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Pratibhanusarini --- 九州インド哲学ブログ2

On Indian Philosophy and Buddhist Studies

श्रीगणेश 2 in मिनोशिमा

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  1. 2018/02/28(水) 22:55:14|
  2. 未分類

Ceylon in Daimyo

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D-Tranoiのあった場所.

パレスチナの次が長続きせず,いったい何になるのかと思いきや,スリランカカレーのCeylonに.

1月27日オープン.

切り盛りするは,愛想の良いドミッラ(♪♪♪)さん.

前職は,海鮮居酒屋の焼き物係.
  1. 2018/02/28(水) 22:42:40|
  2. 未分類

मःमः

  1. 2018/02/28(水) 20:14:48|
  2. 未分類

ātmātmīyadṛṣṭiḥ

受益者負担,自助努力,自己責任ばかりを声高に叫ばれれば,ろくな人間に育たないのは目に見えています.

当然,その先には,利己的な人間像しか見えてきませんから.

つまり,自分で頑張ったのだから,自分がそのリターンを総取りして当然という考え方となります.

我々の社会が送り出すメッセージは,そのようなものになっています.

当然,社会のために働こうという人も少なくなりますし,やる気のある官僚になって国を変えようかという有為な人材も,あほらしくなって,外資系にでも就職して自己利益を追求することでしょう.

社会が出すメッセージが矛盾しているから,当然です.

相手を助けもせずに,自分が助けられることだけを期待するならば,それは,虫が良すぎるというものです.

互酬性の崩壊.

大学も,利益を追求するのは結構ですが,倫理メッセージが揺らげば,構成員も各自の利益を追求するようになるのは必至です.

つまり,モラルの崩壊が起こるのは目に見えています.

将来を支える有為の人材をサポートしていくのは当然です.

さらに言えば,金のあるなしよりも,倫理メッセージが一貫しているかどうかのほうが遙かに重要です.

「自己責任」「自助努力」の号令の下にサポートを最大限に削ろうとするポリシーでは,人は育たないでしょう.

我見・我所見が導く先は奈辺?

闇から闇へ.

いざというとき頼りになるのは,結局,自分の能力,周りの家族等の支えというのは,変わらぬ世の習わしでしょうが,しかし,制度として将来を見据えたサポートは,やはり,政策としてあるべきでしょう.

せんでもいい苦労は,文字通り,せんでもいいでしょう.

サポート態勢の非存在に,さんざん苦労してきた人間としては,やはり,一言物申したくなります.

卵は,いとも簡単に潰されますから.

何が言いたいかというと,「自助努力」の号令の先に明るい未来なし,ということです.

縁起の順観により分かります.
  1. 2018/02/22(木) 19:45:14|
  2. 未分類

Iwasaki Yoichi: Kotoba no Tadashisa o megutte

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東大ダルシャナの系譜というと変ですが,その特徴は,要は「無師独悟」ということでしょうか.

各人が勝手にやっているということです.

独覚タイプが多いと言えばいいでしょうか.

というわけで,個性的な人を輩出するのも特徴です.

具体例は出すまでもないでしょう.(三軒茶屋方向に大先輩がいらっしゃいます.)


私が学部4年のとき,ダルシャナ教授ポストは空位.

ちょうど前年に前田先生が退官.

誰もいない状態でした.

しかし,私は,分野で選んだので,ダルシャナを選択.

人に依らずに法に依れ,の精神です.

私より後の東大ダルシャナ人を法臘の順で並べると,

片岡
青野
---
藤井
小野
加藤
志田
----
---
堀田
---
---
市川
岩崎・日比
近藤
友成
---
---
渡邊

となります.

ダルシャナ科研の事務でも大いに活躍した岩崎博士.

2015年提出の博士論文を基にした出版.

仕事きっちり.

山喜房のBibシリーズ.

江島先生の頃に始まりました.

こうやって,自分で打ち出したものを簡易な形で出版してくれるのは非常に助かります.

編集のための時間のロスも減りますし.

各人がパソコンで最終形まで作れる時代ですから,立派な本の形にこだわる必要もないと思ってしまいます.(誤植だらけのインドスタンダードに慣れた身としては,これで十分です.)

特に,博士論文レベルでは,さっさと出すことの方が重要です.

いずれにせよ,気前よく出版してくれる山喜房には,足向けて寝られません.




p. 21
それらの原因なかで>それらの原因なかで

p. 22
epstemological > epistemological

p. 22, n. 33
kāraṇam karaṇam > kāraṇa karaṇam

p. 32, n. 5
NS 2.2.60 > NS 2.2.58

p. 53, n. 4
vakṣyamāṇadūṣaṇagaṇagrāsāt.
というのも、指摘すべき過失(dūṣaṇa)が山のようにあるからである。

というのも,後述の過失群に侵されているからである。

p. 57
見えない力(adṛṣṭa)である新得力(apūrva)

ヴェーダ命令文から知られる新たなもの(apūrva)

(バッタ派ではなくプラバーカラ派の唱えるアプールヴァなので,arthāpattiによって想定されるような新得力ではなく,ヴェーダから知られる新たなものです.)

