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Pratibhanusarini --- 九州インド哲学ブログ2

On Indian Philosophy and Buddhist Studies

pratyaksa eva

ウラディーミルと読んでいると、どうも怪しい読みが。

このままだと、主格か処格かしかありませんが、どちらもおかしい。

意味的には、「明らかに」の副詞が欲しいところ。

pratyaksata eva

だろうと見当をつけて、実際、ウラディーミルが再度写本を確認すると、果たして、taがありました。

目の前にあっても、見えないことというのは、よくあります。

pratyaksaだと思って読めば、目の前にpratyaksaが現れ、pratyaksataだと思って読めば、目の前にtaが現れて来ます。

脳の処理はそんなものでしょう。
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  1. 2018/06/30(土) 23:33:51|
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Cafe Sailer, Fukuoka



平尾霊園・鴻巣山を越えたところにあるのが、ベッカライ・コンディトライのザイラー。

カフェも併設。

季節限定のキルシュシュトゥルーデルをミットザーネで。

内装が落ち着きます。

シュトゥルーデルは、わざわざ温めて出してくれます。

時差を堪えてウィーンまで行かずとも、福岡市内に素敵な墺風カフェがあるというのは有難い。
  1. 2018/06/30(土) 18:19:30|
  2. 未分類

momo




上はナーンハウスのモモ。

下は肖記の水餃子。

  1. 2018/06/28(木) 19:54:29|
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Chowmin



上はナーンハウスのチョウメン。

下はバジェコのチョウメン。



さらに下は、肖記の涼皮。



下は向野ニューロードのチョウメン。

  1. 2018/06/28(木) 19:53:35|
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sag



「仏壇の古賀」前に出来たナーンハウスのサグとガーリックナン。

ところかわって、下は福岡の超老舗のガーリックナン。



チキンティッカを昔ここの老舗で頼んだことがありましたが、ランチの残りだったのでしょうか、ふにゃふにゃのをチンして温め直して出して来た恨みは忘れられない想ひ出です。嗚呼無情のアチェータナ。ジャダにも保土ヶ谷。




怒りのクローダ節炸裂のあまり、チキンを掴んでタンドゥールのブースの向こうにいる焼物係にクリケットよろしく投げたくなりましたが、「恨みによって恨みは止むことがない」との有難い教えを受け、平常心を保ちつつ、埃をかけて食した明恵の故事も思い出し、心を空しゅうして、いただきました。チンした唐揚げのふにゃふにゃしたのとアディアヴァサーヤして同一視すれば、これもありかなと。合掌。貪瞋痴の三毒への対治修行と思えば安いものです。こんな店でも意外に人は入ってますから、世の迷妄が深いのか、はたまた、私がおかしいのか。多数決から行けば、後者やもしれません。いずれにせよ、チキンティッカのチンしたやつ(「チンティッカ」)と明示してから出してほしいものです。
  1. 2018/06/28(木) 19:52:28|
  2. 未分類

Veg Meals in Fukuoka





2018年6月1日オープンのワナッカム。上は最近のもの。

下は少し前のもの。下はご飯増量で100円プラス。



下はディープティさんのラクシュミーにて、ムングの芽。



小料理屋を改装、こじんまりしたカウンターのみで、雰囲気満点のワナッカム。

冷房がインドよろしく直撃すると結構冷えるので、上着は必須です。

食後は隣の隣のハルコーヒーへ、と思ったら、ハルコーヒー、その日は定休日。

というか、ハルコーヒーの店主がこちらに食べに来られてました。
  1. 2018/06/27(水) 20:01:22|
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チベット読書会後


佐藤君主催の読書会の後、研究室の8名で居酒屋に。
他所からのお客様に福岡らしいものを、ということで、胡麻鯖。
  1. 2018/06/27(水) 18:58:53|
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शर्करातद्भोजिनोरिव

眞鍋君と読んでいると,何やら見慣れない格言が.

「砂糖とそれを楽しむ人のように」.

はて,いったい,何の意味でしょうか.

検索したところ,同じ著者の別著作に用例が.

さらに,その註釈を眞鍋君がチェックしたところ,ちゃんと説明がありました.

ようするに,砂糖がそこにそれ自体としてあっても,それを味わう感覚器官などの開顕者が備わっていないと,甘味の経験は起こらない,つまり,砂糖それ自体がそこにあっても,それを味わえるのは,砂糖を口にした人だけである,ということのようで,全員が全員解脱するわけではない,という文脈で用いられる格言でした.

ブラフマンがそこに自ら輝き出すものとしてそれ自体としてあっても,それを経験できるのは,修習を積んだものだけ,ということになるでしょう.

先生も同じようなものです.

猫に小判.

いくらいいもの・人が目の前にあっても,準備のないひと,目のない人には,そこにそれがないも同然.

価値が分からない人に,宝石が輝くことがないのと同じです.

砂糖は,それを口にした人だけが味わうことができます.それ自体は目の前にあったとしても.

ブラフマンとその経験者.

砂糖とその経験者.

砂糖と喜悦と結びつけるのは直感的に分かりやすい引例です.

いきなり既知であるかのように用いられていて説明もなかったのですが,用例検索をかけた限りでは,特に一般的というわけでもなさそうです.
  1. 2018/06/25(月) 23:11:43|
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第29回西日本インド学仏教学会学術大会(九大)

第29回西日本インド学仏教学会学術大会

日時 2018年7月28日(土)13:00-

会場 九州大学貝塚地区文系講義室104教室

キャンパスマップ
http://www.kyushu-u.ac.jp/ja/campus/hakozaki/
www.kyushu-u.ac.jp/f/32760/2018hakozaki.pdf
(文系中門を入って直進,左手に見える講義棟一階の左手を入ったすぐの教室が104教室です.車で来学の場合,小松門の守衛所にて通行証を貰う必要があります.)

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プログラム

2018年7月28日(土)

13:00-13:30
須藤龍真(九州大学大学院博士課程,日本学術振興会DC1)
「ジャヤンタの詭弁的論駁論の特徴」

13:30-14:00
白景皓(広島大学文学研究科インド哲学仏教学博士後期)
「『法華経』「法師品」の罪報観ー「毁罵如来」と「毀呰法師」を中心としてー」

14:00-14:30
Andrey Klebanov (Kyoto University, Lecturer)
Poet's authority versus rules of grammar. Selected stanzas from Bhāravi's Kirātārjunīya and their analysis offered by Pāninians up to Bhaṭṭojī Dīkṣita

14:30-15:00
Ham, Hyoung Seok (Kyushu University, The Robert Ho Family Foundation Postdoctoral Fellow)
"Defining the Mīmāṃsaka X: In search of the Mīmāṃsaka in the ninth chapter of the Madhyamakahṛdayakārikā by Bhāviveka."

15:20-15:50
Kengo Harimoto (Mahidol University)
「『ヨーガバーシュヤ』とダルマキールティ(1):全知者証明に関して」

15:50-16:20
杉木恒彦(広島大学大学院総合科学研究科・准教授)
「インド仏教の戦争論を再考する」(Rethinking the Indian Buddhist Ethics of War)

16:20-16:50
佐藤智岳(九州大学大学院博士課程)
「『タットヴァサングラハ・パンジカー』最終章における慈悲と無我見の修習」

16:50-17:20
護山真也(信州大学・准教授)
「ヨーガ行者の直観と全知をめぐるプラジュニャーカラグプタの議論
――Pramāṇavārttikālaṅkāra ad Pramāṇavārttika III 281-286の要約と分析――」

総会
  1. 2018/06/24(日) 17:01:28|
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gomamsam nivarayet

  1. 2018/06/24(日) 16:28:10|
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第51回南アジア研究集会


第51回南アジア研究集会


日程: 2018年8月3日(金)、4日(土)、5日(日)


場所: 山喜旅館


〒470-3235 静岡県伊東市東松原町4番7号 (JR伊東駅から徒歩7分)

URL: http://www.ito-yamaki.jp/



〔プログラム(仮)〕

1日目(午後開始)

