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Pratibhanusarini --- 九州インド哲学ブログ2

On Indian Philosophy and Buddhist Studies

Between Asias: inter-regional spaces, 2017/12/16, Kyushu Uni

http://cafs.kyushu-u.ac.jp/borders/kanri/wp-content/uploads/2017/11/Between-Asias.pdf

九大でインド関係の催しとは珍しい.

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  1. 2017/11/30(木) 21:01:54|
  2. 未分類

九州南アジア研究会 2017年度定例研究会

日時:2017年12月2日(土) 13時30分~17時  

九州大学 箱崎キャンパス


発表者:
森田剛光氏(南山大学人類学研究所非常勤研究員)
「増加する滞日ネパール人とその影響」

清水晶子氏(中村元東方文化研究所専任研究員)
「インドの宗教~ジャイナ教と宗教生活」

  1. 2017/11/30(木) 20:48:33|
  2. 未分類

インド思想史学会2017

開催日 2017 年 12 月 16 日(土)
会 場 京都大学 楽友会館 2 階 会議・講演室


研究発表者および発表題目


13:30 – 14:20 高橋 健二(京都大学文学研究科・博士課程・日本学術振興会特別研究員 DC)
「Satapathabrahmana 10.5.3 の創造説における manas- について」

14:20 – 15:10 加納 和雄(駒沢大学・講師)・ 張本 研吾(マヒドン大学・准教授)
「全知者存在証明議論の一断面? —ゲッティンゲン大学所蔵ラーフラ・サー
ンクリトヤーヤナ撮影梵文写本 Xc14/1d 中の未同定3葉について」

15:30 – 16:20 小川 英世(広島大学文学研究科・教授)
「バルトリハリ言語哲学における意味論への視座」

16:20 – 17:10 赤松 明彦(京都大学文学研究科・教授)
「バルトリハリのある詩節をめぐって」






バルトリハリ二本とは,ディープすぎます.

学会デヴュー期のアポーハ論に始まって,最初から最後まで,交錯するお二人の先生です.

赤松先生は,本年が定年の年.

ちなみに,張本さんは,九大時代の赤松先生の教え子になります.
  1. 2017/11/29(水) 21:06:04|
  2. 未分類

アポーハワークショップ2012

https://verlag.oeaw.ac.at/reading-bhatta-jayanta-on-buddhist-nominalism

ようやく出ました。

パトリック編。

私も自前のエディションと、アレックスとの共訳と、自分の論文一つで組み込まれています。

デーヴァナーガリーでそのまま出してくれるのは有難い。



Reading Bhaṭṭa Jayanta on Buddhist Nominalism
Patrick McAllister (ed.)
Verlag der Österreichischen Akademie der Wissenschaften, 2017




Contents


A Critical Edition of Bhaṭṭa Jayanta’s Nyāyamañjarī
Kei Kataoka

The Apoha Section of the Nyāyamañjarī
Alex Watson and Kei Kataoka

The Qualifier-Qualificand Relation and Coreferentiality
Hideyo Ogawa

On vyāvṛtta
Pascale Hugon

On Śākyabuddhi’s Interpretation of the Apoha Theory
Kensoh Okada

The Introductory Verse of Dharmottara’s Apohaprakaraṇa
Hisataka Ishida

Dharmottara’s Notion of āropita
Kei Kataoka

Understanding a Philosophical Text
Elisa Freschi & Artemij Keidan

Competing Theories of Conceptual Cognition
Patrick McAllister
  1. 2017/11/27(月) 23:09:41|
  2. 未分類