p. 57, n. 20
片岡コメント:(哲学議論における)svargaという語の直接的な意味については,svargaを実体(dravya)ではなくprītiとするミーマーンサーの論題(例えばシャバラの議論)が第一に参照されるべきです.

p. 81, n. 31
pramānāntarāvedye > pramāāntarāvedye

p. 83
近接については、それが物理的な近接なのか、それとも聞き手の意識のなかでの近接なのかという問題がある。シャバラの説明を読む限りでは、物理的な近接関係が想定されているように思われるが、

片岡コメント:例えば,ŚBh ad 3.1.12: sannihitaś ca buddhau bhavati, tena buddhau sannihitena ... (前主張者の発言より)
シャバラも「近接」という時は,意識内の近接を考えていると言ってよいでしょう.

p. 83
āvyavadhānena > avyavadhānena

p. 83, n. 43
Kashi Sanskrit Series版>Chowkhamba Sanskrit Series版

p. 112, n. 27
dṛyamānasya aśvasya
>
dṛśyamānasyāśvasya

p. 120, n. 14
bhavaty āptāḥ > bhavanty āptāḥ

p. 147
प्रामाण्याप्रमाण्ययोर् > प्रामाण्याप्रामाण्ययोर्

p. 148
pramānam > pramāam

p. 159, n. 43
aneti. pramārūpajñane > jñāneti. pramārūpajñāne

p. 164, n. 66
確定要因となる共通属性(niścāyako sādhāraṇadharmaḥ)
>
確定要因となる共通属性(niścāyako 'sādhāraṇadharmaḥ)

p. 267
स्तीति > नास्तीति

p. 287
तत्प्रतीतिच्छयोच्चारणं > तत्प्रतीतीच्छयोच्चारणं
  1. 2018/02/22(木) 17:38:12|
  2. 未分類

received: Yuto Kawamura: The Karaka Theoryゃる

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専門書の出版.

言うは易く,行うは難し.

そのことは,うちの分野で,現に出版される博論が,未だ多数ではないことからも分かります.

いまどきの印哲では,博士論文を出しているのは当たり前,さらに,英語論文もちゃんとあり,海外経験も豊富というのも,ごくごく普通になっています.

となると,他者との差異は,本の出版の有無ということになります.

川村博士.

2013年に広大で博士号.

そののち,京大でPD3年間.

そして,そのPD期間の成果をきっちり本の形でまとめて出してくれています.

偉い.

無駄に禄を食んでいたわけではない証拠が二冊.

2017年に『バッティの美文詩研究』を日本語で法蔵館より出版.

今回の英語本は,同じバッティ研究の,コンサイスな英語での研究.

コンパクトにまとまっているとはいえ,日本人にとり,英語で一冊本を出すというのは,かなりハードルの高い仕事です.

まして,海外で先生が英語を直してくれるのとは異なり,博士論文それ自体は日本語でやったわけですから,博士論文がそのまま英語の本になったというのと訳が違います.

英語は英語で,また,準備しなおしたということですから,大変な作業量です.

さすが,SPD.

研究員の鏡です.

先生の目が光る学生・院生期も過ぎ,独立した研究者たるポスドク30歳ともなると,あれこれの日常の営為をやり過ごしているうちに,無為に時を過ごしがちです.

ましてや,非常勤やら何やらと用事をしているうちに,なんだか仕事したような気になってしまいます.

しかし結果は正直です.

日本語一冊,英語一冊は,誇って良いでしょう.

小川先生も鼻高々ではないでしょうか.
  1. 2018/02/22(木) 12:43:49|
  2. 未分類

綱要書的な理解

仏教論理学の『タルカバーシャー』を梶山先生が最初に押さえたのは日本の仏教論理学研究にとって非常に幸いなことでした.

まずは綱要書的な理解によって全体をバランス良く押さえた上で,個々の問題に取り組むのは非常に大事なことだからです.

さもないと,一個一個のテクストや問題に取り組んでも,自分が何をやっているのか,自分の位置が分からなくなってしまいますから.

したがって,全体のマップを作る上で,最初に綱要書を押さえるということは非常に重要です.

その後の研究に大いに資することになります.

もちろん,綱要書というのは,あくまでも高校レベルの教科書で,やはり,PVやPSといった,本気の大著とは異なります.

尖ったところがなく,標準的な見解を分かりやすく解説したものが綱要書だからです.

(もちろん,一部に自説を入れたり,自派の見解を入れたりはしますが,そこを突っ込んだりすることはありません.せいぜい,対立する見解を要領よくまとめて,紹介してくれるくらいです.)

梶山先生がこのような戦術を採られたのが何故かは知りません.

ニヤーヤも学ばれてましたから,そこからの類推でしょうか.

ニヤーヤ・ヴァイシェーシカにおいては,まず,綱要書であるタルカサングラハなどを押さえることが極めて重要です.

宇野先生も,そのようにされています.

その後に,個々の大著に取り組むことになります.

それなしにいきなりNBhやNVなどを読んでも,基本ができてないので,ふらつくことになります.

何が古くて何が新しい要素なのか,皆目見当がつかないでしょう.

