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Pratibhanusarini --- 九州インド哲学ブログ2

On Indian Philosophy and Buddhist Studies

ダナンジャーニ

馬場 2018: 2 「引用経典対照表」

誤: ダナンジャーニ経(Dhañjānisutta)

正: ダナンジャーニ経(Dhanañjānisutta)

岩波なので、タイポもないかと思っていましたが、あるところにはあるものです。

優秀な編集者も、さすがにパーリの綴りまではチェックしなかったことでしょうから。
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  1. 2018/09/06(木) 21:25:02|
  2. 未分類

現役感

印仏研というのは、発表時間も短く、また、掲載枚数も少ないですから、いわば顔見世のようなものです。

しかし、現役でやってます、ということの証拠となる感じがするのも事実です。

印仏研で見なくなると、どうも、「去る者日々に疎し」の感が出てきます。

現役感や現役オーラとでもいえばいいでしょうか。

よくあるパターンが、就職すると印仏研に出て来なくなる、発表しなくなる、というものです。

実際、30代後半、40代ともなると、教育もあり学務もあり、また、家庭もあり(寺務もあり)で、研究どころではないというのが、「研究者」の実情だったりしますから、別に、それに対して文句を言うつもりもありません。

各人各様、それぞれ、いろいろな事情があるでしょう。

しかし、印仏研に出てくる中堅以上というのが、そのような事情を抱えながらも、流されずに頑張っているというのもまた事実でしょう。

現役でいるというのは、案外むずかしいものです。

すこし間があくと、講義用の大きな声すら出にくくなってきます。

休み明けに講義をすると、すぐに喉が枯れてしまいます。

学期中は、そんなことはないのですが。

やはり、一週間に一回でも、強制的に「現役でいる」機会を与えられているというのは、大きな差を生むものです。

頭も同様。

一週間に何回も学生と読んでいると、それなりのレベルが知らず知らずにキープされています。

さして意識的に努力せずとも、サンスクリット感覚が保たれているようです。

教育現場でサンスクリットを読む機会を与えられているというのは、この点で、とても恵まれていると言えるでしょう。(もちろん、人によっては、それが嫌だという人もいるでしょうし、たいして教えないという人もいるでしょうから、これが恵まれているか恵まれていないかは、人によって分かれます。)

何が言いたいかと言えば、ピチピチやる気満々の博士課程やPDのように、その後も現役でいつづけるというのは、周囲の現実を見ると、やはり難しいものなのだな、ということです。

何年もアメリカにいたような日本人でも、15年ぶりにアメリカにいったら、英語が聞き取りにくいというのも同じでしょう。

18で免許取得、その後、東京在住でペーパードライバー18年、36歳になって運転再開。

といっても、いきなり、びゅんびゅん飛ばしている目の前の国道を一人で走るのが無理なのと同じようなものです。

毎日運転していればなんということはないですが。

常日頃の鍛錬(修習・反復)というのは差を生むものです。

そして、一度現役を離れると、もとのレベルに戻すのすら、結構な気力・体力・時間が必要だろうということも予想がつきます。

仏教論理学派は、一度純度を高められた金が後退することなく、さらに高めていかれるように、心も無限に高められていく、しかも、オートマティックに慈悲が慈悲を生み出す自動的・自発的慈悲インフレスパイラルが起こると説いています。

そして、対比的に、跳躍のような身体能力がそうではないことを認めています。つまり、怠ればすぐに後退します。

しかし、メンタルなものも、どう考えても、身体と同様、しばらくすると後退するでしょう。

全知は無理だし、慈悲が無限になる、慈悲が自分自身になるというような考え方は、やはり、無理があります。

人間、すぐさぼるし、さぼれば後退します。

キープするのすら不断の努力が必要です。

慈悲のインフレスパイラル理論は問題大ありです。

まあ、理想は理想で、夢物語として、それで構いませんが。

ヴェーダの非人為性と仏陀の全知者性、どっちがましかと言われれば、私は(当然ながら)前者です。
  1. 2018/09/06(木) 19:02:15|
  2. 未分類

素人と玄人

学会に行くと、発表にも色々なレベルのものがあり、それぞれの背景が思い知られて、同情を禁じ得ない場合もあります。

誰でも最初は初学者ですから、しょーもない思い込み、間違いというのはあるものです。

見込み違いも含めて。

周囲に先生や先輩がいる環境では、そのような素人発想はすぐに訂正されます。

「それはないでしょ」

というように簡単に一蹴されて終わり。

しかし、そのような環境になく、しかも、博士課程を迎えてしまうと、自力で全て発表しなければならなくなります。

すると、専門家から見ると「やばい」「誰かなんとかしたれよ」という発表が出てくることになります。

もちろん、学会という場がそのような場なのですから、そこで訂正されれば、それでいいわけですけど。

何年も続けていけば、そのうち、角が取れてくるとは思いますが。

ともあれ、先達がいるに越したことはありません。

そうでない環境にある場合には、積極的に、そのような研究会に出て行って、先達を求める方が得策です。

サンスクリットに限って言えば、また、哲学文献に限って言えば、やはり、我流というのは難しいものです。

学会に通用する論文を書くには、やはり、それなりに方向性の指導というものが必要です。

でないと、思わぬ方向に無駄に迷走することになります。

学部生がサンスクリットの辞書を引いた時の戸惑いと似たようなものです。

一つの単語に語義が多すぎて、方位磁石も地図も持たずに荒野や大海に放り出されたのと同じです。

同じことは、初学者が哲学文献を読んでいてもあるでしょう。

単語は簡単なので直訳はできるけど、何を言っているのか、何が意図されているのかさっぱり分からない、という状況です。

哲学文献の場合は、単語のセレクトにも、それぞれの背景があって、先行文献があって、できあがった参照枠組みがあって、それを意識しながら書かれています。

当然、ひとつひとつの単語は、特定の文脈、特定の語義を担っています。

学派レベルもあり、学者レベルもあり。

「これはバルトリハリのあれだな」、あるいは、「これはクマーリラのあそこを意識しているな」などというピンポイントの参照先も時にあります。

文学ならば同義語で処理できそうな単語でも、哲学では全く違った背景を背負っていることがあります。

単語の表面だけからは気が付かない背景、それを知るには実際には多くの経験が必要で、その経験の厚みというものは、初学者には容易には見えてきません。

特定の専門用語に対して特定の訳語、というように、ジャルゴン的な訳し分けというものが(数少ない日本の)先人により工夫されてきました。

訳語の結果がどうあれ、どうしてそのような工夫をしなければならなかったのか、その意図を押さえておくことは重要です。

初学者にはその仕事ぶりが見えてきません。

プロになるのに環境は重要。

他人の仕事の襞が見えて一人前です。

写本からの校訂や、学生の論文指導をしていると、ミスをただす職業病として、他人の仕事のアラばっかり見えてくるようになって閉口しますが。
  1. 2018/09/06(木) 07:16:12|
  2. 未分類

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