Pratibhanusarini --- 九州インド哲学ブログ2

On Indian Philosophy and Buddhist Studies

pratyabhijñā








路地から見た山の緑の広がり方、石段、道幅、壁、どこか似た雰囲気を保っています.

店内も,土間と小上がりの二層構造.

そして,Officeと書かれたドアの向こうには二階への階段が隠れていそうです.

遠い記憶の中にあるのと同じ構造.

後で確認すると,やはり,そうでした.

この家ーーーお好み焼き屋になる前のーーーに来たことがあります。

2000年頃でしょうか.

小林君とNiralambanaを読み、根本君の家に泊まったのも、この前後でした。
スポンサーサイト
  1. 2017/07/30(日) 18:39:21|
  2. 未分類

navamārgaḥ

NewRoadHakozaki 002

キャンパス内屋台のNさん

地下鉄駅ちかくのH

に次いで,箱キャンから三番目に近いエスニック,NR.

(あと,Mar,Dom,Sat,Him,NG,Arが続きます.)

昼の日替わり750円.

何の変哲もない,どこにでもあるような,インドカレーとナンのセットです.(これにドリンクがついてきます.)

NGにあるようなネパール料理のご飯物セットのダルバートがあればいいのですが、、、

近場にありながら半年ぶりくらいに行きました.
  1. 2017/07/28(金) 07:40:36|
  2. 未分類

西日本インド学仏教学会 第28回学術大会

日:2017年7月29日(土)
時:12:30開始

発表会場:
広島大学大学院社会科学研究科大会議室(1階)
広島県東広島市鏡山1-2-1


=================
プログラム

7月25日(土)
12:00受付開始

研究発表(発表20分、質疑15分)

12:30-13:05
千葉隆誓(広島大学大学院)
『大乗荘厳経論』第一詩頌の再検討

13:05-13:40
須藤龍真(九州大学大学院)
Nyāyamañjarīにおける疑似論証因説の構造

13:40-14:15
佐藤智岳(九州大学大学院)
Tattvasaṃgrahapañjikā最終章における「無余の知(aśeṣajñāna)」について

14:15-14:50
Ven Randombe Suneetha Thero(広島大学大学院)
On the Term dhammanvaya in the Mahāparinibbānasutta

14:50-15:00 Tea Break

15:00-15:35
安達高明(広島大学大学院)
仏陀のさとりと法身の摂持 –––『摂大乗論』註釈文献を中心に–––

15:35-16:10
中須賀美幸(広島大学大学院)
avasthāviśeṣa –––「差異」としてのアポーハ解釈の原点–––

16:10-16:45
田村昌己(広島大学)
バーヴィヴェーカの唯心説批判 –––MHK V 43-50を中心に–––

16:45-17:20
石村克(広島大学)
インド哲学における真理の対応説と整合説

17:20-17:55
川村悠人(京都大学・日本学術振興会特別研究員)
安慧釈に見えるAṣṭādhyāyī 2.3.16への新視座

17:55-18:30
杉木恒彦(広島大学)
ダーカールナヴァの聖地論を再考する –––Ḍākārṇavamahāyoginītantrarāja 50-3 の梵語校訂テキスト、日英語訳、思想史的検討–––




時刻表によれば,西条駅降りてからバス待ちの時間が22分もあります.

結構このバスが曲者です.

新幹線1時間強,乗り換え待って西条まで50分弱,そして,最後のバスが待ち時間合わせて40分弱.家からのDoor to doorだと3時間かかってしまいます.

9時に出て12時につく,という感じです.

伊都になれば,いずれ九大文も,バス直行であれ,電車バス乗り継ぎであれ,博多駅から1時間弱かかってしまいます.

世の中,交通が発達して相互の距離は近くなるはずなのですが,広大と九大は,どんどん遠くなっているのはなぜでしょうか.