まずは,500m~1000m級の近くの山で練習を十分に積んでから,それから,高峰に挑戦するのが「順序」というものだからです.

いきなり8000m級に挑戦すれば即死するのは必至です.

いきなりマラソンを走れば脱落するのは当然です.

まずは,4kmくらいで,徐々に体を慣らしていく必要があります.

その中で,基本的な型を覚えていきます.

次に,教科書の畳の水練から,実際の対論の現場に飛び込んでいきます.


密教文献も,Saramanjariを見れば分かるように,やはり,綱要書的な理解というのは必須です.

仏教も後期ですから,いわば,総合仏教が密教です.

なんでも知ってないと読めません.

個々の細かいところはさておき,標準的な理解というのは必要です.

アビダルマ,唯識,中観.

それらの発展について,インド仏教後期における標準的な理解がどのようなものだったのか,一通りを押さえておく必要があります.

儀礼だけかと思いきや,何でもあり.

ディグナーガも引用されれば,ダルマキールティも引用されます.

まさか,ディグナーガも,「分別知も知覚だ」というフレーズが,全く違う解脱論の文脈で引用されるとは夢にも思わなかったことでしょう.

しかも,すぐ近くでは「大楽」云々言うてはりますし.

犬に咥えられて300-400年後に行き着いた先が大楽行者ですから,彼も,ひっくり返ったことでしょう.

密教を仏教の一部に収めておきたい気持ちは分からぬでもないですが,いい加減,過小評価はやめたほうがいいでしょう.

救済のあらゆる手立てが何でもありの総合がタントラですから.(たとえばシャイヴァ文献を読むには,ダルシャナも含めて,ありとあらゆる知識が必要になります.)

つまり,仏教文献やるなら密教文献も読む必要があるということです.

後代から眺め返すという視点からも,後期の仏教を密教も含めて押さえておくことは重要です.

ネパール写本の割合から見ても,仏教をやるのに密教文献を外すのは,キャラメルコーンのピーナッツだけを食べるに等しい行為とも言えます.ピーナッツ美味しいですけど.
  1. 2018/02/20(火) 19:22:34|
  2. 未分類

Mangalore taste in Ginza

  1. 2018/02/19(月) 21:53:10|
  2. 未分類

Saramanjari



様々な対象が見えていますが、外境は、一としても多としても、成立し得ないので、これらは全て認識に他なりません。

しかし、内なる真実形象についても、外界と同じく、一と多の批判方法が適用可能。

したがって、虚偽形象ということになります。

しかし、快感と同様に現れている青などについて、快感は真実、青などは虚偽と切り分けるのは、理に合いません。

したがって、全て空。

さらに、「空」というのも空じていきます。


  1. 2018/02/17(土) 22:46:07|
  2. 未分類

久間・種村タントラ研



恐ろしいタントラ虎の穴。

ハル、苫米地、種村、ピーター

久間、倉西、加納、宮崎、杉木、菊谷

横地、アルロー、張本

その他大勢。

なんか、よく分かりませんが、いつもよく会うメンツが勢揃い。

ヴィクラマ研中心の拡大研究会@大正大。

恐ろしい研究会です。

仏教タントラ界のロイヤルストレートフラッシュを目撃。

一日目の資料提供は大正大の松本氏、SSのMN章。

パーラミターナヤとマントラナヤの差異について。

ハタセーカと自説との差異。

四種のムドラー、四種のアーナンダ云々。

ディプロマティックエディション、蔵訳、梵文校訂。

会場からは写本の読みから初めてあれこれと細かい突っ込み。

鍛えられます。

にしても、豪華なベストのタントラ布陣。

大学でいうと、大正、ハンブルク、オックスフォード、京大、三重、九大、マヒドン、EFEO、駒沢、広大。

ライオンの檻の中にヤギ、あるいは、ピラニア水槽に生き餌。

西巣鴨の一角で、こんな饗宴が開かれているとは、道行くおばあちゃんも思わないでしょう。

昼はアルローと近くの朝日屋へ。老夫婦の店。

久々に、なんの変哲も無い「天丼」なる和食を食べました。










  1. 2018/02/16(金) 22:37:53|
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Hela Ajiya, Hakata


  1. 2018/02/15(木) 06:55:28|
  2. 未分類

五十嵐一『中東共育のすすめ』



1983年9月刊。先生が36歳の時。

イラン人と付き合う5つのA

あわてず
あせらず
あたまにこず
あきらめず
あてにせず

とのこと。

インドの写本調査も同じ気持ちです。

『嫌われる勇気』と同じで、相手への期待値ゼロは、精神的幸福へとつながりますから、逆説的には、それもまたよし。

何かにつけ相手に(さらには赤の他人にまで)求めすぎる「期待値高過ぎ」「完璧を求め過ぎ」の昨今の風潮を見るにつけ、ますますその感を強くします。

細かいところばかりをつついて肝心要の大事なものを失うという轍。

木を見て森を見ず。

もっとも、アビダルマ的部分還元主義に従えば、木を見るべきであって、森を見るべきではないのですが。

その意味では、木を見て森を見ない民は、正しく、仏教徒だと言えます。

さらにすすめて、木も薫習の作り出した幻影と目醒めてみれば、解脱も遠からじ。

この局面において、唯識もシャンカラ派と同類です。

一方、アビナヴァは、ここをさらにすすめて、全てを虚仮から実在に転換します。

後期唯識のプラカーシャは、ここに、再認識派のプラカーシャへと早変わり。
  1. 2018/02/14(水) 20:31:37|
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佐々木玲人『結局どうして面白いのか。「水曜どうでしょう」のしくみ』