特別講演「開発経済学とインド経済研究」

講演者: 絵所秀紀



講演要旨:  私が専攻してきた「開発経済学」と「インド経済研究」という2つの研究領域を軸に、それぞれの分野の過去50年にわたる変遷と相互交流を歴史的に追跡し、今後の展開を展望する。「開発経済学」と「インド経済研究」は常にきわめて緊密な関係にあった。長い間、インドは開発経済学が暗黙のうちに想定していた代表的な国であった。またインド経済研究の中から様々なアイデアが生み出され、開発経済学を豊かな研究分野へと押し上げてきた。インド経済研究の「尽きせぬ魅力」について、ご報告できればと思っている。



その他: 自由論題発表


2日目 

シンポジウム 「『インド通信』40年: 来し方と行く末」

講演者(50音順): 臼田わか子、小磯千尋、関口真理、松岡環

司会: 宮本久義

1978年にインド文化交流センターによって創刊された月刊誌『インド通信』は、2018年9月発行予定の480号をもって紙媒体での発行を終了することになりました。70年代から40年間の長きにわたってインド・南アジアの社会と文化、および日印の文化交流を見守ってきたインド通信が見た南アジアの姿と日印の交流史を、来し方と行く末と題してお話しいただきます。

その他: 自由論題発表



3日目(午前のみ) 

自由論題発表


第51回南アジア研究集会事務局
梅村絢美、宮本隆史、宮本久義、宮本万里(代表)、吉元菜々子
  1. 2018/06/24(日) 14:28:46|
  2. 未分類

福永さん

  1. 2018/06/23(土) 16:25:34|
  2. 未分類

シンポジウム



九州南アジア研究会のメンバー他で,教育をテーマにシンポ.

喜多村先生企画.

まとめコメントは押川先生.

懇親会は,同じビルの2F,博多の砦にて.

二次会は,川を渡ったBar Vitaへ.

さらに締めのラーメンに,すぐ近くの屋台「おけい」へ.
  1. 2018/06/23(土) 15:51:09|
  2. 未分類

弘中先生

  1. 2018/06/23(土) 13:15:21|
  2. 未分類

針塚さん

  1. 2018/06/23(土) 13:09:14|
  2. 未分類

開始

  1. 2018/06/23(土) 13:03:49|
  2. 未分類

準備中

  1. 2018/06/23(土) 11:26:35|
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日本南アジア学会30周年記念連続シンポジウム 第4回(九州)

日時:2018年6月23日(土)13:00~16:20


会場:福岡アジア美術館8Fあじびホール


福岡市博多区下川端町3-1リバレインセンタービル7・8階


   http://faam.city.fukuoka.lg.jp/use/use_acc.html




 1.シンポジウム題目

 「教育からとらえるインドの現在―多様性のなかの平等を考える」


 2.シンポジウム趣旨
 本シンポジウムでは、世界的に教育が一層重要性をもって語られる今日、南アジアの教育を国家による制度の変遷といったマクロレベルと、さまざまな人々の教育への期待や実践といったミクロレベルの両面から検討することで、共有されうる南アジア像の一端を紡ぎだすことを目的とする。
近年、18億を超える人口を抱え、経済的な発展の著しい地域として注目される南アジアは若年者人口の割合も高く、経済活動人口は安定し経済市場としての可能性も大きい。しかし、経済やジェンダーにおける格差は依然として課題であり、これらの問題は教育においても識字率の社会階層間・カースト間格差や未就学児童割合の男女間格差といった問題として表れている。教育の機会の平等が達成されているとはいえず、また、近年では高学歴者の失業も問題化している。

他方、草の根の人々の生活世界に目を向けると、都市と異なる農村の暮らしや多様な文化的背景を有する民族、部族、宗教集団に即したオルタナティブな教育の存在が、教育を一元化することの困難と問題を提示している。格差とは、ダイバーシティとは何なのかという問いをもたらす南アジアの教育に関する現状は、植民地化という歴史とグローバル化という現象の視座を抜きに語ることはできない。教育における格差是正と多様性の実現の試みを考える上で、南アジアはふさわしいフィールドであるといえよう。

人々の期待が渦巻く教育というアリーナをさまざまな主体に着目して検討することで、今日の南アジアのダイナミズムを感じながらその共通理解を試みるシンポジウムとしたい。

文化的多元性を越えて経済成長を遂げるインド。このインド世界を理解するために「教育」が果たしてきた役割と達成、可能性と課題を多角的に探る。



3.プログラムと報告者・報告題目

12:30分 開場
13:00~13:10 挨拶と趣旨説明 石上悦朗(福岡大学)喜多村百合(筑紫女学園大学)

針塚瑞樹(別府大学)

13:10~13:30 弘中和彦(九州大学名誉教授)「私のインド教育研究」

13:30~13:50 佐々木宏(広島大学)「教育の不平等の現在―高等教育の『大衆化』と貧困家族の

若者たち」

13:50~14:10 針塚瑞樹(別府大学)「『学校外の子どもたち』を対象とした教育の変遷」

14:10~14:20 休憩(質問票の回収)

スライド上映「インドの農村部に住む市井の人々」三井昌志(写真家)撮影

14:20~14:40 和田一哉(金沢大学)「経済発展、教育、女性のエンパワーメント」

14:40~15:00 古田弘子(熊本大学)「障害のある子どもの教育―インクルーシブ教育、障害女児

に着目して」

15:00~15:10 休憩(質問票の回収)

15:10~15:30 押川文子(京都大学名誉教授)コメント

15:30~16:00 パネル討論

16:00~16:15 「インド舞踊(バラタナーティアム)上演」福永美雪

16:15~16:20 閉会の挨拶 喜多村百合
  1. 2018/06/23(土) 07:52:51|
  2. 未分類

ギータゴービンダ

講義でクリシュナを紹介するついでに,いくつかギータゴービンダの詩も紹介したところ,感想で,「メンヘラの女のツイッターに似ている」というものがありました.

気を病むほどの恋愛的なバクティというのは,そういうことなのでしょう.
  1. 2018/06/21(木) 20:10:44|
  2. 未分類

received: 種村隆元・加納和雄・倉西憲一「Ratnaraksita著Padmini第1章傍論」

種村隆元・加納和雄・倉西憲一
Ratnaraksita著Padmini第1章傍論
――Preliminary Edition および註――

川崎大師教学研究所3,2018, 25--58
  1. 2018/06/21(木) 08:46:02|
  2. 未分類

印哲潜入28年(10)

私が九大に来たのが2005年ですから、学生に教え始めて今年で13年が経ちます。

どこの大学も同じでしょうが、印哲(九大での正式名称はインド哲学史講座)は人気学科というわけではありません。

こじんまりとアットホームな雰囲気を保っています.

印哲の世界に身を置いて28年になりますが、よかったことの第一は、やはり、研究仲間の多くが徳の高いお坊様が多く、人間的に良い人が多いということでしょう。

普通の研究の世界ならば、しのぎを削って、もっとぎすぎすしているのかもしれませんが、檀家さん、それも、お爺さんやお婆さんをお寺でしょっちゅう相手にされているお坊様方が多いので、気が長く寛容で、それでいて気の利く人が周囲に多いのは、とても幸運なことです。

次にいいのは、印哲の世界は文系の世界にしては珍しく非常に国際的だということです。

私も、インド、イギリス、アメリカ、オーストリアに留学しました。

また、これまで研究会や学会では多くの国々を訪れました。

研究仲間には、西欧諸国をはじめ、東欧の方々も含まれます。

また、この6月には、ロシア人の院生の面倒も見ることになりました。

2012年にはイギリス在住のインド人が一か月ほど福岡にやってきて、一緒に文献を読んだこともあります。

まさか、自分がインド人にサンスクリットを教えることになるとは思いもしませんでした。

印哲の国際性は文系では際立っています。

京大に白眉プロジェクトというのがあって、優秀な若手ポスドクを文系・理系から分野を問わず毎年19名ほど雇っていますが、毎年ごく僅かしか採用されない文系の枠の中に、結構な数で印哲の人が採用されています。

