Pratibhanusarini --- 九州インド哲学ブログ2

On Indian Philosophy and Buddhist Studies

Flea Market at Gokoku Jinja, etc.








蚤の市,春好夜市にて.

カレチネ,養生カレー,スパイスロード,マルハバ.

インド映画(Hal Girlfriend)鑑賞の後,

山口夫妻とKashiiのスリランカ料理Osuasiri.

アーユルヴェーダの癒やしを謳う店ですが,どう見ても,店のスリランカ人スタッフが一番疲れ切っていました.

Half Girlfriendは,Five Point Someoneで有名なチェータン・バガットの同名小説の映画化.

都会の大学生恋愛物,そして,金持ちお嬢様登場というのは,インド映画における定番中の定番です.

Śraddhā Kapūr演じるヒロイン登場から時ならぬ雨に濡れてくれて,感謝です.

一つ違うのが,ビハール出身の英語下手なヒーローという点.

英語とヒンディー語の間を行き来するベストセラー英語作家の原作者(Chetan Bhagat)自身が関心あるテーマでもあるのでしょう.

日本語字幕も親切についていましたが,最後のほうは,かなり雑になっていて,男女言葉(俺→わたし)は入れ替わるわ,変換ミス(昨日→機能)は多発するわ,そっちのほうが気になってしまいました.きっと締め切りに追われていたのでしょう.

映画を見る暇なく,英語スクリプトから直接日本語に訳したのでしょう,ヒンディー語のカタカナ化は,結構適当でした.

マーダヴ(Mādhav)がマドー,パトナ(Patna)がパタンなど.

マーダヴ・ジャー(Mādhav Jhā)が主人公の名前です.

ジャーと聞けば,ガンガーナート・ジャーよろしく,一発でビハールあたりの出身と分かりますが,そこも英語のJhaを見たのでしょうか,ジャハと翻字されていました.

字幕作成は,やはり,英語世界中心に回っているということなのでしょう.

主役のArjun Kapūrは,もっさりして熊みたいです.
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  1. 2017/05/20(土) 22:25:18|
  2. 未分類

シヴァ教再認識における時間

PVも注釈関係が大概ややこしいので閉口しますが,またまたややこしいのがシャイヴァ一元論の再認識派の文献です.

ウトパラデーヴァは,まず,主宰神再認識詩節を著わします.

そして,その上に,ヴリッティとヴィヴリティとを著わします.

ややこしいので,川尻さんに沿って,註と詳注としておきましょう.

詩節と詳註のそれぞれに,アビナヴァグプタの注釈があります.

IPK   IPV
Vrtti
Vivrti  IPVV

今回の読書会では,イザベルが回収したヴィヴリティを読み合わせしました.

ヴィヴリティは原典が失われていますが,写本や欄外註からの一部回収が可能です.

本当に一部ですが.

そして,トレッラ教授の画期的な研究に続いて,欄外註を駆使した川尻,そして,イザベルの研究が続いています.

また,再構成にあたっては,当然,アビナヴァのプラティーカがヒントになりますので,そちらも根拠資料となります.

後代の文献よろしく,コンパウンドが長かったりしますが,神学文献ですから,意外にすんなり読めます.

最終的にはシヴァ一元なので,大筋を間違うことはありません.

今回は,時間について.

時間というのは,つまり,順序ということで,区別を前提としたものですが,それも,シヴァが現わし出したものに他なりません.

つまり,一者でありながらかつ多様であるというのは,シヴァという認識においてのみ可能なのです.

通常,一と他とは矛盾します.

つまり,別であれば一でありえません.

しかし,認識上においては,ダルマキールティの多様不二一元のプラカーシャ論と同様に,多様でありかつ不二であるということが同居可能です.

この唯識理論を援用しながら,ウトパラとアビナヴァは,シヴァ一元論を時間についても主張します.

ここで重要なのは,別(bheda)といっても,ここでは,あくまでも,現れ(avabhāsa)の別なのであって,オントロジカルに別なわけではないということです.