佐々木玲人『結局どうして面白いのか 「水曜どうでしょう」のしくみ』。

隣部局の臨床心理の先生。

大泉洋の「水曜どうでしょう」のおもしろさ、その構造について、臨床心理の人が分析してみた、というのが内容。

中のストーリー(企画内容)と外のストーリー(ディレクターとのやりとりの声など)の二重構造が同時に走り、メタ構造(始まり、さいころ、同じ企画)のお決まりの安心パターンの中に、その場で起こる偶然を散りばめる、或いは、拾って行く。

そして、視点や距離の問題。

これらの仕掛けにより、視聴者があたかも一緒に旅をしたかのようになる、という仕組みについて、ディレクター二人への合計3回のインタビューをまじえ、分析。

固定した動かないカメラの視線が持つ意味、枠の内と外、そして、大泉洋の相方の空席をあえて写すことによる非存在の見える化、また、四人の役割分担についての分析。

小説もそうですが、やはり、視点をどこに置くか、どう対象との距離を取るかにより、視聴者の「参加」の仕方、共感への誘いが異なりますから、カメラの寄り方には注意しないといけません。

あえてパンしない、枠の外で事態が起こってもカメラの向きはそのまま、というのは意外でした。

作り手としては、流れているストーリー、場面を途中で切らない、という意図でした。

演じる方も、枠の内と外が意識できる、という効果もあり。

台本通りの結論が見えたつまらない予定調和を避け、その場その場の偶然を伸ばして行くという方途に共感。

人生同じですから。

非存在が在る、というのには納得。

私のやってる学派と同じ見解です。

空白の座席の持つ意味。

「非存在」についての授業ネタに応用できそうです。

大泉洋のイントネーションや間がなぜ面白いのかについては、うちの方言学者に別途、聞いて見た方が良さそうです。

気持ちいい安心の反復、退屈な繰り返しの回避、それに、その場その場で起こる(視聴者には奇跡的とも思える)偶然。

そして、偶然を伸ばして面白そうな方へともって行くパスワーク。

外から来る偶然を拒まず取り込みながら、面白い方向へと昇華させる嗅覚は必要。

インタビューの名手が言うように、こちら側で予定通りに持って行くのではなく、相手の話のいわば偶然的な要素の中から、伸びて行きそうな方向に話しを広げて行く、というのも同じ構造です。
  1. 2018/02/13(火) 19:24:00|
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国際化は英語化に非ずーーー''インド''料理屋の盛衰に学ぶ知恵ーーー

よくある無個性な郊外型店は措いておきましょう。

そこの店が好きで来ているよりは、とりあえずナンでも久々に食べるか、というランチ客が多くを占めており、いわば、「インド料理」というジャンルを、国道沿いの大衆中華のように腹を満たす一コマとして消費利用していると考えられるからです。

ナン食べ放題に象徴される在り方です。

一方、ここで問題とするのは、パチャールさんのスラージ、スヴァループさんのサーガル(閉店)、ジャマールさんのマルハバのような、個性的な人気店です。

いずれも店主の個性が際立っています。

南アジア系のコックの多くは日本語を学ぶこともなく、厨房にこもっていますし、注文のやりとり以外に客とコミュニケーションを取ることもまずありません。

「無個性」というのは、その意味です。

つまり、作り手や店主の顔は客には見えて来ません。

多くの日本人にとって、インド人だろうが、パーキスターン人だろうが、ネパール人だろうが、はたまた、何語が母語なのかは、どうでもいいことです。

当然、店でも、需要に合わせて「インド料理」とのみ銘打つことが大概です、実際にはネパール人であっても。

店主のいなくなった無個性なサーガルは寂しいものでした。

程なく潰れたのもゆえなしではないはず。

いったい、客は何を求めてマルハバ等の南アジア系の料理屋に来るのでしょうか。

料理がうまければ来るのでしょうか。

そのような層はもちろんいます。

しかし、味の違いが分かるのは一部で、多くは、付和雷同、人の評判を聞いて、「美味しいと聞いたから来る」訳です。

それら大多数の人も取り込まないと、当然、店は成り立ちません。

店がオシャレだから来るわけでもないのは、火をみるより明らかです。

マルハバは、そもそも、レストランではなく南アジア系食材店の脇で食べる、といった風です。

結論から言えば、作られる料理と作る店主の総体を含めた「インド料理」「インド人」体験をしに来ているわけです。(ジャマールさんはパーキスターンのカラチ出身ですが、カラチ出身であることからわかるように、両親は、パーティション前は現在のインド側にいた人です。)