志田泰盛(2010.4--2015.3)、
熊谷誠慈(2011.4--2012.3)、
置田清和(2013.4--2017.9)、
マルク・ヘンリ・デロッシュ(2013.4--2015.3)
麥文彪(2014.4--)、
天野恭子(2017.10--)、
菊谷竜太(2017.10--)

です。

国際性という点で高い評価を得ているのが分かります。

若いうちから英語で書くというのも、文系では珍しいのかもしれません。


その白眉ですが,今年の四月からは,京大インド古典学を定年で終えられた赤松明彦先生がセンター長を務められています。

また、海を越えた人の行き来も盛んです。

オックスフォード、ハンブルク、ウィーン、ハーヴァード、そして、インドであればポンディシェリなど、インド学・仏教学の拠点となるところには知り合いがいて、また、日本でもよく昔からの海外の知り合いに会うことができます。

いま、京都大学の准教授でインド古典学を教えているソームデーヴ・ヴァースデーヴァは、オックスフォード時代からの知り合いです。

その前にいたディワーカル・アーチャーリヤも、いまは、サンダーソン教授の後を承けてオックスフォードの教授になりましたが、その昔は京都大学、さらにその前はハンブルクで博論を書いていました。

ハルと藤井君を訪ねて2002年の夏にハンブルクに遊びに行ったときは、ディワーカルがまだ博論を書いているころでした。

オランダのフローニンゲンも、普通は行く用事がないところでしょうが、二回も行ったことがあります。

ハルナガ・アイザクソンの先生、横地さんの先生、そして、張本研吾さんも雇われていたことのあるハンス・バッカー教授がいるところです。

アルロー・グリフィスも、博士はライデン大学ですが、もともとは、フローニンゲンの出身です。

田舎の小さい町ですが、ここから、ハルナガ、アルローという二人の偉大なインド学者・仏教学者が出た驚くべき場所です。

普通は行かない場所というと、懐かしいのはルーマニアのトランシルヴァニアです。

種村さんも一緒に行きました。

そこで、20人ほどで、サンスクリット読書会を開いたことがあります。

2002年7月に開かれた第一回国際サンスクリット集中合宿です。

オックスフォードの仲間が中心になって開催、ハンガリー人のイムレ・バンガ、チャバ・デジャ、マリア・ネギシ、ヒダース・ゲルゲリらが中心になって開催されたものです。

ドミニク、ソームデーヴ、アレックス・ワトソンも参加しています。

日本からは、私のほか、横地優子、種村隆元、それに、ハンブルクにいた藤井隆道の4人。

まだサンスクリットを始めたばかりで、若かったピーター・シャントも参加していました。

また、後にライデン大学の教授になるピーター・ビショップも、その当時は、フローニンゲンでサンスクリットを始めたばかりでした。

二週間同じところで寝泊まりして、超質素な研修所のご飯を食べるというのはいい経験でした。

体力的にはとてもハードで、おかげで、ウィーンに行ってから、私はしばらく寝込んでしまいました。

この合宿はまだ続いていて、次は、2019年の1月にカンボジアのシェムリアップで、ドミニクが中心になって第十回が開催される予定です。

周囲にいる学僧であるお坊様方の徳の高さ、それに、国際交流・海外経験、ということを印哲の長所として述べました。

あと一つあげるならば、やはり、優れた研究者との出会いでしょうか。

サンダーソン、カルドナ、またインドのタターチャーリヤやヴェンカタラーマンといった、超一流の学者に習うことができたのは本当にラッキーでした。

研究を媒介とすることで、全く縁がなかったような一流の人間に出会えるのですから、ラッキーこの上ない話です。

また、ハルナガやドミニクは先輩ですが、同時代、しかも、すぐ年下に生まれてラッキーでした。

一緒に読んだテクストは数えきれません。

多くの人から多くの教えを受けてきました。

今後、これまでに受けた学恩を、今後を担う若い人たちに少しでも還元していければと思っています。

これまで、京大から斉藤茜、早稲田から真鍋智裕、そして、内部からは佐藤智岳と須藤龍真が学振のPDとDCに受かってきました。

また、韓国からはHam Hyoung Seokが、アメリカのRobert Ho Family Foundationのフェローシップを貰って訪問研究員として福岡にいます。

今後も「貰えるものはありがたく頂いておく」の乞食(こつじき)精神で学振に出しまくって、他大学からもポスドクを受け入れ、国際的に活躍できる人を育てられたらと思っています。
  1. 2018/06/20(水) 20:35:47|
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印哲潜入28年(9)

オックスフォードから日本に帰って、学振を貰い、それで博士論文を書き終えて2000年の11月に提出。翌年2001年の6月に博士号を取得できました。

2001年4月には、東文研の助手採用面接に幸運にも受かって、上村・永ノ尾両先生と同じ場所で研究をすることになりました。

途中、上村先生が2003年1月24日に死去されたのは悲しい記憶です。

助手の期間は3年間。

最後の年の2003年度は、ハルナガ・アイザクソンのいるアメリカはペンシルヴァニア大学に訪問研究員として遊学しました。

お客さんですから、またしても気楽なものです。

ハルがやる授業や読書会にはほとんど出ていました。

また、ハルの授業枠を使って、院生相手に『シャバラバーシャ』を教えたりもしていました。

自分用には、博士論文以降のプロジェクトとして始めたクマーリラの『シュローカヴァールティカ』「ヴェーダ教令章」の校訂・英訳作業を進めていました。

毎週一回、ハルナガ・アイザクソン、ジョージ・カルドナ、エリオット・スターンというスター選手に英語原稿をチェックしてもらっていました。

オックスフォードでも一緒だったジョン・ネメジも、その時は、ペンシルヴァニアで博士論文執筆中。

彼はその後、ヴァージニア大学にポストを得ました。

また、『ブラフマヤーマラ』という膨大なテクストを写本から打ち込んだシャーマン・ハトリーも、ハルの指導学生でした。

彼は、モントリオールのコンコルディア大学を経て、現在は、ボストンのマサチューセッツ大学で教えています。

さて、アメリカから戻って2004年の3月に東文研助手を辞めた後(正式に言うと「東大教官を退官」した後)は,日本には何もなかったので、ウィーンに行って、ヘルムート・クラッサー博士の助けを借りて、オーストリア科学アカデミー所属で、プロジェクト研究員に採用してもらいました。