Tap Live





久々にタップライブを見に赤坂に。

石垣君以来。

今回のコラボはアンプラグドからソロギターの平山君。

ソロで弾いたのはチャーリーの曲でした。

九大に和太鼓サークルがあるのを初めて知りました。4年目とのこと。
  1. 2017/11/26(日) 00:22:57|
  2. 未分類

saradi bhogah











  1. 2017/11/26(日) 00:15:34|
  2. 未分類

桂研

ハリバドラのAAA。

唯識批判の箇所に登場する一論者。

形象真実論を標榜する一論者です。

多数の形象と一認識のチトラアドヴァイタではなく、多数の認識に多数の形象で、現象の多様性を説明しようとします。

つまり、同時に多数の認識が生起することで、多様な青などの現れがあるというのです。

この説に対してハリバドラは、まず、極微批判のロジックを転用して批判します。

すなわち、生起するとされる一つ一つの認識も実有である以上、空間的な広がりを取るはずだと考え、極微批判に対するのと同じ批判が当てはまる、と考えるのです。

唯識において当然、認識は実有、しかも、この論者は形象真実論に立ちますから、当然、形象も真実、つまり、客観的に存在するはずです。

極微Aが極微Bと向き合うとき、果たして、その同じ自性をもって極微Cにも向き合うのか、あるいは、別の自性をもってか云々。

極微の集積が成り立たないのと同じく、原子としての一々の認識の集積も成り立ち得ないはずだ、というのが、ハリバドラの議論です。

至極真っ当な批判です。

これに対してこの多認識多形象の形象真実論者は、「いやいや、物質であり有形である極微と違って、認識は非物質・無形であり広がりをそもそも持たないので、上の批判は当たらない」と反論してきます。

この反駁方法は不当に映ります。

というのも、この論者は唯識論者、しかも、形象真実論者であり、多数の認識と多数の形象が同時に存在すると考えているからです。

結局この論者は矛盾したことを主張していることになります。

認識は空間的な広がりを持たないにもかかわらず、なおかつ、空間的な広がりを持つ、と。

もしも、多数の認識が空間的な広がりを持たないままに、空間的な広がりを持つかに見える多数の形象を表し出すと言うのならば、空間的な広がりを持たないのですから、導入するのは一認識でもよかったはずです。

そもそも、この論者は形象真実論者ですから、多形象が実有として空間的に広がっていることを認めるのならば、多認識も空間的に広がって生起し存在することを認めねばならないのです。

ここだけ都合良く「認識は非物質だから広がりを持たない」ということはできないのです。

広がりを持たないなら多ではなく一認識で用が済むからです。

多数の形象が真実であるというとき、その多数の形象は、当然、空間的に広がりを持つものであり、それ以外ではあり得ません。

そして、多数の形象と同様に、多数の認識も、それが真実であるならば、空間的な広がりをもって存在せねばなりません。

したがって、「認識は非物質で無形だから」という反論方法は、この論者には最初から許されてないのです。




参加者は,龍大・谷大の若手のほか,唯識中観世界の大御所,桂・沖・一郷というトリプルスリーの大先輩方.

梶山・服部・大地原の三聖人が揃っていた,かつての京大黄金時代を大学で過ごした方々です.

「こうちゃうか」「いや,そうではないと思います」云々,当時を彷彿とさせる議論の丁々発止.

わたしの上の見解は沖先生と同じもの,いっぽう桂先生は,これとは少し違う解釈でした.

まさに同時に多様な認識が生起併存する世界,あるいは,他相続の激突.

それらが一如に融け合った華厳世界かどうかは定かではありませんが.

夕方5時にはじまって,えらい遅くまでやっていました.

最後は頭真っ白,形象を空じて能取も空じ,唯心の境地に.

にしても,この世代の研究熱とパワー,恐るべしです.




問題箇所の原文は以下.

Q: nanv amūrtatvāj jñānānāṃ na deśakṛtaṃ paurvāparyam asti.
tat katham aṇuvan madhyavartitvaṃ jñānānāṃ bhavet.

A: satyam etat.
ayam aparo 'sya doṣo 'stu yad
deśavitānapratibhāsinām ākārāṇāṃ satyatvam icchatā
(1) jñānānām adeśānām api satāṃ
(2) bahūnāṃ tathādeśavitānotpādaḥ
parikalpyate.

anyathā hi
yady
(1) anekavijñānotpādakalpanāyām api
(2) tathādeśavitānotpādapratibhāso mithyā syāt,
tadā
(3) anekavijñānotpādakalpanā vyarthaiva syāt.

na ca
(1) deśavitānāvasthitanīlādipratibhāsam antareṇa
(2) anyan nīlādy anubhūyate
(3) yat satyaṃ bhavet.

tasya cālīkatve kim anyat satyaṃ bhaviṣyati

--- iti yatkiṃcid etat.
  1. 2017/11/22(水) 15:38:18|
  2. 未分類

aparyavasyatpadaarthaantaram

「課題解決型」という単語を昨今耳にしますが,何を課題とするかは,人それぞれでしょう.