異文化体験といってもいいでしょう。

しかし、それは、荒々しい自然そのものではなく、京都の箱庭のように安全に切り取られた「人口の自然」でないといけません。

つまり、店主が日本語を流暢に操ることで、客は、バスからサファリパークを安全に楽しむように、異文化、異国料理を楽しむのです。

そこでガイド役、信頼できるドライバーを務めるのが、博多弁も流暢なオーナーです。

安心して日本語でコミュニケーションの取れる店主がいればこそ、異国文化も楽しめるというものです。

吉塚のナングロガルに日本人客が少ないのは、完全にネパール人仕様なので、英語やネパール語、あるいは、ヒンディー語のできない日本人には居心地が悪いからだと思われます。安くて美味いからといって、必ずしも日本人が来るわけではない代表例です。

つまり、異文化を解説してくれ、理解可能な枠に切り取ってくれるガイドがいないので、不安を覚えたまま、そして、未消化のまま、異国の料理を流し込むことになります。

何でもいいから、「ナンは、インドの国の形をしてるでしょ」とでも説明してくれれば、それだけで、ぐっと、近づけます。

まして、店主が腹割って芋のお湯割でも一緒に飲んでくれようものなら、博多っ子は大喜びです。(パチャールさんのことです。ムスリムのジャマールさんは飲みません。)

多くの人が求めるのは、安全な異国体験です。

ディープすぎるインド旅行についていける人は一部です。

ほとんどの人は快適で安全な旅行を求めます。

湯が出て、エステがあって云々。

スマートなケーララ人が観光で成功するのも当然です。

逆に、ディープなインドそのままの聖地ティルパティに日本人が押し寄せることはないでしょう。(一方、私自身は、あのアーンドラ・テルグ話者の多くが持つもっさい感じに自身のyogyataaを感じます。バルトリハリの言うvaasanaaでしょうか。)

全て、インド人基準なので、日本人には堪え難いことが多すぎるからです。

檻の中で八時間待ちとかできるくらいの根性がないと無理です。(もちろん、全て金で解決できるので、金払えば、すいすいと早く行けます。)

余談はさておき、日本人と普通にコミュニケーションのできる店主。

日本人の気持ちが分かる店主がいるというのは、非常に重要なポイントです。

それは、当然、味とは別個の問題です。

必然的に、日本人女性と結婚した店主や、あるいは、日本滞在の長い店主、あるいは、クレバーで語学習得・慣習習得の早い店主が、抜け出すことになります。

つまり、日本語ができるのみならず、日本人の気持ちの分かる店主です。

昔箱崎のサティーにいたハリさん(現在バジェコセクワハウス)、日本語能力も相当なものでしたが、日本人の習慣への対応能力の高さに驚かされました。

ドマドマのスシルさんにいたっては、目の前を横切るのに「すいません、すいません」と腰を折って、中膝で、手刀を切りながら、飲み会でトイレに行くサラリーマンのように通り過ぎて行きます。

ハリさんやスシルさんの頭の回転の早いこと。

店が人気店になるのも当然です。

マルハバに新しいコックさんが来ましたが、当然ですが、日本語はできません。

ジャマールさんの役割が消えることはないはずですし、役割が消えたら、店も終わりでしょう。

多くの人は、箱庭体験をしにきているので、日本語のできるガイドが必要だからです。

そして、異国文化を分かりやすく切り取って見せて消化させてくれる「調理人」を必要としているからです。(上の考察は、南アジア系のみならず、スロスさんのカンボジア料理Siem Reapにも適用可能。)

語学がいかに重要か、日本人学生も、英語のみに汲々とするのではなく、広い視野を持って欲しいものです。

国際化は英語化にあらず。

英語BARの代表のような北天神のInternational Barという名の国際バーも、よくよく見ると、カウンターの向こうにいるのはネパール(さらに言うとネワール)とドイツです。

馬鹿の一つ覚えで英語、英語と''狂騒''している間に、現実は遥か先を行っています。

五十嵐先生なら、今の情勢を見て何を説かれたでしょうか?

安っぽい「げんだい」や「こくさい」の掛け声に騙されない様、将来を担う人々には注意して欲しいものです。
  1. 2018/02/13(火) 07:41:11|
  2. 未分類

京大で印哲セミナー

Hugo David博士の講演会。

広大から小川先生と石村君も参加。

京大の横地さんが司会、進行は斉藤PD。

前席にはソームデーブ。

ニヤマンを修論で終えたチョウさんも久々に会いました。

「ニヤマン難しいです」とのチョウさんの感想に、VVの難しさを知る私とHugoは、「いや、どちらかというと、ニヤマンは、読めば必ずわかるように丁寧に書いてあるので分かりやすいと思うけど」と反論。

講演会は、質問するつもりもなかったのですが、「じゃあ、片岡君から」との横地さんの促しがあり、仕方なく、質問。

vivaksaとyogyataという今回の主題に絡んだ質問。

その後、ソームデーブ、小川先生、横地さん、高橋君。

会場は修士学生の姿もあり、ゼミ室のコの字型前列が埋まる位。

印哲、しかも、言語理論、しかも、バルトリハリとダルマキールティにしては、かなりの盛況。

若手ですし、まだこれから博論も出版されるところですから、部外者の日本人の諸先生には、Hugoの凄さもわかる由はなく、周囲の大学からよく来られるような京大OBの姿は見られませんでした。