ガーンディーが言うように,交通が発達すると遠いところまで通勤を強いられることになるので,むしろ不便になるという側面もあるのかもしれません.
  1. 2017/07/28(金) 06:27:29|
  2. 未分類

South Asian Classical Studies, 12, 2017

SACS12-2017


A Study of the Avadānakalpalatā and the Avadānamālās(7)
--- Chap 93 Sumāgadhāvadāna and TJAM Chap 13 ---
Okano Kiyoshi


Debate on Pleasant Sensations in Theravāda Buddhism:
From the Sutta Piṭaka to the Commentaries
Shimizu Toshifumi


Re-examination of the Transformation of the Three Self-natures Doctorine
Kitano Shintaro


A Problem of ``Something'' and Reality in Sthiramati
―― Early Yogācāra and Solipsism ――
Minamoto Juko



Genesis, Background, and Metamorphosis of Self-cognition
Kataoka Kei




On the Classification of the Śāstras in the Paramahaṃsapriyā:
On Bhāgavatapurāṇa 1.1.2
Manabe Tomohiro




Yoga Practice and Yogin's Mind:
King Alarka's Yoga in Anugītā 15 (Mahābhārata 14.30)
Takahashi Kenji




The Status of Grammar in Daṇḍin's Kāvyādarśa
Kawamura Yūto
  1. 2017/07/27(木) 08:47:06|
  2. 未分類

南アジア古典学 12号(2017年)

南アジア古典学12・2017


南アジア古典学
第12号
2017年7月


Kalpalatā と Avadānamālā の研究(7)
― 第93章Sumāgadhā 及びTJAM第13章 ―
岡野 潔
1-91


パーリ上座部における楽受の存在を巡る論争
―初期経典から註釈文献まで―
清水 俊史
93-136


三性説の思想構造の変遷についての再考察
──〈仮説の所依〉と〈遍計所執性〉との相違の問題を中心として──
北野 新太郎
137-172


安慧の「何かあるもの」と実在の問題
――初期唯識思想と独我論――
源 重浩
173-189


自己認識の生成・背景・変質
片岡 啓
191-214


Paramahaṃsapriyāにおける諸典籍の分類について
―― on Bhāgavatapurāṇa 1.1.2 ――
眞鍋 智裕
215-234



ヨーガの修行と心
― Anugītā 15 (Mahābhārata 14.30)におけるアラルカ王のヨーガ ―
髙橋 健二
235--255



The Status of Grammar in Daṇḍin's Kāvyādarśa
Yūto Kawamura
257-267
  1. 2017/07/27(木) 08:42:23|
  2. 未分類

received: two articles by Hugo David

Hugo David
Les origines du Vedānta comme tradition scolastique
État du problème, nouvelles hypothèses
Bulletin de l’École française d’Extrême-Orient, 102 (2016), p. 9-44


Les définitions de l’énoncé (vakya) ¯ dans la tradition
sanskrite : entre grammaire et exégèse
LANGAGES N° 205 (1/2017)
L'énoncé dans les traditions linguistiques : logos, vakya, kalam, oratio et les autres
Pages : 27-41
  1. 2017/07/25(火) 08:01:01|
  2. 未分類

svaśiraśchedādismṛtiḥ:自らの頸を断ち切る等の想起

幻覚や錯覚.

インド哲学ではまとめてbhramaとして扱われます.

ジャヤンタが列挙するリストからも明らかなように,伝統的に,bhramaというときには,錯誤した知覚のみを扱います.(つまり誤った推論などは論じられません.)

夢も含みます.

要するに,対象がないのに対象があるかのように働いている直接的な認識(疑似知覚)のことです.

クマーリラのような実在論者は,認識には必ず対応する何らかの実在があると考えるので,夢で見る対象も,想起された昔のなにがしかであって,単に,時間や場所などが間違っているだけだと考えます.

つまり,組み合わせがおかしいだけで,一つ一つの素材については,どこかで見たはずだ,というわけです.