現象的多様性という区別は一元論と矛盾しないのです.

アビナヴァが,援用資料としてダルマキールティを引いてくるのは面白いところです.

唯識が再認識派のベースになっていることが分かります.
  1. 2017/05/20(土) 12:32:09|
  2. 未分類

PVの章の順序

イェールの読書会では,フランコ教授持参のヤマーリ註原典を皆で読みました.

取り上げたのはPVの章の順序に関わる記述.

PVの章の順序については,まず,フラウワルナーの研究があります.

また,チベット資料に基づく木村誠司,最近では,ヤマーリのチベット訳を用いた小野基,ケルナーによる論文があります.

そのヤマーリのサンスクリット原典を校訂しつつあるのがライプチッヒのグループ.

フランコ教授の指導下,二人が校訂されているところです.

日本からは松岡さんが同時平行で翻訳作業に取り組まれています.

さて,問題となるのは二つ.

1.PVはPSの注釈かどうか.
2.PVの章の順序はいずれが正しいのか.

ということです.

周知のように,それぞれについて,二つの立場が可能です.(自己のための推論,プラマーナシッディ,知覚,他者のための推論)

1-1.PVはPSの注釈である
1-2.PVはPSの注釈ではない
2-1.自推→プラ→知覚→他推
2-2.プラ→知覚→自推→他推

問題の発端は,ダルマキールティです.

PVには,自己のための推論だけに自注があります.

自推→プラ→知覚→他推
自注

他の章には書かれていません.

そして,フラウワルナーが推測したように,この順序でダルマキールティは著わしたのでしょう.

しかし,問題は,この順序が注釈作のPSとずれる,ということです.

PSに従うなら,

プラ→知覚→自推→他推

とならなければなりません.

ダルマキールティに近い注釈家であるデーヴェーンドラブッディやシャーキャブッディは,PVオリジナルと思われる順序に当然したがっています.

そして,ダルマキールティの欠を埋めるように注釈を残しています.

自推→プラ→知覚→他推
自注  デー デー  デー
シャー シャー シャー シャー

デーヴェーンドラブッディは,残り三つの章に.

そして,シャーキャブッディは,全体に更に注釈を書いています.

順序がずれるにもかかわらず,デーヴェーンドラブッディは,PVをPSの注釈だと考えています.

これにたいしてプラジュニャーカラグプタは,章の順序をPSに沿って変えます.

そして,自注以外の残り三つにバーシャを著わします.

プラ→知覚→自推→他推
Bh   Bh   自注  Bh

そのバーシャの上に注釈を著わしたのがジャヤンタであり,また,ジャヤンタを批判しながら別の注釈を著わしたのがヤマーリです.

ジャヤンタは,プラジュニャーカラが意図したであろうこの順序を堅持します.

そして,「デーヴェーンドラは,この順序について間違った」と明言します.

このジャヤンタの見方を批判するのがヤマーリです.

ヤマーリの見解は驚くべきものです.

まず,そもそもPVはPSの注釈ではない,と言い切ります.(仏説への注釈だと言います.)

これにより,PSの章順とPVの章順との食い違いが一気に解消されます.

つまり,PV章の並び順が変なのが問題なしとなるわけです.

そして,その上で,デーヴェーンドラが堅持した順序が本来のものであると主張します.

つまり,

自推→プラ→知覚→他推
自注  Bh  Bh  Bh
    ヤマ ヤマ  ヤマ

となります.

しかし,ヤマーリの問題は,Bhに注釈していることです.

したがって,Bhの注釈先であるプラマーナシッディ冒頭が実際にはPVの冒頭でないことを言い訳しなければならなくなります.

いやはや,ややこしい.

ともあれ,以上のややこしい経緯を頭に入れた上でないと,ヤマーリの言っていることはちんぷんかんぷんとなります.