多くの人が課題と考えることを,個々人も課題とすべきである,というならば,ゲスの勘ぐりに近いゴシップ的興味の対象解明すらも「多くの人の課題」と言えるでしょう.(サンスクリットでは,このようないわゆる無益な対象の考察を「カラスの歯[があるかないか]の考察」と呼称します.)

実際,全知者しか分かり得ない(つまり知覚可能性の条件を満たしてない)ものごとに関して,ああでもないこうでもないと人々は勘ぐっています.

ダルマキールティに言わせれば,知覚可能性の条件を満たしてない以上,それについては疑惑しか残らず,確定知が生じることはありえません.

本性的に知覚不可能な幽霊が「いる」とも「いない」とも言えないのと同じです.

実際,世の多くの人が興味あるとメディアが判断しているのは,環境・資源・健康・安全といった,いわゆる実利的事柄などではなく,有名人のゴシップだったりします.

では,「課題とは実利的な事柄に限る」というならば,では,「利」とは誰にとっての利なのか,ということが問題になりますから,やはり,話は振り出しに戻ってしまいます.

「多くにとっての利だ」というならば,では,多くとは,現代人の多くにとってなのか,未来の子孫も含むのか,さらには,ご近所さんの多くなのか,あるいは,市レベルなのか,県レベルや,圏レベル,あるいは,国レベルなのか,国をまたぐ広域の経済圏レベルなのか,あるいは,地球規模なのか,さらには宇宙大なのか,あるいは,本当に人だけでよいのか,動物や樹木などの生命は含まれないのか,などなど,どの時空で対象を切るかにより「多く」の範囲が曖昧となります.そして,それに従って「利」かどうかも変動し得ます.(特定の治療・医療が一概に「良い」とは言えないのも,誰にとっての利か,という問題と関わってくるでしょう.)

結局の所,何が誰にとっての利なのか,何が多くにとっての利なのかは,とても曖昧だということです.(際限なく進歩する生命科学が本当に多くの人にとっての利なのかどうかは,原子力が本当に多くの人にとっての利なのかどうか,という問題とパラレルに考えることができます.)

多くの場合に明らかなのは,「多くの人の利」と主張されるものは,実際には,そう主張するその個人にとっての利に繋がるものだ,ということです.(先般の危機で登場した多くの御用学者と言われる人々も,人の生命よりも,自分・家族・仲間の生活が大事だったのは言うまでもありません.)



曲学阿世の屁理屈はさておき,私にとっての今の課題は,目の前の文が分からない,ということです.

というわけで,「課題解決型のアクティブラーナー」としては,この問題に取り組む必要があります.

ヴァーチャスパティのテクスト,デーヴァナーガリーではつながっているので,仮にそのままローマナイズすると次のような感じ.

tena yadyapi padātpadārthamātramavagamyate tathāpi tanmātraṃ na vyavahārāṅgamityaparyavasyatpadārthāntaraṃ viśeṣamapekṣamāṇaṃ yatpadāntareṇa yogyamupanīyate padārthāntaraṃ tadavacchedamanumanyatetarām/


このままだと結構むずかしいです.

前半はいいですが,後半がややこしい.

aparyavasyatの後が切れるのかどうかが問題です.

どうやら,yat以下は,tadの説明として全体として挿入されている,という感じのようです.

つまり,主文構造とは完全に切り離して考える必要があるようです.