ジャヤンタは,自分では体験したことのないような例まで持ち出してきます.

夢で自分の頭を断ち切る(神への一つの供養の形態)というような体験は,果たして経験したことがあるのかと反論者は問います.

Svasirascheda

これに対しては,別に自分で体験しなければならないわけではないと答えます.

どこぞの誰かが首を切るのを見たことがあればOKです.

写真はマハーバリプラムのもの.

全く無いものは認識対象たりえない,というのがクマーリラやジャヤンタの立場です.

他の極端な例として,燃え上がる水,したたり落ちる火,流れる山にジャヤンタは言及しています.

マイソール版では,

jālajvalāgaladvahnidravadravyādidarśane

となっています.つまり,

jālajvalā-galadvahni-dravadravya-ādi-darśane

と分けられるでしょうが,写本に基づく校訂から正しくは,

jvalajjalagaladvahnidravadadryādidarśane

つまり,

jvalajjala-galadvahni-dravadadry-ādi-darśane

と訂正できます.

つまり,

燃え上がる水,したたり落ちる火,流れる山,など,を見る際に

となります.マイソール版を無理に解釈すれば,

魔術の炎,したたり落ちる火,液体物などを見る際に

とでもするしかありませんが,最後の液体物は明らかに例としては不適合です.

ちなみに,ジャヤンタはカシミール出身なので,別の文脈では,雨季の地滑りにも言及しています.

prāvṛṣeṇyajaladharadhārāsāranirluṭhita eva parvataikadeśe "parvatasya khaṇḍaḥ patitaḥ" iti.

ここでは,現実的に「山の一部が落ちた」と表現されています.

非現実的な「山が流れる」という表現ではありません.
  1. 2017/07/23(日) 07:36:36|
  2. 未分類

Kei Kataoka 2016: Towards a Critical Edition of the Nyayamanjari

BEFEO102-2016


Kei Kataoka 2016f
Towards a Critical Edition of the Nyayamanjari

A review article of

Alessandro Graheli, History and Transmission of the Nyayamanjari. Critical Edition of the Section on the Sphota, Vienna, Verlag der Oesterreichischen Akademie der Wissenschaften, 2015.

Bulletin de l'Ecole francaise d'Extreme-Orient, 102 (2016), pp. 401-413. (in fact published in July, 2017, although officially written as published in 2016.)

http://www.k4.dion.ne.jp/~sanskrit/WorksJ.html
  1. 2017/07/22(土) 19:48:47|
  2. 未分類

katarat?

複数ある異読のいずれを選ぶかは,もっとも神経を使うところです.

もちろん,異読の全てを正確に記録するという準備作業があってこそ成立する高度な作業です.

よくあるインドの校訂(?)本では,異読表など,ほとんど付いてませんから,このような高度な楽しみは端から奪われてしまっています.

残念なことです.

テクストは,実際には,様々な可能性に開かれており,読みの可能性の程度も,その都度異なります.

90%こっちがオリジナルだ,という読みもあれば,五分五分の良い勝負で,どちらを選んでもいいよな,と迷わせるものも多々あります.

迷わせる異読のいずれかを裁定するのに頼りとなるのが,著者の用例や,著者に先行する,著者自身が親しんだ作品の用例.

さらには,その著者に大いに学んだ後代の人(同地方であることが分かれば尚よし)の用例です.

まずは,著者の著作を全検索して,似たような用例,ヒントになる用例を探します.

あれこれと検索の仕方を工夫しながら何かヒントになるものはないかと探します.

これで,かなりの問題は解決します.

一人の著者における語の使われ方,セットになる表現の仕方,というものには一貫したものがあるからです.

samという接頭辞が付いているのか付いていないのか,こんな細かい違いは,いくら辞書を見ても解決しません.

辞書的な意味は大して変わらないからです.

著者の用例と彼に近い用例だけが頼りです.