実際のところは、Hugoも、日本人の好きなウィーン関係者でもあるんですけどね。

いまは、おフランスの研究所ですが。

ともあれ、クリスタルクリアーな発表で、ゆっくり、しかも英語も分かりやすく、言い換えを随所に挟んだ丁寧な説明でした。

ダルマキールティとバルトリハリの類似点と相違点。

またしても、発想ネタのあれこれが、バルトリハリに見られるというネタの宝庫ぶりを見せられた感じです。

出る杭だろうが、豆腐にかすがいだろうが、バルトリハリ研究と聞けば猪突猛進、全力投球、真剣勝負の小川先生も、今回は満足だったことでしょう。

久々に小川先生のバルトリハリ愛に触れ、刺激大。

舎弟の様に克を引き連れ、つむじ風の様に去って行かれました。

  1. 2018/02/12(月) 22:28:29|
  2. 未分類

Excursion to Karatsu






Back to Hakozaki.
  1. 2018/02/11(日) 22:46:08|
  2. 未分類

Siem Reap in Yoshizuka

  1. 2018/02/11(日) 00:24:54|
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白いを山羊を連れてこい

「山羊を連れてこい」は、それ自体で完結しますが、「白いを連れてこい」では、実体が特定されないので、白の持つ裨益作用が定まらず、連行という行為そのものが失われてしまう、という趣旨のことをVPSVは述べているようですが、テクスト状態が悪く、いまひとつ判然としません。
  1. 2018/02/09(金) 20:49:42|
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BJK




世俗における「価値」(つまり値段)というのは,所詮,需要と供給の問題で,勝義的には意味はありません.

人気が出て手に入りにくくなれば値段もあがり,あるところで均衡点を見出して高値止まりになるでしょうし,人気が無いならば潰れるか,値段を下げてでも人を呼ぶか,あるいは,何らかの他の方策にでるしかないでしょう.

値段が高いからといって,必ずしも美味いわけではありません.(もちろん,あんまり安いと,ろくな材料が使えないでしょうけど.)

自分自身の判断基準を持ちえない場合には,大概,値段で判断することになります.つまり,「高いからいいのだろう」「安いのだから悪いのだろう」と.

そして,それによりさらに人気という実体のないものが形成されていったりもします.セレブに実体がないのと同じです.つまり,セレブは遍計所執性parikalpitasvabhaavaということになるでしょう.

自分にとっての価値は,別に,世俗世界の内面化という点を除けば,その人個人のものなので,他の人にとっては(本質的には)どうでもいいものです.

そして,もちろん,自分にとって価値あるもののほうが(内面的な幸福のために)大事であることは万人が認めるところでしょう.

趣味しかり,味しかり.

他人の趣味に口を出しても詮無いことです.本人が満足すればそれでよし.

(自分にとって)いい音楽だからといって必ずしも人が沢山あつまるわけでもないですし,(自分にとって)美味しいと思える店だからといって,必ずしも人気店であるわけでもないのは,議論するまでもない眼前の事実です.

バジェコの温かいダール定食を喜んで注文する日本人は数少ないでしょう.

他の日本人が注文しているのを見たことがありません.(さらにいえば,他の日本人を見ること自体,ディナータイムには稀です.)

値段から見ても,しかも,ダールというシンプルなものをメインにするところを見ても,店が意図したのは,ネパール人学生向けの安い定食とanumiiyate.

ティルパティにあるヴィシュヌ派の僧院にて,毎日毎日,あきもせず,芋カレーとダールのピュアベジを食べ続けた日々をsmaryate.(もちろん,食い放題です.)

味噌汁と同じで,毎日食べるものは,シンプルがシュレーシュタ.

ダルバートよろしく,これで食べ放題のyatheccha.m bhoktum "sakyateで,yaavat taavatですから,えらいお値打ち(arghya)だと私は思いますが,おそらく,99.9999%以上の日本人にとっては,どうでもいいこと(upek.sa.niiya)でしょう.

ワンコインのナン食い放題セットがありますから,ランチにくる人は,それを頼んで,旨味の効いたカレーと膨らまされた小麦粉により,短時間にて腹を大いに満たす(puuryate)ことでしょう.

「米か麦か」というvikalpaにおいては,完全に任意選択というよりは,「むしろ後者のほうが好ましい」というニュアンスでのvaaとなります.

普段ご米は食べれるので,外ではナンというのは至極まっとうな判断なのでしょう.

「ヒマラヤを見ずに死ぬなんて」「タージマハルを見ずに死ぬなんて」「ベナレスのガートを見ないなんて」という個人的感想の押しつけと同様,このダールの美味さを体験しないままでは,人生avikalaとは言えないのではないかと思いますが,まあ,何がavikalaかは人それぞれです.

観光名所のおきまりコース,おきまり土産の押しつけと同じで,大きなお世話(atisevaa)でしょう.