筆者の分け方は次の通り.

tena yady api padāt padārthamātram avagamyate,
tathāpi tanmātraṃ na vyavahārāṅgam ity
aparyavasyat padārthāntaraṃ viśeṣam apekṣamāṇaṃ
yat padāntareṇa yogyam upanīyate padārthāntaraṃ
tadavacchedam anumanyatetarām/

1.それゆえ,たとえ,語Aから単なる[無限定の]語意aが理解される
2.にしても,単なるそれaは実際の言語活動の要因とはならないので,
3.他語意bに行き着かないと特殊を期待する[語意aは],
4.[語意aと]結び付きうる他語意bが他語Bにより近くに連れられてくると,
5.その語意bによる限定(=特殊化)を,より一層受け入れる.



前文から理解可能だとはいえ,itiをまたいで後半でも「語意」が隠れた主語であるとは,一瞥して分かれというのは酷です.

中性単数となると,主格と対格との区別がつきにくいので,主語を探すのに苦労します.



はたして,人工知能が最初の文章をデーヴァナーガリーから自動で見て取って読み取りして,切り分けて,理解して,日本語に翻訳してくれるような日は来るのでしょうか.(街中に置いてあるペッパー君も,このサンスクリットを解きほぐしてくれればいいのですが.)

ま,これが分かったところで一銭にもならないから,やらないでしょうが,ひょっとすると,情熱をもったインド人婆羅門のIT技術者がサンスクリットから英語に自動でしてくれるAIを開発する日が来るかもしれません.

「サンスクリットをデーヴァナーガリーのテクスト(校訂本のみでなく写本も含む)から自動で読み取って英語・日本語にしてくれるAIの開発」というプロジェクトとなると,たぶん,何百億円かけても足りないでしょう.(ちなみに、実行不可能な命令の対象としてインド古典で挙げられるものに、竹取物語にも出てくる龍の頸の玉があります。)


古典ギリシャ語で残る文献の総体には限りがあります.

それと比べると,サンスクリットは,写本も含めて膨大な量になります.

一人の人間がその全体を網羅することは到底不可能です.

つまり古典として見た時,サンスクリット語の文献は圧倒的な分量のテクストを有しているのです.

しかも,未出版のテクストが写本の形で山と残っています.

それは人類の知的遺産です.

よりよい自然・環境を次の世代に引き渡す義務があるのと同様,我々が受け継いだ知的な遺産を次の世代に確実に残していく必要があるのは言うまでもないでしょう.

補修儀礼やルーティーンワークと同じだと考えると,知的遺産の修復・保存は,契機祭naimittikaや定期祭nityaと同じ意味での義務ということになります.

つまり,それは,成果指向型の願望祭kamyaではないのです.

言い換えれば,古典研究を成果指向型のプロジェクトとして捉えることは,そもそもフレームワーク不適合,カテゴリーミステイクということになります.

考古学の発掘調査と同じで,それは最低限必須の義務なわけです.

つまり,古典研究をするのに理由はいらない,ということです.

あえて理由を求めるなら,それは,「しないと困ることになるから」というのが理由となります.

定期祭をしないと下降する(罪となる)から,というのと同じです.

発掘調査が,「いましないと永遠に失われるから困ることになるから」というのと同じでしょう.

もちろん,定期祭nityaである新月満月祭が,天界を目指す願望祭にも転化しうるように,意欲をもって完璧にやる場合には,古典研究も積極的な成果をもたらします.

しかし,それは,あくまでも(一部の人による)特殊な形においてそうなのであって,常態においてそうなわけではありません.

常態においては,古典の継承は人類の義務だと言えるでしょう.法隆寺の保存・適時の修復が義務であるように.

「役に立つかどうか」という成果志向のプロジェクト的行為以前に,最低限しなくてはならない義務としての行為も,行為の一類型として存在するということは心に留めておくべきでしょう.

  1. 2017/11/18(土) 06:35:56|
  2. 未分類

Agency of an individual in a cooperative work

大規模な祭式であるサットラ祭は,17人以上24人以下で行います.

その場合の疑問は,有資格者は一人一人がそうなのか,あるいは,集団がそうなのか,ということです.

一人一人が行為主体=有資格者=果報を望む者,であるならば,一人一人に果報の全体があることになります.