にしても,インド西北辺境カシミールのシャーラダー文字写本と,インド南端のグランタ・マラヤーラム文字写本が拮抗する良い読みを提供してくれるというのは,いつもながら,面白い現象です.

中インドのデーヴァナーガリー文字写本が全然頼りにならない,というか間違いだらけでむしろ邪魔なのは,いったい,どういうことなんでしょう.

数百年前の馬鹿な書写生を誰かお仕置きして欲しいものです.

良い仕事を残す,一定の水準を保つ,ということを心にとめない無知無恥の輩はいつの時代も変わらず存在するようです.

その尻ぬぐいを,数百年後の今,インドを遠く離れた日本でさせられています.

かなり人迷惑な話です.

何の因果か,前世を見ることのできる(あるいは現在の実存在を通じてその因果線上をたどって過去存在の状態を間接的に知ることのできる)一切智者にその因縁を語って欲しいものです.

或いはアガスティヤの葉に何か書いてあるのかも知れませんが,今度は,そのアガスティヤの葉の文章を校訂したくなるかもしれません.
  1. 2017/07/16(日) 23:11:52|
  2. 未分類

音による写本のコピー

昔はどのように写本をコピーしていたのでしょうか.

たまに,「音で聞き取っていたのではないか」と思わせる間違いがあります.

文字の形が全く違うが,音が近い間違いがあるからです.

書き写し間違いならぬ,聞き間違いということです.

となると,一人のscribeがAからBへというように書き写していたのではなく,A写本をX氏が読み上げ,隣でY氏がそれを写していったという図が浮かんできます.

通常多いのは,似た文字の間違いですから,一人でやっている図が浮かびますが,中には,二人組になって音で写していたというケースもあったのでしょう.

今回のケースでは,ekāvagatiが,egāvagatiになっていました.

さすがに,文字ならば,kaとgaを取り違えることはないはずです.

だとすると,一行スキップしたり,あるいは,ちょっとアイスキップしたりするのも,scribeのY氏のせいではなく,読み上げるX氏の間違いで,それを無批判に聞いていたY氏がそのまま写し,あとからX氏が「あ,間違いだった」で,Y氏が書いたところをキャンセルする,というような図も浮かんできます.

二人組の場合,X氏による読み取り・読み上げと,Y氏による聞き取り・書き写しで,間違いの可能性が二倍以上になりますし,また,二人がともに優秀であるという可能性は低く,X氏の手下がYか,あるいは,Y氏の手下がXか,という可能性も大いにあるでしょうから,劣った側による間違い混入の可能性はさらに増えると想定されます.

馬鹿な間違いのおかげで,写本の系統が分かったりしますので,間違いは間違いで有益なのですが,しかし,間違いの多い写本を相手にしていると,記録仕事が一個増えるので,「いい加減にしてくれ」と思います.

まあ,彼らも暑い無風の部屋で作業をしていたのでしょうから,集中が切れて間違っても当然ですが.
  1. 2017/07/12(水) 07:36:13|
  2. 未分類

at Nikushin

NikushinHirao1001.jpg

K先生ご一行,四人のYさん,T夫妻ほか14人.

M講師のスリランカ話で盛り上がりました.
  1. 2017/07/10(月) 19:18:58|
  2. 未分類

錯簡

かなりぼろぼろのマラヤーラム写本.

あちらこちらに欠落部がありますが,なんとか凌ぎながらチェック.

フォリオが終わって,次のフォリオに移ろうとしますが,肝心の次のフォリオが見当たりません.

隣の写真を見てもなし.

これは,一葉まるまる欠落か,と諦めかけましたが,ひとまず,近隣のフォリオの対応ページを,刊本でチェック.

一個一個,フォリオの裏と表の該当ページを調べていきます.

10葉以上見たところで,ようやくヒット.

無事に出てきました.

錯簡,勘弁してほしいです.

目が疲れました.