ペンシルヴァニアで始めていたプロジェクトの続きです。

シュタインケルナー、ヘルムート・クラッサーの率いるアカデミーで研究できたのはラッキーでした。

クラッサーとは、週に3回は一緒に飲んでいました。

研究所の私の前の席にはHorst Lasicがいて、後ろの席には、早稲田からサバティカルでウィーンに来られていた岩田孝先生がいらっしゃいました。

そのほか、アカデミーとは別の場所にあるウィーン大学のキャンパスには、京大出身の室屋安孝さんと、東大出身の護山真也君がいました。

東大の2年後輩である護山君とは、よく遊びました。

室屋安孝 現在、オーストリア科学アカデミーのプロジェクト研究員

護山真也 2007年10月より信州大学
2007年2月に谷澤さんが急逝、その年の10月に信州大学に護山君が赴任。

Rochusgasseの駅傍にあった護山邸では、よく日本人が集まってパーティーが催されていました。

また、京都大学出身でローザンヌの助手を長くされていた苫米地等流さんがウィーンにちょうど移ってこられたので、二人でもよく飲んだりしていました。

苫米地さんの借りていた部屋の暖房が或る時壊れたそうで、大家にもなかなか直しても貰えず、毎日室温が下がっていく寒い中をサヴァイヴされていたのを覚えています。

苫米地さんは博士号がその時なかったので、研究所から出る給料もそれに応じて安かったらしく、それでは生活できないので、大急ぎで博士論文をまとめて提出されました。

あの部屋の寒さが、博論をまとめる一つのきっかけになったのではないかと推測します。

研究所はいくつかの部屋に分かれており、スモーカーである苫米地さんの同室に、Vincent Eltshingerがいました。

ヴァンサンは完全夜型の人間で、夕方5時くらいに研究所に姿を現し、そのまま深夜まで仕事するという生活形態でした。

というわけで、私とクラッサーが飲みに行こうかとそわそわしてる夕方のころに、ヴァンサンがようやく姿を現すという毎日でした。

我々が深夜遅くまで飲んで機嫌がよくなった頃にヴァンサンが飲み屋に姿を現して、そこから改めて一緒に飲み直す、ということもありました。

スモーカーの二人は、カフェアルトウィーンという老舗のカフェがお気に入りでした。

その頃私が借りていたウィーンの部屋は、クラッサーが昔、学生時代に借りていた部屋で、彼がそのままずっと借り続けて、知り合いにまた貸ししていたものです。

とても安い家賃で貸してくれたので、私も非常に助かりました。

250ユーロでしたから、破格の安さです。

護山君の家賃が、確か、450ユーロほどでした。

私の前はHelmut Tauscher、その前は、Max Nihom (1949--)が住んでいたところです。

私の出て行ったあとは、苫米地さんが引き継いでいました。

私は、ウィーンは1年弱でした。

2005年の4月から九大に赴任。

現在に至ります。

その途中もクラッサーがウィーンに呼んでくれ、プロジェクトで予定していた英語の本を2011年にアカデミーの出版局から無事に出すことができました。

とてもお世話になったクラッサーですが、残念ながら、2014年に57歳で亡くなってしまいました。

Helmut Krasser 1956.4.27--2014.3.30
  1. 2018/06/20(水) 20:31:24|
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印哲潜入28年(8)

ポンディシェリで友達になったのが、オックスフォードで博論を終えてポスドク研究員として来ていたドミニク・グドールです。

Dominic Goodall 現在、EFEOポンディの所長

私の二歳上で、とても面倒見が良い人です。

教えたがりの人なので、何でも教えてもらいました。

その時に初めてシヴァ教の文献を読んでもらいました。

それからずっと仲良くさせてもらっています。

私がシヴァ教の文献やカーヴィヤ(美文学)も読むようになったのは、ドミニクのおかげです。

また、写本蒐集についても、あれこれと教えてもらいました。

また、1997年の1月にはバンガロールでサンスクリット学会がありました。

その時に、ドミニクの友達であったハルナガ・アイザクソンと初めて会いました。

ちなみに、ハルナガ・アイザクソン、苫米地等流、種村隆元という密教研究のお三方は、いずれも私の四つ上で、1965年生まれです。

同じ年にインド密教研究者が3人も揃うというのは珍しいことです。

さらに言うと、フランチェスコ・スフェラもバンガロールの学会で一緒でしたが、彼は、発表の間にカバンごと盗まれて財布とパスポートを取られ、一緒にご飯に行ったときには、すっかり放心状態でした。

その時の写真が今も私の手元に残っています。

オックスフォードのゴンブリッチ教授がお金を貸してくれたそうです。

1995年10月から1997年9月に至る2年間のインド留学も終えて東京に戻り、もうインドは堪能したので、次は欧米に行こうかと思っていたところ、運よく、オックスフォードに留学することができました。

1998-99年のMichael Coulson Junior Research Fellowに選ばれて、ウルフソン・カレッジに住むことができました。

ちょうど、印哲の3年先輩である種村隆元さん(現在、大正大学准教授)が同じウルフソンに留学している時です。

種村さんには、日本人を集めたパーティーをはじめ、いろいろとお世話になりました。

また、長島潤道さん(現在、大正大学特任准教授)もオックスフォードに住まれていた時です。

奥さんといらっしゃったお宅に招かれて食事をごちそうになったのを覚えています。

ポンディシェリのフランス極東学院で友達になったドミニク・グッドールも、私がオックスフォードにいた頃はちょうど戻ってきていました。

また、ハルナガ・アイザクソンも、オランダで博論を終えて、ポスドクでオックスフォードにいるときでした。

私は何の義務も制約もなく好きな授業に好きなだけ出られますし、ハルやドミニクが主催する読書会のなんやかやが、ドミニクの家でほぼ毎日行われていました。

退屈することのない楽しい日々です。

アレックス・ワトソン、エリザベス・イングリッシュ、ジム・マランソン、種村さんらが、サンダーソン教授門下生で、博士論文に必死に取り組んでいるのを横目に、私は気楽なものでした。

サンダーソン教授はとても厳しい人で、1年ごとに先生のチェックがあって、そこで先生が気に入らないとすぐに落とされてしまうというシステムでした。

実際、イザベル・オナイアンスが一年目を終えたところで落とされて、面倒を見てもらっていたハルの前で大泣きしているのを見たことがあります。

私は、東大の博士課程に籍を置いたままでしたから、オックスフォードではお客さんで、単位も取らなくていいので気楽なものでした。

みんながサンダーソン教授の厳しい授業に必死になっているのを余裕で眺めて、楽しくサンスクリットを読んでいる毎日でした。

いつもオールソウルズカレッジと図書館に籠って勉強しているサンダーソン教授は、相手によっては気難しい人だったりしますが、私に対してはとても親切で、彼の門下生に交じって私が発表したときは特別な部屋を用意してくれ、また、夕食にも差しで誘っていただいたのを覚えています。
  1. 2018/06/20(水) 20:29:57|
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印哲潜入28年(7)

ポンディシェリに家を借りていましたので、マドラスでは、東北大学出身で、マドラス大学に留学していた三上俊弘さんのアパートに寝泊まりさせてもらっていました。

ラーマーヌジャが専門の方です。

デリー大学やプーナ大学に留学すると、留学仲間というのが普通はいて、非常に親密になるものですが、私にとっては三上さんだけが留学仲間と呼べる日本人でした。

残念ながら、私が1997年9月に帰国した後の翌年、1998年5月28日に、マドラス市内でバイクを運転している途中、交通事故で亡くなられてしまいました。

トラックによるひき逃げだそうです。

マドラス大学への博士論文提出間近のことでした。

遺稿は、東北大学の先輩にあたる岡野潔教授(現在九州大学教授)により、ネットで公開されています。

インドといえばヴィザを取るのに苦労します。

私も留学前はこれで随分苦労しまして、留学前にインドに行って、必要な書類、つまり、入学許可書を取ってくるはめになりました。

また、留学中も、一度、日本に帰国してから、大阪の領事館で再度取るつもりで出国したのですが、それが、ヴィザの期限をわずかに過ぎていて、結局出国もできず、ティルパティのあるチトゥール県の県庁所在地にある警察署まで週に三回ほど片道3時間かけて往復して、ようやくにして警察署長のサインをもらって出国できるという事態になりました。

ヴィザはとにかく恐ろしいです。

インド、常日頃は何でもいい加減ですが、こういう役所の手続きになるとやたら厳密で、なあなあでは絶対に許してくれません。

とにかく大変な一週間でした。

もとはといえば、ヴィザの期限を確認していなかった私が悪いのですが。

ともあれ、ヴィザの期限はしっかり確認しておくべきでした。

幸い、警察署長は理解のあるインテリで、三回目に行ってようやく会えたのですが、彼に直接会ってからは、すんなりとサインを貰うことができました。

数週間ほど日本に帰っている間に、大阪の領事館に行って、また新たに一年間の留学ヴィザを出してもらいました。

これはあっさりと数日で出たので、ほっとしました。

しかし、その後、マドラスから仙台に一時帰国した三上さんは大変なことになります。

なんと、東京のインド大使館では、留学ヴィザの制度を変えたらしく、東京大使館からインド本国への照会が必要になったので、これまで東京大使館で数日で出ていた学生ヴィザが、博士課程のリサーチヴィザについては、何か月も待たされるというように、急に制度が変更になったのです。

結局、三上さんは、その後随分長い間、東北大学の研究室のソファーで寝泊まりすることになり、東京の大使館からヴィザ発給の連絡が来るのをずっと待つことになりました。

結局、私が9月に帰国する直前に三上さんはマドラスに戻ってくることができました。

インドのヴィザはとにかく大変です。

三上さん、東北では赴任してまもなくの後藤敏文先生に可愛がってもらったらしく、つらいことばかりでもなかったそうです。

後藤敏文 1948--
1988.10-1991.3(岩手大学)、1991.4-1996.9(大阪大学)、1996.10-2012.3(東北大学)、2014.4-(国際仏教学大学院大学)
  1. 2018/06/20(水) 20:07:19|
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印哲潜入28年(6)