世俗の規則niyamaとやらは,タントラの二元対立解消を持ち出すまでもなく,勝義的にはniyamaではありません.

勝義において,我々が考える因果関係すら成立しないのは,龍樹を持ち出すまでもないでしょう.




豚バラのサデコ.

焼いた上にマリネしたもの.

「ビールを飲むべし」という一般教令が聞こえてきそうですが,この日は,「飲むなかれ」という特殊禁令が働いたので,あいにくラッシー止まり.utsargaとapavaadaでは後者の方が強力なので.

なお,2018/2/12-2/28改装工事で,3/5から再オープンとの掲示

すると(tarhi),3/1-4は何があるだろう(ki.m bhavi.syati?)という疑問が生じます.
  1. 2018/02/09(金) 07:33:52|
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Excursion to Miyajidake



このところ,雪の荒天の上に寒かったので,研究室に閉じこもって研究会をする以外にやることがなかったのですが,ようやく晴れ間が見えたので,研究会終了後,宮地嶽へ.

神社と奥之院とに参詣の後,浜を散策.

向こうに見えるのは,右が相ノ島,左が志賀島.

前者の猫島は,研究室有志で以前,訪問しています.
  1. 2018/02/08(木) 23:33:55|
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テクスト批判

どの分野でもそうですが,テクスト批判をする人の少ないこと.

ムーラに関しては,永ノ尾先生や土田先生の留学先でもあるW. Rauのケーララ写本に基づくテクストがあるからまだいいとしても,自注2となると,心許ないのが現状です.惨状といったほうがいいでしょう.

偉大な文法学者のチャールデーヴァシャーストリー(谷澤さんがデリー大で付いていた先生のお父さん)による、本人の意図せぬ流出出版から始まって,カルドナ先生の先生としても有名なラグナータシャルマー,そして,スブラフマニア・アイアーの遺稿出版,そして,現在は,アショークアクルジュカルの未出版原稿.

偉大な文法学の先人が何度か取り組んできましたが,もとの写本状態が悪すぎるので,テクストクリティークが完結することはなさそうです.

いくらでも更なる訂正の余地は残っています.フォリオがない欠落した箇所もありますし.

フォリオのある箇所も,よりよい読みを求めて,読めば読むほど,チェックすればチェックするほど,様々な可能性が見えてきます.

否定辞を補ってみたりと大胆なエメンデーションが必要な箇所も,結構見られます.

そうしないと意味が通じないのですから仕方ありません.

昔は所在が分かっていたのに今は分からない写本など,いろいろな問題も,時が経つと出てきます.

やれるときにやっておかないと,取り返しの付かないことになります.

アイアーの英語での紹介本のおかげもあり,バルトリハリへの敷居はぐっと低くなりましたが,VPSV2となると,まだまだです.

印哲の基本の基本であるバルトリハリのテクストがこの有様です.

他は推して知るべし.

チャールデーヴァシャーストリーのエディションは,Internet Archiveに上がっています.

チャールデーヴァシャーストリーも,色々と苦労しているようで,序文でも,怒りが炸裂しまくっています.

そこの図書館のやつが準備中だから,といって写本を見せてくれない,貸してくれない,という不満をぶちまけています.

サーンバシヴァシャーストリー,結構なケチですね.まさか,こんな形で晒されるとは思ってもいなかったでしょう.

自分の図書館が持っている貴重な写本を,その図書館のCuratorを務めているというただそれだけで他人が見るのを断るという権限がどこにあるのでしょうか。(彼の場合は彼自身が同じテクストを準備中だったので人には見せない、というのが主な理由ですが。)

しかし,世界の何処でもよくあることでしょうけど.

非協力的な輩はどこにでもいます.

「写本や写しを手に入れるために,(調査旅行などで)多額の私費出費を伴いました.しかし,少しも恨みには思っていません」とわざわざチャールデーヴァシャーストリーは記していますから,内心は,結構,恨みに思っているのでしょう.(The acquisition of MSS, or Transcripts, has entailed a heavy personal expense, which, however, I do not grudge in the least.)

ラホールから自費であっちこっちとかけずりまわって,しかも,ケーララまで出かけたのに断られたり,さらには,一部しか見せてくれなかったりすれば,それは,恨みにも思うでしょう.

出費も馬鹿にならなかったでしょう.

旅行だけでなく,手書きの書写や複写(rotographとあります)依頼でも,きっとお金はかかっているでしょうし.

きっと奥さんからは叱られていたことでしょう.
  1. 2018/02/07(水) 08:18:53|
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VPSV

生きたサンスクリットというと変な言い方かもしれませんが,VPSVの言葉遣いは,まさに,そんな感じがします.

おそらく,彼独自の言い回しもあるように思われます.

決して,出来合いの用語法ではなく,彼自身が接頭辞を適宜つけて,語根から作り出した術語ではないのか,という感じがするものがあります.

生きている言葉.

動詞語根と適切な接頭辞の組み合わせ、或いは語と語との組み合わせから,彼独自の言い回しを生み出しているのではないか.