以上を踏まえた上で,ああでもないこうでもない,デーヴェーンドラブッディはそこまで阿呆ではない,ジャヤンタの言っていることはナンセンスだ,というような議論を展開する箇所が,読書会で取り上げた箇所です.

写本一本,そして,また校訂作業の途上ということもあり,色々な問題が残されているのは明らかでした.

そのままでは素直に読めない箇所も残っています.

いずれにしても,チベット語と引き合わせながら,進めていくのは大変な作業であることは容易に想像がつきます.

ヤマーリの文体は,それほど簡単なものではありません.(例えば,ミーマーンサーの注釈家である読みやすいスチャリタと比べると難渋だと評価できるでしょう.)

いずれにせよ,校訂本が出るのが待たれます.

ディプロマティック・エディションは,既に,2016年に出版されているので,ヤマーリ原典の匂いをかぐことは既に可能です.

PS
PV
Bh
ジャヤンタ註・ヤマーリ註

ジャヤンタ註・ヤマーリ註は,PSから数えれば復復注,ヤマーリの主張にしたがってPVをPS註ではないと見なせば,復註です.

注釈の注釈(あるいは更にその注釈)に心血を注ぐのは,まさに,知的好奇心の賜物でしょう.

同じ構造で言えば,ミーマーンサーでは

JS
SBh
TV
NSudha/Ajita

があります.ニヤーヤスダーや,針貝先生の校訂でも知られるアジターです.

文献(学)の樹海にようこそ,といった感があります.
  1. 2017/05/20(土) 11:57:46|
  2. 未分類

kutūhalanivṛtter apy arthatvāt

プラバーカラ派は全ての文章を実践につながる命令と解釈します.

実際の行為に役立たないような文章は無意味になってしまうから,文章を有意味だと考える必要上,全ての文章は命令文を本質とすると考えるわけです.

「ここに宝物がある」

という平叙文も,「ここに宝物があると理解すべし」と,理解するように命令する文だと解釈します.

同様に「アートマンがある」というのも「アートマンがあると理解すべし」という命令文だと解釈します.

このように,全ての文章は,何らかの行為への発動,あるいは,それからの回避を命令するものだ,とするのがプラバーカラ派の文章解釈理論です.

これにたいしてマンダナのきつい一言.

「好奇心の解消もまた目的となるので」

実践である発動・退行へと導かないようなもの,すなわち,好奇心の解消というような消極的理由もまた言明の目的となりえます.

1.言明⇒発動・退行
2.言明⇒好奇心の解消

つまり,行為へと導かないような言明もあるわけです.

「捨てようとされもしておらず,また,受け取ろうともされていないような,(つまり発動・退行には関わらないような)遠くの国の王様の名前や事跡などを扱う疑問が,関心者達にあるのが現に見られる」

とマンダナは述べています.

実践的には役立たないものであっても,知りたいという関心があれば,その関心を満たすだけで十分に目的となりうるのです.

知的好奇心を満たすこと,これだけで既に人間の目的として十分に役を果たすわけです.

それ以上何か実践的な目標を求めるのはお門違い,あるいは,現実を無視した見方だ,ということです.

「そして,それらに通じる者たちの,好奇心解消を主眼とする言明が[現に見られる]」と.

過去にあった出来事を淡々と語るようなもの,そのようなものは,聞き手の発動・退行といった実践活動を促すものではありません.

そうではなく,単に,楽しみのためです.

聞き手の悦びのために,既見事実をなぞって説く物語があるわけです.

聞き手の発動・退行のためではありません.

「また,悦びのために既見事実をなぞる物語があるが,それは,聞き手の発動のためでも,退行のためでもない」と.

知的好奇心を満たすことは,それだけで十分に目的となりうる,ということです.

そしてそれは現実にそうだ,というのです.

今現在の自分の実践には関わりのないような遠い昔のお話も,悦びのために人間は聞いたりします.

遊び心を忘れるとき,知的前線開拓は止むでしょう.
  1. 2017/05/20(土) 11:22:21|
  2. 未分類

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