修士を三年で終えて、博士の一年目。

インド留学をするつもりでしたので、事前に修士3年の正月から、文部省のアジア派遣留学制度に応募していました。

文部省の面接では、ど真ん中に「縦社会・横社会」で有名な社会学の中根千恵先生が委員長で、ほかにも大勢の先生方がいらして、矢継ぎ早に鋭い質問をしてきますが、難なくかわして、見事受かりました。

開口一番、「あなた、胃腸は丈夫?」という質問でしたが、私は、生まれつき胃腸が丈夫なので、「お腹は丈夫です」と自信満々に答えたところ、とても満足の御様子でした。

たしかに、インド留学において重要なのは、頭脳云々よりも体力のほうですし、何よりも、胃腸ですから、中根先生の質問は、ふざけているようで的を射た質問です。

中根先生、面接の最後には、「永ノ尾先生はお元気かしら。よろしくね」ということでした。

面接が終わって廊下に出てきた他の学生達はさんざんやりこめられたらしくて、真っ青な顔をしている人が多かったです。

ちなみに、インド留学の前に、すでに、1992年の3月に卒業旅行でインドに初めて行って以来、毎年春には、インドに行っていました。

また、1995年、インド留学が決まった後は、インドの学長に入学許可書を貰いに、留学前にティルパティまで出かけて入学許可書を貰ってきました。

ティルパティに留学したのは、1995.10.1です。久間さんや藤井君が成田の空港まで見送りに来てくれました。

1992.3 北インド旅行

1993.3 南インド旅行

1994.3 北インド旅行、ネパール

1995.7 入学許可書取り

1995.10.1--1997.9 南インド留学

ティルパティにあるラーシュトリーヤ・サンスクリット・ヴィディヤーピータという国立のサンスクリット大学に留学しました。

ラーマーヌジャ・タターチャーリヤという有名なパンディットに習う予定でした。

1993年に訪ねた時は、タターチャーリヤ教授が学長だったのですが、私が留学する前に既に定年退職されて、ポンディシェリのフランス極東学院(EFEO)に移ってしまわれていました。

幸い、後任のS.B. Raghun\=ath\=ac\=arya教授とは気が合ったおかげで、入学許可書も出してもらい、指導教員になってもらうことでも了解を取り付け、なんとか留学ヴィザを手にすることができ、予定通り、10月に出発したわけです。

色々と苦労はありましたが、その後、5か月経った3月にポンディシェリに居を移して、そこで、タターチャーリヤ教授に習い始めました。

また、さらに5か月経った1996年の8月には、マドラスのJ. Venkataraman教授に習うようになりました。

彼が、私のミーマーンサーの師匠で、その後、14か月に渡り、毎日習うようになります。

自分が修士の間、ヒンディー訳を頼りに理解してきたミーマーンサーが、インドの伝統的な学者(パンディット)が理解しているミーマーンサーからずれていないことが確かめられて満足でした。

また、パンディット的な理解というものを学ぶことができた貴重な機会でした。

個人授業はいずれもすべてサンスクリット語ミディアムです。

「明日は何時に来てくれ」「明日から出張でいないから」という日常会話のやりとりも、すべてサンスクリット語でやっていました。

ティルパティの大学で、既に、みっちりとサンスクリット会話・聞き取りのトレーニングを積んでいましたので、タターチャーリヤ教授やヴェンカタラーマン教授とのやり取りに困ることはありませんでした。

インドの個人授業がいいのは、週に一回ではなく、とにかく毎日読んでくれることです。

日本の7倍のスピードで読み進めることができます。

というわけで、14か月で、ものすごい分量を読んでもらうことができました。

サンスクリット語のシャワーを浴びまくった2年間です。

また、まだネットもなかった時代ですし、暑くて外で遊ぶこともないですし、酒もうまくないわで、とにかくサンスクリット文献を読むくらいしかやることがありませんでした。
  1. 2018/06/20(水) 20:03:42|
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印哲潜入28年(5)

学部の四年から修士にかけての頃は、チベット語の福田洋一先生のツォンカパ読書会に、ずっと出ていました。

仏教青年会のある日本信販ビルの上で福田先生が開いてくれていた読書会です。

福田陽一 東洋文庫専任研究員を経て大谷大学

日本のダライラマ界隈では有名な早稲田の野村正次郎君も、私が習って二年ほど経った頃に加わってきました。

その頃は彼もチベット語初等文法を終えたばかりで、何も分からない状況だったので、それまで読書会で進んだ箇所の私の勉強ノートを貸してあげたのを覚えています。

優しい福田さんは、いつも丁寧に対応してくれるので、東洋文庫の部屋は、心が慰められる場所でした。

北区の滝野川からだと、駒込の東洋文庫は東大に行く途中にあるので、修士の頃は、しょっちゅうお邪魔していました。

奥様の石濱さんの面識を得たのもその頃です。

野村君もいるので、その頃から、早稲田の東哲の事情というのも分かるようになってきました。

修士2年の1993年度には、集中講義で桂紹隆先生が広島大学から来られ、ダルマキールティのHetubintuを、アルチャタの註釈で読まれるという非常に高度な授業をしてくださいました。

厳しいスタイルで、事前に和訳を紙に打ち出して提出して、それを読み上げる形で発表せよ、とのことでした。

東大の演習では、紙に打ち出すことなく、各人が輪読で読み上げるだけでしたので、このスタイルは新鮮でした。

広大スタイルです。

確かに、このスタイルは、確実に学生の和訳を直せて、しかも、訂正された正しい解釈が最終的にパソコンに残ることになるので、とても効率の良い蓄積方法です。

卒論・修論・博論を、授業の中で着実にやらせるには、このスタイルが一番だということは、いまだと良く分かります。

九大でも、原則、大学院では、打ち出した紙を私が直していくという広大スタイルで進めています。

そのスタイルに初めて出会ったのが、この桂先生の集中講義でした。

私はその頃はミーマーンサー専門と決めていましたし、インド仏教論理学専門でもなかったので、仏教論理学やダルマキールティに興味も思い入れもあるわけではなかったのですが、アルチャタはどちらかというとバラモン教養が深いタイプで、ダルシャナ文献を読んでる感じで楽しむことができました。

必死に予習して臨んだのを覚えています。

私にとって、かなり早い段階で桂先生の面識を得ることができたのはラッキーなことでした。

覚えがめでたかったのか、あるいは、桂先生がそういう人なのか、その後は、何かにつけて良くしてもらっています。

広島、ポーランド、京都、学会や研究会の折に先生にごちそうになったことがあります。

また、宮島にあった桂先生の別荘にも一度泊めてもらったことがあります。

ちなみに、その宮島の別荘、いまはお好み焼き屋になっていて、この前宮島に行ったとき偶然に入った店が、「見たことあるな」と思っていたら、実は、もと桂先生の別荘だった、ということがありました。

さて、1995年の春、無事に修士論文を提出。

提出したその週には、一学年上の久間さんと、印文の助手だった横地優子さん(現在、京都大学教授)という同じ面子3人で週に三回も飲みに行って、しかも、三回とも横地さんにごちそうになったのを覚えています。

久間さんは金も持たずに飲みに行って、途中から横地さんを電話で呼び出すという感じでした。

横地さんも横地さんで、夜遅くになってからでも、お酒の誘いなら絶対に断らない人でした。
  1. 2018/06/20(水) 19:59:49|
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印哲潜入28年(4)

さて、ようやく修士に入るころまで話が来ました。

大学院では、ミーマーンサーを専門にすることにしました。

ヴェーダ祭式規定についてのややこしい解釈学です。

九州大学出身で佐賀医科大学にいらっしゃった針貝邦生(はりかいくにお)先生を除けば、日本では、ほとんど誰もやっていない分野だったので、先行研究などあまり気にせず、自由にやれると思ったからです。