で,出てきてくれたのは有難いのですが,そのフォリオ,左5分の1くらい,まるまる欠けています.

また,右下も斜めに切れています.

欠けた部分をいちいち記さないといけないので,記録が面倒です.

しかし,ぼろい古い写本ほど貴重な情報源となるので,手は抜けません.
  1. 2017/07/05(水) 19:00:22|
  2. 未分類

蜜蜂の学生

蜜蜂は,花から花へと移り,蜜を集めます.

同じように,学生は,異なる文献を教える様々な先生につくことで知識を蓄えていきます.

一人の先生にだけつくならば,学問の発展はないでしょう.

アビナヴァグプタは,多くの人に習うことで,その目を養っていきました.

ひとりの師だけにつくならば,はたしてその師が優れているのか劣っているのかすら分かりません.

多くの先生に習うことで,彼らの優劣も明らかになり,また,長所・短所,得意な分野・苦手な分野も分かるというものです.

学生は,悪しきを捨て,良いものだけをピックアップすれば良いのですから,多くの人に習うということは,単に知識を集積するだけでなく,そのような相対化の視点を養うためにも重要です.




大学の先生にも二種類があります.

ひとつは,自分の指導学生が,他の先生に習うことを良しとする人.

もう一つは,自分の指導学生が,他の先生に習うことを嫌う人.(学生に全く無関心な先生は除きます.)

なぜ他の先生に習うことを嫌うのでしょうか.

私が思うに,自分が相対化されるのが怖いからでしょう.

A先生と対等でありうるB先生に習うことで,学生Xは,B先生の相対的な視点を手に入れることになります.

学生XがA先生に対して持っていた盲信・崇拝はそこで失われてしまうことになります.

「尊敬する人は誰ですか?」

という問に対して,家族以外を余り知らないうちは,「お父さん」「お母さん」と答えるのと同じようなものです.

世界の広がりを知らなければ,限られた世界の中でベストを選ぶしかありません.

そして,その世界が一つの大学の中だけに限られていれば,当然,「うちの先生が一番」ということになってしまいます.

しかし,現実には,そのようなことはありません.

ひとりの先生が身に付けることのできる知識,教えることのできる内容には限りが有ります.

論理学についてはA先生,文法学についてはB先生,聖典解釈学ならC先生,というように,人には得手不得手があります.

ひとりの人が全てをカヴァーすることはできません.

また,先生によって,取り組み方・教え方も様々です.

一つの方法・知識だけを伝えることは,生存競争においても不利になります.

引き出しに様々なオプションのあることが,今後の生き残りのためには有利です.

写本にこだわる人もいれば,先行用例を調べるのが好きな人もいるでしょう,また,哲学的考察の深みに沈潜するのが好きな人もいるかもしれません.

文献への向かい方は人それぞれ,十人十色です.

したがって,学生は,まだ若く吸収力のあるうちに(そして恥をかいても気にならない年齢のうちに),多くの人に学ぶことが重要になります.

年を取ると,人前で恥をかくことが難しくなってしまいます.

学部生の前で恥をかくのは院生には難しいものです.

まして,先生ともなってしまうと,読書会で自分の無知をさらすなどというのは,なかなか難しいものです.(しかし,新しい分野を学ぼうとすれば,誰でも最初は初学者であり「学部生」みたいなものです.)




昨今は,経費の関係で,大学における非常勤のコマ数がどんどん削られています.

どんなに所属教員が優れていようと,ひとりの先生が教えられることには限りがあります.

また,既に述べたように,異なるスタイル,さらには,生き様まで含めて,学生は相対化の視点を手に入れることが必要です.

いわば,先生についての「教相判釈」を確立することで,学生独自の視点というものが培われていきます.

相対化による独自視座の獲得.

三角測量のように,未知なるものの高さを知るには,既知の二点が必要です.

「二師に見えず」「他の先生に習うなどとんでもない」と考えている先生は,学生の機会を奪っていることになります.

