと価格破壊で値段が下がり,サムラートまでもが低価格のこじんまりとした店を出店.
ラーメン屋みたいな仕様でカレーを出すようになりました.
そして,あちこちに,安いインド料理屋が林立.
注釈なしで「ナン」という言葉が通用するようになります.
やはり,値段が安くなると皆行く。
ラーメン同様,手の届く範囲のB級グルメに,いわゆる日本のカレー(本郷で言うとルオーや万定)や欧風カレー(プティフ)だけじゃなく,インドカレー・インド料理も入ってきた,ということでしょう.
北インドが徐々に数を増やす――例えば(株)チョティワラのグルガオンが1994年,パキスタン系のシディーク一号店は1997年オープン――いっぽうで,ひっそりと南インドも出始めていました.
東中野のカレーリーフ(1996年オープン)も最初はかなり苦労していた様子でした.
ナンは南インドのカレーには合いません,と最初は頑張っていましたが,途中から普通にナンも出していました.
インド料理といえばナンを食べに来る人が大半ですから,やはり,ナン押しでないインド料理となると一般の人には理解不能なのでしょう.
餃子やチャーハンのない中華料理屋ぐらい不思議と思われても仕方ないでしょう.
にしても,最初の最初から,ワイン押しだった一貫性は素晴らしい.ぶれてません.
巣鴨プリズンのあった東池袋というエリアにAラージ(2003年開店)が出来たのも驚きでした.(2003年と言えば,チョティワラのダバインディアも2003年オープン.こちらはど真ん中の八重洲・京橋)
賃料の安いところに,他店から独立したインド人コックが出すという例の先駆けかもしれません.
近所の大勝軒と同じ,エリア選ばず,味が良ければ好きな人は来る,ということなのでしょう.
かなり遅れて福岡.
アンマー(2009年オープン)も,スペースの関係上,せっかくインドから持ってきた釜は中には置けず.
結局,ナンは出していませんでした.
マドラスの上品なサンバルとラッサムでしたが,西新ちかくの城西エリア,いきなり日本人が理解するには厳しかったかもしれません.
地元テレビでの紹介のされ方も,「インド料理といえば,ナンですよね」という乗りからくるギャップを埋めきれてない残念な感じがありありでした.(今見返しても,最初のコックさんのオープン当初のメニューは素晴らしい.つくづく残念です.)
宗教と同じで,人の期待に応える,というのは重要です.
歴史が教えるところによれば,期待に添わない宗教は滅びるのみ,ということでしょう.
仏教の密教化というのは,そういう文脈で捉えるべきだと思います.
女・子供・病人も,お金さえ払って儀礼をしてもらえば,お手軽に解脱が保証されるというシステムは,やはり魅力的でしょう.
106福岡(2015年オープン)は,プティ高級化路線で,内装も綺麗にしています.場所もど真ん中の便利なところ.
路線としては,八重洲ダバインディアあたりを成功モデルとして意識しているのでしょうか.
ダバよろしく,壁がブルーで落ち着くという点では,大名サーガルが内装は良い感じだったのですが,店主も変わってしまい,最近は足が遠のいてしまいました.
亜橋のチーズナンに象徴されるいわゆる北インド,ツナパハに代表されるスリランカ,106の南インド,ザエカやマルハバのパキスタン,ソルマリやナングロのネパール料理.そして,スパイスロードの高田さんの影響を(何らかの形で)受けた日本人作のスパイスカリーあり.福岡は福岡で,かなり独自の変化を遂げているような気がします.
- 2017/03/20(月) 19:26:12|
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