また、修論でやることになる『シャバラバーシャ』については、文法学の大家であるユディシュティラ・ミーマーンサカという学者がヒンディー語訳を作ってくれていたので、やれる自信がありました。

幸い、1991年、私が4年生の時に、東洋文化研究所にヴェーダ祭式学・ヒンドゥー儀礼学が専門の永ノ尾信悟(えいのおしんご)先生が加わったときでした。

私にとっては、非常にラッキーなタイミングでした。

永ノ尾先生には、その後、ずっとお世話になります。

永ノ尾信悟 1948.7--、1991--2013東大東文研在職

前田先生が退官されたのが1991年の3月。

1年間の空白の後、その後任として、武蔵野女子大学より丸井浩先生が東大に着任されました。

ちょうど私が大学院に進んだ1992年4月のことです。

ということで、自動的に、ダルシャナ専門ということで、大学院では私も丸井門下ということになりました。

大学院の入試の時には誰も指導教授になる人が決まっていないという状態で、入ってから指導教授が決まるという、とても奇妙な選び方になったわけです。

丸井浩 1952--、1992--2017東大在職

しかも、丸井先生は、1992年に来られて一年経った1993年度には、ハンブルク大学のヴェツラー教授の下に在外研究で一年間不在という状況でした。

先生もいない中で、私がお世話になったのは、諸先輩方との読書会、そして、印哲の大先輩でもあり、大東文化大学の教授で、非常勤に来られていた松本照敬(しょうけい)先生です。

松本照敬 1942--、

松本先生はラーマーヌジャの研究者です。

授業では、入門書であるVed\=arthasa\d{m}grahaを最初から最後まで、また、主著の \'Sr\={\i}bh\=a\d{s}yaの一部を講読していただきました。

また、印度文学研究室(印文)のほうでは、非常勤に、京都大学ご出身で、東海大学にお勤めだった正信公章先生が、『シャンカラバーシャ』という王道のヴェーダーンタ文献を読んでくださいました。

正信公章(きみのり) 1988.4--1994.3東海大学、 1994.4--追手門学院大学在職

とにかく議論好きの人で、私があれこれと可能性を提案すると、それにいちいち付き合ってくれるという人でしたので、予習も楽しみでした。

また、終わってからも、本郷の同窓会館の庭でビールを飲むのが習慣で、ちびちびとビールを飲みながら、延々と何時間でも議論してくれる先生でした。

ダルシャナ文献を勉強する上で、授業はとても勉強になりました。

強い印象を残してくれたインド哲学の先生です。

とても慎重な先生なので、あまり派手な論文は書かれませんし、論文の数も少ないですから、我々の学界では余り目立たない先生ですが、とても尊敬できる先生です。

正信先生や永ノ尾先生といったすぐれた研究者を見るにつけ、サンスクリットに関しては、京大出身者はすごいな、と思わされたものです。

服部正明・梶山雄一・大地原豊(おおじはらゆたか)という京大の黄金時代に鍛えられた先生方の実力はやはりすごいものがあります。

東大出身の先生方はスマートに格好つけるので、分からない部分は飛ばして知らんぷりを決め込むという、よく言えばバランスのよいスタイル、という印象がありますが、京大出身の両先生は、むしろ、分からないところほど深く突っ込んで問題解決を図る、とにかく徹底的にこだわる、いくらでも時間をかける、というこだわりの真摯な姿勢が明らかでした。

とにかく文献に誠実に、直訳で全然構わない、というのは、私が永ノ尾先生から教わったことの第一です。

実際、永ノ尾先生は、とにかく、何に対しても誠実・正直な方でした。

サンスクリット文献に素手で立ち向かうには、実は、分からないことを分からないこととして認識して、そこから出発するという誠実な態度が必要です。

そこから、動詞語根の語源的意味の分析を通して、自分でいちから意味を捉え直し、内容をリアルに、できれば身体的に再現できるほどにありありと理解していく必要があります。

このようなスタイルは、祭式学の永ノ尾先生から叩き込まれたものです。

praという接頭辞が「前に」というニュアンスを持つのは分かっていましたが、それが、祭式文献の文脈では、具体的に「東に向かって」を意味するということまで知ったときは驚きでした。

永ノ尾先生の授業では、祭式マニュアルであるシュラウタスートラや、さらには、祭壇の作り方や、祭式の用具の作り方を記した文献を読んだりしました。

縦横がいくらの長さになるのか、高さがどれだけになるのかなどという数字まで書き込まれた文献をサンスクリット語で読み取るのは、インド哲学の思想宗教文献とは全く違う世界で、とても面白かったのを覚えています。

修士論文は『シャバラバーシャ』の祭式分析部分を選びました。

ユディシュティラ・ミーマーンサカのヒンディー語訳を頼りに、全く独力で最初から理解していきました。

なにぶん、専門家が近くには誰もいませんから、分からないことは全て自分で調べるしかありませんでした。

大正大に近い北区滝野川の安いアパートで、窓を開け放しながら夏休みにマッキントッシュのデスクトップに向かっていたのを思い出します。
  1. 2018/06/20(水) 19:55:03|
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印哲潜入28年(3)

さて、大学院に進む時には、専門を決めなければいけません。

ご存知の方もいるかとは思いますが、東大の印哲は、中村元先生のおかげで、卒論のかわりに特別演習といって、試験を三つ受けて卒論の単位に変えます。

大学院で何をやるつもりなのかに応じて、特別演習の課題、つまり試験を三つ選択するわけです。

仏教をする人は、サンスクリット文献二つに漢文一つを取るのが普通でした。

たとえば、江島先生が校訂した『アビダルマコーシャ』の第一章である界品、前田先生の校訂した『ウパデーシャサーハスリー』、それに、『大乗起信論』という感じです。

しかし、私は、漢文よりもサンスクリットのほうが性に合っていましたし、インド仏教もどうもやる気にならず、4年生の頃にはインド哲学をやるつもりでいましたから、三つ全部サンスクリットにして、『大乗起信論』の代わりに『バガヴァッドギーター』を取りました。

三つ全部サンスクリットにする人はこれまでいなかったらしく、えらく珍しがられました。

専門を決める上で、やはり重要だったのは、自分が何が得意か、何が好きか、何ならやっていけそうか、ということでした。

漢文はどうも駄目だし、かといって、インド仏教もどうも先生を敬い奉る演習授業の雰囲気に親しめませんでした。

そうなると、インド哲学をやるしかない、という雰囲気に徐々になってきました。

私の場合、ヒンディー語訳を使ってサンスクリット語の文献を勉強していたので、やはり、インドプロパーのダルシャナ系のほうが有利ということになります。

インド仏教文献にヒンディー訳のあるものは少ないですが、インド哲学文献となるとヒンディー訳のついたテクストが沢山あります。

幸い、デリー留学をしたこともある助手の谷澤さんが、ヒンディー語訳の情報に詳しく、しかも、研究室にもヒンディー訳のついた文献を沢山購入してくれていたので助かりました。

その頃の研究室でヒンディー語をやっている人は、谷澤さんと私くらいでした。

サンスクリット語はやるけれど、ヒンディー語まではやらないというのは、印哲研究室の欠陥の一つだと思います。

少なくとも、インド哲学やインド文学といった、インドプロパーをやる人は、キャリアの最初からヒンディー語をやっておくべきだと思います。

パーリ語やチベット語がインド仏教をやるのに必須なのと同じ感じだと思います。

ちょうど仏教学者にとってサンスクリットを読む際にチベット語が補助になるのと同様に、インド哲学文献を読む際にも、ヒンディー語訳は補助になりえます。

私自身は、修士2年くらいまでは、ヒンディー語を補助に、サンスクリットを読むという作業をしていました。

それ以降は、ヒンディー語に頼らずともサンスクリットを単独で読むほうが早くなったので、いちいちヒンディー訳をチェックすることも余りなくなりました。

その頃、ダルシャナの先輩には、早稲田から来た有賀弘紀(あるがこうき)さん、神戸女学院から来た細野邦子さんが上のほうにいらっしゃって、聞けば親切に何でも教えてくれました。