いっぽう,集団が行為主体であるならば,一人一人は一部の果報だけを受け取ることになります.

普通に考えると,集団が行為主体であると思われます.

「一人一人では,多数の行為主体を持つサットラ祭を為しえないからである」と前主張者は述べます.

これに答える際に必要となるのが,行為主体の概念です.

一人一人が独立して働けば,それは行為主体と見なし得ます.

他の力を借りながらも,一人一人が主人公として行動するならば,その人は行為主体たりえます.

パタンジャリも「それゆえ,彼らは,それぞれ一人一人,行為主体である.ただし,相互に依存することで」と述べています.

シャバラもパタンジャリに則りながら,「それゆえ,全員が――互いに他に依存することで――行為主体となるだろう」と述べています.

他の力を借りながらも(あるいは他人を用いつつも)自己の能動性を失わなければ,一人一人が主人公たる行為主体と見なせるのです.

したがって,一人一人がサットラ祭という集団行動の主人公たりうるのです.

つまり,果報は一人一人にその全体が生じます.

他と分かち合う必要はないのです.

「人間の目的(果報)が一人一人にそこから成立するので,各人それぞれに[それへの]資格があるべし」とジャイミニは述べています.

次のスートラは,「生き物を見る場合のように」と指摘しています.

ちょうど,象や馬といった生き物を見る場合,各人一人一人にその見ることの全体が実現されます.

見ることの一部が実現されるわけではありません.

供物も祭火も皆の「真ん中にある」共有物として,同時に多数の人の役に立ちます.

同時多効果的に(=ぴんと張った横糸のように),それぞれ一人一人が行為主体となりえます.

一人が行為主体としてやったからといって他の人の行動が無駄になるわけではありません.

順番に(非同時的に)やるわけではなく,同時多効果的に行うからです.

公共物・共有物も,皆で一部ずつを分け合うのではなく,その全体を一人一人が享受できるものがあります.

オンライン授業などはその一例でしょう.

スートラがあげている例を我々に引き付けて考えれば,動物園が例となるでしょう.

皆がひとりひとり,観察の全体を楽しむことができます.観察の一部だけを受け取るわけではありません.

協働作業や公共圏における個人のエージェンシーについて,スートラは一つの見方を与えてくれているといえるでしょう.

技術や知識といったものも,同じように,皆で共有することが可能であり,しかも,一人一人がその全体を享受することができるものです.

サットラ祭という現世利益成就のための当時の技術も,協働作業であるとはいえ,一人一人に豊かな果報をもたらすものなのです.

これを敷衍すれば,大学におけるagencyも,学長をトップとする全体にあるのではなく,各人にあるということも言えるでしょう.

全体主義や家族類似的な国家観は,この論題の前主張にあるように,全体を一人の行為主体と見なします.

ジャイミニは,そのような全体主義を否定し,個人個人にエージェンシー,そして,果報全体の享受を認めます.

<Keywords>
kartṛ, tantreṇa, adhikāra, parṣada, svātantrya
  1. 2017/11/12(日) 11:19:18|
  2. 未分類

ISGとHIT

年末のインド思想史学会.

まだ3人しか発表者が集まってないようですが.

3人で,すでに濃そうな内容なので,それはそれで楽しみですが,例年,4-5人なので,もう少し発表者がほしい所です.

インド思想史学会の場合,例えば,2015年の12月に日本語で発表すると,2016年の5~6月あたりに英語で論文をHITに出して,それから査読などをして戻ってきての作業をして,しかし,実際にでるのは,2016年の末ではなく,2017年の終わり頃,というスケジュールになっている気がします.2年がかりになります.

これまでのスケジュール通りだとすると.(少なくとも私の場合はそのようになっています.したがって,未だ出てません.)

結構時間がかかります.

私は気長に待てますが、3年しか任用期間がなく、次を探さねばならないPDなど、若手にとって2年のギャップはきついものがあります。

いつまでも堂々と業績表に載せられないからです。



さて、時間の問題はさておき,問題は,英語化です.

HITは,徳永先生の頃からでしょうか,完全英語の雑誌にされました.

