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Pratibhanusarini --- 九州インド哲学ブログ2

On Indian Philosophy and Buddhist Studies

註釈を書くとはどういうことか?

マドゥスーダナの眞鍋の発表を聞いていると,やはり,註釈を書くということの意味について考えさせられます.

もちろん,師匠の作品に書く,という素直な註釈もあるでしょう.

シャーンタラクシタにカマラシーラが書くというような場合について,特に,説明はいらないでしょう.

しかし,或る程度,権威の固まったものについて,それほど関係がないひとが註釈をあらわすということがあります.

あるいは,対抗して註釈をあらわすということがあります.

たとえば,ブラフマスートラにはいくつもの相対立する学派による註釈があります.

権威がすでに固まったBSを,各派が取り合う状況がそこにはあります.

聖典も同様.

バガヴァッドギーターにも,各派の註釈があります.

マドゥスーダナサラスヴァティーのバーガヴァタプラーナ注も同じように考えるべきでしょう.

つまり,権威の固まったものを自派に取り込むという椅子取りゲームのような競争意識がそこに働いています.

すでにある権威を取り込むという,まあ,どこにでも誰にでもある意識です.

「〇〇先生は...こう仰ってたものです」というのも,まあ,似た意識かもしれません.

関係が薄い人ほど、関係を声高に強調するものです。

シャンカラ派とクリシュナへのバクティ、もともと関係ないやん、と突っ込みたくなります。

ともあれ、バクティにラサ理論を絡めた議論は、詩論アランカーラや演劇理論ナーティヤシャーストラの背景を知らないと味読できません。

観衆サビヤと演じられている劇中人物アビネーヤの無区別云々などという議論が、熱烈な信仰を裏付ける護教の理論に出てくるとは、普通は想像だにしないでしょう。

衒学的な理屈を抜きに、熱烈な信仰だけでは、バクティ理論は語れません。

詩と詩論に見られるのと相似の円環運動が、宗教実践と教学の間にあると考えた方がいいでしょう。
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  1. 2019/05/20(月) 09:51:35|
  2. 未分類

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