有賀さんは非常に親切丁寧で、私もそれに甘えて何でも気兼ねなく聞いていたのを覚えています。

谷澤さんも、普段は冗談ばっかり言って明るく楽しいおちゃらけの人ですが、専門に関してだけは真剣に答えてくれました。

前田門下のダルシャナの先輩方の醸し出す雰囲気というのも、専門を選ぶ上では大きかったように思います。

広大からやってきた戸田裕久さん(現在、立正大学教授)は、いつも谷澤さんから馬鹿にされていましたが、人の好さは際立っていました。

戸田さんのお父様は修行を積んだ日蓮宗の偉い聖者だそうです。

戸田さん自身は、メンタルだけは人並み外れて打たれ強い人だと思います。

ちなみに、谷澤さんは、「Hの次にIが来る」というHI理論なるものを唱道されていて、ペンネームは「カマスとらぞう」を名乗っていました。

助手なので東大では授業を持っていなかったのですが、外の非常勤先では、歌も歌うし、変な理論は提唱するし、人気の楽しい授業だったそうです。
  1. 2018/06/20(水) 19:50:05|
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印哲潜入28年(2)

ダルシャナの先輩方と言いましたが、私にとっての一番のダルシャナの先輩といえば、印哲に進学した時の助手である谷澤さんです。

谷澤淳三 1954--2007.2.20(1994.4より信州大学)

インド文法学、つまり、パーニニ文法学の専門家です。著書として、バルトリハリの翻訳研究が山喜房から1991年に出ています。

『Bhart\d{r}hari著V\=akyapad\={\i}ya 3-14 : V\d{r}ttisamudde\'sa訳註研究(1)』 (山喜房悌書林,1991年11月)

文法学の専門家だけに、サンスクリット語、特に哲学文献に関しては、細かいところまで正確に読むことができる数少ない人でした。

かといって字面にこだわる人では全くなく、「哲学しなけりゃ意味がない」という人で、とにかく、考えること、文献に切り込む視点を持つことをいつも自ら実践されていたように思います。

意表を突くのが得意で、とにかく、批判精神旺盛な人でした。

学生時代は、東大と日本女子大の劇団である劇団イェルサレム(後にシアター・マーキュリーと改名)で活動されていたそうで、野口五郎に似た随分と男前な方でした。

成蹊高校出身、育ちのよいお金持ちのご子息で、反抗心の強い、はねっかえりの三男といった感じでしょうか。

研究室では、いつもびしっと格好良くスーツを着こなされていました。

ダンディーで男前、しかも、頭が切れるときてますから、研究室でも人気者、谷澤さんの自主的な読書会には沢山の人が出ていました。

私は、『興禅護国論』を読む末木先生のゼミにも出てみたのですが、どうにも漢文が退屈で、漢文の仏教はすっかり諦めてしまいました。

ちなみに、その当時、日本仏教は印哲研究室ではマイナーな感じで、学生もほとんどいないような状態でした。

日本仏教をやろうという奇特な人は、一学年上の前川健一さんくらいでした。

いまでは超有名人の末木先生も、その当時は一般書は全く書かれておらず、ひたすら専門論文を書かれていた時代です。

いつも自室にこもって勉強している人で、ときどき研究室に出てきては文献のコピーをしている先生、という印象でした。

印哲の先生方の中でも一番人気は、何と言ってもインド仏教の江島先生でした。

韓国・台湾・タイからの留学生は大概、江島先生に師事していました。

法鼓山の郭さん(釈恵敏)、印順法師で有名な福嚴佛學院の葉さん(釋厚觀、大智度論の研究)、韓国からは李鍾徹さん(アビダルマの破我品研究で有名)、また、タイからは、王族・貴族か何か知りませんが、えらく育ちのよいお嬢様(ニラモンさん)がいらっしゃいました。

また、早稲田の学部からはチャンドラキールティ研究の岸根敏幸さん(1963--、今は福岡大学教授)、慶応の学部からはカマラシーラ研究の計良龍成さん(その当時の名前は隆世、現在、法政大学教授)といった方々が博士課程にいらっしゃって、江島ゼミに出席されていました。

先ほど言及しましたが、善寶寺の斉藤信義先生の御子息である斉藤仙邦さんも、東京外大のドイツ語を出てから印哲の院に移ってこられた先輩です。

さて、東大の印哲では、通常、3年生になって印哲に進学してからサンスクリット文法を始めるのですが、私は、先ほど申しましたように、1年生から初級を始めていました。

また、2年生では、駒場で土田龍太郎先生の初級文法が開講されていましたので、それも受講していました。

したがって、2年間で、すっかり初級文法は終えていましたので、3年生からは、すぐに中級の演習に出ていました。

つまり、印哲の通常コースより一年早かったわけです。

ちなみに、同じ学年には、学士入学で、東大の理系出身で、印哲3年に入り直した鈴木隆泰さんと、早稲田を出てから学士入学できた西沢史人(ふみひと)さんがいます。

もう一人、学部卒業で辞めた藤田という同級生がいました。

彼は確か真宗のお寺さんでした。

前田先生は、中村元先生の和訳もある『ガウダパーダカーリカー』を読まれていました。

物腰の柔らかい前田先生の授業は、いわゆる「楽勝」の授業で、中村先生の和訳をそのまま読み上げれば「結構です」と言われ、それと違うと「ちょっと違います」と言われる、というような授業でした。

ガウダパーダ自体の詩節も、それほど複雑なものではないので、サンスクリット語を鍛えるには、あまり勉強にはならないテクストでしたが、しかし、思想的には、いろいろと興味深いヴェーダーンタの思想が披露されている文献です。

いっぽう、前田先生と同い年である印文の原先生は、長年続くサンスクリット中級の名物演習であるランマンの教科書で、ナラ王物語などを読まれていました。

私は、学年的には、ひとつ上の学年の方々と一緒に中級サンスクリットを勉強していました。

上智のロシア語を出て、暫く経ってから学士入学で印哲に入り直した伊澤敦子さんとはよく同じ授業を取っていました。

いまでは私もサンスクリットを結構なスピードで読めますが、その当時は、原先生の予習のために、中央図書館、しかも正面の噴水が見える天井の高い部屋で、二日間ほどかけて一所懸命予習をしていたのを思い出します。

1行をちゃんと理解するのに何時間もかかっていました。

いつになったら谷澤さんのように予習なしに初見で読めるのかと、その当時は、全く想像がつきませんでした。

原先生の授業はそれほどきつかったです。

3年生の時だったでしょうか、江島先生は、プラジュニャーカラマティのBodhicary\=avat\=arapa\~njik\=aを読まれていました。

第九章ですから、説教くさくなく、結構、議論が入り組んだ論書らしいいわゆる哲学哲学っぽい文献です。

当然、解釈が分かれる難しい部分もあるわけで、私は、先の先の用例まで調べて先生に反対意見を述べたのですが、あまり予習をしていなかった江島先生は、その場では逃げを打つばかりで、学部3年の新米の意見などには全く聞く耳を持たない、という感じでした。

また、先輩方も、そこまで予習していなかったらしく、誰も意見を言う人はありませんでした。

唯一、斉藤仙邦さんだけが、「片岡は、えらいよなー」と言ってくれました。

ちなみに、翌週、授業に向かう廊下で江島先生は、「君のが正しい」とこっそり言ってくれましたが、それなら、授業中に皆の前で言ってほしかったところです。

格好つけの人なので、博士学生が居並ぶ前で、学部生の意見を受け入れるなどということは、とてもできなかったのでしょう。

そんなことから、江島先生への畏敬の念は、その時から全くなくなってしまいました。

相手の意見のほうが優れていれば、格好つけていないで、さっさと取り入れるべきでしょう。

また、私が4年生の時には、前田先生が退官されたせいで、誰もインド哲学プロパーを教える人がいないという状況になったので、江島先生がダルシャナ文献を読むことになり、『サルヴァダルシャナサングラハ』というインド哲学の綱要書の冒頭から読むことになりました。