しかし,そうしてしまうと,上の人にはいいですが,大学院生にはちょっと敷居が高すぎるような気がします.

つまり,登竜門という役割を果たすには,ちょっと敷居が高すぎて,トライする院生も減ってしまい,さらには,その雑誌に出すことを考えると,学会発表もちょっと尻込みしてしまう,というようなことになっている気がします.

個人的には,雑誌は,英語・日本語のちゃんぽんでもいいような気がします.

英語で書きたい人は英語で書けば良いし,日本語で,という人は日本語で.

どこかから補助金を貰うために,どうしても英語化しなければならない,というわけでもないのならば,の話ですが.(現にHITは別に英語化のおかげで補助金をもらっているわけでもないでしょうし.)

なんなら,日本語で発表してるので,日本語版と英語版とを同時に載せて欲しいくらいですが,そういう慣習はこの世の中にはないようなので,無理でしょうけど.(しかし,インド思想史学会の場合,発表は日本語,そして,HITに載せる論文は英語ということになるので,実質的に,二つができあがっているはずです.)

ページ数に制限はないので,それはありがたいですが,英語only化にそこまで執着しなくてもいいのではないか,と思います.

つまり,英語もやる,というような柔軟な態度のほうがいいのではないか,ということです.

南インド料理屋も成功しているところは,南インドカレー(米主体のミールス,さらに,ドーサなどのティファン)もやりつつの,しかし,多くの人が頼むであろうナンとバターチキンという定番も用意するというところが生き残っています.

つまり,英語化,というときには,「英語だけ」にするのではなく,「英語も」,というような寛容の精神,あるいは,インドよろしくの包摂・取り込みの精神を発揮すべきではないか,ということです.Inklusivismです.(フランス,ドイツ,イタリアの雑誌も,多くは,ちゃんぽんでしょう.)

多くの人が好む日本語も残しつつの一部推しの英語化,という方略のほうがいいのではないか,ということです.

いちおう,毎年,安からぬ会費を払っている会員なので,どうも最近盛り上がりに欠ける学会,および,雑誌について考えてみた次第.

金を取っておきながら,毎年雑誌が出ているわけでもない,というのは,実際,問題にはなりうるでしょう.

まあ,10年くらい雑誌が出なくても,いかにもインド系なので,私は別に気にしませんけど.

国際サンスクリット学会に行くと,裾出しシャツとジーンズにサンダルというラフな格好の人が多いのと同じ.

びしっとスーツで決めてるのは,ごくごく一部です.

カルドナ大先生も,インドから帰ってきたばかりかのようなラフな格好でした.

緩いのがいいです.

したがって,雑誌の言語に関しても,縛りを設けずに緩くていいのではないか,と思います.
  1. 2017/11/11(土) 10:45:42|
  2. 未分類

okcmc





  1. 2017/11/11(土) 07:00:39|
  2. 未分類

visvavidyalaya-mahotsava-nimittaka-homa









ピーターによるマハースカヴァジュラ作『パドマーヴァティー』講読。

『チャンダマハーローシャナ』の注釈。

あれやこれや,なんでもありの世界観です。

密教用語で毘廬遮那がगूथを意味するとは知りませんでした.

CMR 6.47: 「彼に次のような文を[彼女は]述べるべし――我が毘廬遮那を食せ!」

マハースカヴァジュラは親切に「毘廬遮那とはगूथである」と注釈してくれています.



  1. 2017/11/04(土) 09:56:15|
  2. 未分類

久間・種村研











ピーターによる『サーラマンジャリー』.

ジュニャーナパーダことブッダシュリージュニャーナによる『サマンタバドラサーダナ』,

それにたいするサマンタバドラによる注釈である『サーラマンジャリー』.

今回取り上げたのは,プラマーナ寄りの箇所.

ヴァイシェーシカ批判やヴァイバーシカ批判をめぐって,あれこれとパラレルなパッセージが.

最後に加納・張本組による未同定新出写本の内容についての発表.

三葉.

主に全知者について.
  1. 2017/11/03(金) 11:27:24|
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