人間というのは,徒党を組み,派閥を作りやすいものです.(Cf. 部派分裂)

そして,派閥というのは,他者の排除を本質とします.

ひとつの研究室に二人の先生がいると,A先生の学生とB先生の学生とで分裂が生じることがあります.

A先生とB先生との仲が悪ければ,ますますそのような傾向が助長されることになります.

ひとつの研究室に4人も教授がいるとなると,それぞれの先生毎に「A組」「B組」「C組」「D組」などと派閥分裂が起こることも考えられるでしょう.

このような分裂に意味はありません.

学生はできるだけ多くの先生から学ぶべきであり,その機会を活かすべきです.

また,大学の中に留まらず,機会があれば,国内外の他大学で学ぶよう自分を仕向けるべきです.

一箇所のぬるま湯に安穏と浸かるのは楽です.逆に,外の荒波に身をさらすのは疲れますし,慣れない分野で恥をかく危険があります.

しかし,自分の感じる抵抗が多いということは,着実に学び,成長している,ということの証左でもあります.

金と時間と機会のある内に,外に出て揉まれるべきです.

また,大学としては,そのような機会をできるだけ多く提供することが必要です.

既に述べたように,「所属教員が全部教えれば良い」という考え方は間違っています.

一人が全部教えるならば,学問の発展ということはありえないからです.

学生は,異なる複数人から多くのものを学びます.

コンビネーションの多彩さこそが,脳の中のシナプス連合の多様さを作り,その人独自のカラーを生み出すことになるからです.

非常勤の削減は,知のモノクロ化へとつながります.

「ひとりの師から学べば良い」という単為生殖では,時代の環境変化にいずれ耐えられず滅びてしまうことになるでしょう.

結局の所,人を育てるには金も時間も手間もかかる,ということです.

金を削って効率化を進めれば,数年後,数十年後に,データの数字が悪くなるのは至極当然です.

非常勤を削って良いことなんて,何もないでしょう.

昨今は,大学内の金の融通が以前よりも縛りが緩くなったので,寄付金からでも非常勤のコマ数に回すことは可能なはずです.

まだ,そのような方策をしている研究室は見たことはありませんし,そのような奇特な御仁も見たことはありませんが.

わずかに,企業の側からの寄付講座が見られるのみです.

たとえば文学部では既に,朝日新聞からの寄付非常勤枠(金ではなく講師の派遣)があります.

ひとりの教授を雇う寄付講座といった大がかりな寄付までいかなくとも,「寄付非常勤」というようなことも,今後は考えるべきでしょう.

これなら,半期15回分の非常勤を雇う数十万円の寄付があれば成立するはずです.

また,京大では,白眉や学振のPDが学内非常勤のような形で非常勤枠を担当しています.(学内非常勤なので金はかかりません.)

九大印哲でも,今年から,学振PDに非常勤を担当して貰うことになりました.(九大文学部には前例がなかったので少し手続きに手間取りましたが.)

さて,箱崎キャンパスから伊都キャンパスへの2018年夏の引っ越し,誰かが昔に垂れ流したヒ素処理に予想外の支出がかさんだせいなのか否かはしりませんが,費用も満足に出ないようで,引っ越しの前段階の書籍等の箱詰めは全て自分たちでやることになるようです.

考えただけで腰痛がしてきます.

金はなくとも工夫はできる.

「おしんの精神」で凌いでいくしかないでしょう.

足を動かす水鳥と同じ,外からは優雅に見える「世界レベルの研究水準」の水面下は,こんなものです.
  1. 2017/07/04(火) 19:35:12|
  2. 未分類

プロフィール

Aghora

Author:Aghora

最近の記事

最近のコメント

最近のトラックバック

月別アーカイブ

カテゴリー

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

FC2カウンター

ブログ内検索

RSSフィード

リンク

このブログをリンクに追加する