江島先生は、昔、中村先生の演習でそこを読んだので、昔のノートをひっくり返せば楽勝で教えられると思っていたようです。

しかし、『サルヴァダルシャナサングラハ』の冒頭は、実は難しく、ダルシャナ以外の人が簡単に教えることができるようなものではありません。

というのも、冒頭、チャールヴァーカ(順世外道)、つまり、唯物論者が登場するのですが、その外道が、推論のとてもややこしい議論を展開して、ウダヤナのウパーディという概念の定義にまで言及するようになるからです。

つまり、いきなり、ナヴィヤニヤーヤに片足を突っ込んだ、ややこしい話になるわけです。

推論の前提となる遍充関係について、よっぽど詳しく理解してないと、頭が真っ白になってしまうような議論が、さらっと出てきます。

当然、楽勝と思っていた江島先生は大混乱。

「昔のノートが訳に立たない」「中村先生のは駄目」ということになり、すっかりお手上げ状態でした。

その時、演習に出ていたのは、学年が一つ上の久間泰賢さん(現在、三重大学准教授)と、京大を終えて上野の実家の米屋を手伝っていた西脇正人さんでした。

先生を抜きにして、3人で、ああだこうだと議論していたのを思い出します。

また、どうしても分からないときは、谷澤さんに聞きに行ったりしていました。

谷澤さんは、「こんなことも分からないのか~」と言いながら、とても嬉しそうでした。
  1. 2018/06/20(水) 19:38:54|
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印哲潜入28年(1)

私が東大駒場に入ったのが1988年4月。

その2年後の1990年4月に印哲研究室に進学したので、印哲の世界に正式に入って今年で28年になります。

その当時の教授陣は豪華でした。

前田専学1931.4.1--(東大在職は1973.4-1991.3)

江島恵教(やすのり)1939.8.28--1999.5.22

木村清孝1940.12.19 --

末木文美士(ふみひこ)1949.9.6--

主任教授の前田先生は世界的に知られたヴェーダーンタの研究者です。

江島先生は中観、とくに、バーヴィヴェーカの研究者で、『中観思想の展開』はよく知られた研究書です。

中国仏教の木村先生は華厳、末木先生は日本仏教です。

以上に加えて、印文(印度文学研究室)と東洋文化研究所にも次の三名の先生がいました。

原実1930.9.9--

土田龍太郎1947.9.29--

上村勝彦1944.3--2003.1.24

錚々たる顔ぶれです。

「印哲の世界に入った」と言いましたが、私は、東大に入る前から印哲に入るつもり満々でしたので、入学してすぐ、一年生の時からサンスクリット語の授業も取っていました。

竹内信夫1945.1.31--

駒場のフランス文学の先生で、マラルメやベルクソンの研究者ですが、香川のご出身だそうで、空海に興味があり、それでサンスクリットを独学で始められ、ついでに駒場のゼミナール授業も開講されて、週に一回、1~2年生を相手にサンスクリット語の初級を教えているという変わった先生でした。

本郷の印哲研究室とは全く関わりがない方でした。

印哲に入って日本仏教でも研究しようかと漠然と考えていたのですが、そんな時、同じクラスの三瀬君が、ヒンディー語の授業もあるというのを教えてくれました。

サンスクリット語の授業を取っていたおかげで、デーヴァナーガリー文字は1~2週目で既に覚えていましたので、ヒンディー語も楽勝だろうと思って、すでに2~3週目を過ぎていたのですが、途中から、のこのこと受講するようになりました。

東京外大から非常勤で来られている先生でした。

田中敏雄 1937--

いまから考えると、田中先生のおかげで、私の現在のあり方が大きく規定されたように思います。

先程申しましたように、最初は、仏教研究をしようと思っていたのですが、今ではインド哲学プロパー、つまり、インド仏教を超えてさらに、その向こうにあるインドそのものの哲学、つまり、バルトリハリやシャンカラやクマーリラといった、いわゆる婆羅門教の哲学文献を扱うようになっています。

世間的には一応、聖典解釈学ミーマーンサー学派の専門家ということになっています。

それに関する専門書も三冊出しています。

日本仏教を研究しようかという人間が、いまではクマーリラ研究をしているという、ちょっと変わった結末になっている訳です。

それもこれも、ヒンディー語の田中先生との出会いがあったからだと、今から振り返ると思えます。

田中先生のヒンディー語初級、最初は20人ほどは出ていたように思いますが、マイナー語学はどこもそうでしょうが、週が進むにつれて、一人二人と抜けて行って、途中からは4人ほどで固定したように覚えています。

先生は、授業が終わると毎回、「では、時間のある方は、お茶でも飲みに行きましょう」と誘ってくださいます。

最初は、近くの喫茶店でお茶を飲みながら、「君はどんなことに興味があるの」などと優しく会話してくれていました。

そのうち、喫茶店の後に、「では時間のある方は一緒にご飯に行きましょう」と誘ってくださるようになり、井の頭線の渋谷を降りた駅ビルの上で食べるようになりました。

毎回ごちそうしてくださるので、それが楽しみで授業に出ていたのですが、そうなると、逆に、授業の予習に手を抜くことができないので、毎回、きちんと予習復習をして臨んでいました。

白水社から出ている『エクスプレス・ヒンディー語』は、第十課まではデーヴァナーガリー文字の下にカタカナ表記がついてますが、それ以降はカタカナがなく、デーヴァナーガリーを素で読まないといけなくなります。

幸い私は、最初から、カタカナを隠してデーヴァナーガリーだけを読んでいたので、11課に入ってからもすらすらと音読できたのですが、クラスのほとんどの人はカタカナを読んでいたらしく、11課に入った頃から、つまり、夏休み明けからは、周囲との差が結構つくようになっていました。

その中で耐えた人だけが最終的に一年間残った人というわけです。

同級生の一人は、いまは、駒場で近現代のインドを教えています。

またもう一人は、私大でネパールの文化人類学を教えています。

2年生の夏休みだったでしょうか、田中先生が、学生3人を連れて合計4人で、山形の善寳寺で合宿をした時がありました。

そのころは善寳寺が何なのか、どこの宗派なのかもよく分かっていませんでしたが、印哲の大先輩である斉藤信義(1918--2009.11.26)先生が住職を務める曹洞宗の古刹で、その斉藤先生の息子さんが、その後、印哲での先輩になる斉藤仙邦さん(1956.7.28--)に当たります。

ご飯が美味しかったのと、その当時ブームになった人面魚、それに、どんどこ太鼓を鳴らす朝のお勤めが眠かったのを覚えています。

後に印哲で後輩になる小野卓也君もここで一年間修業しながら修論を書いています。

田中先生は、昔から非常勤でヒンディー語を教えに来られていたので、印哲の上のほうの先輩の名前も懐かしそうによく言及されていました。

清島秀樹(近畿大学)

船津和幸(信州大学、2014年3月退職)

お二人とも印哲の、しかも、ダルシャナ(ダルシャナというのはカタカナのインド哲学のこと)の大先輩にあたりますが、私は、今の今まで、直接の面識は得ていません。

清島先生は、専門の論文はすっかり書かれなくなっていますし、我々の間では、唯一、岩波講座東洋思想の第七巻に、反文献学の見本のような論文「バルトリハリの言語哲学」という影響力のある論考を書かれているくらいです。

すっかり専門から離れて好きにやっている先輩の見本のような方です。

いっぽうの船津先生は、いつも上下黒の服装で、松本に建てた家も真っ黒なので、遠目にもすぐに分かる家だそうです。

信州大学の教養部さらには人文学部の芸術コミュニケーション講座で、インド舞踊・インド武術・インド音楽を講じられていました。

前田先生の弟子筋にあたる、この年代のダルシャナの先輩は、みなさん、趣味人と形容したほうがぴったりです。

駒澤大学の金沢篤先生も、その典型のように思います。

立派な先輩方を見ていると、やはり、好きなことを好きなようにやるのが一番だと思います。
  1. 2018/06/20(水) 19:28:06|
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