決して固定した「死んだ表現」ではなく,自分の言いたいことを表現しようと新たな表現を獲得したものもあるのではないか,という気がします.

他には見られない言い回しがかなり見つかりますし,同じことを表わしていると思われる表現でも,場所によっては,違ったりして,完全に固定しているわけではありません.

「気がする」というのは,彼以前の論書・哲学文献が必ずしも多くないので,比べようがないからです.

この概念にはこの表現というような固定したものではなく,実に念入りに,一つ一つの表現が凝らされていますし,また,語順も相当に練っています.

もちろん,テクスト状態がよくないので,そのいちいちについて,テクスト批判が必要なので,どこまで信用していいのか,これまた微妙な問題を多く孕んでますが.

ともあれ,そのようなノイズに邪魔されながらも,自らの思想を彼独自の表現で何とか言い表そうとする努力が確かに向こうに透けて見えてきます.

バルトリハリのこのような生きた表現は,和訳ではなく,やはり,サンスクリットの原文で読まないと,その妙味と奥行きはとてもじゃないが味わうことはできないでしょう.

アビダルマや唯識で表現が固定した仏教論理学ならば,和訳しても機械的に理解できるし,和訳から思想・思考が復元可能でしょうが,自由に新たな表現を獲得していくVPSVの場合,和訳では伝え得ない部分が多すぎます.

語根の活き活きとしたイメージと,そして,接頭辞一つ一つへの配慮,物理的な表現の哲学的内容への変換と応用,その全てを凝縮して訳出するということは,ほぼ不可能です.

つまるところ,バルトリハリは,やはり,最高です.

インド哲学の尽きせぬ泉.

ディグナーガがここから多くを学び取って,仏教論理学の一体系を作り上げたのも,むべなるかな.

VPSV2のテクスト伝承の悪いのが,かえすがえすも本当に残念です.

逆に言えば,やはり,自由すぎ,また,時に深すぎて,後代の人には難しかったのでしょう.

もっと整理されて適度にバランス良く剪定されたテクストのほうが,一般人には寄りつきやすいでしょうから.

なべてのテクストが鉢植えのミニトマトだとすると,様々な実がなる巨木といった感じでしょうか.

現在残るミーマーンサーのテクストよりもよっぽど深いミーマーンサーの議論が展開されています.

この時代の人の教養や洞察の深さ、体系への配慮には、敵いません。
  1. 2018/02/06(火) 22:16:10|
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ananda bhavan sweets from Pondy

  1. 2018/02/05(月) 22:07:43|
  2. 未分類

五十嵐一『中東ハンパが日本を滅ぼす』





1991年5月刊。

この時先生は43歳。

ずっと読みたかったのですが、ようやく人から借りることができました。

講義でも「出たので一冊あるけど欲しい人?」と学生の1人にあげていらっしゃいました。

殺害されたのが同年の7月。

教室で待てど暮らせど来られないので自然休講かと思いきや、帰ってみると、事件でした。

才気煥発。批判精神の横溢。縦横無尽。

知性の塊です。

井の頭線渋谷駅,降りてすぐ,右手のエレベーターをあがった居酒屋,毎週授業後に怪気炎を上げられていた先生の姿が懐かしく思い出されます.

先生の注文の仕方も,いかにも先生らしいもの.

メニューではなく,ポップで別に一覧となって机の上に置いてある「今日のおすすめ」表を指さしながら,

「これがおすすめ?じゃあ,ここからここまで全部」という注文の仕方でした.

豪快というよりは,単に,つまらんことに頭エネルギーを割くのが無駄だから,という理由と思われます.

店をそこに固定していたのも,同じ理由からでしょう.

  1. 2018/02/05(月) 08:43:31|
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тундра



  1. 2018/02/05(月) 08:02:23|
  2. 未分類

Rec Coffee

  1. 2018/02/05(月) 07:58:57|
  2. 未分類

Ibizarte





  1. 2018/02/05(月) 07:54:02|
  2. 未分類

Vanakkam+Olas





  1. 2018/02/05(月) 07:51:06|
  2. 未分類

Marhaba



カラチよりコックさんが到着。

チキンチョーレー。
  1. 2018/02/05(月) 07:41:30|
  2. 未分類

Reading the VP with Dr. Hugo David at Indology Department, Kyushu University

20180203235523420.jpg


Dr. Hugo David (EFEO, Pondichery) will read Bhartrhari's VPsv with us.


Date:
2018/2/5--2/9

Time:
Morning Session 10:30--13:30
Afternoon Session 15:00--16:30

Reading Material:
VPsv (prepared by Dr. H.D.)

Place:
Indology Department, Kyushu University
Hakozaki Campus

Organized by:
Kei Kataoka (Kyushu University) and Akane Saito (JSPS)

ミーマーンサーからヴェーダーンタに流れ込む文意理論によりフランスでの博論を終え,その後,ケンブリッジ大学,ウィーンのIKGAで研究を続け,現在はポンディシェリのフランス極東学院(EFEO, Pondichery)研究員であるHugo David博士によるVP集中研究会を九大印哲にて行います.
  1. 2018/02/02(金) 07:58:11|
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